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2012年06月13日 石山寺縁起絵巻を読む(逢坂山を行く人々) [石山寺縁起絵巻]

2012年06月13日 石山寺縁起絵巻を読む(逢坂山を行く人々)

6月13日(水)  曇り 東京 21.0度  湿度59%(15時)

8時、起床。
朝食は、ソーセージパンとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
白・黒・グレーの不思議な柄のチュニック(5分袖)、裾にラインストーンが入った黒のレギンス(6分)、黒網のストッキング、黒のサンダル、黒のトートバッグ。

9時50分、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。
少し手間取り、乗るべき電車を逃す。

10時40分(10分遅刻)、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
前回に続いて巻5第1段の絵解き。

天治年間(1124~25 崇徳天皇代、鳥羽院政期)、式部少輔藤原国親(北家真夏流)の妻が石山寺に参籠して、夢中に示現した観世音菩薩から「利生宝珠」を授り、京に戻ろうと逢坂山を西に急ぐ場面。
石山5-1-10.JPG
逢坂山の「関の明神」(赤い鳥居の脚が見える)の前にさしかった国親の妻の一行。
観世音菩薩から授かった「利生宝珠」を捧げた国親の妻を先頭に2人の侍女と従者(男)が従う。
当然のことながら、一行の服装は前の場面(石山寺の門に向かう場面)と同じ。
石山5-1-11.JPG
従者の男が振り向いた視線の先には、「関に清水」(板葺の覆屋)の前で僧侶が柄杓を差し出している。
しかし、帰宅を急ぐ国親の妻は見向きもしない。
石山5-1-12.JPG
「関の清水」を北側からみると・・・(巻3の第2段)。
石山3-2-2.jpg

国親の妻の一行の後方(近江側)に見える、米を運ぶ荷駄の一行。
石山5-1-13.JPG
京に向かっている。
黒馬の口には籠状の口枷。
馬方が黒馬の背に乗せた俵から米を抜き取っている。
明かな荷抜き行為で窃盗である。
しかし、前近代においては、こうした荷抜き行為は、一定の範囲(例えば1割とか)なら低賃金の輸送業者の「余禄」として許されていた(荷抜き慣行)。
依頼主も、承知の上だったと思われる。

国親の妻の先には、京の方面から騎馬の一団がやってくる。
石山5-1-14.JPG5人が馬に乗っているが、藁製の下鞍に粗末な木鞍で、本来、乗馬用とは思えない。
あるいは、荷駄の一行が運送業務を終えた帰り道だろうか。
なにやらなごやかな雰囲気なのは仕事帰りためか。
いわゆる「馬借(ばしゃく)」と呼ばれた人々か。

先頭の男は長い棒にまとめた縄を括りつけている。
石山5-1-15.JPG
次の男は、同じ長い棒に二匹の大きな魚(鯉?)を括りつけている。
棒に刺しているという解説(小松茂美氏)もあるが、一本の棒でこの形で魚を刺すのは不可能。
またこの棒は漁具の突き棒(やす)で男は漁夫であるという説明もあるが、この程度の鋭利さでは「やす」として役に立たないので無理がある。

この長い棒は、やはり運送に関係するものではないだろうか。
荷縄と対になっていることが、その証だと思う。

なお、2番目の男が乗る馬の尻尾は一回結わえられている。
長すぎて地面を掃くからだろうか。

3番目の男は、長い棒を弓に見立てて、頭上の獲物(鳥)を狙う仕草をしている。
その様子を2番目の男が振りかえって笑っている。

4番目は少年、やはり3番目の男の仕草に釣られて上を見ている。
やはり荷縄と笠を括りつけた長い棒を持っている。
鞍の後ろに小さな俵を載せている。
石山5-1-16.JPG
5番目の少年は、一行にやや遅れ気味で、馬を走らせている。
短衣の柄は白地に飛翔する鶴を染め出し、なかなかおしゃれだ。
石山5-1-17.JPG
4・5番目の2人の少年の姿は、少年の労働参加(見習い労働)という点で興味深い。

12時10分、終了。

2012年05月09日 石山寺縁起絵巻を読む(門の下の巫女) [石山寺縁起絵巻]

2012年05月09日 石山寺縁起絵巻を読む(門の下の巫女)

5月9日(水)  曇りのち雨 東京 22.4度  湿度63%(15時)

8時、起床。
朝食は、ソーセージパンとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
紺地に紫の大きな花柄のカシュクールのチュニック、裾にラインストーンが入った黒のレギンス(6分)、黒網のストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。

9時40分、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。

10時半、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
前回に続いて巻5第1段の絵解き。

天治年間(1124~25 崇徳天皇代、鳥羽院政期)、式部少輔藤原国親(北家真夏流)の妻が石山寺に参籠して、夢中に示現した観世音菩薩から「利生宝珠」を授かった翌朝の場面。

石山寺を後にする国親の妻の一行。
石山5-1-6.JPG
観世音菩薩から授かった「利生宝珠」を捧げた国親の妻を先頭に2人の侍女と従者(男)が従う。
石山5-1-7.JPG
「利生宝珠」は大きめのリンゴくらいの大きさか。
国親の妻は、濃暗紫の掛け帯をかけた薄暗紫の袿(うちき)を紐でからげてたくし上げ、足元は白い脚絆に草履、市女笠をかぶった旅装束。
薄い黄色に赤と緑の格子柄の袿に赤い掛け帯をかけた侍女は、主人と同様に袿を紐でからげてたくし上げ、脚絆、草履、市女笠の旅装束。
しかし、赤い衣を被いでいる侍女は、緑の衣の裾をたくし上げず、左手で褄を取って歩いている。
裾の後ろ側は地面を履いている。
従者の男は三つ鱗の柄の赤褐色の衣の上下に藍色の脚絆、左に腰刀を差している。
右腰の籠状のものは魚籠(びく)か?

一行の行く手に石山寺の門。
八脚門だが、内側(境内側)の左右にも像がまつられているので、仁王門ではなく四天王門と思われる。
石山5-1-8.JPG
おや? 門の下に人がいる。
拡大してみると・・・。
石山5-1-9.JPG
市女笠を深々と被り、樺色に華麗な花模様の袿を着た女性?が門の通路に座っている。
鹿皮の敷物の上に座り、大きな鼓を膝に乗せて、右手で叩いている。
巫女だろうか?

「女性?」と書いたのは手がやけに大きいのが気になるから。
女装した男性巫人(ぢしゃ=持者)の可能性も皆無ではないので。

このような寺の門の下にいる巫女?の類例は、ほぼ同時代の『天狗草紙絵巻』(永仁4年=1296)の東寺の場面に見える。
(カラー図版が手元に無いので『日本常民生活絵引』から)
石山5-1-18.JPG
こちらは門の間口に外を向いて鼓を持った巫女?が座り、周囲に3人の男がいる。
男たちの様子は、巫女?が鼓に合わせて語る(あるいは唄う)物語を聴いているように見える。
石山5-1-19.JPG
中世社会の女性宗教者&芸能者である巫女の実態については、わからない部分が多い。
私は、そうした人たちの中に、女装の男性巫人が混じっていると推測しているので、どうしても興味を引かれてしまう。

12時、終了。

2012年04月11日 石山寺縁起絵巻を読む(観世音菩薩から利生宝珠を授かる) [石山寺縁起絵巻]

2012年04月11日 石山寺縁起絵巻を読む(観世音菩薩から利生宝珠を授かる)
4月11日(水)  曇り  東京 18.3度  湿度64%(15時)

8時20分、起床。
朝食は、ソーセージパンとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
黒地に紫・群青・水色・茶色の大小の長楕円がたくさんある変な柄のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。
黒のカシミアのショールを羽織る。

9時40分、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。

10時半、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
前回、詞書を読んだ巻5第1段の絵解き。
天治年間(1124~25 崇徳天皇代、鳥羽院政期)、式部少輔藤原国親(北家真夏流)の妻が石山寺に参籠して、夢中に示現した観世音菩薩から「利生宝珠」を授かる場面。
石山5-1-1.JPG
石山寺の観音堂。赤い格子の奥(左)が観世音菩薩が奉られている本堂。
人々が参籠している礼堂は広い板敷。
須弥壇の正面、吊り灯籠の明かりの下、浜松を描いた屏風を二方に巡らして藤原国親の妻の座としている。
侍女二人が付き添っている。
後方には、畳を置いて、老人や僧が参籠している。
石山5-1-2.JPG妻は、石山寺に参籠して七日七夜、三千三百三十三度、必死の思いで祈った末、疲労困憊して臥している。
すると、夢中に如意輪観世音菩薩が示現して、不思議な色の珠を渡される。
石山5-1-3.JPG
左手の乗せた「利生宝珠」を差し出す観世音菩薩。
菩薩の姿としては『石山寺縁起絵巻』では巻5にして初登場。
今までは、示現しても、すべて黒衣の老僧の姿だった。
石山寺の本尊は二臂の如意輪観音だが、それを示す特徴は見られない。
「利生宝珠」も詞書では不思議な色ということになっているが、普通に金色で表現されている。
石山5-1-4.JPG
女は、左手に数珠を持ち疲労で倒れ伏したまま、顔を横向きにしてうつ伏せで眠っている。
長く豊かな髪が右腕の下の敷きこまれている。
背中の濃い紫のラインは襷。
襷を掛けることは、この時代、女性が神仏の詣で祈るときの形であったらしい。
浜松の風景を描いた大和絵の見事な屏風は、寺の備品で貸し出されたものか? 
それとも参籠者が持ちこむものなのか?
石山5-1-5.JPG
格子柄の着物の侍女は、頬肘をついて、横向きで眠っている。
もう一人、若い侍女は、起きて座っているが、観音の出現には気づいていない。

観世音菩薩は、古来から女性の信仰を集めたが、とくに洛東の清水寺、近江の石山寺、そしてやや遠くなるが大和の長谷寺は、貴族の女性もしばしば参籠した。
この場面は、そうした貴族女性の観音信仰の典型的な姿を描いている。

12時、終了。


2012年03月14日 石山寺縁起絵巻を読む(観音の利生宝珠の霊験譚) [石山寺縁起絵巻]

2012年03月14日 石山寺縁起絵巻を読む(観音の利生宝珠の霊験譚)

3月14日(水)  晴れ 東京 10.4度  湿度36%(15時)

8時、起床。
朝食は、アップルデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
黒地に紫・群青・水色・茶色の大小の長楕円がたくさんある変な柄のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒の厚手のストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。
ボア襟の黒のカシミアのポンチョ。

毎年、この時期は、花粉症が出て肌が荒れるのだが、今年は不思議とほとんど症状がなく、化粧の乗りも良い。

9時45分、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。

10時半、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻4の室町時代の補作部分は飛ばして(第1段の紫式部が石山寺で『源氏物語』執筆の着想を得た場面だけは前回解説済)、巻5に入る。

巻5は、巻1、2、3と同様の鎌倉時代末期の制作と思われる。
以前は、少し時代が下る南北朝期の制作とする説もあったが、画風・書風とも巻1~3と比べて違和感はなく、同時期と考えてよい。

巻5第一段の長い詞書を読む。
天治年間(1124~25 崇徳天皇代、鳥羽院政期)に式部少輔藤原国親(北家真夏流)という文人貴族がいた。
夫婦は子もなく暮らしていたが、ついに離縁になる。

悲しんだ妻は、石山寺に参籠し七日七夜、三千三百三十三度、必死の思いで祈る。
すると、疲労困憊して臥した夢の中に如意輪観世音菩薩が示現して、不思議な色の珠を渡される。
夢から覚めてみると手の中に宝珠があった。
女は授かった宝珠を大切にして家に帰ると、すぐに夫とも復縁し、一家は富裕になり、子孫も繁栄する。

その宝珠は鳥羽上皇の手に渡り、院に「叡慮」「ことごとく成就」する聖運をもたらす。

さらに、代々低迷している藤原邦綱(北家良門流、堤中納言兼輔の末)という男の手に移って、彼を異例の大出世(正二位権大納言)に導く。

すべて石山寺の観世音菩薩の「利生宝珠」の威徳であるという。

典型的な観世音菩薩の現世利益的な霊験譚だが、元になるが説話がわからない。
これだけ露骨に霊験を賛美しているところからすると、あるいは、石山寺のオリジナルだろうか?

今日は、絵に入れなかったが、この段は石山寺縁起絵巻の中でも有数の豊富な内容を持つので、絵解きが楽しみ。

12時、終了。



2012年02月08日 石山寺縁起絵巻を読む(『源氏物語』の執筆事情) [石山寺縁起絵巻]

2012年02月08日 石山寺縁起絵巻を読む(『源氏物語』の執筆事情)

2月8日(水) 曇り  東京 9.9度 湿度 39%(15時)

8時20分、起床。
朝食は、アップルデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
黒地に白で抽象柄のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、厚手のストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。
ボア襟の黒のカシミアのポンチョを羽織る。

9時45分、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。

10時半、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻4の第1段、紫式部が石山寺で『源氏物語』執筆の着想を得た場面の絵解。
巻4はオリジナルではなく、室町時代の明応6年(1497)の補作。
石山4-1-2.JPG
↑ 石山寺観音堂の局からはるか遠く琵琶湖の湖水に映る月影を眺めて『源氏物語』の着想を得る紫式部。
石山4-1-1.JPG
↑ 絵は室町時代中期の大和絵の名手土佐光信。

巻4第1段の詞書には、「右少弁藤原為時の娘、上東門院(藤原彰子、一条天皇の中宮、藤原道長の長女)の女房であった紫式部が、大斎院選子内親王(村上天皇の皇女、一条天皇の叔母)に差し上げるために、女院から物語の創作を下命され、その成就を祈願するため石山寺に七日間参籠した。八月十五日の夜、湖水に映った月影を眺めているうちに心澄みわたり、物語の着想を得て、観音堂の内陣にあった大般若経の料紙に書き止めた」という話が載っている。

そして紫式部が参籠した場所が「源氏の間」として、式部が大般若経の料紙を借用したことの罪障懺悔のために奉納した大般若経が今(明応6年)に現存すると述べる。
さらに「紫式部・観音化身説」にまで言及する。

「源氏の間」は、現在でも石山寺の観音堂と礼堂の「合の間」の東端にあり、もっともらしく執筆中の紫式部の像が飾られている。
石山4-1-3.jpg
↑ 後ろにいるのは侍女?それとも娘(後の大弐三位)?

なので、紫式部がここ石山寺で『源氏物語』を執筆したと信じている人はけっこういる。
しかし、ここから見えるのは石山寺の寺名の起源になった珪灰石(石灰岩が高温で変成した珍しい岩石で、国の天然記念物)の露頭だけで、琵琶湖の湖面はもちろん瀬田川の流れすらまったく見えない。
石山0-2.jpg
観音堂のある面から二段上って多宝塔のある高台に出て、さらに北東に歩き、月見亭があるあたりまで行って、やっとはるかに琵琶湖の湖面を望むことができる。
4-1-5.jpg

紫式部が石山寺の観音堂に参籠し湖水を眺めて着想を得たという話は、いろいろ調べたところ『絵巻』の詞書が初見のようで、どうも石山寺関係者の創作のように思われる。
つまり、限りなく信じがたい。

ただし、前段の「大斎院選子内親王に差し上げるために、上東門院から物語の創作を下命され」という話には、先行する説話がある。

『古本説話集』(第9 伊勢大輔の歌の事)
いまは昔、紫式部、上東門院に歌読みいふ(優)のものにてさぶらふに、大斎院より春つ方、
「つれづれにさぶらふに、さりぬべき物語やさぶらふ」
とたづね申させ給ければ、御そうし(草子)どもとりいださせ給て、
「いづれをかまいらすべき」
など、えり(選り)いださせ給に、紫式部、
「みなめなれ(目馴れ)てさぶらふに、あたらしくつくりて、まいらせさせ給へかし」
と申しければ、
「さらばつくれかし」
とおほせられければ、源氏はつくりて、まいらせたりけるとぞ。

『古本説話集』の成立は平安時代の末期で、さらに大治年間(1126~31)とする説がある。
『絵巻』の詞書の前段は、この説話をもとに書かれているのは、まず間違いないだろう。

同様の説話は、藤原俊成の娘の執筆とされる『無名草子』(建久7~建仁2年=1196~1202頃の成立)にも見える。

繰り言のやうには侍れど、つきもせず、羨ましくめでたく侍るは、大斎院より上東門院(へ)、
「つれづれ慰みぬべき物語やさぶらふ」
と、尋ね参らせ給へりけるに、紫式部を召して、
「何をか参らすべき」
と仰せられければ、
「めづらしきものは何か侍るべき。新しく作りて参らせたまへかし」
と申しければ、
「作れ」
と仰せられけるを承りて、『源氏』を作りたりけるとこそ、いみじくめでたく侍れ。

大斎院選子内親王から中宮彰子へ「退屈を慰められるような物語はありませんか」と、尋ねてきたので、中宮は紫式部を召して「何を差し上げたらよいかしら」と問うた。式部は「珍しいものはございません。新しく作って差し上げなさいまし」と返事をした。そこで中宮が「ではお前が作りなさい」とおっしゃって、式部が承って『源氏物語』を作った、という話の流れは、まったく同じ。

紫式部による『源氏物語』執筆事情として、平安時代末期~鎌倉時代初期に広く流布していた話のようだ。

ところが、『無名草子』はこの話を紹介した後で、次のように言っている。

また、いまだ宮仕へもせで里に侍りける折、かかるもの(源氏物語)作り出でたりけるによりて、召し出でられて、それゆゑ紫式部といふ名はつけたり、とも申すは、いづれかまことにて侍らむ。

式部が、まだ宮仕えをする前、自分の里にいるときに『源氏物語』を執筆して、(それが評判になり、藤原道長から声がかかり、道長の娘の彰子の女房として)召し出され、そのために紫式部という名が付けられた、という話(と先の話は矛盾するじゃないですか、)どちらが本当なのかしら。

つまり、『源氏物語』執筆事情(時期)については、平安時代末期~鎌倉時代初期にすでに両説あったのだ。

『源氏物語』執筆の可能性がある時期の紫式部のライフステージを整理すると、次のようになる。

(1)藤原宣孝との結婚時代(長徳4~長保3年4月25日 998~1002年)
(2)宣孝に死別後、宮仕えまで(長保3年4月25日~寛弘2年12月29日 1002~1005年)
(3)中宮彰子付きの女房として出仕後(寛弘3年正月~5年 1006~1008年)

(1) の結婚生活の時期の執筆は執筆の動機という点でちょっとイメージしにくい。
執筆動機という点からしても「いまだ宮仕へもせで里に侍りける折」というのはおそらく(2)の時期を指しているのだろう。

(3) については、もう少し詰められる可能性がある。
『古本説話集』は『源氏物語』執筆の事情の後に、紫式部が伊勢大輔に興福寺から贈られて来た桜の取り入れ役を譲る話を載せている。
譲られた伊勢大輔は「いにしへの ならのみやこの やへさくら(八重桜) けふ(今日)ここのへ(九重=宮中)に にほひぬるかな」という名歌を詠むのだが、伊勢大輔の出仕時期から、それは寛弘4年(1007)3月のことだった。

つまり、その前に記されている大斎院からの要請は、寛弘3年(1006)の春のだった可能性が高い。

一方、執筆開始の下限は、寛弘5年(1008)11月1日の夜、左衛門督(従二位中納言)藤原公任が「このわたりに、わか紫やさぶらふ」と言いながら式部の局のあたりを徘徊していたことが『紫式部日記』に記されていて、すでに『源氏物語』(正確には「若紫」の巻の部分)が貴族社会で評判になっていたことがわかる。

また、同じ頃、中宮の御前では『源氏物語』の製本作業が行われており、式部が局に置いておいた草稿を道長が無断で持ち出すということが起こっている(『紫式部日記』)。

これらのことから、寛弘5年(1008)の秋には、現在に伝わる『源氏物語』の全部ではないにしろ、かなりの分量が執筆されていたと推測できる。

ということで、出仕後の執筆という説に立てば、『源氏物語』は寛弘3年春から5年秋(1006~1008)に書かれたことになる(注)。

しかし、それは現在の『源氏物語』のすべてではなく、その後も書き継がれていったのだろう。
また、その一部や原型になる物語は、式部が出仕する前の里居時代に書き始められていたかもしれない。

つまり、『無名草子』が語る里居時代執筆説と出仕後執筆説は、必ずしも矛盾せず、どちらも成り立つと思われる。

そんな話をする。

12時、終了。

(続く)

(注) 『源氏物語』の執筆区分については、諸説あるが私は武田宗俊『源氏物語の研究』(岩波書店、1954年)に従って次のように考えている。

(1)メイン・ストーリー(紫上系) 
(1)「桐壺」、(5)「若紫」、(7)「紅葉賀」、(8)「花宴」、(9)「葵」、(10)「賢木」、(11)「花散里」、(12)「須磨」、(13)「明石」、(14)「澪標」、(17)「絵合」、(18)「松風」、(19)「薄雲」、(20)「朝顔」、(21)「少女」、(32)「梅枝」、(33)「藤裏葉」

寛弘3~5年に紫式部が執筆。

(2)サイド・ストーリー(外伝・玉蔓系)
(2)「帚木」、(3)「空蝉」、(4)「夕顔」、(6)「末摘花」、(15)「蓬生」、(16)「関屋」、(22)「玉鬘」、(23)「初音」、(24)「胡蝶」、(25)「螢」、(26)「常夏」、(27)「篝火」、(28)「野分」、(29)「行幸」、(30)「藤袴」、(31)「真木柱」 

寛弘6年以降、紫式部が執筆?

(3)後日譚 
(34)「若菜」~(41)「雲隠」

寛弘末年~長和2年に、紫式部が執筆か?
ただし、紫式部は長和3年(1014)に亡くなったと思われるので、そんなに執筆時間はない。

(4)続編 
(42)「匂宮」、(43)「紅梅」、(44)「竹河」と「宇治十帖」

たぶん紫式部とは別人の執筆? 
娘の大弐三位執筆説が室町時代からある(一条兼良『花鳥余情』など)。
「匂宮」「紅梅」「竹河」の3巻は、本編と「宇治十帖」の繋ぎで、最終段階の執筆?

2011年12月14日 石山寺縁起絵巻を読む(菅原孝標女の石山詣) [石山寺縁起絵巻]

2011年12月14日 石山寺縁起絵巻を読む(菅原孝標女の石山詣)

12月14日(水) 朝方、雨のち曇り 東京 9.9度 湿度 55%(15時)
8時、起床。
朝食は、アプリコットデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
黒地に白で象徴柄のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。
ボア襟の黒のカシミアのポンチョを羽織る。

9時35分、家を出る。
雨は止んでいたが、寒い。
10時の東京の気温は6.5度、12時になっても7.9度。
(夕方から少し気温が上がり始め、9.9度という最高気温は夜22時代に記録)

駅前のコンビニで講義資料のコピー。

10時半、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻3の第3段、『更級日記』の作者として著名な菅原孝標の娘(寛弘5~康平2年以降 1008~1059以降)が寛徳2年(1045)11月に石山寺に参詣する場面。
ちなみに、孝標女は38歳。
最初のシーンは、初雪?の逢坂山の場面。
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やまと絵特有の柔らかな曲線で描かれる山並み、松の緑と雪の白の対比が美しい。
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孝標女が乗るのは牛車ではなく、4人の男が曳く輦車(てぐるま)。
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車の後に虫垂れ衣のついた市女笠を被り指貫袴姿の若い侍女が続く。
石山3-3-3.JPG
さらに、弓矢と長刀で武装した護衛が3人(騎馬2、徒歩1)。
男たちは、皆、蓑を着けて上に防寒している。
徒歩の護衛は藁帽子を被っている。

続いて、逢坂関の情景。
石山3-3-8.JPG
低い柵があるだけで、関守らしき男が1人。意外に簡易な施設。
近江方面から米を輸送する一行が通過する。
石山3-3-9.JPG
京の方からは狩りに出掛ける主従が通る。
奥に旅人のための井戸が見える。
石山3-3-10.JPG

逢坂関を過ぎると左手(北側に)雪をかぶった朱塗りの楼門が現れる。
石山3-3-6.JPG
中央公論社『日本の絵巻』の解説(小松茂美氏)は、朱塗りの楼門を石山寺とするが、孝標女は、娘時代(寛仁4年=1020、13歳)、父が受領(上総介)の任はてて上京する折に逢坂を通過した時、まだ未完成だった関寺がすっかり立派に出来あがっていることに感慨を覚えて歌を読むのだから、当然、描かれているのは関寺でなければならない。

そもそも、逢坂関との間には霞はなく、画面がつながっているのだから、石山寺のはずがない。
なんで、こんな当たり前のことを誤るのだろう?

2つ目のシーンは、石山寺観音堂に参籠した孝標女が見る夢の場面。
観音堂の外陣の局でまどろむ彼女の、几帳を分けて麝香の包を持った墨染の衣の手が差し出される。
石山3-3-11.JPG
内・外陣を隔てる格子の赤と、局を囲む簾の緑の対比が美しい。

ところで、麝香の包は厚さがなく、包と言うより厚紙のように見える。
麝香は、ジャコウジカの雄の腹部にある香嚢(ジャコウ腺)から得られる分泌物を乾燥した香料だが、どういう形なのだろう?
調べてみたら、乾燥したものは暗褐色の顆粒状とのことなので、薄い包でも問題はなさそう。

これで第3巻を読了。
12時、講義終了。

2011年11月09日 石山寺縁起絵巻を読む(菅原孝標女の石山詣・詞書の比較検討) [石山寺縁起絵巻]

2011年11月09日 石山寺縁起絵巻を読む(菅原孝標女の石山詣・詞書の比較検討)

11月9日(水)  曇り 東京 16.6度 湿度 42%(15時)

8時、起床。
朝食は、アップルデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
黒地に白で草花文?のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、黒のカシミアのショール。

9時45分、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。

10時半、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻3の第3段、『更級日記』の作者として著名な菅原孝標の娘(寛弘5~康平2年以降 1008~1059以降)の石山詣の場面に入る。

まず、絵巻の詞書を読む。
次いで、『更級日記』の該当箇所と比較する。

『更級日記』によれば、菅原孝標の娘は、少なくとも2回、石山寺に詣でている。
1度目は寛徳2年(1045)の冬で38歳の時。
娘時代(寛仁4年=1020、13歳)、父が受領(上総介)の任はてて上京する折に逢坂を通過した時のことを思い出す。

「關寺のいかめしう造られたるを見るにも、そのをり荒造りの御顔ばかり見られしをり思ひ出でられて、年月の過ぎにけるもいとあはれなり」

25年前に通った時にはまだ作りかけだった関寺の仏が、今は立派に完成しているのを見て、年月の経過をしみじみ感じて歌を詠む。

相坂の 關のせき風 吹く聲は むかし聞きしに かはらざりけり

そして、石山寺の観音堂に参籠し、夜中にまどろんだ時に夢を見る。

「おこなひさしてうちまどろみたる夢に、『中堂より麝香賜はりぬ。とくかしこへ告げよ』といふ人あるに、うち驚きたれば、夢なりけりと思ふに、よきことならむかしと思ひて、おこなひ明かす」

中堂から「御香」を賜ったという夢、吉夢と思い、夜明けまで参籠する。
中堂は本尊の如意輪観世音菩薩像がいる場所のことか? 絵巻の詞書は「内陣より」。

2度目は、その2年ほど後の永承2年(1047)頃の秋、40歳頃。
夜通し参籠していると、雨の音が聞こえる。
蔀戸(しとみ)を押し上げて外を見ると、雨の音と思ったのは谷川の水の音で、有明の月が谷の底まで照らしていた。

谷河の 流れは雨と きこゆれど ほかよりけなる 有明の月

『石山寺縁起絵巻』の詞書は、話の筋書きは『更科日記』と同じなので、詞書の書き手は明かに『更科日記』を読んでいる。
しかし、文章的には、そのままの文書は少なく、かなり改変している。
というか、あまり出来の良くない趣意文という感じ。

そして、なにより問題なのは、和歌の字句に異動があること。

最初の「相坂の…」は、
(更科)相坂の 關のせき風 吹く聲は むかし聞きしに かはらざりけり
(詞書)逢坂の 關の山風 吹くこゑは むかし聞きしに かはらざりけり

二つ目の「谷河の…」は、
(更科)谷河の 流れは雨と きこゆれど ほかよりけなる 有明の月
(詞書)谷河の 流れは雨と きこゆれど ほかより晴るる 有明の月

二つ目の歌は勅撰の『新拾遺和歌集』(貞治3年=1364)に入首しているが、第4句は『石山寺縁起絵巻』の詞書と同じ「ほかより晴るる」である。

つまり、「谷河の…」の歌には、「ほかより晴るる」の『石山寺縁起絵巻』(1324~1326年)と『新拾遺和歌集』(貞治3年=1364)の系統と、「ほかよりけなる」の現行本の『更科日記』の二系統があったことになる。

はたして、オリジナルはどちらだったのだろうか?
現存する『更科日記』の写本は、すべて藤原定家(1162~1241)が晩年に写した「御物本」といわれる写本の系統。
『更科日記』の歌を改変した人物がいたとすれば、それは定家の可能性が強い。

国文学の専門領域なので、これ以上は踏み込まない。

12時、講義終了。

2011年06月08日 石山寺縁起絵巻を読む(見物の人々) [石山寺縁起絵巻]

2011年06月08日 石山寺縁起絵巻を読む(見物の人々)

6月8日(水) 曇り  東京 22.7度  湿度68%(15時)

8時、起床。
朝食は、アップルデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
黒地に茶・白・薄黄色の花柄のロングチュニック(5分袖)を、黒のレギンス(3分)と合わせてミニ・ワンピース風に、黒網のストッキング、黒のサンダル、黒のトートバッグ。

9時半過ぎ、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。

10時半、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻3の第1段、正暦3年(992)2月29日の東三条院(藤原詮子、兼家の娘、道長の姉、一条天皇の母)の石山詣の場面の絵解き。

この段、13紙に及ぶ超ロング(横長)画面で、女院の行列の全容を描く。
石山3-1-4.JPG
↑ 8人もの車副を伴った女院の御車
檳榔毛(びろうげ)の屋形で、物見戸の部分が出窓になっている最高級の牛車。
後ろには雨衣を担いだ舎人が従う。

行列が通っているのは石山寺の山門に向かう瀬田川の西岸の道で、右(画面下側)に瀬田川、左手(画面上側)は山という自然が豊かな参詣路のはずなのに、画面には遠景の山も植物もまったく描かれない。

その代わり、東三条院の石山詣を見物する人々がたくさん描かれている。
今回は、脇役のはずの見物の人々に焦点を当てて分析。

まず、見物の人々を、集団ごとに分け、手前(行列の後尾)から番号をふる。
画面上側に1・2・3・5・6・8群、画面下側に4・7・9群。
石山3-1-22.JPG
↑ 第1群。いちばん多彩な人がいるグループ。
左端に杖を持ち裾短な僧衣の修行僧?、その隣は頭巾を載せているのは修験者か? 
その右の薄緑色の被衣(かつぎ)姿の人物は女性だろう。修験者の連れだろうか?
薄緑色の被衣は、修行僧と修験者の間の後方に見えている女性の衣と同じ色柄(共布)のように見える。
集団の前に出ている桜襲の袿?を細帯で縛り「藺げげ」(若い女性の履物)を履いた人物は、背後の薄墨の衣に黒い袈裟の老僧が鍾愛している女装の稚児だろう。その右にもう一人僧侶。
右端の5人は、父と息子(座っている)、母と娘2人の一家だろうか。
石山3-1-21.JPG
↑ 第2群。右側、老僧を挟んで向き合うのは童(少年)と女性?
緑の扇を口元にかざした立烏帽子姿の男性の前の二人の子供、左側(薄藍)は男の子のように思えるが、右側(濃藍)の子の性別は微妙。
中央の市女笠の女性の座り方に注目。
胡坐(あぐら)は江戸時代初期以前は女性もしばしば行っていた。
石山3-1-23.JPG
↑ 第3群。行列の近くに寄りすぎたのか、笞を振りかざす役人に追われる見物人。
坊主頭の子供が見える。
長い髪をなびかせて左手に逃げる橙色の花柄の水干姿の童(少年)。
それを追ううなじ髪の子の性別は?
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↑ 第4群。画面下側。
禿頭の老人に従う束髪の童(少年)。
その後ろの子供2人は、女院(上皇待遇)の行列を見送るにはあまりに行儀が悪いように思えるが・・・。
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↑ 第5群の右。
女性は市目笠を被っているか、着物を頭から被る被衣(かづき、かつぎ)姿。
画面中央は、父と娘?
石山3-1-26.JPG
↑ 第5群の左。
立烏帽子姿の男性が父親で一家で見物だろうか。
ちなみに扇を顔の前にかざすのは、貴人(ここでは女院)を見る時の作法のようだ(直視しない)。
右前の娘の袿?は、第1群の女装の稚児と同じ色の桜襲。
石山3-1-27.JPG
↑ 第6群は横に長く延びる。まず右端。
何か揉め事か。
右側の束髪の男が中腰になって左手を伸ばして挑みかかる。
白衣の僧が片膝立てになり左手を腰刀にかける。
臙脂に黒の菱格子の男が両手を広げて間に入る。
何事かと駆け寄る僧侶、早くも逃げ出す子供。
女院の行列そっちのけの騒動。
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↑ 第6群の中央右。
騒ぎの方向に目を向ける一家。
従者が主人に報告している。
母親と思われる女性も市目笠を上げて注目。
この女性の座り方も胡坐。
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↑ 第6群の中央左。
このグループでは、右端の童(少年)を除いて騒動に気を取られている人はいない。
皆、女院の行列を注目している。
左端の坊主頭の男の子は上半身半裸。
扇を頭上にかざした僧に伴われた白衣の小さな男の子、将来は美しい稚児になるのかも。
右側前列の白い衣を被いでいる人物の性別は?
被衣は女性の習俗だが、太刀を帯びているので男性?
石山3-1-30.JPG
↑ 第6群の左端。
右側前列で語り合う3人の子供は男の子か?
その内、左側の子は上半身半裸。
その左側、母親と乳母?の間に行儀よく坐っているのは女の子か?
とすると、男の子と女の子の髪型にはほとんど差はないことになり、ますます性別が判りにくくなる。
石山3-1-31.JPG
↑ 第7群。画面下側。
目の前を行き過ぎる女院の御車を合掌して見送る老尼。
しかし、その孫たちは?お行儀が良くない。
左端の子供は腹這いで頬杖。
行儀の悪い子供は第4群にも見られた。
この時代、子供は世間の礼儀の外にあったようだ。
成長の過程で礼儀を身に付け大人になっていく。
石山3-1-32.JPG
↑ 第8群。東面する石山寺の山門の北側。
石山寺の山門の前では、橙色の華麗な袿?に「藺げげ」(若い女性の履物)を履いた女装の稚児が近づいてくる女院の御車を左手をかざして見ている。
後で長い数珠を持っているのは(顔が見えないが)、見物の場所からして石山寺に縁の深い身分のある僧侶だろう。
稚児の美麗な装いから師僧の寵愛の深さがうかがえる。
女装の稚児とその左側の男の子ちとは、それほどの年齢差はなさそうだが、ジェンダーの差は歴然としている。
石山3-1-37.JPG
↑ 第9群。画面下側。当面する石山寺の山門の南側。
少し腰が曲がった老僧が水色の地に可憐な模様の水干姿の稚児の肩に手を置いている。
稚児はかなたを指さしながら「お師匠様、あれが女院様の御車?」とでも尋ねているのだろうか。
稚児の背に垂れた艶やかな黒髪が印象的。
長く美しい黒髪は稚児の「命」だったと思われる。
画面左端の朱色の水干の稚児は「藺げげ」(若い女性の履物)を履いている。

12時、講義終了。



2011年05月11日 石山寺縁起絵巻を読む(東三条院の石山詣) [石山寺縁起絵巻]

2011年05月11日 石山寺縁起絵巻を読む(東三条院の石山詣)

5月11日(水) 雨  東京 18.5度 湿度 83%(15時)

8時、起床。
3時間足らずの睡眠なので眠い・・・。
朝食は、アップルデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
ジラフ柄のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。

9時半過ぎ、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。
雨の日は、版下やコピーが濡れないように気を使う。

午前中、自由が丘で講義。

『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻3の第1段、正暦3年(992)2月29日の東三条院(藤原詮子、兼家の娘、道長の姉、一条天皇の母)の石山詣の場面の絵解き。
13紙に及ぶ超ロング(横長)画面で、女院の行列の全容を描く。

右手前から左奥に開いていく絵巻で長い行列を描く場合、2つのスタイルがある。
1つは、行列の末尾から描いていく方法。
手前に末尾、奥に先頭。
絵巻の読者の視点からすると、視線は行列と同じ方向に進む。
絵巻を開いていくにつれて、行列を後ろから追い抜いていくような見方になる。
そして、行列の先頭の先に目的地が描かれていれば、行列といっしょにそこに到達する感覚が味わえる。

もう1つは、行列の先頭から描いていく方法。
手前に先頭、奥に末尾。
絵巻の読者の視点からすると、視線は行列と逆方向に進む。
絵巻を開いていくにつれて、行列が眼前を行き過ぎていくような見方になる。
次は何が来るのかなという楽しみがが味わえる。

この東三条院の石山詣では前者のスタイル。
石山寺という明確な目的地があるわけで、このスタイルがふさわしい。
実際、行列の先頭は石山寺の山門に達している。
読者は東三条院のお供をして、いっしょに石山詣でをする感覚が味わえる。

後者のスタイルの例としては、『年中行事絵巻』(平安時代末期)の「賀茂祭」「祇園御霊会」「稲荷祭」などのような祭礼行列を描いたものがある。
これだと、都大路の道端にいて、目の前を賑やかな祭礼行列が通過する気分を味わえる。
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↑ 行列の末尾近くを行く立派な牛車。
乗っているのは、随行の内大臣藤原道兼(女院の弟)。
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↑ 出し衣(いだしぎぬ=牛車の下簾や御簾の下から女房装束の袖口や裳の裾などを出すこと)の華麗な女車が行く。
女院付きの上級女房たちが乗っているのだろう。
車の手前、連銭芦毛の馬に乗るのは雇従の公卿。
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↑ 東三条院の乗っている牛車。
車副が8人もいる。
車は物見窓に庇屋根付きの檳榔毛車(びろうげのくるま)。
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↑ 女院の車を先導する公卿。おそらく女院の弟の藤原道長と思われる。
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↑ 行列の先頭。今まさに石山寺の山門に到着しようとしている。

ところで、巻3第1段で、特徴的なのは背景に自然描写が一切ないこと。

今、行列が通っているのは石山寺の山門に向かう瀬田川の西岸の道。
右に瀬田川、左手は山という自然が豊かな参詣路のはずなのに、まるで都大路のように画面には遠景の山も植物もまったくない。

その単調さを補っているのが、多彩な見物の人々。
来月は、そこに焦点を当ててみようと思う。

12時、終了。

2011年03月09日 石山寺縁起絵巻を読む(殺生禁断) [石山寺縁起絵巻]

2011年03月09日 石山寺縁起絵巻を読む(殺生禁断)
3月9日(水) 晴れ 東京 11.6度 湿度 30%(15時)

8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部でまとめ、シュシュを巻く。
朝食は、アップルパイとコーヒー。

化粧と身支度。
黒地に紫・群青・水色・茶色の大小の長楕円がたくさんある変な柄のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。
ボア襟の黒のカシミアのポンチョ。

10時前、家を出る。
駅前のコンビニでレジュメの印刷。

午前中、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻2の第6段「龍穴の池」の伝承(暦海和尚と龍王の話)の解説の続き。
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↑ 龍穴の池。水面に散る山桜の花が美しい。
典型的な大和絵の描法。
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↑ 山桜が咲く山路を、龍王とその眷属たちに守られて住坊に戻る暦海和尚。
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↑ 龍王の顔立ち・服装は、まったく中国風。

第6段の詞書の後半は、絵にはまったく描かれていないが、石山寺中興の祖である淳祐内供の弟子の真頼という僧の臨終の説話になっている。
そして、真頼の臨終の様子は「保胤の往生伝」に載っていることを記す。

そこで、慶滋保胤(?~1002)の『日本往生極楽記』を紹介して解説。

続いて、第7段(巻2の最後)に入る。
石山寺の寺域とその周辺における殺生禁断の様子を描く。

2-7-1 .JPG
↑ 寺域の周辺で鹿を射殺した武者をこらしめる僧兵。
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↑ 僧兵は、鎧兜に身を固め、弓矢に長刀という重武装。
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↑ 瀬田川に設けられた簗(やな=水流を利用して魚を捕らえる仕掛け)を破壊している。
2-7-4.JPG
↑ 瀬田川で漁をしていた漁師たちを追い払う僧兵。
2-7-5.jpg
↑ 網を破り、捕えた魚を川に戻し放つ。

12時、講義終了。


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