2005年12月16日 お茶の水女子大学講義(10回目 その2) [大学講義(お茶の水女子大学)]
2005年12月16日 お茶の水女子大学講義(10回目 その2)
(その1 欠)
(続き)
今日は、先週と逆で授業後の質問が多かった(3人)。
質問「レズビアンとFTMの分離が不十分というお話しでしたが、具体的な状況をもう少し詳しく教えてください」
お返事「レズビアンのコミュニティの中で、FTMGIDに移行する人が最近目立つようになったと聞いてます。自分の性自認について熟慮した末に『自分はレズビアンではなくFTMだった』という気づきならいいのですが、性的指向を満足させる道具として身体の男性化を求めるのであれば、それはGID本来の在り方ではないでしょう。MTFの場合、ゲイ・コミュニティとの分離が進行していたので、そうした性自認と性的指向の混乱は比較的少ないと思います。レズビアンとFTMが未分離だったことが、そこらへんの混乱につながっているのではないでしょうか」
15分ほど質問に答えて、教室を出ようとしたら、友人の「SMの女王様」日向可憐さん(11月18日の「日記」参照)が妹分のお嬢さんと待っていた。
茗荷谷駅の上の「デニーズ」でお茶しながら、3人で1時間半ほど、おしゃべり。
中でも、強制女装プレイには、一般の?SMプレイとはまったく異なるストーリーがあり、それをしっかり把握することが大切という話が今日のポイント。
例えば、ある男性が、部屋に帰って洋服タンスを開けると、有るはずの男性用の服や下着が全部なくなっていて、女性用のそればかりになっている、という状況、普通の男性には「なんじゃ、これ」だけだが、ある種の(女装願望のある)男性には強烈な「萌え」シチュエーションになる。
可憐さんが実際のプレイ経験から抽出したものと、私の知識や分析がよく一致するのは、とてもおもしろい。
この「日記」で私の腰痛の持病を知った「女王様」から、上等な入浴剤をプレゼントされる。
「女王様」というと怖そうな女性を想像するかもしれないが、実際は気配り細やかな優しい女性である。
ありがたく頂戴する。
帰路は、池袋経由。
渋谷まで可憐さんと、電車の中ではしゃべれないような危ないことを(小声で)おしゃべり。
21時、学芸大学駅に着く。
今夜は時間がないのだけど、ちょっと用事があったので、東口商店街の居酒屋「一善」へ寄る。
生ビール1杯。
肴は、ほっけの刺身、れんこんとごぼうのきんぴら。
1時間ほど軽く飲んで、仕事場に戻る。
メールチェックだけして、急いで着替え。
23時、寒くて身体が辛く、タクシーで帰宅。
夕食は、残り物でご飯を1膳。
お風呂に入った後、次回(年明け)のお茶大の講義レジュメを作りはじめる。
2時間ほど、性別認識の話を、あれこれ考えながら執筆。
就寝3時。
(その1 欠)
(続き)
今日は、先週と逆で授業後の質問が多かった(3人)。
質問「レズビアンとFTMの分離が不十分というお話しでしたが、具体的な状況をもう少し詳しく教えてください」
お返事「レズビアンのコミュニティの中で、FTMGIDに移行する人が最近目立つようになったと聞いてます。自分の性自認について熟慮した末に『自分はレズビアンではなくFTMだった』という気づきならいいのですが、性的指向を満足させる道具として身体の男性化を求めるのであれば、それはGID本来の在り方ではないでしょう。MTFの場合、ゲイ・コミュニティとの分離が進行していたので、そうした性自認と性的指向の混乱は比較的少ないと思います。レズビアンとFTMが未分離だったことが、そこらへんの混乱につながっているのではないでしょうか」
15分ほど質問に答えて、教室を出ようとしたら、友人の「SMの女王様」日向可憐さん(11月18日の「日記」参照)が妹分のお嬢さんと待っていた。
茗荷谷駅の上の「デニーズ」でお茶しながら、3人で1時間半ほど、おしゃべり。
中でも、強制女装プレイには、一般の?SMプレイとはまったく異なるストーリーがあり、それをしっかり把握することが大切という話が今日のポイント。
例えば、ある男性が、部屋に帰って洋服タンスを開けると、有るはずの男性用の服や下着が全部なくなっていて、女性用のそればかりになっている、という状況、普通の男性には「なんじゃ、これ」だけだが、ある種の(女装願望のある)男性には強烈な「萌え」シチュエーションになる。
可憐さんが実際のプレイ経験から抽出したものと、私の知識や分析がよく一致するのは、とてもおもしろい。
この「日記」で私の腰痛の持病を知った「女王様」から、上等な入浴剤をプレゼントされる。
「女王様」というと怖そうな女性を想像するかもしれないが、実際は気配り細やかな優しい女性である。
ありがたく頂戴する。
帰路は、池袋経由。
渋谷まで可憐さんと、電車の中ではしゃべれないような危ないことを(小声で)おしゃべり。
21時、学芸大学駅に着く。
今夜は時間がないのだけど、ちょっと用事があったので、東口商店街の居酒屋「一善」へ寄る。
生ビール1杯。
肴は、ほっけの刺身、れんこんとごぼうのきんぴら。
1時間ほど軽く飲んで、仕事場に戻る。
メールチェックだけして、急いで着替え。
23時、寒くて身体が辛く、タクシーで帰宅。
夕食は、残り物でご飯を1膳。
お風呂に入った後、次回(年明け)のお茶大の講義レジュメを作りはじめる。
2時間ほど、性別認識の話を、あれこれ考えながら執筆。
就寝3時。
2005年12月09日 お茶の水女子大学講義(9回目) [大学講義(お茶の水女子大学)]
2005年12月09日 お茶の水女子大学講義(9回目)
12月9日(金) 晴れ
10時半、起床。
朝ご飯は、ツナとチーズのパニーニとコーヒー。
12時、仕事場へ。
途中、郵便局、銀行に寄る。
メールチェックの後、「セクシュアル・サイエンス」の座談会の手直し原稿を送稿。
身支度。今日は時間を計測。
シャワーを浴びる。下着をつける。10分。
化粧をする。ゆっくりやって20分。
髪ををポニーテールにまとめる。10分。
着物を着る。普通にやって20分。
ということで、普通のペースで、下準備さえちゃんとしておけば、お支度は1時間でできることがわかる。
昔は、洋装で2時間かかったのだから、ずいぶん早くなった。
今日の着物は、赤地に黄色の細い格子柄の大島紬。
帯は、黒と銀の鱗柄。
半襟は緑色、帯揚は辛子色、帯締は山吹色。
黒のファーのマントをまとう。
14時半、少し早めに家を出て、霞ヶ関駅経由でお茶大へ。
正門からのイチョウ並木、まだけっこう黄色い葉っぱを残している。
もう12月も半ばに近いのに、まだ冬木立という感じにはなっていない。
レジュメを印刷。
今日は、A4版5枚、各90枚。
授業の前に、ジェンダー研究センターに寄って出勤簿に押印。
チョコレートをご馳走になる。
16時40分、講義開始。
歴史篇「トランスジェンダーの社会史(3)-戦後日本の性別越境者(MTF)たち -」の続き。総論的な話は前回したので、今日は1940年代から時代順に図版を参考にしながらトピックを追って行く。
戦後60年を1コマの講義でやるわけで、かなり駆け足にならざるを得ない。
1.1940年代後半(1945~1949年:昭和20~24年)
・ 敗戦後の社会的混乱期。
・ いち早く、商業的なトランスジェンダーである女装男娼(女装のセックス・ワーカー)が顕在化する。→「上野(ノガミ)の男娼世界」
・ それ以外のトランスジェンダーな存在(女装願望者・性転換願望者)や男性同性愛者も、まだほとんど潜在した状態。→ 戦後日本トランスジェンダー社会の原風景
2.1950年代(1950~1959年:昭和25~34年)
・ 戦後の社会的混乱が一応終息し、生活が安定を取り戻つつあった時代。
・ 新たな商業的トランスジェンダーとして、男性同性愛をベースにした飲食接客業であるゲイバー世界が形成される。
・ ゲイバーで働くゲイボーイは、美少年系と女装系とが混在していた(未分離なカオス状態)。
・ 性転換者が顕在化する(1951年2月手術完了、1953年9月報道の永井明→明子が日本の初例)。
・ アマチュア女装者の胎動が始まる。→「演劇研究会」
3.1960年代(1960~1969年:昭和35~44年)
・ 日本が高度経済成長期に入った時代。
・ 男性同性愛者の世界とゲイボーイ世界の分離が始まる。
・ 非営利の女装愛好秘密結社「富貴クラブ」が活発に活動し、アマチュア女装者という概念が確立する。
・ 性転換女性のショー・ビジネスでの活動がマスコミに注目される。
・ 1965年9月、性転換手術を行った医師が摘発される。→「ブルーボーイ事件」
・ 丸山(美輪)明宏、ピーター、カルーセル麻紀など性別越境者の芸能活動が活発化する。
4.1970年代(1970~1979年:昭和45~54年)
・ 日本経済が安定成長期に入った時代。
・ ゲイボーイの女性化が進行する。→ カルーセル麻紀(1973年、モロッコで性転換手術)
・ アマチュア女装者の集団の中に、セミプロ的な色彩をもった新宿女装世界の原型が形成される。→ 女装バー「ふき(梢)」(1967年開店)
・ 1970年の「ブルーボーイ事件」有罪判決により国内での性転換手術が潜在化する。
5.1980年代(1980~1989年:昭和55~平成元年)
・ 経済大国日本がバブル経済に突入していった時代。
・ 男性同性愛世界との分離がほぼなされる。
・ 商業的トランスジェンダーの世界に新しい呼称「ニューハーフ」が登場。
・ セックス・ワークの業種として「ニューハーフ・ヘルス」が出現。
→「ニューハーフ・クラブ」(1984年)
・ アマチュア女装の世界に最初の商業女装クラブが出現。→「エリザベス会館」(1979年)
・ セミプロ的な新宿女装コミュニティが女装バー「ジュネ」を中心に形成される。
6.1990年代前半(1990~1994年:平成2~6年)
・ バブル経済が崩壊し、日本が政治・経済・社会の変革期に突入した時代。
・ 「Mr.レディ」、「TV(トランスヴェスタイト)」、「TS(トランスセクシュアル)」「TG(トランスジェンダー)」など新しい概念が次々に登場する。
・ 女装世界の中心が、非社会的な「エリザベス会館」から社会性のある新宿女装コミュニティに移行する。
・ パソコン通信による女装者の情報交換、相互交流が始まる。 →「EON」(1990年)、「スワンの夢」(1990年)
7.1990年代後半(1995~1999年:平成7~11年)
・ 平成大不況時代。
・ 性同一性障害(GID)問題が浮上(1995~7年)し、GID自助クループが発足する(1996年)。
・ クィア・ムーブメントがトランスジェンダー世界へ波及し、トランスジェンダー芸術やドラァグ・クイーンが登場する。
・ パソコン通信、インターネットの普及によりる情報流通の活発化し、それを背景に、新宿トランスジェンダー・コミュニティが活性化する。
・トランスジェンダーに対する社会的認知が急速に進み、芥川賞作家(藤野千夜)やアナウンサー、大学講師など、芸能、飲食接客、セックスワーク以外の職種へのトランスジェンダーの社会進出が始まる。
今日、つくづく思ったのは、学生さんと私との30年に及ぶ年代差。
つまり30年分、学生さんたちが経験してなくて、私は経験しているという年代があること。
この「共有していない時代」が、実にしゃべりにくく、もどかしい。
具体的に言うと、1940年代のところで「東京が焼け野原だった」ということは、学生さんはもちろんはもちろん知らないが、私も実際には知らないので、言葉にして語る術をもっている。
ところが、私が実際に知ってて、学生さんが知らない時代、例えば、東京オリンピック前後の高度経済成長期の、あのすべてがどんどんん変わっていくめまぐるしい時代相とかを語るのは案外難しい。
まして、私にとってはついこの間のバブル期のことになるといっそうギャップがひどくなる。
あの今になっては懐かしく馬鹿馬鹿しい高揚感を言葉で語る術を私はもっていなかった。
つい「ほら、あの感じ、解るでしょう」と言いたくなってしまう。
でも話を聞いている彼女たちは、バブル絶頂の1990年には3~6歳なので、「あの感じ」が解るわけないのだ。
現代史を教えることの難しさを、改めて痛感。
今日は珍しく授業後の質問に誰も来ない。
少し話がマニアック過ぎたかな?
帰路は、池袋経由。
渋谷の東急東横店の「ハイネット」に寄る。
結い直しをお願いして預けっぱなしだったウィッグを受け取る。
このお店、たぶん1995年頃から10年間、お世話になった。
今後、伸ばしてる髪を切らなければいけないような事態にならない限り、少なくともしばらくはご無沙汰することになるだろう。
ちょっと感慨。
手間のかかるウィッグの結い上げ(←今時、珍しい)を、美容院1回分の比較的安い料金(6300円)でずっとやってくれた。
私の社会進出を陰で支えてくれたお店のひとつで、とても感謝している。
19時20分、学芸大学駅に着く。
いつものパターンで、東口商店街の居酒屋「一善」へ寄る。
生ビール1杯、ウーロン茶1杯。
肴は、しまあじの刺身、モツ煮込み。
21時、仕事場に戻る。
メールチェックの確認だけ。
22時半、帰宅。
夕食は、作り置きの筋子の醤油漬けとトーフヨウでご飯を軽く1膳。
お風呂に入った後、お茶大の講義レジュメ(次回)作り。
数日前に作ったものを大幅に手直し。
続いて、論文「戦後東京における『男色文化』の歴史地理的変遷」(26000字)をプリントアウトして校正作業。
ベッドに横になって、3分の2ほどまで見たところで、意識を失う。
就寝4時(たぶん)。
12月9日(金) 晴れ
10時半、起床。
朝ご飯は、ツナとチーズのパニーニとコーヒー。
12時、仕事場へ。
途中、郵便局、銀行に寄る。
メールチェックの後、「セクシュアル・サイエンス」の座談会の手直し原稿を送稿。
身支度。今日は時間を計測。
シャワーを浴びる。下着をつける。10分。
化粧をする。ゆっくりやって20分。
髪ををポニーテールにまとめる。10分。
着物を着る。普通にやって20分。
ということで、普通のペースで、下準備さえちゃんとしておけば、お支度は1時間でできることがわかる。
昔は、洋装で2時間かかったのだから、ずいぶん早くなった。
今日の着物は、赤地に黄色の細い格子柄の大島紬。
帯は、黒と銀の鱗柄。
半襟は緑色、帯揚は辛子色、帯締は山吹色。
黒のファーのマントをまとう。
14時半、少し早めに家を出て、霞ヶ関駅経由でお茶大へ。
正門からのイチョウ並木、まだけっこう黄色い葉っぱを残している。
もう12月も半ばに近いのに、まだ冬木立という感じにはなっていない。
レジュメを印刷。
今日は、A4版5枚、各90枚。
授業の前に、ジェンダー研究センターに寄って出勤簿に押印。
チョコレートをご馳走になる。
16時40分、講義開始。
歴史篇「トランスジェンダーの社会史(3)-戦後日本の性別越境者(MTF)たち -」の続き。総論的な話は前回したので、今日は1940年代から時代順に図版を参考にしながらトピックを追って行く。
戦後60年を1コマの講義でやるわけで、かなり駆け足にならざるを得ない。
1.1940年代後半(1945~1949年:昭和20~24年)
・ 敗戦後の社会的混乱期。
・ いち早く、商業的なトランスジェンダーである女装男娼(女装のセックス・ワーカー)が顕在化する。→「上野(ノガミ)の男娼世界」
・ それ以外のトランスジェンダーな存在(女装願望者・性転換願望者)や男性同性愛者も、まだほとんど潜在した状態。→ 戦後日本トランスジェンダー社会の原風景
2.1950年代(1950~1959年:昭和25~34年)
・ 戦後の社会的混乱が一応終息し、生活が安定を取り戻つつあった時代。
・ 新たな商業的トランスジェンダーとして、男性同性愛をベースにした飲食接客業であるゲイバー世界が形成される。
・ ゲイバーで働くゲイボーイは、美少年系と女装系とが混在していた(未分離なカオス状態)。
・ 性転換者が顕在化する(1951年2月手術完了、1953年9月報道の永井明→明子が日本の初例)。
・ アマチュア女装者の胎動が始まる。→「演劇研究会」
3.1960年代(1960~1969年:昭和35~44年)
・ 日本が高度経済成長期に入った時代。
・ 男性同性愛者の世界とゲイボーイ世界の分離が始まる。
・ 非営利の女装愛好秘密結社「富貴クラブ」が活発に活動し、アマチュア女装者という概念が確立する。
・ 性転換女性のショー・ビジネスでの活動がマスコミに注目される。
・ 1965年9月、性転換手術を行った医師が摘発される。→「ブルーボーイ事件」
・ 丸山(美輪)明宏、ピーター、カルーセル麻紀など性別越境者の芸能活動が活発化する。
4.1970年代(1970~1979年:昭和45~54年)
・ 日本経済が安定成長期に入った時代。
・ ゲイボーイの女性化が進行する。→ カルーセル麻紀(1973年、モロッコで性転換手術)
・ アマチュア女装者の集団の中に、セミプロ的な色彩をもった新宿女装世界の原型が形成される。→ 女装バー「ふき(梢)」(1967年開店)
・ 1970年の「ブルーボーイ事件」有罪判決により国内での性転換手術が潜在化する。
5.1980年代(1980~1989年:昭和55~平成元年)
・ 経済大国日本がバブル経済に突入していった時代。
・ 男性同性愛世界との分離がほぼなされる。
・ 商業的トランスジェンダーの世界に新しい呼称「ニューハーフ」が登場。
・ セックス・ワークの業種として「ニューハーフ・ヘルス」が出現。
→「ニューハーフ・クラブ」(1984年)
・ アマチュア女装の世界に最初の商業女装クラブが出現。→「エリザベス会館」(1979年)
・ セミプロ的な新宿女装コミュニティが女装バー「ジュネ」を中心に形成される。
6.1990年代前半(1990~1994年:平成2~6年)
・ バブル経済が崩壊し、日本が政治・経済・社会の変革期に突入した時代。
・ 「Mr.レディ」、「TV(トランスヴェスタイト)」、「TS(トランスセクシュアル)」「TG(トランスジェンダー)」など新しい概念が次々に登場する。
・ 女装世界の中心が、非社会的な「エリザベス会館」から社会性のある新宿女装コミュニティに移行する。
・ パソコン通信による女装者の情報交換、相互交流が始まる。 →「EON」(1990年)、「スワンの夢」(1990年)
7.1990年代後半(1995~1999年:平成7~11年)
・ 平成大不況時代。
・ 性同一性障害(GID)問題が浮上(1995~7年)し、GID自助クループが発足する(1996年)。
・ クィア・ムーブメントがトランスジェンダー世界へ波及し、トランスジェンダー芸術やドラァグ・クイーンが登場する。
・ パソコン通信、インターネットの普及によりる情報流通の活発化し、それを背景に、新宿トランスジェンダー・コミュニティが活性化する。
・トランスジェンダーに対する社会的認知が急速に進み、芥川賞作家(藤野千夜)やアナウンサー、大学講師など、芸能、飲食接客、セックスワーク以外の職種へのトランスジェンダーの社会進出が始まる。
今日、つくづく思ったのは、学生さんと私との30年に及ぶ年代差。
つまり30年分、学生さんたちが経験してなくて、私は経験しているという年代があること。
この「共有していない時代」が、実にしゃべりにくく、もどかしい。
具体的に言うと、1940年代のところで「東京が焼け野原だった」ということは、学生さんはもちろんはもちろん知らないが、私も実際には知らないので、言葉にして語る術をもっている。
ところが、私が実際に知ってて、学生さんが知らない時代、例えば、東京オリンピック前後の高度経済成長期の、あのすべてがどんどんん変わっていくめまぐるしい時代相とかを語るのは案外難しい。
まして、私にとってはついこの間のバブル期のことになるといっそうギャップがひどくなる。
あの今になっては懐かしく馬鹿馬鹿しい高揚感を言葉で語る術を私はもっていなかった。
つい「ほら、あの感じ、解るでしょう」と言いたくなってしまう。
でも話を聞いている彼女たちは、バブル絶頂の1990年には3~6歳なので、「あの感じ」が解るわけないのだ。
現代史を教えることの難しさを、改めて痛感。
今日は珍しく授業後の質問に誰も来ない。
少し話がマニアック過ぎたかな?
帰路は、池袋経由。
渋谷の東急東横店の「ハイネット」に寄る。
結い直しをお願いして預けっぱなしだったウィッグを受け取る。
このお店、たぶん1995年頃から10年間、お世話になった。
今後、伸ばしてる髪を切らなければいけないような事態にならない限り、少なくともしばらくはご無沙汰することになるだろう。
ちょっと感慨。
手間のかかるウィッグの結い上げ(←今時、珍しい)を、美容院1回分の比較的安い料金(6300円)でずっとやってくれた。
私の社会進出を陰で支えてくれたお店のひとつで、とても感謝している。
19時20分、学芸大学駅に着く。
いつものパターンで、東口商店街の居酒屋「一善」へ寄る。
生ビール1杯、ウーロン茶1杯。
肴は、しまあじの刺身、モツ煮込み。
21時、仕事場に戻る。
メールチェックの確認だけ。
22時半、帰宅。
夕食は、作り置きの筋子の醤油漬けとトーフヨウでご飯を軽く1膳。
お風呂に入った後、お茶大の講義レジュメ(次回)作り。
数日前に作ったものを大幅に手直し。
続いて、論文「戦後東京における『男色文化』の歴史地理的変遷」(26000字)をプリントアウトして校正作業。
ベッドに横になって、3分の2ほどまで見たところで、意識を失う。
就寝4時(たぶん)。
2005年12月02日 お茶の水女子大学講義(8回目) [大学講義(お茶の水女子大学)]
2005年12月02日 お茶の水女子大学講義(8回目)
12月2日(金) 曇り
10時半、起床。
朝ご飯は、いつものようにトースト1枚、生ハム4枚、きゅうり&レタス。
13時、仕事場へ。
メールチェックだけして、身支度。
髪をポニーテールにまとめて(しっぽの部分は付け毛)、根元に、先日、京都の「かづら清老舗」で買った和風の髪止め(バレッタ)を付ける。
自分の髪に髪止めを付けるの、けっこう感激。
うれしくて、わざわざ合わせ鏡をして眺めてしまう。
着物は、焦げ茶に黒の子持ち縞のお召。
地味な色合いの着物なので、赤地に手鞠柄のちりめんの帯を合わせて華やぎをもたせる。
長襦袢は、緑の地に簪模様。
半襟、帯揚は緑系。
帯締は、京都で買ってきた紫色。
黒のファーのマントをまとう。
15時、家を出て、霞ヶ関駅経由でお茶大へ。
正門を入った所のイチョウ並木が、やっと黄色く色づいた。
それでもまだ緑の葉の樹が少しある。
東京都心部の紅葉は、もう11月中ではなく12月に入ってということなのだろう。
こうした温暖化の進行、もっと危機感をもった方がいいと思うのだが。
レジュメを印刷。
今日は、A4版4枚、各90枚。
授業の前に、ジェンダー研究センターに寄って出勤簿に押印。
チョコレート・ケーキをご馳走になる。
16時40分、講義開始。
歴史篇「トランスジェンダーの社会史(2)-近代の抑圧-」の第1部「明治の文明開化と異性装の抑圧」の続き。
歌舞伎の「改良運動」について説明。
江戸歌舞伎の女形は、「平生を、をなごにてくら(す)」(『あやめ草』)という芳沢あやめの教えを守り、舞台の上だけでなく日常においても女装して「女」として生活していた。
ところが、明治11年(1871)、新政府の旧風俗矯正の意識に同調した九世市川団十郎(1838~1903)に主導された歌舞伎世界の革新運動(演劇改良運動)が始まると、江戸歌舞伎が持っていた性的ないかがわしい部分が切り捨てられていく。
具体的には、若手女形と「色子」(女装のセックスワーカー)との人的交流を断ち、歌舞伎世界と陰間茶屋的な男色世界との分離がはかられていく。
江戸時代的な男色文化と深くつながり、性別越境の要素が濃厚な芸能である歌舞伎世界は、男色、女装という要素をできるだけ薄め、限定的にすることで、新しい時代の演劇として生き延びようとした。
その結果、女形が「女」を演じるのは舞台の上だけのこととされ、日常的には立派な「男子」であることが求められるようになる。
旧来どおり、日常生活を「女子」として暮らしていた女形も、八世岩井半四郎(1829~82)あたりを最後に姿を消していった。
こうして、女性的に生まれついた男子が、色子を経て歌舞伎の女形になって身を立てていく道は断たれてしまったことを述べる。
次ぎに、第2部「明治末~大正期の異性装の『変態性慾』化」
明治末~大正期になると、同性愛や異性装を禁忌(タブー)とするキリスト教文化に基盤をおく西欧(主にドイツ)の精神医学が導入され、伝統的な男色文化は「変態性慾」として位置付けられ、異性装者は精神病者化されていったことを解説。
1886年にドイツの司法精神科医クラフト・エービング(Krafft Ebing 1840-1902)が 後の「変態性慾」概念の体系化をおこなった『性的精神病質』を刊行し、その第4版の翻訳が1894年(明治27)に『色情狂編』として、第14版の邦訳が1913年(大正2)に『変態性慾心理』として刊行され、日本の精神医学に大きな影響を与えたこと。
その後、「性科学」の形態をとったこれらの書籍・言説によって「変態性慾」概念が一般に広く流布され、同性愛者・異性装者に対する差別意識に「科学的」根拠が与えられ、社会的抑圧が強化されていったことを述べる。
具体例として、羽太鋭治・澤田順次郎『変態性慾論』(大正4年=1915)の分類を紹介。
「顛倒的同性間性慾」(同性愛)がきわめて重大視されていること、「色情亢進症」については男女の性慾の在り方に大きなバイアスがあること(男性はかなり強い性慾があっても正常視、女性は性慾があるだけで異常視)などを指摘する。
続いて、第3部「抑圧の中を生きる異性装者-昭和戦前期-」。
抑圧を生き抜いた形態として、女装芸者、女装の男娼、新派・大衆演劇の女形の3つがあったことを解説。
具体例として、『読売新聞』1929年(昭和4)の元旦紙面を飾った塩原温泉の女装芸者の「花魁清ちゃん」、1937年(昭和12)3月に銀座で逮捕された美貌の女装男娼福島ゆみ子こと山本太四郎、新派の曾我廼家五郎劇団の立女形として大正の末から 昭和戦前期に活躍した曾我廼家桃蝶(1900~?)を紹介。
ついでに、1931年(昭和6)に、浅草の女装男娼「愛子」を主人公にした実録風小説『エロ・グロ男娼日記』(流山龍之介著 三興社)が刊行されたが、即日発禁処分になったエピソードも付け加えた。
ここまでが前回分。
やっと今日のテーマ「トランスジェンダーの社会史(3)-戦後日本の性別越境者(MTF)たち -」に入る。
個別の話に入る前に、戦後日本トランスジェンダー社会史のポイントを総論的に話す。
戦後日本トランスジェンダーの社会史は次のポイントで理解できる。
(1) 潜在化していたトランスジェンダーが、社会的抑圧の軽減にともない、様々な形態を取りながら社会的に顕在化していく歴史であること。
全体傾向として、MTF(男性から女性へ)が主に顕在化、FTM(女性から男性へ)の顕在化は遅れる。
情報媒体としての雑誌(週刊誌)、テレビ、さらに最近ではニューメディアとしてのパソコン通信、インターネットが顕在化に果たしたの役割(ジェンダーバイアスも含めて)を認識すべき。
(2) 男性同性愛世界と女装(トランスジェンダー)世界とが分離していく歴史であること。
ゲイボーイ → ニューハーフ → ミスター・レディという呼称の変化に象徴されるように、商業的トランスジェンダー世界のイメージ的女性化が進行する。
歴史的に本来二つの路線(江戸時代的に言えば、異性装を伴わない男色文化と異性装を伴う男色文化)のが近代の抑圧の中で身を寄せ合っていた形が、戦後、抑圧が少なくなるにつれて、本来の姿に戻っていく過程ととらえることもできる。
(3) 様々な価値基準(対立軸)に基づくトランスジェンダー・カテゴリーの分裂、細分化の歴史であること。
商業的の中で、セックスワークか、飲食接客業か(男娼か、ゲイボーイか 1950年代)
商業的か、非商業的か(プロか、アマチュアか 1960~70年代)
非商業的の中で、閉鎖的か、開放的か(女装クラブか、新宿コミュニティか 1980~90年代)
フルタイムか、パートタイムか、身体加工か、非加工か(TSか、TGか 1990年代)
病気(精神疾患)か、そうでないか(性同一性障害か、トランスジェンダリズムか 2000年代)
(4) 新たに紹介・導入された価値基準は、それ以前に分化したカテゴリーには適用されなという「法則」があること。
例えば、1990年前後に女装クラブ系の世界に紹介されたTV・(TG)・TSという区分法は、それ以前に既に分化していた商業的トランスジェンダー世界(ニューハーフ世界)や新宿の女装コミュニティには適用されなかった。
また、1995年以降にTS・TG世界に導入された性同一性障害(GID)という価値基準(診断基準)は、それ以前に分化していた商業的トランスジェンダー世界(ニューハーフ世界)や新宿のトランスジェンダー・コミュニティ、女装クラブの世界には適用されなかった(最近は影響が及びつつあるが)。
(5) 結果として、きわめて多様、多彩な、世界的に見てももっとも高度に発達したトランスジェンダー世界が展開されているのが現代日本社会のひとつの特質であること。
欧米のトランスジェンダーから見ると、日本の社会環境は「パラダイス」。
世界的に見てトランスジェンダーに最も寛容な世界であるタイにおいても、日本ほどの分化はみられない。
今日の授業後の質問「タイ社会では、どのような形で、どうのような理由でトランスジェンダーに対して寛容なのでしょうか」。
教室ではうまく答えられなかったが、取り敢えずこんな感じにまとめられるかと思う。
「タイについては、いくつか研究報告を聞いたのと、1回の旅行だけの印象なので、きちんとした調査に基づく見解ではなのですが、普通の飲食店や化粧品店などで働いているのを見かけるし、政府の観光局がトランスジェンダー(MTF)をポスターに使うなど、社会的受け入れは最も進んでいると思います。理由については、仏教の輪廻転生思想の影響などの説があるが調査不十分ではっきりしたことは言えません。私としては母系的な社会構造が近代化の中でも強く残存していることがベースになっていると思ってます」。
帰路は、池袋経由。
19時15分、学芸大学駅に着く。
いつものパターンで、東口商店街の居酒屋「一善」へ。
生ビール1杯、ウーロン茶1杯。
肴は、金目鯛の刺身、魚のアラ煮。
大皿に盛られたアラ煮をていねいに食べている内に、お腹が一杯になってしまう。
22時20分、仕事場に戻る。
お風呂を入れている間、久しぶりにあちこちのサイトを巡回。
某BBSで、どこかの解らず屋が私への批判をまた延々と繰り返していた。
批判の元になっているのは、昨年4月の「セクシュアル・サイエンス」の座談会での私の発言。
論文や論説ならまだしも、1年半以上も前の座談会の一言半句だけをとらえて、繰り返し繰り返し、同内容の批判を続けるというのは、いったいどういう神経なのだろうか。
粘着質にも程がある。
反論しようかとも思ったが、時間、労力、精神力、ネット資源の浪費になるだけで、馬鹿らしいのでやめた。
こっちはそんなに暇ではない。
就寝、2時(仕事場)。
12月2日(金) 曇り
10時半、起床。
朝ご飯は、いつものようにトースト1枚、生ハム4枚、きゅうり&レタス。
13時、仕事場へ。
メールチェックだけして、身支度。
髪をポニーテールにまとめて(しっぽの部分は付け毛)、根元に、先日、京都の「かづら清老舗」で買った和風の髪止め(バレッタ)を付ける。
自分の髪に髪止めを付けるの、けっこう感激。
うれしくて、わざわざ合わせ鏡をして眺めてしまう。
着物は、焦げ茶に黒の子持ち縞のお召。
地味な色合いの着物なので、赤地に手鞠柄のちりめんの帯を合わせて華やぎをもたせる。
長襦袢は、緑の地に簪模様。
半襟、帯揚は緑系。
帯締は、京都で買ってきた紫色。
黒のファーのマントをまとう。
15時、家を出て、霞ヶ関駅経由でお茶大へ。
正門を入った所のイチョウ並木が、やっと黄色く色づいた。
それでもまだ緑の葉の樹が少しある。
東京都心部の紅葉は、もう11月中ではなく12月に入ってということなのだろう。
こうした温暖化の進行、もっと危機感をもった方がいいと思うのだが。
レジュメを印刷。
今日は、A4版4枚、各90枚。
授業の前に、ジェンダー研究センターに寄って出勤簿に押印。
チョコレート・ケーキをご馳走になる。
16時40分、講義開始。
歴史篇「トランスジェンダーの社会史(2)-近代の抑圧-」の第1部「明治の文明開化と異性装の抑圧」の続き。
歌舞伎の「改良運動」について説明。
江戸歌舞伎の女形は、「平生を、をなごにてくら(す)」(『あやめ草』)という芳沢あやめの教えを守り、舞台の上だけでなく日常においても女装して「女」として生活していた。
ところが、明治11年(1871)、新政府の旧風俗矯正の意識に同調した九世市川団十郎(1838~1903)に主導された歌舞伎世界の革新運動(演劇改良運動)が始まると、江戸歌舞伎が持っていた性的ないかがわしい部分が切り捨てられていく。
具体的には、若手女形と「色子」(女装のセックスワーカー)との人的交流を断ち、歌舞伎世界と陰間茶屋的な男色世界との分離がはかられていく。
江戸時代的な男色文化と深くつながり、性別越境の要素が濃厚な芸能である歌舞伎世界は、男色、女装という要素をできるだけ薄め、限定的にすることで、新しい時代の演劇として生き延びようとした。
その結果、女形が「女」を演じるのは舞台の上だけのこととされ、日常的には立派な「男子」であることが求められるようになる。
旧来どおり、日常生活を「女子」として暮らしていた女形も、八世岩井半四郎(1829~82)あたりを最後に姿を消していった。
こうして、女性的に生まれついた男子が、色子を経て歌舞伎の女形になって身を立てていく道は断たれてしまったことを述べる。
次ぎに、第2部「明治末~大正期の異性装の『変態性慾』化」
明治末~大正期になると、同性愛や異性装を禁忌(タブー)とするキリスト教文化に基盤をおく西欧(主にドイツ)の精神医学が導入され、伝統的な男色文化は「変態性慾」として位置付けられ、異性装者は精神病者化されていったことを解説。
1886年にドイツの司法精神科医クラフト・エービング(Krafft Ebing 1840-1902)が 後の「変態性慾」概念の体系化をおこなった『性的精神病質』を刊行し、その第4版の翻訳が1894年(明治27)に『色情狂編』として、第14版の邦訳が1913年(大正2)に『変態性慾心理』として刊行され、日本の精神医学に大きな影響を与えたこと。
その後、「性科学」の形態をとったこれらの書籍・言説によって「変態性慾」概念が一般に広く流布され、同性愛者・異性装者に対する差別意識に「科学的」根拠が与えられ、社会的抑圧が強化されていったことを述べる。
具体例として、羽太鋭治・澤田順次郎『変態性慾論』(大正4年=1915)の分類を紹介。
「顛倒的同性間性慾」(同性愛)がきわめて重大視されていること、「色情亢進症」については男女の性慾の在り方に大きなバイアスがあること(男性はかなり強い性慾があっても正常視、女性は性慾があるだけで異常視)などを指摘する。
続いて、第3部「抑圧の中を生きる異性装者-昭和戦前期-」。
抑圧を生き抜いた形態として、女装芸者、女装の男娼、新派・大衆演劇の女形の3つがあったことを解説。
具体例として、『読売新聞』1929年(昭和4)の元旦紙面を飾った塩原温泉の女装芸者の「花魁清ちゃん」、1937年(昭和12)3月に銀座で逮捕された美貌の女装男娼福島ゆみ子こと山本太四郎、新派の曾我廼家五郎劇団の立女形として大正の末から 昭和戦前期に活躍した曾我廼家桃蝶(1900~?)を紹介。
ついでに、1931年(昭和6)に、浅草の女装男娼「愛子」を主人公にした実録風小説『エロ・グロ男娼日記』(流山龍之介著 三興社)が刊行されたが、即日発禁処分になったエピソードも付け加えた。
ここまでが前回分。
やっと今日のテーマ「トランスジェンダーの社会史(3)-戦後日本の性別越境者(MTF)たち -」に入る。
個別の話に入る前に、戦後日本トランスジェンダー社会史のポイントを総論的に話す。
戦後日本トランスジェンダーの社会史は次のポイントで理解できる。
(1) 潜在化していたトランスジェンダーが、社会的抑圧の軽減にともない、様々な形態を取りながら社会的に顕在化していく歴史であること。
全体傾向として、MTF(男性から女性へ)が主に顕在化、FTM(女性から男性へ)の顕在化は遅れる。
情報媒体としての雑誌(週刊誌)、テレビ、さらに最近ではニューメディアとしてのパソコン通信、インターネットが顕在化に果たしたの役割(ジェンダーバイアスも含めて)を認識すべき。
(2) 男性同性愛世界と女装(トランスジェンダー)世界とが分離していく歴史であること。
ゲイボーイ → ニューハーフ → ミスター・レディという呼称の変化に象徴されるように、商業的トランスジェンダー世界のイメージ的女性化が進行する。
歴史的に本来二つの路線(江戸時代的に言えば、異性装を伴わない男色文化と異性装を伴う男色文化)のが近代の抑圧の中で身を寄せ合っていた形が、戦後、抑圧が少なくなるにつれて、本来の姿に戻っていく過程ととらえることもできる。
(3) 様々な価値基準(対立軸)に基づくトランスジェンダー・カテゴリーの分裂、細分化の歴史であること。
商業的の中で、セックスワークか、飲食接客業か(男娼か、ゲイボーイか 1950年代)
商業的か、非商業的か(プロか、アマチュアか 1960~70年代)
非商業的の中で、閉鎖的か、開放的か(女装クラブか、新宿コミュニティか 1980~90年代)
フルタイムか、パートタイムか、身体加工か、非加工か(TSか、TGか 1990年代)
病気(精神疾患)か、そうでないか(性同一性障害か、トランスジェンダリズムか 2000年代)
(4) 新たに紹介・導入された価値基準は、それ以前に分化したカテゴリーには適用されなという「法則」があること。
例えば、1990年前後に女装クラブ系の世界に紹介されたTV・(TG)・TSという区分法は、それ以前に既に分化していた商業的トランスジェンダー世界(ニューハーフ世界)や新宿の女装コミュニティには適用されなかった。
また、1995年以降にTS・TG世界に導入された性同一性障害(GID)という価値基準(診断基準)は、それ以前に分化していた商業的トランスジェンダー世界(ニューハーフ世界)や新宿のトランスジェンダー・コミュニティ、女装クラブの世界には適用されなかった(最近は影響が及びつつあるが)。
(5) 結果として、きわめて多様、多彩な、世界的に見てももっとも高度に発達したトランスジェンダー世界が展開されているのが現代日本社会のひとつの特質であること。
欧米のトランスジェンダーから見ると、日本の社会環境は「パラダイス」。
世界的に見てトランスジェンダーに最も寛容な世界であるタイにおいても、日本ほどの分化はみられない。
今日の授業後の質問「タイ社会では、どのような形で、どうのような理由でトランスジェンダーに対して寛容なのでしょうか」。
教室ではうまく答えられなかったが、取り敢えずこんな感じにまとめられるかと思う。
「タイについては、いくつか研究報告を聞いたのと、1回の旅行だけの印象なので、きちんとした調査に基づく見解ではなのですが、普通の飲食店や化粧品店などで働いているのを見かけるし、政府の観光局がトランスジェンダー(MTF)をポスターに使うなど、社会的受け入れは最も進んでいると思います。理由については、仏教の輪廻転生思想の影響などの説があるが調査不十分ではっきりしたことは言えません。私としては母系的な社会構造が近代化の中でも強く残存していることがベースになっていると思ってます」。
帰路は、池袋経由。
19時15分、学芸大学駅に着く。
いつものパターンで、東口商店街の居酒屋「一善」へ。
生ビール1杯、ウーロン茶1杯。
肴は、金目鯛の刺身、魚のアラ煮。
大皿に盛られたアラ煮をていねいに食べている内に、お腹が一杯になってしまう。
22時20分、仕事場に戻る。
お風呂を入れている間、久しぶりにあちこちのサイトを巡回。
某BBSで、どこかの解らず屋が私への批判をまた延々と繰り返していた。
批判の元になっているのは、昨年4月の「セクシュアル・サイエンス」の座談会での私の発言。
論文や論説ならまだしも、1年半以上も前の座談会の一言半句だけをとらえて、繰り返し繰り返し、同内容の批判を続けるというのは、いったいどういう神経なのだろうか。
粘着質にも程がある。
反論しようかとも思ったが、時間、労力、精神力、ネット資源の浪費になるだけで、馬鹿らしいのでやめた。
こっちはそんなに暇ではない。
就寝、2時(仕事場)。
2005年11月25日 お茶の水女子大学講義(7回目) [大学講義(お茶の水女子大学)]
2005年11月25日 お茶の水女子大学講義(7回目)
11月25日(金) 晴れ
10時半、起床。
朝ご飯は、いつものようにトースト1枚、生ハム4枚、レタス。
12時半、仕事場へ。
メールチェックだけして、身支度。
着物は、灰茶色に青の平行四辺形模様の伊勢崎銘仙。
帯は、赤・黒・樺色の縞。
半襟は緑系。帯揚は辛子色、帯締は山吹色。
黒のファーのマントをまとう。
15時少し前、家を出て、霞ヶ関駅経由でお茶大へ。
早速、レジュメを印刷。
A4版6枚、各90枚。
授業の前に、ジェンダー研究センターに寄って出勤簿に押印。
今日が全14回の授業の7回目で、ちょうど折り返し地点。
16時40分、講義開始。
歴史篇「トランスジェンダーの社会史(1)-前近代日本の異性装者たち-」の続き。
5.陰間-江戸時代の「ニューハーフ」(商業的女装者)の話から
まず、近世社会の商業の発展を背景に、初めて商業的(接客業)な性別越境者が登場してきたことの画期性を説明。
鈴木春信の「五常」シリーズ(1767)の中の「義」、北尾重政の「東西南北 美人」シリーズの「西方の美人 堺町」を紹介しながら、江戸の陰間のイメージをつかんでもらい、身体的には男性である「陰間」が、女性に立ち交じって、江戸を代表する「美人」として描かれていることに注目してほしいと述べる。
次に、陰間の称は、歌舞伎の舞台に立つ女形を「舞台子」と言い、舞台に立てない女形を「陰子」と呼んだことに始まること、舞台に立てない「陰子」が、生活のために茶屋で接客サービス(共同飲食、芸能、セックスワーク)を行ったのが陰間茶屋の始まりであること。
江戸の陰間茶屋は、歌舞伎の盛行とともに寛文・元禄の頃(1661~1703)に始まり、延享・宝暦期(1744~63)に全盛をむかえ、10代将軍家治の治世の安永4年(1775)の江戸には、9カ所55軒の陰間茶屋があり、232人の陰間がいたこと。
松平定信の寛政の改革(1787)、水野忠邦の天保の改革(1843)の風紀取り締まりで打撃を被り、幕末には、湯島天神町にわずかに残るだけで、ほとんど姿を消したこと、など陰間茶屋の盛衰の概況を解説。
『男色細見』の著者平賀源内が男色家であることを述べると、何人かの学生の口から「へ~ぇ」というつぶやきが漏れる。
「絵本 吾妻袂」に描かれている料理茶屋に出張した陰間の姿から、女性の芸者との類似性、芸能者であると同時にセックスワークも行っていたことを指摘する。
続いて、鈴木春信の『艶色真似ゑもん』(1770)の中の一葉で、色道修行のため豆男に変身した浮世之助(主人公)が陰間茶屋の2階を覗き見している図と、奥村政信の『閨の雛形』(1738)の中の2葉1組を紹介。
いずれも、一見、若旦那と遊女の男女のセックスシーンと見間違えそうであるが、描かれているペニスの数(前者は2人で2本、後者は3人で2本)から、遊女に見えるのは陰間であることを解説。
一般の人が楽しむ女色を中心とした春画シリーズの中に、ごく自然に陰間が描かれていることから、江戸時代における女色と男色の距離は、現代の異性愛と同性愛の距離よりはるかに近かったこと、男色に対する違和感も少なかったことが推測される、と結んだ。
ここまでで45分ほどかかってしまい、ようやく今日のテーマ「トランスジェンダーの社会史(2)-近代の抑圧-」に入る。
第1部は「明治の文明開化と異性装の抑圧」
前近代的な異性装の文化と密接に関係しながら江戸時代に高度に発達した「男色文化」が、明治維新後の近代化(西欧化)の過程で、法的な規制が加えられるなど抑圧が進み、性別越境(トランスジェンダー)的な人々はアンダーグラウンド化していったこと、明治維新と文明開化は、異性装者にとって厳しい社会的抑圧の始まりだったことを述べる。
まず、明治5年(1872)の違式かい(言+圭の字)違条例による異性装習俗の禁止について説明。
異性装の風習は、男女混浴、立ち小便、裸体歩行、刺青などと同様に、明治の為政者たちが外国人の目に触れさせたくない恥ずべき風習のひとつであったことを解説。
次に、明治7年(1875)10月2日の『東京日々新聞』に掲載された香川県三木郡保元村の塗師早蔵の「妻」お乙が、戸籍作成の際に、実は本名乙吉という男性であることが露見し、結婚を無効にされてしまった話を紹介。
近代的な戸籍制度の成立による個別的な人身把握、婚姻・家制度の確立によって、「女装妻」のような「あいまいな性」の存在が困難になったことを述べる。
さらに、明治6年(1873)の改定律例266条に規定された鶏姦罪によって、肛門性交が法的に禁止され、違反者は懲役90日の重罪とされたことを紹介。
事例として、明治14年(1881)に元女形の茶屋「女」が、女と思い込んでいた人力車夫と性行為に及び、男性であることが露見し、鶏姦罪で懲役90日に処せられた話を紹介。
「女」としての性行動をもつ定常的な異性装(女装)者にとって、鶏姦罪の存在は違式かい違条例とともに二重の強い抑圧だったことを説明する。
ここまでで、時間となってしまい、大正~昭和戦前期については次回に持ち越し。
今日の授業後の質問「陰間茶屋の客には女性もいたというお話でしたが、そうした女性を顧客とする(今のホストクラブのような)サービス業は、明治以降も存在したのでしょうか?」。
お返事「アンダーグラウンドでは皆無とはいえませんが、少なくとも『茶屋』のような店舗形態の業態は存在しませんでした。そうした点でも、江戸時代と明治以降の性風俗文化にはかなり断絶があったと思います」。
帰路は、池袋経由。
19時10分、学芸大学駅に着く。
東口商店街の居酒屋「一善」へ。
生ビール1杯、ウーロン茶2杯。
肴は、ほうぼうの刺身、湯豆腐、きんぴらごぼう。
今日は、お昼抜きだったので、最後にポークカレーでお腹を満たす。
22時30分、仕事場に戻る。
お風呂を入れて、ゆっくりつかり、身体のあちこちのメンテナンス。
明日からの京都出張の準備を確認。
就寝2時。
11月25日(金) 晴れ
10時半、起床。
朝ご飯は、いつものようにトースト1枚、生ハム4枚、レタス。
12時半、仕事場へ。
メールチェックだけして、身支度。
着物は、灰茶色に青の平行四辺形模様の伊勢崎銘仙。
帯は、赤・黒・樺色の縞。
半襟は緑系。帯揚は辛子色、帯締は山吹色。
黒のファーのマントをまとう。
15時少し前、家を出て、霞ヶ関駅経由でお茶大へ。
早速、レジュメを印刷。
A4版6枚、各90枚。
授業の前に、ジェンダー研究センターに寄って出勤簿に押印。
今日が全14回の授業の7回目で、ちょうど折り返し地点。
16時40分、講義開始。
歴史篇「トランスジェンダーの社会史(1)-前近代日本の異性装者たち-」の続き。
5.陰間-江戸時代の「ニューハーフ」(商業的女装者)の話から
まず、近世社会の商業の発展を背景に、初めて商業的(接客業)な性別越境者が登場してきたことの画期性を説明。
鈴木春信の「五常」シリーズ(1767)の中の「義」、北尾重政の「東西南北 美人」シリーズの「西方の美人 堺町」を紹介しながら、江戸の陰間のイメージをつかんでもらい、身体的には男性である「陰間」が、女性に立ち交じって、江戸を代表する「美人」として描かれていることに注目してほしいと述べる。
次に、陰間の称は、歌舞伎の舞台に立つ女形を「舞台子」と言い、舞台に立てない女形を「陰子」と呼んだことに始まること、舞台に立てない「陰子」が、生活のために茶屋で接客サービス(共同飲食、芸能、セックスワーク)を行ったのが陰間茶屋の始まりであること。
江戸の陰間茶屋は、歌舞伎の盛行とともに寛文・元禄の頃(1661~1703)に始まり、延享・宝暦期(1744~63)に全盛をむかえ、10代将軍家治の治世の安永4年(1775)の江戸には、9カ所55軒の陰間茶屋があり、232人の陰間がいたこと。
松平定信の寛政の改革(1787)、水野忠邦の天保の改革(1843)の風紀取り締まりで打撃を被り、幕末には、湯島天神町にわずかに残るだけで、ほとんど姿を消したこと、など陰間茶屋の盛衰の概況を解説。
『男色細見』の著者平賀源内が男色家であることを述べると、何人かの学生の口から「へ~ぇ」というつぶやきが漏れる。
「絵本 吾妻袂」に描かれている料理茶屋に出張した陰間の姿から、女性の芸者との類似性、芸能者であると同時にセックスワークも行っていたことを指摘する。
続いて、鈴木春信の『艶色真似ゑもん』(1770)の中の一葉で、色道修行のため豆男に変身した浮世之助(主人公)が陰間茶屋の2階を覗き見している図と、奥村政信の『閨の雛形』(1738)の中の2葉1組を紹介。
いずれも、一見、若旦那と遊女の男女のセックスシーンと見間違えそうであるが、描かれているペニスの数(前者は2人で2本、後者は3人で2本)から、遊女に見えるのは陰間であることを解説。
一般の人が楽しむ女色を中心とした春画シリーズの中に、ごく自然に陰間が描かれていることから、江戸時代における女色と男色の距離は、現代の異性愛と同性愛の距離よりはるかに近かったこと、男色に対する違和感も少なかったことが推測される、と結んだ。
ここまでで45分ほどかかってしまい、ようやく今日のテーマ「トランスジェンダーの社会史(2)-近代の抑圧-」に入る。
第1部は「明治の文明開化と異性装の抑圧」
前近代的な異性装の文化と密接に関係しながら江戸時代に高度に発達した「男色文化」が、明治維新後の近代化(西欧化)の過程で、法的な規制が加えられるなど抑圧が進み、性別越境(トランスジェンダー)的な人々はアンダーグラウンド化していったこと、明治維新と文明開化は、異性装者にとって厳しい社会的抑圧の始まりだったことを述べる。
まず、明治5年(1872)の違式かい(言+圭の字)違条例による異性装習俗の禁止について説明。
異性装の風習は、男女混浴、立ち小便、裸体歩行、刺青などと同様に、明治の為政者たちが外国人の目に触れさせたくない恥ずべき風習のひとつであったことを解説。
次に、明治7年(1875)10月2日の『東京日々新聞』に掲載された香川県三木郡保元村の塗師早蔵の「妻」お乙が、戸籍作成の際に、実は本名乙吉という男性であることが露見し、結婚を無効にされてしまった話を紹介。
近代的な戸籍制度の成立による個別的な人身把握、婚姻・家制度の確立によって、「女装妻」のような「あいまいな性」の存在が困難になったことを述べる。
さらに、明治6年(1873)の改定律例266条に規定された鶏姦罪によって、肛門性交が法的に禁止され、違反者は懲役90日の重罪とされたことを紹介。
事例として、明治14年(1881)に元女形の茶屋「女」が、女と思い込んでいた人力車夫と性行為に及び、男性であることが露見し、鶏姦罪で懲役90日に処せられた話を紹介。
「女」としての性行動をもつ定常的な異性装(女装)者にとって、鶏姦罪の存在は違式かい違条例とともに二重の強い抑圧だったことを説明する。
ここまでで、時間となってしまい、大正~昭和戦前期については次回に持ち越し。
今日の授業後の質問「陰間茶屋の客には女性もいたというお話でしたが、そうした女性を顧客とする(今のホストクラブのような)サービス業は、明治以降も存在したのでしょうか?」。
お返事「アンダーグラウンドでは皆無とはいえませんが、少なくとも『茶屋』のような店舗形態の業態は存在しませんでした。そうした点でも、江戸時代と明治以降の性風俗文化にはかなり断絶があったと思います」。
帰路は、池袋経由。
19時10分、学芸大学駅に着く。
東口商店街の居酒屋「一善」へ。
生ビール1杯、ウーロン茶2杯。
肴は、ほうぼうの刺身、湯豆腐、きんぴらごぼう。
今日は、お昼抜きだったので、最後にポークカレーでお腹を満たす。
22時30分、仕事場に戻る。
お風呂を入れて、ゆっくりつかり、身体のあちこちのメンテナンス。
明日からの京都出張の準備を確認。
就寝2時。
2005年11月18日 お茶の水女子大学講義(6回目) [大学講義(お茶の水女子大学)]
2005年11月18日 お茶の水女子大学講義(6回目)
11月18日(金) 晴れ
10時半、起床。
朝ご飯は、いつものようにトースト1枚、生ハム4枚、きゅうり&レタス。
12時、仕事場へ。
メールチェックだけして、身支度。
髪はアップにまとめる(お茶大では初めて)。
着物は、小豆色の縞お召。
帯は、黒地に菊花。
半襟は緑系。帯揚は更紗模様の茜染。帯締は山吹色。
今シーズン初めて黒のファーのマントをまとう
14時、家を出て、霞ヶ関駅経由でお茶大へ。
レジュメのコピーの都合でいつもより約1時間早い。
早速、レジュメを印刷。
A4版8枚、A3版2枚を各々90枚を約40分かけて印刷。
途中のドトール・コーヒーで買ってきたチキン卵ベーグルサンドとコーヒーで遅い昼食。
16時過ぎ、出勤簿に押印のためジェンダー研究センターに寄る。
伊藤るり先生の研究室の入口に「北平ビール」(原文は「口」偏に「卑」+酒)のポスターが貼ってある。
色調に焼けがなく状態が良いので複製品かと思ったが、よく見るとオリジナルのように思われる。
北京を「北平」と表記していることから中華民国時代のもの。
絵柄はチャイナドレスの美女がジョッキを持っている。
顔立ちが李香蘭に似ているように思う。
もし1940年以前のものだったらけっこう珍しいものではないかと思う。
16時40分、講義開始。
学園祭で1週、間が空いてしまったが、今日から歴史篇「トランスジェンダーの社会史(1)-前近代日本の異性装者たち-」。
1.女装の建国英雄ヤマトタケル -日本神話の女装観-
『古事記』『日本書紀』に語られるヤマトタケル(小碓命 おうすのみこと)の熊曾征討の物語を紹介し、その重要なモチーフになっているヤマトタケルの女装の意味を考える。
女装姿で熊襲タケル兄弟を倒したヤマトタケルは、知略と武勇に富み美しく凛々しい少年英雄としてイメージされていて、そこには、男性が女装することを卑しむマイナスの価値観はまったく見られないこと。
巫女であったとも伝えられる叔母の倭比売命の衣装を身につけることについては、彼女のもつ霊的な力を仮に授かるためとする説もあるが、それならば鏡とか勾玉とか、霊的な象徴を授かればよいのであって、衣装一式をたまわって完全女装する必然性はなく、日本神話を語った7世紀のヤマトの人たちは、男性が女装することそのものに意味を持たせているように思われること。
女装は単に敵を油断させる策略ではなく、女装することによって男でも女でもない一種の超越した存在となり、通常の男性がなし得ないような特異なパワーを身につけることができると考えられたと推測できることなどを指摘。
また、『日本書紀』には、川上梟帥(かわかみのたける)が宴席で少女の姿の小碓命の容姿を気に入り身体を「戯ふれ弄(まざ)く」ったことが記されているが、常識的に考えれば、身体をまざくった時点で、それが少女ではなく女装した少年であることに気がついたはず。
ところが、川上梟帥はそのまま少女を傍らに置き、夜が更けるまで宴会を続けたのは、川上梟帥にとっては、相手が少女でも、女装の少年でも、どちらでもよかったのではないか。そこに少女と女装の少年の互換性が読み取れることを述べる。
さらに、ヤマトタケルが熊襲タケル弟を殺すとき、剣を尻から刺し通したことも暗示的で、あるいは、それはヤマトタケルが熊襲建兄弟にされた性的行為(アナルセックス)の仕返しという意味をもつのかもしれないと推測。
女装姿のヤマトタケルが熊襲タケルに剣を振り下ろす場面を描いた三重県鈴鹿市の加佐登神社の絵馬(明治36年=1903)を紹介。
明治という男権的な時代になっても、建国の英雄とされる人物がこのような女装姿で民衆の間にイメージされていたということは、とても興味深いこと。
そこには女装した者を蔑視する視線はなく、日本神話の歴史的事実性はともかく、少なくともそれを語り読み伝えた人たちにとっては、女装は決して忌避すべき「変態」的な行為ではなかったことを解説した。
2.双性の巫人-弥生時代の女装のシャーマン-
九州の種子島(鹿児島県)の広田遺跡(弥生時代前期末)の墓地に女性シャーマン(女巫)と同様の豪華な貝製装身具を身につけて葬られていた男性人骨を、考古学者の国分直一氏が、身体的には男性でありながら、女性巫人と同様な身なりで、宗教的な行為に携わった女装のシャーマン(双性の巫人)のものと推測していることを紹介する。
その上で、近現代の民俗調査例として、1960年代の奄美大島の名瀬市にいた化粧してしゃべり方や歩き方が女のような男ユタは、若いころには、髪も長く伸ばし緋色の袴をつけていた女装のユタがいたこと。
同じころトカラ列島の悪石島にも、歩き方や座り方などのしぐさは女性的であり、外出の時には化粧をする「おとこおんな」と呼ばれる女装のユタ3人がいて、女性の巫女(ネーシ)よりも霊力が高いと考えられていたことなどを紹介。
これら事例から、南西諸島における女装の巫人の伝統が推測できること。
それは、南西諸島の特異事例ではなく、日本列島広く分布していた女装の巫人、トランスジェンダーやインターセックスのような男女の中間的要素をもつ人に、一般の男性や女性を超越する能力(霊力)を認める文化が、周縁的に残存した可能性があることを指摘した。
3.持者-中世社会における女装巫人の系譜-
『鶴岡放生会職人歌合』(弘長元年=1261頃成立)と『七十一番職人歌合』(1500年成立)に見える「持者(地しゃ)」と呼ばれる正体が明らかでない「職人」について検討する。
『鶴岡放生会職人歌合』の「持者」の絵は、網格子に赤白の椿の花を散らした華麗な小袖風の衣料をまとい、白い布で髪を包むという当時の女性に一般的な装束であるが、よく見ると口元に髭が描かれており、眉の形も女性のものではない。
絵に添えられた詠歌(恋)は、「なべてには 恋の心も かわるらん まことはうなひ かりはおとめご」で、「実はうなひ(髫髪=うなじのあたりで切り揃えた髪形)」であるが「仮は乙女子」と詠っていることから、女装した男性であることがわかること。
また、詠歌(月)に「神の宮つこ(御奴)」とあることから、鶴岡八幡宮に仕えていたこと、また「相人」(人相を占う人)と番えられていることからも宗教的な職業と推測されること。
『七十一番職人歌合』の「持者」の絵は、首から数珠を下げた巫女スタイルで民間の宗教者のイメージで、垂髪も眉も女性そのものであり、絵からは女装した男性である要素は見当たらないが、詠歌(恋)は「いかにして けうとく人の 思ふらん 我も女の まねかたぞかし」で、「女のまねかた(模型)」とあることから、やはり女装の男性であることがわかる。
「持者」は古辞書には見えないが、『改正増補和英語林集成』には「Jisha ジシャ まじないによって悪霊を退散させる巫女」とあって、宗教的な職業であろうという推測を裏付ける。
中世社会における「持者」の実像は、文献資料に乏しくいまひとつ明らかではないが、『鶴岡放生会職人歌合』『七十一番職人歌合』から、この時代に「持者」と呼ばれた女装の宗教者が存在したことは間違いなく、それは、遠く弥生時代から続く女装の巫人の系譜に連なるものと思われることを述べた。
4.女装の稚児-中世寺院社会における女装の少年-
中世の寺院社会において、ほとんど女装で師僧の身の回りの世話を務めるとともに、その寵愛の対象となる稚児がいたことを紹介する。
鎌倉時代後期に描かれた『春日権現験記絵』の白河上皇の春日社御幸の場面には、上皇の到着を迎えて居並ぶ裹頭袈裟、鈍色の僧衣姿の興福寺の衆徒たちに混じって、朱、紅、緑など色鮮やかな装束の稚児の姿が描かれている。
一般に、元服前の少年の衣料は水干であるが、ここに見える稚児の装束は、肩の丸みや裾の長さなどから女性の衣料である美麗な小袿(こうちぎ)であり、脚にはやはり女性の履物である「藺げげ」を履いている。
また髪も長く伸ばした垂髪を元結で束ねていると思われ、女性の髪形そのもので、中には地に届くほどの見事な垂髪の稚児もいる。
このような稚児の姿は、明かに女装であり、「童」の姿には、少年装と女装の2パターンがあったことがわかる。
また、稚児が「大人(男)」や僧侶の性愛の対象となった点について、一般的にはそれを男性同性愛(ホモセクシュアル)の類型と考えるが、少年装の稚児についてはそうであっても、女装の稚児についてはそれだけでは説明できない。
女性との接触が戒律的にタブーであり、女性が存在し得ない寺院社会において、女装の稚児は女の形をした女性の互換者として認識されていた。
つまり、女装の稚児は、身体的には少年(男性)であっても、女性との互換性が強く意識されジェンダー的には「女」して扱われていたと考えられる。
とするならば、それは男性同性愛(ホモセクシュアル)ではなく、異性愛の擬態(擬似ヘテロセクシュアル)として理解すべきであることを指摘した。
こんな感じで、弥生時代から中世までを一気に話してしまう。
ポイントは、性別越境者(トランスジェンダー)の宗教的職能(「神性」の伝統)ということになるだろう。
江戸時代の「陰間」の話は次回に持ち越し。
今日の授業後の質問。
「中世寺院の女装の稚児は、江戸時代の寺院には受け継がれなかったのですか?」
お返事。
「寺院の内に女装の稚児を置くという形では受け継がれません。次回、お話しますが、性愛関係のみを陰間茶屋に外注(アウトソーシング)する形になります。そうした点でも、中世寺院と江戸時代の寺院の間の変質(断絶)はかなり大きなものがあると思います」
11月18日(金) 晴れ
10時半、起床。
朝ご飯は、いつものようにトースト1枚、生ハム4枚、きゅうり&レタス。
12時、仕事場へ。
メールチェックだけして、身支度。
髪はアップにまとめる(お茶大では初めて)。
着物は、小豆色の縞お召。
帯は、黒地に菊花。
半襟は緑系。帯揚は更紗模様の茜染。帯締は山吹色。
今シーズン初めて黒のファーのマントをまとう
14時、家を出て、霞ヶ関駅経由でお茶大へ。
レジュメのコピーの都合でいつもより約1時間早い。
早速、レジュメを印刷。
A4版8枚、A3版2枚を各々90枚を約40分かけて印刷。
途中のドトール・コーヒーで買ってきたチキン卵ベーグルサンドとコーヒーで遅い昼食。
16時過ぎ、出勤簿に押印のためジェンダー研究センターに寄る。
伊藤るり先生の研究室の入口に「北平ビール」(原文は「口」偏に「卑」+酒)のポスターが貼ってある。
色調に焼けがなく状態が良いので複製品かと思ったが、よく見るとオリジナルのように思われる。
北京を「北平」と表記していることから中華民国時代のもの。
絵柄はチャイナドレスの美女がジョッキを持っている。
顔立ちが李香蘭に似ているように思う。
もし1940年以前のものだったらけっこう珍しいものではないかと思う。
16時40分、講義開始。
学園祭で1週、間が空いてしまったが、今日から歴史篇「トランスジェンダーの社会史(1)-前近代日本の異性装者たち-」。
1.女装の建国英雄ヤマトタケル -日本神話の女装観-
『古事記』『日本書紀』に語られるヤマトタケル(小碓命 おうすのみこと)の熊曾征討の物語を紹介し、その重要なモチーフになっているヤマトタケルの女装の意味を考える。
女装姿で熊襲タケル兄弟を倒したヤマトタケルは、知略と武勇に富み美しく凛々しい少年英雄としてイメージされていて、そこには、男性が女装することを卑しむマイナスの価値観はまったく見られないこと。
巫女であったとも伝えられる叔母の倭比売命の衣装を身につけることについては、彼女のもつ霊的な力を仮に授かるためとする説もあるが、それならば鏡とか勾玉とか、霊的な象徴を授かればよいのであって、衣装一式をたまわって完全女装する必然性はなく、日本神話を語った7世紀のヤマトの人たちは、男性が女装することそのものに意味を持たせているように思われること。
女装は単に敵を油断させる策略ではなく、女装することによって男でも女でもない一種の超越した存在となり、通常の男性がなし得ないような特異なパワーを身につけることができると考えられたと推測できることなどを指摘。
また、『日本書紀』には、川上梟帥(かわかみのたける)が宴席で少女の姿の小碓命の容姿を気に入り身体を「戯ふれ弄(まざ)く」ったことが記されているが、常識的に考えれば、身体をまざくった時点で、それが少女ではなく女装した少年であることに気がついたはず。
ところが、川上梟帥はそのまま少女を傍らに置き、夜が更けるまで宴会を続けたのは、川上梟帥にとっては、相手が少女でも、女装の少年でも、どちらでもよかったのではないか。そこに少女と女装の少年の互換性が読み取れることを述べる。
さらに、ヤマトタケルが熊襲タケル弟を殺すとき、剣を尻から刺し通したことも暗示的で、あるいは、それはヤマトタケルが熊襲建兄弟にされた性的行為(アナルセックス)の仕返しという意味をもつのかもしれないと推測。
女装姿のヤマトタケルが熊襲タケルに剣を振り下ろす場面を描いた三重県鈴鹿市の加佐登神社の絵馬(明治36年=1903)を紹介。
明治という男権的な時代になっても、建国の英雄とされる人物がこのような女装姿で民衆の間にイメージされていたということは、とても興味深いこと。
そこには女装した者を蔑視する視線はなく、日本神話の歴史的事実性はともかく、少なくともそれを語り読み伝えた人たちにとっては、女装は決して忌避すべき「変態」的な行為ではなかったことを解説した。
2.双性の巫人-弥生時代の女装のシャーマン-
九州の種子島(鹿児島県)の広田遺跡(弥生時代前期末)の墓地に女性シャーマン(女巫)と同様の豪華な貝製装身具を身につけて葬られていた男性人骨を、考古学者の国分直一氏が、身体的には男性でありながら、女性巫人と同様な身なりで、宗教的な行為に携わった女装のシャーマン(双性の巫人)のものと推測していることを紹介する。
その上で、近現代の民俗調査例として、1960年代の奄美大島の名瀬市にいた化粧してしゃべり方や歩き方が女のような男ユタは、若いころには、髪も長く伸ばし緋色の袴をつけていた女装のユタがいたこと。
同じころトカラ列島の悪石島にも、歩き方や座り方などのしぐさは女性的であり、外出の時には化粧をする「おとこおんな」と呼ばれる女装のユタ3人がいて、女性の巫女(ネーシ)よりも霊力が高いと考えられていたことなどを紹介。
これら事例から、南西諸島における女装の巫人の伝統が推測できること。
それは、南西諸島の特異事例ではなく、日本列島広く分布していた女装の巫人、トランスジェンダーやインターセックスのような男女の中間的要素をもつ人に、一般の男性や女性を超越する能力(霊力)を認める文化が、周縁的に残存した可能性があることを指摘した。
3.持者-中世社会における女装巫人の系譜-
『鶴岡放生会職人歌合』(弘長元年=1261頃成立)と『七十一番職人歌合』(1500年成立)に見える「持者(地しゃ)」と呼ばれる正体が明らかでない「職人」について検討する。
『鶴岡放生会職人歌合』の「持者」の絵は、網格子に赤白の椿の花を散らした華麗な小袖風の衣料をまとい、白い布で髪を包むという当時の女性に一般的な装束であるが、よく見ると口元に髭が描かれており、眉の形も女性のものではない。
絵に添えられた詠歌(恋)は、「なべてには 恋の心も かわるらん まことはうなひ かりはおとめご」で、「実はうなひ(髫髪=うなじのあたりで切り揃えた髪形)」であるが「仮は乙女子」と詠っていることから、女装した男性であることがわかること。
また、詠歌(月)に「神の宮つこ(御奴)」とあることから、鶴岡八幡宮に仕えていたこと、また「相人」(人相を占う人)と番えられていることからも宗教的な職業と推測されること。
『七十一番職人歌合』の「持者」の絵は、首から数珠を下げた巫女スタイルで民間の宗教者のイメージで、垂髪も眉も女性そのものであり、絵からは女装した男性である要素は見当たらないが、詠歌(恋)は「いかにして けうとく人の 思ふらん 我も女の まねかたぞかし」で、「女のまねかた(模型)」とあることから、やはり女装の男性であることがわかる。
「持者」は古辞書には見えないが、『改正増補和英語林集成』には「Jisha ジシャ まじないによって悪霊を退散させる巫女」とあって、宗教的な職業であろうという推測を裏付ける。
中世社会における「持者」の実像は、文献資料に乏しくいまひとつ明らかではないが、『鶴岡放生会職人歌合』『七十一番職人歌合』から、この時代に「持者」と呼ばれた女装の宗教者が存在したことは間違いなく、それは、遠く弥生時代から続く女装の巫人の系譜に連なるものと思われることを述べた。
4.女装の稚児-中世寺院社会における女装の少年-
中世の寺院社会において、ほとんど女装で師僧の身の回りの世話を務めるとともに、その寵愛の対象となる稚児がいたことを紹介する。
鎌倉時代後期に描かれた『春日権現験記絵』の白河上皇の春日社御幸の場面には、上皇の到着を迎えて居並ぶ裹頭袈裟、鈍色の僧衣姿の興福寺の衆徒たちに混じって、朱、紅、緑など色鮮やかな装束の稚児の姿が描かれている。
一般に、元服前の少年の衣料は水干であるが、ここに見える稚児の装束は、肩の丸みや裾の長さなどから女性の衣料である美麗な小袿(こうちぎ)であり、脚にはやはり女性の履物である「藺げげ」を履いている。
また髪も長く伸ばした垂髪を元結で束ねていると思われ、女性の髪形そのもので、中には地に届くほどの見事な垂髪の稚児もいる。
このような稚児の姿は、明かに女装であり、「童」の姿には、少年装と女装の2パターンがあったことがわかる。
また、稚児が「大人(男)」や僧侶の性愛の対象となった点について、一般的にはそれを男性同性愛(ホモセクシュアル)の類型と考えるが、少年装の稚児についてはそうであっても、女装の稚児についてはそれだけでは説明できない。
女性との接触が戒律的にタブーであり、女性が存在し得ない寺院社会において、女装の稚児は女の形をした女性の互換者として認識されていた。
つまり、女装の稚児は、身体的には少年(男性)であっても、女性との互換性が強く意識されジェンダー的には「女」して扱われていたと考えられる。
とするならば、それは男性同性愛(ホモセクシュアル)ではなく、異性愛の擬態(擬似ヘテロセクシュアル)として理解すべきであることを指摘した。
こんな感じで、弥生時代から中世までを一気に話してしまう。
ポイントは、性別越境者(トランスジェンダー)の宗教的職能(「神性」の伝統)ということになるだろう。
江戸時代の「陰間」の話は次回に持ち越し。
今日の授業後の質問。
「中世寺院の女装の稚児は、江戸時代の寺院には受け継がれなかったのですか?」
お返事。
「寺院の内に女装の稚児を置くという形では受け継がれません。次回、お話しますが、性愛関係のみを陰間茶屋に外注(アウトソーシング)する形になります。そうした点でも、中世寺院と江戸時代の寺院の間の変質(断絶)はかなり大きなものがあると思います」
2005年11月04日 お茶の水女子大学講義(5回目) [大学講義(お茶の水女子大学)]
2005年11月04日 お茶の水女子大学講義(5回目)
11月4日(金) 晴れ
6時半、起床。
昨夜より少し良くなったとはいえ相変わらず痛む胃をさすりながら、昨夜できなかったレジュメの仕上げ作業(図版の貼り込み)。
せっかく早く起きたので、次回(11日が学園祭準備で休講なので18日の分)のレジュメも作成してしまうことにする。
原稿を手直しして、プリントアウト。
その後、図版を貼り込み、10時半に作業完了。
朝昼ご飯は、胃が痛いので柔らかなパンにバターとジャムを付けて少し食べただけ。
12時、仕事場へ。
メールチェック、サイトの巡回など。
13時、身支度。
着物は大好きな黄金色の黄八丈。
今シーズン初のお目見え。
シュッシュという絹擦れの音が心地よい。
長襦袢は、これもお気に入りの緑の地にかわいい簪模様。
帯は、錆朱に金彩。
半襟、帯揚、帯締は緑系で統一。
着物を着たら、なぜか胃痛が軽減した。
15時、家を出て、霞ヶ関駅経由でお茶大へ。
守衛さんが、私の姿を認めるなり、サッと手を帽子のツバにやり敬礼してくれた。
覚えてもらえたんだなぁ(← そりゃあ、そうだろう)と思うと、ちょっとうれしい。
いつものようにレジュメを印刷。
リソグラフのマスター交換に手間取る。
16時20分、出勤簿に押印のためジェンダー研究センターに寄ると、履修名簿が届いていた。
なんと101名!。
道理で86部レジュメを作っているのに足りなくなるはずだ。
しかも1年生がかなりいる。
1年生にこんな「ジェンダー特論」を聴かせてしまってよかったのだろうか?
16時40分、講義開始。
前回、途中で終わってしまった「トランスジェンダーと社会性」の内の、空間性(場)によるトランスジェンダー(異性装)のパターンの解説の続き。
(5)一般社会(Nonpass-TG=街中の女装者、学校・職場のTG)、(6)個室・閉鎖的な場(女装クラブでの女装、個人の部屋での女装)について図版を見ながら解説。
そして、日常空間(一般社会)を場とし、かつトランスジェンダー(異性装)であることが視認できるNonpass-TGこそが、トランスジェンダーとして最も高い社会性をもち、したがって、社会の性別に関する規制を最も強く受けること。
具体的には、性別二分システムが貫徹している場(男女別に設定されている専有空間。トイレ、 更衣室、公衆浴場)の利用に困難が生じること。
「街中の女装者」のヴィシビリティ(Visibility=目の前に存在すること)のインパクトは強烈で、男性でも女性でもない人間の存在は、個人の性別認識をゆさぶり、性自認のゆらぎを増幅すること(一般に女装者に対しては、男性は拒絶的、女性は親和的傾向が強く現れる)。
また、社会に対しては、男女二分制社会の矛盾と虚構性をあぶり出す「触媒」、男女二分的枠組みの震動装置として機能すること。
こうしたトランスジェンダー(異性装者)が生み出す社会的インパクト(「ゆらぎ」の増幅機能) を危険視する考え方は、古来から現代まで、為政者・権力者には根強く存在し、それが異性装者差別・弾圧の根本的な理由であること、などを述べる。
続いて、インドのヒジュラ(Hijra)、アメリカ・先住民社会のベルダーシュ(Berdashe)、インドネシア(南スラウェシ)のチャラバイ(Calabai)、メキシコ南部(フチタン)のムシェなど、世界各地の第三ジェンダー(Third Gender)の存在を、図版を参照しながら解説する。
そして、性別を越境する、あるいは男と女の中間的な文化要素を身につけて、特有の社会的役割を果たし ている人々は、世界各地に広く存在したこと。
こうした人々は、神・祭への奉仕者、神と人との仲介者、社会的弱者である女性の相談役、男女の仲介者(ジェンダーの緩衝装置)としての社会的機能をもっていたこと。
しかし、植民地支配による西欧キリスト教文明の浸透と、近代化によって第三ジェンダーは固有の社会的役割を失い、西欧近代文化の文脈に読み替えられて(ホモセクシュアル[ゲイ/レズビアン]と同一視)次第に本来の姿を失っていったこと。
第三ジェンダー(社会によっては第四ジェンダーまで)を設定する社会が世界各地に広 範に存在したことは、ジェンダーを単純に男女に二分する考えもまた、相対的な文化的所産であることを物語っていること、などを述べる。
ついでに、中国の相公(Xiang-Gong MTFのトランスジェンダーであるが去勢はしない)と宦官(去勢はするがジェンダー的には男性)を例に、ジェンダーの女性化と身体の去勢(男性器・生殖能力の除去)は必ずしも伴わないことを説明する(インドのヒジュラのように両者が伴うこともある)。
最後に、トランスジェンダーの職能について。
トランスジェンダーの職能は、(1)宗教的職能、(2)芸能的職能、(3)飲食接客的職能、(4)性的サービス的職能(セックス・ワーク)、(5)男女の仲介者的機能(ジェンダーの緩衝装置)の5つに大きく分けられることを具体例を挙げて解説。
その後、それらが歴史的にどのように展開したのか簡単な仮説を述べる。
そして、性別越境者たちは、これらの5つの職能を駆使して、困難な社会環境の中で偏見と差別に抗しながら必死に生をつないできた、と結んだ
最後、ちょっと急ぎ足になったが、これでいっぱいいっぱい。
結局、今日、配布したレジュメには入れなかった。
今日の授業後の質問。
「ヨーロッパでは、第3ジェンダーの事例はまったく報告されていないのですか?」
私の知る限り、明確な第3ジェンダーの事例は報告されていないと思う。
キリスト教化される以前のヨーロッパ世界には第3ジェンダー的なものがあったかもしれない。
それはおそらくシャーマニズム的なものと結び付いていたと思う。
しかし、キリスト教化後の長年にわたる異教的なものへの弾圧・抹殺の結果、痕跡すら認められなくなっているのかもしれない。
シャーマニズムに興味のある学生さん「シャーマニズムは北方ユーラシアで顕著にみられると思うが、例えばシベリアのシャーマンなどには第3ジェンダー的なものは観察されないのですか」
皆無ではないかもしれないが、はっきりした形は認められないように思う。
シベリアのシャーマンは、異装ではあっても異性装とは言えないのではないか。
いずれにしても、何かわかったら教えて欲しい。
講義終了後、慶応義塾大学から聴講に来てくれたM島さんと、茗荷谷駅上の「ジョナサン」に寄り、コーヒーを飲みながら、1時間半ほど卒業研究のアドバイスとおしゃべり。
帰路は池袋経由。
21時20分、学芸大学駅に戻る。
いつものパターンで、東口商店街の行きつけの居酒屋「一善」へ。
常連のお客さんとおしゃべりしながら、生ビールとウーロン茶を1杯ずつ。
肴は、かつおの刺身と肉豆腐。
23時、仕事場へ戻る。
朝が早かったのでかなり疲労。
お風呂に入る元気もなく、化粧だけ落としてベッドへ。
新聞を読んでいるうちに眠ってしまう。
就寝1時半ごろ(仕事場)。
11月4日(金) 晴れ
6時半、起床。
昨夜より少し良くなったとはいえ相変わらず痛む胃をさすりながら、昨夜できなかったレジュメの仕上げ作業(図版の貼り込み)。
せっかく早く起きたので、次回(11日が学園祭準備で休講なので18日の分)のレジュメも作成してしまうことにする。
原稿を手直しして、プリントアウト。
その後、図版を貼り込み、10時半に作業完了。
朝昼ご飯は、胃が痛いので柔らかなパンにバターとジャムを付けて少し食べただけ。
12時、仕事場へ。
メールチェック、サイトの巡回など。
13時、身支度。
着物は大好きな黄金色の黄八丈。
今シーズン初のお目見え。
シュッシュという絹擦れの音が心地よい。
長襦袢は、これもお気に入りの緑の地にかわいい簪模様。
帯は、錆朱に金彩。
半襟、帯揚、帯締は緑系で統一。
着物を着たら、なぜか胃痛が軽減した。
15時、家を出て、霞ヶ関駅経由でお茶大へ。
守衛さんが、私の姿を認めるなり、サッと手を帽子のツバにやり敬礼してくれた。
覚えてもらえたんだなぁ(← そりゃあ、そうだろう)と思うと、ちょっとうれしい。
いつものようにレジュメを印刷。
リソグラフのマスター交換に手間取る。
16時20分、出勤簿に押印のためジェンダー研究センターに寄ると、履修名簿が届いていた。
なんと101名!。
道理で86部レジュメを作っているのに足りなくなるはずだ。
しかも1年生がかなりいる。
1年生にこんな「ジェンダー特論」を聴かせてしまってよかったのだろうか?
16時40分、講義開始。
前回、途中で終わってしまった「トランスジェンダーと社会性」の内の、空間性(場)によるトランスジェンダー(異性装)のパターンの解説の続き。
(5)一般社会(Nonpass-TG=街中の女装者、学校・職場のTG)、(6)個室・閉鎖的な場(女装クラブでの女装、個人の部屋での女装)について図版を見ながら解説。
そして、日常空間(一般社会)を場とし、かつトランスジェンダー(異性装)であることが視認できるNonpass-TGこそが、トランスジェンダーとして最も高い社会性をもち、したがって、社会の性別に関する規制を最も強く受けること。
具体的には、性別二分システムが貫徹している場(男女別に設定されている専有空間。トイレ、 更衣室、公衆浴場)の利用に困難が生じること。
「街中の女装者」のヴィシビリティ(Visibility=目の前に存在すること)のインパクトは強烈で、男性でも女性でもない人間の存在は、個人の性別認識をゆさぶり、性自認のゆらぎを増幅すること(一般に女装者に対しては、男性は拒絶的、女性は親和的傾向が強く現れる)。
また、社会に対しては、男女二分制社会の矛盾と虚構性をあぶり出す「触媒」、男女二分的枠組みの震動装置として機能すること。
こうしたトランスジェンダー(異性装者)が生み出す社会的インパクト(「ゆらぎ」の増幅機能) を危険視する考え方は、古来から現代まで、為政者・権力者には根強く存在し、それが異性装者差別・弾圧の根本的な理由であること、などを述べる。
続いて、インドのヒジュラ(Hijra)、アメリカ・先住民社会のベルダーシュ(Berdashe)、インドネシア(南スラウェシ)のチャラバイ(Calabai)、メキシコ南部(フチタン)のムシェなど、世界各地の第三ジェンダー(Third Gender)の存在を、図版を参照しながら解説する。
そして、性別を越境する、あるいは男と女の中間的な文化要素を身につけて、特有の社会的役割を果たし ている人々は、世界各地に広く存在したこと。
こうした人々は、神・祭への奉仕者、神と人との仲介者、社会的弱者である女性の相談役、男女の仲介者(ジェンダーの緩衝装置)としての社会的機能をもっていたこと。
しかし、植民地支配による西欧キリスト教文明の浸透と、近代化によって第三ジェンダーは固有の社会的役割を失い、西欧近代文化の文脈に読み替えられて(ホモセクシュアル[ゲイ/レズビアン]と同一視)次第に本来の姿を失っていったこと。
第三ジェンダー(社会によっては第四ジェンダーまで)を設定する社会が世界各地に広 範に存在したことは、ジェンダーを単純に男女に二分する考えもまた、相対的な文化的所産であることを物語っていること、などを述べる。
ついでに、中国の相公(Xiang-Gong MTFのトランスジェンダーであるが去勢はしない)と宦官(去勢はするがジェンダー的には男性)を例に、ジェンダーの女性化と身体の去勢(男性器・生殖能力の除去)は必ずしも伴わないことを説明する(インドのヒジュラのように両者が伴うこともある)。
最後に、トランスジェンダーの職能について。
トランスジェンダーの職能は、(1)宗教的職能、(2)芸能的職能、(3)飲食接客的職能、(4)性的サービス的職能(セックス・ワーク)、(5)男女の仲介者的機能(ジェンダーの緩衝装置)の5つに大きく分けられることを具体例を挙げて解説。
その後、それらが歴史的にどのように展開したのか簡単な仮説を述べる。
そして、性別越境者たちは、これらの5つの職能を駆使して、困難な社会環境の中で偏見と差別に抗しながら必死に生をつないできた、と結んだ
最後、ちょっと急ぎ足になったが、これでいっぱいいっぱい。
結局、今日、配布したレジュメには入れなかった。
今日の授業後の質問。
「ヨーロッパでは、第3ジェンダーの事例はまったく報告されていないのですか?」
私の知る限り、明確な第3ジェンダーの事例は報告されていないと思う。
キリスト教化される以前のヨーロッパ世界には第3ジェンダー的なものがあったかもしれない。
それはおそらくシャーマニズム的なものと結び付いていたと思う。
しかし、キリスト教化後の長年にわたる異教的なものへの弾圧・抹殺の結果、痕跡すら認められなくなっているのかもしれない。
シャーマニズムに興味のある学生さん「シャーマニズムは北方ユーラシアで顕著にみられると思うが、例えばシベリアのシャーマンなどには第3ジェンダー的なものは観察されないのですか」
皆無ではないかもしれないが、はっきりした形は認められないように思う。
シベリアのシャーマンは、異装ではあっても異性装とは言えないのではないか。
いずれにしても、何かわかったら教えて欲しい。
講義終了後、慶応義塾大学から聴講に来てくれたM島さんと、茗荷谷駅上の「ジョナサン」に寄り、コーヒーを飲みながら、1時間半ほど卒業研究のアドバイスとおしゃべり。
帰路は池袋経由。
21時20分、学芸大学駅に戻る。
いつものパターンで、東口商店街の行きつけの居酒屋「一善」へ。
常連のお客さんとおしゃべりしながら、生ビールとウーロン茶を1杯ずつ。
肴は、かつおの刺身と肉豆腐。
23時、仕事場へ戻る。
朝が早かったのでかなり疲労。
お風呂に入る元気もなく、化粧だけ落としてベッドへ。
新聞を読んでいるうちに眠ってしまう。
就寝1時半ごろ(仕事場)。
2005年10月28日 お茶の水女子大学講義(4回目) [大学講義(お茶の水女子大学)]
2005年10月28日 お茶の水女子大学講義(4回目)
10月28日(金) 晴れのち曇り
9時、起床。
朝昼ご飯は、トースト1枚、スモークサーモン3枚、レタス。
11時、仕事場へ。
メールチェックなど。
12時、いつもの金曜日より1時間半早く身支度。
黒地に赤で大輪の菊を織り出した足利銘仙。
長襦袢は、緑に白の麻の葉柄の半襟をつけた飛び兎柄の黄金色。
帯は、黒と銀の鱗。
帯揚は辛子色、帯締は山吹色。
13時半、家を出て、霞ヶ関駅経由でお茶大へ。
レジュメを印刷。
今日は、A3のコピーがあるので、事務室に寄ってコピーカードをもらい、86部刷る。
15時過ぎ、出勤簿に押印のためジェンダー研究所に寄ると、小林富久子先生(早稲田大学教授)がいらっしゃる。
お茶を飲みながら、しばらく雑談。
15時30分、先生といっしょに図書館第2会議室に移動して、「映像表現とジェンダー」研究会に出席。
今日の研究会は、館かおる教授の解説で「迎春花」(満州映画制作会社・松竹京都合作、佐々木康演出 1942年)を見る予定。
(中略)
李香蘭が「迎春花」を唄うシーンまで(全体の約半分)見たところで、自分の講義の時間になり、残念ながら途中退出。
16時40分、講義開始。
前回、途中で終わってしまった「トランスジェンダーとは何か」の続き、トランスジェンダーの諸類型から。
フルタイムTGとパートタイムTG、Nonpass-TGとPassed-TG、狭義のトランスジェンダー(TG)とトランスセクシュアル(TS)、トランスベスタイト(Transvestite=TV)などについて解説。
その上で、広義のトランスジェンダーとの包括関係について述べる。
具体的には、トランスセクシュアルの中でほとんどジェンダーの転換を行わないタイプの人や、フェティシズム傾向の強いトランスベスタイトを、広義のトランスジェンダーの中に含めるべきかどうかということ。
続いて、性別越境の諸相-トランスジェンダーの多様性-について。
性的自己のどの要素を、トランス(越境)するかによって、性別越境は様々な有り様を見せる。 それが、トランスジェンダーの多様性につながっていくこと、どのような性別越境の有り様が「正しく」、どれが「間違っている」、あるいは、どの有り様がより「進化」しているか、ということではないことを確認する。
やっと、今日(4回目)のテーマ「トランスジェンダーと社会性」に入る。
まず、空間性(場)によるトランスジェンダー(異性装)のパターンを図版を参照しながら解説。
(1)祭祀・祭礼(祭りの場における異性装)、(2)演劇・芸術(歌舞伎の女形、大衆演劇の女形、現代の演劇の女形、宝塚歌劇の男役、森村泰昌の美術作品)、(3)ドラァグ・パーティ(ドラァグ・クィーン、ドラァグ・キングのパフォーマンス)、(4)職場=お店(ニューハーフ、ミス・ダンディ)まで説明したところで時間切れ。
予定通りになかなか進まない。
ちょっと欲張りすぎなのだろうか。
今日の授業後の質問。
「性器の手術を望みながら、ジェンダーを転換しないタイプのトランスセクシュアル(TS)の人は、転性願望ではなく、去勢願望との関係から理解できないでしょうか?」
なかなか難しい質問ですぐに適切な返答ができなかったが、今のところ以下のように考えられる。
MTFのTSの中に、「女性になりたい」というよりも「(成人)男性になりたくない」というタイプ、つまり男性としての成熟拒否タイプの人は確かにいる。
去勢願望というものをどう定義するかにもよるが、そういうタイプの人を去勢願望という概念で考えることは可能かもしれない。
しかし、サードジェンダーを許容しない男女どちらかの性二分の社会システムでは、自己認識的にも他者認識的にも、「男性になりたくない」という願望は「女性になりたい」という願望に解釈されてしまう可能が高い。
つまり、転性願望として回収されてしまうことになる。
再び「映像表現とジェンダー」研究会へ。
(中略)
「研究会」終了後、小林先生と茗荷谷駅近くのイタリア・レストラで食事。
きのこのピザ、わたり蟹のパスタ、それにサラダを分けていただく。
料金のわりには、メニューが本格的で、おいしい。
今日の映画のことや、最近のジェンダーをめぐる社会状況などをおしゃべり。
帰路は池袋経由。
20時50分、学芸大学駅に戻る。
駅前で、美容室のインターンらしきお姐ちゃんに「すいません、シャンプーとブローのモデルを探しているのですけどお願いできませんか?」と声をかけられる。
髪が伸びたことを自覚できて、ちょっとうれしかったけど、「ごめんなさいね」と断る。
お姐ちゃん、もっとややこしくない人を選ぼうね。
東口商店街の行きつけの居酒屋「一善」へ。
いつものように常連のお客さんとおしゃべりしながら、生ビールとウーロン茶を1杯ずつ。
夕ご飯は食べたので、肴はさんまのお刺し身だけ。
23時、仕事場へ戻る。
明日のデートのために着物の支度を少し。
就寝2時(仕事場)。
10月28日(金) 晴れのち曇り
9時、起床。
朝昼ご飯は、トースト1枚、スモークサーモン3枚、レタス。
11時、仕事場へ。
メールチェックなど。
12時、いつもの金曜日より1時間半早く身支度。
黒地に赤で大輪の菊を織り出した足利銘仙。
長襦袢は、緑に白の麻の葉柄の半襟をつけた飛び兎柄の黄金色。
帯は、黒と銀の鱗。
帯揚は辛子色、帯締は山吹色。
13時半、家を出て、霞ヶ関駅経由でお茶大へ。
レジュメを印刷。
今日は、A3のコピーがあるので、事務室に寄ってコピーカードをもらい、86部刷る。
15時過ぎ、出勤簿に押印のためジェンダー研究所に寄ると、小林富久子先生(早稲田大学教授)がいらっしゃる。
お茶を飲みながら、しばらく雑談。
15時30分、先生といっしょに図書館第2会議室に移動して、「映像表現とジェンダー」研究会に出席。
今日の研究会は、館かおる教授の解説で「迎春花」(満州映画制作会社・松竹京都合作、佐々木康演出 1942年)を見る予定。
(中略)
李香蘭が「迎春花」を唄うシーンまで(全体の約半分)見たところで、自分の講義の時間になり、残念ながら途中退出。
16時40分、講義開始。
前回、途中で終わってしまった「トランスジェンダーとは何か」の続き、トランスジェンダーの諸類型から。
フルタイムTGとパートタイムTG、Nonpass-TGとPassed-TG、狭義のトランスジェンダー(TG)とトランスセクシュアル(TS)、トランスベスタイト(Transvestite=TV)などについて解説。
その上で、広義のトランスジェンダーとの包括関係について述べる。
具体的には、トランスセクシュアルの中でほとんどジェンダーの転換を行わないタイプの人や、フェティシズム傾向の強いトランスベスタイトを、広義のトランスジェンダーの中に含めるべきかどうかということ。
続いて、性別越境の諸相-トランスジェンダーの多様性-について。
性的自己のどの要素を、トランス(越境)するかによって、性別越境は様々な有り様を見せる。 それが、トランスジェンダーの多様性につながっていくこと、どのような性別越境の有り様が「正しく」、どれが「間違っている」、あるいは、どの有り様がより「進化」しているか、ということではないことを確認する。
やっと、今日(4回目)のテーマ「トランスジェンダーと社会性」に入る。
まず、空間性(場)によるトランスジェンダー(異性装)のパターンを図版を参照しながら解説。
(1)祭祀・祭礼(祭りの場における異性装)、(2)演劇・芸術(歌舞伎の女形、大衆演劇の女形、現代の演劇の女形、宝塚歌劇の男役、森村泰昌の美術作品)、(3)ドラァグ・パーティ(ドラァグ・クィーン、ドラァグ・キングのパフォーマンス)、(4)職場=お店(ニューハーフ、ミス・ダンディ)まで説明したところで時間切れ。
予定通りになかなか進まない。
ちょっと欲張りすぎなのだろうか。
今日の授業後の質問。
「性器の手術を望みながら、ジェンダーを転換しないタイプのトランスセクシュアル(TS)の人は、転性願望ではなく、去勢願望との関係から理解できないでしょうか?」
なかなか難しい質問ですぐに適切な返答ができなかったが、今のところ以下のように考えられる。
MTFのTSの中に、「女性になりたい」というよりも「(成人)男性になりたくない」というタイプ、つまり男性としての成熟拒否タイプの人は確かにいる。
去勢願望というものをどう定義するかにもよるが、そういうタイプの人を去勢願望という概念で考えることは可能かもしれない。
しかし、サードジェンダーを許容しない男女どちらかの性二分の社会システムでは、自己認識的にも他者認識的にも、「男性になりたくない」という願望は「女性になりたい」という願望に解釈されてしまう可能が高い。
つまり、転性願望として回収されてしまうことになる。
再び「映像表現とジェンダー」研究会へ。
(中略)
「研究会」終了後、小林先生と茗荷谷駅近くのイタリア・レストラで食事。
きのこのピザ、わたり蟹のパスタ、それにサラダを分けていただく。
料金のわりには、メニューが本格的で、おいしい。
今日の映画のことや、最近のジェンダーをめぐる社会状況などをおしゃべり。
帰路は池袋経由。
20時50分、学芸大学駅に戻る。
駅前で、美容室のインターンらしきお姐ちゃんに「すいません、シャンプーとブローのモデルを探しているのですけどお願いできませんか?」と声をかけられる。
髪が伸びたことを自覚できて、ちょっとうれしかったけど、「ごめんなさいね」と断る。
お姐ちゃん、もっとややこしくない人を選ぼうね。
東口商店街の行きつけの居酒屋「一善」へ。
いつものように常連のお客さんとおしゃべりしながら、生ビールとウーロン茶を1杯ずつ。
夕ご飯は食べたので、肴はさんまのお刺し身だけ。
23時、仕事場へ戻る。
明日のデートのために着物の支度を少し。
就寝2時(仕事場)。
2005年10月14日 お茶の水女子大学講義(2回目)-19人も増えている!- [大学講義(お茶の水女子大学)]
2005年10月14日 お茶の水女子大学講義(2回目)-19人も増えている!-
10月14日(金) 晴れのち曇り
10時半、起床(仕事場)。
朝ご飯は、トースト1枚、生ハム3枚、きゅうり、ヨーグルト。
12時、仕事場へ。
天気予報は「昼から夜まで雨」だった
ところが、外に出てみると、晴れていて日差しがあり、しかもかなり蒸し暑い。
話がぜんぜん違う。
今日は、雨対応で洋装を予定していたのだが、これなら着物でも大丈夫そう。
13時、身支度。
黒地に折れ線模様の足利銘仙(袷)。
長襦袢は、蒸し暑さを考えて単のお七鹿ノ子。
帯は、赤地に銀の薔薇模様の刺繍。
帯揚は芥子色、帯締は山吹色。
髪は自毛をセット。
15時、家を出て、霞ヶ関駅経由でお茶大へ。
早速、レジュメを印刷。
ガイダンスの出席者が63名ほどだったので、「60部でいいかな」と思ったが、「念のため・・・」と思い直して70部を刷る。
ジェンダー研究所に寄って出勤簿にチェックした後、早めに教室へ。
初回と違い、いろいろ要領がわかったので、今日はスムーズ。
教壇に立って、学生さんの数が微妙に多いように感じたが、気のせいだと思い授業を始める。
前回途中で終わってしまった、私のライフヒストリー分析から。
「女」としての社会性を求めてきた結果が今の私の有り様につながっていること、「女」としての社会的関係性が確立したことによって、「女」としての性自認を安定したことなどを述べる。
途中から遅刻した学生が入ってくる。
いつの間にか用意したレジュメが無くなっている。
えっ? ということは70人以上いるってこと?
1回目の残りに時間を半分近く使ってしまって、やっと2回目のテーマ「『性』の4要素と多層構造論」に入る。
いろいろ付随的なことを説明し過ぎたり、理解しやすいようにと思うあまり例示的な話が多くなって時間をくってしまう。
これが私の講義の悪い癖だとわかっているのだが・・・。
結局、「4要素」のうちの、身体的性、性自認、社会的性(性役割/性別表現)の説明とその相互関連性を説明したところで時間になってしまう。
講義の最後に「今日のプリント、(手元に)渡らなかった人?」と聞いたら10~12人くらいが手を挙げる。
ということは82人くらい聞いてたということ。
19人も増えているじゃないか!
東洋大学の社会学の学生さん(女性)から聴講したいと申し出。
勉強したいというのを断るのは、私の本意ではないので、黙認。
今日の質問:「先生が『男女で体重のかけ方が違う』といいましたが、具体的に教えてください」
男女のしぐさ、身体の使い方の違いを説明した時、上半身の肩・腕の使い方の違いは実際にやってみせたが、下半身については、いずれ機会もあるだろうと省略した。
それで興味をもって質問してきたらしい。
簡単に補足説明したが、着物だと脚が見えないので、わかりにくかったと思う(まさか裾をはしょって、説明するわけにもいかないし)。
いずれ、洋装の時にでも、実演してみよう。
前回と異なり、帰路は池袋経由。
時間的には1~2分こちらが早いが、料金や混雑度を考えると霞ヶ関経由も捨て難い。
19時15分、学芸大学駅前商店街の居酒屋「一善」へ。
今日は、貸し切りで阪神ファンのKさん主催の「阪神タイガース優勝祝賀会」。
生まれついての巨人ファンの私が、なんでタイガースの祝賀会にと思わないでもないけど、そこは大人のお付き合い。
というか、中日ファンのT先生もヤクルトファンのUさんも「(どんな理由でも酒が)飲めれば、それでハッピー」なのだから、おおらかなもの。
酒宴は延々と続き、いつしか時計の針は真上に近づく。
お開き前に、一足先に失礼する。
23時40分、仕事場へ戻る。
シャワーを浴びた後、パソコンで深夜の作業。
まず、北海道旅行2日目・3日目の画像を取り込み、編集作業。
それを挿入した「日記」をアップ。
続いて、サイトの「着物写真日記」用の画像を秘書さんに大量送信。
なんだかんだで3時間ほどかかる。
ふ~ぅ、疲れたぁ。
就寝4時。
10月14日(金) 晴れのち曇り
10時半、起床(仕事場)。
朝ご飯は、トースト1枚、生ハム3枚、きゅうり、ヨーグルト。
12時、仕事場へ。
天気予報は「昼から夜まで雨」だった
ところが、外に出てみると、晴れていて日差しがあり、しかもかなり蒸し暑い。
話がぜんぜん違う。
今日は、雨対応で洋装を予定していたのだが、これなら着物でも大丈夫そう。
13時、身支度。
黒地に折れ線模様の足利銘仙(袷)。
長襦袢は、蒸し暑さを考えて単のお七鹿ノ子。
帯は、赤地に銀の薔薇模様の刺繍。
帯揚は芥子色、帯締は山吹色。
髪は自毛をセット。
15時、家を出て、霞ヶ関駅経由でお茶大へ。
早速、レジュメを印刷。
ガイダンスの出席者が63名ほどだったので、「60部でいいかな」と思ったが、「念のため・・・」と思い直して70部を刷る。
ジェンダー研究所に寄って出勤簿にチェックした後、早めに教室へ。
初回と違い、いろいろ要領がわかったので、今日はスムーズ。
教壇に立って、学生さんの数が微妙に多いように感じたが、気のせいだと思い授業を始める。
前回途中で終わってしまった、私のライフヒストリー分析から。
「女」としての社会性を求めてきた結果が今の私の有り様につながっていること、「女」としての社会的関係性が確立したことによって、「女」としての性自認を安定したことなどを述べる。
途中から遅刻した学生が入ってくる。
いつの間にか用意したレジュメが無くなっている。
えっ? ということは70人以上いるってこと?
1回目の残りに時間を半分近く使ってしまって、やっと2回目のテーマ「『性』の4要素と多層構造論」に入る。
いろいろ付随的なことを説明し過ぎたり、理解しやすいようにと思うあまり例示的な話が多くなって時間をくってしまう。
これが私の講義の悪い癖だとわかっているのだが・・・。
結局、「4要素」のうちの、身体的性、性自認、社会的性(性役割/性別表現)の説明とその相互関連性を説明したところで時間になってしまう。
講義の最後に「今日のプリント、(手元に)渡らなかった人?」と聞いたら10~12人くらいが手を挙げる。
ということは82人くらい聞いてたということ。
19人も増えているじゃないか!
東洋大学の社会学の学生さん(女性)から聴講したいと申し出。
勉強したいというのを断るのは、私の本意ではないので、黙認。
今日の質問:「先生が『男女で体重のかけ方が違う』といいましたが、具体的に教えてください」
男女のしぐさ、身体の使い方の違いを説明した時、上半身の肩・腕の使い方の違いは実際にやってみせたが、下半身については、いずれ機会もあるだろうと省略した。
それで興味をもって質問してきたらしい。
簡単に補足説明したが、着物だと脚が見えないので、わかりにくかったと思う(まさか裾をはしょって、説明するわけにもいかないし)。
いずれ、洋装の時にでも、実演してみよう。
前回と異なり、帰路は池袋経由。
時間的には1~2分こちらが早いが、料金や混雑度を考えると霞ヶ関経由も捨て難い。
19時15分、学芸大学駅前商店街の居酒屋「一善」へ。
今日は、貸し切りで阪神ファンのKさん主催の「阪神タイガース優勝祝賀会」。
生まれついての巨人ファンの私が、なんでタイガースの祝賀会にと思わないでもないけど、そこは大人のお付き合い。
というか、中日ファンのT先生もヤクルトファンのUさんも「(どんな理由でも酒が)飲めれば、それでハッピー」なのだから、おおらかなもの。
酒宴は延々と続き、いつしか時計の針は真上に近づく。
お開き前に、一足先に失礼する。
23時40分、仕事場へ戻る。
シャワーを浴びた後、パソコンで深夜の作業。
まず、北海道旅行2日目・3日目の画像を取り込み、編集作業。
それを挿入した「日記」をアップ。
続いて、サイトの「着物写真日記」用の画像を秘書さんに大量送信。
なんだかんだで3時間ほどかかる。
ふ~ぅ、疲れたぁ。
就寝4時。
2005年10月07日 お茶の水女子大学の初講義 [大学講義(お茶の水女子大学)]
2005年10月07日 お茶の水女子大学の初講義
10月7日(金) 曇りのち雨
11時、起床。
朝昼ご飯は、いつもの通りトースト1枚、生ハム3枚、キュウリ&レタス。
13時、仕事場へ。
シャワーを浴びて身支度。
夕方から雨の予報なのと、思ったより蒸し暑いのとで、何を着ていくか迷う。
結城紬(袷)のつもりで用意していたが、結局、薄茶の濃淡の市松の地柄に黒で疋田を織り出した赤城紬(単)にする。
帯は銀と黒の鱗模様。
長襦袢は、ザクロ染めのクリームの半襟をつけたお七鹿ノ子(単)。
帯揚は芥子色、帯締は山吹色。
15時少し前、家を出て、東横線-地下鉄日比谷線-同丸ノ内線経由で茗荷谷駅へ。
16時前にお茶の水女子大学に着く。
校門を入ると、不審人物と見て守衛さんが寄ってきたので、「今日から非常勤講師でお世話になる三橋です」とことわって入れてもらう。
大学という場所は、基本的に開かれた場所であるべきだが、この大学は違う。
セキュリティ・チェックがとても厳しい。
その点で、私のような外来者の印象は良いとは言えないだろう。
付属の小中学校が同じ敷地内にあるので仕方がないのだが。
まず共同講義棟2号館に行って教室の下見。
それから、講師控室でレジュメの印刷。
しかし、授業があるのに事務室が16時で閉まってしまい、非常勤講師のサポートをする職員が誰もいないというのは、私立大学育ちの私にはちょっと信じられない。
16時10分、私の待機場所を引き受けてくれたジェンダー研究センターの事務室に赴く。
事務の方に挨拶。
記入が必要な書類を渡される。
ところが、辞令や出勤簿などほとんどの書類が本名になっている。
私としては、学内書類は通称名の使用をお願いしたはず。
外部(文部科学省や税務署)に出す書類は本名で仕方がないが、可能な限り通称名でという方針。
ところが、事務の方は可能な限り本名で、通称名の使用は最低限にという姿勢らしい。
これでは、どうしようもない。
そもそも、私は「女」の仕事の時に、本名の印鑑など持ち歩かない。
なぜなら必要ないからだ。
私の通称名は、税務所に「屋号・雅号」として登録してあるし、通称名で銀行の口座ももっているので、給与の支払いも含めて「三橋順子」でまったく支障をきたさないようになっている。
もちろん、税務処理も最終的には通称名(雅号)=本名で適切に行っている。
それは私が、今まで苦労して作ってきた合法的なシステムだ。
なぜ、大学事務局は本名の使用を強制するのだろうか?
プライバシー保護という観点から本名を表に出したくない、自分の性自認に則した通称を使いたいというトランスジェンダーの事情を理解しようとしないのだろうか。
「トランスジェンダー論」という講座を私に依頼してきたのはお茶の水女子大学だ。
だったら、もう少しトランスジェンダーが抱える事情に配慮してくれてもいいのではないだろうか。
あまりも杓子定規で官僚的だと思う。
書類、突き返されるのを覚悟の上で、通称名を先に書き、括弧で本名を添える。
出勤簿には「三橋」のハンコを捺す(これしかもってないから)。
給与の支払い先は「三橋順子」の口座を指定する。
もし「駄目だ」と言うのなら、給与も交通費ももらわなくてかまわない。
16時20分、私を起用してくださった竹村和子教授がご自分のゼミを抜けて、挨拶にきてくださる。
恐縮しながら、「頑張ります」とお伝えする。
16時40分過ぎ、教室(共通講義棟2号館101号室)へ。
120人くらい入る教室に半分ほどの学生さん。
数えてみると60人ほどいる。
多くても30人くらいだろうと思って、レジュメを40部しか作ってなかったので足りない。講師控室に行って30部増刷する。
実は、昨夜、教室に行ったら学生が3人しかいないという夢を見た。
朝起きて、夢を思い出して「少なかったら少ないで、仕方がないからのんびりやろう」と覚悟をしていたので、うれしい誤算。
定刻より15分ほど遅れて16時55分、「トランスジェンダー論」の講義開始。
今日はまだ後期の履修登録前ということで、「ガイダンス-トランスジェンダーとしての私-」という題で、「トランスジェンダー論」という風変わりな講座と、さらに風変わりな講師の自己紹介をするつもり。
まず、この講座が日本初の「トランスジェンダー」を看板に掲げた専論講座であること、トランスジェンダー(性別越境)という現象を分析・考察することにより、性別二元論や生物学的な性別本質論、あるいは異性愛絶対主義にとらわれない、より多元的で多様な性別認識や性愛観、さらにはジェンダーの構築性を理解することを目的とすることを話す。
そして、それによって、自らの性のあり様を見つめ直すとともに、より自由で広い視野に立って、現代社会における様々な性現象を冷静に分析できる目を養ってほしいと思うことを付け加える。
次に、授業計画について解説。
日本のトランスジェンダー・スタディーズは、まだまだ学問として未成熟で、十分な研究蓄積や理論構築が為されていないが、この講義では、トランスジェンダーとしての私の実体験や見聞を踏まえながら、また歴史的な資料分析や聞き取り調査に基づいて、トランスジェンダーと社会との関係、あるいは社会の中における性別認識の有り様を、できるだけ平易に具体的に考えていきたいこと、そして、最終的には日本におけるトランスジェンダー・スタディーズの基礎を据えるような講義にしたいと思っていることを述べる。
ちなみに授業計画は下記のとおり(予定は未定なのだが)。
10/ 7. (1) ガイダンス -トランスジェンダーとしての私-
10/14. (2) 「性」の4要素と多層構造論
10/21. (3) トランスジェンダーとは何か
10/24. (4) トランスジェンダーの「場」と職能
11/ 4. (5) トランスジェンダーの社会史(古代~近世)
11/18. (6) トランスジェンダーの社会史(近代)
11/25. (7) トランスジェンダーの現代
12/ 2. (8) 「性同一性障害」概念とその問題点
12/ 9. (9) ジェンダー・イメージの構築と転換
12/16.(10) トランスジェンダーと性別認識
1/10.(11) トランスジェンダーと性愛観
1/13.(12) 「性」の自己決定と多様性の承認
1/27.(13) 性別越境の文化と日本人
2/ 3... 予備日
続いて、私の「トランスジェンダーとしての私」と題して講師の自己紹介。
レジュメにかなり詳しい私のプロフィール(講演などの時の配布資料に付けるプロフィールに編著書や論文リストを加えたもの)を載せておいた。
しかし、それでは味気無いので、自叙伝「『女』として-順子のできるまで-」の目次を示し、時期区分をして簡単なライフヒストリー分析を加えることにした。
ちなみに目次は次の通り。
は じ め に
1.「順子」の出現まで (1955~1985年)
2.苦悩の5年間 -自宅女装時代-(1985~1990年)
3.女装テクニックと自信の獲得 -女装クラブ時代-(1990~1994年)
4.新宿の女装世界へ -クラブ・フェイクレディ-(1994~1995年)
5.ネオンが似合う「女」 -新宿歌舞伎町の女装ホステス-(1995~2002年)
6.男たちとの夜 -セクシュアリティの開花-(1992~1997年)
7.「女」として生きる決意 -トランスジェンダーの論客として-(1995~1998年)
8.性社会史研究者への道(1999年~ )
9.身体の女性化の断念
10.女性の世界へ -着物趣味を通じて-(2000年~ )
お わ り に
お ま け -「女」として年を取る-
【第1期】は、自分の内面の「もう一人の私(女性)」に気づきながらも、それを十分に表現できず、抑制していた時期。
つまり、性別違和感の自覚から自宅女装時代まで。
【第2期】は、自分の内面の女性を表現する方法(テクニック)を習得することに努めた時期。女装クラブ時代。
ここまで解説したところで時間切れとなる。
レジュメの追加印刷で余計な時間を使ったのが誤算。
続きは次週。
18時10分に講義を終えた後、2人ほどの学生が寄ってきて質問や感想を伝えにきてくれた。
質問は「先生のしぐさは、なぜそんなに指の先まで女らしいのですか?」
「いずれ詳しく話します」と前置きした上で、これもやはり最初はテクニカルな技術習得であること、男性が女性のしぐさを模倣する技術は江戸時代の歌舞伎の女形によってほぼ完成されていること、現在の私の場合、それがほぼ身について自然にそうなること、などを答える。
全体にまずまずの反応だったと思う。
レジュメの残部数から計算して、今日の聴講者は63人だったと思うが、はたして何人が履修登録してくれるだろうか?
私にとっては、2000年度中央大学の「現代社会研究5」で大学の教壇に立って以来、5年ぶりの大学での講義。
あの時は、当時の自分の持っていたものを全部投入するつもりで全力を尽くした。
社会的にも高い関心をもってもらえたし、一番肝心の学生の反響もよかったと思う。
正直に言えば、翌年、どこかの大学から非常勤のオファーがあるだろうと思っていた。
しかし、現実は厳しく、一つもなかった。
それまでポツポツあった大学でのゲスト講義の機会もなくなってしまった。
社会的関心や学生の評価と、大学当局の評価はまったく別だということがよくわかった。
ともかく、研究実績を積もう、地道に実力を磨こうと、4年間、研究一筋で頑張った。
だから、今年度のお茶の水女子大での講義は、私にとって「偏見」という厚い壁への再チャレンジなのだ。
ジェンダー研究所の挨拶して辞去。
やっとやっとようやく再出発がきれたといううれしさを感じながら、降り出した雨の中を、茗荷谷の駅へ。
しかし、勝手がわからない大学での初講義で、やはりかなり気疲れした。
行きと同じ経路で、19時15分、学芸大学駅に戻る。
駅前商店街の行きつけの居酒屋「一善」へ。
いつものように、常連さんたちとおしゃべりしながら、さんまのお刺し身、おでん、ごぼうのきんぴらを肴に、生ビール1杯、ウーロン茶2杯。
22時過ぎ、仕事場に帰る。
メールチェック、メールの送信、「日記」のアップなど。
明日からの北海道旅行の支度を確認してお風呂へ。
1時過ぎ、ベッドに入るがぜんぜん寝られない。
仕方なくベッドサイドにあった『サン写真新聞 戦後にっぽん』を眺めながら、眠くなるのを待つ。
なかなか眠気が訪れず5冊ほど読んでやっと眠れた。
就寝、3時間半(仕事場)。
10月7日(金) 曇りのち雨
11時、起床。
朝昼ご飯は、いつもの通りトースト1枚、生ハム3枚、キュウリ&レタス。
13時、仕事場へ。
シャワーを浴びて身支度。
夕方から雨の予報なのと、思ったより蒸し暑いのとで、何を着ていくか迷う。
結城紬(袷)のつもりで用意していたが、結局、薄茶の濃淡の市松の地柄に黒で疋田を織り出した赤城紬(単)にする。
帯は銀と黒の鱗模様。
長襦袢は、ザクロ染めのクリームの半襟をつけたお七鹿ノ子(単)。
帯揚は芥子色、帯締は山吹色。
15時少し前、家を出て、東横線-地下鉄日比谷線-同丸ノ内線経由で茗荷谷駅へ。
16時前にお茶の水女子大学に着く。
校門を入ると、不審人物と見て守衛さんが寄ってきたので、「今日から非常勤講師でお世話になる三橋です」とことわって入れてもらう。
大学という場所は、基本的に開かれた場所であるべきだが、この大学は違う。
セキュリティ・チェックがとても厳しい。
その点で、私のような外来者の印象は良いとは言えないだろう。
付属の小中学校が同じ敷地内にあるので仕方がないのだが。
まず共同講義棟2号館に行って教室の下見。
それから、講師控室でレジュメの印刷。
しかし、授業があるのに事務室が16時で閉まってしまい、非常勤講師のサポートをする職員が誰もいないというのは、私立大学育ちの私にはちょっと信じられない。
16時10分、私の待機場所を引き受けてくれたジェンダー研究センターの事務室に赴く。
事務の方に挨拶。
記入が必要な書類を渡される。
ところが、辞令や出勤簿などほとんどの書類が本名になっている。
私としては、学内書類は通称名の使用をお願いしたはず。
外部(文部科学省や税務署)に出す書類は本名で仕方がないが、可能な限り通称名でという方針。
ところが、事務の方は可能な限り本名で、通称名の使用は最低限にという姿勢らしい。
これでは、どうしようもない。
そもそも、私は「女」の仕事の時に、本名の印鑑など持ち歩かない。
なぜなら必要ないからだ。
私の通称名は、税務所に「屋号・雅号」として登録してあるし、通称名で銀行の口座ももっているので、給与の支払いも含めて「三橋順子」でまったく支障をきたさないようになっている。
もちろん、税務処理も最終的には通称名(雅号)=本名で適切に行っている。
それは私が、今まで苦労して作ってきた合法的なシステムだ。
なぜ、大学事務局は本名の使用を強制するのだろうか?
プライバシー保護という観点から本名を表に出したくない、自分の性自認に則した通称を使いたいというトランスジェンダーの事情を理解しようとしないのだろうか。
「トランスジェンダー論」という講座を私に依頼してきたのはお茶の水女子大学だ。
だったら、もう少しトランスジェンダーが抱える事情に配慮してくれてもいいのではないだろうか。
あまりも杓子定規で官僚的だと思う。
書類、突き返されるのを覚悟の上で、通称名を先に書き、括弧で本名を添える。
出勤簿には「三橋」のハンコを捺す(これしかもってないから)。
給与の支払い先は「三橋順子」の口座を指定する。
もし「駄目だ」と言うのなら、給与も交通費ももらわなくてかまわない。
16時20分、私を起用してくださった竹村和子教授がご自分のゼミを抜けて、挨拶にきてくださる。
恐縮しながら、「頑張ります」とお伝えする。
16時40分過ぎ、教室(共通講義棟2号館101号室)へ。
120人くらい入る教室に半分ほどの学生さん。
数えてみると60人ほどいる。
多くても30人くらいだろうと思って、レジュメを40部しか作ってなかったので足りない。講師控室に行って30部増刷する。
実は、昨夜、教室に行ったら学生が3人しかいないという夢を見た。
朝起きて、夢を思い出して「少なかったら少ないで、仕方がないからのんびりやろう」と覚悟をしていたので、うれしい誤算。
定刻より15分ほど遅れて16時55分、「トランスジェンダー論」の講義開始。
今日はまだ後期の履修登録前ということで、「ガイダンス-トランスジェンダーとしての私-」という題で、「トランスジェンダー論」という風変わりな講座と、さらに風変わりな講師の自己紹介をするつもり。
まず、この講座が日本初の「トランスジェンダー」を看板に掲げた専論講座であること、トランスジェンダー(性別越境)という現象を分析・考察することにより、性別二元論や生物学的な性別本質論、あるいは異性愛絶対主義にとらわれない、より多元的で多様な性別認識や性愛観、さらにはジェンダーの構築性を理解することを目的とすることを話す。
そして、それによって、自らの性のあり様を見つめ直すとともに、より自由で広い視野に立って、現代社会における様々な性現象を冷静に分析できる目を養ってほしいと思うことを付け加える。
次に、授業計画について解説。
日本のトランスジェンダー・スタディーズは、まだまだ学問として未成熟で、十分な研究蓄積や理論構築が為されていないが、この講義では、トランスジェンダーとしての私の実体験や見聞を踏まえながら、また歴史的な資料分析や聞き取り調査に基づいて、トランスジェンダーと社会との関係、あるいは社会の中における性別認識の有り様を、できるだけ平易に具体的に考えていきたいこと、そして、最終的には日本におけるトランスジェンダー・スタディーズの基礎を据えるような講義にしたいと思っていることを述べる。
ちなみに授業計画は下記のとおり(予定は未定なのだが)。
10/ 7. (1) ガイダンス -トランスジェンダーとしての私-
10/14. (2) 「性」の4要素と多層構造論
10/21. (3) トランスジェンダーとは何か
10/24. (4) トランスジェンダーの「場」と職能
11/ 4. (5) トランスジェンダーの社会史(古代~近世)
11/18. (6) トランスジェンダーの社会史(近代)
11/25. (7) トランスジェンダーの現代
12/ 2. (8) 「性同一性障害」概念とその問題点
12/ 9. (9) ジェンダー・イメージの構築と転換
12/16.(10) トランスジェンダーと性別認識
1/10.(11) トランスジェンダーと性愛観
1/13.(12) 「性」の自己決定と多様性の承認
1/27.(13) 性別越境の文化と日本人
2/ 3... 予備日
続いて、私の「トランスジェンダーとしての私」と題して講師の自己紹介。
レジュメにかなり詳しい私のプロフィール(講演などの時の配布資料に付けるプロフィールに編著書や論文リストを加えたもの)を載せておいた。
しかし、それでは味気無いので、自叙伝「『女』として-順子のできるまで-」の目次を示し、時期区分をして簡単なライフヒストリー分析を加えることにした。
ちなみに目次は次の通り。
は じ め に
1.「順子」の出現まで (1955~1985年)
2.苦悩の5年間 -自宅女装時代-(1985~1990年)
3.女装テクニックと自信の獲得 -女装クラブ時代-(1990~1994年)
4.新宿の女装世界へ -クラブ・フェイクレディ-(1994~1995年)
5.ネオンが似合う「女」 -新宿歌舞伎町の女装ホステス-(1995~2002年)
6.男たちとの夜 -セクシュアリティの開花-(1992~1997年)
7.「女」として生きる決意 -トランスジェンダーの論客として-(1995~1998年)
8.性社会史研究者への道(1999年~ )
9.身体の女性化の断念
10.女性の世界へ -着物趣味を通じて-(2000年~ )
お わ り に
お ま け -「女」として年を取る-
【第1期】は、自分の内面の「もう一人の私(女性)」に気づきながらも、それを十分に表現できず、抑制していた時期。
つまり、性別違和感の自覚から自宅女装時代まで。
【第2期】は、自分の内面の女性を表現する方法(テクニック)を習得することに努めた時期。女装クラブ時代。
ここまで解説したところで時間切れとなる。
レジュメの追加印刷で余計な時間を使ったのが誤算。
続きは次週。
18時10分に講義を終えた後、2人ほどの学生が寄ってきて質問や感想を伝えにきてくれた。
質問は「先生のしぐさは、なぜそんなに指の先まで女らしいのですか?」
「いずれ詳しく話します」と前置きした上で、これもやはり最初はテクニカルな技術習得であること、男性が女性のしぐさを模倣する技術は江戸時代の歌舞伎の女形によってほぼ完成されていること、現在の私の場合、それがほぼ身について自然にそうなること、などを答える。
全体にまずまずの反応だったと思う。
レジュメの残部数から計算して、今日の聴講者は63人だったと思うが、はたして何人が履修登録してくれるだろうか?
私にとっては、2000年度中央大学の「現代社会研究5」で大学の教壇に立って以来、5年ぶりの大学での講義。
あの時は、当時の自分の持っていたものを全部投入するつもりで全力を尽くした。
社会的にも高い関心をもってもらえたし、一番肝心の学生の反響もよかったと思う。
正直に言えば、翌年、どこかの大学から非常勤のオファーがあるだろうと思っていた。
しかし、現実は厳しく、一つもなかった。
それまでポツポツあった大学でのゲスト講義の機会もなくなってしまった。
社会的関心や学生の評価と、大学当局の評価はまったく別だということがよくわかった。
ともかく、研究実績を積もう、地道に実力を磨こうと、4年間、研究一筋で頑張った。
だから、今年度のお茶の水女子大での講義は、私にとって「偏見」という厚い壁への再チャレンジなのだ。
ジェンダー研究所の挨拶して辞去。
やっとやっとようやく再出発がきれたといううれしさを感じながら、降り出した雨の中を、茗荷谷の駅へ。
しかし、勝手がわからない大学での初講義で、やはりかなり気疲れした。
行きと同じ経路で、19時15分、学芸大学駅に戻る。
駅前商店街の行きつけの居酒屋「一善」へ。
いつものように、常連さんたちとおしゃべりしながら、さんまのお刺し身、おでん、ごぼうのきんぴらを肴に、生ビール1杯、ウーロン茶2杯。
22時過ぎ、仕事場に帰る。
メールチェック、メールの送信、「日記」のアップなど。
明日からの北海道旅行の支度を確認してお風呂へ。
1時過ぎ、ベッドに入るがぜんぜん寝られない。
仕方なくベッドサイドにあった『サン写真新聞 戦後にっぽん』を眺めながら、眠くなるのを待つ。
なかなか眠気が訪れず5冊ほど読んでやっと眠れた。
就寝、3時間半(仕事場)。