遥かなる旅の記憶―38年前のシルクロード紀行(その1)― [論文・講演アーカイブ]
中国関係書籍の専門店「東方書店」の広報誌『東方』2020年9月号(474号)に、エッセー「遥かなる旅の記憶ー38年前のシルクロード紀行(その1)ー」が掲載されました。
若き日の旅の記憶が、やはり若き日に定期購読していた雑誌に掲載されたこと、とても感慨深く、うれしいです。
「その1」は出国から、北京~ウルムチ~トルファンの旅の記録です。
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遥かなる旅の記憶
―38年前のシルクロード紀行(その1)―
三橋順子
初めての海外旅行がシルクロード
真綿のような積雲を浮かべた真っ青な東シナ海が黄色味を帯び始め、さらに黄土色に変わった。やがて島が見え、中国の大地が姿を現した。飛行機は上海上空で大きく旋回し、ほぼ直角に進路を変え、大運河に沿うように北京を目指す。
1982年8月20日、27歳の大学院生だった私は、國學院大学「考古学研究会友好訪中団」の一員として、まだ滑走路が1本しかない成田国際空港を出発した。初めての海外旅行、そして初めての空の旅だった。
日本古代史の研究者になることを志していた私が、なぜ専門違いの考古学の訪中団に加わったかというと、指導教授の林陸朗先生(日本古代史)が団長だったからだ。つまりお供(団長随員)である。
当時の成田―北京の飛行ルートは、現在の朝鮮半島を横切る最短コースではなく、直行便でも上海を迂回するルートだった。長崎・五島列島から東シナ海を横断して長江河口を目指す奈良~平安時代の遣唐使の航路と同じだった。だから、円仁の『入唐求法巡礼行記』にあるのと同じように、海の色の変化で大陸が近いことを知る経験ができた。
北京に着いて、さっそく故宮を見学。日本の宮都(平城京など)とは比べ物にならない広大さに驚いたが、高校生の時、「中国革命における長征の意義について」というレポートを書いて、今思えば、明らかに左翼の世界史の教諭に激賞されたくらい毛沢東思想かぶれの少年だった私(大学時代に憑き物が落ちた)は、毛主席の肖像画が掲げられた天安門を背景に記念写真を撮れたのがうれしかった。
当時の中国は、毛沢東の後継者だった華国鋒から実権を奪った鄧小平体制の初期(胡耀邦総書記、趙紫陽首相の時代)で、「改革開放」の近代化路線はまだ途に就いたばかり、文化大革命期の余韻が色濃く残っていた。
ウイグル自治区の仕組み
2日目の朝、中国民航機で新疆ウイグル自治区の省都、烏魯木斉(ウルムチ)に飛んだ。黄土台地、オルドスの平原、沙漠の塩湖や涸川(ワジ)、雪をいただく祁連山脈。地理学の教科書では知っていたが見たこともない風景に興奮した。
ウルムチに到着後、さっそく自治区博物館と少数民族博物館を見学。外に出ようとすると、一瞬たじろいだほど大勢の人たちが私たちを待っていた。珍しい「外賓」を見物しようとする人たちで、特に子供たちは興味津々という様子だった。
当時の新彊ウイグル自治区はまだ外国人観光客に開放されておらず、入域するには学術調査団の形をとらなければならなかった。私たちが「考古学研究会友好訪中団」と大袈裟に名乗っているのも、そうした理由だった。
「外賓」を見物するウルムチの人々
宿泊した「崑崙賓館」は、ソ連が建てた天井が無駄に高い大きなホテル。エレベーターは手動で、女性服務員がタイミングを計ってレバーを引いて止める。段差数センチで止まると、乗っている人たちが拍手する。時には10センチ近い段差になることもあった。「ああ、これだからソ連は本格的な航空母艦が造れないのだな」と思った。
夕方、新疆ウイグル自治区政府を表敬訪問。公式行事なので、あらかじめ提出した名簿通りに列んで挨拶をする。私はいちばん年下の大学院生なので序列25位、つまりいちばん下っ端だ。「友好訪中団」の団長である林教授が挨拶し、それを受けてイスラム帽をかぶった白髭のウイグル族の長老の自治区政府主席が歓迎の辞を述べる。「皆さん、遠い日本からよくいらっしゃいました。なにかお困りのことがあったら、副主席の張さんに言ってください」
この一言で、自治区政府の仕組みがわかった。副主席は漢族で共産党の書記を兼ねている。自治区の顔はウイグル族、実権は漢族。この統治システムは、もうすでに確立していた(今はもっと露骨になっている)。
ちなみに、こうした場合、まず現地ガイドがウイグル語を中国語に訳し、それを全行程随行のガイドが日本語に訳すという二重通訳。中央から派遣されたガイド趙星海氏は私と同年齢の若い男性だったが、かなりのエリートで、現地のガイドとは格が違うという感じだった。
火州・トルファンへ
3日目の朝9時半、バスでトルファン(吐魯蕃)を目指して出発。バスは日野自動車製。郊外に出ると樹木はまったくなく、ところどころに草が生えている半砂漠、そしてそれすらもない小石だらけの礫沙漠(ゴビ)が続く。その向こうに天山山脈のボゴダ山(5445m)が白く輝いていた。
2時間ほどで達坂城人民公社に着いた。ここはいわゆる模範人民公社らしく、ウルムチ―トルファン往還を通る要人や外賓のための招待所があり、簡素だが清潔な食堂で昼食が供された。まさに沙漠の中のオアシスで、集落の周囲には農場が、さらにその外周に広大な放牧地が広がっていた。ここでも子供たちが集まってきて、束の間の日中友好交流(簡単な筆談)を楽しんだ。
人民公社とは、かつて中華人民共和国の農村にあった組織で、ソ連の農業集団化を模倣した集団所有制のもとで「自力更生、自給自足」の生産活動(農業・工業)を行い、同時に末端行政機関でもあった。しかし、改革開放政策の進展で1983年までにほとんどの人民公社は解体されたので、私たちが見たのはその最末期の姿ということになる。
13時半、火州・トルファンに着いた。ウルムチから休憩を含めて4時間の行程。宿舎の「吐魯蕃招待所」で一休みした後、五星人民公社のカレーズ(地下水路)の出口の見学に出かけた。遠く天山山脈から沙漠の地下をトンネルで流れてくる水は、想像していたよりずっと水量が豊かだった。ただ、天山の雪解け水なのでとても冷たく、農地に入れる前に地上の水路を迂回させて温めなければならない。水路の周囲にはポプラが林をなし、薄茶色の沙漠ばかり見てきた目にはまぶしいほど鮮やかな緑の農地が広がっていた。逆に言えば、カレーズがトルファン・オアシスの生命線であることがよくわかった。その昔、来襲する遊牧民族は、カレーズを破壊したという話はもっともだ。水道(みずみち)を絶たれれば、たちまちオアシス都市は干上がってしまう。
そこから、交河故城に向かう。車師国(前2世紀~5世紀)の都で、2本の峡谷に挟まれ、周囲は断崖絶壁で難攻不落を思わせる大規模な都市遺跡。NHK特集「シルクロード -絲綢之路(しちゅうのみち)-」(1980年4月~1981年3月)で大要はつかんでいたが、やはり驚いた。古代都市の遺構がそのまま地上にあり、あちこちに遺物が散乱している。居住区地区の街角で、誰かに出会いそうな気がするくらいだ。日本では古代の遺跡はすべて土に埋もれていて、発掘をした遺構や遺物を通じて、ようやくそこに何があったかを知ることができるのに。遺跡というもののイメージがまったく変わった。
遺跡で金髪の女の子に出会った。この地にさらに西方のアーリア系の血が及んでいることがわかる。ウイグルの人たちの顔立ちはかなり多様で、日本人に近いモンゴル系の人もいれば、彫りが深いトルコ系の人も多い。民族のるつぼという感じだ。
次に吐魯蕃博物館を見学。ここでトルファン文書(5~6世紀の高昌王国時代の漢文文書)を見た。私は学部時代、トルファン文書の研究で知られる土肥義和教授の講義を受けたので、実物を目の当たりにしてとても興奮した。そもそもの話、湿潤な日本では木に書かれた文書(木簡)や漆被膜に包まれた紙の文書(漆紙文書)など特殊な条件で残ることはあっても、紙の文書が地中からそのまま出土するということはまずありえない。出土文字史料については、それなりに学んできたが、「常識」が次々に覆されていく。
やっと招待所に戻って夕食。その後は「外賓」を歓迎する「ウイグル歌舞の夕べ」。ブドウ棚の下に絨毯が敷かれ、西域の楽器の生演奏で合わせてウイグル族の女性が踊る。回転が多い踊りで、唐詩にある長安の胡旋舞を思わせる(実際には胡旋舞のイメージを基にした再現のように思う)。
宴が終わったのは22時だった。でも空がまだ薄っすら明るい。トルファンは東経90度、15度で1時間だから、東経120度基準の北京標準時とは、2時間の時差があるはず。しかし、皇帝が時を一元的に支配する伝統がある中国は広い国土すべてが北京標準時なので、22時と言っても実際は20時なのだ(おまけに北緯42度なので夏の日没は遅い)。
ベゼクリク千仏洞へ、
4日目の朝、シャワーを浴びる。元が雪解け水なので震えるほど冷たい。朝のお祈りを告げる声が流れてくる。異世界(イスラム世界)に来たことをあらためて実感。
火焔山の麓にあるベゼクリク千仏洞に向かう。壁画の切り取り跡が痛々しい。中国政府は、ドイツのアルベルト・フォン・ル・コックをはじめとする探検家による壁画の持ち出しを文物の略奪として強く批判している。それはもっともだ。しかし、ル・コックらが壁画を持ち出さなかったとして、中華人民共和国が保全に乗り出すまでの70年ほどの間、壁画が無事だったかというと疑わしい。なぜなら残されている壁画もかなり損傷しているからだ。像の顔、とくに眼の部分が削られているものが目立つ。これは偶像崇拝を否定する(というか怖れる)イスラム教徒の仕業だからだ。文物の保存の難しさを目の当たりにした。
ベゼクリク千仏洞
千仏洞があるムルトク川の峡谷は、川畔にわずかに緑がある以外一木一草もない荒涼とした沙漠地帯。火焔山は砂岩の山肌に無数の溝が穿たれ、風化して落ちた砂が山麓の沙漠に続いている。この日の気温は46度だった。しかし汗はまったくかかない。たちまち蒸発してしまうからだ。気づくと肌がざらざらしている。よく見ると細かな塩の結晶だった。そんな乾燥した気候なのに、なんとこの日は雨が降った。ほんの僅か、バスの窓に水滴がついただけだったが。8月下旬にして今年初めての雨とのことだった。
巨大な城壁に囲まれた高昌故城へ。シルクロード交易で栄え、唐に滅ぼされた高昌王国(460~640年)の都。大寺院跡の仏龕にわずかに残る彩色光背(仏像はすべて失われている)に、この地を経由した玄奘三蔵の労苦をしのんだ。
招待所に戻って昼食。午後はまず額敏塔(蘇公塔)へ。清朝の乾隆41年(1779)に建てられた高さ44mのイスラム教の塔で、(今ではとても上れない)螺旋階段を上りきると、トルファン・オアシスが一望できる。
近くの蒲萄溝人民公社で休憩。川沿いの豊かなオアシスで、名前の通り、ブドウがたわわに実っていた。乾ききった気候の中で食べるブドウ、スイカ、ハミ瓜がなんと甘露だったことか。
ふとブドウ棚の脇の木を見上げると、なんだか馴染みのある葉っぱをしている。北関東の養蚕地帯に生まれ育った私は、その葉が桑に似ていることに気付いた。ガイドさんに尋ねると、やはり桑の木。ただ故郷の桑とは比べ物にならない大木だ。それでも桑があれば蚕が飼えるし生糸が採れる。今でも養蚕をしているか尋ねてみたが、残念ながらよくわからなかった。これがシルクローの旅で、絹の存在を感じた唯一の機会だった。
驢馬(ろば)タクシーとバザール
トルファン文書が出土したアスターナ古墳群を見学して、トルファンでの公式見学を終えた。招待所に戻って、さすがに疲れて休んでいたら、若手グループがバザールに行くという。それなら、行かないわけにはいかない。
招待所の門の前には、何台もの驢馬タクシーが待っていた。真っ先に寄ってきた少年馭者と値段交渉。「最初は1人1元」(当時のレートは1元=135円。現在は約15円、なんと9分の1)と吹っ掛けてきたが、5人乗るからということで1人2角(27円)に値切った。
少年馭者の驢馬タクシー
驢馬タクシーは馭者が1頭の驢馬を操り、2輪の荷台を牽引する。荷台の左右に2人ずつ、後に1人が外向きに腰掛ける5人乗り。馭者がロバの背中と軛(くびき)の間に鞭の柄を差し込んでしごくと、ロバは並足から駆足になる。思っていたよりスピードが出るが、それほど揺れず、振り落とされることはない。
中央バザールは活気に満ちていた。露店で羊の串焼き、練った小麦を焼いた丸いパン状のもの、ヒマワリの種などが売られている。スイカを売る少年、羊の臓物を竿秤で量り売りするおじいさん、そして野外床屋。建物は映画館だけ(入場料は1角4分=19円)。ウイグルの人たちの暮らしを生で感じることができて、とても楽しかった。
それにしても、雨が降らないということは、住居や生活様式にこうも大きく影響するものなのか。外壁は立派な映画館に屋根はない。露店もまったく覆いがなく、文字通りの露天だ。雨が多い日本では、露店は雨よけがないと商売にならないから、まず覆いを付ける。トルファンの人たちからすれば、不要だから付けないだけなのだろうが。
羊の臓物売りのおじいさん
ただ、私たちが持っているお金は、毛沢東の肖像の人民元ではなく、外国人専用の「外貨兌換券」(1994年末で廃止)。事前にガイドから「兌換券は公設商店でないと使えません(使ってはいけません)」と言われていたのでなにも買えなかった(後で、公設商店以外の場でも、商人たちは喜んで受け取ることがわかった。なぜなら闇レートで1兌換券=1.8人民元だったから)。
映画館の前にかわいらしいウイグル族の姉妹がいて、こっちを見ている。写真を撮らせてもらった後、手を振ったら、姉ははにかみ、妹は手を振り返してくれた。
「さようなら、トルファン」
招待所に帰ろうと歩き出したら、なんとあの少年馭者の驢馬タクシーが待っていた。こうなると乗らないわけにはいかない。結局、彼は2角×5人×2=2元(270円)を手にしたことになる。しかも兌換券で。きっと家に帰って父母に褒められたことだろう。あの時、14歳と言っていたから今は52歳、立派なタクシー運転手になっただろうか? それとも……。現在のウイグルの人たちの抑圧された状況を知るたびに心が痛む。
招待所でトルファン最後の食事をして、深夜の沙漠をトルファン駅に向かう(市街からかなり離れている)。そして、23時35分発の「烏京特快」(ウルムチと北京を3泊4日で結ぶ寝台特急列車)に乗車して東に向かった。軟臥車(1等寝台車)の寝台に横たわると、ハードスケジュールの疲れで、たちまち眠りに落ちた。(続く)
若き日の旅の記憶が、やはり若き日に定期購読していた雑誌に掲載されたこと、とても感慨深く、うれしいです。
「その1」は出国から、北京~ウルムチ~トルファンの旅の記録です。
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遥かなる旅の記憶
―38年前のシルクロード紀行(その1)―
三橋順子
初めての海外旅行がシルクロード
真綿のような積雲を浮かべた真っ青な東シナ海が黄色味を帯び始め、さらに黄土色に変わった。やがて島が見え、中国の大地が姿を現した。飛行機は上海上空で大きく旋回し、ほぼ直角に進路を変え、大運河に沿うように北京を目指す。
1982年8月20日、27歳の大学院生だった私は、國學院大学「考古学研究会友好訪中団」の一員として、まだ滑走路が1本しかない成田国際空港を出発した。初めての海外旅行、そして初めての空の旅だった。
日本古代史の研究者になることを志していた私が、なぜ専門違いの考古学の訪中団に加わったかというと、指導教授の林陸朗先生(日本古代史)が団長だったからだ。つまりお供(団長随員)である。
当時の成田―北京の飛行ルートは、現在の朝鮮半島を横切る最短コースではなく、直行便でも上海を迂回するルートだった。長崎・五島列島から東シナ海を横断して長江河口を目指す奈良~平安時代の遣唐使の航路と同じだった。だから、円仁の『入唐求法巡礼行記』にあるのと同じように、海の色の変化で大陸が近いことを知る経験ができた。
北京に着いて、さっそく故宮を見学。日本の宮都(平城京など)とは比べ物にならない広大さに驚いたが、高校生の時、「中国革命における長征の意義について」というレポートを書いて、今思えば、明らかに左翼の世界史の教諭に激賞されたくらい毛沢東思想かぶれの少年だった私(大学時代に憑き物が落ちた)は、毛主席の肖像画が掲げられた天安門を背景に記念写真を撮れたのがうれしかった。
当時の中国は、毛沢東の後継者だった華国鋒から実権を奪った鄧小平体制の初期(胡耀邦総書記、趙紫陽首相の時代)で、「改革開放」の近代化路線はまだ途に就いたばかり、文化大革命期の余韻が色濃く残っていた。
ウイグル自治区の仕組み
2日目の朝、中国民航機で新疆ウイグル自治区の省都、烏魯木斉(ウルムチ)に飛んだ。黄土台地、オルドスの平原、沙漠の塩湖や涸川(ワジ)、雪をいただく祁連山脈。地理学の教科書では知っていたが見たこともない風景に興奮した。
ウルムチに到着後、さっそく自治区博物館と少数民族博物館を見学。外に出ようとすると、一瞬たじろいだほど大勢の人たちが私たちを待っていた。珍しい「外賓」を見物しようとする人たちで、特に子供たちは興味津々という様子だった。
当時の新彊ウイグル自治区はまだ外国人観光客に開放されておらず、入域するには学術調査団の形をとらなければならなかった。私たちが「考古学研究会友好訪中団」と大袈裟に名乗っているのも、そうした理由だった。
「外賓」を見物するウルムチの人々
宿泊した「崑崙賓館」は、ソ連が建てた天井が無駄に高い大きなホテル。エレベーターは手動で、女性服務員がタイミングを計ってレバーを引いて止める。段差数センチで止まると、乗っている人たちが拍手する。時には10センチ近い段差になることもあった。「ああ、これだからソ連は本格的な航空母艦が造れないのだな」と思った。
夕方、新疆ウイグル自治区政府を表敬訪問。公式行事なので、あらかじめ提出した名簿通りに列んで挨拶をする。私はいちばん年下の大学院生なので序列25位、つまりいちばん下っ端だ。「友好訪中団」の団長である林教授が挨拶し、それを受けてイスラム帽をかぶった白髭のウイグル族の長老の自治区政府主席が歓迎の辞を述べる。「皆さん、遠い日本からよくいらっしゃいました。なにかお困りのことがあったら、副主席の張さんに言ってください」
この一言で、自治区政府の仕組みがわかった。副主席は漢族で共産党の書記を兼ねている。自治区の顔はウイグル族、実権は漢族。この統治システムは、もうすでに確立していた(今はもっと露骨になっている)。
ちなみに、こうした場合、まず現地ガイドがウイグル語を中国語に訳し、それを全行程随行のガイドが日本語に訳すという二重通訳。中央から派遣されたガイド趙星海氏は私と同年齢の若い男性だったが、かなりのエリートで、現地のガイドとは格が違うという感じだった。
火州・トルファンへ
3日目の朝9時半、バスでトルファン(吐魯蕃)を目指して出発。バスは日野自動車製。郊外に出ると樹木はまったくなく、ところどころに草が生えている半砂漠、そしてそれすらもない小石だらけの礫沙漠(ゴビ)が続く。その向こうに天山山脈のボゴダ山(5445m)が白く輝いていた。
2時間ほどで達坂城人民公社に着いた。ここはいわゆる模範人民公社らしく、ウルムチ―トルファン往還を通る要人や外賓のための招待所があり、簡素だが清潔な食堂で昼食が供された。まさに沙漠の中のオアシスで、集落の周囲には農場が、さらにその外周に広大な放牧地が広がっていた。ここでも子供たちが集まってきて、束の間の日中友好交流(簡単な筆談)を楽しんだ。
人民公社とは、かつて中華人民共和国の農村にあった組織で、ソ連の農業集団化を模倣した集団所有制のもとで「自力更生、自給自足」の生産活動(農業・工業)を行い、同時に末端行政機関でもあった。しかし、改革開放政策の進展で1983年までにほとんどの人民公社は解体されたので、私たちが見たのはその最末期の姿ということになる。
13時半、火州・トルファンに着いた。ウルムチから休憩を含めて4時間の行程。宿舎の「吐魯蕃招待所」で一休みした後、五星人民公社のカレーズ(地下水路)の出口の見学に出かけた。遠く天山山脈から沙漠の地下をトンネルで流れてくる水は、想像していたよりずっと水量が豊かだった。ただ、天山の雪解け水なのでとても冷たく、農地に入れる前に地上の水路を迂回させて温めなければならない。水路の周囲にはポプラが林をなし、薄茶色の沙漠ばかり見てきた目にはまぶしいほど鮮やかな緑の農地が広がっていた。逆に言えば、カレーズがトルファン・オアシスの生命線であることがよくわかった。その昔、来襲する遊牧民族は、カレーズを破壊したという話はもっともだ。水道(みずみち)を絶たれれば、たちまちオアシス都市は干上がってしまう。
そこから、交河故城に向かう。車師国(前2世紀~5世紀)の都で、2本の峡谷に挟まれ、周囲は断崖絶壁で難攻不落を思わせる大規模な都市遺跡。NHK特集「シルクロード -絲綢之路(しちゅうのみち)-」(1980年4月~1981年3月)で大要はつかんでいたが、やはり驚いた。古代都市の遺構がそのまま地上にあり、あちこちに遺物が散乱している。居住区地区の街角で、誰かに出会いそうな気がするくらいだ。日本では古代の遺跡はすべて土に埋もれていて、発掘をした遺構や遺物を通じて、ようやくそこに何があったかを知ることができるのに。遺跡というもののイメージがまったく変わった。
遺跡で金髪の女の子に出会った。この地にさらに西方のアーリア系の血が及んでいることがわかる。ウイグルの人たちの顔立ちはかなり多様で、日本人に近いモンゴル系の人もいれば、彫りが深いトルコ系の人も多い。民族のるつぼという感じだ。
次に吐魯蕃博物館を見学。ここでトルファン文書(5~6世紀の高昌王国時代の漢文文書)を見た。私は学部時代、トルファン文書の研究で知られる土肥義和教授の講義を受けたので、実物を目の当たりにしてとても興奮した。そもそもの話、湿潤な日本では木に書かれた文書(木簡)や漆被膜に包まれた紙の文書(漆紙文書)など特殊な条件で残ることはあっても、紙の文書が地中からそのまま出土するということはまずありえない。出土文字史料については、それなりに学んできたが、「常識」が次々に覆されていく。
やっと招待所に戻って夕食。その後は「外賓」を歓迎する「ウイグル歌舞の夕べ」。ブドウ棚の下に絨毯が敷かれ、西域の楽器の生演奏で合わせてウイグル族の女性が踊る。回転が多い踊りで、唐詩にある長安の胡旋舞を思わせる(実際には胡旋舞のイメージを基にした再現のように思う)。
宴が終わったのは22時だった。でも空がまだ薄っすら明るい。トルファンは東経90度、15度で1時間だから、東経120度基準の北京標準時とは、2時間の時差があるはず。しかし、皇帝が時を一元的に支配する伝統がある中国は広い国土すべてが北京標準時なので、22時と言っても実際は20時なのだ(おまけに北緯42度なので夏の日没は遅い)。
ベゼクリク千仏洞へ、
4日目の朝、シャワーを浴びる。元が雪解け水なので震えるほど冷たい。朝のお祈りを告げる声が流れてくる。異世界(イスラム世界)に来たことをあらためて実感。
火焔山の麓にあるベゼクリク千仏洞に向かう。壁画の切り取り跡が痛々しい。中国政府は、ドイツのアルベルト・フォン・ル・コックをはじめとする探検家による壁画の持ち出しを文物の略奪として強く批判している。それはもっともだ。しかし、ル・コックらが壁画を持ち出さなかったとして、中華人民共和国が保全に乗り出すまでの70年ほどの間、壁画が無事だったかというと疑わしい。なぜなら残されている壁画もかなり損傷しているからだ。像の顔、とくに眼の部分が削られているものが目立つ。これは偶像崇拝を否定する(というか怖れる)イスラム教徒の仕業だからだ。文物の保存の難しさを目の当たりにした。
ベゼクリク千仏洞
千仏洞があるムルトク川の峡谷は、川畔にわずかに緑がある以外一木一草もない荒涼とした沙漠地帯。火焔山は砂岩の山肌に無数の溝が穿たれ、風化して落ちた砂が山麓の沙漠に続いている。この日の気温は46度だった。しかし汗はまったくかかない。たちまち蒸発してしまうからだ。気づくと肌がざらざらしている。よく見ると細かな塩の結晶だった。そんな乾燥した気候なのに、なんとこの日は雨が降った。ほんの僅か、バスの窓に水滴がついただけだったが。8月下旬にして今年初めての雨とのことだった。
巨大な城壁に囲まれた高昌故城へ。シルクロード交易で栄え、唐に滅ぼされた高昌王国(460~640年)の都。大寺院跡の仏龕にわずかに残る彩色光背(仏像はすべて失われている)に、この地を経由した玄奘三蔵の労苦をしのんだ。
招待所に戻って昼食。午後はまず額敏塔(蘇公塔)へ。清朝の乾隆41年(1779)に建てられた高さ44mのイスラム教の塔で、(今ではとても上れない)螺旋階段を上りきると、トルファン・オアシスが一望できる。
近くの蒲萄溝人民公社で休憩。川沿いの豊かなオアシスで、名前の通り、ブドウがたわわに実っていた。乾ききった気候の中で食べるブドウ、スイカ、ハミ瓜がなんと甘露だったことか。
ふとブドウ棚の脇の木を見上げると、なんだか馴染みのある葉っぱをしている。北関東の養蚕地帯に生まれ育った私は、その葉が桑に似ていることに気付いた。ガイドさんに尋ねると、やはり桑の木。ただ故郷の桑とは比べ物にならない大木だ。それでも桑があれば蚕が飼えるし生糸が採れる。今でも養蚕をしているか尋ねてみたが、残念ながらよくわからなかった。これがシルクローの旅で、絹の存在を感じた唯一の機会だった。
驢馬(ろば)タクシーとバザール
トルファン文書が出土したアスターナ古墳群を見学して、トルファンでの公式見学を終えた。招待所に戻って、さすがに疲れて休んでいたら、若手グループがバザールに行くという。それなら、行かないわけにはいかない。
招待所の門の前には、何台もの驢馬タクシーが待っていた。真っ先に寄ってきた少年馭者と値段交渉。「最初は1人1元」(当時のレートは1元=135円。現在は約15円、なんと9分の1)と吹っ掛けてきたが、5人乗るからということで1人2角(27円)に値切った。
少年馭者の驢馬タクシー
驢馬タクシーは馭者が1頭の驢馬を操り、2輪の荷台を牽引する。荷台の左右に2人ずつ、後に1人が外向きに腰掛ける5人乗り。馭者がロバの背中と軛(くびき)の間に鞭の柄を差し込んでしごくと、ロバは並足から駆足になる。思っていたよりスピードが出るが、それほど揺れず、振り落とされることはない。
中央バザールは活気に満ちていた。露店で羊の串焼き、練った小麦を焼いた丸いパン状のもの、ヒマワリの種などが売られている。スイカを売る少年、羊の臓物を竿秤で量り売りするおじいさん、そして野外床屋。建物は映画館だけ(入場料は1角4分=19円)。ウイグルの人たちの暮らしを生で感じることができて、とても楽しかった。
それにしても、雨が降らないということは、住居や生活様式にこうも大きく影響するものなのか。外壁は立派な映画館に屋根はない。露店もまったく覆いがなく、文字通りの露天だ。雨が多い日本では、露店は雨よけがないと商売にならないから、まず覆いを付ける。トルファンの人たちからすれば、不要だから付けないだけなのだろうが。
羊の臓物売りのおじいさん
ただ、私たちが持っているお金は、毛沢東の肖像の人民元ではなく、外国人専用の「外貨兌換券」(1994年末で廃止)。事前にガイドから「兌換券は公設商店でないと使えません(使ってはいけません)」と言われていたのでなにも買えなかった(後で、公設商店以外の場でも、商人たちは喜んで受け取ることがわかった。なぜなら闇レートで1兌換券=1.8人民元だったから)。
映画館の前にかわいらしいウイグル族の姉妹がいて、こっちを見ている。写真を撮らせてもらった後、手を振ったら、姉ははにかみ、妹は手を振り返してくれた。
「さようなら、トルファン」
招待所に帰ろうと歩き出したら、なんとあの少年馭者の驢馬タクシーが待っていた。こうなると乗らないわけにはいかない。結局、彼は2角×5人×2=2元(270円)を手にしたことになる。しかも兌換券で。きっと家に帰って父母に褒められたことだろう。あの時、14歳と言っていたから今は52歳、立派なタクシー運転手になっただろうか? それとも……。現在のウイグルの人たちの抑圧された状況を知るたびに心が痛む。
招待所でトルファン最後の食事をして、深夜の沙漠をトルファン駅に向かう(市街からかなり離れている)。そして、23時35分発の「烏京特快」(ウルムチと北京を3泊4日で結ぶ寝台特急列車)に乗車して東に向かった。軟臥車(1等寝台車)の寝台に横たわると、ハードスケジュールの疲れで、たちまち眠りに落ちた。(続く)
2020-08-22 17:32
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