SSブログ

【論考】坂の途中・渋谷の「性なる場」の変遷 ―「連れ込み旅館」から「ラブホテル街」の形成へ― [論文・講演アーカイブ]

         坂の途中・渋谷の「性なる場」の変遷

         ―「連れ込み旅館」から「ラブホテル街」の形成へ―

                  三橋 順子

はじめに
渋谷という街は、新宿に比べると「性なる場」が少ない。新宿は、内藤新宿の「飯盛り女」に始まり、大正末期にできた「新宿遊廓」、戦後の黙認売春地区「赤線・新宿二丁目」、非合法売春地区「青線・花園三光町」を経て、現代の歌舞伎町の性風俗街まで連綿と「性なる場」がある。それに対して、渋谷には「遊廓」も「赤線」も「青線」もなかった。あるのは円山町の花街だけ。もちろん、円山町の奥には街娼はいた(それが表面化したのが1997年の「東電女性社員殺害事件」)し、今も円山の「ラブホテル」街を仕事場にするデリバリーの風俗嬢もいるが、それらにしても新宿の方がずっとお盛んだ。つまり、渋谷はどうにも「性なる場」が希薄なのだ。そんな中で、唯一、渋谷が新宿に拮抗できる「性なる場」が1950年代の「連れ込み旅館」だ。

 私が作った「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」(註1)によると、渋谷エリアに32軒の「連れ込み旅館」が確認できる。これは千駄ヶ谷の39軒に次ぎ東京第2位、新宿の31軒をわずかだが凌いでいる。渋谷の「性なる場」と言えば「連れ込み旅館」とまでは言えないが、けっこう比重は高いと思う。

ところで、私は学生・院生時代の9年間を渋谷の街で過ごした。1970年代後半から1980年代前半のことだ。

学部生の頃、友人とときどき行ったコーヒーのおいしい喫茶店が桜丘の坂の途中にあった。たしか「論」という店だった(その後、移転し2013年閉店)。ある日、待ち合わせより早く着いたので、坂の先に行ってみた。上りきるあたりにラブホテルがあった。

院生の頃、先輩に連れていかれた雀荘が「中央街」の奥の坂の途中にあった。「雀荘(すずめそう)」というふざけた名前の雀荘だ。階下(2階)は、ストリップ劇場(渋谷OS劇場)だった。その坂の先にもラブホテルがあった。

こうした体験から、私は、少なくとも渋谷では、ラブホテルは坂の途中、もしくは坂の上の高台にあるものだと思っていた。

渋谷・ハチ公前で待ち合せたカップルは、ともかく坂を上っていけば、ラブホテルに入れるという感じだった。早い話、道玄坂を上っていけば円山町の「ラブホテル街」に行きつく。東急本店通りも同じで、左側でも右側でも坂を上れば、そこに「ラブホテル」があった。

いつ、そうした街の形ができたのだろう? 渋谷の「性なる場」の歴史地理を解明してみたい。

1 渋谷の地形と「連れ込み旅館」の分布
よく知られているように、渋谷はすり鉢のような地形で、その低いところにJR渋谷駅がある。もう少し正確に言えば、渋谷駅は暗渠化した渋谷川の上にある(暗渠は渋谷駅東口を通って渋谷橋で地上に出る)。渋谷では、ほぼ渋谷川に沿って走る明治通りが低地で、その両側が坂、さらに高台になっている。

数値でいえば、渋谷川の低地は駅付近で標高15m、周囲の台地は30~35m(道玄坂上の水準点が35.4m)、比高は15~20mで、その間が斜面、坂になっている。

青山の台地を走ってきた大山街道(江戸時代の大山参詣の道)は、宮益坂を急勾配で下り、渋谷川の低地で明治通りと直交すると、今度はすぐに道玄坂を上っていく。まるでジェットコースターのようだ(宮増坂下交差点の東は、通称、青山通り)。

渋谷の地理は、ほぼ南北に走る明治通りを縦軸に、東西に走る大山街道を横軸に(原点は宮益坂下交差点)考えるとわかりやすい。

第1象限は明治通り東側・宮益坂北側の旧・美竹町、宮下町、上通二丁目(現:渋谷区渋谷一丁目)、第2象限は明治通り西側・道玄坂北側の旧・宇田川町、大向通、円山町、上通四丁目、松濤町、北谷町(現:宇田川町、道玄坂二丁目、円山町、松濤一丁目、神南一丁目)。第3象限は明治通り西側・道玄坂南側の旧・上通三丁目、大和田町、桜ガ丘町、南平台町(現:道玄坂一丁目、桜丘町、南平台町)、第4象限が明治通り東側・宮益坂南側の旧・金王町、中通、並木町(現:渋谷二丁目、三丁目)となる。

すでに述べたように、「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」には、渋谷エリアに31軒の「連れ込み旅館」が確認できる。これはあくまで当時の新聞(『内外タイムス』『日本観光新聞』)に広告が掲載された旅館のみで、実際にはもっと多かっただろう。

先の象限に従って分類すると、次のようになる。
 第1象限 1軒
 第2象限 18軒
 第3象限 7軒
 第4象限 1軒
 その他  5軒

第2象限(明治通り西側、道玄坂北側)が圧倒的に多く、全31軒の6割近くを占める。次いで第3象限(明治通り西側、道玄坂南側)が7軒、第1と第4象限(明治通りの東側)はそれぞれ1軒と少ない。

ちなみに、その他は、神泉町に1軒、神山町に1軒、旧・目黒区上目黒八丁目(現:目黒区青葉台三丁目、四丁目)に3軒。

以下、象限(地域)ごとに、「連れ込み旅館」から「ラブホテル」へ、その変遷をたどってみよう。ただし、行論の都合上、少ない地域から多い地域へ順序を変えて見ることにする(4→1→3→2の順)。

2 第4象限(明治通り東側、宮益坂南側)
この地域で唯一、広告がある「大洋」は、渋谷駅の東口「渋谷警察署裏 高台」にあった。住所は金王町(現・渋谷三丁目)になる。「渋谷駅二分」は急げばそんな感じだ。別の記事には「金王八幡裏」とあるが、旅館の前の道そのまま進めば、渋谷の鎮守・金王八幡神社に至る。

広告では「見晴しのよい」「高台」が強調されている。このあたりは学生時代の通学路でよく知っているが、たしかに緩い上り坂の途中だが、「高台」とまでは言えないように思う。

この「大洋」は、別の広告で、浜松町と人形町の「一二三旅館」と同じ経営で、その「別館」という位置づけだったことがわかる。広告によれば1954年の新築開業で、また、別の記事(『内外タイムス』1954年5月11号)の挿絵を信じれば三階建の和風建築だった。
渋谷(大洋・19540404).jpg 渋谷(大洋・一二三旅館・19540520).jpg  
大洋(19540404) 大洋(19540520)   
渋谷(大洋・19540501) (2).jpg
大洋(19540511)

1969年頃現況の住宅地図では、「大洋」の敷地は「渋谷ロイヤルマンション」になっている。存続期間は長くなかったようだ。現在は「渋谷ロイヤルビル」(オフィスビル、1974年竣工)が建っている。

この地域には、旅館やホテルがほとんどない。背後に青山学院、実践女子大学、國學院大学などがある文教地区(旧:緑岡町、常盤松町・若木町。現:渋谷四丁目、東一丁目、四丁目)を控え、早くから高級住宅地化したためだろうか。

【地図1】金王町付近(1962年頃現況の住宅地図)
地図・金王町.jpg
(クリックすると大きくなります)

3 第1象限(明治通り東側、宮益坂北側) 
この地域で唯一、広告がある「たきや」は、宮益坂の途中、渋谷「郵便局上隣」の路地にあった。住所は美竹町。広告の地図に見える「東映」は、「渋谷東映」映画館のことで、現在は「ビックカメラ」が入っている「渋谷TOEI プラザ」ビルになっている(7、9階は「渋谷TOEI」映画館)。

1962年頃現況の住宅地図を見ると、隣接のブロックに「旅荘美竹」「宮益ホテル」「旅館梢月」「旅館清水」があり、坂の途中の小さな旅館街をなしていた。さらに、坂下の明治通りの近くには「東横ホテル」(1967年廃業)と「旅荘フタバ」があった。いずれも同種の「連れ込み旅館」だろう。
渋谷(たきや・19540402k).jpg
たきや(19540402k)

この坂の途中の小さな旅館のその後を見てみよう(註2)。「たきや」は広告を出した翌年の1964年に廃業し「旅館東荘」になったが、1976年には駐車場になり、じきに「渋谷キャステール」というマンションが建った(1977年6月竣工)。

旅館街としては1969年の8軒が最高で、その後は数を減らし、1980年代には旅館街の形は失われた。1988年に旅荘美琴荘が「ホテルウォンズイン」に、美琴荘別館は「ホテルミコト」になり、少なくとも1995年までは営業していた。その後「ホテルミコト」は駐車場になったが、「ホテルウォンズイン」は現在も営業中である。1964年の創業から数えると56年、この地域の「性なる場」としての役割を保っている。
ホテルウォンズイン - コピー.jpg
ホテルウォンズイン(2020年4月)

【表1】宮益坂(美竹町)の旅館・ホテル街の変遷
表1.jpg
(クリックすると大きくなります)

【地図2】宮益坂(美竹町)の旅館街(1962年頃現況の住宅地図)
地図・美竹町(宮益坂).jpg

4 第3象限(明治通り西側、道玄坂南側)
渋谷駅の南西の一帯、現在、玉川通りのバイパス(国道246号線)がカットしているが、もともとは一続きの丘陵だった。
(1)桜ケ丘
まず、旧・大和田町、桜ヶ丘町のエリア。ここでは4軒の「連れ込み旅館」が広告を出している。
渋谷駅南口を出てバス発着所を抜けて、南平台に至る上り坂に入ると、右側に「平安楼」がある。広告には「桜ヶ丘 南口 西へ 高台」とある。やはり坂の途中の「連れ込み旅館」だ。

さらに坂を上ると、渋谷区立大和田小学校(現:渋谷区文化総合センター大和田)の先に「東洋荘」があった。別の広告に「桜ヶ丘 大和田小学校上」とある通りだ。丘の上の立地で、広告の挿絵や写真のように、下から見上げればかなりの威容だったはずだ。
渋谷(東洋荘・19540122k) (2).jpg
「東洋荘」の写真(19540122k)

ちなみに、広告はないが、「平安楼」と「東洋荘」の間に、やはり「大和田小学校」に隣接して「旅館 桜ケ丘会館」があり、同種の旅館だと思われる。

大和田小学校の周囲に「連れ込み旅館」が多かったのは、1957年6月に旅館業法が改正され、学校の周囲おおむね100m以内に「清純な施設環境が著しく害されるおそれがあると認め」られる業者の営業は許可されなくなるまでは、なんらの規制もなかったからだ。「東洋荘」は1956年3月以前の開業なので、法的な問題はなかった。

「ひさご」は「渋谷駅南口3分 桜丘32」とある。桜並木がある「さくら通り」ではなく、すこし左に行ったところ(現在、曲がり角に「キリンシティ」がある)から桜丘を真っすぐ上る坂の途中、右側にあった。規模は小さい。この道の両側には、広告はないが坂下に「旅荘司」(1969年廃業)、「ひさご」のすぐ下には「旅館いずみ」、上には「桜ケ丘ホテル」、道向かいには「旅館京香」(1965年廃業)などがあり、5軒ほどが坂の途中の小さな旅館街をなしていた。「山水」は広告に「桜ヶ丘 高台」とあるが、場所はわからない。

大和田小学校の周囲の「連れ込み旅館」の寿命はあまり長くない。「平安楼」は1963年に廃業したようで1969年頃現況の住宅地図では「富士ハイツ」というアパートになっている(現在は「セルリアンタワー東急ホテル」の敷地の一部」)。「東洋荘」も1963年の廃業で、1969年頃現況の地図では北側3分の1ほどが「旅荘みき」(1975年廃業)になっている(現在はマンション「エクゼクティブ渋谷」1976年竣工)。「旅荘桜ケ丘会館」は健在でその後も名称を変えながら2003年まで営業を続ける。「東洋荘」があった場所の先(大和田小学校の裏手)に「ホテル白雲荘」(1975年廃業)と「ホテルグリーン」(1971年廃業)ができ、さらに奥に「ホテル南平台」ができたが、ほとんどが1970年代中頃までに消えた。

それに対して、桜丘町の小さな旅館街の寿命は少し長い。「ひさご」は1969年頃の地図にも見える(1971年廃業)。1976年頃現況図で3軒、1982年頃現況図で2軒が残っていた。「桜ケ丘ホテル」は1999年まで営業していたようで、学生時代の私が見たのは、ここであった可能性が高い。

桜丘の旅館・ホテル街は、それぞれ1軒を残して1970年代後半~80年代に姿を消した。

渋谷(平安楼・19560325).jpg 渋谷(東洋荘・19530403k).jpg
  平安楼               東洋荘    
(19560325)              (19560309k)
渋谷(ひさご・19541127).jpg渋谷(山水・195703021).jpg
ひさご     山水
(19541127)  (19570331)

【表2】桜丘町の旅館・ホテル街の変遷
表2.jpg

【地図3】桜丘町の旅館・ホテル街(1962年頃現況の住宅地図)
地図・桜丘町.jpg

(2)「中央街」の奥(道玄坂一丁目)
渋谷駅南口から道路を渡り、「東急プラザ」の右側の「渋谷中央街」を奥に進むと上り坂になる。坂の途中のT字路を右手に行くと、営団地下鉄(現:東京メトロ)銀座線の車庫がある。この一帯(旧:大和田町、現:道玄坂一丁目)には14軒ほどの旅館が坂の途中の旅館街を形成していた。

「あたり荘」は「地下鉄車庫脇坂上」とあるように、地下鉄車庫のすぐ南側、坂を上りきった所にあった。「あたり荘」のあるブロックと、その向かいの車庫際のブロックには、8軒の中小規模の旅館があった。「あたり荘」はその中でも最大規模で、広告によると、千駄ヶ谷の「あたり荘」と同じ経営者(渋谷が本店)のようだ。

その1ブロック手前(東)に「ホテル一楽」があった、広告には「大和田町高台 駒大横」とある。1961年には南隣にプロレスの力道山の本拠「リキスポーツプラザ」ができる。

「永好(ながよし)」は地図に見当たらない。「地下鉄車庫前 東急本社前」という記載をたよりに探すと「南平台東急ビル」の裏手に「旅館永吉」があり、「ながよし」と読めるのでこれに相当すると思われる。ただ「地下鉄車庫前」とは言えないが。

その後の状況を追うと、1969年頃現況の地図では「あたり荘」は隣の料亭や個人宅を併せてさらに大きくなり、「一楽」も「永吉」も健在だ。しかし「あたり荘」は1969年に廃業したようで、1976年頃の地図では、跡地に大きなマンション「プリメーラ道玄坂」(1974年竣工)が建っている。

「一楽」は1973年に廃業し、1976年頃には更地になっていたが、じきにマンション「ソシアル道玄坂」(1977年竣工)が建った。「永吉」も1971年に廃業し「新南平台東急ビル」(1974年竣工)の敷地になってしまう。

周辺の旅館群は、1976年頃にはなお6軒がホテル化して残っていたが、1982年頃には4軒に、1995年頃には2軒になってしまう。そして現在、このエリアのラブホテルは「ホテルシルク」と「ホテル梅村」の跡地に1988年に開業した「ホテルP&Aプラザ」の2軒だけになっている。こうして坂の上の旅館・ホテル街はほぼ消滅してしまった。

ちなみに、院生時代の私が見かけたホテルは、この最後に残った「ホテルシルク」だった可能性が強い。

渋谷(あたり荘・19550211k).jpg 渋谷(一楽・19551111).jpg 
あたり荘          ホテル一楽    
(19550211k)       (19551111)   
渋谷(永好・19550821).jpg
旅館永好(19550820)

【表3】「中央街」の奥(道玄坂一丁目)の旅館・ホテル街の変遷
表3.jpg

【地図4】「中央街」の奥(1962年頃現況の住宅地図)
地図・中央街の奥(1963).jpg

5 第2象限(明治通り西側、道玄坂北側)
18軒という最も多くの「連れ込み旅館」の広告が確認できるが、この地域の地形はかなり複雑だ。北西~西北西方向から流れる宇田川が谷を刻んで渋谷川に合流する。宇田川は暗渠化され井ノ頭通りになっている。さらに西南西から松濤の谷(現:東急文化村前の通り)が宇田川に入る、また南から神泉の谷が松濤の谷に合わさる。
宇田川水系.jpg
(参考図)宇田川の水系
本田創「東京の水 2005 Revisited 2015 Remaster Edition」
http://tokyowater2005remaster.blogspot.com/2015/12/2-10.html

そこで、この地域は、さらに5つの小地域に分けてみることにする。

(1)「公園通り」北側(神南一丁目)
宇田川の谷の北側の台地を、代々木公園の南口から渋谷区役所前を通り、緩く下って「渋谷MODI」がある神南1丁目交差点に至るのが渋谷公園通りだ(1973年「渋谷PARCO」のオープンに合わせて命名。その前は「区役所通り」と呼ばれていた)。その北側(北谷町)には、1950年代後半、「飛龍荘」と「渋谷ホテル」の2軒の「連れ込み旅館」があった。

「飛龍荘」の広告には「松竹先 渋谷信用金庫角左入る」とある。ただ「渋谷駅下車二分」は無理で、アベックが早足で歩いても5分はかかる。「渋谷ホテル」は「松竹の一つ先を曲った高台 北町54」とある(「北町」は「北谷町」の誤植か)。どちらも坂の途中の「連れ込み宿」だった。
ここに見える「松竹」は、現在の「西武デパート渋谷店」A館の場所にあった「渋谷松竹・銀星座」映画館のこと。当時は、映画館が格好のランドマークだった。

1962年頃現状の住宅地図を見ると、当然のことながら「渋谷PARCO」は影も形もない。渋谷から代々木公園を目指す緩い坂道の沿道は、まだビルが立ち並ぶ状態ではなく、かなり閑散としている。それでも北側はそれなりに建物があるが、南側は「東京山手教会」があるくらいで、空き地が目立つ。
「山手教会」の向かい側に「渋谷ホテル」が、その少し坂下の路地に「飛龍閣」があった。

渋谷(飛龍荘・19560107).jpg 渋谷(渋谷ホテル・19540402k).jpg 
ホテル飛龍閣    渋谷ホテル
(19560107)    (19540402k)

【地図5】公園通り(1962年頃現況の住宅地図)
【地図6】公園通り(1969年頃現況の住宅地図)
地図・公園通り(1963) (2).jpg 地図・公園通り(1970) (2).jpg

約7年後の1969年頃現況の住宅地図を見ると、「区役所通り」(後の「公園通り」)の南側は空き地が減って、「西武デパートC館」(現:西武パーキング館)が進出し、その東には映画館「渋谷地球座」が入るビルもできた。

「山手教会」の向かい側の「渋谷ホテル」は姿を消して、商業ビルになっている(1966年廃業、後に敷地の北半分にバレエ用品の「チャコット」の本社ビルが建つ)。「飛龍閣」はビル化したようだが同じ位置にある。

のちに「渋谷PARCO PART1」が建つ「有楽土地所有地」の筋向い、現在「渋谷区勤労福祉会館」があるブロックに「ラブホテル」と思われる「仙亭ホテル」「美苑ホテル」「千春ホテル」がある。「千春」はすでに1962年頃現況の地図に見えているが、このブロックが「ラブホテル」街化しつつあることがうかがえる。

さらに7年後の1976年頃現況図を見ると、1973年に「渋谷PARCO PART1」(赤枠)が開業し、さらに「PART1」の道路を挟んで北側の「仁愛病院」があった場所に「PART2」も開店している(1975年12月開業、2007年末休業)。
「飛龍閣」は「ホテル飛龍閣」になって営業を続けている。

注目すべきは、「勤労福祉会館」があるブロックで、以前からある「仙亭ホテル」「美苑ホテル」「千春ホテル」に加えて、「ホテル虹」「ホテルモンブラン」「渋谷ヒルトップホテル」「ホテルロイヤル」が開業し、7軒が密集する「ラブホテル」街になった。

この辺りは、坂を上りきったあたりで、東側は急勾配で渋谷川の谷に下っている。ホテルの名の通り「ヒルトップ」で、まさに丘の上の「ラブホテル街」だった。

さて、この丘の上の「ラブホテル」街のその後だが、1982年頃現況の地図では、一番古手の「千春ホテル」(1977年廃業)が商業ビルになり、「渋谷ヒルトップホテル」が「ホテルナンバーツー」になったが、なお6軒「ラブホテル」街を形成していた。ただ、一つ下のブロックで頑張っていた「ホテル飛龍閣」は消え、商業ビルになった(「渋谷三洋ビル」)。

【地図7】公園通り(1976年頃現況の住宅地図)
【地図8】公園通り(1982年頃現況の住宅地図)
地図・公園通り(1977) (2).jpg

しかし、1995年現況の地図では様相は一変する。「ホテルナンバーツー」と「ホテル虹」が1982年、「ホテルロイヤル」が1983年、「美苑ホテル」が1989年と相次いで廃業し、残るは「ホテル仙亭」が名を変えた「ホテル渚」(2001年廃業)と「ホテルモンブラン」(2000年廃業)の2軒のみになってしまう。それらも2000年代初頭に姿を消す。

そして今、かつての「ラブホテル」街の面影はまったくない。ここでも坂の途中のホテル街は消滅してしまった。 

【表4】公園通りの(神南一丁目)の旅館・ホテル街の変遷
表4.jpg

1970年代、おしゃれで文化的な渋谷の象徴として華々しく登場した「PARCO」のすぐ向かいは「ラブホテル」の集中エリアだった。

1970~80年代初頭の若者にとって、渋谷公園通り界隈は、単におしゃれなだけでなく、微妙に性的なエリアだった。公園通りを「ラブホテル」を目指して上っていくカップルもいたし、代々木公園で野外デートをした後、公園通りを下って「ラブホテル」に入るカップルも多かったはずだ。私も代々木競技場のあたりで、何度もデートした思い出がある。貧乏学生でお金がなかったからラブホテルには入らなかったが。

(2)「井ノ頭通り」周辺(宇田川町) 
渋谷川の最大の支流、宇田川の谷とその斜面(公園通り南側)の地域。宇田川は暗渠化して下流部は井ノ頭通りになっている。現在、「西武デパート渋谷店」のA館とB館の間を通っている井ノ頭通りが、1960年代まで国際通りと呼ばれていたことを知っている人は、もうかなり少ないだろう。「西武デパート渋谷店」B館の一部になっているところに「渋谷国際」という映画館があったからだ。

この国際通り周辺には、1950年代後半、かなりの数の「連れ込み旅館」があった。広告が確認できるものだけで7軒を数える。

国際通りの入口(明治通りとのT字路)に近い方から見てみよう。
まず、「タナベ」は「国際通り 松竹横」とある。この「松竹」は、既に述べたように、現在の「西武デパート渋谷店」A館の場所にあった「渋谷松竹・銀星座」映画館のことなので、「タナベ」は国際通りの入口に近い南側にあった。 

「青木荘」は「松竹と東銀の間左入り 国際向側」とあるので、これも国際通りの南側になる。

「ホテルチトセ」は「国際通り 二又・右側」とある。この「二又」は、東西に走ってきた井ノ頭透りが宇田川の流路と離れて、北西に向きを変える所にあるY字路のことで、現在、間に「渋谷警察署宇田川町交番」がある。ちなみに宇田川の流路は左側(南側)の細い方の道になる。
2016年7月のある日、私は「東急ハンズ」に行こうと井ノ頭通りを歩いていた。ふとビルの名称が目に入った。「ちとせ会館」。
ちとせ会館1.JPG
思わず路上で「あ~っ!」と声を出してしまった。まさにそこは「ホテルチトセ」があった「二又・右側」の場所ではないか。
ちとせ会館2.JPG
つまり、1950年後半に存在した連れ込み旅館「ホテルチトセ」の名前が、現在の「ちとせ会館」に受け継がれていたということ。なぜ、それまで気づかなかったかといえば、1962年頃現況の住宅地図には、現在の「ちとせ会館」の場所はすでに「宇田川有料駐車場」になっていて「チトセ」の文字はなかったから。この駐車場はかなり広く、「ホテルチトセ」が大きな建物であったことがわかる。広告の「和洋間四十数室」という規模もうなずける。

住宅地図でこの場所を追うと、1962~1976年頃「宇田川有料駐車場」、1978年頃「東急ハンズパーキング」、1982年頃「(仮称)千歳会館」となる、つまり、20年ほど有料駐車場で、ようやく1984年9月に商業ビル「ちとせ会館」が建った。

1950年代の「連れ込み旅館」の屋号が、後継のビルに受け継がれることはときどきあるが、20年を隔ててというのは珍しい。

「チトセ」の話が長くなってしまったが、話を戻そう。
「みすず」は「国際通り 300m右高台」とある。国際通りの入り口から300mというとかなり奥で、「右高台」とあるので、「井ノ頭通」と「公園通り」を結ぶ坂道(「PARCO」の脇に出る、通称「ペンギン通り」)のどこかだろう。この坂道には、1962年頃現況の地図に、右側に「ホテルコスモス」、左側に「旅館つたや」があり、その北に「旅館よし村」があった。どれも坂の途中の宿だ。「コスモス」が「みすず」の後身ではないかと疑っている。

「ふくや」は「国際通り シブヤ浴泉隣」とある。銭湯「渋谷浴泉」は現在、巨大な商業施設「渋谷BEAM」の一部になっている。そのどちら隣かわからないが、「ふくや」は国際通り沿いにあったことは間違いない。1963年に廃業したようだ。

「岩崎」は、1962年頃現況の地図で、Y字路の左側の道をちょっと行って左側に入る路地に見える。広告には「大映真裏」とあるが、「大映」は「東急本店通り」にあった「渋谷大映」映画館のことで、確かにその真裏になる。つまり、今風に言えば「センター街」の奥ということになる。1971年廃業して「新岩崎ビル」になった。 

最後に「黒岩荘」。「国際通り 左突き当り」とあるが、例のY字路の左側、宇田川が暗渠になっている道を行くと、やがて道が尽きる。と言うか、そこから上流の宇田川は暗渠ではなく開渠、つまり地上を流れていた(現在は暗渠化され道路になっている)。その宇田川が地上に現れる地点の北岸に「黒岩荘」があった。つまり、かろうじて川べりということになる。

「黒岩荘」は「渋谷の衣川」を称し(読みは「きぬがわ」で栃木県の鬼怒川温泉に仮託)」、「水族館付き」を自慢していた。当時の宇田川にどれほどの魚がいたか、かなり疑問だが、どうもこの旅館は川・水へのこだわりが感じられる。それも宇田川の畔という立地、失われた清流への追憶によるのかもしれない。「黒岩荘」は1979年に廃業し、跡地には「渋谷エステートビル」(オフィスビル)が建っている。

残念ながら、この地域の「連れ込み旅館は」は、1962年現況の地図でも正確な位置が確認できないものが多い。ただ、旧・宇田川の谷(低地)の国際通りと、その北側(南向き)の斜面(坂の途中)にかなりの数の「連れ込み旅館」があったことは間違いない。広告に見えないものを合わせると10軒を超えるだろう。

この地域は、その後渋谷でも有数の繁華街となっていき、1960年代の閑静な環境は失われ、いち早く商業ビル化が進んだ。多くの「連れ込み旅館」は「ラブホテル」化することなく姿を消したのはそのためだろう。それでも、1982年頃現況図では、宇田川北側の斜面を上る「ペンギン坂」の途中に「ホテル石庭」が、「ペンギン坂」と「スペイン坂」の合流点に「ホテルオリエント」があった。「ホテル石庭」は「ホテルコスモス」の後身だ。「ホテルオリエント」については1980年代の初め頃、「スペイン坂」を降りるとき「こんな賑やかな場所では入りにくいだろうな」と思った記憶がある。

どちらも1980年代半ばまでにオフィスビルになり、この界隈から「性なる場」は消えてしまった。

渋谷(タナベ・19570117).jpg 渋谷(青木荘・19530430).jpg    
タナベ       青木荘    
(19570117)    (19530430)
渋谷(ちとせ・19550507).jpg 渋谷(みすず・19570112).jpg
チトセ        みすず      
(19550507)     (19561207k)
渋谷(ふくや・19571211).jpg 渋谷(岩崎・19551228).jpg 渋谷(黒岩荘・19570130).jpg   
ふくや      岩崎         黒岩荘      
(19571211)  (19551228)     (19570130)   

【地図9】井ノ頭透り(1962年頃現況の住宅地図)
地図・井ノ頭通り(1963).jpg

(3)「東急本店通り」北側(松濤一丁目)
渋谷川の支流、宇田川のそのまた支流の松濤の谷筋を中心とする地域。松濤の川は、佐賀の鍋島侯爵家の別邸(現:鍋島松濤公園)の松濤池の湧水を源流とし、現在の「東急百貨店本店」の裏側を流れて、宇田川に合流していた。

「東急本店」(1967年開業)の敷地には、1964年まで「渋谷区立大向小学校」(宇田川町に移転し、1997年に統合に伴い神南小学校に改称)があった。「大向(おおむこう)」とは宇田川西側の細長い低地で、大正期までは「大向田んぼ」と呼ばれる水田が広がっていた。玉川通りから分かれて(分岐点には「渋谷109」)ここを北西方向に走る道が大向通りで、入口を入って少し行った右(北)側には「渋谷大映」映画館があったので大映通りとも呼ばれていた(後に東急本店通り、現:東急文化村通り)。

「渋谷大映」映画館(1950年1月)。最近まで大型パチンコ店「マルハンパチンコタワー渋谷」があった(2016年1月17日閉店)。

また、「大向小学校」前のY字路で大向通りから分かれて、ほぼ松濤の谷に沿って西に向かう道は栄通りと呼ばれていた。

松濤の小さな谷筋の北側(南向き)の斜面、そして宇田川の西側の斜面、つまり大向通りの西側、栄通りの北側に、1962年現況の地図で7軒(別館をカウント)ほどの旅館、ホテルがあった。

「ホテル山王」は2軒見える。1軒は「大向小学校」のすぐ裏手、低い崖を上がったところにもあった。もう1軒は大向通りをかなり奥に行ったところ。立地の便からして小学校裏手の方が先(本館)だろう。広告の「大映の先の横」という記述もふさわしい。推測するに、前にも触れた1957年6月の旅館業法の改正で、学校の周囲おおむね100m以内の営業に規制がかかった(増改築が難しくなった)ことと関係があるかもしれない。小学校裏の「ホテル山王」は明らかに100m以内だから。

大向通りの左側の斜面には手前から「一休荘」「ホテルエコー」、そして「ホテル山王」(別館?)が並んでいた。さらに奥に広告はないが「旅館こだま荘」があった。

「一休荘」の広告には「渋谷大映先 交番右入る」、「ホテルエコー」の広告には「大映先 大向通」とあり、「ホテル山王」も含めていずれも「大映」をランドマークにしている。1950年代の都市における映画館の重要性がよくわかる。

次に「ホテル ニューフジ」だが、広告の道案内には「大映通 消防署隣」とある。「消防署」は「渋谷消防署栄通出張所」のことで、広告にはかなりいい加減な地図が付いているが、要は消防署の火の見やぐらと郵便局(栄通り郵便局)の間の道を入れということ、この道は「観世能楽堂」に行く上り坂で、何度も歩いたことがある。
渋谷(ホテルニューフジ・19570209) (2).jpg
1962年現況の地図には「ホテル ニューフジ」は見えないが、地図の場所には「ホテル石亭」があり、これが後身だと思われる。西隣に「ホテル石亭・別館」があった。

ちなみに、「ホテル ニューフジ」=「ホテル石亭」の上の段には東京都知事の公館があった。連れ込みホテルと都知事公館はお隣さんだったのだ。

この斜面のホテル街のその後を見てみよう。1969年現況の地図では「一休荘」がビルになって消えた以外は健在だ。都知事公館の主は東龍太郎から美濃部亮吉に変わった。ところが1976年頃現況の地図では「山王本館」(1969年廃業)と「石亭本館・別館」(1969年廃業)が消え「山王別館」と「エコー」、それに「こだま荘」の3軒になってしまう。「山王本館」と「石亭別館」は駐車場に、「石亭本館」の跡地は空地になっている。

そして、1982年頃現況図では、「山王別館」がオフィスビル(「サンエルサビル」1978年竣工)になって消え、「エコー」と「こだま荘」の2軒になる。「石亭本館」の跡地は南に拡張した都知事公館(主は鈴木俊一)に飲み込まれる。「ホテルエコー」は1986年まで営業を続けたようだが、斜面のホテル街は1980年代半ばに姿を消した。

渋谷(ホテルエコー・19531126).jpg 
ホテルエコー(19531126)
渋谷(ホテル山王・19540728).jpg
ホテル山王(19550911) 
渋谷(一休荘・19560325).jpg  
一休荘(19560325)
渋谷(ホテルニューフジ・19540222).jpg
ホテル ニューフジ(19540222)

【表5】松濤谷北斜面(松濤一丁目)の旅館・ホテル街の変遷
表5.jpg

【地図10】松濤谷北斜面の旅館・ホテル街(1962年頃現況の住宅地図)
地図・松濤.jpg

(4)円山下・中腹(道玄坂二丁目)
玉川通り(道玄坂)北、大向通り(文化村通り)の西、松濤の谷の南側、旧栄通り郵便局(現在の「東急文化村)の西隣)から円山に上っていく坂道(現在の道玄坂二丁目と円山町の境界)の東。円山に上っていく途中(中腹)、現在の道玄坂二丁目の地域。円山の「三業地」は別に扱う。

1962年頃現況の地図には、この地域に17軒ほどの旅館を数えることができるが、多くは小規模なもので、広告が確認できるのは3軒のみ。

「高田旅館」は、大向通りの西側の斜面、階段状に整地した4段目にあった。この辺りには、道玄坂以外に真っすぐに上る道はなく道路が迷路のように複雑だ。広告に「道玄坂上る テアトル映画街入口 薬屋右入る四つ角左」とややこしいことを書いているのは、そのためだろう。

「テアトル映画館街」は「百軒店」の中にあった「テアトル渋谷」(現:「ライオンズマンション道玄坂」)、「テアトルSS」(現:「ホテルサンモール」)「テアトルハイツ」(現:マンション「サンモール道玄坂」)の映画館群のことで、「映画館街入口」というのは、現在「百軒店」の入口を示すアーケードがある道のこと。「高田旅館」はそこから入って右(少し下る)に行って左にあった(やはりややこしい)。道玄坂寄りに別館があり、その隣に本館があったが、1969年頃現況の地図では別館部分だけが旅館として営業している(1976、1982の現況図も同様)。1987年に廃業したようで、本館跡地は長らく駐車場だったが、現在(2020年5月)は大規模な再開発事業が進行している。別館跡地は「ホテルR25」(経営者は「高田旅館」と同姓)になっている。

「高田旅館」の一段下には、広告はないがこの地域で最も大きい旅館「渋谷聚楽」があったが、後に広い駐車場になり、現在は高田旅館本館跡地と合わせて、大規模な再開発事業が進行中。

「高田旅館」の1段上に「風久呂」があった。広告には「道玄坂 百軒店 ひまわり楽器右横入る」とある。「風久呂」は1976年頃の現況図には見えるが、1982年頃の現況図では「ホテルガラスの城」になっている。さらに1995年頃の図では「ホテルプリンスキャッスル」になった(現在は廃業)。ちなみに曲がり角の目印の「ひまわり楽器店」は、現在「ひまわりビル」になっている。

「風久呂」の西隣には「旅荘一村」があり、そのまた隣に「二幸」があった。「二幸」の広告は「大映先 大向小学校前高台」とあって大向通から案内している。小学校の前の坂を上って右折した場所なので、その方がわかりやすかったと思う。「二幸」は1976年頃の現況図で西隣にあった旅館を併せて大きくなっている。その敷地は1982年頃の図では「(仮称)ホテルV」となっていて、さらに1995年頃の図では「ホテルアランド」になる。経営がどう受け継がれたか判然としないが、もしかすると「二幸」の発展が「ホテルアランド」なのかもしれない。
渋谷(高田旅館・19550506k).jpg  渋谷(風久呂・19570124).jpg
高田旅館        風久呂           
(19550506k)    (19570124)
渋谷(二幸・19551228).jpg
二幸(19551228)

ところで「百軒店」は、関東大震災(1923年)後に「円山三業地」に隣り合う場所に開発された商店街で、戦後はテアトロ系映画館を中心に、喫茶店、バー、飲み屋、食堂など小規模な飲食店が立ち並ぶ繁華街になった。その中にはあまり旅館はなかった(3軒)。

この地域(道玄坂二丁目)の旅館・ホテルの歴史的な変遷を、住宅地図上で確認できる軒数で見てみよう。

1962年 69年 76年  82年  95年
17 →17 →21 →26 →33

1960年代には変化がなかったが、70年代に入り増えはじめ、80年代には増加基調に拍車がかかり、90年代半ばには、60年代のほぼ2倍にまで増殖している。

今まで、見てきた地域では、坂の途中の旅館街・ホテル街は、80年代までに衰退・ほぼ消滅していたが、道玄坂の途中の旅館街・ホテル街では、まったく逆の様相が現れている。

【地図11】円山下・中腹(道玄坂二丁目)の旅館・ホテル街(1962年頃現況の住宅地図)
地図・道玄坂二丁目(1963).jpg

(5)円山三業地(円山町)
道玄坂を上がった北側。渋谷台地の上、円山町の三業地(花街)。三業地は、料理屋、待合茶屋、芸妓置屋の三業種の営業が許可された地域のこと。

渋谷・円山の三業地は、1913年に指定され、1919年に「渋谷三業株式会社」を設立、関東大震災(1923)の直前1921年には芸妓置屋137戸、芸妓402人、待合96軒を数えた。戦後も繁栄は続き、1965年には料亭84軒があり、芸者170人がいた。

道玄坂を上りきった道玄坂上交番前交差点を右に入る道(北に進んで坂を下り「東急文化村」の前に出る道=現在の円山町と道玄坂二丁目の境界)の西側、交差点の交番(渋谷警察署道玄坂上交番)の先を左に入る道の北側、神泉の谷に下りる急崖の東側、松濤の谷に下りる南側が「三業地」の中心だった。「渋谷三業組合事務所」は、交番の先の東西道を3ブロック進んだ北側にあった。
この地域で広告が確認できる旅館はわずか2軒だけ。

「ホテルまつ」は広告に「道玄坂上(玉電曲角)本田屋餅菓子店横二軒」と見え、道玄坂上交番前交差点を右に入って3軒目にあった。三業地の中心からはやや外れた、とば口。「玉電曲角」というのは、渋谷駅を出て専用軌道で坂を上がってきた玉川電車(東急田園都市線の前身)がこの交差点でカーブして玉川通りの路面に出る。「本田屋餅菓子店」は1962年現況図で交差点の北角に「喫茶本田屋」と見えるのと関連するものだろう。

「まつ」のその後は、1969年現況図では「料理まつ」と見えるが、1971年に廃業したらしく、1976年現況図では駐車場になっている。現在はオフィスビル「Eスペースタワー」の敷地の一部になっている。

「よね林荘」は「道玄坂上 交番手前右入る」とあるように、道玄坂上交番前交差点を右に入り少し進んで左折した南側にあった。広告に「料亭米林別館」とあり、道向かいには「旅館米林」があり、その別館として1957年に開業したらしい。1969年に廃業したようで1969年頃現況図では別館が「タキザワ旅館」に、本館は「ホテルニッポン」(1969年開業、1975年廃業)なっている。現在は「まつ」と同様、オフィスビル「Eスペースタワー」の敷地の一部。
渋谷(まつ・19561023).jpg 渋谷(よね林荘・19570107).jpg
ホテルまつ   よね林荘    
(19561023)  (19570107)

この地域の広告が少ないのは、そもそも三業地と「連れ込み旅館」は相性が悪いからだと思う。三業地において、性交渉の中心は男性と玄人の女性で、その場は「待合」だった。それに対して「連れ込み旅館」の性交渉は男性と素人の女性だった。性的関係(セクシュアリティ)の構造が異なる。

わかりやすく言えば、玄人の女性が仕事をしている三業地にしてみれば、わざわざ素人の女性を呼び込む必要はなく、むしろ商売の邪魔なのだ。

こうした三業地と「連れ込み旅館」の(きつく言えば)排斥関係は、池袋や大塚の三業地でも見られる。

1962年現況の地図では、三業地の中心部分には料理屋・料亭が76軒数えられる。旅館は13軒にすぎず、圧倒的に料理屋・料亭が優勢だ。さらに言えば、この旅館も立地からして男性が素人の女性を連れ込むのではなく、玄人の女性が男性を連れ込む場所、「待合」的な旅館ではなかったかと思う。

そうした三業地の形態は1969年頃現況の地図でもほとんど変化がない。ところが1976年現況の地図では料理屋・料亭が24軒と大きく減り、旅館・ホテルは19軒に増える。地図の様式が変わったので、料理屋・料亭の数え落としがあると思われるが、ほぼ半減しているのは間違いない。「渋谷三業組合事務所」の建物も「円山自治会館」に変わってしまう。花街の衰退が見て取れる。

そして、1982年現況図では、料亭・料理屋11軒、旅館・ホテル20軒と逆転する。さらに1995年現況図では、9軒に対して27軒と差が大きく開く。

つまり、三業地が衰退してくると、両者の力関係が変わり、「連れ込み」系の旅館やホテルが三業地の中心部にまで入ってくるという現象がはっきり見られる。その勢力交代は1970年代後半に始まり1980年代に決定的に進行した。
【地図12】円山三業地の料亭と旅館(1962年頃現況の住宅地図)
(赤っぽい色が料亭・料理屋、緑色が旅館)
【地図13】円山三業地の料亭と旅館(1982年頃現況の住宅地図)
地図・円山三業地(1963).jpg 地図・円山三業地(1983) (2).jpg

ところで、松濤の谷から円山へ上がる道は、先に述べた旧・栄通り郵便局(現在の「東急文化村)の西隣)から上がる坂道(現在の道玄坂二丁目と円山町の境界)と、その一本先(西)の坂道の2本がある。円山の三業地に入るには道玄坂からが表口なので、この松濤の谷からの2本の道は裏口に当たる。

1962年現況の地図には、この2本の坂道の周囲に12軒の旅館があった。いずれも規模は小さく、裏口にふさわしい感じだ。ところが1969年現況図では14軒に増える。特に西側の坂道の両側の増加が著しい。こうして1970~1990年代には2本の急坂の両側に14~15軒の「ラブホテル」がびっしり林立するという特異な景観が出現した。

この坂の途中のホテルの開業年を列記すると、坂下に近い「ホテル龍水」1961年、「ホテル三喜荘」1964年、「ホテルサボア」1975年、次の段の「ホテル山水」1965年、「ホテルプリンセス」1967年、「ホテルニュー白川」1969年、もう1段上の「ホテルローレル」1971年、「ホテルユートピア」1973年、「ホテルスイス」1975年、坂上に近い「旅館若草」1973年となる(「ホテルはせがわ」と「ホテルみやま」は開業年不明=1950年代)。ホテルになる前からある「はせがわ」「みやま」「龍水」「三喜荘」「山水」に加えて、1960年代末からホテルの開業が相次いだことがわかる。

つまり、渋谷・円山の「ラブホテル街」の形成は、坂の途中から始まり、次第に坂を上って丘の上に至る、まるで「ラブホテル」が丘を上るかのように形成された。

【地図14】円山裏・二本の坂道周辺(1962年頃現況の住宅地図)
「龍水」「長谷川(はせがわ)」「みやま」はすでに見える。
【地図15】円山裏・二本の坂道周辺(1982年頃現況の住宅地図)
地図・円山裏の2本の坂道(1963).jpg 地図・円山裏の2本の坂道(1983).jpg

6 その他
地域巡りの最後に「その他」としたものを見てみよう。象限的にはすべて第3象限になる。

(1) 神泉
円山町の台地の西縁は、松濤の谷に南から北へ注ぐ神泉の谷へ急斜面で落ち込む。京王電鉄の井の頭線は、円山町をトンネルで抜けると、神泉駅のところで地上に出て、またすぐにトンネルに入る。駅が神泉谷の底にあることがよくわかる。

神泉駅の北に「菊栄旅館」があった。「高台閑静」とうたっているように、神泉谷の西側の斜面にあった。ここもやはり「坂の途中」の宿だったが1964年に廃業した。

神泉駅から東へ、急坂の途中に「旅館女大名」(1969年廃業)が、坂を上ったあたりには「旅館一条」(1964年廃業)「旅館たなか」(1965年廃業)があった。これらも1960年代末までに消える。

渋谷神泉(菊半旅館・19530619k).jpg
菊栄旅館(19530619k)

【地図16】神泉谷(1962年頃現況の住宅地図)
地図・神泉谷.jpg

(2)神山町
1955~58年頃、かなり斬新なデザインの広告を出していた「ホテルキャデラック」。住所の「神山59」は、山手通り(環状6号線)から東に少し入ったあたりで、神山町でも松濤町との境界に近い場所。

神山町一帯は今でこそ「奥渋谷」と呼ばれる人気スポットになっているが、渋谷駅からはかなり遠い。広告にも「渋谷駅より幡ヶ谷行きバス」(現:東急バス渋55系統)「3ツ目東大裏下車」「渋谷駅からタクシー70円」とあり、「自家用車時代にふさわしい」というコピーからも、逆に歩くにはつらい距離であることがわかる。

神山町59番地はさして広くない。1962年頃現況の地図を見ると、そこに「東京湯ヶ島ホテル」がある。比較的大きなホテルで59番地の半分近くを占めている。残り半分は「新自由キリスト道会本部」とその付属の「松村幼稚園」が占め、他に余地がないので、これが「ホテルキャデラック」の後身だろう。

広告に「旧プリンスオブトーキョー」とあるが、今のところどんな施設か不明である(なんとなく進駐軍関係のような・・・)。

現在、この場所は、なんとモンゴル大使館になっている。15年ほど前、地方在住の友人に頼まれて、モンゴル大使館にビザの代行取得に行ったことがある。松濤公園を左手に見ながら道を真っすぐどんどん奥に進む感じだった。そうか、あそこだったのか!
ちなみに、「東京湯ヶ島ホテル」の廃業は1971年、日本とモンゴル人民共和国(当時)との国交樹立、大使館開設は1972年なので、辻褄はぴったり合う。
渋谷神山町(キャデラック・19551120).jpg 
ホテルキャデラック(19551120)        
渋谷神山町(ホテルキャデラック・).jpg
ホテルキャデラック(19561020)
渋谷神山町(ホテルキャデラック・19580212).JPG
ホテルキャデラック(19580212)

【地図17】神山町付近(1962年頃現況の住宅地図)
地図・神山町.jpg

(3)「大坂上」付近(目黒区青葉台)
道玄坂を上りきったさらに先、玉川通り(大山街道)が渋谷台地から目黒川の谷に下りる急勾配「大坂」の上。行政区分はもう目黒区で、当時は上目黒八丁目、現在は玉川通りの南側が青葉台三丁目、北側が青葉台四丁目になっている。

渋谷(道玄宿・19561207k).jpg 渋谷(山のホテル・19550702).jpg  
道玄宿         山のホテル
(19561207k)      (19550702)

「道玄宿」は「道玄坂上四つ角」とあるが、この「四つ角」は玉川通りと(旧)山手通りが交差する、現在の「神泉町交差点」のこと(ここから西が目黒区になる)。その南西角に「道玄宿」はあった。「渋谷の高台」とあるように道玄坂を上りきった台地の最高地点(標高35m)に近い「丘の上の宿」だった。跡地は「(株)トヨタ東京カローラ・渋谷店」になっている。

ところで、1976年頃現況の地図には円山町の花街に近い道玄坂二丁目に「旅館道玄宿」が見える。この旅館は1969年頃現況図には「旅館道玄坂」として見えているが、「道玄宿」が正しいとするならば、もしかすると、道玄坂上の「道玄宿」が玉川通りの拡幅(1960年代後半)で敷地が削られたのを機会に道玄坂二丁目に移転したのかもしれない。

「山のホテル」は、松濤の「ホテル ニューフジ」と同系列で、玉川通りをさらに西に行った「大坂上」にあった。「渋谷駅八分」は相当健脚のアベックでも無理だと思う。「中将本舗前」とあるのは、婦人薬「中将湯」で有名な「津村順天堂」(現:「ツムラ」)の目黒工場がこの地にあったから。

玉川通の北側の斜面には「旅館大藤館」「旅館福田屋」「旅荘新舞子」があり、「山の上ホテル」と合わせて、ここも坂の上の小さな旅館・ホテル街を形成していた。

このホテルは「山の」という名称に加えて「丘の離れ」というコピーからわかるように「都会の山荘」のイメージを強く演出していた。広告の挿絵もまるで軽井沢かどこの山荘のようだ。
渋谷(山のホテル・19550702) (2).jpg

玉川通り沿いに別館があり、その奥(南側)に本館があったが、本館の南側はすぐに崖で、目黒川の低地(標高13m)とは15m以上の差があり、たしかに眺望は絶好だったと思う。

それにしても、現代の私たちは「都内で味わう奥伊豆情緒」は、いくらなんでも大袈裟だと思う。しかし、まだ観光旅行に出かけられる人が少なかった時代には、そうした仮託(疑似体験)に客を寄せる十分な効果があったのだろう(註3)。

現在、本館部分には、高級マンション「パークコート目黒青葉台ヒルトップレジデンス」が建っている。
渋谷(山のホテル・19571004).jpg 
  (19571004)

「三平」は、池袋の連れ込み旅館「三平」が渋谷に進出してきた宿で、1957年の開業。別の広告に「道玄坂上 三丁右入る」とあるが、玉川通りが目黒川の谷に下る「大坂」の北側斜面を階段状に整地した場所にあった。「断崖上」というのは大袈裟だが、見晴らしは良かったはず。「三平」の2つ下の段には「旅館山渓園」があった。

ただ、渋谷駅からははるかに遠く(約1.5km)、道玄坂上にあった玉電(東急田園都市線の前身の路面電車)の「上通停留所」からでも、かなり距離がある(約800m)。送迎に「自家用車無料サービス」というのも無理もない

この付近は首都高速3号渋谷線の池尻インターチェンジが設置されたため、道路の改変が激しく、跡地の比定が難しかったが、現在、「ソネンハイム大橋」というマンションの北隣に相当する。
渋谷(三平・19570116).jpg
三平(19570116)

【地図18】道元坂上~大坂上付近(1962年頃現況の住宅地図)
地図・大坂上.jpg

おわりに
以上、ぐるっと渋谷の「連れ込み旅館」から「ラブホテル」の歴史地理的な状況をみてきた。その結果、1950年代後半から60年代にかけて、渋谷のあちこちに旅館街が形成されていたことがわかった。そのキーワードは「坂の途中」だ。整理してみよう。

形成      全盛         衰退
① 美竹町(宮益坂の途中)   1960年代初頭?1960年代末(8軒)  1980年代
② 桜丘町(桜丘へ上がる坂)  1950年代後半 1960年代初頭(9軒)1970年代後半 
③ 道玄坂一丁目(中央街奥の坂)1950年代後半 1960年代初頭(14軒)1970年代後半
④ 神南一丁目(公園通りの途中)1970年代前半 1976年(7軒)    1980年代前半
⑤ 宇田川町(宇田川の北斜面) 1950年代後半 1960年代初頭(10軒)1960年代後半
⑥ 松濤一丁目(松濤谷の北斜面)1950年代後半 1960年代前半(7軒) 1970年代
⑦ 道玄坂二丁目(道玄坂の途中)1950年代後半 1990年代(33軒)  2000年代後半
⑧ 円山町(円山三業地の裏の坂)1950年代後半?1990年代(14軒)  2000年代後半

つまり、渋谷の坂の途中の旅館・ホテル街は8か所あった。若き日の私の「坂を上っていくとラブホテルがある」という印象は間違っていなかった。そのうち①②③⑤⑥の5か所は、1950年代後半から60年代初頭に形成され、60年代に全盛期を迎え、70年代から80年代に衰退し、ほぼ消滅していくという同じパターンをたどる。④だけは形成が70年代前半と遅いが、衰退の時期はやはり1980年代で変わらない。

消えていった6か所と、まったく違う動きをするのが⑥⑦で、形成の時期こそ同じだが、1970代後半~80年代に大増殖し、90年代にかけて全盛期を迎える。

つまり、①~⑥の旅館・ホテル街が衰退・消滅していくのと、⑦⑧が増殖・全盛となる現象が、1970代後半~80年代に同時並行的に起こったことになる。さらに⑥⑦は坂の途中から坂の上、つまり古くからの三業地である円山町の中心部にも侵入していく。増殖する「ラブホテル」は坂を上り丘の頂に達する。その結果、道玄坂と松濤の谷に挟まれた地帯に「ラブホテル」が極端に集中し、1980年代に巨大な「渋谷円山町ラブホテル街」が形成された。

2020年4月の段階で、渋谷区の「ラブホテル」の分布を調べたところ、全61軒の内訳は、円山町に28軒、道玄坂二丁目に27軒、地理的に連続するこのエリアに90%の55軒がある。玉川通り向かいの道玄坂一丁目の3軒を合わせると95%に達する。残り3軒は隣の駅の恵比寿なので、渋谷エリアの他の地域には「ラブホテル」はないと言ってもいいほどの集中度だ(註4)。

なぜこのような現象が起こったのだろうか? 
同じ業種の店が狭いエリアに多数立地すれば過当競争になって共倒れの危険性が高まるのではないか、それより適宜分散した方が良いのではないか、と素人考えに思う。

その一方で、同様の過剰集積の事例が2つ思い浮かぶ。
一つは、1950年代後半の千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街だ(註5)。さして広くない地域に広告が確認できるものだけで39軒、おそらく50軒近い「連れ込み旅館」があり、東京最大の集中地域だった。経営的にはさぞ競争が激しかったと思うが、利用者の側からすれば、女性を連れて新宿駅南口からタクシーに乗り「千駄ヶ谷へ」と言えば、運転手が馴染みの旅館に連れて行ってくれる。ともかく女連れで千駄ヶ谷に行けば性交渉ができるというメリットがあった。

もう一つは、1970年代初頭に始まる「新宿ゲイタウン」の形成である(註6)。新宿二丁目「仲通り」周辺の狭い地域に200軒以上のゲイバーが集中する状態は、明らかに過剰集積だが、それで50年も成り立っている。それを支えているのは、ともかく二丁目に行けば、同じ性的指向の仲間に会えてと楽しい時間を過ごせるというメリットだ。

実は、「二丁目ゲイタウン」が形成される以前、山の手の盛り場、池袋にも、新宿の二丁目以外の地域にも、そして渋谷にも、ゲイバーがあった。そうした各地域に点在していたゲイバーは、ゲイタウン成立後に、すべてではないにしろ、姿を消していく(註7)。

地域に散在していたものが消え、特定のある地域に集中するという同じような過剰集積現象が、しかも似たような時期に起こっている。そこに「渋谷円山町ラブホテル街」の過剰の理由があると思う。

すり鉢の底の渋谷駅で降りたカップルは、どちら方向に歩いて坂を上るか迷うことなく、ともかく道玄坂を上がり円山町の「ラブホテル」街を目指せば、セックスできる。こうした利用者にとってのメリットが、過剰集積を支えている。

それでもまだ、遮二無二、円山町を目指すより、どこの坂を上ろうかとためらうカップルの方が情緒があって、私には好ましく思うのだが。

【註】
(註1)「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)は公開していないが、これを使って書いた論考として、次の2本がある。
① 三橋順子「1950年代東京の『連れ込み旅館』について ―『城南の箱根』ってどこ?―」(2020年)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-08
② 三橋順子「東京・千駄ヶ谷の『連れ込み旅館』街について ―『鳩の森騒動』と旅館街の終焉―」(2020年)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-13 
(註2)渋谷の旅館・ホテルの開業・廃業年については、金益見『性愛空間の文化史』(ミネルヴァ書房、2012年)32~43頁掲載の「経営者名簿」を参照した。
(註3)1950年代の「連れ込み旅館」の有名観光地・温泉への仮託は三橋(註1)の①を参照
(註4)カップルズ「東京都 渋谷区のラブホテル一覧」
https://couples.jp/hotels/search-by/cities/20
(註5)三橋(註1)の②を参照。
(註6)三橋順子「新宿二丁目『ゲイタウン』の形成過程」(『現代風俗学研究』19号 現代風俗研究会・東京の会、2019年)
(註7)「東京・大阪『ゲイ・レズ・SMバー』徹底比較」(『週刊大衆』1971年月日不明)によると、渋谷には9軒のゲイバーがあったが、「新宿二丁目。ゲイタウン」の成立後、数を減らしていく(三橋順子「戦後東京における『男色文化』の歴史地理的変遷」『現代風俗学研究』12号、現代風俗研究会・東京の会、2006年)。時期は異なるが、石田仁「いわゆる淫乱旅館について」(井上章一・三橋順子編『性欲の研究 東京のエロ地理編』平凡社、2015年)によると「千雅(せんが)」(1975~1989年)という男性同性愛者向けの「淫乱旅館」が道玄坂上にあった(三業地の外、南西のブロック)。1969年頃現況の住宅地図にみえる「花仙(かせん)」という旅館が前身とのこと。

【備考】
広告図版の8桁の数字は、掲載年月日を示す。
末尾にkがついているのは『日本観光新聞』、他はすべて『内外タイムス』。

【住宅地図】
「東京都全住宅案内図帳・渋谷区東部 1959」
(住宅協会。1959年)
「東京都大阪府全住宅精密図帳・渋谷区 1963年版」
(住宅協会東京支所、1962年6月)
「全国統一地形図式航空地図全住宅案内地図帳・渋谷区 1970年度版」
(公共施設地図航空株式会社、1971年1月)
「ゼンリンの住宅地図・東京都渋谷区 1983」
(日本住宅地図出版、1983年3月)
「ゼンリンの住宅地図・東京都渋谷区 1996」
(ゼンリン、1996年1月)

なお、住宅地図の調査と発行のタイムラグを考慮して、1963年版→1962年頃現況図、1970年版→1969年頃現況図などのように1年戻して表記した。

2020年4月20日 掲載
2020年5月6日 データ修正
2020年5月27日 現地調査に基づき、文章の一部修正。
nice!(0)  コメント(0) 

【論考】東京・千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街について ―「鳩の森騒動」と旅館街の終焉― [論文・講演アーカイブ]

2020年4月14日(火)

この論考「東京・千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街について ―「鳩の森騒動」と旅館街の終焉―」は、2012年1月22日に、井上章一先生(現:日本文化研究センター所長)主催の「性欲研究会」(京都)で報告した内容をベースにしている。

その後、いろいろな事情で放置してあったが、思い立って、その後に収集した資料も加えて、論文形式でまとめた。

とはいえ、どこも載せてくれないのは明白なので、このアーカーカイブに載せておく。

引用される際には、著者名と、この記事のURLを注記していただきたい。

【目次】
はじめに ー「連れ込み旅館」街・千駄ヶ谷ー
1 千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街についての「通説」と批判
2 「鳩の森騒動」の経緯とその影響
3 千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街の衰退時期
 (1)1枚の地図は語る
 (2)「連れ込み旅館」の個別検証
 (3)「連れ込み旅館」群の衰退・解体時期とその理由
おわりに
-------------------------------------------------
    東京・千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街について
      ―「鳩の森騒動」と旅館街の終焉―
                    三橋順子

はじめに ー「連れ込み旅館」街・千駄ヶ谷ー
東京渋谷区の北部、新宿区に隣り合う千駄ヶ谷地区が、1950年代から60年代にかけて、日本最大の「連れ込み旅館」の密集地域であったことは、もうほとんどの人の記憶から失われている。

「連れ込み旅館」とは、性行為を前提に「連れ込む」宿である。「連れ込む」主体は、街娼(ストリート・ガール)およびそれに類する女性が売春行為をするために男性を誘い導いて「連れ込む」場合と、カップルの男性が性行為のために相手の女性を「連れ込む」場合とがあった。歴史的には前者から後者へと意味(ニュアンス)が転換していく(註1)。

したがって、一般の旅館のように宿泊を必ずしも前提とせず、一時的な滞在(「ご休憩」「ご休息」)のための部屋利用が想定され、料金が設定されている点に特徴がある。

「連れ込み旅館」は、戦後の社会的混乱が一段落した1950年代中頃に急増するが、その東京における中心地が千駄ヶ谷地区だった。当時の千駄ヶ谷1~5丁目および原宿3丁目、竹下町のエリア(「地番改正」が複雑だが、現在の千駄ヶ谷1~5丁目、代々木1、2丁目にほぼ相当)には、1953年の時点で、91軒の旅館があり、さらに新築中が2軒、申請中が4軒という状態だった(註2)。

筆者が当時の新聞広告から作成した「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)全385軒」にも、千駄ヶ谷地区に39軒、北隣の代々木地区に11軒、南隣の原宿7軒と合わせて57軒が確認でき(代々木・千駄ヶ谷・原宿で「代々原旅館組合」を結成していた)、渋谷地区の32軒、新宿地区の31軒を引き離し、都内最大の集中エリアだった。(註3)

  広告に見える1954~57年 東京の「連れ込み旅館」(地域別軒数)
千駄ヶ谷(39軒)        銀座(7軒)
渋谷(32軒)          原宿(7軒)
新宿(31軒)          五反田(7軒)  
池袋(21軒)          大井町(7軒)
大塚(12軒)          大森・大森海岸(7軒)
代々木(11軒)         蒲田(7軒)
新橋・芝田村町(11軒)     新大久保・大久保(6軒)
長原・洗足池・石川台(10軒)  飯田橋・神楽坂(5軒)
高田馬場(8軒)         浅草(5軒)
                赤坂見附・山王下(5軒)

千駄ヶ谷地図1(週刊サンケイ19580310) - コピー (2).jpg
「二千三百平方キロの桃源郷」(『週刊サンケイ』1957年3月10日号)
代々木~千駄ヶ谷~原宿エリアの温泉マークの数は91か所。

4.jpg
千駄ヶ谷駅ホームのアベック。背後に「松岡」「御苑荘」などの看板が見える。
(『週刊東京』1956年5月12日号「せんだがや界隈」)

5.jpg
千駄ヶ谷駅前の立て看板。「はなぶさ分館」「湯乃川」」など。
(『週刊東京』1956年5月12日号「せんだがや界隈」)

1 千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街についての「通説」と批判
千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街について、ある程度まとまった記述をしている書籍としては、保田一章『ラブホテル学入門』の「『千駄ヶ谷』凋落の事情」がほとんど唯一である(註4)。以下、その論旨を箇条書きに整理してみよう。なお( )の年月日は三橋が追記した。

【成立】
(1a)「(1950年6月)朝鮮戦争によって米兵の往来が激しくなった。当然、売春業も繁昌した」
(1b)「千駄ヶ谷に連れ込み旅館が増えはじめたのは、昭和27年(1952)ごろからだった。昭和30年代のはじめには、その数30数軒になっていた」

【隆盛】
(2a)「売防法(売春防止法)施行(1958年4月1日)にともない、元売春業の経営者たちは旅館業に衣替えした」
(2b)「千駄ヶ谷もご多分に漏れず、そうした事情で旅館が急増した」
(2c)「赤線を追われた女たちは、客を連れて千駄ヶ谷へ」

【凋落】
(3a)「それほど隆盛を誇った千駄ヶ谷も凋落の運命をたどる」
(3b)「(1958年)5月には第3回アジア大会が開催された。場所は、後の東京オリンピック開催(1964年10月)を射程に入れていたわけだから千駄ヶ谷周辺」
(3c)「このアジア大会は、日本にとっても戦後から脱却するワンステップという意味をもった」
(3d)そこで「渋谷区は渋谷経済懇談会というのを開き、千駄ヶ谷の温泉マークの自粛をうながした」
(3e)「これをきっかけに住民運動が起こった(1957年2月)。『鳩の森騒動』とも呼ばれるこの運動の結果、千駄ヶ谷は文教地区に指定され、連れ込み旅館の改造も新築もできなくなった」
(3f)「兵糧を断たれたわけで、(千駄ヶ谷の連れ込み旅館街)の自壊は時間の問題となったのだ」

【影響】
(4a)「千駄ヶ谷に代わって、昭和40年代から台頭してきた地区は、湯島、錦糸町であった」
(4b)「新宿、池袋など、都内各地に連れ込み旅館は急増していたが、千駄ヶ谷を利用していた『上客』たちの流れは湯島や錦糸町に変わっていった。特に湯島には『上客』が流れた」

保田の説は、先に述べたように千駄ヶ谷の連れ込み旅館街についてのほとんど唯一の説であり、それだけ影響力があった。現在、インターネットで流布している言説も、保田氏の説をベースにしていると思われる。中には、アジア大会を東京オリンピックに置き換えるなど、部分的な改変がなされているものがあるが(註5)、「通説」の位置を占めているといっていいだろう。

たとえば、金益見がインタビューした渋谷のラブホテル経営者は「オリンピックを境に千駄ヶ谷は文教地区に指定されて、増改築ができないということで全部潰れましたね」」と、保田説と同様の語りをしている(註6)。

しかし、保田説にはかなり問題が多い。まず成立については、千駄ヶ谷地区で最初に「連れ込み旅館」を開業したM旅館(千駄ヶ谷三丁目、特定できず)の主人が「二十一年六月」(1946年6月)と語っている。動機は明治神宮に参拝に行った夜、木陰や草むらでうごめくアベックがたくさんいるのを見て、こうした人たちに性行為の場を安く提供したい、ということだった(註2)。保田説とは時期も事情もかなり違う。

旅館の増加については、1953年の段階で千駄ヶ谷地区(旧・千駄ヶ谷1~4丁目)だけで23軒が数えられる。朝鮮戦争(1950~53)期の好景気を背景に数が増えたと思われる(註7)。この点だけは保田説は当たっている。

次に千駄ヶ谷の旅館街の隆盛を「赤線」廃止との関係で考えることもかなり疑問である。旅館街は、上記のように、「赤線」廃止のかなり以前、「赤線」が存在した時期から存在していた。両者は同時併存の関係にある(註3)。また広告から見る限り、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」の新築ラッシュは1955~56年であり、その隆盛は、あきらかに「赤線」廃止以前である。

千駄ヶ谷の旅館街の料金は、「休憩」にしても「泊り」にしてもかなり高価で、売春女性や男性客が容易に利用できる価格ではなかった。安い旅館の中には実質的な売春宿も存在したが、それは旅館街のメインではなかった(註8)。そもそも「赤線」と「連れ込み旅館」の顧客層は必ずしも重ならないと思われる(註3)。

他にも住民運動のきっかけなど事実誤認があるが、そうした細部の問題点を置いたとしても、保田説には大きな問題がある。保田説は隆盛の理由を「売春防止法」の施行とする(施行は1957年4月1日、罰則を含む完全施行は1958年4月1日)。ところが、その凋落きっかけを1958年5月のアジア大会を視野に入れた行政の「浄化」の動きや1957年2月に始まる「鳩の森騒動」とする。これでは隆盛に至る前に凋落が始まってしまうことになり、根本的な論理矛盾がある。

千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街の盛衰についての「通説」は、まったく成り立たず、全面的に見直さなければならない。

2 「鳩の森騒動」の経緯とその影響
従来、千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街が凋落するきっかけになったとされてきたのが「初の森騒動」である。「鳩の森騒動」とは、1957年(昭和32)2月に、周囲に「連れ込み旅館」が多い東京・渋谷区立鳩の森小学校のPTAが、渋谷区教育委員会や渋谷区PTA連合会と連携して「渋谷区環境対策協議会」を結成し、「教育環境浄化」を求めた住民運動である。

学校と住民が危機感をもったきっかけは、1956年度に鳩の森小学校から転出した生徒が47名と急増したことらしい。47名は全校生徒835名の5.6%に相当する。鳩の森小学校の転出生徒は1953年度32名、54年度27名、55年度25名だった。それが倍近くになったわけで、関係者の衝撃は大きかった。その理由として学校周辺の教育環境の悪化が想定された。

さらに、1956年の夏に、同校の5年生女児が連れの女に逃げられた中年男に「みだらな振る舞い」をされる事件が起こった。これに応じて、10月には、「連れ込み旅館」が多い千駄ヶ谷駅寄り(南東側)の鳩の森小学校の正門が閉鎖された。

そして、1957年2月11日、千駄ヶ谷区民講堂で集会がもたれ「渋谷区環境対策協議会」が発足する。参加者は、鳩の森小学校PTA、隣接各校のPTA、教員など300人で、「不純アベック追放」「温泉旅館しめ出し」を決議し、同校周辺を「文教地区」に指定するよう東京都に要請した。
13日には学区内の主要路に「教育環境浄化地域」と書いた横幕4枚を掲げ、21日には学区内要所に「教育環境浄化地域」と書いたポスターやビラを貼った。こうした動きを受けて、文部省、東京都、渋谷区が現地調査を行った。(註2)

その結果、3月になると、内閣が法改正に乗り出し、旅館業法が改正され、幼稚園から高校までの学校の周囲「おおむね100メートルの区域内」では「清純な施設環境が著しく害されるおそれがあると認め」られる業者の営業は許可されなくなった(旅館業法第3条3項、1957年6月15日交付)。また4月1日付けで「文教地区」の指定がなされた(註9・10)。

実際、千駄ヶ谷二丁目に「連れ込み宿を経営する目的で『たつ旅館』を新築した」経営者は、鳩森八幡幼稚園から100m以内であることを理由に東京都衛生局から営業不許可とされた(註11)。

住民運動の高まりに対して、代々木・千駄ヶ谷・原宿の「連れ込み旅館」経営者の組合「代々原旅館組合」は次のような自粛策を申し合わせた。①看板から「御同伴」「値段」「ドキツイ広告」を消す。②ネオンはなるべく赤などの派手な色は使わない。③新しい営業許可は申請しない(註2)。

このうち①②は「連れ込み旅館」であることを目立たなくする方策である。当時、「連れ込み旅館」の象徴として批判の的だった「温泉マーク」は、1947年に「代々原旅館組合」が使い始めたという(註2・12)。すでに1952年11月に厚生省が「不良温泉マーク旅館取締りにかんする全国調査」をしていて、「不良旅館」シンボルになっていた(註13)。そうした動きに応じて、同組合は1952年に「温泉マーク」の使用の自粛を始め、3年かけて(1955年頃)達成したと主張している。この点については、1954年後半頃から新聞広告から「温泉マーク」がほぼ完全に消えるので、少なくとも千駄ヶ谷地区では実効性はあったと思われる。

③が守られれば新規の開業はなくなるわけだが、既存の「連れ込み旅館」がなくなるわけではなく、「渋谷区環境対策協議会」が求める「温泉旅館しめ出し」とは大きな隔たりがある。
PTAの立ち退き要求に対して業者の代表である石田道孝代々原旅館組合会長は次のように反論している。

「現在、この土地をねらっているのは青線業者や第三国人だ。こんな連中がのりこんできたら大変だ。ここのところをPTAの人たちはよく考えてもらいたい。現に鳩の森小学校前の旅館Sには第三国人がしきりに買いに来ている」(註2)

立ち退き→転売→青線業者・「第三国人」の取得→(売春地帯化)という流れで、さらに教育環境が悪化する可能性を指摘し、自粛を徹底することで、地域住民との共存を目指す姿勢をとった。

非合法な売春業者・「第三国人」の進出については、原宿警察署の斜め向かいの「白雲荘」の実質的な経営者が「新宿西大久保で“オリンピア”という外国人相手の売春ホテルを経営し」「その後、“代々木ホテル”という売春宿を経営」していた「朝鮮人」で、地元有志も組合も「彼に営業を許可したら何をするかわからない」と「絶対反対」していること(註10)を指していると思われる。

実際、5月28日には、増改築の申請を出していた代々木駅前の「千代田旅館」の女性経営者が、アメリカ軍将校相手の秘密売春容疑で摘発されるという事件も起きている(註8)。組合会長の指摘は、単なる言い逃れではなかった。

「鳩の森騒動」は、そのスローガンに「不純アベック追放」とあることからもわかるように、性的な存在(施設・人)を子供たち(児童・生徒)から遠ざけ、目に触れないようにする、戦後、盛んになった「純潔教育」運動の一つの表れである。

それが地域運動となった点では、1950年代にいくつか起こった赤線業者の進出反対運動、たとえば、「池上特飲街事件」(大田区池上、1950年)、「王子特飲街事件」(北区王子、1952年)、「今井特飲街事件」(江戸川区今井、1954年)とも共通するものがある(註14)。

しかし、これから進出しようとする業者を阻止するのと、すでに存在する業者・施設を撤去させるのとでは、その困難度は格段に違う。

「鳩の森騒動」の結果、文教地区の指定が達成され、旅館業法の改正を促し「連れ込み旅館」の新規開業や増築を規制するという大きな成果をあげた。

とはいえ、既存の「連れ込み旅館」が立ち退かされたわけではなく、営業は続けられた。たとえば、組合長の談話に出てくる「旅館S」は、鳩の森小学校の正門のほぼ正面にある「翠山荘」のことだが、「騒動」から少なくとも12年後の1969年まで営業を続けていた(廃業は1971年頃?)。

「鳩の森騒動」は、千駄ヶ谷「連れ込み旅館街」の無制限な拡大を阻止することはできたが、その存在そのものに大きなダメージを与えるほどの効果はなかったと思われる。

千駄ヶ谷(翠山荘・19531219).jpg
「旅館翠山荘」の広告(『内外タイムス』1953年12月19日号)。
略地図で「鳩の森小学校」の道向かいであることがわかる。
広告の「新築落成」の記載を信じれば、1953年の営業開始か。

3 千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街の衰退時期
(1)1枚の地図は語る
千駄ヶ谷地図2(週刊大衆19681114) - コピー (2).jpg
この地図は、1968年11月に刊行された週刊誌に掲載された千駄ヶ谷地区の「仕掛け旅館」を示したもので、32軒ほどの旅館が記されている。記事中に取り上げられている宿は「玉荘」「鷹の羽」「あみ(本館」」「翠山荘」「御苑荘」「白樺荘」「南風荘」「みなみ」「松実園」「もみじ」「若水」などで、すべて1950年代の広告に見られる「連れ込み旅館」と一致する(註15)。

つまり、1968年秋の段階で千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街は健在だったのだ。まさに一目瞭然、1958年のアジア大会(もしくは1964年の東京オリンピック)を契機とする「浄化運動」で千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街が凋落。壊滅したという「通説」が、まったく虚妄であることを、この1枚の地図は教えてくれる。

(2)「連れ込み旅館」の個別検証 
それでは、少なくとも1968年まで健在だった千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」群は、いつ解体・消滅したのか、それが次の課題となる。

そこで、新聞広告から1957年前後に千駄ヶ谷地区に存在したと思われる「連れ込み旅館」のうち、場所が判明するもの42軒について、個別にその後の変遷を調査した。

資料としたのは1970年、1977年、1983年版の住宅地図で、住宅地図の調査から刊行までのタイムラグを考慮して、それぞれ1年前の元凶と考えた。また2012年に現地調査を行った。したがって「現状」とは2012年の状況である。そこに付した建物の竣工時期は、インターネット上の不動産情報などから抽出した。一部、住宅地図の知見と整合しない部分があるが、その理由として、建物の躯体はそのままに用途を変更した場合などが想定されるので、そのままにした。

なお、①~⑤のエリア分けは、旧・住居表示(丁目)をベースにしているが、現地の地理感覚を加えているので、必ずしも厳密なものではない。

① 旧・渋谷区千駄ヶ谷四丁目:JR線北側・新宿御苑南側
南風荘本館 1969年「あぐら荘別館」 1976年「旅荘あぐら荘」 1982年「旅荘あぐら荘」
      現状「メゾンソーラ」(マンション 1980年4月築)
南風荘別館 1969年「旅荘光荘」 1976年「旅荘光荘」 1982年 廃業(アパート)
      現状「コーポ松岡」(アパート 1979年4月築)
旅館翠山荘 1969年 営業中 1976年 廃業(マンション)
      現状「第2御苑マンション」(マンション 1972年11月築)
マンションの中庭に、旅館時代の日本庭園が残る。
旅館楓荘  1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
      現状「千駄ヶ谷シルクハイツ」(マンション 1977年11月築)
ホテル七福 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(オフィスビル?)
      現状「エルビラ」(オフィスビル? 1974年3月築)
御苑荘別館 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
      現状「第20スカイビル」(マンション 1980年2月築)
羽衣苑   1969年 営業中 1976年 廃業(岡設計)
      現状「株式会社岡設計ビル」
千駄ヶ谷(南風荘・本館・別館・19560718).jpg 千駄ヶ谷(楓荘・19540306).jpg  千駄ヶ谷(ホテル七福・19551030).jpg  
南風荘本館・別館     楓荘      ホテル七福  
(19560718)      (19540306)  (19551030) 
千駄ヶ谷(御苑荘本館・別館・19560621).jpg 千駄ヶ谷(羽衣苑・19570107).jpg
御苑荘別館       羽衣苑
(19560621)     (19570107)

千駄ヶ谷駅からガードをくぐったJR線北側・新宿御苑南側の地域。1960年代末まで名称が変わったものはあるものの、すべての旅館が営業を続けていた。1970年代に入り、「鳩の森騒動」で焦点となった鳩の森小学校正門前の「翠山荘」が廃業してマンションになり、いちばん千駄ヶ谷駅に近い「羽衣苑」が建物そのままに設計事務所に転用された。広い敷地に離れ家が点在していた「楓荘」は大規模なマンションになった。その後もマンションやオフィスビルへの転換が続き、1982年の時点で営業を続けていたのは旧・南風荘本館の系譜を引く「あぐら荘」のみとなる。この地域の特色として、比較的閑静な環境からか、マンションへの転換が比較的多い。

② 旧・千駄ヶ谷一丁目 JR中央線南側・「大通り」北側
御苑荘   1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
      現状「ニュー千駄ヶ谷マンション」(マンション 1978年4月築)
はなぶさ別館 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
      現状「佳秀ビル」(オフィスビル 1985年築)
あみ本館  1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
      現状「河合塾千駄ヶ谷オフィス」(校舎→オフィス 1986年3月築)
あみ別館  1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(シャトウ千宗・駐車場)
      現状「河合塾千駄ヶ谷オフィス2」(校舎→オフィス 1986年3月築)
松実園   1969年 営業中 1976年 廃業(マンション)
      現状「千駄ヶ谷第2スカイハイツ」(マンション 1974年6月築)
旅荘浦島  1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
      現状 駐車場
舞子ホテル 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
      現状「アポセント千駄ヶ谷」(マンション 1974年2月築)
旅館もみぢ 1969年 営業中 1976年 廃業(個人宅・斎藤)
      現状「もみじ駐車場」(紅葉不動産)
旅荘たかのは 1969年 営業中 1976年 廃業(駐車場)
      現状「インテグレーションSO」(マンション)
旅館玉荘  1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
      現状「松栄駐車場」(紅葉不動産)

千駄ヶ谷(御苑荘・19560222).jpg  千駄ヶ谷(あみ本館・別館・19560607).jpg 千駄ヶ谷(松実園・19530204).jpg       
御苑荘本館      あみ本館・別館     松実園   
(19560222)    (19560607)     (19530204)
千駄ヶ谷(浦島・19570124).jpg 千駄ヶ谷(舞子ホテル・19561023).jpg
浦島         舞子ホテル
(19570124)     (19561023)
千駄ヶ谷(もみじ・19570331).jpg  千駄ヶ谷(たかのは・19561020).jpg   
もみぢ       たかのは    
(19570331)    (19561020)  
千駄ヶ谷(玉荘・19561006).jpg
玉荘(19561006)

JR中央線南側で、千駄ヶ谷のメインストリート、通称「大通り」の北側、現在、大きなスペースを占める「国立能楽堂」(1983年8月竣工)の周辺地域。1960年代末まですべての旅館が営業を続けていた。1970年代に入ると3軒が廃業したが、まだ旅館街の形態を保っていた。1982年の時点ではさらに2軒減り往時の半分の5軒になるが、それでも他の地域に比べると格段に残存率が高い。千駄ヶ谷駅の目の前という好立地によるものだろう。

興味深いのは「あみ本館・別館」のその後で、1976年には本館のみ営業を続け、新館はビルと駐車場になっていたが、1980年代半ばに名古屋に本拠を置く大手予備校「河合塾」の東京進出にあたって、本館・新館跡地を合わせて売却した。「河合塾」の校舎(後にオフィス)が斜めに接しているにもかかわらず、つながっていない不便な形なのは、「あみ本館・新館」の土地利用をそのまま継承したからである。ちなみに、当時を知る「河合塾」関係者によると「予備校生は1年しか通わないから、そこが何であったかは気にしない」とのことだった。

「大通り」沿いの「もみぢ」は、1970年代に廃業するが、経営者のS氏は1967年当時、渋谷区議会議員だった(註15)。「連れ込み旅館」の経営者が地元有力者である一例である。「もみぢ」は2012年の現況で「もみじ駐車場」として名を残している(「玉荘」跡地の駐車場も同じ「紅葉不動産」の管理)。

③ 旧・千駄ヶ谷二丁目 鳩の森八幡周辺、同坂下
白樺荘(本館)1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
      現状「ライオンズマンション千駄ヶ谷第2」(マンション 1983年10月築)
かたばみ荘 1969年 廃業(マンション)
(東京本館)現状「コーポ青井 千駄ヶ谷」(マンション 1969年9月築)
旅荘松岡  1969年 営業中 1976年 「割烹松岡」 1982年 廃業(マンション)
      現状「外苑パークホームズ」「千駄ヶ谷ホリタン」
旅荘おほた 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
      現状「ホワイトキャッスル」(マンション 1973年7月築)
旅館きかく (北側)1969年「モテルきかく」1976年 営業中 1982年「ホテルきかく」
      現状「ホテルきかく」(休業中)
(南側)1969年「旅荘きかく」1976年 廃業(空地)
      現状「メゾンブーケ」(マンション 1974年7月築)
あみ新荘  1969年 営業中 1976年 廃業(第2シャトウ千宗)
      現状「第2シャトウ千宗」(オフィスビル 1969年1月築)
旅館いこい 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
      現状「サンビューハイツ神宮」(マンション 1981年2月築)
旅館三越  1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(オフィスビル)
      現状「五月女ビル」(オフィスビル 1977年5月築)
旅館柳水  1969年「白樺新館」 1976年「白樺新館」 1982年 廃業(駐車場)
      現状 駐車場
千駄ヶ谷(白樺荘・19521007).jpg 千駄ヶ谷(かたばみ荘・19540113).jpg 千駄ヶ谷(松岡・19560621).jpg
白樺荘(本館)    かたばみ荘    旅荘松岡   
(19521007)    (19540113)   (19560621)
千駄ヶ谷(おほ多・19560607).jpg 千駄ヶ谷(きかく=喜鶴別館・19540404).jpg 千駄ヶ谷(あみ新荘・19570428).jpg
おほ多       喜鶴(きかく)    あみ新荘 
(19560607)   (19540404)     (19570428)
千駄ヶ谷(いこい新荘・19570507).jpg 千駄ヶ谷(三越・19570130).jpg     
      いこい            三越       
      (19570507)        (19570130)   
千駄ヶ谷(柳水・19560429).jpg
柳水(19560429)
 
「大通り」を南に渡った鳩の森八幡周辺と、その坂下の地域。千駄ヶ谷駅からは少し距離があるが、入ろうか入るまいか逡巡しながら歩いているカップルにはこのくらいの距離がちょうどよい、という説もある。

1960年代末まではすべての旅館が営業を続けていた。1970年代に入ると9軒から7軒に減るが、なお旅館街の形を保っていた。しかし、その後、廃業する旅館が続出し、1982年の時点では1軒となり、旅館街としては消滅する。

千駄ヶ谷「連れ込み旅館」群の中でも有数の老舗であり規模も大きかった「白樺荘」は1980年代初頭に廃業し、広い敷地を生かした大規模マンションになった。
同様に広い敷地を有していた「旅荘松岡」は、1970年代に「割烹松岡」に転業した。

最後まで営業を続けたのは「きかく」で、千駄ヶ谷地区で最後の「連れ込み旅館」となる。2012年の段階でも休業中ながらドアに屋号を残していた。

④ 旧・千駄ヶ谷三丁目 明治通り・千駄ヶ谷ロータリー南東側
旅荘みなみ 1969年 営業中 1976年 廃業(株式会社毛利研究所)
      現状「幻冬舎本館」
旅館光雲荘 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(オフィスビル)
      現状 ビル
旅荘深草  1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
 (みぐさ)現状 東京メトロ副都心線北参道駅1番出口
旅館大野屋 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(個人宅・大野)
      現状 駐車場
旅荘千代原 1969年 営業中 1976年(空地) 1982年 廃業(ハイツ千代原)
      現状 マンション
旅館ふる里 1969年 営業中  1976年 廃業(クリニック、喫茶店)
      現状
 
千駄ヶ谷(光雲荘・19570513).jpg 千駄ヶ谷(深草・19521007).jpg 千駄ヶ谷(大野屋・19531115).jpg 千駄ヶ谷(ふる里旅館・19570112).jpg
光雲荘       深草       大野屋      ふる里旅館
(19570513)   (19521007)   (19531115)   (19570112)

千駄ヶ谷ロータリー南東側の地域。千駄ヶ谷駅からも代々木駅からもやや遠いが、明治通りには近く自動車での便は良い。新宿駅南口でタクシーに乗ったカップルは、スムースにこの地域の宿に入れる。

1960年代末までは6軒すべての旅館が営業を続けていた。1970年代に入ると半減して3軒になる。さらに1982年の時点では明治通り沿いの「深草(みぐさ)」1軒となり、旅館街としては消滅する。

この地域の特色として、もともと小規模な旅館が多かったためか、マンションよりオフィスビルへの転換が多い。「みなみ」の跡地は、現在、出版社「幻冬舎」の社屋になっている。また「深草」の跡地は、東京メトロ副都心線北参道駅(2008年6月開業)の出口になっている。

⑤ 旧・千駄ヶ谷三丁目 明治通り・千駄ヶ谷ロータリー南西側
白樺荘別館 1969年 営業中 1976年 廃業(新代々木ビル)
      現状「新代々木ビル」(オフィスビル 1974年築)
旅館湯の川 1969年 営業中 1976年 廃業(大成ビル)
      現状「ヴィールヴァリエ北参道」(マンション 2005年3月築)
旅館みその 1969年 営業中 1976年 廃業(化学工業ビル)
      現状 駐車場
南風荘別館 1969年「南風荘新館」 1976年 廃業(コーポ南)
      現状「外苑アビタシオンビル」(オフィスビル 1968年10月築)
すずきや旅館  1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
      現状「東九パレス神宮」(マンション 1980年3月築)
せきれい荘 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
      現状「アカデミービル」(オフィスビル 1988年1月築)
旅館まつかさ1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
      現状「第5スカイビル」(オフィスビル 1984年3月築)
旅館深山荘 1969年 営業中 1976年 廃業(工事事務所)
      現状「深山ビル」(オフィスビル 1986年8月築)
千駄ヶ谷(白樺荘別館・19540114).jpg 千駄ヶ谷(南風荘新館・19580402).JPG 
白樺荘別館     南風荘新館
(19540114)     (19580402) 
千駄ヶ谷(すずきや・19521007).jpg    千駄ヶ谷(せきれい荘・19561205).jpg 
すずきや      せきれい荘
(19521007)     (19561205)
千駄ヶ谷(まつかさ・19570130.jpg 千駄ヶ谷(深山荘・19561023).jpg
まつかさ      深山荘
(19570130)    (19561023)

千駄ヶ谷ロータリー南西側の、明治通りとJR山手線に挟まれた地域。千駄ヶ谷駅、代々木駅、原宿駅いずれからも遠いが、やはり明治通りに近く自動車での便は良い。また明治通りには、1955年12月27日に全通した都営トロリーバス(無軌条電車)の102系統が走っていた。最寄りの停留所「千駄ヶ谷小学校前」を案内する広告もある(「深山荘」など)。

1960年代末までは8軒すべての旅館が営業を続けていたが、1970年代に入ると3分の1近くの3軒に減ってしまう。さらに1982年の時点では「せきれい荘」と「まつかさ」の2軒のみとなる。どちらも1980年代後半には廃業し、旅館街は消滅する。

この地域も、交通の便からか、マンションよりオフィスビルへの転換が多い。「深山荘」は、ビルの名称(深山ビル)に名残をとどめている。

⑥  旧・新宿区霞ヶ丘町
かすみ荘  1963年以前に区画整理で立ち退き、廃業。
      現状「明治公園」(1964年開園)の敷地の一部。
紫雲閣   1963年以前に区画整理で立ち退き、廃業。
現状「明治公園」(1964年開園)の敷地の一部。

千駄ヶ谷・信濃町(かすみ荘・19540430k).jpg
かすみ荘(19540430k)  
千駄ヶ谷・信濃町(紫雲閣・19541230).jpg
紫雲閣(19541230)

JR中央線の千駄ヶ谷駅の東南部、神宮外苑の西側の地域。千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街の東端。2軒とも、霞ヶ丘町の国立競技場(1958年3月竣工)が東京オリンピック(1964年)のメイン会場に決まったことに伴う周辺地区の区画整理(後に「明治公園」となる)で立ち退きとなり廃業したと思われる。正確な時期は不明だが、1963年以前と推定される。

東京オリンピックの開催が、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」群に直接的に影響した事例だが、東端部の2軒を廃業に追いやったにすぎなかった。

(3)「連れ込み旅館」群の衰退・解体時期とその理由 

個別調査の結果を集計すると、下記のようになる

  1957  69  76   82年
①  7   7   5   1 (あぐら荘)
②  10   10   7   5  (玉荘、浦島荘、舞子H、はなぶさ、あみ本館)
③  9   9   7   1 (Hきかく)
④  6   6   3   1 (深草)
⑤  8   8   3   2 (せきれい荘、まつかさ)
⑥  2   0   0   0
  42   40   19   10

千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街は、1960年代末までは、全盛期の1950年代後半の軒数をほぼ維持していた。先に掲げた1968年秋の地図の状況は、個別調査によっても実証された。住民運動(「鳩の森騒動」)やアジア大会・東京オリンピック開催にともなう「浄化運動」よって凋落・壊滅したという「通説」はまったく成り立たない。

ところが1970年代中ごろにはほぼ半減してしまう。そして1982年にはさらに半減してわずか10軒、全盛期の4分の1以下になる。地域的にも大きく縮小し、かろうじて旅館街の形を残すのは千駄ヶ谷駅南側の地域(③)だけになってしまう。

以上の検討から、千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街の衰退は1970年代に始まり、1980年代前半に解体、終焉を迎えたと考えられる。「通説」より、衰退で10年、解体で15年ほど遅い。

それでは、千駄ヶ谷「連れ込み旅館」群の衰退の理由はなんだったのだろうか? それは性的なものも含めた日本人の生活環境の変化だと思う。

別稿で述べたように、1950年代の「連れ込み旅館」の利用者が求めたものは、数寄屋造り・風呂付きの部屋、テレビ、冷暖房といった日常生活よりワンランク、ツーランク上の和風ベースの高級感だった。それらは、1960年代の高度経済成長期に曲がりなりにも達成され、特段の魅力を持たなくなってしまった。1970年代以降の利用者が求めるものは、大きなそして仕掛けのあるベッドが置かれた洋室、シャワーがあるスケルトンのバスタブに象徴される洋風ベースのゴージャスさだった。井上章一は「ラブホテル」という名称の出現を1973年とするが(註1)、性交渉の場は、旅館(旅荘)からホテルへと転換していった。

また、モータリゼーションの発達は、アベック(カップル)の行動様式を変えた。二人で鉄道の駅を降りて、そぞろ歩きしながら「連れ込み旅館」を探して入るというパターンから、自家用車でドライブして郊外のモーテルに入るという形に変化していった(註16)。

経営者側にしても、広い敷地に平屋の建物というのは、いかにも効率が悪い。とりわけ地価が高騰した千駄ヶ谷地区などでは、ビル化して、マンションやオフィスビル経営に転業した方がよほど儲かる時代になった。

千駄ヶ谷「連れ込み旅館」群は、そうした時代の流れについていけなくなったのだと思う。

ところで、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街の衰退が、湯島、錦糸町、あるいは新宿歌舞伎町のラブホテル街の形成につながったという俗説があるが、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街が少なくとも1960年代末まで健在だったことが明らかになったことにより、再検討しなければならない。なぜなら、新宿歌舞伎町においては、すでに1960年代に旅館街が形成されていて、辻褄が合わないからだ。これら東京各地のラブホテル街の形成過程は、それぞれ別個に検証する必要がある。

おわりに
1990年代後半、私は新宿歌舞伎町の女装スナックのお手伝いホステスをしていた。いつもは山手線の始発電車で帰るのだが、ママがお小遣いをくれた日やとても疲れた日は、奮発して目黒の自宅までタクシーで帰ることもあった(料金は2800円くらい)。

タクシーは夜明けの明治通りを南に走る。ある朝、おしゃべり好きの白髪の運転手が、千駄ヶ谷の交差点の信号で停まった時、「お客さん、このあたりに連れ込みホテルがたくさんあったって知ってますか?」と話しかけてきた。「そうなの?」と応じると、「(新宿駅の)南口でアベックを乗せて、よくここらの旅館に運んだものですよ。(アベックのお客さんに)「どちらへ?」って聞いて「どこでもいい」と言われると、約束してある旅館に運ぶんです。そうすると(旅館から)チップもらえるんです。200円くらいですけどね。いい時代でした」。歴史研究者の癖で「それいつ頃のこと?」と問うと、「そうですね、自分が30代の頃だから25年くらい前ですかね」という返事。

この会話は、たしか1997年頃だと思う。とすると、運転手の経験談は1970年代初頃ということになる。少なくとも、東京オリンピック(1964年)の後であることは間違いない(ちなみに、タクシーの初乗り料金は1972年に170円になる。ほぼ初乗り1回分のチップがもらえたことになる)。

それから23年という長い歳月が経ち、ようやくあの運転手の思い出話を証明することができた。

【註】
(註1)井上章一『愛の空間』(角川選書、1999年)第4章「円宿時代」
(註2)「二千三百平方キロの桃源郷」(『週刊サンケイ』1957年3月10日号)
(註3)【研究報告】1950年代東京の「連れ込み旅館」について ―「城南の箱根」ってどこ?―」(第2回「セクシュアリティ研究会」、明治大学、2018年8月)。
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-08
(註4)保田一章『ラブホテル学入門』(晩聲社、ヤゲンブラ選書、1983年)63~66頁。
(註5)たとえば、「みちくさ学会」の「東京オリンピック開催を契機に消滅した性風俗(その2:千駄ヶ谷の連れ込み旅館)」(2011年2月23日、著者:風俗散歩氏=フーさん)
http://michikusa-ac.jp/archives/2618395.html
(註6)金益見『性愛空間の文化史』(ミネルヴァ書房、2012年)22頁。
(註7)金益見(註6)書23頁には『渋谷ホテル旅館組合創立五〇周年記念誌』(渋谷ホテル旅館組合、2003年)収録の「祝 千駄谷駅改築落成 駅周辺旅館案内」図が掲載されている。1956年の千駄ヶ谷駅の改築を記念したものと思われるが31軒の旅館が載っている。
(註8)「米将校相手の売春ホテル」(『内外タイムス』1957年6月18日号)
(註9)「どこへ行く“温泉マーク”」(『内外タイムス』1957年3月17日号)
(註10)「温泉マークの許可で再び騒然」(『内外タイムス』1957年4月7日号)
(註11)「連れ込み宿に不許可」(『内外タイムス』1957年9月1日号)
(註12)下川耿史『極楽商売 聞き書き戦後性相史』(筑摩書房、1998年)150~153頁によれば、温泉マークが初めて用いられたのは1948年で、大阪・難波の「大阪家族風呂」という旅館が使い始めたことがきっかけで広まったという。代々原旅館組合の主張はそれより1年早い。
(註13)鈴木由加里『ラブホテルの力 ―現代日本のセクシュアリティ―』(廣済堂ライブラリー、2002年)112~117頁。
(註14)三橋順子『新宿『性なる街の歴史地理』(朝日選書、2018年)
(註15)「全調査=東京・仕掛けホテル」(『週刊大衆』1968年11月14号)。「仕掛けホテル」とは、噴水、震動装置、ブランコなどの「仕掛け」があるホテルのようだが、用語として定着しなかった。
(註16)モーテルについては、鈴木(註13)書118~123頁。『現代用語の基礎知識(1958年版)』(自由国民社)は「モーテル」の項目で「いわば温泉マークのアメリカ版」と説明している(項目執筆担当は大宅壮一)。

【備考】
広告図版の8桁の数字は、掲載年月日を示す。
末尾にkがついているのは『日本観光新聞』、他はすべて『内外タイムス』。

【住宅地図】
「東京都全住宅案内図帳・渋谷区東部 1959」
(住宅協会。1959年)
「東京都大阪府全住宅精密図帳・渋谷区 1963年版」
(住宅協会東京支所、1962年6月)
「全国統一地形図式航空地図全住宅案内地図帳・渋谷区 1970年度版」
(公共施設地図航空株式会社、1971年1月)
「ゼンリンの住宅地図・東京都渋谷区 1983」
(日本住宅地図出版、1983年3月)
「ゼンリンの住宅地図・東京都渋谷区 1996」
(ゼンリン、1996年1月)

なお、住宅地図の調査と発行のタイムラグを考慮して、1963年版→1962年頃現況図、1970年版→1969年頃現況図などのように1年戻して表記した。

【参考文献】
梶山季之『朝は死んでいた』(文藝春秋、1962年)←小説
佐野 洋『密会の宿』
(アサヒ芸能出版、1964年、 『講談倶楽部』連載は1962年、後に徳間文庫、1983年)←小説
保田一章『ラブホテル学入門』(晩聲社、ヤゲンブラ選書、1983年)
花田一彦『ラブホテル文化誌』(現代書館、1996年)
井上章一『愛の空間』(角川選書、1999年)
鈴木由加里『ラブホテルの力 ―現代日本のセクシュアリティ―』(廣済堂ライブラリー、2002年)
金 益見『ラブホテル進化論』(文春新書、2008年)
金 益見『性愛空間の文化史』(ミネルヴァ書房、2012年)

【追記】
2020年5月5日 「データベース」の改訂に伴い、データを修正。
nice!(0)  コメント(3) 

【論考】1950年代東京の「連れ込み旅館」について ―「城南の箱根」ってどこ?― [論文・講演アーカイブ]

2020年4月8日(水)

この論考は、明治大学文学部の平山満紀教授が主催する「セクシュアリティ研究会」(第2回:2018年08月11日)で発表したものである。
(さらに、その原形は、2011年10月29日の井上章一先生主催の「性欲研究会」で報告)

私の「連れ込み旅館」研究のベースになる報告だが、1年半が経っても、活字にしてくれる所はなさそうなので、原稿化して、このアーカイブに載せておく。

引用される際には、著者名と、この記事のURLを注記していただきたい。

【目次】
はじめに ―思い出―
1 「連れ込み旅館」とはなにか
2 「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」を作る
3 その分布
4 分布から見えるもの ―西の「連れ込み旅館」、東の「赤線」―
5 その設備
 (1)建築様式 (2)基本設備 (3)鏡 (4)テレビ (5)暖房 (6)冷房 (7)風呂
6 その立地
 (1)森 (2)水辺・川 (3)水辺・池 (4)水辺?・水族館 (5)高台 (6)山・山荘
7 そのイメージ
 (1)温泉偽装・温泉詐称・有名温泉への仮託 (2)温泉マークの使用 (3)なぜか南国
8 「連れ込み旅館」の機能 ―むすびに代えて―
----------------------------------------------------------------
    1950年代東京の「連れ込み旅館」について
     ―「城南の箱根」ってどこ?―
           三橋順子(性社会文化史研究者)

はじめに ―思い出―
「今日はちょっと面白いところに連れてってあげるよ」
運転席の彼が言う。

新宿で待ち合わせて、いつもはユーミン(荒井由実=松任谷由実)の「中央フリーウェイ」の歌詞そのままに、右手に競馬場(府中の東京競馬場)、左手にビール工場(サントリー 武蔵野ビール工場)を見ながら中央自動車道を飛ばし、八王子インターチェンジで降りて手ごろなラブホテルに入るのだが、今日は山手通りを南下する。五反田を通ったのはわかったが、その後、どこを走っているのかわからなくなった。

車が着いたのは大きな日本旅館風の建物の前だった。母屋に行って彼が声をかけると、凛とした感じの着物姿の老女が出てきた。「大浴場はもう沸かしてなくて、離れのお風呂だけなのですが、よろしいですか?」「ええ、けっこうです」というやり取りが聞こえる。

鍵をもらった彼について木戸をくぐる。すでに暗くなっていたが、そこが広い庭になっていることがわかった。緩い石段を上りながら、「順子は、こういう昔ながらの『連れ込み旅館』って来たことないだろう。しかも、ここは部屋が離れなんだよ」と彼が説明してくれる。

そして、することをした翌朝、身支度を整えて「離れ」から外に出て、思わず「わーっ」と声を出してしまった。思っていたよりずっと大きな庭だった。緑の木々に囲まれ、そこここに躑躅(つつじ)が植えられ赤や白の花をつけている。その間に黒っぽい岩塊があちこちに置かれている。それが溶岩であることは、地学少年だった私にはわかる。

彼は「朝、出るとき、鍵を返してね」と言って深夜に帰っていった。まあ、いつものことだ。母屋に行って「おはようございます。鍵を返しに来ました」と声をかけると、まだ9時前なのにあの老女がきちんと着物を着て出てきた。
「お支払いは済んでおります」
「あの~ぉ、ちょっとお尋ねしますが、ここはどこなんでしょうか? 最寄りの電車の駅はどちらでしょうか?」
「ここは大田区の石川町という所です。門を出て左に行ってすぐの道を下って行けば東急池上線の石川台の駅に出ます」
「あっ、なるほど、ありがとうございます」
お礼を行って出ようとしたら、
「ちょっと、お嬢さん」
と呼び止められた。
「余計なお世話かもしれませんが、あなた、こういう遊びをしているのなら、自分がどこにいるかくらい、わかっていないといけませんよ」
「まことにごもっともです」なのだが、思いがけずいきなりのお説教に、私は口ごもる。
私の戸惑いを察知したのか、老女の顔が少し和らぎ、口調がやさしくなった。
「ここ、もうずいぶん古いのですけど、あと半年ほどで閉めるんですよ」
「閉めちゃうんですか、すてきなお庭なのに」
「手入れがたいへんでね。昔はお風呂も売りものだったのですけど、ボイラーが壊れてしまって」
「残念ですね」
「あと半年の内に、機会があったら、またおいでください」
「はい」

それは1994年4月の終わり頃のことだったと思う。それから6年ほど経って、私は国会図書館の新聞閲覧室で『日本観光新聞』のマイクロフィルムを閲覧していた。
「性転換の社会史」という論文の執筆のために1950年代の「性転換」の記事を探していたのだが、たまたま紙面の下の方にある広告が目に止まった。
1.jpg
「城南の箱根 思い出の緑風園 池上線石川台下車三分」
「あっ、あそこだ!」
小声だけども、思わず叫んでしまった。

そう気づくと、「緑風園」と同類の「連れ込み旅館」の広告がたくさん載っている。「これは面白い材料(資料)になる」、私は直感した。
2.jpg 
1963年頃の「緑風荘」。左側に主屋、中間に広い庭、右寄りに離れが点在する。
3.jpg
跡地には巨大なマンション「プレステート石川台」(7階建、102戸、1996年3月)が建った。

1 「連れ込み旅館」とはなにか
「連れ込み宿(旅館)」とはなんだろう? それには「連れ込み」という言葉から考えないといけない。まず、1つ目の意味として、街娼(ストリート・ガール)およびそれに類する女性が売春行為をするために男性を誘い導いて「連れ込む」宿のこと。2つ目として、カップルの男性が性行為のために相手の女性を「連れ込む」宿のこと。前者が玄人(くろうと)の女性が男性を「連れ込む」、後者は男性が素人(しろうと)の女性を「連れ込む」意味で、歴史的には前者から後者へと意味(ニュアンス)が転換していく(井上章一『愛の空間』第4章「円宿時代」)。

「連れ込む」主体に違いはあるが、どちらにしても、性行為を前提に「連れ込む」宿である。したがって、一般の旅館のように宿泊を必ずしも前提とせず、一時的な滞在(「ご休憩」「ご休息」)のための部屋利用が想定され、料金が設定されている点に特徴がある。

歴史的に見れば、江戸時代の茶屋で休憩室の奥に布団が敷かれている「出会い茶屋」(上野池之端に多かった)、明治以降、芸者遊びの場であり、お忍びの男女の待ち合わせにも利用された「待合」と呼ばれる施設、さらに昭和戦前期(1930年代)になると「待合」よりずっと気軽に安価に(1人1円)利用できるは「円宿」(えんじゅく)が都市部に出現する。また戦後の混乱期、「パンパン」と呼ばれた街娼が多かった時代には、彼女たちが進駐軍(主に米軍)兵士を連れ込む「パンパン宿」が盛り場の周辺にたくさんあった。「連れ込み旅館」はこうした系譜に連なるもので、戦後の社会的混乱が一段落した1950年代中頃に急増する。

2 「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」を作る
さて、『日本観光新聞』の調査で「連れ込み旅館」の広告の存在に気づいた私は、その後、『内外タイムス』の調査で、さらに大量の「連れ込み宿」広告に出会うことになる。そして、本筋の調査の傍ら、「連れ込み旅館」広告が載っている頁もコピーしていった。

ちなみに『日本観光新聞』も『内外タイムス』も、政治、経済、芸能、スポーツ、そして性風俗を網羅した軟らか系の新聞で、イメージとしては現代の『夕刊フジ』や『日刊ゲンダイ』に近い。
そんな経緯で収集し始めた「連れ込み旅館」広告だが、性風俗関係の頁に広告を出していること、料金設定が「お二人様(御同伴)」で「休憩(休息)」であることの2点を条件に『内外タイムス』と『日本観光新聞』から抽出したところ、1953~57年(昭和28~32)の5年間で690点の広告が集まった。それを整理して「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」を作成した

旅館の軒数にすると385軒。場所が異なる「別館」は1軒にカウントしてある。
完璧とは言わないが、かなりの程度、網羅していると思う。これだけの材料があれば、当時の東京の「連れ込み旅館」の様相は十分にうかがえるだろう。

3 その分布
まず、「連れ込み旅館」の分布から見てみよう。

【エリア別集計】
都心エリア( 85軒)
城西エリア(125軒)
城南エリア(106軒)
城北エリア( 60軒)
城東エリア(  9軒)

【集中地域(5軒以上)】
千駄ヶ谷(39軒)
渋谷(32軒)
新宿(31軒)
池袋(21軒)
大塚(12軒)
代々木(11軒)
新橋・芝田村町(11軒)
長原・洗足池・石川台(10軒)
高田馬場(8軒)
銀座(7軒)
原宿(7軒)
五反田(7軒)
大井町(7軒)
大森・大森海岸(7軒)蒲田(7軒)
新大久保・大久保(6軒)
飯田橋・神楽坂(5軒)
浅草(5軒)
赤坂見附・山王下(5軒)

エリア別の割合は、城西エリア32%、城南エリア28%、城北エリア16%、都心エリア22
%、城東エリア2%で、東京区部の西と南、つまり(拡大)山の手地区に多く、東の下町地区は極端に少なくなっている。
城西エリア(125)では千駄ヶ谷(39)が都内最大の集中地域で、新宿(31)、代々木(11)がそれに次ぐ。代々木は新宿と千駄ヶ谷の間で両者をつなぎ、巨大な「連れ込み旅館」ベルトを形成している。
城南エリア(106)は渋谷(32)に顕著に集中し、離れて長原・洗足池・石川台(10)が次ぐ。
都心エリア(85)は新橋・芝田村町(11)が多いが、他は分散的である。後にラブホテルの集中地域になる湯島は坂上に2軒、天神下に2軒でまだ集中傾向はない。現在、東京最大のラブホテル密集地域の鶯谷は2軒だけで目立っていない
城北エリア(60)は池袋(21)とその東の大塚(12)に集まっている。大塚は「花街」(三業地)からの転身である。
ほとんど広告がない城東地区(9)は、やはり後にラブホテルが集中する錦糸町もまだ2軒だけだ。

さらに細かく、鉄道沿線別に見てみる(都心は区別)。
都心エリア(85軒)
【千代田区】(9)
神田(鍛冶町)(1)秋葉原(1)御茶ノ水(3)神田小川町(2)神田神保町(1)九段下(1)
【中央区】(15)
銀座(7)築地(1)日本橋(1)人形町・浜町(4)東京駅八重洲(2)
【港区】(25)
新橋(6)芝田村町(5)虎の門(1)神谷町(1)浜松町(1)田町(2)芝公園(1)坂見附(2)赤坂山王下(3)麻布霞町(1)麻布竜土町(1)青山一丁目(1)
【台東区】(20)
御徒町(3)上野池ノ端(3)根津八重垣町(1)上野桜木町(1)鶯谷(2)下谷坂本町二丁目(3)蔵前(1)浅草(5)浅草橋場(1)
【文京区】(8)
湯島天神下(2)湯島(2)本郷真砂町(1)小石川柳町(1)白山(本郷肴町)(1)小日向(石切橋)(1)
【新宿区】(8)
飯田橋・神楽坂(5)市ヶ谷新見附(1)牛込矢来町(1)四谷荒木町(1)

城西エリア(125軒)
【国電山手線】
高田馬場(8)新大久保・大久保(6)新宿(31)原宿(7)
【国電中央線】
千駄ヶ谷(39)東中野(1)中野(1)高円寺(1)阿佐ヶ谷(2)吉祥寺(2)
【小田急線】9
参宮橋(3)代々木八幡(1)代々木上原(1)下北沢(1)登戸(2)向ヶ丘遊園前(1)
【京王本線】
幡ヶ谷(1)明大前(2)高井戸(2)調布(1)
【京王井の頭線】
浜田山(1)

城南エリア(106軒)
【国電山手線】
渋谷(32)恵比寿(1)目黒(4)五反田(7)
【東急東横線】(16)
代官山(1)中目黒(1)都立大学(1)自由が丘(3)多摩川園(1)新丸子(4)武蔵小杉(2)元住吉(2)大倉山(2)
【東急大井町線】
二子玉川(1)二子新地(1)高津(1)
【東急目蒲線】
目黒不動前(1)鵜の木(1)
【東急池上線】
長原・洗足池・石川台(10)雪ヶ谷大塚(1)千鳥町(2)久ヶ原(1)池上(1)
【国電京浜東北線】
品川(3)大井町(7)大森(5)蒲田(7)川崎(1)鶴見(1)
【京浜急行】
大森海岸(2)

城北エリア(60軒)
【国電山手線】
目白(2)池袋(21)大塚(13)巣鴨(4)駒込(2)田端(1)日暮里(3)
【国電京浜東北線】
王子(1)東十条(1)赤羽(1)川口(1)北浦和(1)大宮(3)
【国電赤羽線】
板橋(1)
【国鉄常磐線】
三河島(1)北千住(1)
【東武東上線】
大山(1)常盤台(1)
【西武池袋線】
桜台(1)

城東エリア(9軒)
【国電総武線】
錦糸町(2)亀戸(1)平井(2)新小岩(1)小岩(1)船橋(1)
【東武鉄道】
玉ノ井(1)

鉄道沿線で見ると、都心から西に延びる幹線である中央線沿線は、御茶ノ水、飯田橋・神楽坂に始まり、最大の集中地区である千駄ヶ谷、代々木、新宿、大久保、東中野、中野、高円寺、阿佐ヶ谷とほぼ連続的に立地し、この沿線の需要が高かったことがうかがえる。
山手環状線の駅もほぼまんべんなく立地し、確認できないのは有楽町駅と大崎駅だけである(西日暮里駅はまだない)。大崎は工場地帯や電車区があり駅周辺の開発が遅れていたので仕方がないだろう。
城西、城南エリアはかなり郊外まで分布が伸びている。東急目蒲線の鵜の木、東急東横線の新丸子、武蔵小杉、東急大井町線の二子多摩川、二子新地、小田急線の登戸など、多摩川の河川交通と陸上の街道との結節点に発達した花街に立地しているのは興味深い。
また、地区別の上位が国電山手線・中央線沿線で占められている中で、唯一の私鉄である東急池上線沿線の長原・洗足池・石川台(10)が目立つ。私が泊まった石川台の「緑風園」もこの地区に含まれる。

4 分布から見えるもの ―西の「連れ込み旅館」、東の「赤線」―
1953~1957年の東京の「連れ込み旅館」の分布で、最も注目すべきは、城東エリアの極端な少なさだろう。
全体のわずか3%、区部で広告が確認できるのは、江東区2軒(錦糸町)、墨田区1軒(向島)、葛飾区1軒(新小岩)、江戸川区2軒(平井、小岩)、足立区1軒(北千住)の7軒に過ぎない。

広告が確認できないからまったく「連れ込み旅館」がなかったとは言えないが、少なくとも広告を出すほど経営意欲がある「連れ込み旅館」はきわめて少なかった。

その理由を推測すれば、単純に需要が少なかったから、と思われる。
性行為の場として、「連れ込み旅館」を考えた場合、その需要、利用形態は次のように推定される。
① 街娼(一部の芸妓や女給を含む)など「売春」を業とする女性が客の男性を「連れ込む」。
② 男性が、芸妓、女給さらには、素人など「売春」を業としない女性を口説いて「連れ込む」。
③ 住宅事情など、自宅でSexする環境に恵まれていない夫婦や恋人同士が利用する。

この内、①は、街娼からすると「連れ込み宿」の料金が高すぎ、経営者側からすると売春行為を禁止した「東京都売春取締条例」(1949年5月31日制定)の「場所提供」に違反することから、主流ではなかったと思われる。

つまり、「連れ込み宿」の需要は②③、さらに言えば②が中心だった。

4.jpg
千駄ヶ谷駅ホームのアベック(『週刊東京』1956年5月12日号)
5.jpg
千駄ヶ谷駅前の立て看板(『週刊東京』1956年5月12日号)
6.jpg
千駄ヶ谷・羽衣苑に入る男女(『週刊サンケイ』1957年3月10日号)

梶山季之『朝は死んでいた』(1960年『週刊文春』に連載)で殺人犯に仕立てられる主人公のように、都心の会社に通うサラリーマンで、銀座、次いで新宿の盛り場で飲んで、女性(女給やBG)を口説いて、千駄ヶ谷あたりの旅館に連れ込んでSexする男たちだ。

彼らのようなサラリーマンの自宅は、都心から西の新宿や、南の渋谷から、さらに西に延びる私鉄沿線に多く、東側には少なかった。千駄ヶ谷、新宿、渋谷が「連れ込み旅館」の密集地であり、そこを起点とする私鉄沿線に連続的に分布するのは、彼らの需要があったからだ。東京の「連れ込み旅館」の分布がサラリーマンの自宅の立地と性行動のパターンと深く関係していることは間違いないと思う。

では、「連れ込み旅館」が少ない東京の東側の男たちはどうしていたのだろうか?
この時期は「赤線」があった時代だ、「赤線」とは1946年12月~1958年3月末に存在した黙認買売春地帯である。警察が地域を限って「特殊飲食店」の営業を許可し、そこで働く女給が客と自由恋愛の末に性行為をし、プレゼントとしてお金をもらうという建前を警察が黙認することで成り立っていた。

東京区部には13カ所の「赤線」が存在していたが、その分布は、「連れ込み旅館」とはまったく逆で、城西、城南エリアに少なく、城東エリアに圧倒的に多かった。

都心エリア なし
城西エリア 1カ所(新宿区:新宿二丁目) 
      74軒 従業婦477人(1952年末)
城南エリア 2カ所(品川区:北品川、大田区:武蔵新田)
      45軒 従業婦185人
城北エリア 1カ所(台東区:新吉原)※ 
      313軒 従業婦1485人
城東エリア 9カ所(墨田区:玉の井・鳩の街、江東区:洲崎・亀戸、葛飾区:新小岩・亀有・立石、江戸川区:東京パレス、足立区:千住柳町)
      710軒 従業婦2307人
(※)新吉原は行政区分は台東区なので、この報告では都心エリアに分類されるが、かつて「北里(ほくり)」と通称されたように、江戸・東京の地理感覚では城北エリアとした方が実態的だと思う。

こうした分布から、東京の東側の男たちの性行為の場は圧倒的に「赤線」で、「連れ込み旅館」の需要は少なかったと推測される。下町の伝統的な花街、たとえば深川(門前仲町)などには芸妓と客の性行為の場としての「待合」のような施設があったが、それは「連れ込み旅館」の広告には現れていない。

つまり、性行為の場として、「赤線」と「連れ込み旅館」は対置関係にあった。実際、新吉原、洲崎、玉の井、鳩の街、そして新宿二丁目など規模の大きな「赤線」の周囲には「連れ込み旅館」はほとんど立地しない。需要がないからだ。

「赤線」と「連れ込み旅館」が対置関係にあったということは、裏を返せば、両者は補完関係にあったということだ。

極言すれば、東京には「赤線」に行って女給(実態は娼婦)を買ってSexする男(商店主・職人・工員など)と、BGやクラブの女給(後のホステス)を口説いて「連れ込み旅館」に連れ込んでSexする男(会社員が中心)の2タイプがいた。前者のタイプは東京の東半分に多く、後者のタイプは西半分に多く住んでいたと思われる。

東京においては、少なくとも1950年代までは、性行為の文化が地域によってかなり異なっていたことが浮かび上がってきた。「赤線」と「連れ込み旅館」の補完関係は1958年3月の「赤線」廃止(「売春防止法」の完全施行)によって崩壊する。その後、こうした性行為の地域性がどう変化していったのか? 今後の課題としたい。

5 その設備
次に、広告にあらわれた「連れ込み旅館」の設備について見てみよう。
(1)建築様式
「数寄屋造り、離れ家式」(おほた:千駄ヶ谷)
「古代桂を偲ばせる 城北に誇る新日本風数寄屋造りの静かな旅荘」(浮月:池袋)
「全荘離家式、数寄屋造り」(三越:千駄ヶ谷) 
「全室離式 那知廊下伝」(川梅:蒲田)←「那知(智)廊下」って何?
「純洋室高級ベッド完備」「別館数寄屋造り」
(大久保ホテル:新大久保・大久保)
「歌舞伎調スタイル」(音羽:蒲田)   
「各室歌舞伎調好み」(龍美:目黒) ←「歌舞伎調」とは具体的に?
 「歌舞伎」(原宿)という旅館もある

建築様式は、圧倒的に数寄屋造り・離れ家式が好まれている。洋室主体のホテルも、数寄屋造りの別館を増築する。コンセプトは高級&和風である。
7.jpg 8.jpg
若水(池袋:19571206)  夕月荘(大塚:19540305k)
9.jpg 10.jpg
紅屋(池袋:19540319k) 可悦(高田馬場:19571229)

(2)基本設備
「和洋各室、離式・風呂・トイレ・電話付」(深草:千駄ヶ谷)
「トイレ 風呂 ラジオ 電話付」(夕月荘:大塚)
「新装開店 各室共外線直通電話 ラジオ設備」(成光館:飯田橋:1955年6月)
 
基本設備は、各室に風呂、トイレ、そして電話である。それにラジオが加わる。

(3)鏡
「鏡風呂」「鏡の間」(利女八:阿佐ヶ谷)
「鏡風呂(四面鏡)」(川梅:蒲田)
「鏡天上」(ほていや:高田馬場) →「天上」は「天井」の誤り
「鏡風呂・鏡部屋」(天竜:大井町)

井上章一『愛の空間』(角川選書、1999年)が、ラブホテルのインテリアの特徴としている「鏡」だが、広告にはあまり現れない。「鏡部屋」「鏡天井」「鏡風呂」が存在したのは確実だが、普及度はまだ今一つだったと思われる。
11.jpg
川梅(鎌田:19530107)

(4)テレビ
「テレビ各室」(みやこホテル:参宮橋:1956年3月)
「各室テレビ・バス・トイレ・電話付」(京や:代々木:1956年12月)

テレビは、1956年3月の参宮橋「みやこホテル」の広告が最初。1956年は、まだNHK総合+民放2社の時代で、世の中は「街頭テレビ」の時代。「各室テレビ」はとても贅沢で画期的だと思う。
12.jpg
みやこホテル(参宮橋:19560304)

(5)暖房
 (こたつ)
「温かなコタツを用意して」(紫雲荘:五反田:1953年9月)
「全室おこたの用意が出来ました」(夕月荘:大塚:1953年9月)

13.jpg 14.jpg
夕月荘(大塚:19540305k)  ホテルしぐれ荘(大森・19550213) 

(スチーム暖房)
「スチーム暖房完備」(ホテル・スワニー:高田馬場:1953年3月)
「冬知らぬ スチーム暖房」(みやこホテル:参宮橋:1954年11月)
「初夏の宿 スチーム暖房」(山のホテル:渋谷:1954年12月)
「各部屋スチーム暖房」(かすみ荘:千駄ヶ谷:1955年2月)
「全館スチーム暖房 お部屋は小春の暖かさ」(白樺荘本館:千駄ヶ谷:1956年1月)
15.jpg 
山のホテル(渋谷:19541207)   
16.jpg
みやこホテル(参宮橋:19550213)

暖房は、炬燵からスチーム暖房へという流れ。スチーム暖房の初見は1953年春で、1955~56年の冬にはかなり普及した様子がうかがえる。

(6)冷房
(扇風機)
「各室、離家式 電話、扇風機付」(御苑荘:千駄ヶ谷:1953年9月)
「各室バス付 扇風機」(山のホテル:渋谷:1954年8月)

17.jpg 18.jpg
紅屋(池袋:19540813k) 富士見荘(新宿区役所通り:19550819k)

(クーラー)
「涼味みなぎる 完全冷房店」(富士見荘:新宿区役所通り:1955年7月)
「完全冷房」(玉荘:千駄ヶ谷:1956年7月)

冷房は、扇風機からクーラーへという流れだが、暖房に比べると転換は遅い。「冷房」の広告上の初見は、1955年夏の新宿「富士見荘」。他にも千駄ヶ谷の高級旅荘「玉荘」のみ。普及は1960年代になってからと思われる。

(7)風呂
(形状)
「岩風呂」(福住:鶯谷)(やまと:桐ケ谷)(可悦:高田馬場)(大洋:渋谷)(天竜:大井町)(高津ホテル:高津)(ホテル赤坂:赤坂)(葵:大塚)(寿美吉:大塚)(緑風園:池上石川台)(福田屋:登戸)(トキワホテル:日暮里)(みやこ:目白)
「岩戸風呂」(東洋荘:渋谷)(のぼりと館:向ケ丘遊園前)
「穴風呂」(緑風園:池上石川台)
「滝風呂」(すずきや:代々木)(大洋:渋谷)(白梅:船橋)(洗足池旅館:池上洗足)
「寝風呂」(藤よし:駒込)
「寝台風呂」(筑波旅館:恵比寿)
「舟風呂」(東洋荘:渋谷)
「水族館付き舟風呂」(黒岩荘:渋谷)
「屋形風呂」(川梅:蒲田)
「数寄屋風呂」(鶴栄:大塚)
「数寄屋造りのロマンス風呂」(城北閣:池袋)
「瓢箪風呂」(二幸:渋谷)
「扇風呂」(東芳閣:池袋)
「末広風呂」(香川:大塚)
「ダルマ風呂」(夕月荘:大塚)
「鏡風呂」(川梅:蒲田)(利女八:阿佐ヶ谷)(天竜:大井町)
「大理石風呂」(菊富士松韻亭:原宿)
「大理石のパール風呂」(藤よし:駒込)
「風趣あふれる京の竈風呂」(御苑荘:千駄ヶ谷)
「むし風呂」(ピースホテル:大塚)
「スポンジ風呂」(ほていや:高田馬場)(のぼりと館:向ケ丘遊園前)

(立地)
「露天岩風呂」(深山荘:千駄ヶ谷)
「露天大岩風呂」(照の家:池上長原)
「若返り温泉 二階風呂」(加島屋旅館:川崎)
「階上ロマンス風呂」(旭:巣鴨)
「せせらぎの音にゆあみする優雅な川辺風呂」(大都:大井町)
(香り)
「レモン風呂」(白樺荘別館:千駄ヶ谷)(湯島荘:湯島)
「香水風呂」(高田旅館:渋谷)(飛龍閣:渋谷)(蓬莱:上野桜木町)(目白山手ホテル:目白)
「香気漂う丁子風呂」(あおば荘:白山)
「松葉風呂」(松実園:千駄ヶ谷)

(添加)
「牛乳風呂」(みやこ:新宿)(小梅荘:五反田)
「薬湯」(高津ホテル:高津)
「ホルモン風呂」(しぐれ荘:大森)
「ホルモン入葉緑素風呂」(ふじた:鵜の木)
「珪藻土入りのお風呂」(いずみ:池袋)

(数)
「二十五の湯殿」→「三十の湯殿」→「三十五の湯殿」(みやこホテル:参宮橋)
「八つの御風呂」(みすず:渋谷)
「七ツのお湯が溢れている」(山王温泉ホテル:大森)

(実態不明)
「ヨーマ風呂」(川梅:蒲田)
「金魚風呂」(きりしま:代々木)
「孔雀風呂」(永好:渋谷)
「虹風呂」(はなぶさ新館:原宿)
「ローマ風呂」(東芳閣:池袋)
「豪華なフランス風呂」(鶴栄:大塚)
「情緒あふれる浅妻風呂」(音羽:蒲田)
「ロマンス風呂」(菊半旅館:渋谷神泉)(美鈴:巣鴨)(緑風園:池上石川台)

『愛の空間』が注目しているように、風呂は、旅館にとって誘客の「目玉」であり、風呂がない家庭が多い時代の利用者にとって大きな魅力だった。広告文には実に多彩な「風呂」が現れる。岩風呂、滝風呂、鏡風呂、蒸し風呂、舟風呂、寝風呂などの形状、香水風呂、丁子風呂、レモン風呂など香り付けをしたと思われるもの、牛乳風呂、ホルモン風呂、葉緑素風呂、珪藻土風呂などなにかを添加して美容効果をねらったもの、やたらと数を増やした挙句、火事を出したホテル。一方、ロマンス風呂、虹風呂、金魚風呂、孔雀風呂など実態がよくわからないものもある。

19.jpg 20.jpg       
岩風呂:やまと      滝風呂:洗足池旅館    
(桐ケ谷:19540306)  (池上洗足池:19531020) 
21.jpg 22.jpg
滝風呂:よしみ      露天大岩風呂:照の家 
(蒲田:19540813k)   (池上長原:19540730k)
23.jpg  24.jpg
大岩風呂:登戸館     特に特徴のないタイル風呂:桂
(向ケ丘遊園前:19570505) (大塚:19540319k)
25.jpg
謎の「ヨーマ風呂」:川梅
(蒲田:19560621)

6 その立地
水辺や高台など地理的な特長、森、川、池、山などの自然のイメージを強調する広告も多い。
(1)森
「御苑の森かげに七彩の湯湧き出づる」(南風荘:千駄ヶ谷)
「鬱蒼と茂った千駄ヶ谷の森に囲まれた閑静な憩の宿」(松実苑:千駄ヶ谷)
「外苑の森に囲れた静かな皆様のお宿」(かなりや:代々木)
「緑の森 静かなお部屋」(まつかさ:千駄ヶ谷)
「目黒の森に囲まれた静かな皆様のお宿」(菊富士ホテル:目黒)
「新宿の自然境」(とみ田:新宿駅南口)

「森」は、新宿御苑や神宮外苑に隣接する千駄ヶ谷、代々木エリアの旅館に多くみられ、静寂・閑静がイメージ化される。さらに都会の俗塵を離れた自然も・・・。
26.jpg 27.jpg
まつかさ(千駄ヶ谷:19541023k)  とみ田(新宿駅南口:19530731)

(2)水辺・川
「浜町河岸」(矢の倉ホテル:日本橋浜町)←隅田川
「江戸情緒豊かな隅田河畔で!」(龍村:浅草)←隅田川
「静かな川辺の宿」(杵屋:錦糸町)←堅川
「TOKYOのセーヌのほとり」(東京スターホテル:銀座)←築地川
「情緒豊かな神田川畔のお宿」(白:秋葉原)←神田川
「せせらぎの音にゆあみする優雅な川辺風呂」(大都:大井町)←立会川
「多摩川畔の静かな別荘」←多摩川(高津ホテル:高津)←多摩川
「多摩川の四季に眺める二子橋玉川堤」(幸林:二子新地)←多摩川
「多摩川の涼風が誘う」(新雪:登戸)←多摩川

「水辺・川」は、隅田川と多摩川が中心。神田川、築地川はともかく、堅川や立会川になると「川」の風情を感じるのは難しいのではないか。立会川の「せせらぎの音」はいかにも誇大広告。東京の川辺が「風流」なイメージを保てた最後の時代か。1960年代に高度経済成長期になると、川の汚濁と悪臭がひどくなり、川の埋め立て(築地川)や暗渠化(立会川)が進行する。
28.jpg  29.jpg  
龍村          大都            
(浅草:19570713)   (大井町:19550410)   
30.jpg
新雪(登戸:19570823)

(3)水辺・池
「新宿十二社池ノ上」(浮世荘:新宿十二社)
「涼風をさそう池畔の荘」(ホテル・スワニー:高田馬場)
 ↑ どこの池? 調べたが近隣に池はない。もしかして庭の池?
「上野不忍池畔」(かりがね荘:上野)
「静かな洗足池畔」(翠明館:池上洗足池)
「思い出の洗足池 静かな池畔の宿」(やくも:池上洗足池)
「池畔の幽緑境」(洗足ふじや:池上北千束)

「水辺・池」は、洗足池(大田区)、不忍池(台東区)、十二社弁天池(新宿区、1968年埋め立て、消滅)など。高田馬場の池は不明。とくに現在は住宅地に囲まれている洗足池が郊外の行楽地として機能していたことが興味深い。
31.jpg 32.jpg         
かりがね荘(上野:19561201) やくも(池上洗足池:19521007)  
33.jpg
翠明館(池上洗足池:19530204)

(4)水辺?・水族館
「自慢の新しい水族館付き(黒岩荘:渋谷)」

なぜ「水族館」が・・・、正直言ってよくわからない。

(5)高台
「新宿歌舞伎町高台」(小町園:新宿歌舞伎町)
「高台の静けさ」(東京ホテル:新宿区役所通り)
「見晴らしのよい高台」(大洋:渋谷)
「渋谷の高台」(高田旅館:渋谷)
「高台閑静 眺望渋谷随一!」(平安楼:渋谷)
「断崖上の三層楼」(三平:渋谷)
「大塚駅北口高台」「眺望絶佳」(式部荘:大塚)
「国電田端駅高台」(清風荘:田端)
「国電日暮里駅高台西口」(喜久屋:日暮里)

「高台」の立地を強調する広告も多い。特に渋谷は道玄坂や桜丘町のように坂上、高台に「連れ込み旅館」が多く立地する。また大塚・田端・日暮里は台地と低地を分ける崖線の上に立地するものが多い。いずれも、閑静さ、眺望の良さを特長にしている。高台の立地は、次の時代の「ラブホテル」の集中域、新宿歌舞伎町二丁目、渋谷円山町、湯島などに引き継がれる。
34.jpg
夕月荘(大塚:19541023k)
35.jpg 36.jpg
三平(渋谷:19571004)  式部荘(大塚:19560607)) 

(6)山・山荘
「山の中から水の音 滝の音 渓渡るせせらぎ すずしさよ」
(みやこホテル:参宮橋)
「軽井沢の元祖」「東京にある軽井沢」(旅館富士見荘:新宿区役所通り)
「静かな山荘の離れ」(ホテル ニューフジ:渋谷)
「丘の離れ、都会の山荘」(山のホテル:渋谷)
「都心の山荘」(平安楼:渋谷)
「趣味の山荘」(強羅ホテル:五反田)
「広大な芝生に立つ山荘風のホテル」(若宮荘ホテル:神楽坂)
「ロマンな憩いの山荘」(ホテル赤坂:赤坂見附)
「城南の箱根 山林峡谷 2千坪に点在する離れ家」(緑風園:池上石川台)
「東京の箱根 もずの声 ここは都のなかか 山の里」(緑風園:池上石川台)

山の手エリアには「山・山荘」のイメージを強調する広告が多い。中には軽井沢(長野県)や箱根(神奈川県)などの高級別荘・山荘とイメージを重ねているものもある。
37.jpg  
「東京にある軽井沢」富士見荘(新宿区役所通り:19550721)   
38.jpg
山荘のイメージ「ホテル ニューフジ」(渋谷:19540508)
39.jpg 40.jpg
山のホテル(渋谷:19550702)  緑風園(池上石川台:19570130)

7 そのイメージ
「連れ込み旅館」の広告は、集客のために様々イメージを作り出している。それは,良く言えば豊かなイメージの喚起であるが、悪く言えばイメージの捏造であり、現代の感覚(法規)からしたら、誇大広告の批判を免れない。

(1)温泉偽装・温泉詐称・有名温泉への仮託
「東京唯一の天然温泉」(山水荘:亀戸) ← 「亀戸温泉」は実在
   ↓ 以下はずべて偽装・詐称
「温泉ホテル」(ホテル自由ヶ丘:自由ヶ丘)
「山王温泉ホテル」「温泉情緒」(山王温泉ホテル:大森)
「地下温泉」(二幸:渋谷)
「渋谷にも温泉出現」(菊半旅館:渋谷神泉)
「都心の温泉郷」(あぽろ旅館:九段下)
「銀座温泉 憩いの出湯」(せきれい荘:銀座)
「不忍温泉」(かりがね荘:上野)
「鶯谷温泉」(福住・鶯谷)
「巣鴨温泉」(三晴:巣鴨)
「東郷台温泉」(はなぶさ新館:原宿)

「温泉気分」「湯湧き出ずる」などのように文章の雰囲気で温泉イメージを喚起する広告は多い。さらに「銀座温泉」「鶯谷温泉」「(上野)不忍温泉」「巣鴨温泉」「(大森)山王温泉」「(原宿)東郷台温泉」など、明らかな温泉を詐称する旅館もある。
当時の法律(1948年7月10日制定の「温泉法」)では、温泉は源泉温度25度以上で有効な成分をもつもの、とされており、東京区部にはそれに適合する温泉はなかった。ただし、城南地区(港区、大田区、品川区、世田谷区など)には「黒湯」と呼ばれる25度以下だが有効成分を含む「鉱泉」が分布する。
41.jpg  42.jpg       
山水荘        山王温泉ホテル      
(亀戸:19530204)(大森:196560222) 
43.jpg 44.jpg
あぽろ旅館      せきれい荘     
(九段下:19541219)(銀座:19550702)
45.jpg
福住
(鶯谷:19560107) 

(有名温泉地への仮託)
「都内で湯河原の気分を!」(芳川:市ヶ谷新見附)
「熱海」(熱海:池上洗足池)
「京浜の熱海」(東横ホテル:武蔵小杉)
「京浜の箱根」(菊家ホテル:武蔵小杉)
「東京の箱根」(富士屋ホテル:代々木)
「郊外の箱根」(錦:高井戸)
「城北の箱根」(荒川荘:三河島)
「城南の箱根」「東京の箱根」(緑風園:池上石川台)
「箱根気分を上原で」(鶴家:代々木上原)
「新箱根」(新箱根:板橋)←方向が違う!
「タッタ30分で箱根の気分」(いずみ荘:大宮)←方向が違う!
「強羅ホテル」(強羅ホテル:五反田)
「渋谷の衣川(鬼怒川)」(黒岩荘:渋谷)
「城北の水上」(目白文化ホテル:目白)
「九州の地 別府温泉を偲ばせる」(別府:代々木)
「東京の谷間 幽境霧島を偲ぶ閑静さ」(きりしま:代々木)

温泉偽装・詐称との関連で、「城南の箱根」「京浜の熱海」のように、箱根(神奈川県)、熱海(静岡県)、湯河原(神奈川県)、水上(群馬県)、鬼怒川(栃木県)、別府(大分県)、霧島(鹿児島県)などの有名温泉地とイメージを重ねる広告が見られる。
とくに箱根温泉は人気で、城北(三河島)、城南(石川台)などあちこちに「箱根」があった。中には板橋のように明らかに方向が違うものも。東急東横線の武蔵小杉などは「京浜の熱海」と「京浜の箱根」と「いったいどっちなんだ?」と言いたくなる。さらに、有名温泉地をそのまま旅館の名にしたものもあり、五反田には「強羅温泉」が、洗足池には「熱海」が、代々木には「別府」「きりしま」があった。

46.jpg 47.jpg        
荒川荘       緑風園       
(三河島:19541113)(池上石川台:19521007)
48.jpg 49.jpg
東横ホテル     菊家ホテル
(武蔵小杉:19561205)(武蔵小杉:19540302)
50.jpg 51.jpg 
黒岩荘        別府     
(渋谷:19570204) (代々木:19550109)
52.jpg
ホテルきりしま
(代々木:19570130)

(2)温泉マークの使用
典型的な温泉マーク
53.jpg 54.jpg           
熱海(池上洗足池:19530403k) 多ま木(新宿:19530918k)

デザイン化された温泉マーク
55.jpg       
大久保ホテル(新大久保・大久保:19550115)
56.jpg
ホテル明光(品川:19530925k)

広告文での温泉マークの使用は、1953年が多く、1954年半ばまででほぼ納まる(例外は1955年3月の「川梅」)。1955年4月以降の使用例は見られない。当時、温泉マークの乱用が問題視されており、1954年半ば頃に、なんらかの規制(自粛)が行われた可能性が高い。

(3)なぜか南国(椰子の木、ラクダ)
なぜか、南の国のイメージを絵にしている広告が2つある。モチーフはいずれもラクダと椰子の木。
「南風荘」は、その名称からだろう。「エデン」の園は、アルメニア付近にあてるのが通説で、エジプトではないと思う。
57.jpg 58.jpg
南風荘(千駄ヶ谷:19530731)   エデンホテル(目白:19531016k)

(4)文化人・インテリ・旧華族
「文化人好みの画廊スタイル」(強羅ホテル:五反田)
「モダンクラッシックの文化人スタイル」(ホテル山王:渋谷)
「インテリ層の憩の宿」(ホテルおしどり:大森)
「旧徳大寺公邸です」(光雲閣:代官山)

「文化人」「インテリ」を強調した広告が散見され、ターゲットにした顧客層がうかがえる。
『愛の空間』には、戦後の社会変動や財産税などで手放された「没落階級の屋敷を再利用したものが多かったらしい」と記されているが、広告から確認できるのは、渋谷区代官山の徳大寺公爵邸を転用した「光雲閣」のみ(現在も同地に「光雲閣ビル」がある)。
59.jpg 60.jpg
強羅ホテル      ホテル山王ホテル 
(五反田:19560730)  (渋谷:19540728)
61.jpg
おしどり(大森:19560607)
62.jpg
光雲閣(代官山:19540428)

8 「連れ込み旅館」の機能 ―むすびに代えて―
「連れ込み旅館」は、その立地や設備からして、庶民(と言っても、貧困層ではなく中間層)にとって、日常を離れた特別な場だった。
その背景には、戦後の混乱期から抜け出し、飢える心配こそなくなったものの、狭い家に住み、ほとんどの家にテレビや冷暖房(クーラー、スチーム)はなく、多くの家に風呂や電話がない住環境がベースにある。

つまり、「連れ込み旅館」は、日常の延長上のワンランク、ツーランク上の住環境を一時であっても手に入れ、Sexを楽しむ場所だった。

ここで重要なのは、日常の延長上であることだ。「数寄屋造り」にしろ「離れ家」にしろ、「連れ込み旅館」はあくまでも和風の贅沢環境であり、豪華なベッドがあるような洋風の住環境ではなかった。おそらく、当時の日本人カップルは、まだベッドでは落ち着いてSexができなかったのではないだろうか。

「連れ込み旅館」の(1室2人)休憩400~500円、泊り800~1000円という料金は、約15倍すると現代の貨幣価値に近づく。つまり、休憩6000~7500円、泊り12000~15000円ということになり、けっして安くはない。それだけの価値があったということだ。

あるいは、箱根や熱海の温泉に2人で旅行したくても、金銭的・状況的に難しいカップルにとって、疑似的であっても「連れ込み旅館」で温泉気分を楽しみことは、十分にお金を払う価値があることだったと思う。

ところが、1960年代後半、日本社会が高度経済成長期に入り、住環境の改善が進み、また生活の洋風化が進むと、「連れ込み旅館」を支えていた背景が変化してくる。

中間層の多くの家にお風呂が備えられ、電話やテレビが設置され、裕福な家には床の間・床柱のある数寄屋造り風の和室が設けられ、そこが夫婦の寝室になる。

そうなると、和風の特別な環境(Sexの場)である「連れ込み旅館」の意味が薄らいでいく。そして、次の時代(1970年代)のカップルが求めるのは、洋風な特別な環境(Sexの場)になる。

「連れ込み旅館」から「ラブホテル」への「進化」はそうして進行していった。

【備考】
広告図版の8桁の数字は、掲載年月日を示す。
末尾にkがついているのは『日本観光新聞』、他はすべて『内外タイムス』。

【文献】
梶山季之『朝は死んでいた』(文藝春秋、1962年)←小説
佐野 洋『密会の宿』
(アサヒ芸能出版、1964年、 『講談倶楽部』連載は1962年、後に徳間文庫、1983年)←小説
保田一章『ラブホテル学入門』(晩聲社、ヤゲンブラ選書、1983年)
花田一彦『ラブホテル文化誌』(現代書館、1996年)
井上章一『愛の空間』(角川選書、1999年)
鈴木由加里『ラブホテルの力 ―現代日本のセクシュアリティ―』(廣済堂ライブラリー、2002年)
金 益見『ラブホテル進化論』(文春新書、2008年)
金 益見『性愛空間の文化史』(ミネルヴァ書房、2012年)

【追記】
2020年5月5日 「データベース」の改訂に伴い、データを修正。


nice!(0)  コメント(1) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。