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日本女装昔話【第29回】流転の女形 曾我廼家市蝶(その1) [日本女装昔話]

【第29回】流転の女形 曾我廼家市蝶(その1) 1940~1950年代

梅で有名な東京文京区湯島天神への参道はいくつかありますが、拝殿のすぐ脇に出る急な石段のある道を「男坂」といいます。
その上り口のあたりに、1950年代前半、「湯島」という小さなバーがありました。
 
今でこそほとんど存在を忘れられていますが、東京における女装(女形)系ゲイバーの先駆として当時の愛好家には有名な店でした。
 
その女将小林由利は、戦前、曾我廼家市蝶(しちょう)の名で新派の曾我廼家五郎劇団の女形だった人です。

この劇団は、座長の性癖を反映して、女優を一切使わない「女形天国」で、人気女形には、以前、このコーナーの第11話で紹介した曾我廼家桃蝶らがいました。
曾我廼家市蝶1.jpg
女形時代の曾我廼家市蝶(1940年頃)
(「流転女形系図」『人間探究』28号 1952年8月)
 
市蝶は1915年(大正4)頃の生まれ、子供の時から女性的傾向を自覚して女形で生きようと思い、14歳の時に娘形としてデビュー。
曾我廼家一座には19歳の時に入ったものの、必ずしも役柄には恵まれなかったようです。
 
1937年(昭和12)日中戦争が始まると、関東軍の慰問団に入り、満州や北支(中国北部)の部隊を巡業します。
終戦も満州の奉天(現:瀋陽)で迎え、引き上げまでの約1年間、新京(現:長春)で「蝶家」というバーを営んでいました。
 
1946年10月、焼け野原の東京に帰ってきた市蝶はたちまち生活に困窮します。
大陸に行く前に拠点にしていた浅草の劇場群も丸焼けで、舞台に立ちたくても活躍の場がなかったからです。

生計の当てのない市蝶に、昔の仲間が声を掛けます。
「お化粧してね、ちょっと男の人と話をすればお金儲けができるのよ」。

紹介されて行った先は、上野の女装男娼を束ねる姐さんの家。

生きるために覚悟を決めた市蝶は、仲間に加えてもらい、47年11月、初めて上野山下(西郷さんの銅像の下あたり)に立ちます。
32歳の時でした。
曾我廼家市蝶.JPG
上野池の端で客を取る市蝶
(「流転女形系図」『人間探究』28号 1952年8月)
 
ちなみに、1948年(昭和23)頃の女装男娼のお値段はショートで200円。
物価変動(インフレーション)が激しい時代なので比較が難しいのですが、電車の初乗りが3円、公務員の初任給は2300円ですから、50~60倍に換算すれば、10000~12000円相当になります。
客さえコンスタントにつけば、それなりに暮らしていけたはずです。
 
こうして夕闇が濃くなる頃、山下や池の端に立って男を誘い、男娼の秘技「レンコン」(筒形にした手を後ろから股間にあてて、そこに客のペニスを誘導する詐交のテクニック)で客を満足させる女装男娼の暮らしが始まりました。

最初は戸惑ったものの、天性の美貌と長い女形生活で培った女らしさは、男娼たちの中では抜群で、女形時代の知名度もあって贔屓客もつき、次第に暮らしも楽になっていきます。
 
市蝶が4年半の男娼暮らしで稼いだ資金で「湯島」を開店したのは1952年(昭和27)4月のことでした。
(続く)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第52号、2006年4月)

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