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論考「トランスジェンダーと青少年問題」季刊『青少年問題』668号 [論文・講演アーカイブ]

季刊『青少年問題』(一般財団法人 青少年問題研究会)668号(2017年10月1日発行)の特集「LGBTとは」に、執筆した論考「トランスジェンダーと青少年問題」。

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  トランスジェンダーと青少年問題
              三橋 順子

1 トランスジェンダーとは
「LGBT」のTは、トランスジェンダー(Transgender)の頭文字である。けっして性同一性障害(Gender Identity Disorder)の頭文字ではない。もしTが性同一性障害だったら「LGBT」ではなく「LGBG」になってしまう。

では、トランスジェンダーとはなんだろう。現象・行為として定義するならば、生得的な身体の性に則して社会(文化)によって規定される社会的性を強制されることを拒否し、生得的な身体の性とは逆の(別の)社会的性を学習し、それを総体的に身にまとうこと、つまり、つまり、社会的性差(Gender)を越境しようとすることである。人物として定義するならば、そうした社会的性差の越境をしばしば、もしくは定常的に行う人たちということになる。

トランスジェンダーには男性として生まれながら女性ジェンダーを身にまとうMtF(Male to Female)と、女性として生まれながら男性ジェンダーを身にまとうFtM(Female to Male)の二つの方向性がある。最近ではMtFを Trans-woman、FtMFをTrans-manと呼ぶことも増えてきた。

トランスジェンダーは、身体とジェンダーとの不一致を病理(精神疾患)とする考え方に対抗して生まれた非病理概念である。したがって、トランスジェンダーを「心と体の性が異なる人」と説明するのは、性同一性障害の定義に影響された誤りである。敢えて言えば、一致していないのは「心と体」ではなく「ジェンダーと体」である。

トランスジェンダーでは、性別を越境する理由は問わない。ジェンダーと身体の不一致に起因する性別違和感(Gender Dysphoria)が理由であることが多いが、職業的・経済的な事情であっても、定常的なジェンダーの越境が行われていればトランスジェンダーである。

身体とジェンダーを医療によって一致させることを「治療」と考える性同一性障害概念に対して、トランスジェンダー概念ではジェンダーと身体は必ずしも一致させる必要はなく、一致させるか、それとも不一致なままでいるかは自己決定に委ねられるべき問題である。

ちなみに、性別を越境するトランスジェンダーに対して、性別を越境しない人たちをシスジェンダー(Cisgender)という。

2 トランスジェンダーの現在
日本では、1998年の埼玉医科大による性別適合手術の実施をきっかけに、1990年代末から2000年代初頭にかけて性別の移行を望むことを「病」(精神疾患)ととらえる性同一性障害(GID)概念がマス・メディアを通じて広く流布され、性別移行の病理化が一気に進行した。その流れは、2003年7月の「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」の制定(2004年7月実施)に結実し、一定の要件を満たす性同一性障害者は戸籍の性別(続柄)の変更が認められるようになった。

その結果、性同一性障害の診断を得て、国内外で性別適合手術を受け、戸籍の性別を変更する人が急増した。性別違和感に悩み苦しむ人が、手術と戸籍の変更によって望みの性別での生活を実現することは、基本的には良いことである。しかし、その一方で過剰でアンバランスな医療化の弊害も出てきている。たとえば、望みの性別の身体と戸籍を得たにもかかわらず、望みの性別での社会的適応がうまくいかない人が目立つようになり、さらには性別の変更を後悔し性別を元に戻す再変更を望む人すら出てきている。

とはいえ、20世紀末から21世紀00年代の10数年間は、性同一性障害をアイデンティティにする「性同一性障害者」が数多く出現し、「性同一性障害者」のグループが社会的に強い発言力を持った、まさに「性同一性障害の時代」だった。ただし、こうした病理化の突出、性同一性障害をアイデンティティにする人々の急増は、同時期の世界と比べるとかなり特異な現象だった。

2015年頃から日本でも遅ればせながら、性的マイノリティの主な4つのカテゴリーの英語の頭文字を組み合わせてその連帯を示す「LGBT」(LはLesbian:女性同性愛者、GはGay:男性同性愛者、BはBisexual:両性愛者、TはTransgender:性別越境者))概念が広まる。それによって、LGBTの一角であるトランスジェンダーへの社会的認知が広がっていった。

また、世界に目を転ずると、2010年代に入る頃から性別移行の脱精神疾患化の流れがはっきりしてくる。2018年に予定されているWHO(世界保健機関)の疾患リスト(ICD)の改訂では「性同一性障害」という病名は国際的には消え、新設される「conditions related to sexual health(性の健康に関連する状態)」の章に「gender incongruence(性別不一致)」という病名が置かれるなど、性別越境に関係する疾患が精神疾患カテゴリーから外れる案が有力になっている。

これが実現すれば、同性愛に遅れること28年にして性別越境の脱精神疾患化が達成され、性別越境者は長い年月、精神疾患の名のもとに抑圧されてきた状態から、ようやく解放されることになる。
こうした流れの中で、かつて全盛を極めた性同一性障害者グループの活動は、この数年、急速に低下し、社会的発言力ははっきり衰退している。今後、性同一性障害という病名は完全に過去のもの(死語)となり、性別を越えて生きることを「病」ではなく、自らの性別の在り様の選択であるとするトランスジェンダーの主張が主流になっていくだろう。

3 若年FtMの急増問題
戸籍の性別変更者の人数は、2004年から2016年までの13年間で6809人に達している。これは最高裁判所が全国の家庭裁判所で変更手続きをした人数を集計したもので、きわめて信頼度が高い。日本の全人口の0.005%、18500人に1人が戸籍の性別を変更していることになる。

東京都千代田区にある「はりまメンタルクリニック」の針間克己院長は、2005~2016年の間に1273通の戸籍変更診断書を書いている。これは、同期間に戸籍の性別変更を行った6809人の約5分の1(18.6%)に相当する。

戸籍変更診断書を求める人のほとんどは、家庭裁判所に戸籍の性別変更を申し立てると推定され、そのほとんどが受理される。したがって、針間院長が執筆した戸籍変更診断書は、日本の戸籍性別変更全体のほぼ5分の1のサンプルと考えて大過ない。

最高裁判所のデータにはFtM、MtFの区分がなく、性別移行の内訳は不明だが、「はりまメンタルクリニック」の戸籍変更診断書のデータはFtM、MtFの別が示されている。そこで年ごとのFtM、MtFの比率を各年の戸籍性別変更数に当てはめて、年ごとのFtM、MtFの人数を推測し、それを合計してみた。

その結果、女性から男性への変更者(FtM)が5010人、男性から女性への変更者(MtF)が1796人となり、その比率は2.76:1と推測される。2006年まではMtF2: FtM1だったのが、2007年に一気に逆転してMtF1:FtM2になり、2010年以降はMtF1: FtM3~4で推移している。

2007年頃にいったい何が起こったのか? 理由として、FtMを対象とした「性器形状近似要件」の実質的な緩和が考えられる。つまり、ペニス形成手術をしなくても、男性ホルモンで肥大したクリトリスをマイクロペニスに見立てることで、子宮・卵巣の摘出のみで戸籍の性別変更を認める判断が、FtMの戸籍変更数の急増をもたらしたと思われる。

これに対して、戸籍の性別変更をしたMtFの実人数は長期的に見るとほとんど同じレベルで推移していて、大きな増減はない。

次に、戸籍性別変更者の年齢層に注目してみよう。「はりまメンタルクリニック」の2011~2016年の戸籍変更診断書のデータから、若年層(20歳代)の比率を推計すると、全体の61.8%が20歳代であることがわかった。MtFとFtMとでは様相がかなり異なり、MtFでは20歳代の比率は43.6%に止まるのに対し、FtMでは66.9%、つまり3分の2に達する。同期間のMtF:FtM比は全年齢層では1: 3.6であるが、20歳代限定では1:5.5となる。

2011~2016年の6年間の全戸籍変更者は4668人だが、20代のFtMは2496人と推計され、全体の53.5%が20代のFtMということになる。全戸籍変更者の50%以上が若いFtMというのは、かなり衝撃的な数値である。

つまり、性別変更者の現状は、全体の半分以上が若いFtMで占められ、若年層に限定するとFtMはMtFの5~6倍もいる。大雑把な計算だが、20代女性の約2500人に1人(0.04%)が戸籍の性別を男性に変更していることになる。

こうした現状は、性別変更に伴うさまざまな問題のかなりの部分が、若いFtMに関わる問題であることを予測させる。もちろん、MtFにもいろいろな問題はあるが、両者に共通する就労問題を別にすれば、単身高齢化問題など、むしろ中高年層に関わるものが多い。

極言すれば、トランスジェンダーの青少年問題とは、FtMの問題ということになる。

4 FtMのダークビジネス問題
近年、性同一性障害の当事者によるダークビジネス(違法とまでは言えないが質的・倫理的に問題性のあるビジネス)が表面化している。いくつか事例をあげてみよう。

2014年のGID学会第16回研究大会(那覇市)における医療ツーリズムのシンポジウムで、主にタイでの性別適合手術のアテンド(紹介・斡旋)を行う業者の問題が指摘された。

航空券の手配やホテルの予約などの代行業務をする場合、日本では旅行代理業務の資格が必要であり、また現地で病院の斡旋をする際にはタイの官庁に届け出なければならない。ところが、無資格な業者が横行し、アテンドと称しながらタイ語も英語もしゃべれず、現地の病院の日本語ができるスタッフに取り次ぐだけ、あるいは、自分が手術した病院しか紹介しない(できない)など、アテンドの質が伴わない会社があるとの指摘だった。こうした問題があるアテンド会社を経営しているのは、なぜかほとんどFtMなのだ。

2016年5月の「東京レインボープライド」のあるブースが「無料相談」をうたいながら肝心な情報は有料で、しかも法外な値段をとっているという噂が流れてきた。たとえば、「GID学会理事クラスの医師の電話番号、1万円」とか。病院の電話番号は公開情報であり、インターネットで検索すればすぐにわかり、有料の価値はないはずだ。ほかにも、男性化を指南するテキストDVDが3枚セット6万円で販売されているという情報もあった。そして、そうしたビジネスの主体はFtMであると。

どうして、そんなビジネスが成り立つのか不思議でならず、事情通のFtMの知人に尋ねてみたところ、「世の中にはネットで病院の情報を検索できないレベルのFtM予備軍がけっこういるんですよ。三橋さんたちにとっては当たり前の情報を有料でも求めるのは、そういう情報弱者の中学生なのです」と教えられた。「でも、中学生はそんなにお金をもっていないでしょう」と尋ねると、「今は、親が金を出すのですよ。GIDが先天性のものという説が広まると、子どもは『自分がこうなのは親のせいだ』と親を責める。それを真に受けた親が金を出してしまうのです」という返事だった。

確証はないが、少なくともかなりダークな状況があるのは確かなようだ。そこには、現在、問題化している性同一性障害ビジネスの構造がよく見える。それは起業した若いFtMが、より若い情報弱者のFtMをビジネス・ターゲットにし、親に金を出させるという構造だ。先輩のFtMが同じ悩みをもつ後輩のFtM予備軍を「食い物」(金儲けの対象)し、親の心理的な弱みに付け込むやり方は倫理的にかなり問題があるビジネスだと思う。

こうした当事者が当時者を「食い物」にするビジネスは、MtFではほとんど聞いたことがない。MtFの場合、水商売にしろセックス・ワークにしろ、あるいは色仕掛けで手術費用を出させる愛人ビジネスにしろ、ビジネス・ターゲットは常に非当事者の男性だ。MtF当事者がお金を持っていないことはお互いわかっているので、ターゲットにしても仕方がないのだ。

5月6日の『朝日新聞』朝刊(東京版)に「LGBTをめぐる金銭被害を議論」という見出しで「あなたも人権講師になれる」とうたい、LGBTの当事者を高額なセミナーや相談に勧誘するビジネスの存在が報じられた。さらに、7月31日になって地元の『徳島新聞』などが詳細に報じ、それが「共同通信」で配信され、完全に表沙汰になった。

具体的には、2016年10月、徳島県を中心に人権教育関係の講演活動をしている30代のFtM(徳島県教育委員の人権教育指導員)が、東海地方在住の20代のFtMに、セミナーを受講して起業すれば、自治体の人権講師として簡単に稼げるともちかけ、高額(100万円)のセミナー契約を結ばせ、なかなか解約に応じなかったというトラブルである。ここでも先輩FtMが後輩FtMを「食い物」にする構造が見える。これまでの事例と比べて契約金が100万円、違約金の設定が500万円と金額が大きく悪質性が高い。また、自治体の「人権講座」をネタにしている点でも倫理性が問われる。

問題は、こうしたダークなアテンド、通販、セミナーなどを業務として行っているのが、ほとんどFtM系の企業・団体だということだ。なぜ、そうなってしまうのだろう。

FtMの企業家のブログなどを読むと、「デカい仕事をする」とか「一旗揚げる」とかいうフレーズをよく見かける。起業にあたって大志を抱くことは悪いことではないが、どうも古典的な「男らしい」にとらわれている感じがする。専門知識も社会経験も乏しい若者が安易に起業したところで、経営が成り立つほど世の中は甘くはない。結局、企画の貧困、期待される利潤と社会的なリスクとのアンバランス、倫理観の未熟、コンプライアンス(法令遵守)意識の希薄さなどが相まって、ダークなビジネスに手を出してしまうのではないだろうか。

そうした背景にはFtMの就労環境の悪さがあると思う。もちろん、FtMの中にも一般企業に就職したり、専門知識や資格を身につけて自営業で真っ当に働いている人はいる。しかし、残念ながら、そうでないFtMも多い。MtFの場合、企業への就職や自営が難しくても、水商売やセックス・ワークという選択もあるが、FtMにはそうした道がほとんどない。結果、行き場がなくて無理な起業に走るFtMが多くなるのではないだろうか。

まとめにかえて
日本は、世界の中で顕著にFtMの比率が高い国である。世界的にはMtFがFtMよりやや多い国がほとんどであり、その点で明らかに特異な状況であるにもかかわらず、その理由が明らかにされていない。
 
まったくのシスジェンダー&ヘテロセクシュアルの女性がいきなりFtM化するとは考えにくく、日本におけるFtMの増加分の資源はレズビアンだと思われる。つまり、本来ならレズビアンにとどまる人がFtMに流入しているという推測である。性的に非典型な女性をレズビアンではなくFtMに向かわせる何らかの社会圧があるということだ。その要因として、全体的な女性の生きづらさ、レズビアンの隠蔽による社会的認知の低さ、レズビアン・コミュニティの未確立、同性婚の法的不可能などが考えられる。

FtM集団は、戸籍の性別変更をしていない人まで含めると、おそらく2~3万人規模であり、その多くは20代を中心とする若年層である。かなり大きな集団があるにもかかわらず、その存在が社会的に十分に認識されていない点に根本的な問題があるように思う。

急増する若年FtMが就労の困難で社会的に行き場を失っていることが、現状におけるトランスジェンダーの青少年問題の中核だと考える。

FtM、MtFを問わず、トランスジェンダーにとっての最大の課題は就労問題である。それさえ改善されれば、全体的な状況はかなり良くなるはずだ。現状をリアルに認識した早期の解決が強く望まれる。

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論文「ICD-11とトランスジェンダー」(『保健の科学』2020年4月号) [論文・講演アーカイブ]

『保健の科学』(杏林書院)2020年4月号「特集・多様化する性について考える」に、
論文「ICD-11とトランスジェンダー」を執筆しました。

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  ICD-11とトランスジェンダー
            三橋順子

はじめに
2014年2月、タイのバンコクで開催された「WPATH(World Professional Association for Transgender Health=トランスジェンダーの健康のための世界専門職協会)」の大会に併設された連続シンポジウム「Trans People in Asia and the Pacific」には、インド、ネパール、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、ニュージーランド、トンガ、香港、中国、日本のトランスジェンダーが集り、一日も早い性別移行の脱病理化を主張した。

それから5年、2019年5月のWHO(世界保健機関)総会で「疾病及び関連保健問題の国際統計分類(International Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems)」の第11版(ICD‐11)が採択され、ようやく世界のトランスジェンダー(誕生時に指定された性別と違う性別で生活している人)の多くが待ち望んでいた性別移行の脱精神疾患化が実現した。もう私たちは精神疾患ではない。おめでとう! アジア&パシフィックの同志たち、そして欧米も含めた世界のトランスジェンダーの仲間たち。

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「WPATH2014」に集ったアジア・パシフィックのトランスジェンダー

1 これまでの経緯
自己の性別に対する違和感があること、性別を移行したいと考えることを「病」と考える病理概念である「性同一性障害(Gender identity disorder)」は、1980年に採択されたアメリカ精神医学会の「精神疾患の分類と診断の手引(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)」の第3版(DSM-Ⅲ)に登場し、DSM-Ⅳ、DSM-Ⅳ-TRにも受け継がれた。

一方、ICD-10では第5章「精神および行動の障害」のグループ名(F64)として、Gender identity disorderが規定され、診断名(病名)としてはTranssexualism(性転換症)とDual-role Transvestism(両性役割服装倒錯症)が記載されていた。

1990年のICD-10で同性愛が脱病理化した流れを受けて、世界のトランスジェンダー活動家は、ICDの次の改訂での性別移行の脱病理化を目指すことになった。ICDの改訂は本来10年ごとにされるはずだが、様々な事情で遅れている間に、DSMの第4版から第5版への改訂の時期(当初の予定は2011年)が来てしまった。そこで、2010年には「TGEUは、トランスジェンダーを病気扱いすることに強く反対し、2011年のDSM改訂では、疾患リストに載ることへの批判を支援していく」という形で性同一性障害を疾病リストから外す(性別移行の脱病理化)提案がなされた(TGEU=Transgender EuropeのプレジデントStephen Whittleの声明)。

2013年5月施行のDSM-5では、残念ながら、性別移行の脱病理化は達成されなかった。それでも「Disorderだけは止めてくれ!」というトランスジェンダーの切実な声に応える形で「Gender identity disorder」から「Gender dysphoria」へ疾患名が変更された。

こうして「Gender identity disorder」はDSMから消え、そもそも診断名ではないICDと合わせて、世界で通用しているマニュアルから(大人の)病名としては消滅した。実際、Gender identity disorderは、2010年代中頃段階で世界的にはほとんど死語(過去の用語)になっていた。ところが、日本だけは「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(GID特例法)」が求める「性同一性障害」の診断書を精神科医が書き続けるという奇妙な現象が続いていた。

遅れていたICDの改訂は、当初2015年に予定されていて、冒頭に述べたWPATH2014でも、各国のトランスジェンダー活動家が改訂委員会のメンバーに活発なロビー活動を行っていた。

結局、2年さらに1年遅れて、2018年6月のWHO総会で、28年ぶりの大改定となるICD-11案が提示された。性別移行については「Gender identity disorder(性同一性障害)」という名称は疾患グループ名としても診断名としても完全に消滅し、新設された第17章「Conditions related to sexual health(性の健康に関連する状態)」に「Gender incongruence(性別不合)」が置かれ、性別移行の脱精神疾患化が達成された。第17章は、第1~16章のdisorder(疾患)とdisorderではない第18章妊娠・出産との間にあり、性別の移行を望むことは、これまでの精神疾患という位置づけに比べて、扱いが大幅に軽くなっている。

なお、ここで注意しておくべきことは、脱疾患化は脱医療化ではないということだ。SRS(Sex Reassignment Surgery=性別適合手術)など性別移行に伴う医療を受けたい人々が医療サービスを受ける権利は今後も保障される。

ICD-11は、2019年5月のWHO総会で正式採択され、トランスジェンダーは、同性愛の脱病理化(1990年のICD-10で達成)に遅れること29年にして、19世紀以来の長い年月、精神疾患の名のもとに抑圧されてきた状態から、ようやく解放されることになった。

2 子供の性別違和問題
今回のICDの性別移行に関する改訂で、最後まで揉めたのは子供の性別違和感(Gender dysphoria)をどう扱うかという問題だった。

ICD-10の「Gender identity disorder of childhood=小児期の性同一性障害」(F64.2)を引き継ぐ項目を立てるのか、それともなくすかで、専門委員の意見が真っ二つに分かれたと聞く。

前者は、性別違和感を訴える子供は現実にいるし、親や学校が診断書を求めることも多いので、それに応じる診断名・診断基準は必要だという意見。後者は思春期以前の子供の性別違和は不安定であり確定的な診断は難しく、ホルモン投与などの医療処置もとれないのだから、診断名は必要ないという意見。どちらも、それなりに論拠があり、性別移行の脱精神疾患化の方針はかなり早くに定まっていたにもかかわらず、この部分の最終的な調整がつかなかった。

結局、「Gender incongruence of childhood=子供の性別不合」という形でリストに残ることになったが、子供の性別違和をどう捉えるか、今後に問題を残すことになった。

学校保健の現場でも、性別違和を持つ児童に対しては、いたずらに診断(診断書)を求めて、急いで男児・女児どちらかに固定化するのではなく、医療のサポートも受けながら、就学継続を最優先に、当人の希望に沿った柔軟な対応をすることが望まれる。

かなり強い性別違和がある児童でも、思春期以降に違和が緩和・解消するケースは、大学における受講生の観察でもそれなりにある(緩和・解消したケースはジェンダークリニックには行かないので、医療では把握できない)。もちろん、思春期以降も違和が継続する場合も多いのだが、この問題については、早期発見はともかく、早期治療は必ずしもベストではないことを認識し、経過観察を重視すべきだと思う。

3 変更点とこれからなすべきこと
ICD-11の採択によって何が変わったのか? すでに述べたように、これまでの精神疾患という位置づけから「性の健康に関連する状態」いう形に変わったことがいちばん大きい。「性の健康に関連する状態」には他に性機能不全(勃起不全や射精不全)、性疼痛症などが含まれていて、性別不合はそれらと横並びということだ。

disorders(疾病)からconditions(状態)へという変化に伴って、診断名がGender identity disorderからGender Incongruenceに変わった。名称だけでなく、診断基準も変化している。逐条の解釈は省くが、性別移行医療の専門家である針間克己医師(はりまメンタルクリニック院長)によれば「身体違和に焦点を絞り、身体治療を希望する者を対象にしている」という。脱病理化の流れの中で「身体治療が受けられるように、全体のリストに残したという経緯を考えれば当然のこと」である。逆に言えば、身体違和が弱く社会的違和が強いタイプの性別移行は、ほぼ脱病理化されたといえるだろう。

ところで、「次のICDの改訂(ICD-11)で、性同一性障害という病名が消え、性別移行が精神疾患から外れるらしい」という情報は、DSM-5の改訂作業が進行していた2012年夏頃には日本に伝わっていた。にもかかわらず、日本の反応はかなり鈍かった。専門学会である「GID(性同一性障害)学会」は積極的な情報収集をしようとしなかったし、当事者団体は「そんなことがあるはずはない」と高をくくっていた感がある。まして海外の情報に接する機会が乏しい個々の当事者には「性同一性障害がなくなる」など思いもよらないことだった。

なぜ、海外の情報に通じた専門家の見解に耳を傾けなかったのか、そこには日本特有の事情がある。日本において性同一性障害という概念が急速に流布したのは1990年代末のことで、以後、2000年代初めにかけて、医療と法律、そしてメディアの協同によって「性同一性障害体制」とでもいうべき、性別移行を病理化したシステムが強固に確立された。その結果、日本は、世界で最も性同一性障害概念が社会に広く流布した「性同一性障害王国」になってしまった。そうした体制にどっぷり浸かっている人たちは、体制を大きく変革するような情報をことさらに無視し続けたのだ。

また、日本ではほとんど認識がないが、これほど数多くの「性同一性障害者」を名乗る人がいるのは、世界中で日本だけだ。欧米でもアジアでも性別移行の当事者のほとんどはTransgender(もしくはTranssexual)を名乗り、精神医学の専門用語(精神疾患概念)であるGender identity disorderをアイデンティティとする人はほとんどいない(そもそもGender identity disorderは人を指さない)。そうした点で、日本の状況は世界の中で特異(というか奇異)であり、Gender identity disorderという病名の消失に最も戸惑っている国ではないかと思う。

しかし、ICD-11の施行期限(2021年末)まで、もう2年足らずしかない。その間に必要な移行措置を取らなければならず、ぐずぐずしてはいられない。

まず、WHOの「脱精神疾患化」の決定を「骨抜き」にせず定着させることがなにより大事だ。具体的には、今まで日本精神神経学会が作成してきた「診断と治療のガイドライン」の改訂が必要になる。精神疾患でなくなったのだから、日本精神神経学会が主導する形は変えるのが筋だろう(現実的にはなかなか難しいと聞くが)。さらに、1995年に日本精神神経学会が「同性愛は性的逸脱とはみなさない」という声明を出したのと同様に、ICD-11が発効する2022年に「性別の移行を望むことはもはや精神疾患ではない」という公式声明を出してほしい。そうしないと、いつまでも性別移行を望むことは精神疾患という過去の認識を引きずることになりかねない。

次に、「性同一性障害」という拠り所を失った「性同一性障害者」が社会的に不利にならないように移行措置をとることが必要だ。具体的には「性同一性障害」から「性別不合」への診断書の読み替え措置をとってほしい。単なる病名の変更ではなく、位置づけも診断基準も変わるのだから、厳密にいえば再断が必要になるはずだが、それは当事者にとってあまりに酷だ。また、2018年4月から始まった性別適合手術への健康保険適用の継続が望まれる。この点については厚生労働省も理解を示していると聞く。

全体として、従来の医療福祉モデルから人権(医療を受ける権利を含む)モデルへの転換を着実に進めていくことが必要だと思う。

4 「手術要件」削除問題
2014年5月、WHOなど国連諸機関が「強制・強要された、または不本意な断種手術の廃絶を求める共同声明(Eliminating forced, coercive and otherwise involuntary sterilization - An interagency statement)」を出した。その内容は、トランスジェンダーやインターセックスの人々が、希望するジェンダーに適合する出生証明書やその他の法的書類を手に入れるために、断種手術を要件とすることは身体の完全性・自己決定の自由・人間の尊厳に反する人権侵害である、というもので、性別変更に性別適合手術を必須とする法システムは人権侵害という考え方が明確に打ち出された。

この声明は、ICD-11と直接的には関わらないが、性別移行に関するWHOの基本的な考え方がベースにある点で関係している。それは、自己決定の重視である。性別の移行にあたって重要なのは自己決定であり、法律はそれを誘導あるいは規制してはいけないし、医療は自己決定をサポートする形が望ましいということだ。

ところが、日本の「GID特例法」は、戸籍の性別変更に際して、SRSを要件にしていて、国連諸機関の共同声明に明白に抵触している。

こうした日本の性別適合手術の構造的な「強制」(性別移行を望む人はSRSを受けないと社会的に不利になるシステム)については、すでに2016年の国連女性差別撤廃員会による履行状況調査や、2017年国連人権理事会の人権状況審査で改善勧告を受けるなど問題視されていた。さらに最近になって、いっそう厳しい視線が送られるようになっている。

2019年に限っても、3月にイギリスの老舗の経済誌『The Economist』が「The Supreme Court agree that transgender people should be sterilised(最高裁判所はトランスジェンダーの人々は断種されることに同意した)」と題する日本発の記事を掲載し、性別の変更に手術が必須とされる日本の司法判断を批判的に紹介している(私のコメントも掲載された)。ほぼ同じ時期に、国際的な人権NGO「Human Rights Watch」は、「高すぎるハードル 日本の法律上の性別認定制度におけるトランスジェンダーへの人権侵害」と題する詳細な報告書(英語・日本語))をまとめている。さらに5月には、WPATHが「GID特例法」の改正(「手術要件」の撤廃)を強く要請する文書を、日本の法務省と厚労省に送付した。

ICD-11で性同一性障害という病名が消失したことにより、性同一性障害という疾患概念に立脚した法律は論拠を失うことになり、ICD-11の発効までの間に法律の手直しは必至だ。

その際、法律名称の変更は当然だが、国連諸機関の共同声明に明確に違反する「手術要件」をどうするかが、議論の大きな焦点になるだろう。私としては、国際的な人権規範に則した、世界に恥ずかしくない新たな「性別移行法」を制定して、「日本はトランスジェンダーの人権の後進国」いう批判を払拭してほしい。

おわりに
私は、2003年に「性別を越えて生きることは『病』なのか?」という論考を発表して以来、一貫して性同一性障害という病理概念と闘ってきた。16年にも及ぶ長く苦しい闘いだったが、ついに脱精神疾患化の日を迎えることができた。

WHO総会(2019年5月26日)でのICD-11正式採択の2日後の大学の講義の際、受講生が見ている前で、パワーポイントの記述を「性同一性障害がなくなる」から「性同一性障害がなくなった」に書き直した。過去形で講義ができる日がようやく来たことが実感され、感慨無量だった。

性別を移行するには程度の差はあれ医療サービスが必要だ。しかし、個々の当事者が医療に囲い込まれ、医療に依存してしまうことは好ましくない。性別の移行はあくまで自己選択・自己決定であるべきだ。医療の側は、自己決定を阻害することなく、性別移行を支援することが求められる。そして、より広く、トランスジェンダーの健康と福祉の増進という観点に立つべきだ。

より多くの性別移行を望む人たちが、病理を前提としなくても、自分の望む性別で充実した生活ができるような社会システムを作っていくことが重要だと考える。

【参考文献】
針間克己『性別違和・性別不合へ―性同一性障害から何が変わったか―』(緑風出版、2019年)
三橋順子「性別を越えて生きることは『病』なのか?」(『情況』2003年12月号、情況出版社、2003年)
三橋順子「LGBTと法律 日本における性別移行法をめぐる諸問題」(谷口洋幸編著『LGBTをめぐる法と社会』日本加除出版、2019年)


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