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日本女装昔話【第4回】女装秘密結社「富貴クラブ」(その1) [日本女装昔話]

【第4回】女装秘密結社「富貴クラブ」(その1)(1960~1970年代)

ようやく春めいてきた3月のある日の午後、私は東京神楽坂の「風俗文献資料館」で女装関係の書棚に置かれていた2冊の分厚い未整理ファイルを調べていました。

中には1950年代初頭から70年代末頃までの女装関係の雑誌スクラップや女装写真のプリントがぎっしり詰まっていて、一見して貴重なものであることがわかります。

丁寧に見ていくと60年代から80年代にかけて活動したアマチュア女装秘密結社「富貴クラブ」の入会案内や申込書が出てきたではありませんか!。
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「富貴クラブ」の「入会申込書」(「風俗文献資料館」所蔵)
 
私は「大発見」に踊る心を抑えながら、館長の高倉一さんに「このファイルの出所について差し支えない範囲で教えていただけませんか」とお願いしました。

館長さんは「これは富貴クラブという女装の会の会長だった鎌田さんのものですよ」とおっしゃいました。
こうして秘密のベールに包まれた「富貴クラブ」の実像に迫る糸口が見つかったのです。
 
「富貴クラブ」は、戦前からの熱心な女装者愛好家である鎌田意好(西塔哲)氏が、女装グループ「演劇研究会」(1958年解散)の残党とともに1959年(昭和34)に結成したアマチュア女装の秘密結社です。

会長の独裁的権限の元で厳重な会員管理と秘密保持を行い、一般マスコミに登場することは稀だったにもかかわらず、1960年頃から80年頃までのおよそ20年間、日本のアマチュア女装世界をリードした本格的な女装クラブでした(1990年に解散)。

しかし、そのあまりの秘密性のため、「富貴クラブ」については不明な点が多く、その実態を語る資料は提携関係にあった『風俗奇譚』誌上に掲載された記事以外、ほとんど残っていない状態だったのです。
 
「富貴クラブ」の基本姿勢は発見された800字ほどの「入会案内」によく示されています。勧誘の対象は「女装者をSEX対象としたり又一時的にも女装をして女の世界で別の人間になりたい願望の人」であり、「富貴クラブはそんな願望はあるが一面良識ある社会人としてのプライドを持つ人々で構成され」ていること、「女装を職業としたり、はっきりしない素性の人は入会を断って」いること、入会希望者は、会と会員の安全のために入会申込書に規定通りの記入をしなければならないこと、などです。
 
その「入会申込書」には、氏名・生年月日・現住所・電話・勤務先(所在地・電話)・卒業(在学)校名・既婚未婚・身長体重など極めて詳細な記入事項があり、末尾に「この申込書は会長だけの秘密保管で、クラブ会員には公表しない、クラブ内では匿名のまま交際、行動できるので君の秘密は完全に保持される」という文言が付されていました。

このクラブの厳重な入会手続きと秘密管理の実際がよくうかがえます。(続く)


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鎌田意好氏所蔵の女装者を描いたペン画(1968年頃)

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鎌田氏コレクションから「女装者と旦那のくつろぎの一時」(いずれも「風俗文献資料館」所蔵)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第27号、2000年 1月)
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日本女装昔話【第3回】1960年代の女装世界を語る雑誌『風俗奇譚』 [日本女装昔話]

【第3回】1960年代の女装世界を語る雑誌『風俗奇譚』(1960~1970年代前半)

『風俗奇譚』という雑誌をご存じでしょうか?。50歳以上のオジ様の中には懐かしく思い出される方も多いと思います。

『風俗奇譚』は1960年(昭和35)1月に文献資料刊行会から創刊された性風俗雑誌です。
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『風俗奇譚』創刊号 (1960年1月号)

その内容はSMを中心に、ゲイ・レズビアン、レザー・ラバー・乗馬・腹切り・女格闘技などの各種フェティシズム、そして女装と、多種多様な性的嗜好を大集合させた感じの「総合変態雑誌」でした。
    
同種の雑誌には先発の『奇譚クラブ』がありましたが、『風奇』の大きな特色は、その資料性・文学性の高さとともに女装関係記事にかなりの比重を置いたことです。

創刊間もない1960年9月号で「女装する男たち」という特集を組んでいますし、1961年1月号からは女装者専用の交際欄「女装愛好の部屋」を設置しています。

わずか見開き1枚2頁の小コーナーでしたが、女装に関する情報を毎号必ず掲載している雑誌は他に無く、このたった2頁のために同誌を購入する女装愛好者も少なくなかったそうです。
      
1963年になると、その頃活動を活発化させていたアマチュア女装結社「富貴クラブ」との提携が成立し、同会のルートで質量ともに豊富な素材が提供されるようになり、『風奇』の女装関連記事は他誌の追従を許さない充実したものになっていきます。

華かな「富貴クラブ」のパーティのルポや女装旅行や女装ドライブの様子を記した会員の手記は、当時の一般女装者には夢のような世界だったと思います。

またグラビア頁には「富貴クラブ」会員などの女装ポートレート「女装紳士録」が掲載されるようになり、その艶姿は全国の女装者・女装者愛好男性の垂涎の的となりました。
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『風俗奇譚』1962年10月号掲載の「女装紳士録」。
モデルは当時の花形女装者小野悠子さん。
    
1967年(昭和42)6月号からは、加茂梢さんの「女装交友録」の連載が開始されます。新宿花園五番街の女装スナック「梢」のママの連載は、1974年(昭和49)1月号まで足掛け8年間80回に及ぶ長期連載となり、新宿女装世界の揺籃期の貴重な記録となりました。

1968年からは、富貴クラブ会長鎌田意好氏執筆の女装SM小説が連載されるようになり、中でも1972年連載開始の「香炉変」は傑作の評を今でも耳にします。
     
『風俗奇譚』は通巻216号に当たる1974年10月号を最後に誌名を『SMファンタジア』と改称しましたが、それもつかの間で1975年(昭和50)9月号をもって終刊を迎えます。
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『SMファンタジア』終刊号 (1975年9月号)

1960年から70年代にかけて女装文化を側面から支え記録した同誌の意義は、たいへん大きなものがあったと思います。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第26号、1999年 11月)
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日本女装昔話【第2回】最初のアマチュア女装集団 [日本女装昔話]

【第2回】最初のアマチュア女装集団「演劇研究会」(1950年代後半)

私の手元に紙も黄ばみインクも薄れた謄写版印刷の薄い冊子が9冊ほどあります。
表紙には『演劇評論』と記されています。これこそが日本最初のアマチュア女装グループ「演劇研究会」の会誌です。

演劇評論23・24合併号(1957年11月).jpg
『演劇評論』23・24合併号(1957年11月発行)の表紙。謄写版印刷48ページ。
 
日本の女装は、江戸時代以来長らく演劇、とりわけ歌舞伎の女形と密接な関係にありました。
実際、戦前に思春期を送った女装の先輩たちの手記を読むと、地方芝居の女形の妖艶さに魅了された思い出とか、芝居一座に頼み込んで女形の扮装をさせてもらった話とかがよく出てきます。
 
1955年(昭和30)10月に滋賀雄二氏を中心に10数名の会員で発足した「演劇研究会」は、そうした流れを受け継いで、演劇、とりわけ女形を研究することを、女装趣味の隠蓑にしたグループでした。

その証拠に会誌『演劇評論』は、名称にふさわしい演劇関係の記事はほんの僅かで、ほとんどが女装をテーマにした創作や告白体験記で占められています。

また、研究資料の名目で会員の女装写真の頒布を行ったり、「小道具部」と称して鬘や衣装の貸し出しもしていました。
 
会誌に掲載された体験記などを読むと、ようやく戦後の混乱から抜け出したものの昭和30年代初頭というまだ閉鎖的な社会状況の中で、先輩たちが苦心を重ねて女装に取り組んでいる姿が浮かび上がってきます。

中には北野国太郎「女装ホルモン体験記」(16号)や、当時としては画期的な女装水着写真を貼り込んだ加藤美智子「女装日記抄」(23・24合併号)のような先鋭的なものもあります。
 
さて同会は、2周年を迎えた1957年秋には会員数65名に達しましたが、会費の滞納や会員間の交際問題などから活力を失い、『演劇評論』の刊行も滞り(25号まで確認)、一枚刷りの『演研通信』(6号まで確認)がそれに代わりますが、1958年(昭和33)末には解散したようです。
 
わずか3年間という短い活動期間でしたが「演劇研究会」の意義は決して小さくありません。

それは、主宰の滋賀氏が「われわれが社会人として生活している以上、女装愛好には一定の限界線がある」「割り切った心構えで女装愛好を実行し、その時間や場所の選定に細心の注意をはらわなくてはならない」(20号の巻頭文)と述べているように、「女装を生活の糧にしている女形や舞踏師匠や男娼」と明確に区別された趣味としての女装(アマチュアリズム)をはっきりと提唱した点にあります。

その基本理念と人脈は、1960~70年代に活発に活動する本格的なアマチュア女装集団「富貴クラブ」へと受け継がれていくことになるのです。

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11号以降には謄写版印刷の口絵(伊集院明山氏)が付されていた。
21号の口絵は「夏化粧」。
当時の女装の主流が和装・日本髪・和化粧(水化粧)であったことをうかがわせる。
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22・23合併号の口絵は二色刷りの「朝化粧」。
男が目を覚ます前に化粧を済ませるのは「女」のたしなみだった。
緋色の長襦袢がなまめかしい。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第25号、1999年 6月)
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日本女装昔話【第1回】上野の森の女装男娼 [日本女装昔話]

【第1回】上野の森の男娼(1940年代後半) 

「中学に入ったばかりのあたしはね、『男娼』て言葉に胸をジーンとさせたものなのよ」
  
昨年めでたく女装生活50周年を新宿ワシントンホテルで華やかに祝った「ジュネ」(新宿歌舞伎町)の久保島静香姐さんは、遠い少年の日を懐かしむように語ってくれました。
     
少年時代の静香姐さんが胸をときめかせた「男娼」とは、昭和20年代前半、アメリカ軍の空襲で焼け野原となった東京が、敗戦後の食糧難・物資不足による混乱の最中にあった頃、上野を中心に活躍した女装のセックス・ワーカーたちのことです。

戦後日本の女装史を語るにあたっては、まず彼女たちに登場してもらわなければなりません。
  
彼女たちは、夕闇が濃くなる頃、上野の西郷さんの銅像の下あたり(山下)や不忍池の畔り(池端)に立って道行く男を誘い、上野のお山の暗がりの中で(つまり露天で)、性的サービスを行ったのです。

終戦間も無い1946年(昭和21)初めからぽつぽつ姿が目立つようになり、全盛期は1947~48年(昭和22~23)で、その数は30人を数えるほどでした。
   
彼女たちの出身はさまざまで戦前から浅草辺りで薄化粧で客を引いていた「男色者」、戦災で活躍舞台を失った女装演劇者(「女形崩れ」)、軍隊生活で受け身の同性愛に目覚めた復員兵などが中核でした。

年齢は23歳から45歳で、平均は30歳(1948年の調査)、案外、年齢が高いところに彼女たちの辛苦の人生がしのばれます。

現在、わずかに残されている写真を見ると、彼女たちの多くは、当時の女性ファッションの主流だった和装が中心で、洋装の人はまだ少なかったようです。

容姿もさまざまで、女性としても美形の部類に入る人もいれば、ただ女装したオジさんに近い人もいました。
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上野の女装男娼随一の美貌を誇った「人形のお時」姐さん(上野駅で)。
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洋装の女装男娼(上野警察署で)
         
そうした彼女たちの生態をもっともよくうかがうことができるのは1949年4月に刊行された小説、角達也『男娼の森』(日比谷出版)です。
男娼の森 (3).jpg

これによると彼女たちは、自分たちを「オンナガタ」と称し、仲間を「ご連さん」と呼び、数人単位で上野駅に近い下谷万年町(現・東上野4丁目)などのアパートに住み、仕事場である上野の山では、男娼群全体を代表する「お姐さん(姐御)」に統率されていたようです。

上野を本拠地とする数多い女性の街娼(パンパン)達に比べれば、おそらく10分の1程度の小集団だったようですけども、それだけに団結は固く、また何か事が起こると、日ごろはライバル関係にある女娼であっても庇ってやるような「男気」のある「お姐さん」もいたようです。
     
1948年11月、警視総監田中栄一(後に衆議院議員)が上野の山を視察中にトラブルとなり、男娼に殴打されという事件が起こります。

以後、警察は上野の山を夜間立ち入り禁止にするなど、そのメンツにかけて風紀取締(狩込み)を強化しまた。

これによって上野の女装男娼の全盛は終わりを告げ、彼女たちは、新橋や新宿など都内各地の盛り場に新天地を求めて散って行ったでした。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第24号、1999年 3月)
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「日本女装昔話」の解説と目次 [日本女装昔話]

「日本女装昔話」は、私がニューハーフ系商業雑誌『ニューハーフ倶楽部』(三和出版)の第24号(1999年3月)から57号(最終、2007年8月)まで、足かけ9年34回連載した、主に戦後日本の女装の歩みをたどる歴史随筆です。

私は、女装を日本という社会が生み出したひとつの文化であり、記録され継承されてしかるべき文化史だと考えています。
ところが、残念なことに、戦後日本の女装の歴史をまとめた文献は、ほとんどありません。

すでに戦後55年の歳月が流れ、1950年代や60年代の女装世界を知っている方は数少なくなり、その記憶は幻になろうとしています。
70年代ですら朧に霞みつつあるのが現状です。

そうした状況を前にして、戦後日本の女装の先輩たちの歩みを記録するとしたら、今が最後の機会ではないか、それをすることは後輩のひとりであり歴史学を学んだ私の役目ではないか、という強い思いから、資料を集めながら執筆し始めたのがこの「日本女装昔話」です。

執筆の趣旨をご理解の上、資料を提供してくださる方、お話をうかがわせてくださる方が、もしいらっしゃいましたら、ぜひともお願いしたいと思います。

なお今回ここに転載するにあたって、最初の掲載時の内容を損なわない範囲で、かなりの加筆・訂正を行い、資料図版も増やしました。

転載を快く認めてくださった『ニューハーフ倶楽部』編集部に心から御礼を申し上げます。
(2000年5月)
西方の美人 (2).jpg
北尾重政〈1739~1820年〉の「東西南北美人」シリーズ(1777年頃)の「西方の美人」。
このシリーズは江戸の東西南北4枚に2人ずつの「美人」を描いたもので、「西方」は日本橋・堺町に何軒もあった「陰間茶屋」の売れっ子陰間(女装の少年)、橘屋の三喜蔵(立ち姿)と天王寺屋の松之丞(座り姿)が描かれています。
他の(東)深川、(南)品川、(北)新吉原の美人は女性と推定されます(全部、残っていません)。
江戸時代には生得的な女性と女形・陰間を並べて「美人」として鑑賞する感覚があったことがわかります。
松之丞が着ているのは、当時の江戸の町娘が憧れた伊豆・八丈島特産の「黄八丈」と思われます。
錦絵に描かれる女形や陰間は、新吉原の遊女と並んで、江戸の町娘のファッションリーダーでした。

【追記】
この連載を元にして、2008年秋に講談社現代新書から『女装と日本人』を刊行しました。
併せて、お読みいただければ幸いです。

【目次】
第1回 上野の森の女装男娼(1940年代後半)
 (第24号、1999年 3月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24
第2回 最初のアマチュア女装集団「演劇研究会」(1950年代後半)
 (第25号、1999年6月〉
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-1
第3回 1960年代の女装世界を語る雑誌『風俗奇譚』(1960~1970年代前半)
 (第26号、1999年11月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-2
第4回 女装秘密結社「富貴クラブ」(その1) 1960~1970年代
 (第27号、2000年1月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-3
第5回 女装秘密結社「富貴クラブ」(その2) 1960~1970年代
 (第28号、2000年5月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-4
第6回 女装スナック「梢」 -新宿女装世界の原像 - 1960~1970年代
 (第29号、2000年8月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-5
第7回 最初の性転換ヌードダンサー ー 吉本一二三と高橋京子 ― 1960年代
 (第30号、2000年11月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-6
第8回 ブルーボーイの衝撃 ― パリ「カルーゼル」一行の来日 ― 1960年代
 (第31号、2001年1月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-7
第9回 歌舞伎女形系の女装料亭「音羽」 1960年代
 (第32号、2001年5月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-8
第10回 和装女装マゾ 中村和美の世界 1970年代
 (第33号、2001年8月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-9
第11回 愛と芸に生きた女形 曾我廼家桃蝶 1920~1970年代
 (第34号、2001年11月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-10
第12回 「富貴クラブ」のセクシュアリティ 1960~1970年代
 (第35号、2002年5月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-11
第13回 女装者愛好男性の典型 西塔哲 1960年代
 ( 第36号、2002年5月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-12
第14回 警視総監を殴った男娼「おきよ」 1940年代
 (第37号、2002年8月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-13
第15回 女装芸者の活躍(その1) 1960年代
 ( 第38号、2002年11月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-14
第16回 女装芸者の活躍(その2) 1970年代~現代
 (第39号、2003年2月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-15
第17回 和製ブルーボーイ、銀座ローズ 1960年代
 (第40号、2003年5月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-16
第18回 明治時代の有名女装者、荒木繁子 1910年代
 (第41号、2003年8月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-17
第19回 錦絵新聞に描かれた明治の女装妻 1870年代
 (第42号、2003年11月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-18
第20回 女給志望の女装者 1930年代
 (第43号、2004年2月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-19
第21回 アマチュア女装交際誌『くいーん』 1980~1990年代
 (第44号、2004年5月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-20
第22回 女装スナック『ジュネ』(その1) 1978~2003年
 (第45号、2004年8月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-21
第23回 女装スナック『ジュネ』(その2) 1978~2003年
 (第46号、2004年11月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-22
第24回 日本最初の性転換女性 永井明子 1950年代
 (第47号、2005年2月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-23
第25回 戸籍の性別も「訂正」していた 永井明子 1950年代
 (第48号、2005年5月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-24
第26回 華族の坊ちゃまの性転換 松平多恵子 1950年代
 (第49号、2005年8月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-25
第27回 男性音楽教師から女性歌手へ 吉川香代 1950年代
 (第50号、2005年11月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-26
第28回 シャンソン歌手を目指した 椎名敏江 1950年代
 (第51号、2006年1月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-27
第29回 流転の女形 曾我廼家市蝶(その1) 1940~1950年代
 (第52号、2006年4月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-28
第30回 流転の女形 曾我廼家市蝶(その2) 1950~1970年代
 (第53号、2006年8月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-29
第31回 『エロ・グロ男娼日記』の世界(その1) 1931年
 (第54号、2006年11月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-30
第32回 『エロ・グロ男娼日記』の世界(その2) 1930年代
 (第55号、2007年2月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-31
第33回 女装男娼の集合写真 1930年代
 (第56号、2007年5月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-32
第34回 大阪の「男娼道場」主、上田笑子 1950~1970年代
 (第57号、2007年8月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-33

番外編 第1回 女装芸者「市ちゃん」 1959年
 (『ニューハーフ倶楽部』第30号、2000年11月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-25
番外編 第2回 名門私立女子大の怪しい受験生の正体は? 1975年
 (『ニューハーフ倶楽部』第31号、2001年1月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-25-1
番外編 第3回 泡姫は男の子!日本最初のニューハーフ・ソープ嬢 1981年
 (『ニューハーフ倶楽部』第32号、2001年5月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-25-2
番外編 第4回 新劇女優を目指した男性 花井優子の挑戦 1978年
 (『ニューハーフ倶楽部』 第33号、2001年8月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-25-3
番外編 第5回 一流ホテルと契約した女装歌手 橘アンリの夢 1969年
 (『ニューハーフ倶楽部』 第34号、2001年11月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-25-4

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論考「トランスジェンダーと青少年問題」季刊『青少年問題』668号 [論文・講演アーカイブ]

季刊『青少年問題』(一般財団法人 青少年問題研究会)668号(2017年10月1日発行)の特集「LGBTとは」に、執筆した論考「トランスジェンダーと青少年問題」。

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  トランスジェンダーと青少年問題
              三橋 順子

1 トランスジェンダーとは
「LGBT」のTは、トランスジェンダー(Transgender)の頭文字である。けっして性同一性障害(Gender Identity Disorder)の頭文字ではない。もしTが性同一性障害だったら「LGBT」ではなく「LGBG」になってしまう。

では、トランスジェンダーとはなんだろう。現象・行為として定義するならば、生得的な身体の性に則して社会(文化)によって規定される社会的性を強制されることを拒否し、生得的な身体の性とは逆の(別の)社会的性を学習し、それを総体的に身にまとうこと、つまり、つまり、社会的性差(Gender)を越境しようとすることである。人物として定義するならば、そうした社会的性差の越境をしばしば、もしくは定常的に行う人たちということになる。

トランスジェンダーには男性として生まれながら女性ジェンダーを身にまとうMtF(Male to Female)と、女性として生まれながら男性ジェンダーを身にまとうFtM(Female to Male)の二つの方向性がある。最近ではMtFを Trans-woman、FtMFをTrans-manと呼ぶことも増えてきた。

トランスジェンダーは、身体とジェンダーとの不一致を病理(精神疾患)とする考え方に対抗して生まれた非病理概念である。したがって、トランスジェンダーを「心と体の性が異なる人」と説明するのは、性同一性障害の定義に影響された誤りである。敢えて言えば、一致していないのは「心と体」ではなく「ジェンダーと体」である。

トランスジェンダーでは、性別を越境する理由は問わない。ジェンダーと身体の不一致に起因する性別違和感(Gender Dysphoria)が理由であることが多いが、職業的・経済的な事情であっても、定常的なジェンダーの越境が行われていればトランスジェンダーである。

身体とジェンダーを医療によって一致させることを「治療」と考える性同一性障害概念に対して、トランスジェンダー概念ではジェンダーと身体は必ずしも一致させる必要はなく、一致させるか、それとも不一致なままでいるかは自己決定に委ねられるべき問題である。

ちなみに、性別を越境するトランスジェンダーに対して、性別を越境しない人たちをシスジェンダー(Cisgender)という。

2 トランスジェンダーの現在
日本では、1998年の埼玉医科大による性別適合手術の実施をきっかけに、1990年代末から2000年代初頭にかけて性別の移行を望むことを「病」(精神疾患)ととらえる性同一性障害(GID)概念がマス・メディアを通じて広く流布され、性別移行の病理化が一気に進行した。その流れは、2003年7月の「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」の制定(2004年7月実施)に結実し、一定の要件を満たす性同一性障害者は戸籍の性別(続柄)の変更が認められるようになった。

その結果、性同一性障害の診断を得て、国内外で性別適合手術を受け、戸籍の性別を変更する人が急増した。性別違和感に悩み苦しむ人が、手術と戸籍の変更によって望みの性別での生活を実現することは、基本的には良いことである。しかし、その一方で過剰でアンバランスな医療化の弊害も出てきている。たとえば、望みの性別の身体と戸籍を得たにもかかわらず、望みの性別での社会的適応がうまくいかない人が目立つようになり、さらには性別の変更を後悔し性別を元に戻す再変更を望む人すら出てきている。

とはいえ、20世紀末から21世紀00年代の10数年間は、性同一性障害をアイデンティティにする「性同一性障害者」が数多く出現し、「性同一性障害者」のグループが社会的に強い発言力を持った、まさに「性同一性障害の時代」だった。ただし、こうした病理化の突出、性同一性障害をアイデンティティにする人々の急増は、同時期の世界と比べるとかなり特異な現象だった。

2015年頃から日本でも遅ればせながら、性的マイノリティの主な4つのカテゴリーの英語の頭文字を組み合わせてその連帯を示す「LGBT」(LはLesbian:女性同性愛者、GはGay:男性同性愛者、BはBisexual:両性愛者、TはTransgender:性別越境者))概念が広まる。それによって、LGBTの一角であるトランスジェンダーへの社会的認知が広がっていった。

また、世界に目を転ずると、2010年代に入る頃から性別移行の脱精神疾患化の流れがはっきりしてくる。2018年に予定されているWHO(世界保健機関)の疾患リスト(ICD)の改訂では「性同一性障害」という病名は国際的には消え、新設される「conditions related to sexual health(性の健康に関連する状態)」の章に「gender incongruence(性別不一致)」という病名が置かれるなど、性別越境に関係する疾患が精神疾患カテゴリーから外れる案が有力になっている。

これが実現すれば、同性愛に遅れること28年にして性別越境の脱精神疾患化が達成され、性別越境者は長い年月、精神疾患の名のもとに抑圧されてきた状態から、ようやく解放されることになる。
こうした流れの中で、かつて全盛を極めた性同一性障害者グループの活動は、この数年、急速に低下し、社会的発言力ははっきり衰退している。今後、性同一性障害という病名は完全に過去のもの(死語)となり、性別を越えて生きることを「病」ではなく、自らの性別の在り様の選択であるとするトランスジェンダーの主張が主流になっていくだろう。

3 若年FtMの急増問題
戸籍の性別変更者の人数は、2004年から2016年までの13年間で6809人に達している。これは最高裁判所が全国の家庭裁判所で変更手続きをした人数を集計したもので、きわめて信頼度が高い。日本の全人口の0.005%、18500人に1人が戸籍の性別を変更していることになる。

東京都千代田区にある「はりまメンタルクリニック」の針間克己院長は、2005~2016年の間に1273通の戸籍変更診断書を書いている。これは、同期間に戸籍の性別変更を行った6809人の約5分の1(18.6%)に相当する。

戸籍変更診断書を求める人のほとんどは、家庭裁判所に戸籍の性別変更を申し立てると推定され、そのほとんどが受理される。したがって、針間院長が執筆した戸籍変更診断書は、日本の戸籍性別変更全体のほぼ5分の1のサンプルと考えて大過ない。

最高裁判所のデータにはFtM、MtFの区分がなく、性別移行の内訳は不明だが、「はりまメンタルクリニック」の戸籍変更診断書のデータはFtM、MtFの別が示されている。そこで年ごとのFtM、MtFの比率を各年の戸籍性別変更数に当てはめて、年ごとのFtM、MtFの人数を推測し、それを合計してみた。

その結果、女性から男性への変更者(FtM)が5010人、男性から女性への変更者(MtF)が1796人となり、その比率は2.76:1と推測される。2006年まではMtF2: FtM1だったのが、2007年に一気に逆転してMtF1:FtM2になり、2010年以降はMtF1: FtM3~4で推移している。

2007年頃にいったい何が起こったのか? 理由として、FtMを対象とした「性器形状近似要件」の実質的な緩和が考えられる。つまり、ペニス形成手術をしなくても、男性ホルモンで肥大したクリトリスをマイクロペニスに見立てることで、子宮・卵巣の摘出のみで戸籍の性別変更を認める判断が、FtMの戸籍変更数の急増をもたらしたと思われる。

これに対して、戸籍の性別変更をしたMtFの実人数は長期的に見るとほとんど同じレベルで推移していて、大きな増減はない。

次に、戸籍性別変更者の年齢層に注目してみよう。「はりまメンタルクリニック」の2011~2016年の戸籍変更診断書のデータから、若年層(20歳代)の比率を推計すると、全体の61.8%が20歳代であることがわかった。MtFとFtMとでは様相がかなり異なり、MtFでは20歳代の比率は43.6%に止まるのに対し、FtMでは66.9%、つまり3分の2に達する。同期間のMtF:FtM比は全年齢層では1: 3.6であるが、20歳代限定では1:5.5となる。

2011~2016年の6年間の全戸籍変更者は4668人だが、20代のFtMは2496人と推計され、全体の53.5%が20代のFtMということになる。全戸籍変更者の50%以上が若いFtMというのは、かなり衝撃的な数値である。

つまり、性別変更者の現状は、全体の半分以上が若いFtMで占められ、若年層に限定するとFtMはMtFの5~6倍もいる。大雑把な計算だが、20代女性の約2500人に1人(0.04%)が戸籍の性別を男性に変更していることになる。

こうした現状は、性別変更に伴うさまざまな問題のかなりの部分が、若いFtMに関わる問題であることを予測させる。もちろん、MtFにもいろいろな問題はあるが、両者に共通する就労問題を別にすれば、単身高齢化問題など、むしろ中高年層に関わるものが多い。

極言すれば、トランスジェンダーの青少年問題とは、FtMの問題ということになる。

4 FtMのダークビジネス問題
近年、性同一性障害の当事者によるダークビジネス(違法とまでは言えないが質的・倫理的に問題性のあるビジネス)が表面化している。いくつか事例をあげてみよう。

2014年のGID学会第16回研究大会(那覇市)における医療ツーリズムのシンポジウムで、主にタイでの性別適合手術のアテンド(紹介・斡旋)を行う業者の問題が指摘された。

航空券の手配やホテルの予約などの代行業務をする場合、日本では旅行代理業務の資格が必要であり、また現地で病院の斡旋をする際にはタイの官庁に届け出なければならない。ところが、無資格な業者が横行し、アテンドと称しながらタイ語も英語もしゃべれず、現地の病院の日本語ができるスタッフに取り次ぐだけ、あるいは、自分が手術した病院しか紹介しない(できない)など、アテンドの質が伴わない会社があるとの指摘だった。こうした問題があるアテンド会社を経営しているのは、なぜかほとんどFtMなのだ。

2016年5月の「東京レインボープライド」のあるブースが「無料相談」をうたいながら肝心な情報は有料で、しかも法外な値段をとっているという噂が流れてきた。たとえば、「GID学会理事クラスの医師の電話番号、1万円」とか。病院の電話番号は公開情報であり、インターネットで検索すればすぐにわかり、有料の価値はないはずだ。ほかにも、男性化を指南するテキストDVDが3枚セット6万円で販売されているという情報もあった。そして、そうしたビジネスの主体はFtMであると。

どうして、そんなビジネスが成り立つのか不思議でならず、事情通のFtMの知人に尋ねてみたところ、「世の中にはネットで病院の情報を検索できないレベルのFtM予備軍がけっこういるんですよ。三橋さんたちにとっては当たり前の情報を有料でも求めるのは、そういう情報弱者の中学生なのです」と教えられた。「でも、中学生はそんなにお金をもっていないでしょう」と尋ねると、「今は、親が金を出すのですよ。GIDが先天性のものという説が広まると、子どもは『自分がこうなのは親のせいだ』と親を責める。それを真に受けた親が金を出してしまうのです」という返事だった。

確証はないが、少なくともかなりダークな状況があるのは確かなようだ。そこには、現在、問題化している性同一性障害ビジネスの構造がよく見える。それは起業した若いFtMが、より若い情報弱者のFtMをビジネス・ターゲットにし、親に金を出させるという構造だ。先輩のFtMが同じ悩みをもつ後輩のFtM予備軍を「食い物」(金儲けの対象)し、親の心理的な弱みに付け込むやり方は倫理的にかなり問題があるビジネスだと思う。

こうした当事者が当時者を「食い物」にするビジネスは、MtFではほとんど聞いたことがない。MtFの場合、水商売にしろセックス・ワークにしろ、あるいは色仕掛けで手術費用を出させる愛人ビジネスにしろ、ビジネス・ターゲットは常に非当事者の男性だ。MtF当事者がお金を持っていないことはお互いわかっているので、ターゲットにしても仕方がないのだ。

5月6日の『朝日新聞』朝刊(東京版)に「LGBTをめぐる金銭被害を議論」という見出しで「あなたも人権講師になれる」とうたい、LGBTの当事者を高額なセミナーや相談に勧誘するビジネスの存在が報じられた。さらに、7月31日になって地元の『徳島新聞』などが詳細に報じ、それが「共同通信」で配信され、完全に表沙汰になった。

具体的には、2016年10月、徳島県を中心に人権教育関係の講演活動をしている30代のFtM(徳島県教育委員の人権教育指導員)が、東海地方在住の20代のFtMに、セミナーを受講して起業すれば、自治体の人権講師として簡単に稼げるともちかけ、高額(100万円)のセミナー契約を結ばせ、なかなか解約に応じなかったというトラブルである。ここでも先輩FtMが後輩FtMを「食い物」にする構造が見える。これまでの事例と比べて契約金が100万円、違約金の設定が500万円と金額が大きく悪質性が高い。また、自治体の「人権講座」をネタにしている点でも倫理性が問われる。

問題は、こうしたダークなアテンド、通販、セミナーなどを業務として行っているのが、ほとんどFtM系の企業・団体だということだ。なぜ、そうなってしまうのだろう。

FtMの企業家のブログなどを読むと、「デカい仕事をする」とか「一旗揚げる」とかいうフレーズをよく見かける。起業にあたって大志を抱くことは悪いことではないが、どうも古典的な「男らしい」にとらわれている感じがする。専門知識も社会経験も乏しい若者が安易に起業したところで、経営が成り立つほど世の中は甘くはない。結局、企画の貧困、期待される利潤と社会的なリスクとのアンバランス、倫理観の未熟、コンプライアンス(法令遵守)意識の希薄さなどが相まって、ダークなビジネスに手を出してしまうのではないだろうか。

そうした背景にはFtMの就労環境の悪さがあると思う。もちろん、FtMの中にも一般企業に就職したり、専門知識や資格を身につけて自営業で真っ当に働いている人はいる。しかし、残念ながら、そうでないFtMも多い。MtFの場合、企業への就職や自営が難しくても、水商売やセックス・ワークという選択もあるが、FtMにはそうした道がほとんどない。結果、行き場がなくて無理な起業に走るFtMが多くなるのではないだろうか。

まとめにかえて
日本は、世界の中で顕著にFtMの比率が高い国である。世界的にはMtFがFtMよりやや多い国がほとんどであり、その点で明らかに特異な状況であるにもかかわらず、その理由が明らかにされていない。
 
まったくのシスジェンダー&ヘテロセクシュアルの女性がいきなりFtM化するとは考えにくく、日本におけるFtMの増加分の資源はレズビアンだと思われる。つまり、本来ならレズビアンにとどまる人がFtMに流入しているという推測である。性的に非典型な女性をレズビアンではなくFtMに向かわせる何らかの社会圧があるということだ。その要因として、全体的な女性の生きづらさ、レズビアンの隠蔽による社会的認知の低さ、レズビアン・コミュニティの未確立、同性婚の法的不可能などが考えられる。

FtM集団は、戸籍の性別変更をしていない人まで含めると、おそらく2~3万人規模であり、その多くは20代を中心とする若年層である。かなり大きな集団があるにもかかわらず、その存在が社会的に十分に認識されていない点に根本的な問題があるように思う。

急増する若年FtMが就労の困難で社会的に行き場を失っていることが、現状におけるトランスジェンダーの青少年問題の中核だと考える。

FtM、MtFを問わず、トランスジェンダーにとっての最大の課題は就労問題である。それさえ改善されれば、全体的な状況はかなり良くなるはずだ。現状をリアルに認識した早期の解決が強く望まれる。

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論文「ICD-11とトランスジェンダー」(『保健の科学』2020年4月号) [論文・講演アーカイブ]

『保健の科学』(杏林書院)2020年4月号「特集・多様化する性について考える」に、
論文「ICD-11とトランスジェンダー」を執筆しました。

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  ICD-11とトランスジェンダー
            三橋順子

はじめに
2014年2月、タイのバンコクで開催された「WPATH(World Professional Association for Transgender Health=トランスジェンダーの健康のための世界専門職協会)」の大会に併設された連続シンポジウム「Trans People in Asia and the Pacific」には、インド、ネパール、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、ニュージーランド、トンガ、香港、中国、日本のトランスジェンダーが集り、一日も早い性別移行の脱病理化を主張した。

それから5年、2019年5月のWHO(世界保健機関)総会で「疾病及び関連保健問題の国際統計分類(International Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems)」の第11版(ICD‐11)が採択され、ようやく世界のトランスジェンダー(誕生時に指定された性別と違う性別で生活している人)の多くが待ち望んでいた性別移行の脱精神疾患化が実現した。もう私たちは精神疾患ではない。おめでとう! アジア&パシフィックの同志たち、そして欧米も含めた世界のトランスジェンダーの仲間たち。

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「WPATH2014」に集ったアジア・パシフィックのトランスジェンダー

1 これまでの経緯
自己の性別に対する違和感があること、性別を移行したいと考えることを「病」と考える病理概念である「性同一性障害(Gender identity disorder)」は、1980年に採択されたアメリカ精神医学会の「精神疾患の分類と診断の手引(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)」の第3版(DSM-Ⅲ)に登場し、DSM-Ⅳ、DSM-Ⅳ-TRにも受け継がれた。

一方、ICD-10では第5章「精神および行動の障害」のグループ名(F64)として、Gender identity disorderが規定され、診断名(病名)としてはTranssexualism(性転換症)とDual-role Transvestism(両性役割服装倒錯症)が記載されていた。

1990年のICD-10で同性愛が脱病理化した流れを受けて、世界のトランスジェンダー活動家は、ICDの次の改訂での性別移行の脱病理化を目指すことになった。ICDの改訂は本来10年ごとにされるはずだが、様々な事情で遅れている間に、DSMの第4版から第5版への改訂の時期(当初の予定は2011年)が来てしまった。そこで、2010年には「TGEUは、トランスジェンダーを病気扱いすることに強く反対し、2011年のDSM改訂では、疾患リストに載ることへの批判を支援していく」という形で性同一性障害を疾病リストから外す(性別移行の脱病理化)提案がなされた(TGEU=Transgender EuropeのプレジデントStephen Whittleの声明)。

2013年5月施行のDSM-5では、残念ながら、性別移行の脱病理化は達成されなかった。それでも「Disorderだけは止めてくれ!」というトランスジェンダーの切実な声に応える形で「Gender identity disorder」から「Gender dysphoria」へ疾患名が変更された。

こうして「Gender identity disorder」はDSMから消え、そもそも診断名ではないICDと合わせて、世界で通用しているマニュアルから(大人の)病名としては消滅した。実際、Gender identity disorderは、2010年代中頃段階で世界的にはほとんど死語(過去の用語)になっていた。ところが、日本だけは「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(GID特例法)」が求める「性同一性障害」の診断書を精神科医が書き続けるという奇妙な現象が続いていた。

遅れていたICDの改訂は、当初2015年に予定されていて、冒頭に述べたWPATH2014でも、各国のトランスジェンダー活動家が改訂委員会のメンバーに活発なロビー活動を行っていた。

結局、2年さらに1年遅れて、2018年6月のWHO総会で、28年ぶりの大改定となるICD-11案が提示された。性別移行については「Gender identity disorder(性同一性障害)」という名称は疾患グループ名としても診断名としても完全に消滅し、新設された第17章「Conditions related to sexual health(性の健康に関連する状態)」に「Gender incongruence(性別不合)」が置かれ、性別移行の脱精神疾患化が達成された。第17章は、第1~16章のdisorder(疾患)とdisorderではない第18章妊娠・出産との間にあり、性別の移行を望むことは、これまでの精神疾患という位置づけに比べて、扱いが大幅に軽くなっている。

なお、ここで注意しておくべきことは、脱疾患化は脱医療化ではないということだ。SRS(Sex Reassignment Surgery=性別適合手術)など性別移行に伴う医療を受けたい人々が医療サービスを受ける権利は今後も保障される。

ICD-11は、2019年5月のWHO総会で正式採択され、トランスジェンダーは、同性愛の脱病理化(1990年のICD-10で達成)に遅れること29年にして、19世紀以来の長い年月、精神疾患の名のもとに抑圧されてきた状態から、ようやく解放されることになった。

2 子供の性別違和問題
今回のICDの性別移行に関する改訂で、最後まで揉めたのは子供の性別違和感(Gender dysphoria)をどう扱うかという問題だった。

ICD-10の「Gender identity disorder of childhood=小児期の性同一性障害」(F64.2)を引き継ぐ項目を立てるのか、それともなくすかで、専門委員の意見が真っ二つに分かれたと聞く。

前者は、性別違和感を訴える子供は現実にいるし、親や学校が診断書を求めることも多いので、それに応じる診断名・診断基準は必要だという意見。後者は思春期以前の子供の性別違和は不安定であり確定的な診断は難しく、ホルモン投与などの医療処置もとれないのだから、診断名は必要ないという意見。どちらも、それなりに論拠があり、性別移行の脱精神疾患化の方針はかなり早くに定まっていたにもかかわらず、この部分の最終的な調整がつかなかった。

結局、「Gender incongruence of childhood=子供の性別不合」という形でリストに残ることになったが、子供の性別違和をどう捉えるか、今後に問題を残すことになった。

学校保健の現場でも、性別違和を持つ児童に対しては、いたずらに診断(診断書)を求めて、急いで男児・女児どちらかに固定化するのではなく、医療のサポートも受けながら、就学継続を最優先に、当人の希望に沿った柔軟な対応をすることが望まれる。

かなり強い性別違和がある児童でも、思春期以降に違和が緩和・解消するケースは、大学における受講生の観察でもそれなりにある(緩和・解消したケースはジェンダークリニックには行かないので、医療では把握できない)。もちろん、思春期以降も違和が継続する場合も多いのだが、この問題については、早期発見はともかく、早期治療は必ずしもベストではないことを認識し、経過観察を重視すべきだと思う。

3 変更点とこれからなすべきこと
ICD-11の採択によって何が変わったのか? すでに述べたように、これまでの精神疾患という位置づけから「性の健康に関連する状態」いう形に変わったことがいちばん大きい。「性の健康に関連する状態」には他に性機能不全(勃起不全や射精不全)、性疼痛症などが含まれていて、性別不合はそれらと横並びということだ。

disorders(疾病)からconditions(状態)へという変化に伴って、診断名がGender identity disorderからGender Incongruenceに変わった。名称だけでなく、診断基準も変化している。逐条の解釈は省くが、性別移行医療の専門家である針間克己医師(はりまメンタルクリニック院長)によれば「身体違和に焦点を絞り、身体治療を希望する者を対象にしている」という。脱病理化の流れの中で「身体治療が受けられるように、全体のリストに残したという経緯を考えれば当然のこと」である。逆に言えば、身体違和が弱く社会的違和が強いタイプの性別移行は、ほぼ脱病理化されたといえるだろう。

ところで、「次のICDの改訂(ICD-11)で、性同一性障害という病名が消え、性別移行が精神疾患から外れるらしい」という情報は、DSM-5の改訂作業が進行していた2012年夏頃には日本に伝わっていた。にもかかわらず、日本の反応はかなり鈍かった。専門学会である「GID(性同一性障害)学会」は積極的な情報収集をしようとしなかったし、当事者団体は「そんなことがあるはずはない」と高をくくっていた感がある。まして海外の情報に接する機会が乏しい個々の当事者には「性同一性障害がなくなる」など思いもよらないことだった。

なぜ、海外の情報に通じた専門家の見解に耳を傾けなかったのか、そこには日本特有の事情がある。日本において性同一性障害という概念が急速に流布したのは1990年代末のことで、以後、2000年代初めにかけて、医療と法律、そしてメディアの協同によって「性同一性障害体制」とでもいうべき、性別移行を病理化したシステムが強固に確立された。その結果、日本は、世界で最も性同一性障害概念が社会に広く流布した「性同一性障害王国」になってしまった。そうした体制にどっぷり浸かっている人たちは、体制を大きく変革するような情報をことさらに無視し続けたのだ。

また、日本ではほとんど認識がないが、これほど数多くの「性同一性障害者」を名乗る人がいるのは、世界中で日本だけだ。欧米でもアジアでも性別移行の当事者のほとんどはTransgender(もしくはTranssexual)を名乗り、精神医学の専門用語(精神疾患概念)であるGender identity disorderをアイデンティティとする人はほとんどいない(そもそもGender identity disorderは人を指さない)。そうした点で、日本の状況は世界の中で特異(というか奇異)であり、Gender identity disorderという病名の消失に最も戸惑っている国ではないかと思う。

しかし、ICD-11の施行期限(2021年末)まで、もう2年足らずしかない。その間に必要な移行措置を取らなければならず、ぐずぐずしてはいられない。

まず、WHOの「脱精神疾患化」の決定を「骨抜き」にせず定着させることがなにより大事だ。具体的には、今まで日本精神神経学会が作成してきた「診断と治療のガイドライン」の改訂が必要になる。精神疾患でなくなったのだから、日本精神神経学会が主導する形は変えるのが筋だろう(現実的にはなかなか難しいと聞くが)。さらに、1995年に日本精神神経学会が「同性愛は性的逸脱とはみなさない」という声明を出したのと同様に、ICD-11が発効する2022年に「性別の移行を望むことはもはや精神疾患ではない」という公式声明を出してほしい。そうしないと、いつまでも性別移行を望むことは精神疾患という過去の認識を引きずることになりかねない。

次に、「性同一性障害」という拠り所を失った「性同一性障害者」が社会的に不利にならないように移行措置をとることが必要だ。具体的には「性同一性障害」から「性別不合」への診断書の読み替え措置をとってほしい。単なる病名の変更ではなく、位置づけも診断基準も変わるのだから、厳密にいえば再断が必要になるはずだが、それは当事者にとってあまりに酷だ。また、2018年4月から始まった性別適合手術への健康保険適用の継続が望まれる。この点については厚生労働省も理解を示していると聞く。

全体として、従来の医療福祉モデルから人権(医療を受ける権利を含む)モデルへの転換を着実に進めていくことが必要だと思う。

4 「手術要件」削除問題
2014年5月、WHOなど国連諸機関が「強制・強要された、または不本意な断種手術の廃絶を求める共同声明(Eliminating forced, coercive and otherwise involuntary sterilization - An interagency statement)」を出した。その内容は、トランスジェンダーやインターセックスの人々が、希望するジェンダーに適合する出生証明書やその他の法的書類を手に入れるために、断種手術を要件とすることは身体の完全性・自己決定の自由・人間の尊厳に反する人権侵害である、というもので、性別変更に性別適合手術を必須とする法システムは人権侵害という考え方が明確に打ち出された。

この声明は、ICD-11と直接的には関わらないが、性別移行に関するWHOの基本的な考え方がベースにある点で関係している。それは、自己決定の重視である。性別の移行にあたって重要なのは自己決定であり、法律はそれを誘導あるいは規制してはいけないし、医療は自己決定をサポートする形が望ましいということだ。

ところが、日本の「GID特例法」は、戸籍の性別変更に際して、SRSを要件にしていて、国連諸機関の共同声明に明白に抵触している。

こうした日本の性別適合手術の構造的な「強制」(性別移行を望む人はSRSを受けないと社会的に不利になるシステム)については、すでに2016年の国連女性差別撤廃員会による履行状況調査や、2017年国連人権理事会の人権状況審査で改善勧告を受けるなど問題視されていた。さらに最近になって、いっそう厳しい視線が送られるようになっている。

2019年に限っても、3月にイギリスの老舗の経済誌『The Economist』が「The Supreme Court agree that transgender people should be sterilised(最高裁判所はトランスジェンダーの人々は断種されることに同意した)」と題する日本発の記事を掲載し、性別の変更に手術が必須とされる日本の司法判断を批判的に紹介している(私のコメントも掲載された)。ほぼ同じ時期に、国際的な人権NGO「Human Rights Watch」は、「高すぎるハードル 日本の法律上の性別認定制度におけるトランスジェンダーへの人権侵害」と題する詳細な報告書(英語・日本語))をまとめている。さらに5月には、WPATHが「GID特例法」の改正(「手術要件」の撤廃)を強く要請する文書を、日本の法務省と厚労省に送付した。

ICD-11で性同一性障害という病名が消失したことにより、性同一性障害という疾患概念に立脚した法律は論拠を失うことになり、ICD-11の発効までの間に法律の手直しは必至だ。

その際、法律名称の変更は当然だが、国連諸機関の共同声明に明確に違反する「手術要件」をどうするかが、議論の大きな焦点になるだろう。私としては、国際的な人権規範に則した、世界に恥ずかしくない新たな「性別移行法」を制定して、「日本はトランスジェンダーの人権の後進国」いう批判を払拭してほしい。

おわりに
私は、2003年に「性別を越えて生きることは『病』なのか?」という論考を発表して以来、一貫して性同一性障害という病理概念と闘ってきた。16年にも及ぶ長く苦しい闘いだったが、ついに脱精神疾患化の日を迎えることができた。

WHO総会(2019年5月26日)でのICD-11正式採択の2日後の大学の講義の際、受講生が見ている前で、パワーポイントの記述を「性同一性障害がなくなる」から「性同一性障害がなくなった」に書き直した。過去形で講義ができる日がようやく来たことが実感され、感慨無量だった。

性別を移行するには程度の差はあれ医療サービスが必要だ。しかし、個々の当事者が医療に囲い込まれ、医療に依存してしまうことは好ましくない。性別の移行はあくまで自己選択・自己決定であるべきだ。医療の側は、自己決定を阻害することなく、性別移行を支援することが求められる。そして、より広く、トランスジェンダーの健康と福祉の増進という観点に立つべきだ。

より多くの性別移行を望む人たちが、病理を前提としなくても、自分の望む性別で充実した生活ができるような社会システムを作っていくことが重要だと考える。

【参考文献】
針間克己『性別違和・性別不合へ―性同一性障害から何が変わったか―』(緑風出版、2019年)
三橋順子「性別を越えて生きることは『病』なのか?」(『情況』2003年12月号、情況出版社、2003年)
三橋順子「LGBTと法律 日本における性別移行法をめぐる諸問題」(谷口洋幸編著『LGBTをめぐる法と社会』日本加除出版、2019年)


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【論考】トランスジェンダー大学教員として思うこと [論文・講演アーカイブ]

この「トランスジェンダー大学教員として思うこと」は、公益財団法人日本学術協力財団の機関誌『学術の動向』2019年12月号、特集「Gender Equality 2.0からSDGsを展望する」に掲載されたものです。
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内容的には、2019年7月4日の国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)&日本学術会議主催の、GS10フォローアップ2019公開シンポジウム「Gender Equality 2.0からSDGsを展望する—架け橋—」(市ヶ谷:科学技術振興機構・東京本部)でお話ししたことがベースになっている。

編集委員長である伊藤公雄先生(京都大学名誉教授・京都産業大学教授・高校の先輩)には、たいへんお世話になりました。
こうした機会をいただきましたこと、とても感謝しています。

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学術の動向2019年12月号 (3).jpg 学術の動向2019年12月号 (4).jpg
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        トランスジェンダー大学教員として思うこと
          三橋順子(明治大学文学部非常勤講師)

1 トランスジェンダーがかかえる問題
トランスジェンダー(ここでは、生まれた時に指定された性別とは異なる性別で生活している人)の人生は、一般の人生のスタートが0からだとすると、マイナス50からの出発と言われます。

50のマイナス分は、自分が望む性別を獲得することに費やされます。望む性別の獲得の内実は、身体の外形を医学的な処置によって可能な限り望みの性別に近づけたり、戸籍の性別を変更するなど人によってさまざまです(すべてのトランスジェンダーが戸籍の性別変更まで望むわけではありません)。共通することは、日本のような男女二元社会(世の中には男性と女性の2つしかなく、それは生まれてから死ぬまで変化しないと認識されている社会)の中で、男女どちらかの望みの性別で(完璧でないにしても,ある程度)適合しなければならないということです。そうでなければ、社会活動がきわめて困難になります。

これだけでも相当な難事であり、その途中で倒れる人や、なんとか達成して一般の人並みの0からのスタートラインに立てた時には、もう力が残っていない人も出てきます。性別移行の途上や、性別移行達成後に自殺する人が後を絶たないのは、そういうことなのです。

やっと0からスタートして、勉学と研鑽を重ねて、いざ就職ということになると、また大きなハンデキャップがあります。トランスジェンダーであることがわかると、これまで日本の企業はまず採用しませんでした。まして、戸籍の性別変更をしていないトランスジェンダーの場合、外見上の性別と書類上の性別が異なれば、試験さえ受けさせてもらえない、実質的な「門前払い」が通例でした。

0からスタートして頑張って、一般の人と同じ100のラインまで来ても、トランスジェンダーの場合は駄目なのです。150、いや200くらいの実力があって、はじめて一般の100の人と同等になるという感じです。それは、どんなに努力をしてもトランスジェンダーであるということだけで認められなかった私の実感です。

ここまで読んで、それは女性の就労差別と似ていると思われた方がいるでしょう。たしかに構造的に似ています。女性は120くらい(あるいはもっと?)の実力があって、はじめて男性と対等という感じでしょうか。

違うのは、女性の就労差別については、それなりに社会的認知・問題認識があり、かつ「男女雇用機会均等法」という差別解消のための法的裏付けがあるのに対し、トランスジェンダーの就労差別についてはほとんど社会的認知がなく、「性別を理由として、差別的取扱いをしてはならない」としているはずの「均等法」においても実質的に対象外(想定外)だということです。

日本社会では、就労だけでなく、さまざまな分野の「ジェンダー平等」において、そもそもトランスジェンダーの存在が想定されていないのです。そして、私のような男性から女性へのトランスジェンダー(Trans-woman)の場合、トランスジェンダーへの差別と女性への差別を二重に受けることになります。

2 私の体験から
さて、私は2000年度に「三橋順子」として中央大学文学部兼任講師に任用され「現代社会研究(5)」の講義を担当しました。日本初のトランスジェンダーの大学教員ということで、初回の講義の日には、週刊誌が3つも取材に来るという騒ぎになりました。それらが店頭に並ぶとすぐに、たくさんの抗議電話が大学にかかってきました。

20世紀末までの日本のトランスジェンダーの就労は、ショービジネス(ダンサー)、飲食接客(ホステス)、性風俗産業(セックスワーカー)の3つにほぼ限定されていました。私はそれを「ニューハーフ三業種」と呼んでいますが、それらの業種に就くのなら社会的に許容されるが、それ以外の業種には就けないという状況(社会慣行)でした。ちなみに「ニューハーフ」とは商業的な(男性から女性への)トランスジェンダーを指す和製英語です。

私は、そうした社会慣行を打ち破ったので、「神聖な学問・教育の場である大学の教壇にニューハーフが立つなんて」という感じで、社会的衝撃・反発がとても大きかったのです。

2003年に都内のある中学校の授業にゲスト講師として招かれた時には、わずか1コマ(50分)の授業なのに、地元の保守系の女性団体が「ニューハーフを教壇に立たせるな!」と反対運動を展開しました。私は中学・高校(社会科)の一級教員免許を持っているのに。21世紀の初頭ですら、教育や学術の分野にトランスジェンダーが関わることに、どれだけハードルが高かったか、分かっていただけると思います

以来、20年、8つの大学で非常勤講師として講義をしてきましたが、教育面での性別に関わるトラブルはありません。講師がTrans-womanであることは、シラバス(講義要綱)に明記してあるので、そういう講師に教わりたくない学生は受講しません。ときどき、シラバスをちゃんと読まずに履修して初回のガイダンスで驚く学生はいますが、だいたい数回で慣れます。

苦い思い出は、ほとんど事務方とのトラブルです。2005年度に専論講座としては日本初となる「トランスジェンダー論」の講義を担当した、お茶の水女子大学ではトラブルの連続でした。1つは通勤費の算出のベースになる出勤簿に本名(戸籍上の男性名)で捺印するように言われたこと。もう1つは「職員録」への記載で「本名」か「本名と通称(女性名)の併記」かの選択を迫られたことです。どちらも拒否しました。なぜなら辞令は私の通称(女性名)である「三橋順子」でいただいていたからです。

「ジェンダー研究の本山」を自認する大学が「日本最初のトランスジェンダー論の講義をしてほしい」と呼んでおいて、この有様でした。前者に関しては、毎回のことなので、さすがに嫌気が差して「それなら通勤費、いただかなくて結構です。たかが720円で筋は曲げられません」と開き直ったところ、事務の人が「では、ご本名の印鑑をこちらで買って捺し直します」という、信じられないような解決になりました。

また、2012年度から「ジェンダー論」の講義を担当することになった明治大学文学部では、履歴書の性別欄でトラブルになりました。私の場合、自分のジェンダー(社会的性別)に従って「女」と書けば有印私文書不実記載になりかねないし、かといって「男」と書くのはジェンダー・アイデンティティに反するのでできません。また「男女雇用機会均等法」の趣旨からも履歴書の性別欄は不要と考えるので、性別欄は不記載(空白)にしています。

今回もそうしたところ、人事課から性別欄に「『男』と書くように」というメモが付されて履歴書が戻ってきました。私が、先に記したような空白にする理由を説明したところ、「性別欄が空白の履歴書は前例がなく受け取れない」という返事。先例がないのは当たり前で、私が「初めて」なのですから。「それでは仕方がありません、講師就任はこちらからお願いしたことではありませんので、結構です」ということで任用手続きが完全に止まってしまいました。

私がなぜ妥協しないか、それはきっと私の後に続いてくれるだろうトランスジェンダーの大学講師に悪しき先例を残したくなかったからです。それが、トランスジェンダー大学教員のパイオニアである私の責務だと考えたからです。

結局、たかが一非常勤講師の人事に、学長さんが「履歴書をそのまま受け取るように」と人事課に指示を出し、私の任用は実現しました。

3 問題解決のために必要なこと
長々と過去の事例を記したのは、通勤簿に捺す印鑑、履歴書の性別欄のような小さなものが、トランスジェンダーの就労の妨げになるということです。硬直した男女二元論のシステムによって、トランスジェンダーの就労が困難になり、能力を発揮する場が奪われている現状があるのです。

ここで気づいてほしいのは、他の6つの大学では、事務方とのトラブルはほとんどなかったことです。ある大学で、性別欄の空白について尋ねられましたが、説明をしたら納得してもらえました。つまり、わずかな配慮、システムの修正によって、トランスジェンダーの就労状況の改善は可能であるということです。

トランスジェンダーが社会に求めているのは、性別の自己決定の尊重と、その社会的承認です。なにも性別二元社会を根底から覆すような要望をしているのではありません。トランスジェンダーの存在を認識して、小さな配慮・システムの修正をしてほしいという要望です。

ここでトラブル事例として紹介した明治大学は、今では「ダイバーシティ&インクルージョン宣言」を出し、性的マイノリティ、とりわけトランスジェンダーへの配慮をマニュアル化した先進的な大学になっています。

人口減少社会である21世紀の日本社会には、性的マイノリティを排除している余裕はもうありません。性的マイノリティを排除せず多様性(ダイバーシティ)の1つとして包摂(インクルージョン)し、能力を活かしていくことが、より豊かな社会につながり、その方が日本社会にとって「得」だということです。

早い話、わずか1cm四方の性別欄にこだわって、(安い給料にもかかわらず)毎期400人前後の受講生を集める人気講師を逃すのと、システムを少し修正してその力量を活かすのと、どちらが「得」かということです。

もう一度、トランスジェンダーの人生をたどってみましょう。まず小学校~高校では、2016年4月1日の文部科学省の通達「性同一性障害や性的指向・性自認に係る、児童生徒に対するきめ細かな対応等の実施について」で、教育現場の対応が進み、かなりの改善がなされました。

大学での就学については、2015年くらいから、国際基督教大学、明治大学、早稲田大学、大阪府立大学、龍谷大学、筑波大学などでトランスジェンダー学生への対応ガイドラインが策定され、望みの性別での通称名の使用を認めるなど、積極的な対応がなされています。とりわけ2018年度から導入された筑波大学のガイドラインは、病理を前提にしない(診断書の提出を求めない)対応方針で、かつ極めて詳細なものです。今後、他大学のお手本になるでしょう。

また、お茶の水女子大学、奈良女子大学、宮城学院女子大学など、いくつかの女子大学で、2020年度以降、Trans-womanの受験生を「女子」として受け入れることになりました。

このように教育面では、この数年でトランスジェンダー学生の状況は大きく改善されています。残る障壁は就労です。就労差別さえなくなれば、トランスジェンダーの状況は間違いなく大きく改善されます。そのためには、学生を社会に送り出す大学関係者の理解とバックアップが強く求められるのです。

今回、私を「ジェンダー・サミットのフォローアップシンポ」に呼んでいただいたこと、『学術の動向』に執筆の機会をいただいたことが、日本社会におけるトランスジェンダーの存在を認識し、その状況の改善の必要性を考えていただく、きっかけになれば、たいへん幸いに思います。

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【論考】新宿の「連れ込み旅館」と歌舞伎町「ラブホテル」街の形成 [論文・講演アーカイブ]

    新宿の「連れ込み旅館」と歌舞伎町「ラブホテル」街の形成
               三橋 順子

はじめに
1995年頃、「夜の歌舞伎町の『女』」になったばかりの駆け出しの私に、店のママがこう教えてくれた。「縦軸が区役所通り、横軸が花道通り、原点が『風林会館』前の交差点ね。で、第4象限がこの店があるホステスクラブや飲み屋の集中地域、第3象限が『コマ劇』がある歌舞伎町の中心街。ここらへんはもし何かあっても、(ヤクザに顔が利く)あたしが助けてあげられる。でも、第2象限は入ってはダメ。あそこは外国のマフィアの縄張りだから、あたしは助けてあげられない。第1象限はラブホテル街だから彼氏に連れて行ってもらいなさい」。

それから間もなく、私は材木屋の若旦那と付き合い始めた。彼との「性なる場」は、中央自動車道なら八王子、東名高速なら海老名あたりまでドライブして入る「ラブホテル」が定番だった。ある夜、時間がなくて手近の新宿歌舞伎町の「ラブホテル」に行こうということになった。「なんで、こんなにたくさんラブホがあるの!?」と驚く私に、彼が「ラブホ街はね、奥の方がサービスがいいんだよ」と教えてくれたのを覚えている。手前の方のホテルは、黙っていても客が入るので、サービスの手を抜きがちなのだそうだ。その言葉どおり、私たちは「ラブホ」街のいちばん奥(北)に近いホテルに入った。たしか「サボイ」(歌舞伎町2-5-6)という名のホテルだった。

その少しあと、訳知りの店のお客さんから「歌舞伎町のラブホ街はね、千駄ヶ谷の連れ込み旅館が東京オリンピックで立ち退きになって、それで移ってきたんだよ」という話を聞いた。その時は「へ~ぇ、そうなんだ」と素直に思った(でも、実際は違った)。

新宿の「連れ込み旅館」から「ラブホテル街」の形成までを歴史地理的にたどることにより、長年の疑問を解決しようと思う。

1 新宿の「性なる場」の特色
拙著『新宿「性なる街」の歴史地理』(註1)で述べたように、新宿は、内藤新宿の「飯盛女」に始まり、大正末期にできた「新宿遊廓」、戦後の黙認売春地区「赤線・新宿二丁目」、非合法売春地区「青線・花園三光町」を経て、現代の歌舞伎町の性風俗街まで連綿と「性なる場」が存在してきた。その点が同じ山の手エリアの盛り場、渋谷、池袋との大きな違いだ。

「連れ込み旅館」の全盛期1953~57年頃は、まだ「売春防止法」が制定される以前の「赤線」時代だ。「赤線」の全盛期は1952~53年頃で「連れ込み旅館」の全盛期より少し前だから「赤線」後期に相当する。つまり、「赤線」と「連れ込み旅館」とは同時並存なのだ。

両者の関係については、東京東部には圧倒的に「赤線」が集中し(区部13か所のうち10か所が存在)、「連れ込み旅館」の数がきわめて少なく、逆に東京西部には「赤線」が少なく(城西エリアの新宿二丁目と、城南エリアの品川、武蔵新田の3か所)、逆に「連れ込み旅館」の分布が濃密である。それらは「性なる場」を利用する階層の違い、さらに性愛文化にかなり大きな違いがあったことを思わせる。

言葉を換えるならば、東京では「赤線」と「連れ込み旅館」は住み分けていたと言っていい。その中の例外が、山の手唯一の、そして東京第3の規模をもち、老舗の「赤線」新吉原に勝るとも劣らない人気を誇った「赤線」新宿二丁目だった。

つまり、東京の中で「赤線」と「連れ込み旅館」が住み分けている状況下で、新宿において「赤線」と「連れ込み旅館」はどのような形で存在したのか? やはり住み分けていたのか、そうでないのかというテーマが設定できる。

さらに新宿の「性なる場」をややこしくしているのは、都内最大規模の非合法売春地区「青線」花園・三光町である。戦後の買売春地帯の「本家」?である「赤線」新宿二丁目をときに凌ぐくらい人気があったこの「青線」街は、10~20年?を隔てて成立する歌舞伎町の旅館・ホテル街と地理的に近い、というかほとんど隣接する。その間になにか関係はなかったのかも考えないといけない。

とはいえ、あまり先走らず、まずは新宿の「連れ込み旅館」巡りから始めよう。

2 新宿の「連れ込み旅館」の分布
私が作った「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」(註2)によると、新宿エリアに31軒の「連れ込み旅館」が確認できる。これは千駄ヶ谷の39軒、渋谷の32軒に次いで東京第3位である。

モータリゼーションの発達がまだそれほどでもない1950年代の「連れ込み旅館」の立地は鉄道の駅が基本だった。そこで新宿駅を中心に西→南→東→北と反時計回りに巡ってみよう。

(1)西口方面
現在、東京都庁を盟主とする新宿副都心の玄関口として賑わっている新宿駅西口も、1960年代までは駅の裏口という印象だった。改札を出ると広いバス乗り場があり、その向こうに街並があったが、じきに淀橋浄水場の塀に突き当たってしまう。

淀橋浄水場は1965年まで東京中心域への給水を一手に引き受けていた広大な施設で、その跡地を再開発したのが新宿副都心だ。浄水池を埋め立てずにその底を基盤にビルを建てたので、あのあたりの道路はビルの1階より高いところを通っている。ちなみに、新都心で最初の高層ビルである「京王プラザホテル」の開業が1971年、2番目の住友ビルが1974年。

バス乗り場と浄水場に挟まれた狭い一帯に4軒ほどの旅館・ホテルが点在していた。京王電鉄新宿駅の向かい、安田生命のビルの南側の道を西に進むと新宿郵便経局の斜め向かいに「旅館かどや」があった。広告には「西口下車徒歩2分 安田生命横入」とある。今も同じ場所で「かどやホテル」が営業している。

現在の「かどやホテル」はビジネスホテルだが、1950年代の「旅館かどや」も「連れ込み旅館」と言っていいのか、いささかためらいを覚える。

「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」の採録基準は、『内外タイムス』や『日本観光新聞』などの性風俗関係の頁に広告を出していること、料金設定が「お二人様(御同伴)」で「休憩(休息)」であることの2点を基準にしている(註3)。千駄ヶ谷をはじめとして多くの「連れ込み旅館」は毎週のように広告を載せるが、「かどや」の広告は1、2回しか見かけない。

そもそも、商用の客が中心の一般の旅館(古風な言い方をすれば商人宿)と「連れ込み旅館」の間に明確な線引きはない。「商人宿」的な旅館が「最近、流行りの『ご休憩』設定、儲かりそうだからウチもやってみるか」という感じで始めたケースもけっこうあったらしい(註4)。それで収益が向上して「連れ込み」専用に移行した所もあれば、逆にそれほどの収益改善がなく元の商用客中心に戻った所もあったはず。「かどや」の場合は、後者のように思う。
新宿駅西口(かどや・19541220).jpg
かどや(19541220)

何度も言うが、この頃の西口は西側が浄水場の塀で塞がれていて、東西に方向に余地が乏しい。そこで、旅館は北側に展開していた。

西口を北に行くと、歌舞伎町方面から「大ガード」を潜ってきた青梅街道が西口駅前の南北道と交差する「柏木交差点」(現:新宿大ガード西交差点)に出る。「柏木」は現在の北新宿1~4丁目の旧称だが、「角筈」や「追分」など新宿の古い地名とともに忘れられつつある。

「旅館みやこ」(19560413)は「柏木交差点ガソリンスタンド裏」とある。1962年頃現況の住宅地図には、柏木交差点の北西角にシェル石油のガソリンスタンドがある。その2ブロック西に「みやこビル」(1959年竣工)があり、すでに廃業してビル化したようだ(現在も同地に「ミヤコビル」がある)。敷地からして小さな旅館だったと思う。

「みやこ」と同じブロック、すぐ西側に「大海老旅館」があった。「みやこ」よりだいぶ規模が大きい。広告には「青梅街道北側」「新築落成」とある。以前からあった旅館が「ご休憩」客を当て込んで1954年に新館を建てたのだろう。1970年代前営業していたが、現在は「東京調理師専門学校」になっている。
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 みやこ         大海老旅館
 (19560413)      (19540530)

いかにも当時流行のおしゃれな「連れ込み」風の名前の「文化ホテル」は「西口交差点 新宿登記所前通」とある。「西口交差点」(=柏木交差点)から小滝橋通りを北に100m少し進み左に入る道を200m行ったところにあった。かなりわかりにくい場所だ。この場所は1961年頃現況の住宅地図で突き止めたのだが、1962年頃現況図では南隣の「旭旅館」と一体化している。

「らくらく」は、「文化ホテル」と同じ「新宿登記所前通」をさらに2ブロック北に行った所にあった。さらに立地は良くない。「新宿で一番安い」を売りにするのも仕方がなかっただろう。

新宿駅西口(文化ホテル・19530925k).jpg  新宿駅西口(らくらく・19570303).jpg
 文化ホテル        らくらく
 (19530925k)      (19570303)

なお、1951年頃現況の「火災保険特殊地図」では、「かどや」「みやこ」「大海老」「文化ホテル」「らくらく」が確認でき、西口の「連れ込み旅館」の開業が1950年代初頭以前、戦後さほど経たない時期であることがわかる。

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【地図1】柏木一丁目の旅館群(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)
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【地図2】「大海老旅館」と「みやこ旅館」(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)
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【地図3】「文化ホテル」と「らくらくホテル」(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)

ところで、東京都庁舎西側の広大な新宿中央公園の北西に、角筈村の鎮守社熊野神社がある。紀州の熊野三山から十二所権現を勧請したことから、この付近を「十二社」(じゅうにそう)と呼んだ。神社の西には大きな池があり、江戸時代には近郊の行楽地、近代以降は三業地として賑わった。1962年頃現況の地図でも、池の南に「十二社温泉)」があり、池の西側の高台には料亭が立ち並んでいた様子がわかる。

「連れ込み旅館」の広告の中に「十二社」を称しているものが2つある。まず「浮世荘」は、「新宿十二社池ノ上」と称し「新宿駅南口より京王帝都中野練馬行きバス2分」と案内している。しかし、1962年頃現況の地図を見ても十二社の池の近くにはそれらしきものが見当たらない。視野を広げると、甲州街道(国道20号線)のランドマークだったガスタンク(東京ガス淀橋供給所、1990年廃止。現:ホテルパークハイアット東京の敷地)の西側のブロックに見つかった。住所的には角筈三丁目で十二社とはとても言えない。

もう1軒の「抱月」も「新宿十二社の新名物」と称しているが、添えられている地図をたどると、都営角筈アパート(現:東京都新宿住宅展示場)の西側、山手通りに近い所になる。やはり住所は角筈三丁目だ。1962年頃現況図には見えないが、「浮世荘」よりさらに十二社からは遠い。

どちらも、「十二社」と称しているが、明らかに僭称だ。現代だったら、事実と異なる悪質広告として問題になると思うが、当時の規制はいたって緩かった。
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 浮世荘         抱月
 (19570124)      (19540113) 

(2)南口方面
新宿駅南口は甲州街道に面しているが、実は道の向こうは新宿区ではなく渋谷区。「バスタ新宿」も住所は渋谷区千駄ヶ谷五丁目になる。とはいえ、「連れ込み旅館」は駅立地が基本なので、新宿駅を起点にしていると思われる旅館を見ていこう。

「旅館すがや」は広告に「甲州口(徒歩五十秒)とあるように、南口を出て甲州街道を横断した場所にあった。ほんとうに向かい側で50秒は嘘ではない。この一角は南口の大規模な再開発で一変しているが、都営地下鉄新宿線の2番出口があるビルが跡地になる。

「旅館豊嶋」は「甲州街道南側」とあるが、甲州街道から南へ山手線の代々木駅方面に向かう道に入り、2つ目のT字路を右(西)に入ったところにあった。1970年代後半まで営業していたが、現在は「JR九州ホテルブラッサム新宿」の敷地の一部になっている。

「羽田旅館」は「南口3分 鉄道病院裏」とある。「鉄道病院」は「中央鉄道病院」で現在の「JR東京総合病院」のこと。南口からの道筋は「鉄道病院」まで行ったら行き過ぎで、「豊嶋」がある道を西に進んだところにあった。現在は名前そのまま「羽田ビル」(1975年竣工)になっている。

広告はないが、甲州街道沿いにあった「景雲荘」と同じ名前のビジネスホテル「景雲荘」が100m南に現在する。そこは「旅館あけぼの」があった場所なのだが、もしかすると、同じ系列で移転したのかもしれない。

新宿駅南口に近い「鉄道病院」の北側・東側一帯には、1962年頃現況図で、広告がある3軒を含めて11軒ほどの旅館・ホテルが確認でき、旅館街をなしていた。それはさらに南の代々木駅周辺、さらに南東の千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街につながっていく。

新宿駅南口(すがや・19540521).jpg 新宿駅南口(豊嶋・19550909k).jpg 新宿駅南口(羽田旅館・19550418).jpg  
 すがや         豊嶋           羽田旅館
 (19540521)      (19570107)       (19550416)

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【地図4】新宿駅南口の旅館群(1962年頃現況住宅地図)

新宿駅南口方面で、行政区画的にも新宿区になるのは、新宿四丁目だけだ。ここだけが渋谷区に出っ張る形になっている。この新宿四丁目は江戸時代には徳川将軍家所縁の天竜寺の門前町(寺領)「南町」だったが、「ご瓦解」(明治維新)後は、「旭町」と名を変え、木賃宿指定地になり貧民街(スラム)化してしまう。

その状況は戦後にまで引き継がれ、戦後の混乱期、数多くの街娼が南口界隈に立っていた頃には、そうした木賃宿起源の安宿「ドヤ」が、街娼が客を連れ込む「性なる場」として利用されていた。いわゆる「パンパン宿」と呼ばれたものだ。1950~60年代にも数多くの簡易旅館が立ち並んでいたが、「連れ込み旅館」とは性格が異なるので、ここでは扱わない(註5)。

新宿四丁目には、昭和初期に斜めに町を引き裂くように明治通り(環状5号線)が設置された。「とみ田」は「新宿駅より3分 明治通り」とあるように、新宿四丁目の南部、明治通りの東側にあった。広告には「新宿の自然境」とある。たしかに南東200mほどのところに新宿御苑があるが・・・。跡地には現在「パシフィックワコービル」が建っている。1970年竣工なので、1960年代末に廃業したのだろう。
新宿駅南口(とみ田・19530731).jpg
 とみ田(19530731)

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【地図5】新宿4丁目(旭町)の旅館群(1962年頃現況住宅地図)
旭町 (2) - コピー.jpg
【地図6】「とみた」の位置(1962年頃現況住宅地図)

(3)東口方面
新宿駅の表玄関、東口正面は、当然のことながら東を向いて、中央通りにつながっていた。南北に長い駅舎の東側に庇があり、タクシー乗り場がある。ところが、現在「東口」というと、「アルタ」の向かい側の「東口広場」をイメージする人が多くなってしまった。あそこは駅舎の妻の部分から出ていて、方角からも、本来、北口と言うべき所だ。

ということで、東口方面とは、東口正面の中央通りと、実質的なメインストリートである新宿通り(追分より西は青梅街道)の周辺ということになる。

かなり広いエリアにもかかわらず、広告が確認できるのは、わずかに3つだけ。広大な、そして新宿でもっとも繁華な一帯であるにもかかわらず、きわめて少ない。とりわけ、メインストリートである新宿通り周辺にはまったく見い出せなかった。

まず、三光町(現:新宿五丁目の西部)。「白鳳荘」は、広告に「伊勢丹裏電車大通り三光町電停前」「(駅より五分)花園神社参道右」とある。「伊勢丹裏電車大通り」は現在の靖国通りのこと。都電(11、12、13系統)の三光町停留所は、靖国通りと明治通りの交差点(現:新宿五丁目交差点)の東寄りにあった。停留所を下りれば花園神社の南参道は目の前で、鳥居をくぐって少し進んだ右手に「白鳳荘」はあった。「駅から五分」は新宿駅から、急げばそんなものか。料金の300円均一は「御同伴」はともかく「御泊」は破格に安い(新宿では「泊り」500円以上が相場)。

1962年頃現況の住宅地図には、「白鳳荘」の北側に「高島旅館」と「万葉旅館」があって小さな旅館街を形成していた。1951年頃現状の火災保険図には、「白鳳荘」はすでにあり、「万葉旅館」の場所は「OFF LMIT。」という建物になっている。OFF LMITSは性病蔓延を理由に連合国軍将兵の性的な場への立ち入りを禁止した指令(1946年3月)だが、それを逆手にとった屋号だろうか。

現在「白鳳荘」の跡地には「白鳳ビル」(1966年竣工)が建つ。しかも、敷地は南側、靖国通り沿いにまで拡大している。「連れ込み旅館」で稼いでビル経営に転身し成功した代表的な例だと思う。
新宿三光町(白鳳荘・19560621).jpg
 白鳳荘(19560621)

続いて番衆町(現:新宿五丁目の西部)。「アカシホテル」は、広告に「素人が自分の好みで作った宿。それだけに部屋も設備も素晴らしい!サービスも素人だけに又落ち着ける」と素人っぽさを売りにしているが、やはり素人経営はうまくいかなかったのか、1962年頃現状の地図には見えない。

「番衆町35 市ヶ谷大通り☆スタンド横」とある、「市ヶ谷大通り」はやはり靖国通りのこと。「☆スタンド」は、赤い☆をマークにしていたカルテックス(日本石油)のガソリンスタンドで、1962年頃現況の住宅地図にはたしかに靖国通りに面して「日本石油KK新宿給油所」があり、その横に「旅館こまき」がある。これが「アカシホテル」の後身だろう。

「新宿白樺荘」は、別の記事に「新宿三光町電停から市ヶ谷に向い五分」とあり、こんな絵が添えられている(『内外タイムス』1954年12月23日)。長野県「蓼科温泉観光ホテル」の連絡所を兼ねているとのことなので、資本関係があったのかもしれない。ちなみに名称にわざわざ「新宿」を付けているのは、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」の老舗「白樺荘」があるためと思われる。

1962年頃現状の地図には、「アカシホテル」があったと推測される場所の北隣に「旅館白樺」が見える。現在は2つの地所を併せて「神谷ビル」(1976年竣工)になっている。

新宿番衆町(アカシホテル・19550417).jpg  新宿番衆町(新宿白樺荘・19541221).jpg   
 アカシホテル       新宿白樺荘
 (19550417)       (19541221)
新宿番衆町(新宿白樺荘・19541223) (2).jpg
新宿白樺荘のイラスト(19541223)

番衆町 (1) - コピー.jpg
【地図7】番衆町の旅館群。小規模な旅館が散在する(1962年頃現況住宅地図)。

番衆町 (3).jpg
【地図8】「白樺荘」の位置(1962年頃現況住宅地図)

東口方面の広告があまりに少ないので、少し足を延ばしてみよう。番衆町の東の富久町は、元「市ヶ谷富久町」と言ったように、もう新宿とは言えないが、そこに「クインホテル」があった。広告の地図にあるように靖国通りのロータリー(現:富久町西交差点)の北東にあった。広告には「浅草行バス花園町停留所前 都電四谷四丁目下車3分、三光町下車3分」とあるが、交通の便は良くない。都電だと新宿通りを走る11、12系統の四谷四丁目停留所から北に歩くのが近い。跡地は「サウスタワー」(1995年竣工)というオフィスビルになっている。

ところで、富久町の東の市ヶ谷台(市谷本村町)には、戦時中、帝国陸軍の中枢(陸軍省、参謀本部、教育総監部)があったが、戦後の占領期には進駐軍に接収され、1959年に返還されるまで一帯は「パーシングハイツ」と呼ばれていた。広告に「ラジオ・バス・電話完備」とあるように洋式の「クインホテル」が富久町にあったのは、アメリカ軍との関係があったと思う。
新宿富久町(クインホテル・19550708k).jpg
   クインホテル(19550708k)

靖国通りを進んできた都電13系統は、三光町の停留所を過ぎると左折して明治通りに入る。そして新田裏(現:新宿六丁目交差点)から北東方向に専用軌道になる。大久保車庫前を通過して再び路面に出たところに東大久保停留所があった。近くに「抜弁天(ぬけべんてん)」の通称で知られる厳嶋(いつくしま)神社がある。

「二条」は「伊勢丹裏三光町より飯田橋に向い四ッ目 電停東大久保牛込抜弁天下車一分」とあるように、東大久保停留所から200mほどの所にあった(電車通りではなく裏道)。住所は余丁町になるが、このあたりは、当時は鉄道の駅からも遠く、都電なくしてはありえない立地だ(現在は都営地下鉄大江戸線の若松河田駅が近い)。「高級旅荘」をうたっているが、料金を値下げして安めに設定していた。それでも経営が難しかったのか、1962年頃現状の地図では料亭になっている。
新宿抜弁天(二条・19550620).jpg
  二条(19550506)

さて、例によって広告を見てきたが、東口方面はあまりに少なく、全体像がつかめない。そこで、方法を変えて、1962年頃現況の地図に見える旅館を地域ごとに数えてみた。 

広いので下記のように7つのブロックに分けてみた(註6)。
① 中央通り北側、新宿通り南側、JR線東側、明治通り西側の旧「三越裏」。
② 新宿通り北側、靖国通り南側、明治通り西側の「紀伊国屋書店」や「伊勢丹」があるブロック。
③ 新宿通り北側、靖国通り南側、明治通り東側、御苑大通り西側の「末廣亭」があるブロック。
④ 新宿御苑北側、新宿通り南側、御苑大通り(延長)東側の東西に細長いブロック。
⑤ 新宿通り北側、靖国通り南側、明治通り西側の新宿二丁目「赤線」「青線」地区を含む「仲通り」周辺。
⑥ 靖国通り北側、都電回送線(現:遊歩道「四季の道」)東側、花園神社周辺の旧・三光町。
⑦ 靖国通り北側、明治通り東側、医大前通り南側の旧・番衆町。

結果は、以下の通り。
① 0軒
② 1軒
③ 3軒
④ 4軒
⑤ 3軒(「赤線」「青線」地区の転業旅館は除く)
⑥ 11軒
⑦ 15軒

つまり、新宿駅東口エリアは、一般旅館、「連れ込み旅館」を問わず、旅館が少ないのだ。とくに、駅に近いほどその傾向は顕著で、もっとも繁華な①②には合わせて1軒しかない。わかりやすく言えば、東口には「駅前旅館」がないのだ。②の大ガードに近い所に「山城屋」という商人宿っぽい屋号の小さな旅館があるだけ。③の3軒も2軒は小規模で、まずまずの規模は末広通りが靖国通りに出るあたりにあった「花菱旅館」だけ。このエリアには、進駐軍兵士専用の「連れ込み」として知られた「大和ホテル」があった。1951年頃現況の火災保険図にはみえるが、1962年頃現況図ではもう消えている。

たしかに繁華街(商業地域)は人目が多く「連れ込み旅館」に入りにくいかもしれないが、裏通りはいくらでもある。他の盛り場では、そうした繁華街の裏通りに「連れ込み旅館」があることは珍しくない。しかし、新宿にはそれがない。

こうした傾向は、私がこのあたりで遊んでいた頃(1990年代)にも気づいていた(近場でSexできる場所がない)が、これほどまではっきり傾向が出るとは思わなかった。

繁華街を外れても傾向は変わらない。1958年1月末まで「赤線」「青線」が営業していた、⑤の二丁目「仲通り」周辺も、「売春防止法」完全施行後の転業旅館(しばしば偽装転業)を除けは、小さな旅館が3軒あるだけ。同じ二丁目でも新宿通り南側の④の方が4軒とまだ多い。

「赤線」は特殊飲食店(カフェー)の2階にある女給の私室で性行為が行われるので、近隣の旅館に泊まる必要はない。「青線」は店の中の隠し部屋(多くは3階、屋根裏部屋)で性行為を行うが、女性の数だけ部屋がない場合もある。使用中で塞がっている場合は、待つか、別に用意してあるアパートの一室が使われたらしい(註7)、いずれにしても「赤線」「青線」地区に旅館がほとんどないのは必要がないからだ。

東口中心エリアから外れた、新宿駅からは遠い靖国通りの北側になると、ようやく旅館が増えてくる。「白鳳荘」が広告を出している⑥の三光町は11軒、「アカシホテル」「新宿白樺荘」のある⑦番衆町は15軒と、むしろ旅館が多い感じになる。

このエリアは、1940年代後半から50年代初頭まで、いわゆる「パンパン宿」が多かった地域だ。「パンパン宿」とは、街娼が男性客を連れ込んで性行為をするための宿で、小規模な旅館や民家の間貸しが多かった。

1949年6月現在とされる「新宿元遊廓付近図」(註9)の下の方、三光町、番衆町には多数の「パンパン宿」が描かれている。要通りや「赤線」地区の周辺の街娼たちの仕事場だったと思われる。

三光町、番衆町に散在する小規模な旅館の中には、そうした「パンパン宿」に起源をもつものがかなりあったのではないかと推測している。

さて、「赤線」「青線」があった時代(1958年以前)、新宿駅東口、あるいは都電の新宿二丁目や三光町で下車した性欲にあふれた男たちは、真っすぐに二丁目の「赤線」や、「三光町」の「青線」街を目指したはずだ。途中で街娼に引っかからない限り、彼らは旅館を必要としない。東口界隈は需要がないから「連れ込み旅館」は立地しない。

素人の女性を連れた男性は、新宿駅でも南口(もしくは西口)で下り、駅に近い「連れ込み旅館」に入るか、タクシーで千駄ヶ谷に向かう。

やはり、新宿の中でも「赤線」と「連れ込み旅館」は住み分けていたと思われる。

神崎清「新宿の夜景図―売春危険地帯を行く―」(『座談』1949年9月)
方向を示す記号が真逆になっている。実際は下が北。

(4)歌舞伎町方面
西口、南口、東口と巡ってきたので北口になるはずだが、先述したように新宿駅に北口はない。1950~60年代は、食品デパートの「二幸」(現:「アルタ」)方面への出口が実質的な北口になり、靖国通りにあった都電の新宿駅前(終点)に向かい、さらに靖国通りを渡って歌舞伎町に通じていた。

本来の歌舞伎町エリア(現:歌舞伎町一丁目)で広告が確認できるのは、「桂月荘」1軒だけで「新宿地球座裏通り」とある。「新宿地球座」は「新宿コマ劇場」(現:「新宿東宝ビル」)の西にあった「地球会館」にあった映画館(後のジョイシネマ。現:「ヒューマックスパビリオン新宿アネックス」)。1951年頃現況の火災保険地図で「地球座」の南西のブロックにあったことがわかる。しかし1962年頃現況の地図では別の建物になっている。

歌舞伎町エリアの旅館は、1962年頃現況の地図では7軒ほどで、いずれも規模は大きくない。
 
新宿歌舞伎町(桂月荘・19530518).jpg
 桂月荘(19530518)
歌舞伎町2丁目 (2) - コピー.jpg
【地図9】「桂月荘」の位置(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)

ところが、「コマ劇」の裏通り(通称:花道通り、元はカニ川の流路)を越えて西大久保1丁目(現:歌舞伎町2丁目)に入ると、急に旅館の数が増え、しかも大型化する。広告が確認できる旅館が14軒もある。例によって地域を分けてみよう

① 区役所通り西側、職安通り南側(旧:西大久保1丁目の西部、現:歌舞伎町二丁目)
② 区役所通り東側、職安通り南側(旧:西大久保1丁目の東部、現:歌舞伎町二丁目)
③ 職安通り北側、大久保通り南側(旧:西大久保二丁目、現:大久保一丁目)

①の旧:西大久保1丁目の西部には、広告が確認できる旅館がなんと9軒もある。
「お宿藤や」は「新宿区役所通り」とあるように、区役所通り沿いにあった。現在このあたりのランドマークになっている「風林会館」があるブロックで、そのやや北、坂の麓にあった。このブロックには1962年頃現況図で5軒もの旅館が群集していた。

「小町園」は「新宿歌舞伎町高台」とあるが、「コマ劇」の裏手、花道通りを渡って坂を上って2ブロック目にあった。たしかに高台だ。1962年頃現況図では「割烹」になっている。このブロックにも旅館が4軒。

「山手荘」は「歌舞伎町桜通高台」とあり、「小町園」の東隣のブロックにあった。「桜通」は、区役所通りの一つ西側の南北道のこと。このブロックにも旅館が4軒。

西大久保(1963) (7).jpg
【地図10】「藤や」「小町園」「山手荘」の位置(1962年頃現況の住宅地図)

「双松」は「コマ劇場ウラ高台」とあるが、花道通りから数えて5つ目、「山手荘」の2つ上の桜通り西側のブロックにあった。「コマ劇ウラ」だと思ったら、かなり坂上。ここも5軒が密集。

「杵屋旅館」は「新宿歌舞伎町より二分、改正鬼王神社通り 社会保険所隣」とある。「鬼王神社」は区役所通りが職安通りにぶつかる東側にある「稲荷鬼王神社」のこと。「改正」は道路計画に基づいて拡幅・新設される道路のことで、区役所通りは、戦後の拡幅・新設なのでこう呼ばれたのだろう。つまり「改正鬼王神社通り」は区役所通りのこと。しかし、「杵屋旅館」は区役所通り沿いではない。区役所通りが職安通りにぶつかるT字路を西に行き2ブロック目に「社会保険所」(新宿社会保険出張所)があり、「杵屋旅館」はその西3軒隣だった。この広告の案内はかなりのミスリードで、たぶんたどり着けないだろう。また「歌舞伎町二分」というのも、カップルが最短ルートで坂道を駆け上らないと無理だと思う。

「新田中」は、「区役所通り坂上煙草屋横 新宿劇場通大久保病院右入」とある。東大久保一丁目界隈は、ほぼ東西、南北の道路が直交しているが、その中を明治通りから職安通りまで南東から北西に斜めに通っている道がある。現在は区役所通りで分断されているが、こちらの方が(おそらく江戸時代からある)古い道。両者が斜め交差する南側に「宮本タバコ店」があった。そこを左に「斜め道」に入って進むと、職安通りに出る直前の北側に「新田中」があった。跡地は「新田中ビル」になっている。
西大久保(1963) (5).jpg
【地図11】「双松」「杵屋旅館」「新田中」の位置(1962年頃現況の住宅地図)

「鶴松」は、「アイレスカメラ裏通り コマ劇場裏 高台」とある。「アイレスカメラ」の工場は区役所通りの坂を上った西側にあった。その「裏通り」は例の「斜め道」のことと思われるが、1962年頃現況図には見えない

「多ま木」は「新宿大久保病院裏」とあるとおり、大久保病院の西側、西武新宿線の線路との間のブロックに「たまき」がある。このブロックにも5軒の旅館が集まっている。「たまき」は比較的小規模な旅館だが、1951年現況の「火災保険特殊地図」にすでに見える。

「若菊」は、「コマ劇 裏 大久保病院前東に入る北側」とあって地図が付いている。それによると大久保病院の東側、花道通りから2ブロック目になるはずだが、1962年頃現況図には見えない。
歌舞伎町2丁目 (4) - コピー.jpg
【地図12】「たまき」の位置(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)

新宿区役所通り(お宿藤や・19550213).jpg 新宿歌舞伎町(小町園・19540521).jpg 新宿歌舞伎町(山手荘・19550326).jpg  
 お宿藤や       小町園       山手荘
 (19550213)     (19540521)    (19550326)
新宿歌舞伎町(双松・19571204).jpg 新宿西大久保(杵屋旅館・19551228).jpg   新宿区役所通り(新田中・19541024).jpg 
 双松         杵屋旅館       新田中
(19571204)      (19551228)    (19541024)
新宿歌舞伎町(鶴松・19571229).jpg   新宿西大久保(多ま木・19530918k).jpg  
 鶴松          多ま木  
 (19571229)     (19530918k) 
新宿歌舞伎町(若菊・19560902).jpg  
   若菊(19560902)      
    
②の旧:西大久保1丁目の東部には、広告が確認できる旅館が3軒ある。   
「富士見荘」はこの時代には珍しい「完全冷房」を売りにしていた宿で、広告には「新宿駅ヨリ3分・花園神社裏」もしくは「区役所裏通り」とある。花園神社を目印に行くなら、神社と旧「青線」花園歓楽街(現:ゴールデン街・花園街)との間の南北道を北に進み、新田裏で花道通りと交差して、坂を上ったすぐの左側にあった。区役所通りからだと1本東側の道になる(これが「区役所裏通り」?」)。跡地には「ライオンズプラザ新宿」という大きなマンションが建っている。

「富士見荘」の「区役所裏通り」を挟んで向かいには「一楽荘」があった。広告に「新宿区役所通りの四角右折・医師会館隣」とあるように、北隣には「新宿区医師会館・准看護婦学校」があった。福島県の飯坂温泉「一楽荘」の東京支店ということだが、規模は小さい。

「東京ホテル」は、新宿エリアで最も頻繁に広告を出していた宿で、広告のバリエーションも多い。案内には「新宿駅東口から五分 西大久保高台」とあり、地図が添えられている。地図の「花園通り」は、先ほども触れた花園神社と旧「青線」花園歓楽街との間の南北道のこと。花道通りとの交差点から坂を上り、最初のT字路を左折すればよい。あるいは、区役所通りの坂を上がって1つ目の角を左折して裏通りに出て北に進んだ所。ホテルを称しているだけあって「全室洋間」で、設備は「スチーム(暖房)ラジオ 洗面所 電話」つきだった。
西大久保(1963) (4).jpg
【地図13】「富士見荘」「一楽荘」「東京ホテル」の位置(1962年頃現況の住宅地図)

新宿区役所通り(東京ホテル・19540611k).jpg 新宿区役所通り(東京ホテル・19540730k).jpg 新宿区役所通り(東京ホテル・19541210k).jpg 新宿区役所通り(東京ホテル・19550213).jpg
「東京ホテル」の広告バージョン
(19540611k) (19540730k) 
(19541210k) (19550213)
新宿区役所通り(富士見荘・19550819k).jpg 新宿区役所通り(一楽荘・19571103).jpg
  富士見荘                  一楽荘
  (19550819k)               (19571103) 

③の職安通りの北側、西大久保二丁目には、広告が確認できる旅館が2軒ある。
「日本苑」は「新宿コマ劇ウラ3分」と案内している。たしかにコマ劇裏の南北道の坂を上りきり、職安通りを越えてさらに進めば着くが、3分では無理。別の広告で「自家用車にて御送迎奉仕」としていることからも、立地に恵まれていないことがわかる。

「ときわ」は明治通りと職安通りの交差点(現:新宿7丁目交差点)のさらに北、明治通りの東側にあった。広告は「トロリーバス西大久保一丁目停留所際」と、明治通りを走るトロリーバスで案内しているが、それしか交通の便はなかった(現在は東京メトロ副都心線東新宿駅のほぼ真上)。1962年頃現況の地図を見ると、かなり広大な敷地に複数の建物が立ち並んでいる。広告によれば、舞台付きの大広間や結婚式場もある新宿エリアでは珍しい「高級旅館」だったようだ。その割に「泊800円、休400円」安い。現在はホテル「相鉄フレッサイン東新宿駅前」の敷地になっている。 

新宿西大久保(日本苑・19570302).jpg 新宿西大久保(ときわ・19550830).jpg
  日本苑                   ときわ
  (19570302)                (19550830)

西大久保(1963) (2) - コピー.jpg
【地図14】「日本苑」の位置(1962年頃現況の住宅地図)。
図の中央を東西に走るのが「職安通り」

西大久保(1963) (3) - コピー.jpg
【地図15】「ときわ」の位置(1962年頃現況の住宅地図)。
かなり大きな旅館であることがわかる。

1962年頃現況の地図に見える旅館を数えてみよう。まず①の西大久保一丁目の区役所通り西側に54軒、②の西大久保一丁目の区役所通り東側に16軒、そして③の西大久保二丁目に3軒、合計73軒となる。①は②の3倍以上で、圧倒的な旅館集中地域であることがわかった。東口方面全体の37軒に比べても、かなり多い。

すでに1960年代初頭に、歌舞伎町の北側、大久保に至る坂の麓から途中、そして坂上にかけて、巨大な旅館街が形成されていたことがわかった。

次の問題はそれがいつ頃、形成されたかということになる。この地域、戦前は比較的大きな区画に住宅が散在する閑静な高級住宅地だった。枢密院議長から内閣総理大臣(35代)になった平沼麒一郎の邸宅などがあったが、1945年5月25日の山の手大空襲でほとんど焼け野原になってしまう。

1951年頃現況の火災保険図では、坂下から坂の途中かけて「小町園」「清水」「たまき」、それといかにも進駐軍ご用達風の「GRAND HOTEL」(後に「サンテ風呂」)「京浜館ホテル」「山水楼ホテル」など10軒ほどのホテル・旅館が見えるが、坂の途中から坂上にかけてはまだ空地(焼け跡)が目立ち、大久保病院の北東に「旅館新東京」があるだけで旅館街は形成されていない。
歌舞伎町2丁目 (1) - コピー.jpg
【地図16】1951年頃の西大久保一丁目(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)

広告の出方からしても、この地域に多数の旅館が現れるのは1950年代半ば(1954~56年頃)と思われる。

つまり、歌舞伎町の北側の旅館群の形成時期は、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」群の形成とほぼ同じころ、細かく言えば数年遅れるくらいということになる。したがって、この地域の旅館群の形成を千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」群の衰退や1964年の東京オリンピックと関連付ける俗説はまったく成り立つ余地はない。歌舞伎町の北側の旅館群の形成は、この地域独自の問題として考える必要がある。

3 歌舞伎町二丁目の旅館・「ラブホテル」街の形成過程
(1)1950~1960年代の旅館群の立地理由
1950年代半ばに成立したと推測される旅館街が歌舞伎町のすぐ裏手(北側)にある以上、その立地はやはり歌舞伎町と関連して考えるべきだ。そこで、歌舞伎町の歴史を簡単に振り返ってみよう。

歌舞伎町(現:歌舞伎町一丁目)は、戦前まで淀橋区角筈一丁目の一部だった。1879年のコレラ流行に対応して避病院(伝染病専門病院。現:都立大久保病院)が東大久保に建てられたように、いたって寂しい場所だった。その後、1920年に東京府立第五高等女学校(現:中野区富士見町に移転した都立富士高校)が建てられ、周囲は閑静な住宅街になった。ところが、1945年5月25日の東京山の手大空襲で、角筈一丁目一帯も焼け野原になってしまう。

戦後、焼け野原になった地に大きな夢を描いたのが、軍に佃煮などを納入して財を築いた鈴木喜兵衛だった。彼は、終戦後すぐに旧住民に働きかけて借地権利を委ねる「復興協力会」を設立し、さらに大地主の峯島茂兵衛の協力も取り付け、大規模な区画整理をした上で劇場・映画館などを集中させる大興行街の計画を作り上げた。その目玉が歌舞伎座の誘致だった(都市計画を立案したのは建築家の石川栄耀、1893~1955年)。

1948年4月1日、角筈一丁目の靖国通り以北の地域は、町名を歌舞伎町とし(東大久保一丁目、二丁目の一部も吸収)、新たな人工的に作られた町が発足した。

しかし、結果的に、歌舞伎座の誘致は失敗し、1950年に開催した「東京文化産業博覧会」も大赤字を出し、鈴木喜兵衛の計画は頓挫してしまう。

ただ、博覧会の建物を転用して映画館街が作られ、歌舞伎座誘致の障害になった大規模建築の規制が1954年に解除されると、ようやく興行街の建設が軌道に乗り始める(そこには台湾華僑の出資協力があった)。1956年、歌舞伎座予定地(第五高等女学校跡地)に東宝が同心円状に配された三重の廻り舞台(独楽のような)を備えた大規模劇場「コマ劇場」をオープンして興行街の中核になる(註9)。
そして、戦前からの新宿の繁華街「三越裏」から客を奪い、1960年代に入ると、歌舞伎町は新宿第一の繁華街としての地位を確立し、さらには高度経済成長期の東京における新興の盛り場として台頭していく。

こうした歌舞伎町の成立史を顧みると、旅館街が形成されたと推定される1950年代中頃は、「コマ劇」開場に象徴される「盛り場」歌舞伎町の勃興期であったことがわかる。

さて、鈴木喜兵衛は、歌舞伎町の計画を打ち出すに際して「道義的繁華街」を提唱していた。つまり「盛り場」には付き物の性的な要素を排除した純粋な興行街の建設を目指した。性的なものは「新宿遊廓」の伝統を引く新宿二丁目の「赤線」に委ねればいいと考えていたのだろう。実際、なんとか出来上がった歌舞伎町中心部には「性なる場」が欠落していた。東部には歌舞伎小路、新宿センター、新天地、歌舞伎新町などの「青線」があったが、それはあくまで非合法な存在だった(註7)。

「性なる場」とは言えないまでも、遊楽の場も歌舞伎町の周辺には乏しかった。1950年代の遊楽の代表は料亭での芸者遊びだが、新宿の花街は四谷荒木町、四谷大木戸(現:四谷四丁目)、角筈十二社(現:西新宿四丁目)の3か所で、どこも歌舞伎町からは遠い。

歌舞伎町が「盛り場」として人を集めるにつれて、遊楽の場や「性なる場」の需要が高まっていったのではなかろうか。それに応じたのが、歌舞伎町の裏手の坂下の地域だったと思われる。

この地域には、割烹(料理屋)なのか旅館なのか微妙なものがいくつかある。1951年の地図には割烹とありながら1954年には旅館として広告を出し、1962年の地図にはまた割烹とある「小町園」や、広告はないが、地図上で割烹→旅館→割烹と変転する「恒松」などである。これらは割烹とも旅館ともいえる場、つまり、それなりの料理が提供され、女性も呼べて、宿泊もできる「割烹旅館」だったと思われる(ちなみに、この地域の旅館にやたらと「松」が付く屋号が多いのはなぜなのだろう?)。

歌舞伎町裏手の旅館群の始まりは、こうした食欲と性欲の両方を満たす「割烹旅館」だったのではないか。割烹旅館は基本的に食事を提供しない「連れ込み旅館」とは性格を異にする。そこで遊ぶ人もそれなりに社会的地位がある階層だったろう。

その後、歌舞伎町の「盛り場」化の進展に伴い客層は広がっていく。たとえば、映画を楽しんだ後のアベックはどこに行くのだろう。そうした需要に応じる場が必要とされ、性欲の充足に特化した「連れ込み旅館」が坂の途中、さらに坂上に展開していったのではないだろうか。

ともかく資料がなく、確実なことはわからないが、状況を踏まえながら推測してみたが、当たらずとも言え遠からずだろう。

(2)東への発展と「ラブホテル」街化
次の問題は、現代につながる「ラブホテル」群の形成過程になる。1950年代中頃に形成された旅館群が、そのまま「ラブホテル」群に発展したのなら話は簡単なのだが・・・。住宅地図で年代を追ってたどってみよう。 

調査したのは、1962年、1966年、1969年、1977年、2009年の現況図である。それぞれ地図の西大久保一丁目(現:歌舞伎町二丁目)エリアにおける旅館・ホテルの数を調査した。その結果は下記のようになった。

70→72→83→73→75 

45年間にわたって70~80軒で推移していて、全体数としては大きな変化はない。つまり、この地域は現代に至るまで60年以上も旅館・ホテル街としての機能を維持していることになる、これは「連れ込み旅館」群が壊滅する千駄ヶ谷や、「ラブホテル」が一極集中化する渋谷と比べて、かなり特徴的だ。

しかし、1962年現況図に見える旅館70軒中、その後も一貫して旅館・ホテルとして営業を続け2009年に至ったのは20軒に過ぎない(29%)。かなりの出入り(廃業・開業)があったことがわかる。

西大久保(1963) (1) - コピー.jpg
【地図17】1962年頃の西大久保1丁目(1962年頃現況の住宅地図)。

次にエリアを分けて、細かく検討してみよう。このエリアを南北に貫く区役所通りを軸に西部と東部に分ける。さらに便宜的にそれぞれを坂下・坂の途中・坂上に分けてみた。

     62年 66年 69年 77年 09年     62年 66年 69年 77年 09年
  西部 54→52→53→32→43  東部 16→20→31→41→32
  坂下 12→12→ 9→ 5→ 6  坂下  7→ 7→ 8→ 7→ 9
  坂中 23→21→26→15→22  坂中  7→10→16→25→18
  坂上 19→19→18→12→15  坂上  2→ 3→ 7→ 9→ 5

西大久保一丁目、区役所通り西側の旅館群は1960年代中頃までは大きな変化はなかった。1966年頃現況の地図では、ほとんど旅館が健在で、姿を消したのは54軒中4軒に過ぎない。新たに登場した旅館もあり、総数は52軒となり、保たれている。

この点は、区役所通り東側の旅館群も基本的には同じである。ただ、数が16軒から20軒にやや増えている。増えたのは区役所通り東側の東部、具体的に言えば、明治通りの1つ西側の南北道(2番地と6番地の境界)の坂の途中に3軒が新規に開業し既存の3軒と合わせて6軒が道の両側に連なる形になる。

1969年頃現況図では、西側にも少し変化がみられる。「新田中」など既存の5軒が廃業するが、「小町園」のあるブロック(現:歌舞伎町二丁目11番地)北側の広い駐車場だったところに「ホテル和光」(註10)ができるなど7軒が開業するので、数は51軒から53軒と微増する。注目すべきは新規開業のほとんど(7軒中6軒)が「ホテル」を名乗っていることだ。既存の旅館の中にも、松喜旅館→ホテル松喜のように「旅館」「旅荘」から「ホテル」に名を変えるものもいくつか出てきている。ただ、「ホテル」化の兆しは見えるものの、全体から見れば、旅館・旅荘を名乗るものが4分の3以上(53軒中40軒)を占める。

これに対して、区役所通り東側はかなり大きな変化が見られる。まず、数が20軒から31軒へと大きく増加する(55%増)。まだ西側の53軒に比べれば6割ほどだが。ここでも新規開業の15軒のうち13軒が「ホテル」を名乗っている。増えた場所は坂下2軒、坂の途中9軒、坂上4軒で、坂の途中に集中している。

具体的に見てみよう。区役所通りに面した坂の途中のブロック(現:歌舞伎町2丁目11番地)には、これまで小規模な「みなと旅館」1軒しかなかったが、巨大な「ホテルLee」をはじめ、「ホテルニュー若草」「ホテル水月」「ホテル青春」「ホテル東美」の5軒のホテルが出現する。「ホテルLee」は、現在「Lee3ビル」という商業ビルになっているが、竣工は1968年とのことで、変化の始まりは1968~69年であると抑えられる。

もう1つの増加地域は、坂の途中から坂上にかけて、例の「斜め道」の両側のブロック(現:歌舞伎町2丁目6、7番地)である。「斜め道」の南側に「旅荘あおい」「ホテル栄泉」、北側に「東峰モーテル」「ホテル楽苑」の4軒が現れる。さらに「斜め道」の坂下(1、2番地)にも「ホテル清光苑」「モテル迎賓荘」の2軒ができ、「斜め道」の両側がホテル街化しつつある様子が見られる。

ここで、注目しておきたいのは「モーテル」「モテル」という名称で、地図で見る限り、この地域では1969年現況図で初めて出現する。確認できるのは6軒で、すべて区役所通り東側、さらに言えば、1966年頃現況の地図にすでに旅館が連なっていた「南北道」と「斜め道」の周辺である。
斜め道・南北道 (4).jpg
【地図18】1969年頃の「斜め道」と「南北道」付近(1969年頃現況の住宅地図)

「モーテル」は「モータリスト・ホテル」の略で、ガレージと部屋がつながっていて車ごと泊まれる、ワンルーム&ワンガレージ式の宿泊施設のことだが、日本ではもっぱら車に乗ったアベックがそのまま繰り込んでSexできる場所という意味合いが強い。連棟式(ガレージ付きの部屋が並ぶ)の「モーテル」としては、1968年に開業した横浜の「モテル京浜」が最初とのことなので、それから程なくして「モーテル」を名乗る宿が新宿二も出現したことになる(註11)。

そうした「モーテル」の性格を考えれば、なぜ、明治通り寄りの地域にだけ「モーテル」が現れたか容易に想像がつく。早い話、明治通りから直接入れるルートだからだ。

新宿方向から明治通りを北進し、新田裏の交差点(現:新宿6丁目交差点)を過ぎてすぐに、「斜め道」の入口がある。入って1つ目のX字の交差点を右(北)に入ればホテルが連なる「南北道」だ。
新田裏の交差点を左折して花道通りに入り、「風林会館」前の交差点を右折して区役所通りに入るルートより直角三角形の2辺より斜辺が短い理屈になるし、交通量的にも楽で早い。明治通りから「斜め道」のルートは、車でホテル街に向かうにはきわめて便利が良い(だから、「はじめに」の材木屋の若旦那もいつもこのルートを使っていた)。

つまり、モータリゼーションの発達が、アベック(カップル)の行動様式を変えつつあったということだ。新宿駅から歌舞伎町に来て映画を見たアベックが、徒歩で旅館街を目指していた時代から、明治通りをドライブしてきたカップルが車でホテル街を目指すような形が増えてきたということだと思う。

どうも、区役所通りの西側と東側では、「ラブホテル」街化のプロセスが違ったようだ。東側の変化が早く、すでに1960年代末にモータリゼーションの波に対応する動きが出てきていた。それに対して西側の変化は遅かった。

次に1970年代を見てみよう。ちなみに1978年7月1日、住居表示の改定にともない、西大久保一丁目は歌舞伎町二丁目になった。
歌舞伎町2丁目(1978) - コピー.jpg
【地図19】1977年頃の西大久保一丁目=歌舞伎町二丁目(1977年頃現況の住宅地図)

1977年頃現況図では旅館の軒数に大きな変化がみられる。西側は8年間に53軒から32軒と急減する(40%減)。これは旧タイプの旅館がオフィスビル化したためと思われる。たとえば、坂下の23番地には60年代5軒の旅館が密集していたが、まず「旅館志津河」があった場所に1968年に「風林会館」が建ち、ほぼ同時期に「旅館三八荘」がビル化、その後1972年頃までに「旅館藤や」と「旅館なかせ」もビル化して廃業し、残るは「Hかつむら」1軒だけになってしまった。坂の途中でも「千代の家」「ふじやま」「すみ吉」「八汐」「紫苑」「宝仙」、坂上では「伊賀」「一楽」「松の枝」「一松」「こいし」「うえき」など、1960年代初頭から営業を続けてきた、屋号からして和風と思われる旅館が廃業・ビル化している。残った32軒中20軒が「ホテル」を名乗っていることからも、旧タイプ(和風)の旅館の廃業と「ホテル化」(洋風)が急速に進行したことがわかる。

これに対して東側は31軒から41軒へと大きく増加(35%増)、初めて軒数で西側を上回った。増加が目立つのは例の「斜め道」北側」・「南北道」西側の6番地で5軒から8軒に増加する。また6番地の北側の2本目の「南北道」(6番地と14番地の境界)の東側の5番地も1軒から4軒へと急増する。この結果、2本目の南北道の東側にずらりと大型の「ラブホテル」が並ぶ景観が出現した。「はじめに」の会話がなされているのが、まさにこの道だった。
歌舞伎町2丁目(1978) - コピー (2) - コピー.jpg
【地図20】1977年頃の「斜め道」と2本の「南北道」付近(1977年頃現況の住宅地図)

こうして、歌舞伎町2丁目の「ラブホテル」街化は1970年代に、区役所通り東側を中心に進行し、1980年代には都内有数の「ラブホテル」街となった。

その後、西側のエリアでもラブホテル化が進行し、2009年には東側32軒に対し、西側43軒と再逆転する。その経緯については本稿の目的から外れるので省略する。

(3)旧「青線」街東と「連れ込み旅館」
最後に、「はじめに」で触れた「青線」街と西大久保一丁目(現:歌舞伎町二丁目)の旅館街の関係について記しておこう。花園神社裏の「青線」花園三光町界隈の唯一の旅館は、「花園小町」(現:花園一、三、五番街)の北側にあった「花園旅館」だ。すでに1951年頃現況の火災保険地図に見える。この旅館は「青線」の隠し部屋が満員であふれた場合の、あるいは隠し部屋での「ショート」のSexではなく「泊り」でしたい客の行き場として機能していたと思われる。

ところが、1958年4月の売春防止法完全施行で、「青線」が(実際はもとかく)普通の飲み屋街になり、隠し部屋も封鎖され店内でのSexができなくなると、飲み屋で知り合った即席カップルのSexの場としての旅館の需要が高まってくる。それに応じたのが「花園旅館」や1960年代後半にその北側にできた「ホテル石川」であり、少し奥(北)の西大久保一丁目東部、坂下の旅館街だったと思われる。両者は300mほどの至近距離だった。

1980~90年代に新宿花園五番街にあった女装バー「ジュネ」(1994年に区役所通り沿いに移転)を拠点に活動していた久保島静香姐さんという方がいた(私の大先輩)。晩年「寝た男の数が女装者の勲章よ」と言っていたように性行動が活発な女装者だった。その静香姐さんの「日記(抄)」に。男性と「歌舞伎町のラブホテル優雅苑」、「行きつけの優雅苑」という記述が何回か見える。時期は1986~87年頃のこと(註12)。

「優雅苑」は1969年頃現況の住宅地図に初めて見える。場所は例の「斜め道」の北側、明治通りの1本西側の南北道の西側(歌舞伎町2丁6番地)。1969年の地図では継ぎ目に当たっていて不鮮明だが、1977年現況図では「モテル迎賓荘」と同じ敷地内にある別館のようだ(現在は「GRAND CHARIOT」という大きなラブホテルの敷地の一部)。
この「モテル迎賓荘」は、「羅錦卿」という名前からして華僑系と思われる人の邸宅をそのまま「モテル」にしたらしい(建物の形が変わっていない)。どんな雰囲気だったのか興味があるが、静香姐さんにもう話を聞けないのが残念だ。
優雅園(1970).jpg 優雅園(1978).jpg
【地図21】1969年頃の「優雅園」付近(1969年頃現況の住宅地図)
【地図22】1977年頃の「優雅園」付近(1977年頃現況の住宅地図)

おわりに
第1章では、新宿の中心街に「連れ込み旅館」がきわめて少ないこと、それは「赤線」と「連れ込み旅館」の住み分けが、少なくとも1950年代にはなされていたことを確認できた。第2章では歌舞伎町裏の旅館群の形成は1950年代半ばであり、それは歌舞伎町の「盛り場」化と連動するもので、新宿独自の理由によるものであり、千駄ヶ谷などの近隣の「連れ込み旅館」街の盛衰や東京オリンピック(1964年)と関連させる俗説は成り立たないこと、また旅館群の「ラブホテル」化は1970年代に進行したことを論証した。

私が愛する町・新宿の「謎」を解くことは、長年の念願だったが、20数年ぶりに、ようやく「宿題」を済ますことができた。


(註1)三橋順子『新宿「性なる街」の歴史地理』(朝日選書。2018年)
(註2)「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)は公開していないが、これを使って書いた論考として、次の3本がある。
 ①三橋順子「1950年代東京の『連れ込み旅館』について ―『城南の箱根』ってどこ?―」(2020年)
 https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-08
 ② 三橋順子「東京・千駄ヶ谷の『連れ込み旅館』街について ―『鳩の森騒動』と旅館街の終焉―」(2020年)
 https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-13 
 ③ 三橋順子「坂の途中・渋谷の「性なる場」の変遷 ―「連れ込み旅館」から「ラブホテル街」の形成へ―」(2020年)
 https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-20
(註3)三橋(註2)の①。
(註4)金益見『性愛空間の文化史』(ミネルヴァ書房、2012年)24頁
(註5)三橋(註1)書、コラム7「『旭町ドヤ街』の今昔」
(註6)ここに入っていない中央通り南側、甲州街道北側、JR線東側、明治通り西側のブロックと、新宿高校北側、新宿通り南側、明治通り東側、御苑大通り(延長)西側のブロック、そして新宿四丁目の3つは南口方面と考えた。
(註7)三橋(註1)書、第5章「新宿の「青」と「赤」―戦後における『性なる場』の再編―」
(註8)神崎清「新宿の夜景図―売春危険地帯を行く―」(『座談』1949年9月)
(註9)木村勝美『新宿歌舞伎町物語』潮出版社、1986年)、稲葉佳子・青池憲司『台湾人の歌舞伎町』(紀伊国屋書店、2017年)
(註10)1998年2月21日、「ホテル和光」でニューハーフのセックスワーカーが客の海上自衛官を刺殺するという事件が起こった。女性を買ったつもりだったのに相手がニューハーフであることを知った男性客が逆上し暴行に及んだことが発端で、偶発的・防衛的な殺人で、かなり同情すべき余地があった。別の取材を通じて知り合った『サンデー毎日』の女性記者が「現地を見たい」というのでボディーガードを兼ねて道案内したことがある。
(註11)鈴木由加里『ラブホテルの力 ―現代日本のセクシュアリティ―』(廣済堂ライブラリー、2002年)112~117頁。
(註12)矢島正見編著『おかま道を行く : 谷津瀬由美研究』(戦後日本<トランスジェンダー>社会史研究会、2000年)。谷津瀬由美は久保島静香姐さんの変名。

【備考】広告画像に付された8桁の数字は、広告が掲載された新聞の年月日を示す。
末尾に「k」があるのは『日本観光新聞』、他は『内外タイムス』。

【住宅地図】
「火災保険特殊地図 1951」(『(地図物語)あの日の新宿』武揚堂、2008年)
「東京都全住宅案内地図帳 新宿区東部 1962」(住宅協会)
「東京都全住宅案内地図帳 新宿区西部 1962」(住宅協会)
「(東京都大阪府全住宅精密図帳)新宿区 1963年度版」(住宅協会地図部)
「(東京都大阪府全住宅案内地図帳)新宿区 1967年度版」(公共施設地図株式会社)
「(全国統一地形図式航空地図全住宅案内地図帳)新宿区 1970年度版」(公共施設地図航空株式会社)
「(ゼンリンの住宅地図)新宿区 1978」(日本住宅地図出版)
「(ゼンリン住宅地図. 東京都)新宿区 2010」(ゼンリン)

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【論考】坂の途中・渋谷の「性なる場」の変遷 ―「連れ込み旅館」から「ラブホテル街」の形成へ― [論文・講演アーカイブ]

         坂の途中・渋谷の「性なる場」の変遷

         ―「連れ込み旅館」から「ラブホテル街」の形成へ―

                  三橋 順子

はじめに
渋谷という街は、新宿に比べると「性なる場」が少ない。新宿は、内藤新宿の「飯盛り女」に始まり、大正末期にできた「新宿遊廓」、戦後の黙認売春地区「赤線・新宿二丁目」、非合法売春地区「青線・花園三光町」を経て、現代の歌舞伎町の性風俗街まで連綿と「性なる場」がある。それに対して、渋谷には「遊廓」も「赤線」も「青線」もなかった。あるのは円山町の花街だけ。もちろん、円山町の奥には街娼はいた(それが表面化したのが1997年の「東電女性社員殺害事件」)し、今も円山の「ラブホテル」街を仕事場にするデリバリーの風俗嬢もいるが、それらにしても新宿の方がずっとお盛んだ。つまり、渋谷はどうにも「性なる場」が希薄なのだ。そんな中で、唯一、渋谷が新宿に拮抗できる「性なる場」が1950年代の「連れ込み旅館」だ。

 私が作った「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」(註1)によると、渋谷エリアに32軒の「連れ込み旅館」が確認できる。これは千駄ヶ谷の39軒に次ぎ東京第2位、新宿の31軒をわずかだが凌いでいる。渋谷の「性なる場」と言えば「連れ込み旅館」とまでは言えないが、けっこう比重は高いと思う。

ところで、私は学生・院生時代の9年間を渋谷の街で過ごした。1970年代後半から1980年代前半のことだ。

学部生の頃、友人とときどき行ったコーヒーのおいしい喫茶店が桜丘の坂の途中にあった。たしか「論」という店だった(その後、移転し2013年閉店)。ある日、待ち合わせより早く着いたので、坂の先に行ってみた。上りきるあたりにラブホテルがあった。

院生の頃、先輩に連れていかれた雀荘が「中央街」の奥の坂の途中にあった。「雀荘(すずめそう)」というふざけた名前の雀荘だ。階下(2階)は、ストリップ劇場(渋谷OS劇場)だった。その坂の先にもラブホテルがあった。

こうした体験から、私は、少なくとも渋谷では、ラブホテルは坂の途中、もしくは坂の上の高台にあるものだと思っていた。

渋谷・ハチ公前で待ち合せたカップルは、ともかく坂を上っていけば、ラブホテルに入れるという感じだった。早い話、道玄坂を上っていけば円山町の「ラブホテル街」に行きつく。東急本店通りも同じで、左側でも右側でも坂を上れば、そこに「ラブホテル」があった。

いつ、そうした街の形ができたのだろう? 渋谷の「性なる場」の歴史地理を解明してみたい。

1 渋谷の地形と「連れ込み旅館」の分布
よく知られているように、渋谷はすり鉢のような地形で、その低いところにJR渋谷駅がある。もう少し正確に言えば、渋谷駅は暗渠化した渋谷川の上にある(暗渠は渋谷駅東口を通って渋谷橋で地上に出る)。渋谷では、ほぼ渋谷川に沿って走る明治通りが低地で、その両側が坂、さらに高台になっている。

数値でいえば、渋谷川の低地は駅付近で標高15m、周囲の台地は30~35m(道玄坂上の水準点が35.4m)、比高は15~20mで、その間が斜面、坂になっている。

青山の台地を走ってきた大山街道(江戸時代の大山参詣の道)は、宮益坂を急勾配で下り、渋谷川の低地で明治通りと直交すると、今度はすぐに道玄坂を上っていく。まるでジェットコースターのようだ(宮増坂下交差点の東は、通称、青山通り)。

渋谷の地理は、ほぼ南北に走る明治通りを縦軸に、東西に走る大山街道を横軸に(原点は宮益坂下交差点)考えるとわかりやすい。

第1象限は明治通り東側・宮益坂北側の旧・美竹町、宮下町、上通二丁目(現:渋谷区渋谷一丁目)、第2象限は明治通り西側・道玄坂北側の旧・宇田川町、大向通、円山町、上通四丁目、松濤町、北谷町(現:宇田川町、道玄坂二丁目、円山町、松濤一丁目、神南一丁目)。第3象限は明治通り西側・道玄坂南側の旧・上通三丁目、大和田町、桜ガ丘町、南平台町(現:道玄坂一丁目、桜丘町、南平台町)、第4象限が明治通り東側・宮益坂南側の旧・金王町、中通、並木町(現:渋谷二丁目、三丁目)となる。

すでに述べたように、「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」には、渋谷エリアに31軒の「連れ込み旅館」が確認できる。これはあくまで当時の新聞(『内外タイムス』『日本観光新聞』)に広告が掲載された旅館のみで、実際にはもっと多かっただろう。

先の象限に従って分類すると、次のようになる。
 第1象限 1軒
 第2象限 18軒
 第3象限 7軒
 第4象限 1軒
 その他  5軒

第2象限(明治通り西側、道玄坂北側)が圧倒的に多く、全31軒の6割近くを占める。次いで第3象限(明治通り西側、道玄坂南側)が7軒、第1と第4象限(明治通りの東側)はそれぞれ1軒と少ない。

ちなみに、その他は、神泉町に1軒、神山町に1軒、旧・目黒区上目黒八丁目(現:目黒区青葉台三丁目、四丁目)に3軒。

以下、象限(地域)ごとに、「連れ込み旅館」から「ラブホテル」へ、その変遷をたどってみよう。ただし、行論の都合上、少ない地域から多い地域へ順序を変えて見ることにする(4→1→3→2の順)。

2 第4象限(明治通り東側、宮益坂南側)
この地域で唯一、広告がある「大洋」は、渋谷駅の東口「渋谷警察署裏 高台」にあった。住所は金王町(現・渋谷三丁目)になる。「渋谷駅二分」は急げばそんな感じだ。別の記事には「金王八幡裏」とあるが、旅館の前の道そのまま進めば、渋谷の鎮守・金王八幡神社に至る。

広告では「見晴しのよい」「高台」が強調されている。このあたりは学生時代の通学路でよく知っているが、たしかに緩い上り坂の途中だが、「高台」とまでは言えないように思う。

この「大洋」は、別の広告で、浜松町と人形町の「一二三旅館」と同じ経営で、その「別館」という位置づけだったことがわかる。広告によれば1954年の新築開業で、また、別の記事(『内外タイムス』1954年5月11号)の挿絵を信じれば三階建の和風建築だった。
渋谷(大洋・19540404).jpg 渋谷(大洋・一二三旅館・19540520).jpg  
大洋(19540404) 大洋(19540520)   
渋谷(大洋・19540501) (2).jpg
大洋(19540511)

1969年頃現況の住宅地図では、「大洋」の敷地は「渋谷ロイヤルマンション」になっている。存続期間は長くなかったようだ。現在は「渋谷ロイヤルビル」(オフィスビル、1974年竣工)が建っている。

この地域には、旅館やホテルがほとんどない。背後に青山学院、実践女子大学、國學院大学などがある文教地区(旧:緑岡町、常盤松町・若木町。現:渋谷四丁目、東一丁目、四丁目)を控え、早くから高級住宅地化したためだろうか。

【地図1】金王町付近(1962年頃現況の住宅地図)
地図・金王町.jpg
(クリックすると大きくなります)

3 第1象限(明治通り東側、宮益坂北側) 
この地域で唯一、広告がある「たきや」は、宮益坂の途中、渋谷「郵便局上隣」の路地にあった。住所は美竹町。広告の地図に見える「東映」は、「渋谷東映」映画館のことで、現在は「ビックカメラ」が入っている「渋谷TOEI プラザ」ビルになっている(7、9階は「渋谷TOEI」映画館)。

1962年頃現況の住宅地図を見ると、隣接のブロックに「旅荘美竹」「宮益ホテル」「旅館梢月」「旅館清水」があり、坂の途中の小さな旅館街をなしていた。さらに、坂下の明治通りの近くには「東横ホテル」(1967年廃業)と「旅荘フタバ」があった。いずれも同種の「連れ込み旅館」だろう。
渋谷(たきや・19540402k).jpg
たきや(19540402k)

この坂の途中の小さな旅館のその後を見てみよう(註2)。「たきや」は広告を出した翌年の1964年に廃業し「旅館東荘」になったが、1976年には駐車場になり、じきに「渋谷キャステール」というマンションが建った(1977年6月竣工)。

旅館街としては1969年の8軒が最高で、その後は数を減らし、1980年代には旅館街の形は失われた。1988年に旅荘美琴荘が「ホテルウォンズイン」に、美琴荘別館は「ホテルミコト」になり、少なくとも1995年までは営業していた。その後「ホテルミコト」は駐車場になったが、「ホテルウォンズイン」は現在も営業中である。1964年の創業から数えると56年、この地域の「性なる場」としての役割を保っている。
ホテルウォンズイン - コピー.jpg
ホテルウォンズイン(2020年4月)

【表1】宮益坂(美竹町)の旅館・ホテル街の変遷
表1.jpg
(クリックすると大きくなります)

【地図2】宮益坂(美竹町)の旅館街(1962年頃現況の住宅地図)
地図・美竹町(宮益坂).jpg

4 第3象限(明治通り西側、道玄坂南側)
渋谷駅の南西の一帯、現在、玉川通りのバイパス(国道246号線)がカットしているが、もともとは一続きの丘陵だった。
(1)桜ケ丘
まず、旧・大和田町、桜ヶ丘町のエリア。ここでは4軒の「連れ込み旅館」が広告を出している。
渋谷駅南口を出てバス発着所を抜けて、南平台に至る上り坂に入ると、右側に「平安楼」がある。広告には「桜ヶ丘 南口 西へ 高台」とある。やはり坂の途中の「連れ込み旅館」だ。

さらに坂を上ると、渋谷区立大和田小学校(現:渋谷区文化総合センター大和田)の先に「東洋荘」があった。別の広告に「桜ヶ丘 大和田小学校上」とある通りだ。丘の上の立地で、広告の挿絵や写真のように、下から見上げればかなりの威容だったはずだ。
渋谷(東洋荘・19540122k) (2).jpg
「東洋荘」の写真(19540122k)

ちなみに、広告はないが、「平安楼」と「東洋荘」の間に、やはり「大和田小学校」に隣接して「旅館 桜ケ丘会館」があり、同種の旅館だと思われる。

大和田小学校の周囲に「連れ込み旅館」が多かったのは、1957年6月に旅館業法が改正され、学校の周囲おおむね100m以内に「清純な施設環境が著しく害されるおそれがあると認め」られる業者の営業は許可されなくなるまでは、なんらの規制もなかったからだ。「東洋荘」は1956年3月以前の開業なので、法的な問題はなかった。

「ひさご」は「渋谷駅南口3分 桜丘32」とある。桜並木がある「さくら通り」ではなく、すこし左に行ったところ(現在、曲がり角に「キリンシティ」がある)から桜丘を真っすぐ上る坂の途中、右側にあった。規模は小さい。この道の両側には、広告はないが坂下に「旅荘司」(1969年廃業)、「ひさご」のすぐ下には「旅館いずみ」、上には「桜ケ丘ホテル」、道向かいには「旅館京香」(1965年廃業)などがあり、5軒ほどが坂の途中の小さな旅館街をなしていた。「山水」は広告に「桜ヶ丘 高台」とあるが、場所はわからない。

大和田小学校の周囲の「連れ込み旅館」の寿命はあまり長くない。「平安楼」は1963年に廃業したようで1969年頃現況の住宅地図では「富士ハイツ」というアパートになっている(現在は「セルリアンタワー東急ホテル」の敷地の一部」)。「東洋荘」も1963年の廃業で、1969年頃現況の地図では北側3分の1ほどが「旅荘みき」(1975年廃業)になっている(現在はマンション「エクゼクティブ渋谷」1976年竣工)。「旅荘桜ケ丘会館」は健在でその後も名称を変えながら2003年まで営業を続ける。「東洋荘」があった場所の先(大和田小学校の裏手)に「ホテル白雲荘」(1975年廃業)と「ホテルグリーン」(1971年廃業)ができ、さらに奥に「ホテル南平台」ができたが、ほとんどが1970年代中頃までに消えた。

それに対して、桜丘町の小さな旅館街の寿命は少し長い。「ひさご」は1969年頃の地図にも見える(1971年廃業)。1976年頃現況図で3軒、1982年頃現況図で2軒が残っていた。「桜ケ丘ホテル」は1999年まで営業していたようで、学生時代の私が見たのは、ここであった可能性が高い。

桜丘の旅館・ホテル街は、それぞれ1軒を残して1970年代後半~80年代に姿を消した。

渋谷(平安楼・19560325).jpg 渋谷(東洋荘・19530403k).jpg
  平安楼               東洋荘    
(19560325)              (19560309k)
渋谷(ひさご・19541127).jpg渋谷(山水・195703021).jpg
ひさご     山水
(19541127)  (19570331)

【表2】桜丘町の旅館・ホテル街の変遷
表2.jpg

【地図3】桜丘町の旅館・ホテル街(1962年頃現況の住宅地図)
地図・桜丘町.jpg

(2)「中央街」の奥(道玄坂一丁目)
渋谷駅南口から道路を渡り、「東急プラザ」の右側の「渋谷中央街」を奥に進むと上り坂になる。坂の途中のT字路を右手に行くと、営団地下鉄(現:東京メトロ)銀座線の車庫がある。この一帯(旧:大和田町、現:道玄坂一丁目)には14軒ほどの旅館が坂の途中の旅館街を形成していた。

「あたり荘」は「地下鉄車庫脇坂上」とあるように、地下鉄車庫のすぐ南側、坂を上りきった所にあった。「あたり荘」のあるブロックと、その向かいの車庫際のブロックには、8軒の中小規模の旅館があった。「あたり荘」はその中でも最大規模で、広告によると、千駄ヶ谷の「あたり荘」と同じ経営者(渋谷が本店)のようだ。

その1ブロック手前(東)に「ホテル一楽」があった、広告には「大和田町高台 駒大横」とある。1961年には南隣にプロレスの力道山の本拠「リキスポーツプラザ」ができる。

「永好(ながよし)」は地図に見当たらない。「地下鉄車庫前 東急本社前」という記載をたよりに探すと「南平台東急ビル」の裏手に「旅館永吉」があり、「ながよし」と読めるのでこれに相当すると思われる。ただ「地下鉄車庫前」とは言えないが。

その後の状況を追うと、1969年頃現況の地図では「あたり荘」は隣の料亭や個人宅を併せてさらに大きくなり、「一楽」も「永吉」も健在だ。しかし「あたり荘」は1969年に廃業したようで、1976年頃の地図では、跡地に大きなマンション「プリメーラ道玄坂」(1974年竣工)が建っている。

「一楽」は1973年に廃業し、1976年頃には更地になっていたが、じきにマンション「ソシアル道玄坂」(1977年竣工)が建った。「永吉」も1971年に廃業し「新南平台東急ビル」(1974年竣工)の敷地になってしまう。

周辺の旅館群は、1976年頃にはなお6軒がホテル化して残っていたが、1982年頃には4軒に、1995年頃には2軒になってしまう。そして現在、このエリアのラブホテルは「ホテルシルク」と「ホテル梅村」の跡地に1988年に開業した「ホテルP&Aプラザ」の2軒だけになっている。こうして坂の上の旅館・ホテル街はほぼ消滅してしまった。

ちなみに、院生時代の私が見かけたホテルは、この最後に残った「ホテルシルク」だった可能性が強い。

渋谷(あたり荘・19550211k).jpg 渋谷(一楽・19551111).jpg 
あたり荘          ホテル一楽    
(19550211k)       (19551111)   
渋谷(永好・19550821).jpg
旅館永好(19550820)

【表3】「中央街」の奥(道玄坂一丁目)の旅館・ホテル街の変遷
表3.jpg

【地図4】「中央街」の奥(1962年頃現況の住宅地図)
地図・中央街の奥(1963).jpg

5 第2象限(明治通り西側、道玄坂北側)
18軒という最も多くの「連れ込み旅館」の広告が確認できるが、この地域の地形はかなり複雑だ。北西~西北西方向から流れる宇田川が谷を刻んで渋谷川に合流する。宇田川は暗渠化され井ノ頭通りになっている。さらに西南西から松濤の谷(現:東急文化村前の通り)が宇田川に入る、また南から神泉の谷が松濤の谷に合わさる。
宇田川水系.jpg
(参考図)宇田川の水系
本田創「東京の水 2005 Revisited 2015 Remaster Edition」
http://tokyowater2005remaster.blogspot.com/2015/12/2-10.html

そこで、この地域は、さらに5つの小地域に分けてみることにする。

(1)「公園通り」北側(神南一丁目)
宇田川の谷の北側の台地を、代々木公園の南口から渋谷区役所前を通り、緩く下って「渋谷MODI」がある神南1丁目交差点に至るのが渋谷公園通りだ(1973年「渋谷PARCO」のオープンに合わせて命名。その前は「区役所通り」と呼ばれていた)。その北側(北谷町)には、1950年代後半、「飛龍荘」と「渋谷ホテル」の2軒の「連れ込み旅館」があった。

「飛龍荘」の広告には「松竹先 渋谷信用金庫角左入る」とある。ただ「渋谷駅下車二分」は無理で、アベックが早足で歩いても5分はかかる。「渋谷ホテル」は「松竹の一つ先を曲った高台 北町54」とある(「北町」は「北谷町」の誤植か)。どちらも坂の途中の「連れ込み宿」だった。
ここに見える「松竹」は、現在の「西武デパート渋谷店」A館の場所にあった「渋谷松竹・銀星座」映画館のこと。当時は、映画館が格好のランドマークだった。

1962年頃現状の住宅地図を見ると、当然のことながら「渋谷PARCO」は影も形もない。渋谷から代々木公園を目指す緩い坂道の沿道は、まだビルが立ち並ぶ状態ではなく、かなり閑散としている。それでも北側はそれなりに建物があるが、南側は「東京山手教会」があるくらいで、空き地が目立つ。
「山手教会」の向かい側に「渋谷ホテル」が、その少し坂下の路地に「飛龍閣」があった。

渋谷(飛龍荘・19560107).jpg 渋谷(渋谷ホテル・19540402k).jpg 
ホテル飛龍閣    渋谷ホテル
(19560107)    (19540402k)

【地図5】公園通り(1962年頃現況の住宅地図)
【地図6】公園通り(1969年頃現況の住宅地図)
地図・公園通り(1963) (2).jpg 地図・公園通り(1970) (2).jpg

約7年後の1969年頃現況の住宅地図を見ると、「区役所通り」(後の「公園通り」)の南側は空き地が減って、「西武デパートC館」(現:西武パーキング館)が進出し、その東には映画館「渋谷地球座」が入るビルもできた。

「山手教会」の向かい側の「渋谷ホテル」は姿を消して、商業ビルになっている(1966年廃業、後に敷地の北半分にバレエ用品の「チャコット」の本社ビルが建つ)。「飛龍閣」はビル化したようだが同じ位置にある。

のちに「渋谷PARCO PART1」が建つ「有楽土地所有地」の筋向い、現在「渋谷区勤労福祉会館」があるブロックに「ラブホテル」と思われる「仙亭ホテル」「美苑ホテル」「千春ホテル」がある。「千春」はすでに1962年頃現況の地図に見えているが、このブロックが「ラブホテル」街化しつつあることがうかがえる。

さらに7年後の1976年頃現況図を見ると、1973年に「渋谷PARCO PART1」(赤枠)が開業し、さらに「PART1」の道路を挟んで北側の「仁愛病院」があった場所に「PART2」も開店している(1975年12月開業、2007年末休業)。
「飛龍閣」は「ホテル飛龍閣」になって営業を続けている。

注目すべきは、「勤労福祉会館」があるブロックで、以前からある「仙亭ホテル」「美苑ホテル」「千春ホテル」に加えて、「ホテル虹」「ホテルモンブラン」「渋谷ヒルトップホテル」「ホテルロイヤル」が開業し、7軒が密集する「ラブホテル」街になった。

この辺りは、坂を上りきったあたりで、東側は急勾配で渋谷川の谷に下っている。ホテルの名の通り「ヒルトップ」で、まさに丘の上の「ラブホテル街」だった。

さて、この丘の上の「ラブホテル」街のその後だが、1982年頃現況の地図では、一番古手の「千春ホテル」(1977年廃業)が商業ビルになり、「渋谷ヒルトップホテル」が「ホテルナンバーツー」になったが、なお6軒「ラブホテル」街を形成していた。ただ、一つ下のブロックで頑張っていた「ホテル飛龍閣」は消え、商業ビルになった(「渋谷三洋ビル」)。

【地図7】公園通り(1976年頃現況の住宅地図)
【地図8】公園通り(1982年頃現況の住宅地図)
地図・公園通り(1977) (2).jpg

しかし、1995年現況の地図では様相は一変する。「ホテルナンバーツー」と「ホテル虹」が1982年、「ホテルロイヤル」が1983年、「美苑ホテル」が1989年と相次いで廃業し、残るは「ホテル仙亭」が名を変えた「ホテル渚」(2001年廃業)と「ホテルモンブラン」(2000年廃業)の2軒のみになってしまう。それらも2000年代初頭に姿を消す。

そして今、かつての「ラブホテル」街の面影はまったくない。ここでも坂の途中のホテル街は消滅してしまった。 

【表4】公園通りの(神南一丁目)の旅館・ホテル街の変遷
表4.jpg

1970年代、おしゃれで文化的な渋谷の象徴として華々しく登場した「PARCO」のすぐ向かいは「ラブホテル」の集中エリアだった。

1970~80年代初頭の若者にとって、渋谷公園通り界隈は、単におしゃれなだけでなく、微妙に性的なエリアだった。公園通りを「ラブホテル」を目指して上っていくカップルもいたし、代々木公園で野外デートをした後、公園通りを下って「ラブホテル」に入るカップルも多かったはずだ。私も代々木競技場のあたりで、何度もデートした思い出がある。貧乏学生でお金がなかったからラブホテルには入らなかったが。

(2)「井ノ頭通り」周辺(宇田川町) 
渋谷川の最大の支流、宇田川の谷とその斜面(公園通り南側)の地域。宇田川は暗渠化して下流部は井ノ頭通りになっている。現在、「西武デパート渋谷店」のA館とB館の間を通っている井ノ頭通りが、1960年代まで国際通りと呼ばれていたことを知っている人は、もうかなり少ないだろう。「西武デパート渋谷店」B館の一部になっているところに「渋谷国際」という映画館があったからだ。

この国際通り周辺には、1950年代後半、かなりの数の「連れ込み旅館」があった。広告が確認できるものだけで7軒を数える。

国際通りの入口(明治通りとのT字路)に近い方から見てみよう。
まず、「タナベ」は「国際通り 松竹横」とある。この「松竹」は、既に述べたように、現在の「西武デパート渋谷店」A館の場所にあった「渋谷松竹・銀星座」映画館のことなので、「タナベ」は国際通りの入口に近い南側にあった。 

「青木荘」は「松竹と東銀の間左入り 国際向側」とあるので、これも国際通りの南側になる。

「ホテルチトセ」は「国際通り 二又・右側」とある。この「二又」は、東西に走ってきた井ノ頭透りが宇田川の流路と離れて、北西に向きを変える所にあるY字路のことで、現在、間に「渋谷警察署宇田川町交番」がある。ちなみに宇田川の流路は左側(南側)の細い方の道になる。
2016年7月のある日、私は「東急ハンズ」に行こうと井ノ頭通りを歩いていた。ふとビルの名称が目に入った。「ちとせ会館」。
ちとせ会館1.JPG
思わず路上で「あ~っ!」と声を出してしまった。まさにそこは「ホテルチトセ」があった「二又・右側」の場所ではないか。
ちとせ会館2.JPG
つまり、1950年後半に存在した連れ込み旅館「ホテルチトセ」の名前が、現在の「ちとせ会館」に受け継がれていたということ。なぜ、それまで気づかなかったかといえば、1962年頃現況の住宅地図には、現在の「ちとせ会館」の場所はすでに「宇田川有料駐車場」になっていて「チトセ」の文字はなかったから。この駐車場はかなり広く、「ホテルチトセ」が大きな建物であったことがわかる。広告の「和洋間四十数室」という規模もうなずける。

住宅地図でこの場所を追うと、1962~1976年頃「宇田川有料駐車場」、1978年頃「東急ハンズパーキング」、1982年頃「(仮称)千歳会館」となる、つまり、20年ほど有料駐車場で、ようやく1984年9月に商業ビル「ちとせ会館」が建った。

1950年代の「連れ込み旅館」の屋号が、後継のビルに受け継がれることはときどきあるが、20年を隔ててというのは珍しい。

「チトセ」の話が長くなってしまったが、話を戻そう。
「みすず」は「国際通り 300m右高台」とある。国際通りの入り口から300mというとかなり奥で、「右高台」とあるので、「井ノ頭通」と「公園通り」を結ぶ坂道(「PARCO」の脇に出る、通称「ペンギン通り」)のどこかだろう。この坂道には、1962年頃現況の地図に、右側に「ホテルコスモス」、左側に「旅館つたや」があり、その北に「旅館よし村」があった。どれも坂の途中の宿だ。「コスモス」が「みすず」の後身ではないかと疑っている。

「ふくや」は「国際通り シブヤ浴泉隣」とある。銭湯「渋谷浴泉」は現在、巨大な商業施設「渋谷BEAM」の一部になっている。そのどちら隣かわからないが、「ふくや」は国際通り沿いにあったことは間違いない。1963年に廃業したようだ。

「岩崎」は、1962年頃現況の地図で、Y字路の左側の道をちょっと行って左側に入る路地に見える。広告には「大映真裏」とあるが、「大映」は「東急本店通り」にあった「渋谷大映」映画館のことで、確かにその真裏になる。つまり、今風に言えば「センター街」の奥ということになる。1971年廃業して「新岩崎ビル」になった。 

最後に「黒岩荘」。「国際通り 左突き当り」とあるが、例のY字路の左側、宇田川が暗渠になっている道を行くと、やがて道が尽きる。と言うか、そこから上流の宇田川は暗渠ではなく開渠、つまり地上を流れていた(現在は暗渠化され道路になっている)。その宇田川が地上に現れる地点の北岸に「黒岩荘」があった。つまり、かろうじて川べりということになる。

「黒岩荘」は「渋谷の衣川」を称し(読みは「きぬがわ」で栃木県の鬼怒川温泉に仮託)」、「水族館付き」を自慢していた。当時の宇田川にどれほどの魚がいたか、かなり疑問だが、どうもこの旅館は川・水へのこだわりが感じられる。それも宇田川の畔という立地、失われた清流への追憶によるのかもしれない。「黒岩荘」は1979年に廃業し、跡地には「渋谷エステートビル」(オフィスビル)が建っている。

残念ながら、この地域の「連れ込み旅館は」は、1962年現況の地図でも正確な位置が確認できないものが多い。ただ、旧・宇田川の谷(低地)の国際通りと、その北側(南向き)の斜面(坂の途中)にかなりの数の「連れ込み旅館」があったことは間違いない。広告に見えないものを合わせると10軒を超えるだろう。

この地域は、その後渋谷でも有数の繁華街となっていき、1960年代の閑静な環境は失われ、いち早く商業ビル化が進んだ。多くの「連れ込み旅館」は「ラブホテル」化することなく姿を消したのはそのためだろう。それでも、1982年頃現況図では、宇田川北側の斜面を上る「ペンギン坂」の途中に「ホテル石庭」が、「ペンギン坂」と「スペイン坂」の合流点に「ホテルオリエント」があった。「ホテル石庭」は「ホテルコスモス」の後身だ。「ホテルオリエント」については1980年代の初め頃、「スペイン坂」を降りるとき「こんな賑やかな場所では入りにくいだろうな」と思った記憶がある。

どちらも1980年代半ばまでにオフィスビルになり、この界隈から「性なる場」は消えてしまった。

渋谷(タナベ・19570117).jpg 渋谷(青木荘・19530430).jpg    
タナベ       青木荘    
(19570117)    (19530430)
渋谷(ちとせ・19550507).jpg 渋谷(みすず・19570112).jpg
チトセ        みすず      
(19550507)     (19561207k)
渋谷(ふくや・19571211).jpg 渋谷(岩崎・19551228).jpg 渋谷(黒岩荘・19570130).jpg   
ふくや      岩崎         黒岩荘      
(19571211)  (19551228)     (19570130)   

【地図9】井ノ頭透り(1962年頃現況の住宅地図)
地図・井ノ頭通り(1963).jpg

(3)「東急本店通り」北側(松濤一丁目)
渋谷川の支流、宇田川のそのまた支流の松濤の谷筋を中心とする地域。松濤の川は、佐賀の鍋島侯爵家の別邸(現:鍋島松濤公園)の松濤池の湧水を源流とし、現在の「東急百貨店本店」の裏側を流れて、宇田川に合流していた。

「東急本店」(1967年開業)の敷地には、1964年まで「渋谷区立大向小学校」(宇田川町に移転し、1997年に統合に伴い神南小学校に改称)があった。「大向(おおむこう)」とは宇田川西側の細長い低地で、大正期までは「大向田んぼ」と呼ばれる水田が広がっていた。玉川通りから分かれて(分岐点には「渋谷109」)ここを北西方向に走る道が大向通りで、入口を入って少し行った右(北)側には「渋谷大映」映画館があったので大映通りとも呼ばれていた(後に東急本店通り、現:東急文化村通り)。

「渋谷大映」映画館(1950年1月)。最近まで大型パチンコ店「マルハンパチンコタワー渋谷」があった(2016年1月17日閉店)。

また、「大向小学校」前のY字路で大向通りから分かれて、ほぼ松濤の谷に沿って西に向かう道は栄通りと呼ばれていた。

松濤の小さな谷筋の北側(南向き)の斜面、そして宇田川の西側の斜面、つまり大向通りの西側、栄通りの北側に、1962年現況の地図で7軒(別館をカウント)ほどの旅館、ホテルがあった。

「ホテル山王」は2軒見える。1軒は「大向小学校」のすぐ裏手、低い崖を上がったところにもあった。もう1軒は大向通りをかなり奥に行ったところ。立地の便からして小学校裏手の方が先(本館)だろう。広告の「大映の先の横」という記述もふさわしい。推測するに、前にも触れた1957年6月の旅館業法の改正で、学校の周囲おおむね100m以内の営業に規制がかかった(増改築が難しくなった)ことと関係があるかもしれない。小学校裏の「ホテル山王」は明らかに100m以内だから。

大向通りの左側の斜面には手前から「一休荘」「ホテルエコー」、そして「ホテル山王」(別館?)が並んでいた。さらに奥に広告はないが「旅館こだま荘」があった。

「一休荘」の広告には「渋谷大映先 交番右入る」、「ホテルエコー」の広告には「大映先 大向通」とあり、「ホテル山王」も含めていずれも「大映」をランドマークにしている。1950年代の都市における映画館の重要性がよくわかる。

次に「ホテル ニューフジ」だが、広告の道案内には「大映通 消防署隣」とある。「消防署」は「渋谷消防署栄通出張所」のことで、広告にはかなりいい加減な地図が付いているが、要は消防署の火の見やぐらと郵便局(栄通り郵便局)の間の道を入れということ、この道は「観世能楽堂」に行く上り坂で、何度も歩いたことがある。
渋谷(ホテルニューフジ・19570209) (2).jpg
1962年現況の地図には「ホテル ニューフジ」は見えないが、地図の場所には「ホテル石亭」があり、これが後身だと思われる。西隣に「ホテル石亭・別館」があった。

ちなみに、「ホテル ニューフジ」=「ホテル石亭」の上の段には東京都知事の公館があった。連れ込みホテルと都知事公館はお隣さんだったのだ。

この斜面のホテル街のその後を見てみよう。1969年現況の地図では「一休荘」がビルになって消えた以外は健在だ。都知事公館の主は東龍太郎から美濃部亮吉に変わった。ところが1976年頃現況の地図では「山王本館」(1969年廃業)と「石亭本館・別館」(1969年廃業)が消え「山王別館」と「エコー」、それに「こだま荘」の3軒になってしまう。「山王本館」と「石亭別館」は駐車場に、「石亭本館」の跡地は空地になっている。

そして、1982年頃現況図では、「山王別館」がオフィスビル(「サンエルサビル」1978年竣工)になって消え、「エコー」と「こだま荘」の2軒になる。「石亭本館」の跡地は南に拡張した都知事公館(主は鈴木俊一)に飲み込まれる。「ホテルエコー」は1986年まで営業を続けたようだが、斜面のホテル街は1980年代半ばに姿を消した。

渋谷(ホテルエコー・19531126).jpg 
ホテルエコー(19531126)
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ホテル山王(19550911) 
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一休荘(19560325)
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ホテル ニューフジ(19540222)

【表5】松濤谷北斜面(松濤一丁目)の旅館・ホテル街の変遷
表5.jpg

【地図10】松濤谷北斜面の旅館・ホテル街(1962年頃現況の住宅地図)
地図・松濤.jpg

(4)円山下・中腹(道玄坂二丁目)
玉川通り(道玄坂)北、大向通り(文化村通り)の西、松濤の谷の南側、旧栄通り郵便局(現在の「東急文化村)の西隣)から円山に上っていく坂道(現在の道玄坂二丁目と円山町の境界)の東。円山に上っていく途中(中腹)、現在の道玄坂二丁目の地域。円山の「三業地」は別に扱う。

1962年頃現況の地図には、この地域に17軒ほどの旅館を数えることができるが、多くは小規模なもので、広告が確認できるのは3軒のみ。

「高田旅館」は、大向通りの西側の斜面、階段状に整地した4段目にあった。この辺りには、道玄坂以外に真っすぐに上る道はなく道路が迷路のように複雑だ。広告に「道玄坂上る テアトル映画街入口 薬屋右入る四つ角左」とややこしいことを書いているのは、そのためだろう。

「テアトル映画館街」は「百軒店」の中にあった「テアトル渋谷」(現:「ライオンズマンション道玄坂」)、「テアトルSS」(現:「ホテルサンモール」)「テアトルハイツ」(現:マンション「サンモール道玄坂」)の映画館群のことで、「映画館街入口」というのは、現在「百軒店」の入口を示すアーケードがある道のこと。「高田旅館」はそこから入って右(少し下る)に行って左にあった(やはりややこしい)。道玄坂寄りに別館があり、その隣に本館があったが、1969年頃現況の地図では別館部分だけが旅館として営業している(1976、1982の現況図も同様)。1987年に廃業したようで、本館跡地は長らく駐車場だったが、現在(2020年5月)は大規模な再開発事業が進行している。別館跡地は「ホテルR25」(経営者は「高田旅館」と同姓)になっている。

「高田旅館」の一段下には、広告はないがこの地域で最も大きい旅館「渋谷聚楽」があったが、後に広い駐車場になり、現在は高田旅館本館跡地と合わせて、大規模な再開発事業が進行中。

「高田旅館」の1段上に「風久呂」があった。広告には「道玄坂 百軒店 ひまわり楽器右横入る」とある。「風久呂」は1976年頃の現況図には見えるが、1982年頃の現況図では「ホテルガラスの城」になっている。さらに1995年頃の図では「ホテルプリンスキャッスル」になった(現在は廃業)。ちなみに曲がり角の目印の「ひまわり楽器店」は、現在「ひまわりビル」になっている。

「風久呂」の西隣には「旅荘一村」があり、そのまた隣に「二幸」があった。「二幸」の広告は「大映先 大向小学校前高台」とあって大向通から案内している。小学校の前の坂を上って右折した場所なので、その方がわかりやすかったと思う。「二幸」は1976年頃の現況図で西隣にあった旅館を併せて大きくなっている。その敷地は1982年頃の図では「(仮称)ホテルV」となっていて、さらに1995年頃の図では「ホテルアランド」になる。経営がどう受け継がれたか判然としないが、もしかすると「二幸」の発展が「ホテルアランド」なのかもしれない。
渋谷(高田旅館・19550506k).jpg  渋谷(風久呂・19570124).jpg
高田旅館        風久呂           
(19550506k)    (19570124)
渋谷(二幸・19551228).jpg
二幸(19551228)

ところで「百軒店」は、関東大震災(1923年)後に「円山三業地」に隣り合う場所に開発された商店街で、戦後はテアトロ系映画館を中心に、喫茶店、バー、飲み屋、食堂など小規模な飲食店が立ち並ぶ繁華街になった。その中にはあまり旅館はなかった(3軒)。

この地域(道玄坂二丁目)の旅館・ホテルの歴史的な変遷を、住宅地図上で確認できる軒数で見てみよう。

1962年 69年 76年  82年  95年
17 →17 →21 →26 →33

1960年代には変化がなかったが、70年代に入り増えはじめ、80年代には増加基調に拍車がかかり、90年代半ばには、60年代のほぼ2倍にまで増殖している。

今まで、見てきた地域では、坂の途中の旅館街・ホテル街は、80年代までに衰退・ほぼ消滅していたが、道玄坂の途中の旅館街・ホテル街では、まったく逆の様相が現れている。

【地図11】円山下・中腹(道玄坂二丁目)の旅館・ホテル街(1962年頃現況の住宅地図)
地図・道玄坂二丁目(1963).jpg

(5)円山三業地(円山町)
道玄坂を上がった北側。渋谷台地の上、円山町の三業地(花街)。三業地は、料理屋、待合茶屋、芸妓置屋の三業種の営業が許可された地域のこと。

渋谷・円山の三業地は、1913年に指定され、1919年に「渋谷三業株式会社」を設立、関東大震災(1923)の直前1921年には芸妓置屋137戸、芸妓402人、待合96軒を数えた。戦後も繁栄は続き、1965年には料亭84軒があり、芸者170人がいた。

道玄坂を上りきった道玄坂上交番前交差点を右に入る道(北に進んで坂を下り「東急文化村」の前に出る道=現在の円山町と道玄坂二丁目の境界)の西側、交差点の交番(渋谷警察署道玄坂上交番)の先を左に入る道の北側、神泉の谷に下りる急崖の東側、松濤の谷に下りる南側が「三業地」の中心だった。「渋谷三業組合事務所」は、交番の先の東西道を3ブロック進んだ北側にあった。
この地域で広告が確認できる旅館はわずか2軒だけ。

「ホテルまつ」は広告に「道玄坂上(玉電曲角)本田屋餅菓子店横二軒」と見え、道玄坂上交番前交差点を右に入って3軒目にあった。三業地の中心からはやや外れた、とば口。「玉電曲角」というのは、渋谷駅を出て専用軌道で坂を上がってきた玉川電車(東急田園都市線の前身)がこの交差点でカーブして玉川通りの路面に出る。「本田屋餅菓子店」は1962年現況図で交差点の北角に「喫茶本田屋」と見えるのと関連するものだろう。

「まつ」のその後は、1969年現況図では「料理まつ」と見えるが、1971年に廃業したらしく、1976年現況図では駐車場になっている。現在はオフィスビル「Eスペースタワー」の敷地の一部になっている。

「よね林荘」は「道玄坂上 交番手前右入る」とあるように、道玄坂上交番前交差点を右に入り少し進んで左折した南側にあった。広告に「料亭米林別館」とあり、道向かいには「旅館米林」があり、その別館として1957年に開業したらしい。1969年に廃業したようで1969年頃現況図では別館が「タキザワ旅館」に、本館は「ホテルニッポン」(1969年開業、1975年廃業)なっている。現在は「まつ」と同様、オフィスビル「Eスペースタワー」の敷地の一部。
渋谷(まつ・19561023).jpg 渋谷(よね林荘・19570107).jpg
ホテルまつ   よね林荘    
(19561023)  (19570107)

この地域の広告が少ないのは、そもそも三業地と「連れ込み旅館」は相性が悪いからだと思う。三業地において、性交渉の中心は男性と玄人の女性で、その場は「待合」だった。それに対して「連れ込み旅館」の性交渉は男性と素人の女性だった。性的関係(セクシュアリティ)の構造が異なる。

わかりやすく言えば、玄人の女性が仕事をしている三業地にしてみれば、わざわざ素人の女性を呼び込む必要はなく、むしろ商売の邪魔なのだ。

こうした三業地と「連れ込み旅館」の(きつく言えば)排斥関係は、池袋や大塚の三業地でも見られる。

1962年現況の地図では、三業地の中心部分には料理屋・料亭が76軒数えられる。旅館は13軒にすぎず、圧倒的に料理屋・料亭が優勢だ。さらに言えば、この旅館も立地からして男性が素人の女性を連れ込むのではなく、玄人の女性が男性を連れ込む場所、「待合」的な旅館ではなかったかと思う。

そうした三業地の形態は1969年頃現況の地図でもほとんど変化がない。ところが1976年現況の地図では料理屋・料亭が24軒と大きく減り、旅館・ホテルは19軒に増える。地図の様式が変わったので、料理屋・料亭の数え落としがあると思われるが、ほぼ半減しているのは間違いない。「渋谷三業組合事務所」の建物も「円山自治会館」に変わってしまう。花街の衰退が見て取れる。

そして、1982年現況図では、料亭・料理屋11軒、旅館・ホテル20軒と逆転する。さらに1995年現況図では、9軒に対して27軒と差が大きく開く。

つまり、三業地が衰退してくると、両者の力関係が変わり、「連れ込み」系の旅館やホテルが三業地の中心部にまで入ってくるという現象がはっきり見られる。その勢力交代は1970年代後半に始まり1980年代に決定的に進行した。
【地図12】円山三業地の料亭と旅館(1962年頃現況の住宅地図)
(赤っぽい色が料亭・料理屋、緑色が旅館)
【地図13】円山三業地の料亭と旅館(1982年頃現況の住宅地図)
地図・円山三業地(1963).jpg 地図・円山三業地(1983) (2).jpg

ところで、松濤の谷から円山へ上がる道は、先に述べた旧・栄通り郵便局(現在の「東急文化村)の西隣)から上がる坂道(現在の道玄坂二丁目と円山町の境界)と、その一本先(西)の坂道の2本がある。円山の三業地に入るには道玄坂からが表口なので、この松濤の谷からの2本の道は裏口に当たる。

1962年現況の地図には、この2本の坂道の周囲に12軒の旅館があった。いずれも規模は小さく、裏口にふさわしい感じだ。ところが1969年現況図では14軒に増える。特に西側の坂道の両側の増加が著しい。こうして1970~1990年代には2本の急坂の両側に14~15軒の「ラブホテル」がびっしり林立するという特異な景観が出現した。

この坂の途中のホテルの開業年を列記すると、坂下に近い「ホテル龍水」1961年、「ホテル三喜荘」1964年、「ホテルサボア」1975年、次の段の「ホテル山水」1965年、「ホテルプリンセス」1967年、「ホテルニュー白川」1969年、もう1段上の「ホテルローレル」1971年、「ホテルユートピア」1973年、「ホテルスイス」1975年、坂上に近い「旅館若草」1973年となる(「ホテルはせがわ」と「ホテルみやま」は開業年不明=1950年代)。ホテルになる前からある「はせがわ」「みやま」「龍水」「三喜荘」「山水」に加えて、1960年代末からホテルの開業が相次いだことがわかる。

つまり、渋谷・円山の「ラブホテル街」の形成は、坂の途中から始まり、次第に坂を上って丘の上に至る、まるで「ラブホテル」が丘を上るかのように形成された。

【地図14】円山裏・二本の坂道周辺(1962年頃現況の住宅地図)
「龍水」「長谷川(はせがわ)」「みやま」はすでに見える。
【地図15】円山裏・二本の坂道周辺(1982年頃現況の住宅地図)
地図・円山裏の2本の坂道(1963).jpg 地図・円山裏の2本の坂道(1983).jpg

6 その他
地域巡りの最後に「その他」としたものを見てみよう。象限的にはすべて第3象限になる。

(1) 神泉
円山町の台地の西縁は、松濤の谷に南から北へ注ぐ神泉の谷へ急斜面で落ち込む。京王電鉄の井の頭線は、円山町をトンネルで抜けると、神泉駅のところで地上に出て、またすぐにトンネルに入る。駅が神泉谷の底にあることがよくわかる。

神泉駅の北に「菊栄旅館」があった。「高台閑静」とうたっているように、神泉谷の西側の斜面にあった。ここもやはり「坂の途中」の宿だったが1964年に廃業した。

神泉駅から東へ、急坂の途中に「旅館女大名」(1969年廃業)が、坂を上ったあたりには「旅館一条」(1964年廃業)「旅館たなか」(1965年廃業)があった。これらも1960年代末までに消える。

渋谷神泉(菊半旅館・19530619k).jpg
菊栄旅館(19530619k)

【地図16】神泉谷(1962年頃現況の住宅地図)
地図・神泉谷.jpg

(2)神山町
1955~58年頃、かなり斬新なデザインの広告を出していた「ホテルキャデラック」。住所の「神山59」は、山手通り(環状6号線)から東に少し入ったあたりで、神山町でも松濤町との境界に近い場所。

神山町一帯は今でこそ「奥渋谷」と呼ばれる人気スポットになっているが、渋谷駅からはかなり遠い。広告にも「渋谷駅より幡ヶ谷行きバス」(現:東急バス渋55系統)「3ツ目東大裏下車」「渋谷駅からタクシー70円」とあり、「自家用車時代にふさわしい」というコピーからも、逆に歩くにはつらい距離であることがわかる。

神山町59番地はさして広くない。1962年頃現況の地図を見ると、そこに「東京湯ヶ島ホテル」がある。比較的大きなホテルで59番地の半分近くを占めている。残り半分は「新自由キリスト道会本部」とその付属の「松村幼稚園」が占め、他に余地がないので、これが「ホテルキャデラック」の後身だろう。

広告に「旧プリンスオブトーキョー」とあるが、今のところどんな施設か不明である(なんとなく進駐軍関係のような・・・)。

現在、この場所は、なんとモンゴル大使館になっている。15年ほど前、地方在住の友人に頼まれて、モンゴル大使館にビザの代行取得に行ったことがある。松濤公園を左手に見ながら道を真っすぐどんどん奥に進む感じだった。そうか、あそこだったのか!
ちなみに、「東京湯ヶ島ホテル」の廃業は1971年、日本とモンゴル人民共和国(当時)との国交樹立、大使館開設は1972年なので、辻褄はぴったり合う。
渋谷神山町(キャデラック・19551120).jpg 
ホテルキャデラック(19551120)        
渋谷神山町(ホテルキャデラック・).jpg
ホテルキャデラック(19561020)
渋谷神山町(ホテルキャデラック・19580212).JPG
ホテルキャデラック(19580212)

【地図17】神山町付近(1962年頃現況の住宅地図)
地図・神山町.jpg

(3)「大坂上」付近(目黒区青葉台)
道玄坂を上りきったさらに先、玉川通り(大山街道)が渋谷台地から目黒川の谷に下りる急勾配「大坂」の上。行政区分はもう目黒区で、当時は上目黒八丁目、現在は玉川通りの南側が青葉台三丁目、北側が青葉台四丁目になっている。

渋谷(道玄宿・19561207k).jpg 渋谷(山のホテル・19550702).jpg  
道玄宿         山のホテル
(19561207k)      (19550702)

「道玄宿」は「道玄坂上四つ角」とあるが、この「四つ角」は玉川通りと(旧)山手通りが交差する、現在の「神泉町交差点」のこと(ここから西が目黒区になる)。その南西角に「道玄宿」はあった。「渋谷の高台」とあるように道玄坂を上りきった台地の最高地点(標高35m)に近い「丘の上の宿」だった。跡地は「(株)トヨタ東京カローラ・渋谷店」になっている。

ところで、1976年頃現況の地図には円山町の花街に近い道玄坂二丁目に「旅館道玄宿」が見える。この旅館は1969年頃現況図には「旅館道玄坂」として見えているが、「道玄宿」が正しいとするならば、もしかすると、道玄坂上の「道玄宿」が玉川通りの拡幅(1960年代後半)で敷地が削られたのを機会に道玄坂二丁目に移転したのかもしれない。

「山のホテル」は、松濤の「ホテル ニューフジ」と同系列で、玉川通りをさらに西に行った「大坂上」にあった。「渋谷駅八分」は相当健脚のアベックでも無理だと思う。「中将本舗前」とあるのは、婦人薬「中将湯」で有名な「津村順天堂」(現:「ツムラ」)の目黒工場がこの地にあったから。

玉川通の北側の斜面には「旅館大藤館」「旅館福田屋」「旅荘新舞子」があり、「山の上ホテル」と合わせて、ここも坂の上の小さな旅館・ホテル街を形成していた。

このホテルは「山の」という名称に加えて「丘の離れ」というコピーからわかるように「都会の山荘」のイメージを強く演出していた。広告の挿絵もまるで軽井沢かどこの山荘のようだ。
渋谷(山のホテル・19550702) (2).jpg

玉川通り沿いに別館があり、その奥(南側)に本館があったが、本館の南側はすぐに崖で、目黒川の低地(標高13m)とは15m以上の差があり、たしかに眺望は絶好だったと思う。

それにしても、現代の私たちは「都内で味わう奥伊豆情緒」は、いくらなんでも大袈裟だと思う。しかし、まだ観光旅行に出かけられる人が少なかった時代には、そうした仮託(疑似体験)に客を寄せる十分な効果があったのだろう(註3)。

現在、本館部分には、高級マンション「パークコート目黒青葉台ヒルトップレジデンス」が建っている。
渋谷(山のホテル・19571004).jpg 
  (19571004)

「三平」は、池袋の連れ込み旅館「三平」が渋谷に進出してきた宿で、1957年の開業。別の広告に「道玄坂上 三丁右入る」とあるが、玉川通りが目黒川の谷に下る「大坂」の北側斜面を階段状に整地した場所にあった。「断崖上」というのは大袈裟だが、見晴らしは良かったはず。「三平」の2つ下の段には「旅館山渓園」があった。

ただ、渋谷駅からははるかに遠く(約1.5km)、道玄坂上にあった玉電(東急田園都市線の前身の路面電車)の「上通停留所」からでも、かなり距離がある(約800m)。送迎に「自家用車無料サービス」というのも無理もない

この付近は首都高速3号渋谷線の池尻インターチェンジが設置されたため、道路の改変が激しく、跡地の比定が難しかったが、現在、「ソネンハイム大橋」というマンションの北隣に相当する。
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三平(19570116)

【地図18】道元坂上~大坂上付近(1962年頃現況の住宅地図)
地図・大坂上.jpg

おわりに
以上、ぐるっと渋谷の「連れ込み旅館」から「ラブホテル」の歴史地理的な状況をみてきた。その結果、1950年代後半から60年代にかけて、渋谷のあちこちに旅館街が形成されていたことがわかった。そのキーワードは「坂の途中」だ。整理してみよう。

形成      全盛         衰退
① 美竹町(宮益坂の途中)   1960年代初頭?1960年代末(8軒)  1980年代
② 桜丘町(桜丘へ上がる坂)  1950年代後半 1960年代初頭(9軒)1970年代後半 
③ 道玄坂一丁目(中央街奥の坂)1950年代後半 1960年代初頭(14軒)1970年代後半
④ 神南一丁目(公園通りの途中)1970年代前半 1976年(7軒)    1980年代前半
⑤ 宇田川町(宇田川の北斜面) 1950年代後半 1960年代初頭(10軒)1960年代後半
⑥ 松濤一丁目(松濤谷の北斜面)1950年代後半 1960年代前半(7軒) 1970年代
⑦ 道玄坂二丁目(道玄坂の途中)1950年代後半 1990年代(33軒)  2000年代後半
⑧ 円山町(円山三業地の裏の坂)1950年代後半?1990年代(14軒)  2000年代後半

つまり、渋谷の坂の途中の旅館・ホテル街は8か所あった。若き日の私の「坂を上っていくとラブホテルがある」という印象は間違っていなかった。そのうち①②③⑤⑥の5か所は、1950年代後半から60年代初頭に形成され、60年代に全盛期を迎え、70年代から80年代に衰退し、ほぼ消滅していくという同じパターンをたどる。④だけは形成が70年代前半と遅いが、衰退の時期はやはり1980年代で変わらない。

消えていった6か所と、まったく違う動きをするのが⑥⑦で、形成の時期こそ同じだが、1970代後半~80年代に大増殖し、90年代にかけて全盛期を迎える。

つまり、①~⑥の旅館・ホテル街が衰退・消滅していくのと、⑦⑧が増殖・全盛となる現象が、1970代後半~80年代に同時並行的に起こったことになる。さらに⑥⑦は坂の途中から坂の上、つまり古くからの三業地である円山町の中心部にも侵入していく。増殖する「ラブホテル」は坂を上り丘の頂に達する。その結果、道玄坂と松濤の谷に挟まれた地帯に「ラブホテル」が極端に集中し、1980年代に巨大な「渋谷円山町ラブホテル街」が形成された。

2020年4月の段階で、渋谷区の「ラブホテル」の分布を調べたところ、全61軒の内訳は、円山町に28軒、道玄坂二丁目に27軒、地理的に連続するこのエリアに90%の55軒がある。玉川通り向かいの道玄坂一丁目の3軒を合わせると95%に達する。残り3軒は隣の駅の恵比寿なので、渋谷エリアの他の地域には「ラブホテル」はないと言ってもいいほどの集中度だ(註4)。

なぜこのような現象が起こったのだろうか? 
同じ業種の店が狭いエリアに多数立地すれば過当競争になって共倒れの危険性が高まるのではないか、それより適宜分散した方が良いのではないか、と素人考えに思う。

その一方で、同様の過剰集積の事例が2つ思い浮かぶ。
一つは、1950年代後半の千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街だ(註5)。さして広くない地域に広告が確認できるものだけで39軒、おそらく50軒近い「連れ込み旅館」があり、東京最大の集中地域だった。経営的にはさぞ競争が激しかったと思うが、利用者の側からすれば、女性を連れて新宿駅南口からタクシーに乗り「千駄ヶ谷へ」と言えば、運転手が馴染みの旅館に連れて行ってくれる。ともかく女連れで千駄ヶ谷に行けば性交渉ができるというメリットがあった。

もう一つは、1970年代初頭に始まる「新宿ゲイタウン」の形成である(註6)。新宿二丁目「仲通り」周辺の狭い地域に200軒以上のゲイバーが集中する状態は、明らかに過剰集積だが、それで50年も成り立っている。それを支えているのは、ともかく二丁目に行けば、同じ性的指向の仲間に会えてと楽しい時間を過ごせるというメリットだ。

実は、「二丁目ゲイタウン」が形成される以前、山の手の盛り場、池袋にも、新宿の二丁目以外の地域にも、そして渋谷にも、ゲイバーがあった。そうした各地域に点在していたゲイバーは、ゲイタウン成立後に、すべてではないにしろ、姿を消していく(註7)。

地域に散在していたものが消え、特定のある地域に集中するという同じような過剰集積現象が、しかも似たような時期に起こっている。そこに「渋谷円山町ラブホテル街」の過剰の理由があると思う。

すり鉢の底の渋谷駅で降りたカップルは、どちら方向に歩いて坂を上るか迷うことなく、ともかく道玄坂を上がり円山町の「ラブホテル」街を目指せば、セックスできる。こうした利用者にとってのメリットが、過剰集積を支えている。

それでもまだ、遮二無二、円山町を目指すより、どこの坂を上ろうかとためらうカップルの方が情緒があって、私には好ましく思うのだが。

【註】
(註1)「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)は公開していないが、これを使って書いた論考として、次の2本がある。
① 三橋順子「1950年代東京の『連れ込み旅館』について ―『城南の箱根』ってどこ?―」(2020年)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-08
② 三橋順子「東京・千駄ヶ谷の『連れ込み旅館』街について ―『鳩の森騒動』と旅館街の終焉―」(2020年)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-13 
(註2)渋谷の旅館・ホテルの開業・廃業年については、金益見『性愛空間の文化史』(ミネルヴァ書房、2012年)32~43頁掲載の「経営者名簿」を参照した。
(註3)1950年代の「連れ込み旅館」の有名観光地・温泉への仮託は三橋(註1)の①を参照
(註4)カップルズ「東京都 渋谷区のラブホテル一覧」
https://couples.jp/hotels/search-by/cities/20
(註5)三橋(註1)の②を参照。
(註6)三橋順子「新宿二丁目『ゲイタウン』の形成過程」(『現代風俗学研究』19号 現代風俗研究会・東京の会、2019年)
(註7)「東京・大阪『ゲイ・レズ・SMバー』徹底比較」(『週刊大衆』1971年月日不明)によると、渋谷には9軒のゲイバーがあったが、「新宿二丁目。ゲイタウン」の成立後、数を減らしていく(三橋順子「戦後東京における『男色文化』の歴史地理的変遷」『現代風俗学研究』12号、現代風俗研究会・東京の会、2006年)。時期は異なるが、石田仁「いわゆる淫乱旅館について」(井上章一・三橋順子編『性欲の研究 東京のエロ地理編』平凡社、2015年)によると「千雅(せんが)」(1975~1989年)という男性同性愛者向けの「淫乱旅館」が道玄坂上にあった(三業地の外、南西のブロック)。1969年頃現況の住宅地図にみえる「花仙(かせん)」という旅館が前身とのこと。

【備考】
広告図版の8桁の数字は、掲載年月日を示す。
末尾にkがついているのは『日本観光新聞』、他はすべて『内外タイムス』。

【住宅地図】
「東京都全住宅案内図帳・渋谷区東部 1959」
(住宅協会。1959年)
「東京都大阪府全住宅精密図帳・渋谷区 1963年版」
(住宅協会東京支所、1962年6月)
「全国統一地形図式航空地図全住宅案内地図帳・渋谷区 1970年度版」
(公共施設地図航空株式会社、1971年1月)
「ゼンリンの住宅地図・東京都渋谷区 1983」
(日本住宅地図出版、1983年3月)
「ゼンリンの住宅地図・東京都渋谷区 1996」
(ゼンリン、1996年1月)

なお、住宅地図の調査と発行のタイムラグを考慮して、1963年版→1962年頃現況図、1970年版→1969年頃現況図などのように1年戻して表記した。

2020年4月20日 掲載
2020年5月6日 データ修正
2020年5月27日 現地調査に基づき、文章の一部修正。
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