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【論考】坂の途中・渋谷の「性なる場」の変遷 ―「連れ込み旅館」から「ラブホテル街」の形成へ― [論文・講演アーカイブ]

         坂の途中・渋谷の「性なる場」の変遷

         ―「連れ込み旅館」から「ラブホテル街」の形成へ―

                  三橋 順子

はじめに
渋谷という街は、新宿に比べると「性なる場」が少ない。新宿は、内藤新宿の「飯盛り女」に始まり、大正末期にできた「新宿遊廓」、戦後の黙認売春地区「赤線・新宿二丁目」、非合法売春地区「青線・花園三光町」を経て、現代の歌舞伎町の性風俗街まで連綿と「性なる場」がある。それに対して、渋谷には「遊廓」も「赤線」も「青線」もなかった。あるのは円山町の花街だけ。もちろん、円山町の奥には街娼はいた(それが表面化したのが1997年の「東電女性社員殺害事件」)し、今も円山の「ラブホテル」街を仕事場にするデリバリーの風俗嬢もいるが、それらにしても新宿の方がずっとお盛んだ。つまり、渋谷はどうにも「性なる場」が希薄なのだ。そんな中で、唯一、渋谷が新宿に拮抗できる「性なる場」が1950年代の「連れ込み旅館」だ。

 私が作った「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」(註1)によると、渋谷エリアに32軒の「連れ込み旅館」が確認できる。これは千駄ヶ谷の39軒に次ぎ東京第2位、新宿の31軒をわずかだが凌いでいる。渋谷の「性なる場」と言えば「連れ込み旅館」とまでは言えないが、けっこう比重は高いと思う。

ところで、私は学生・院生時代の9年間を渋谷の街で過ごした。1970年代後半から1980年代前半のことだ。

学部生の頃、友人とときどき行ったコーヒーのおいしい喫茶店が桜丘の坂の途中にあった。たしか「論」という店だった(その後、移転し2013年閉店)。ある日、待ち合わせより早く着いたので、坂の先に行ってみた。上りきるあたりにラブホテルがあった。

院生の頃、先輩に連れていかれた雀荘が「中央街」の奥の坂の途中にあった。「雀荘(すずめそう)」というふざけた名前の雀荘だ。階下(2階)は、ストリップ劇場(渋谷OS劇場)だった。その坂の先にもラブホテルがあった。

こうした体験から、私は、少なくとも渋谷では、ラブホテルは坂の途中、もしくは坂の上の高台にあるものだと思っていた。

渋谷・ハチ公前で待ち合せたカップルは、ともかく坂を上っていけば、ラブホテルに入れるという感じだった。早い話、道玄坂を上っていけば円山町の「ラブホテル街」に行きつく。東急本店通りも同じで、左側でも右側でも坂を上れば、そこに「ラブホテル」があった。

いつ、そうした街の形ができたのだろう? 渋谷の「性なる場」の歴史地理を解明してみたい。

1 渋谷の地形と「連れ込み旅館」の分布
よく知られているように、渋谷はすり鉢のような地形で、その低いところにJR渋谷駅がある。もう少し正確に言えば、渋谷駅は暗渠化した渋谷川の上にある(暗渠は渋谷駅東口を通って渋谷橋で地上に出る)。渋谷では、ほぼ渋谷川に沿って走る明治通りが低地で、その両側が坂、さらに高台になっている。

数値でいえば、渋谷川の低地は駅付近で標高15m、周囲の台地は30~35m(道玄坂上の水準点が35.4m)、比高は15~20mで、その間が斜面、坂になっている。

青山の台地を走ってきた大山街道(江戸時代の大山参詣の道)は、宮益坂を急勾配で下り、渋谷川の低地で明治通りと直交すると、今度はすぐに道玄坂を上っていく。まるでジェットコースターのようだ(宮増坂下交差点の東は、通称、青山通り)。

渋谷の地理は、ほぼ南北に走る明治通りを縦軸に、東西に走る大山街道を横軸に(原点は宮益坂下交差点)考えるとわかりやすい。

第1象限は明治通り東側・宮益坂北側の旧・美竹町、宮下町、上通二丁目(現:渋谷区渋谷一丁目)、第2象限は明治通り西側・道玄坂北側の旧・宇田川町、大向通、円山町、上通四丁目、松濤町、北谷町(現:宇田川町、道玄坂二丁目、円山町、松濤一丁目、神南一丁目)。第3象限は明治通り西側・道玄坂南側の旧・上通三丁目、大和田町、桜ガ丘町、南平台町(現:道玄坂一丁目、桜丘町、南平台町)、第4象限が明治通り東側・宮益坂南側の旧・金王町、中通、並木町(現:渋谷二丁目、三丁目)となる。

すでに述べたように、「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」には、渋谷エリアに31軒の「連れ込み旅館」が確認できる。これはあくまで当時の新聞(『内外タイムス』『日本観光新聞』)に広告が掲載された旅館のみで、実際にはもっと多かっただろう。

先の象限に従って分類すると、次のようになる。
 第1象限 1軒
 第2象限 18軒
 第3象限 7軒
 第4象限 1軒
 その他  5軒

第2象限(明治通り西側、道玄坂北側)が圧倒的に多く、全31軒の6割近くを占める。次いで第3象限(明治通り西側、道玄坂南側)が7軒、第1と第4象限(明治通りの東側)はそれぞれ1軒と少ない。

ちなみに、その他は、神泉町に1軒、神山町に1軒、旧・目黒区上目黒八丁目(現:目黒区青葉台三丁目、四丁目)に3軒。

以下、象限(地域)ごとに、「連れ込み旅館」から「ラブホテル」へ、その変遷をたどってみよう。ただし、行論の都合上、少ない地域から多い地域へ順序を変えて見ることにする(4→1→3→2の順)。

2 第4象限(明治通り東側、宮益坂南側)
この地域で唯一、広告がある「大洋」は、渋谷駅の東口「渋谷警察署裏 高台」にあった。住所は金王町(現・渋谷三丁目)になる。「渋谷駅二分」は急げばそんな感じだ。別の記事には「金王八幡裏」とあるが、旅館の前の道そのまま進めば、渋谷の鎮守・金王八幡神社に至る。

広告では「見晴しのよい」「高台」が強調されている。このあたりは学生時代の通学路でよく知っているが、たしかに緩い上り坂の途中だが、「高台」とまでは言えないように思う。

この「大洋」は、別の広告で、浜松町と人形町の「一二三旅館」と同じ経営で、その「別館」という位置づけだったことがわかる。広告によれば1954年の新築開業で、また、別の記事(『内外タイムス』1954年5月11号)の挿絵を信じれば三階建の和風建築だった。
渋谷(大洋・19540404).jpg 渋谷(大洋・一二三旅館・19540520).jpg  
大洋(19540404) 大洋(19540520)   
渋谷(大洋・19540501) (2).jpg
大洋(19540511)

1969年頃現況の住宅地図では、「大洋」の敷地は「渋谷ロイヤルマンション」になっている。存続期間は長くなかったようだ。現在は「渋谷ロイヤルビル」(オフィスビル、1974年竣工)が建っている。

この地域には、旅館やホテルがほとんどない。背後に青山学院、実践女子大学、國學院大学などがある文教地区(旧:緑岡町、常盤松町・若木町。現:渋谷四丁目、東一丁目、四丁目)を控え、早くから高級住宅地化したためだろうか。

【地図1】金王町付近(1962年頃現況の住宅地図)
地図・金王町.jpg
(クリックすると大きくなります)

3 第1象限(明治通り東側、宮益坂北側) 
この地域で唯一、広告がある「たきや」は、宮益坂の途中、渋谷「郵便局上隣」の路地にあった。住所は美竹町。広告の地図に見える「東映」は、「渋谷東映」映画館のことで、現在は「ビックカメラ」が入っている「渋谷TOEI プラザ」ビルになっている(7、9階は「渋谷TOEI」映画館)。

1962年頃現況の住宅地図を見ると、隣接のブロックに「旅荘美竹」「宮益ホテル」「旅館梢月」「旅館清水」があり、坂の途中の小さな旅館街をなしていた。さらに、坂下の明治通りの近くには「東横ホテル」(1967年廃業)と「旅荘フタバ」があった。いずれも同種の「連れ込み旅館」だろう。
渋谷(たきや・19540402k).jpg
たきや(19540402k)

この坂の途中の小さな旅館のその後を見てみよう(註2)。「たきや」は広告を出した翌年の1964年に廃業し「旅館東荘」になったが、1976年には駐車場になり、じきに「渋谷キャステール」というマンションが建った(1977年6月竣工)。

旅館街としては1969年の8軒が最高で、その後は数を減らし、1980年代には旅館街の形は失われた。1988年に旅荘美琴荘が「ホテルウォンズイン」に、美琴荘別館は「ホテルミコト」になり、少なくとも1995年までは営業していた。その後「ホテルミコト」は駐車場になったが、「ホテルウォンズイン」は現在も営業中である。1964年の創業から数えると56年、この地域の「性なる場」としての役割を保っている。
ホテルウォンズイン - コピー.jpg
ホテルウォンズイン(2020年4月)

【表1】宮益坂(美竹町)の旅館・ホテル街の変遷
表1.jpg
(クリックすると大きくなります)

【地図2】宮益坂(美竹町)の旅館街(1962年頃現況の住宅地図)
地図・美竹町(宮益坂).jpg

4 第3象限(明治通り西側、道玄坂南側)
渋谷駅の南西の一帯、現在、玉川通りのバイパス(国道246号線)がカットしているが、もともとは一続きの丘陵だった。
(1)桜ケ丘
まず、旧・大和田町、桜ヶ丘町のエリア。ここでは4軒の「連れ込み旅館」が広告を出している。
渋谷駅南口を出てバス発着所を抜けて、南平台に至る上り坂に入ると、右側に「平安楼」がある。広告には「桜ヶ丘 南口 西へ 高台」とある。やはり坂の途中の「連れ込み旅館」だ。

さらに坂を上ると、渋谷区立大和田小学校(現:渋谷区文化総合センター大和田)の先に「東洋荘」があった。別の広告に「桜ヶ丘 大和田小学校上」とある通りだ。丘の上の立地で、広告の挿絵や写真のように、下から見上げればかなりの威容だったはずだ。
渋谷(東洋荘・19540122k) (2).jpg
「東洋荘」の写真(19540122k)

ちなみに、広告はないが、「平安楼」と「東洋荘」の間に、やはり「大和田小学校」に隣接して「旅館 桜ケ丘会館」があり、同種の旅館だと思われる。

大和田小学校の周囲に「連れ込み旅館」が多かったのは、1957年6月に旅館業法が改正され、学校の周囲おおむね100m以内に「清純な施設環境が著しく害されるおそれがあると認め」られる業者の営業は許可されなくなるまでは、なんらの規制もなかったからだ。「東洋荘」は1956年3月以前の開業なので、法的な問題はなかった。

「ひさご」は「渋谷駅南口3分 桜丘32」とある。桜並木がある「さくら通り」ではなく、すこし左に行ったところ(現在、曲がり角に「キリンシティ」がある)から桜丘を真っすぐ上る坂の途中、右側にあった。規模は小さい。この道の両側には、広告はないが坂下に「旅荘司」(1969年廃業)、「ひさご」のすぐ下には「旅館いずみ」、上には「桜ケ丘ホテル」、道向かいには「旅館京香」(1965年廃業)などがあり、5軒ほどが坂の途中の小さな旅館街をなしていた。「山水」は広告に「桜ヶ丘 高台」とあるが、場所はわからない。

大和田小学校の周囲の「連れ込み旅館」の寿命はあまり長くない。「平安楼」は1963年に廃業したようで1969年頃現況の住宅地図では「富士ハイツ」というアパートになっている(現在は「セルリアンタワー東急ホテル」の敷地の一部」)。「東洋荘」も1963年の廃業で、1969年頃現況の地図では北側3分の1ほどが「旅荘みき」(1975年廃業)になっている(現在はマンション「エクゼクティブ渋谷」1976年竣工)。「旅荘桜ケ丘会館」は健在でその後も名称を変えながら2003年まで営業を続ける。「東洋荘」があった場所の先(大和田小学校の裏手)に「ホテル白雲荘」(1975年廃業)と「ホテルグリーン」(1971年廃業)ができ、さらに奥に「ホテル南平台」ができたが、ほとんどが1970年代中頃までに消えた。

それに対して、桜丘町の小さな旅館街の寿命は少し長い。「ひさご」は1969年頃の地図にも見える(1971年廃業)。1976年頃現況図で3軒、1982年頃現況図で2軒が残っていた。「桜ケ丘ホテル」は1999年まで営業していたようで、学生時代の私が見たのは、ここであった可能性が高い。

桜丘の旅館・ホテル街は、それぞれ1軒を残して1970年代後半~80年代に姿を消した。

渋谷(平安楼・19560325).jpg 渋谷(東洋荘・19530403k).jpg
  平安楼               東洋荘    
(19560325)              (19560309k)
渋谷(ひさご・19541127).jpg渋谷(山水・195703021).jpg
ひさご     山水
(19541127)  (19570331)

【表2】桜丘町の旅館・ホテル街の変遷
表2.jpg

【地図3】桜丘町の旅館・ホテル街(1962年頃現況の住宅地図)
地図・桜丘町.jpg

(2)「中央街」の奥(道玄坂一丁目)
渋谷駅南口から道路を渡り、「東急プラザ」の右側の「渋谷中央街」を奥に進むと上り坂になる。坂の途中のT字路を右手に行くと、営団地下鉄(現:東京メトロ)銀座線の車庫がある。この一帯(旧:大和田町、現:道玄坂一丁目)には14軒ほどの旅館が坂の途中の旅館街を形成していた。

「あたり荘」は「地下鉄車庫脇坂上」とあるように、地下鉄車庫のすぐ南側、坂を上りきった所にあった。「あたり荘」のあるブロックと、その向かいの車庫際のブロックには、8軒の中小規模の旅館があった。「あたり荘」はその中でも最大規模で、広告によると、千駄ヶ谷の「あたり荘」と同じ経営者(渋谷が本店)のようだ。

その1ブロック手前(東)に「ホテル一楽」があった、広告には「大和田町高台 駒大横」とある。1961年には南隣にプロレスの力道山の本拠「リキスポーツプラザ」ができる。

「永好(ながよし)」は地図に見当たらない。「地下鉄車庫前 東急本社前」という記載をたよりに探すと「南平台東急ビル」の裏手に「旅館永吉」があり、「ながよし」と読めるのでこれに相当すると思われる。ただ「地下鉄車庫前」とは言えないが。

その後の状況を追うと、1969年頃現況の地図では「あたり荘」は隣の料亭や個人宅を併せてさらに大きくなり、「一楽」も「永吉」も健在だ。しかし「あたり荘」は1969年に廃業したようで、1976年頃の地図では、跡地に大きなマンション「プリメーラ道玄坂」(1974年竣工)が建っている。

「一楽」は1973年に廃業し、1976年頃には更地になっていたが、じきにマンション「ソシアル道玄坂」(1977年竣工)が建った。「永吉」も1971年に廃業し「新南平台東急ビル」(1974年竣工)の敷地になってしまう。

周辺の旅館群は、1976年頃にはなお6軒がホテル化して残っていたが、1982年頃には4軒に、1995年頃には2軒になってしまう。そして現在、このエリアのラブホテルは「ホテルシルク」と「ホテル梅村」の跡地に1988年に開業した「ホテルP&Aプラザ」の2軒だけになっている。こうして坂の上の旅館・ホテル街はほぼ消滅してしまった。

ちなみに、院生時代の私が見かけたホテルは、この最後に残った「ホテルシルク」だった可能性が強い。

渋谷(あたり荘・19550211k).jpg 渋谷(一楽・19551111).jpg 
あたり荘          ホテル一楽    
(19550211k)       (19551111)   
渋谷(永好・19550821).jpg
旅館永好(19550820)

【表3】「中央街」の奥(道玄坂一丁目)の旅館・ホテル街の変遷
表3.jpg

【地図4】「中央街」の奥(1962年頃現況の住宅地図)
地図・中央街の奥(1963).jpg

5 第2象限(明治通り西側、道玄坂北側)
18軒という最も多くの「連れ込み旅館」の広告が確認できるが、この地域の地形はかなり複雑だ。北西~西北西方向から流れる宇田川が谷を刻んで渋谷川に合流する。宇田川は暗渠化され井ノ頭通りになっている。さらに西南西から松濤の谷(現:東急文化村前の通り)が宇田川に入る、また南から神泉の谷が松濤の谷に合わさる。
宇田川水系.jpg
(参考図)宇田川の水系
本田創「東京の水 2005 Revisited 2015 Remaster Edition」
http://tokyowater2005remaster.blogspot.com/2015/12/2-10.html

そこで、この地域は、さらに5つの小地域に分けてみることにする。

(1)「公園通り」北側(神南一丁目)
宇田川の谷の北側の台地を、代々木公園の南口から渋谷区役所前を通り、緩く下って「渋谷MODI」がある神南1丁目交差点に至るのが渋谷公園通りだ(1973年「渋谷PARCO」のオープンに合わせて命名。その前は「区役所通り」と呼ばれていた)。その北側(北谷町)には、1950年代後半、「飛龍荘」と「渋谷ホテル」の2軒の「連れ込み旅館」があった。

「飛龍荘」の広告には「松竹先 渋谷信用金庫角左入る」とある。ただ「渋谷駅下車二分」は無理で、アベックが早足で歩いても5分はかかる。「渋谷ホテル」は「松竹の一つ先を曲った高台 北町54」とある(「北町」は「北谷町」の誤植か)。どちらも坂の途中の「連れ込み宿」だった。
ここに見える「松竹」は、現在の「西武デパート渋谷店」A館の場所にあった「渋谷松竹・銀星座」映画館のこと。当時は、映画館が格好のランドマークだった。

1962年頃現状の住宅地図を見ると、当然のことながら「渋谷PARCO」は影も形もない。渋谷から代々木公園を目指す緩い坂道の沿道は、まだビルが立ち並ぶ状態ではなく、かなり閑散としている。それでも北側はそれなりに建物があるが、南側は「東京山手教会」があるくらいで、空き地が目立つ。
「山手教会」の向かい側に「渋谷ホテル」が、その少し坂下の路地に「飛龍閣」があった。

渋谷(飛龍荘・19560107).jpg 渋谷(渋谷ホテル・19540402k).jpg 
ホテル飛龍閣    渋谷ホテル
(19560107)    (19540402k)

【地図5】公園通り(1962年頃現況の住宅地図)
【地図6】公園通り(1969年頃現況の住宅地図)
地図・公園通り(1963) (2).jpg 地図・公園通り(1970) (2).jpg

約7年後の1969年頃現況の住宅地図を見ると、「区役所通り」(後の「公園通り」)の南側は空き地が減って、「西武デパートC館」(現:西武パーキング館)が進出し、その東には映画館「渋谷地球座」が入るビルもできた。

「山手教会」の向かい側の「渋谷ホテル」は姿を消して、商業ビルになっている(1966年廃業、後に敷地の北半分にバレエ用品の「チャコット」の本社ビルが建つ)。「飛龍閣」はビル化したようだが同じ位置にある。

のちに「渋谷PARCO PART1」が建つ「有楽土地所有地」の筋向い、現在「渋谷区勤労福祉会館」があるブロックに「ラブホテル」と思われる「仙亭ホテル」「美苑ホテル」「千春ホテル」がある。「千春」はすでに1962年頃現況の地図に見えているが、このブロックが「ラブホテル」街化しつつあることがうかがえる。

さらに7年後の1976年頃現況図を見ると、1973年に「渋谷PARCO PART1」(赤枠)が開業し、さらに「PART1」の道路を挟んで北側の「仁愛病院」があった場所に「PART2」も開店している(1975年12月開業、2007年末休業)。
「飛龍閣」は「ホテル飛龍閣」になって営業を続けている。

注目すべきは、「勤労福祉会館」があるブロックで、以前からある「仙亭ホテル」「美苑ホテル」「千春ホテル」に加えて、「ホテル虹」「ホテルモンブラン」「渋谷ヒルトップホテル」「ホテルロイヤル」が開業し、7軒が密集する「ラブホテル」街になった。

この辺りは、坂を上りきったあたりで、東側は急勾配で渋谷川の谷に下っている。ホテルの名の通り「ヒルトップ」で、まさに丘の上の「ラブホテル街」だった。

さて、この丘の上の「ラブホテル」街のその後だが、1982年頃現況の地図では、一番古手の「千春ホテル」(1977年廃業)が商業ビルになり、「渋谷ヒルトップホテル」が「ホテルナンバーツー」になったが、なお6軒「ラブホテル」街を形成していた。ただ、一つ下のブロックで頑張っていた「ホテル飛龍閣」は消え、商業ビルになった(「渋谷三洋ビル」)。

【地図7】公園通り(1976年頃現況の住宅地図)
【地図8】公園通り(1982年頃現況の住宅地図)
地図・公園通り(1977) (2).jpg

しかし、1995年現況の地図では様相は一変する。「ホテルナンバーツー」と「ホテル虹」が1982年、「ホテルロイヤル」が1983年、「美苑ホテル」が1989年と相次いで廃業し、残るは「ホテル仙亭」が名を変えた「ホテル渚」(2001年廃業)と「ホテルモンブラン」(2000年廃業)の2軒のみになってしまう。それらも2000年代初頭に姿を消す。

そして今、かつての「ラブホテル」街の面影はまったくない。ここでも坂の途中のホテル街は消滅してしまった。 

【表4】公園通りの(神南一丁目)の旅館・ホテル街の変遷
表4.jpg

1970年代、おしゃれで文化的な渋谷の象徴として華々しく登場した「PARCO」のすぐ向かいは「ラブホテル」の集中エリアだった。

1970~80年代初頭の若者にとって、渋谷公園通り界隈は、単におしゃれなだけでなく、微妙に性的なエリアだった。公園通りを「ラブホテル」を目指して上っていくカップルもいたし、代々木公園で野外デートをした後、公園通りを下って「ラブホテル」に入るカップルも多かったはずだ。私も代々木競技場のあたりで、何度もデートした思い出がある。貧乏学生でお金がなかったからラブホテルには入らなかったが。

(2)「井ノ頭通り」周辺(宇田川町) 
渋谷川の最大の支流、宇田川の谷とその斜面(公園通り南側)の地域。宇田川は暗渠化して下流部は井ノ頭通りになっている。現在、「西武デパート渋谷店」のA館とB館の間を通っている井ノ頭通りが、1960年代まで国際通りと呼ばれていたことを知っている人は、もうかなり少ないだろう。「西武デパート渋谷店」B館の一部になっているところに「渋谷国際」という映画館があったからだ。

この国際通り周辺には、1950年代後半、かなりの数の「連れ込み旅館」があった。広告が確認できるものだけで7軒を数える。

国際通りの入口(明治通りとのT字路)に近い方から見てみよう。
まず、「タナベ」は「国際通り 松竹横」とある。この「松竹」は、既に述べたように、現在の「西武デパート渋谷店」A館の場所にあった「渋谷松竹・銀星座」映画館のことなので、「タナベ」は国際通りの入口に近い南側にあった。 

「青木荘」は「松竹と東銀の間左入り 国際向側」とあるので、これも国際通りの南側になる。

「ホテルチトセ」は「国際通り 二又・右側」とある。この「二又」は、東西に走ってきた井ノ頭透りが宇田川の流路と離れて、北西に向きを変える所にあるY字路のことで、現在、間に「渋谷警察署宇田川町交番」がある。ちなみに宇田川の流路は左側(南側)の細い方の道になる。
2016年7月のある日、私は「東急ハンズ」に行こうと井ノ頭通りを歩いていた。ふとビルの名称が目に入った。「ちとせ会館」。
ちとせ会館1.JPG
思わず路上で「あ~っ!」と声を出してしまった。まさにそこは「ホテルチトセ」があった「二又・右側」の場所ではないか。
ちとせ会館2.JPG
つまり、1950年後半に存在した連れ込み旅館「ホテルチトセ」の名前が、現在の「ちとせ会館」に受け継がれていたということ。なぜ、それまで気づかなかったかといえば、1962年頃現況の住宅地図には、現在の「ちとせ会館」の場所はすでに「宇田川有料駐車場」になっていて「チトセ」の文字はなかったから。この駐車場はかなり広く、「ホテルチトセ」が大きな建物であったことがわかる。広告の「和洋間四十数室」という規模もうなずける。

住宅地図でこの場所を追うと、1962~1976年頃「宇田川有料駐車場」、1978年頃「東急ハンズパーキング」、1982年頃「(仮称)千歳会館」となる、つまり、20年ほど有料駐車場で、ようやく1984年9月に商業ビル「ちとせ会館」が建った。

1950年代の「連れ込み旅館」の屋号が、後継のビルに受け継がれることはときどきあるが、20年を隔ててというのは珍しい。

「チトセ」の話が長くなってしまったが、話を戻そう。
「みすず」は「国際通り 300m右高台」とある。国際通りの入り口から300mというとかなり奥で、「右高台」とあるので、「井ノ頭通」と「公園通り」を結ぶ坂道(「PARCO」の脇に出る、通称「ペンギン通り」)のどこかだろう。この坂道には、1962年頃現況の地図に、右側に「ホテルコスモス」、左側に「旅館つたや」があり、その北に「旅館よし村」があった。どれも坂の途中の宿だ。「コスモス」が「みすず」の後身ではないかと疑っている。

「ふくや」は「国際通り シブヤ浴泉隣」とある。銭湯「渋谷浴泉」は現在、巨大な商業施設「渋谷BEAM」の一部になっている。そのどちら隣かわからないが、「ふくや」は国際通り沿いにあったことは間違いない。1963年に廃業したようだ。

「岩崎」は、1962年頃現況の地図で、Y字路の左側の道をちょっと行って左側に入る路地に見える。広告には「大映真裏」とあるが、「大映」は「東急本店通り」にあった「渋谷大映」映画館のことで、確かにその真裏になる。つまり、今風に言えば「センター街」の奥ということになる。1971年廃業して「新岩崎ビル」になった。 

最後に「黒岩荘」。「国際通り 左突き当り」とあるが、例のY字路の左側、宇田川が暗渠になっている道を行くと、やがて道が尽きる。と言うか、そこから上流の宇田川は暗渠ではなく開渠、つまり地上を流れていた(現在は暗渠化され道路になっている)。その宇田川が地上に現れる地点の北岸に「黒岩荘」があった。つまり、かろうじて川べりということになる。

「黒岩荘」は「渋谷の衣川」を称し(読みは「きぬがわ」で栃木県の鬼怒川温泉に仮託)」、「水族館付き」を自慢していた。当時の宇田川にどれほどの魚がいたか、かなり疑問だが、どうもこの旅館は川・水へのこだわりが感じられる。それも宇田川の畔という立地、失われた清流への追憶によるのかもしれない。「黒岩荘」は1979年に廃業し、跡地には「渋谷エステートビル」(オフィスビル)が建っている。

残念ながら、この地域の「連れ込み旅館は」は、1962年現況の地図でも正確な位置が確認できないものが多い。ただ、旧・宇田川の谷(低地)の国際通りと、その北側(南向き)の斜面(坂の途中)にかなりの数の「連れ込み旅館」があったことは間違いない。広告に見えないものを合わせると10軒を超えるだろう。

この地域は、その後渋谷でも有数の繁華街となっていき、1960年代の閑静な環境は失われ、いち早く商業ビル化が進んだ。多くの「連れ込み旅館」は「ラブホテル」化することなく姿を消したのはそのためだろう。それでも、1982年頃現況図では、宇田川北側の斜面を上る「ペンギン坂」の途中に「ホテル石庭」が、「ペンギン坂」と「スペイン坂」の合流点に「ホテルオリエント」があった。「ホテル石庭」は「ホテルコスモス」の後身だ。「ホテルオリエント」については1980年代の初め頃、「スペイン坂」を降りるとき「こんな賑やかな場所では入りにくいだろうな」と思った記憶がある。

どちらも1980年代半ばまでにオフィスビルになり、この界隈から「性なる場」は消えてしまった。

渋谷(タナベ・19570117).jpg 渋谷(青木荘・19530430).jpg    
タナベ       青木荘    
(19570117)    (19530430)
渋谷(ちとせ・19550507).jpg 渋谷(みすず・19570112).jpg
チトセ        みすず      
(19550507)     (19561207k)
渋谷(ふくや・19571211).jpg 渋谷(岩崎・19551228).jpg 渋谷(黒岩荘・19570130).jpg   
ふくや      岩崎         黒岩荘      
(19571211)  (19551228)     (19570130)   

【地図9】井ノ頭透り(1962年頃現況の住宅地図)
地図・井ノ頭通り(1963).jpg

(3)「東急本店通り」北側(松濤一丁目)
渋谷川の支流、宇田川のそのまた支流の松濤の谷筋を中心とする地域。松濤の川は、佐賀の鍋島侯爵家の別邸(現:鍋島松濤公園)の松濤池の湧水を源流とし、現在の「東急百貨店本店」の裏側を流れて、宇田川に合流していた。

「東急本店」(1967年開業)の敷地には、1964年まで「渋谷区立大向小学校」(宇田川町に移転し、1997年に統合に伴い神南小学校に改称)があった。「大向(おおむこう)」とは宇田川西側の細長い低地で、大正期までは「大向田んぼ」と呼ばれる水田が広がっていた。玉川通りから分かれて(分岐点には「渋谷109」)ここを北西方向に走る道が大向通りで、入口を入って少し行った右(北)側には「渋谷大映」映画館があったので大映通りとも呼ばれていた(後に東急本店通り、現:東急文化村通り)。

「渋谷大映」映画館(1950年1月)。最近まで大型パチンコ店「マルハンパチンコタワー渋谷」があった(2016年1月17日閉店)。

また、「大向小学校」前のY字路で大向通りから分かれて、ほぼ松濤の谷に沿って西に向かう道は栄通りと呼ばれていた。

松濤の小さな谷筋の北側(南向き)の斜面、そして宇田川の西側の斜面、つまり大向通りの西側、栄通りの北側に、1962年現況の地図で7軒(別館をカウント)ほどの旅館、ホテルがあった。

「ホテル山王」は2軒見える。1軒は「大向小学校」のすぐ裏手、低い崖を上がったところにもあった。もう1軒は大向通りをかなり奥に行ったところ。立地の便からして小学校裏手の方が先(本館)だろう。広告の「大映の先の横」という記述もふさわしい。推測するに、前にも触れた1957年6月の旅館業法の改正で、学校の周囲おおむね100m以内の営業に規制がかかった(増改築が難しくなった)ことと関係があるかもしれない。小学校裏の「ホテル山王」は明らかに100m以内だから。

大向通りの左側の斜面には手前から「一休荘」「ホテルエコー」、そして「ホテル山王」(別館?)が並んでいた。さらに奥に広告はないが「旅館こだま荘」があった。

「一休荘」の広告には「渋谷大映先 交番右入る」、「ホテルエコー」の広告には「大映先 大向通」とあり、「ホテル山王」も含めていずれも「大映」をランドマークにしている。1950年代の都市における映画館の重要性がよくわかる。

次に「ホテル ニューフジ」だが、広告の道案内には「大映通 消防署隣」とある。「消防署」は「渋谷消防署栄通出張所」のことで、広告にはかなりいい加減な地図が付いているが、要は消防署の火の見やぐらと郵便局(栄通り郵便局)の間の道を入れということ、この道は「観世能楽堂」に行く上り坂で、何度も歩いたことがある。
渋谷(ホテルニューフジ・19570209) (2).jpg
1962年現況の地図には「ホテル ニューフジ」は見えないが、地図の場所には「ホテル石亭」があり、これが後身だと思われる。西隣に「ホテル石亭・別館」があった。

ちなみに、「ホテル ニューフジ」=「ホテル石亭」の上の段には東京都知事の公館があった。連れ込みホテルと都知事公館はお隣さんだったのだ。

この斜面のホテル街のその後を見てみよう。1969年現況の地図では「一休荘」がビルになって消えた以外は健在だ。都知事公館の主は東龍太郎から美濃部亮吉に変わった。ところが1976年頃現況の地図では「山王本館」(1969年廃業)と「石亭本館・別館」(1969年廃業)が消え「山王別館」と「エコー」、それに「こだま荘」の3軒になってしまう。「山王本館」と「石亭別館」は駐車場に、「石亭本館」の跡地は空地になっている。

そして、1982年頃現況図では、「山王別館」がオフィスビル(「サンエルサビル」1978年竣工)になって消え、「エコー」と「こだま荘」の2軒になる。「石亭本館」の跡地は南に拡張した都知事公館(主は鈴木俊一)に飲み込まれる。「ホテルエコー」は1986年まで営業を続けたようだが、斜面のホテル街は1980年代半ばに姿を消した。

渋谷(ホテルエコー・19531126).jpg 
ホテルエコー(19531126)
渋谷(ホテル山王・19540728).jpg
ホテル山王(19550911) 
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一休荘(19560325)
渋谷(ホテルニューフジ・19540222).jpg
ホテル ニューフジ(19540222)

【表5】松濤谷北斜面(松濤一丁目)の旅館・ホテル街の変遷
表5.jpg

【地図10】松濤谷北斜面の旅館・ホテル街(1962年頃現況の住宅地図)
地図・松濤.jpg

(4)円山下・中腹(道玄坂二丁目)
玉川通り(道玄坂)北、大向通り(文化村通り)の西、松濤の谷の南側、旧栄通り郵便局(現在の「東急文化村)の西隣)から円山に上っていく坂道(現在の道玄坂二丁目と円山町の境界)の東。円山に上っていく途中(中腹)、現在の道玄坂二丁目の地域。円山の「三業地」は別に扱う。

1962年頃現況の地図には、この地域に17軒ほどの旅館を数えることができるが、多くは小規模なもので、広告が確認できるのは3軒のみ。

「高田旅館」は、大向通りの西側の斜面、階段状に整地した4段目にあった。この辺りには、道玄坂以外に真っすぐに上る道はなく道路が迷路のように複雑だ。広告に「道玄坂上る テアトル映画街入口 薬屋右入る四つ角左」とややこしいことを書いているのは、そのためだろう。

「テアトル映画館街」は「百軒店」の中にあった「テアトル渋谷」(現:「ライオンズマンション道玄坂」)、「テアトルSS」(現:「ホテルサンモール」)「テアトルハイツ」(現:マンション「サンモール道玄坂」)の映画館群のことで、「映画館街入口」というのは、現在「百軒店」の入口を示すアーケードがある道のこと。「高田旅館」はそこから入って右(少し下る)に行って左にあった(やはりややこしい)。道玄坂寄りに別館があり、その隣に本館があったが、1969年頃現況の地図では別館部分だけが旅館として営業している(1976、1982の現況図も同様)。1987年に廃業したようで、本館跡地は長らく駐車場だったが、現在(2020年5月)は大規模な再開発事業が進行している。別館跡地は「ホテルR25」(経営者は「高田旅館」と同姓)になっている。

「高田旅館」の一段下には、広告はないがこの地域で最も大きい旅館「渋谷聚楽」があったが、後に広い駐車場になり、現在は高田旅館本館跡地と合わせて、大規模な再開発事業が進行中。

「高田旅館」の1段上に「風久呂」があった。広告には「道玄坂 百軒店 ひまわり楽器右横入る」とある。「風久呂」は1976年頃の現況図には見えるが、1982年頃の現況図では「ホテルガラスの城」になっている。さらに1995年頃の図では「ホテルプリンスキャッスル」になった(現在は廃業)。ちなみに曲がり角の目印の「ひまわり楽器店」は、現在「ひまわりビル」になっている。

「風久呂」の西隣には「旅荘一村」があり、そのまた隣に「二幸」があった。「二幸」の広告は「大映先 大向小学校前高台」とあって大向通から案内している。小学校の前の坂を上って右折した場所なので、その方がわかりやすかったと思う。「二幸」は1976年頃の現況図で西隣にあった旅館を併せて大きくなっている。その敷地は1982年頃の図では「(仮称)ホテルV」となっていて、さらに1995年頃の図では「ホテルアランド」になる。経営がどう受け継がれたか判然としないが、もしかすると「二幸」の発展が「ホテルアランド」なのかもしれない。
渋谷(高田旅館・19550506k).jpg  渋谷(風久呂・19570124).jpg
高田旅館        風久呂           
(19550506k)    (19570124)
渋谷(二幸・19551228).jpg
二幸(19551228)

ところで「百軒店」は、関東大震災(1923年)後に「円山三業地」に隣り合う場所に開発された商店街で、戦後はテアトロ系映画館を中心に、喫茶店、バー、飲み屋、食堂など小規模な飲食店が立ち並ぶ繁華街になった。その中にはあまり旅館はなかった(3軒)。

この地域(道玄坂二丁目)の旅館・ホテルの歴史的な変遷を、住宅地図上で確認できる軒数で見てみよう。

1962年 69年 76年  82年  95年
17 →17 →21 →26 →33

1960年代には変化がなかったが、70年代に入り増えはじめ、80年代には増加基調に拍車がかかり、90年代半ばには、60年代のほぼ2倍にまで増殖している。

今まで、見てきた地域では、坂の途中の旅館街・ホテル街は、80年代までに衰退・ほぼ消滅していたが、道玄坂の途中の旅館街・ホテル街では、まったく逆の様相が現れている。

【地図11】円山下・中腹(道玄坂二丁目)の旅館・ホテル街(1962年頃現況の住宅地図)
地図・道玄坂二丁目(1963).jpg

(5)円山三業地(円山町)
道玄坂を上がった北側。渋谷台地の上、円山町の三業地(花街)。三業地は、料理屋、待合茶屋、芸妓置屋の三業種の営業が許可された地域のこと。

渋谷・円山の三業地は、1913年に指定され、1919年に「渋谷三業株式会社」を設立、関東大震災(1923)の直前1921年には芸妓置屋137戸、芸妓402人、待合96軒を数えた。戦後も繁栄は続き、1965年には料亭84軒があり、芸者170人がいた。

道玄坂を上りきった道玄坂上交番前交差点を右に入る道(北に進んで坂を下り「東急文化村」の前に出る道=現在の円山町と道玄坂二丁目の境界)の西側、交差点の交番(渋谷警察署道玄坂上交番)の先を左に入る道の北側、神泉の谷に下りる急崖の東側、松濤の谷に下りる南側が「三業地」の中心だった。「渋谷三業組合事務所」は、交番の先の東西道を3ブロック進んだ北側にあった。
この地域で広告が確認できる旅館はわずか2軒だけ。

「ホテルまつ」は広告に「道玄坂上(玉電曲角)本田屋餅菓子店横二軒」と見え、道玄坂上交番前交差点を右に入って3軒目にあった。三業地の中心からはやや外れた、とば口。「玉電曲角」というのは、渋谷駅を出て専用軌道で坂を上がってきた玉川電車(東急田園都市線の前身)がこの交差点でカーブして玉川通りの路面に出る。「本田屋餅菓子店」は1962年現況図で交差点の北角に「喫茶本田屋」と見えるのと関連するものだろう。

「まつ」のその後は、1969年現況図では「料理まつ」と見えるが、1971年に廃業したらしく、1976年現況図では駐車場になっている。現在はオフィスビル「Eスペースタワー」の敷地の一部になっている。

「よね林荘」は「道玄坂上 交番手前右入る」とあるように、道玄坂上交番前交差点を右に入り少し進んで左折した南側にあった。広告に「料亭米林別館」とあり、道向かいには「旅館米林」があり、その別館として1957年に開業したらしい。1969年に廃業したようで1969年頃現況図では別館が「タキザワ旅館」に、本館は「ホテルニッポン」(1969年開業、1975年廃業)なっている。現在は「まつ」と同様、オフィスビル「Eスペースタワー」の敷地の一部。
渋谷(まつ・19561023).jpg 渋谷(よね林荘・19570107).jpg
ホテルまつ   よね林荘    
(19561023)  (19570107)

この地域の広告が少ないのは、そもそも三業地と「連れ込み旅館」は相性が悪いからだと思う。三業地において、性交渉の中心は男性と玄人の女性で、その場は「待合」だった。それに対して「連れ込み旅館」の性交渉は男性と素人の女性だった。性的関係(セクシュアリティ)の構造が異なる。

わかりやすく言えば、玄人の女性が仕事をしている三業地にしてみれば、わざわざ素人の女性を呼び込む必要はなく、むしろ商売の邪魔なのだ。

こうした三業地と「連れ込み旅館」の(きつく言えば)排斥関係は、池袋や大塚の三業地でも見られる。

1962年現況の地図では、三業地の中心部分には料理屋・料亭が76軒数えられる。旅館は13軒にすぎず、圧倒的に料理屋・料亭が優勢だ。さらに言えば、この旅館も立地からして男性が素人の女性を連れ込むのではなく、玄人の女性が男性を連れ込む場所、「待合」的な旅館ではなかったかと思う。

そうした三業地の形態は1969年頃現況の地図でもほとんど変化がない。ところが1976年現況の地図では料理屋・料亭が24軒と大きく減り、旅館・ホテルは19軒に増える。地図の様式が変わったので、料理屋・料亭の数え落としがあると思われるが、ほぼ半減しているのは間違いない。「渋谷三業組合事務所」の建物も「円山自治会館」に変わってしまう。花街の衰退が見て取れる。

そして、1982年現況図では、料亭・料理屋11軒、旅館・ホテル20軒と逆転する。さらに1995年現況図では、9軒に対して27軒と差が大きく開く。

つまり、三業地が衰退してくると、両者の力関係が変わり、「連れ込み」系の旅館やホテルが三業地の中心部にまで入ってくるという現象がはっきり見られる。その勢力交代は1970年代後半に始まり1980年代に決定的に進行した。
【地図12】円山三業地の料亭と旅館(1962年頃現況の住宅地図)
(赤っぽい色が料亭・料理屋、緑色が旅館)
【地図13】円山三業地の料亭と旅館(1982年頃現況の住宅地図)
地図・円山三業地(1963).jpg 地図・円山三業地(1983) (2).jpg

ところで、松濤の谷から円山へ上がる道は、先に述べた旧・栄通り郵便局(現在の「東急文化村)の西隣)から上がる坂道(現在の道玄坂二丁目と円山町の境界)と、その一本先(西)の坂道の2本がある。円山の三業地に入るには道玄坂からが表口なので、この松濤の谷からの2本の道は裏口に当たる。

1962年現況の地図には、この2本の坂道の周囲に12軒の旅館があった。いずれも規模は小さく、裏口にふさわしい感じだ。ところが1969年現況図では14軒に増える。特に西側の坂道の両側の増加が著しい。こうして1970~1990年代には2本の急坂の両側に14~15軒の「ラブホテル」がびっしり林立するという特異な景観が出現した。

この坂の途中のホテルの開業年を列記すると、坂下に近い「ホテル龍水」1961年、「ホテル三喜荘」1964年、「ホテルサボア」1975年、次の段の「ホテル山水」1965年、「ホテルプリンセス」1967年、「ホテルニュー白川」1969年、もう1段上の「ホテルローレル」1971年、「ホテルユートピア」1973年、「ホテルスイス」1975年、坂上に近い「旅館若草」1973年となる(「ホテルはせがわ」と「ホテルみやま」は開業年不明=1950年代)。ホテルになる前からある「はせがわ」「みやま」「龍水」「三喜荘」「山水」に加えて、1960年代末からホテルの開業が相次いだことがわかる。

つまり、渋谷・円山の「ラブホテル街」の形成は、坂の途中から始まり、次第に坂を上って丘の上に至る、まるで「ラブホテル」が丘を上るかのように形成された。

【地図14】円山裏・二本の坂道周辺(1962年頃現況の住宅地図)
「龍水」「長谷川(はせがわ)」「みやま」はすでに見える。
【地図15】円山裏・二本の坂道周辺(1982年頃現況の住宅地図)
地図・円山裏の2本の坂道(1963).jpg 地図・円山裏の2本の坂道(1983).jpg

6 その他
地域巡りの最後に「その他」としたものを見てみよう。象限的にはすべて第3象限になる。

(1) 神泉
円山町の台地の西縁は、松濤の谷に南から北へ注ぐ神泉の谷へ急斜面で落ち込む。京王電鉄の井の頭線は、円山町をトンネルで抜けると、神泉駅のところで地上に出て、またすぐにトンネルに入る。駅が神泉谷の底にあることがよくわかる。

神泉駅の北に「菊栄旅館」があった。「高台閑静」とうたっているように、神泉谷の西側の斜面にあった。ここもやはり「坂の途中」の宿だったが1964年に廃業した。

神泉駅から東へ、急坂の途中に「旅館女大名」(1969年廃業)が、坂を上ったあたりには「旅館一条」(1964年廃業)「旅館たなか」(1965年廃業)があった。これらも1960年代末までに消える。

渋谷神泉(菊半旅館・19530619k).jpg
菊栄旅館(19530619k)

【地図16】神泉谷(1962年頃現況の住宅地図)
地図・神泉谷.jpg

(2)神山町
1955~58年頃、かなり斬新なデザインの広告を出していた「ホテルキャデラック」。住所の「神山59」は、山手通り(環状6号線)から東に少し入ったあたりで、神山町でも松濤町との境界に近い場所。

神山町一帯は今でこそ「奥渋谷」と呼ばれる人気スポットになっているが、渋谷駅からはかなり遠い。広告にも「渋谷駅より幡ヶ谷行きバス」(現:東急バス渋55系統)「3ツ目東大裏下車」「渋谷駅からタクシー70円」とあり、「自家用車時代にふさわしい」というコピーからも、逆に歩くにはつらい距離であることがわかる。

神山町59番地はさして広くない。1962年頃現況の地図を見ると、そこに「東京湯ヶ島ホテル」がある。比較的大きなホテルで59番地の半分近くを占めている。残り半分は「新自由キリスト道会本部」とその付属の「松村幼稚園」が占め、他に余地がないので、これが「ホテルキャデラック」の後身だろう。

広告に「旧プリンスオブトーキョー」とあるが、今のところどんな施設か不明である(なんとなく進駐軍関係のような・・・)。

現在、この場所は、なんとモンゴル大使館になっている。15年ほど前、地方在住の友人に頼まれて、モンゴル大使館にビザの代行取得に行ったことがある。松濤公園を左手に見ながら道を真っすぐどんどん奥に進む感じだった。そうか、あそこだったのか!
ちなみに、「東京湯ヶ島ホテル」の廃業は1971年、日本とモンゴル人民共和国(当時)との国交樹立、大使館開設は1972年なので、辻褄はぴったり合う。
渋谷神山町(キャデラック・19551120).jpg 
ホテルキャデラック(19551120)        
渋谷神山町(ホテルキャデラック・).jpg
ホテルキャデラック(19561020)
渋谷神山町(ホテルキャデラック・19580212).JPG
ホテルキャデラック(19580212)

【地図17】神山町付近(1962年頃現況の住宅地図)
地図・神山町.jpg

(3)「大坂上」付近(目黒区青葉台)
道玄坂を上りきったさらに先、玉川通り(大山街道)が渋谷台地から目黒川の谷に下りる急勾配「大坂」の上。行政区分はもう目黒区で、当時は上目黒八丁目、現在は玉川通りの南側が青葉台三丁目、北側が青葉台四丁目になっている。

渋谷(道玄宿・19561207k).jpg 渋谷(山のホテル・19550702).jpg  
道玄宿         山のホテル
(19561207k)      (19550702)

「道玄宿」は「道玄坂上四つ角」とあるが、この「四つ角」は玉川通りと(旧)山手通りが交差する、現在の「神泉町交差点」のこと(ここから西が目黒区になる)。その南西角に「道玄宿」はあった。「渋谷の高台」とあるように道玄坂を上りきった台地の最高地点(標高35m)に近い「丘の上の宿」だった。跡地は「(株)トヨタ東京カローラ・渋谷店」になっている。

ところで、1976年頃現況の地図には円山町の花街に近い道玄坂二丁目に「旅館道玄宿」が見える。この旅館は1969年頃現況図には「旅館道玄坂」として見えているが、「道玄宿」が正しいとするならば、もしかすると、道玄坂上の「道玄宿」が玉川通りの拡幅(1960年代後半)で敷地が削られたのを機会に道玄坂二丁目に移転したのかもしれない。

「山のホテル」は、松濤の「ホテル ニューフジ」と同系列で、玉川通りをさらに西に行った「大坂上」にあった。「渋谷駅八分」は相当健脚のアベックでも無理だと思う。「中将本舗前」とあるのは、婦人薬「中将湯」で有名な「津村順天堂」(現:「ツムラ」)の目黒工場がこの地にあったから。

玉川通の北側の斜面には「旅館大藤館」「旅館福田屋」「旅荘新舞子」があり、「山の上ホテル」と合わせて、ここも坂の上の小さな旅館・ホテル街を形成していた。

このホテルは「山の」という名称に加えて「丘の離れ」というコピーからわかるように「都会の山荘」のイメージを強く演出していた。広告の挿絵もまるで軽井沢かどこの山荘のようだ。
渋谷(山のホテル・19550702) (2).jpg

玉川通り沿いに別館があり、その奥(南側)に本館があったが、本館の南側はすぐに崖で、目黒川の低地(標高13m)とは15m以上の差があり、たしかに眺望は絶好だったと思う。

それにしても、現代の私たちは「都内で味わう奥伊豆情緒」は、いくらなんでも大袈裟だと思う。しかし、まだ観光旅行に出かけられる人が少なかった時代には、そうした仮託(疑似体験)に客を寄せる十分な効果があったのだろう(註3)。

現在、本館部分には、高級マンション「パークコート目黒青葉台ヒルトップレジデンス」が建っている。
渋谷(山のホテル・19571004).jpg 
  (19571004)

「三平」は、池袋の連れ込み旅館「三平」が渋谷に進出してきた宿で、1957年の開業。別の広告に「道玄坂上 三丁右入る」とあるが、玉川通りが目黒川の谷に下る「大坂」の北側斜面を階段状に整地した場所にあった。「断崖上」というのは大袈裟だが、見晴らしは良かったはず。「三平」の2つ下の段には「旅館山渓園」があった。

ただ、渋谷駅からははるかに遠く(約1.5km)、道玄坂上にあった玉電(東急田園都市線の前身の路面電車)の「上通停留所」からでも、かなり距離がある(約800m)。送迎に「自家用車無料サービス」というのも無理もない

この付近は首都高速3号渋谷線の池尻インターチェンジが設置されたため、道路の改変が激しく、跡地の比定が難しかったが、現在、「ソネンハイム大橋」というマンションの北隣に相当する。
渋谷(三平・19570116).jpg
三平(19570116)

【地図18】道元坂上~大坂上付近(1962年頃現況の住宅地図)
地図・大坂上.jpg

おわりに
以上、ぐるっと渋谷の「連れ込み旅館」から「ラブホテル」の歴史地理的な状況をみてきた。その結果、1950年代後半から60年代にかけて、渋谷のあちこちに旅館街が形成されていたことがわかった。そのキーワードは「坂の途中」だ。整理してみよう。

形成      全盛         衰退
① 美竹町(宮益坂の途中)   1960年代初頭?1960年代末(8軒)  1980年代
② 桜丘町(桜丘へ上がる坂)  1950年代後半 1960年代初頭(9軒)1970年代後半 
③ 道玄坂一丁目(中央街奥の坂)1950年代後半 1960年代初頭(14軒)1970年代後半
④ 神南一丁目(公園通りの途中)1970年代前半 1976年(7軒)    1980年代前半
⑤ 宇田川町(宇田川の北斜面) 1950年代後半 1960年代初頭(10軒)1960年代後半
⑥ 松濤一丁目(松濤谷の北斜面)1950年代後半 1960年代前半(7軒) 1970年代
⑦ 道玄坂二丁目(道玄坂の途中)1950年代後半 1990年代(33軒)  2000年代後半
⑧ 円山町(円山三業地の裏の坂)1950年代後半?1990年代(14軒)  2000年代後半

つまり、渋谷の坂の途中の旅館・ホテル街は8か所あった。若き日の私の「坂を上っていくとラブホテルがある」という印象は間違っていなかった。そのうち①②③⑤⑥の5か所は、1950年代後半から60年代初頭に形成され、60年代に全盛期を迎え、70年代から80年代に衰退し、ほぼ消滅していくという同じパターンをたどる。④だけは形成が70年代前半と遅いが、衰退の時期はやはり1980年代で変わらない。

消えていった6か所と、まったく違う動きをするのが⑥⑦で、形成の時期こそ同じだが、1970代後半~80年代に大増殖し、90年代にかけて全盛期を迎える。

つまり、①~⑥の旅館・ホテル街が衰退・消滅していくのと、⑦⑧が増殖・全盛となる現象が、1970代後半~80年代に同時並行的に起こったことになる。さらに⑥⑦は坂の途中から坂の上、つまり古くからの三業地である円山町の中心部にも侵入していく。増殖する「ラブホテル」は坂を上り丘の頂に達する。その結果、道玄坂と松濤の谷に挟まれた地帯に「ラブホテル」が極端に集中し、1980年代に巨大な「渋谷円山町ラブホテル街」が形成された。

2020年4月の段階で、渋谷区の「ラブホテル」の分布を調べたところ、全61軒の内訳は、円山町に28軒、道玄坂二丁目に27軒、地理的に連続するこのエリアに90%の55軒がある。玉川通り向かいの道玄坂一丁目の3軒を合わせると95%に達する。残り3軒は隣の駅の恵比寿なので、渋谷エリアの他の地域には「ラブホテル」はないと言ってもいいほどの集中度だ(註4)。

なぜこのような現象が起こったのだろうか? 
同じ業種の店が狭いエリアに多数立地すれば過当競争になって共倒れの危険性が高まるのではないか、それより適宜分散した方が良いのではないか、と素人考えに思う。

その一方で、同様の過剰集積の事例が2つ思い浮かぶ。
一つは、1950年代後半の千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街だ(註5)。さして広くない地域に広告が確認できるものだけで39軒、おそらく50軒近い「連れ込み旅館」があり、東京最大の集中地域だった。経営的にはさぞ競争が激しかったと思うが、利用者の側からすれば、女性を連れて新宿駅南口からタクシーに乗り「千駄ヶ谷へ」と言えば、運転手が馴染みの旅館に連れて行ってくれる。ともかく女連れで千駄ヶ谷に行けば性交渉ができるというメリットがあった。

もう一つは、1970年代初頭に始まる「新宿ゲイタウン」の形成である(註6)。新宿二丁目「仲通り」周辺の狭い地域に200軒以上のゲイバーが集中する状態は、明らかに過剰集積だが、それで50年も成り立っている。それを支えているのは、ともかく二丁目に行けば、同じ性的指向の仲間に会えてと楽しい時間を過ごせるというメリットだ。

実は、「二丁目ゲイタウン」が形成される以前、山の手の盛り場、池袋にも、新宿の二丁目以外の地域にも、そして渋谷にも、ゲイバーがあった。そうした各地域に点在していたゲイバーは、ゲイタウン成立後に、すべてではないにしろ、姿を消していく(註7)。

地域に散在していたものが消え、特定のある地域に集中するという同じような過剰集積現象が、しかも似たような時期に起こっている。そこに「渋谷円山町ラブホテル街」の過剰の理由があると思う。

すり鉢の底の渋谷駅で降りたカップルは、どちら方向に歩いて坂を上るか迷うことなく、ともかく道玄坂を上がり円山町の「ラブホテル」街を目指せば、セックスできる。こうした利用者にとってのメリットが、過剰集積を支えている。

それでもまだ、遮二無二、円山町を目指すより、どこの坂を上ろうかとためらうカップルの方が情緒があって、私には好ましく思うのだが。

【註】
(註1)「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)は公開していないが、これを使って書いた論考として、次の2本がある。
① 三橋順子「1950年代東京の『連れ込み旅館』について ―『城南の箱根』ってどこ?―」(2020年)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-08
② 三橋順子「東京・千駄ヶ谷の『連れ込み旅館』街について ―『鳩の森騒動』と旅館街の終焉―」(2020年)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-13 
(註2)渋谷の旅館・ホテルの開業・廃業年については、金益見『性愛空間の文化史』(ミネルヴァ書房、2012年)32~43頁掲載の「経営者名簿」を参照した。
(註3)1950年代の「連れ込み旅館」の有名観光地・温泉への仮託は三橋(註1)の①を参照
(註4)カップルズ「東京都 渋谷区のラブホテル一覧」
https://couples.jp/hotels/search-by/cities/20
(註5)三橋(註1)の②を参照。
(註6)三橋順子「新宿二丁目『ゲイタウン』の形成過程」(『現代風俗学研究』19号 現代風俗研究会・東京の会、2019年)
(註7)「東京・大阪『ゲイ・レズ・SMバー』徹底比較」(『週刊大衆』1971年月日不明)によると、渋谷には9軒のゲイバーがあったが、「新宿二丁目。ゲイタウン」の成立後、数を減らしていく(三橋順子「戦後東京における『男色文化』の歴史地理的変遷」『現代風俗学研究』12号、現代風俗研究会・東京の会、2006年)。時期は異なるが、石田仁「いわゆる淫乱旅館について」(井上章一・三橋順子編『性欲の研究 東京のエロ地理編』平凡社、2015年)によると「千雅(せんが)」(1975~1989年)という男性同性愛者向けの「淫乱旅館」が道玄坂上にあった(三業地の外、南西のブロック)。1969年頃現況の住宅地図にみえる「花仙(かせん)」という旅館が前身とのこと。

【備考】
広告図版の8桁の数字は、掲載年月日を示す。
末尾にkがついているのは『日本観光新聞』、他はすべて『内外タイムス』。

【住宅地図】
「東京都全住宅案内図帳・渋谷区東部 1959」
(住宅協会。1959年)
「東京都大阪府全住宅精密図帳・渋谷区 1963年版」
(住宅協会東京支所、1962年6月)
「全国統一地形図式航空地図全住宅案内地図帳・渋谷区 1970年度版」
(公共施設地図航空株式会社、1971年1月)
「ゼンリンの住宅地図・東京都渋谷区 1983」
(日本住宅地図出版、1983年3月)
「ゼンリンの住宅地図・東京都渋谷区 1996」
(ゼンリン、1996年1月)

なお、住宅地図の調査と発行のタイムラグを考慮して、1963年版→1962年頃現況図、1970年版→1969年頃現況図などのように1年戻して表記した。

2020年4月20日 掲載
2020年5月6日 データ修正
2020年5月27日 現地調査に基づき、文章の一部修正。
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