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【書評④】ケイト・ボーンスタイン著『 隠されたジェンダー』 [書評アーカイブ]

ケイト・ボーンスタイン著(筒井真樹子翻訳)『 隠されたジェンダー』(新水社、2007年9月)の書評。
隠されたジェンダー.jpg
『図書新聞』(図書新聞社)2007年12月15日号(通巻2850号)に掲載。

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本書は、アメリカの劇作家、パフォーマンス・アーティスト、ケイト・ボーンスタイン(Kate Bornstein)の評論集『Gender Outlaw:On Men,Women,and the Rest of Us』の待望久しかった邦訳である。
 
ボーンスタインは、一九四八年、アメリカ中北部ノースダコタ州で男性として生まれ、一九八六年に性別適合手術を受けたトランスセクシュアル(TS)女性であり、女性に転換した後は、ジェンダー・アクティビストとしても活躍している。
 
本書でボーンスタインは、幼時から現在に至る自らの精神と肉体の遍歴と性の転換を語るとともに、その体験から紡ぎだされたジェンダーに関する多彩な見解を展開している。その内容は多岐にわたり要約することは難しいが、そこに通底するものは、男か、女かという二元的なジェンダー制度、あるいはジェンダー論への懐疑と痛切な批判である。 
 
評者が、ボーンスタインの著述に初めて接したのは、『ユリイカ』一九九八年二月号に掲載された「ジェンダーの恐怖、ジェンダーの憤怒」という文章(本書の第八章に相当する)だった。同じ雑誌で「ヒジュラに学べ!-トランス社会の倫理と論理-」という座談会に参加しMtF(MaletoFemale 男から女へ)のトランスジェンダー(TG)として世の中に出たばかりだった評者は、MtFTSでありながらジェンダー・アウトローを自認し、二元的なジェンダー・システムの抑圧性と馬鹿馬鹿しさを指摘するボーンスタインの過激な主張に大いに刺激を受けたことを鮮明に覚えている。
 
しかし、ボーンスタインの思想の全体像が日本に紹介されるまでに、ずいぶん長い時が過ぎてしまった。原著は一九九五年に刊行されているのだから、日本語版の刊行まで実に十二年を要したことになる。なぜこれほどまでに邦訳が遅れたのだろうか?
 
その第一の理由は、ボーンスタインの語り口にあるだろう。まず示唆的な短文を掲げて、その後にそれを読み解いていくような文章構成は独特のものがある。また豊富な比喩やレトリックを正確に理解し日本語に置き換えるのは容易なことではないだろう。訳者の努力で本書の訳文はずいぶん読みやすくなっているが、それでも必ずしも読みやすいとは言い難い。しかし、それは主な理由ではないだろう。
 
第二の理由は、日本のTS/TGを取り巻く状況が、ボーンスタインの主張とはまったく逆の方向に進んでしまったことにあると思う。原著が刊行された一九九五年は、埼玉医科大学によって「性同一性障害」治療が日本で初めて提起された年だった。以後、日本では、生まれついての性別に違和感をもつ人を「性同一性障害」という精神疾患として「病理化」し、精神的・内分泌的・外科的「治療」を施すことによって、男/女どちらかに「正常化」することが、医療行為として行われるようになった。
 
その結果、性別違和感をもつ多くの人々は医療に囲い込まれ、まず「性同一性障害である」という精神科医のお墨付き(診断書)を手にすること、そしてできるだけ早く性別適合手術を受け、家庭裁判所で性別の取り扱いを変更して、マジョリティの男/女として社会に「埋没」することを、ひたすら目指すようになった。つまり、性別の男女二元制はまったく疑われることなく、望みの性別のジェンダーに適合し、新しい性に溶け込むことが最大の目標とされ、その達成度、速度を競うような風潮が蔓延してしまった。
 
日本のこのような十二年間の状況は、男か、女かという二元的なジェンダー制度の根本を疑うボーンスタインの主張とは、まったく方向性を異にするもので、彼女の主著が邦訳される環境にはなかったと言えるだろう。
 
もちろん、性器の外観を望みの性のそれに変え、戸籍の性別を変更して幸せになれる人は、それでたいへん結構なことだと思う。それを問題視するつもりはない。しかし、性別を移行しようとする誰もが、皆、そうなれるかと言えばそうではない。
 
評者のように男性ジェンダーを忌避して社会的性別を女性に移行したものの、二元的なジェンダーの枠組みへの懐疑から、女性ジェンダーにもきっちり適合できないものもいる。なんの疑問もなく新しいジェンダーにすっぽり適合できる性同一性障害者が、ある意味うらやましくさえ思える。そうしたジェンダー不適合者には、ボーンスタインが指し示すジェンダー・アウトローの道はかぎりなく魅力的に映る。
 
二〇〇七年の春、性別違和感をもつ人々の医療への囲い込みを牽引してきた埼玉医大の性同一性障害治療体勢は、提唱・推進者の教授の退任とともに、あっけなく崩壊してしまった。そんな年に本書が邦訳出版されたことは実に示唆的である。とは言え、男女二元制への適合しか視野にない多くの性同一性障害者の意識や「治療」システムが、本書の出版によって影響され、改善に向かうとは、残念ながら思えない。
 
むしろ、本書は、TS/TGに限定されることなく、二元的なジェンダーの枠組みに不適合感や疑いをもつ人々に広く読まれるべきものだと思う。先日、評者の友人の女性が「ああ、お嫁さんが欲しい!」と叫ぶのを聞いた。彼女は、レズビアンでも、トランスジェンダーでもない、セクシュアリティ的にも外観的にはごく普通の女性であり、二元論的には「お婿さんが欲しい!」と言うべき立場にある。しかし、彼女の叫びは冗談ではなく切実だった。彼女もまた部分的なジェンダー不適合者なのだと思う。そういう人たちにこそ、本書は有益な示唆を与えるのではないだろうか。
 
ところで、本書の最大の問題点は、書名だろう。『隠されたジェンダー』は第十五章に収録されている戯曲「隠されたもの・ひとつのジェンダー」から採ったものである。しかし、それが本書全体の主張にふさわしい書名であるかというと、評者は大いに首を傾げざるを得ない。なぜこんな穏便な書名にしてしまったのだろうか?
 
『隠されたジェンダー』では、原書名が端的に示しているボーンスタインの主張の最大の魅力である「アウトロー」性、挑発性、そして副題で「男、女、その残余としての私たち」と言い切る良い意味での開き直り(クィア性)が、まったく隠されてしまって、伝わってこないからだ。
 
仄聞するところでは、訳者の第一希望は『性別無頼』だったらしい。そのほうがずっと本書の内容を表していたと思う。いろいろ事情はあったのだろうが、その点だけは大いに惜しまれる。
 
最後に付け加えると、この書評は、著者、訳者、そして評者もMtFである。日本もやっとここまで来たのか・・・・。いささか感慨深い。
 
(三橋 順子:性社会史研究者・国際日本文化研究センター共同研究員)




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【書評③】パトリック・カリフィア『 セックス・チェンジズ -トランスジェンダーの政治学-』 [書評アーカイブ]

パトリック・カリフィア著(石倉 由・吉池 祥子翻訳) 『 セックス・チェンジズ -トランスジェンダーの政治学-』(作品社、2005年7月)の書評。
セックス・チェンジズ―トランスジェンダーの政治学.jpg
『図書新聞』(図書新聞社)2005年10月8日(2745号)に掲載。

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人が生まれもった性別を人生の途中で「変える」ということは簡単なことではない。本人のとって難事なだけでなく、家族やパートナーなどの親しい人々や取り巻く社会関係(職場・学校・友人など)にも大きな影響を与える。性別移行とはそれだけ壮大な試みなのである。
 
新しい性別で社会を生きていこうとする時、望みの性別を生きる幸福と同時に、まともな批判力をもった人ならば、今まで気づかなかった性別に伴うさまざまな社会的抑圧や障壁を実感することになる。それは、一つの性別しか生きない人たちには経験できない、性別という視点から人と社会への認識を深める上できわめて有益な体験であると、私は思う。
 
本書は、アメリカの思想家・アクティビスト、パトリック・カリフィアの論集『Sex changes and Other Essays on Transgender』(1997年初版、2003年第2版)の邦訳である。カリフィアはレズビアンSMフェミニストとして、1980年代から検閲に反対しポルノやセックス・ワークを擁護する立場で論陣を張ってきた人である。本書の初版執筆時にはレズビアンの立場を取っていたが、第2版刊行までの間に男性ホルモンを服用して男性アイデンティティに移行した。
 
第2版序文に始まる序論と8つの章は、それぞれが十分に読みごたえのある分量と内容になっている。ジェンダー・アイデンティの多様性の承認を求め、社会的性役割の基準概念に異を唱えるカリフィア主張は一見ラディカルである。しかし、アメリカ最初の「性転換者」であるクリスチーナ・ヨルゲンセンとイギリスの著名なジャーナリストで女性に転換したジャン・モリスの自伝などを比較分析した第1章「トランスセクシュアルの自伝」、ハリー・ベンジャミンやジョン・マネーら「性転換」の科学的権威たちの業績を批判的に検証した第2章「父親的存在」などは、きわめて分析で学究的ですらある。
 
続く、1979年に始まるレズビアン・フェミニストによるトランスセクシュアルへの激しい攻撃と排除運動を振り返った第3章「バックラッシュ」、欧米社会のゲイパラダイムから非欧米社会や前近代社会の第3ジェンダーを見ることの問題点を指摘した第4章「ベルダーシュ戦争と『パッシング・ウーマン』の愚行」、男性から女性に転換して全米女子テニス選手権の予選を勝ち上がったレニー・リチャーズらの語りをヨルゲンセンらの自伝と比較した第5章「現代トランスセクシュアルの自伝」、ほとんど存在を無視されてきたトランスジェンダーのパートナーに照明をあてた第6章「見えないジェンダー・アウトロー」などでも、こうした冷静な筆致に変わりはなく、本書の説得力を高めている。
 
トランスフォビックな社会に対してトランスジェンダーがどのような実力行使をしたかを紹介する第7章「クリニックを打ち壊し、ビューティ・パーラーを焼き払う」、今なお続く医療者やフェミニストとの軋轢の中でトランスジェンダー行動主義の今後を考える第8章「ジェンダーとトランスジェンダリズムの未来」など、1950年代から現代までの半世紀余の間に、アメリカのトランスジェンダーをめぐって、どのような議論が展開され、何が為されたかを丹念に掘り返し再検討しており、まさに「トランスジェンダーの政治学」という副題にふさわしい内容になっている。それはまた、性別をめぐるアメリカ社会の現代史としても高い資料性をもっている。
 
こうした豊かな内容をもつ著作を、翻訳者の石倉由と吉池祥子が、複雑な専門用語を丹念に日本語に置き換え、関係部分だけで500頁に近い分量であるにもかかわらず、読みやすいものにしている。特に文中に挿入されている用語解説は的確で、類書の水準を抜いている。
 
また、本書の特色のひとつは、付載されている論考の充実である。野宮亜紀の「日本における『性同一性障害』をめぐる動きとトランスジェンダーの当事者運動」を収録したことは、この種の翻訳本が日本の状況を無視する傾向が強い中にあって貴重な試みであり、本書を単なる外国思想の紹介に終わらせたくないという訳者たちの意志が伝わってくる。石倉の「訳者あとがき」も短文ながら、男女二元制への「同化主義」と、第三極としての「トランスジェンダー派」との深刻な対立という日本のトランスジェンダーの問題点をしっかり把握し、その相対化をはかることで解決への道筋を示している。
 
巻末に解説として付されている竹村和子「『セックス・チェンジズ』は、性転換でも、性別適合でもない」は、今までなぜか少なかった日本のフェミニストのトランスセクシュアル(TS)に対する評論として注目される。「TSを性の二分法のなかに閉じこめること、TSの問題をTSだけの問題として扱うことは」、TSを「再差別化し」、TSが「社会に対して投げかけている問題系をふたたび閉じてしまうことになる」という指摘は、常に当事者を中心とした閉じた系で問題処理がはかられてきた日本の現状を考えた時、たいへん示唆的である。
 
1996年ごろに始まる日本における「性同一性障害」問題の展開の中で、もっとも欠けていたのは、そもそも性別を変えるとはどういうことなのか、社会の中で性別を変えて生きるということはどういうことなのかという議論だったと思う。議論が当事者とそれに直接かかわった専門家(一部の医師や法学者)という狭い範囲で行われ、問題関心が身体(性器の外形)を外科的手術で変える段取りと、戸籍の続柄(性別)を変更する方法に集中してしまった感がある。
 
つまり、ジェンダー(社会的性別)の視点がほとんど欠落しており、本書でカリフィアが行っているような性別移行と社会についての本質的な論議がほとんど存在しなかったと言ってよい。 結果として、性器や戸籍を変えることなく社会的性別を移行したい人や、性別を変える当事者の家族の問題、さらには性別を変えた人を受け入れる社会の側の問題などが置き去りにされてしまった。
 
また、医療体制の拡充や法的整備が進んだ反面、当事者の間に医療依存ともいうべき状況が生まれている。性別の移行は本人の自己決定によってなされるべきもので、医療はそれをサポートし技術的サービスを提供するはずなのに、医師の承認がなければ性別移行はできない、だから医師の言うことを聞いて早く許可をもらおう、というような他者決定的な認識が広がってしまった。
 
政府や行政も、性別を移行して生きようとする人を「性同一性障害」という「障害者」として囲い込み、医療福祉的な見地から特例的に対処すればよいという認識しかなく、そこに性的少数者の人権という観点はきわめて希薄である。
 
ところで、本書の解説で竹村は「TS」という表記・概念を使っているが、実は現在、日本にはTSを自称する人はほとんどいなくなってしまった。かってTSをアイデンティティにしていた人たちの多くは「性同一性障害者」を称するようになってしまったからだ。
 
国際学会に出席すると、外国の研究者はトランスジェンダー(TG)/トランスセクシュアル(TS)という言葉を使っている。「性同一性障害」という言葉を聞くことは稀である。ところが、日本では「性同一性障害」という精神疾患カテゴリー名称が、医学の世界だけでなく、マスコミを通じて一般社会でも、TGやTSに比して圧倒的なシェアをもってしまった。こうした「性同一性障害」という医学用語が突出した日本の現状は、欧米だけでなくアジア諸国の状況と比較しても、実はかなり特異なのである。
 
そうした点で、本書で「セックス・チェンジ」「トランスジェンダー」と言っても、「それは誰のこと? 性同一性障害のことなら知っているけど」と思われてしまう危険性はある。しかし、性別の移行に関する世界の新しい潮流は、性器形成至上主義や、男・女どちらかに組み込めばそれで問題は解決するという従来の考え方を次第に過去のものにしようとしている。性別を移行して生きることは、「病気」ではなく、人権に根差した生き方の選択の問題であるという認識が一般化する時代がやがて来ると信じたい。日本の現状はそうした世界的な動きと未だ遠いところにあるが、状況を改善していくヒントは、本書におけるカリフィアの主張の中に数多く散りばめられている。
 
本書が性別の移行をめざす当事者と、それにかかわる専門家、そして「性別」という問題に関心をもつ多くの人たちに広く読まれることを、当事者の一人として願ってやまない。
 
(国際日本文化研究センター共同研究員・お茶の水女子大学非常勤講師)
 



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【書評②】青山まり『 ブラジャーをする男たちとしない女』 [書評アーカイブ]

青山まり『 ブラジャーをする男たちとしない女』(新水社、 2005年3月)の書評。
青山まり『ブラジャーをする男たちとしない女』.jpg
『図書新聞』(図書新聞社)2005年6月18日号(通巻2730号)に掲載。

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肩凝らしの私にとってブラジャーのストラップは大敵である。だから外から帰ってくると、真っ先にブラを外してしまう。バストの形を整えるために外出時には着けるが、家に一人でいるときは外す。時には色柄が「かわいいな」と思う商品もあるけれど、取り立てて愛着も執着もない。多くの女性にとってブラジャーと はそんなものだろう。
 
だから、数年前、Yシャツなど男物の衣服の下にブラジャーをしている男性がいる、しかも四六時中つけているほどの愛着をブラに抱いている男性がいることを、雑誌やテレビの報道で知った時、多くの女性は驚き、不可解に思ったのは無理もなかった。
 
本書は、4年前「ブラジャーをする男たち」(『Yomiuri Weekly』2001年11月4日号)を初めて世に知らしめたブラジャー研究家の青山まりがさらに取材と考察を進め、「ブラジャーをしない女」にも視野を広げてまとめたルポルタージュである。
 
ここで語られているブラジャーをする七人の男たちは、人生もブラをする理由も様々である。年齢的には36歳から57歳、既婚者も独身者もいる。ある男性は過労死しかねないような仕事のストレスをブラをすることで救われたと語り、またある男性は心の中の女性がブラを着けた瞬間に目覚めたと感じる。女性下着のやさしい皮膚感覚に魅せられてブラをする男性もいる。いずれにしてもブラジャーをすることで心の癒し、快適さ、抑圧からの解放を感じている。
 
こうした嗜好をフェティシズム(物品や身体の一部への性的嗜好)という言葉で表現してしまうことは簡単だ。しかし、もう少し考えてみよう。
 
彼らはなぜブラジャーに固着したのだろうか? 彼らの語りを読むと、ブラジャーという女性下着に、その機能性を超えた様々な意味を与えていることがわかる。それを一言で表せば、女性性の象徴という意味付けである。女性性の象徴としての乳房を包む物としてのブラジャーもまた女性性の象徴となり、それを身につけることにより、自らの女性性の欠落(内在的な欠落であるにしろ、対人的な欠落であるにしろ)を補おうとしているという解釈ができるだろう。
 
そして彼らの背景には、本来ただの「乳あて」「乳支え」に過ぎない布に、過剰なまでに女性性を象徴する意味を付与してしまった、この何十年間かの日本の性文化の有り様が見えてくる。
 
こうした男性の気持ちを、ブラジャーによるバストの寄せ上げなどのように女性性を過剰に表現することを社会的に期待され、それにいささか嫌気がさしている女性に理解させることはなかなか難しい。本書には女性サイトに寄せられた意見が付載されているが、中には「吐き気すら覚え」るという強烈な反感も表明されている。
 
しかし、著者のブラジャーをする男たちへの視線はかぎりなく優しい。男性でもブラジャーを試着して買える店のリストや周囲の人にブラ着用を気づかれない方法など、ブラジャー愛好男性のためのノウハウが親切に提示されている。ブラジャーをする男たちと著者の深い信頼関係がそこにある。
 
そして著者は「『男の人はブラジャーを着けてはいけない』といったルールが世の中にあるということは、実はとても暴力的なことなのではないでしょうか」とまで言う。その賛否はともかく、「男らしさ」を強要された結果、自殺に追い込まれるような状況で、ブラジャーをすることで心のバランスを取り戻せるのならそれでいいのでは、という提案にはうなずく人も多いのではないだろうか。
 
ところで、本書でいう「ブラジャーをする男」とはあくまでも男の服装の下にブラをしている男性のことで、私のように男の身体を持ちながら長年「女」として社会活動を行っている者や、以前、私が手伝いをしていた新宿歌舞伎町のニューハーフ・パブのお姐さんたち、あるいは最近「流行」のMtF(Male to Female 男から女へ)の性同一性障害の人たちは、その範疇に入らないらしい。私を含めてたぶんほとんどの人が、少なくとも外出時にはブラをしていると思うのだが。性別認識のあり方という点でも、なかなか興味深い。

欲を言えば「ブラジャーをしない女」についても、もっと取材を深めてほしかった。人間の多様な「性」について考えてみようとする人にはお薦めの一冊である。
 
(国際日本文化研究センター共同研究員・性社会史)




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【書評①】谷 甲州『 エリコ 』ートランスジェンダーの視点からー [書評アーカイブ]

『SFマガジン』(早川書房)2005年2月号(586号)谷甲州特集に掲載された『 エリコ 』の作品論。
『エリコ』の 単行本は、早川書房から 1999年4月の刊行。
谷甲州『エリコ』.jpg
文庫本は、 上・下巻で 2002年1月(ハヤカワ文庫 JA 686・687)の刊行。
谷甲州『エリコ』(上).jpg谷甲州『エリコ』(下).jpg
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(谷 甲州作品論)トランスジェンダーの視点から

『エリコ』は、22世紀、美貌の性転換娼婦北沢エリコが、国家レベルの遺伝子変換プロジェクトをめぐる陰謀に巻き込まれるバイオサスペンス長編SFである。大阪、上海、東京、そして月面とめまぐるしいまでに舞台を移すエロスとバイオレンスに満ちたストーリー展開と、降りかかる危機に立ち向かうエリコの人物造形が多くの読者に支持され、1997年度「SFマガジン読者賞」、2000年度「ベストSF国内篇3位」に選ばれた。
 
しかし、『エリコ』は谷甲州ファンや関係者には、かなり意外な作品として受け止められたらしい。著者が「あとがき」で明かしているように「お前、あんな小説も書くのか」という反響がかなり多かったようだ。たしかに書店に並んでいる谷甲州作品を見ると「終わりなき索敵」「最後の戦闘航海」「覇者の戦塵 ラングーン侵攻」など軍事(ミニタリー)色が強い「男らしい」ものばかりで、娼婦、しかもよりによって男性から女性に性転換したような「女々しい」主人公とは、かなり距離がある。他の作品をほとんど読んでいない私(申し訳ありません)は、違和感なく『エリコ』に入っていけたが、固定的な読者が驚いたのも無理はないかもしれない。
 
ところで、世の中には、まったく遠いようで案外合う意外な組み合わせというものがある。アボガドと海苔&ワサビ醤油とか、女性SFファンと着物とか。武器・軍事趣味とMtFトランスジェンダー(Male to Female Transgender、 女装もしくは男から女への性転換)も実はそのひとつである。
 
私が主催していた新宿の女装者たちの親睦グループ「クラブ・フェイクレディ」のパーティでは、きれいに着飾った女装娘たちが武器や軍事ネタで盛り上がっていたし、精巧なモデルガンを持ち込んで披露しあったりもしていた。なにしろ私が「ぶとう会」と言うと「舞踏会」じゃなく「武闘会」という字を頭にうかべる「娘」たちなのだ。列車砲の研究では世界レベル(らしい)「娘」や、中華料理を食べに行くときにわざわざ人民解放軍の女性将校の軍服を着てきて、私に「ここは台湾料理屋よ!」と怒られた「娘」もいた。私が寵愛していた妹分の一人は、対ソ最前線の最強師団、北海道千歳の戦車部隊にいた「娘」で、「あのね、お姉さん、榴弾砲って、こうやってね」とかわいらしい女声でレクチャーしてくれた。
 
武器・軍事マニアは、女装の「娘」たちだけではない。女装娘が好きな男性(女装しない)にもなぜか多い。彼らや「彼女」たちは、連れ立ってお台場近辺の草深い公園でモデルガンを撃ち合い戦闘ゴッコに興じてたりする。もちろん「娘」たちは迷彩模様のミニスカート姿で。
 
知らない人には嘘のような話だろう。MtFのトランスジェンダーにとって、武器・軍事趣味は、鉄道(鉄ちゃん)、バイクと共に三大趣味なのだ。両者がなぜ組み合さるのか、その理由はわからないが、事実は事実なのである。地球を東へ東へと進むといつの間にか出発点の西側に着てしまう。「男らしさ」の方向にどんどん進むといつの間にか「女らしさ」にたどり着く、そんなことなのかもしれない。
 
だから、私には、軍事小説の書き手である谷甲州が、エリコのような性転換女性がお好みで、それを主人公にした作品を書いたとしても、けっこううなずける。

『エリコ』を読んで感心したことは、性転換女性の心理が実にリアルに描かれていることである。男性であることに耐えられないほどの不安を感じ、苦労して女の身体を手に入れたにもかかわらず、それでもなお女としての自分に自信がもてず、常に不安にさいなまれる心理である。
 
冒頭第1章の身体検査のシーンで、エリコは服を脱ぐ際に過剰にセクシーな演技する。そしてそれに反応しない男性(ごきぶり男)にいらだちと怒りを覚える。男性の欲情によってしか自分の女性性を確認できないのである。また、エリコは服の汚れや化粧の崩れに過敏なまでに神経質である。自分の女性性を、作り上げ磨き上げた女性的な容姿だけに依存しているからである。その一方で、生まれつきの女性に対しては過度に身構えたり萎縮したりしてしまう。身体的には女性になったにもかかわらず、心理的に女性への仲間入りができないのである。
 
こうした行動や心理は、女性の身体を手に入れても、なお女性としてのアイデンティティを確立できない現代の性転換女性にもしばしば見られる。以前、性同一性障害者の集会に出席した時、隣席の性転換女性が、30分に一度くらいの頻度でバッグから大きな手鏡を出して顔(化粧)をチェックしていた。そうやって自分が女であることを確認しないと不安でいられないのだろう。また、女性に転換した直後に過剰に性的なファッションをしたり、身体的にはすっかり女性になっているのに、女性の集団に融和できなかったりすることもよく観察される現象だ。
 
このように男性の欲情による女性性の証明、女性的な美しい容姿への過度の依存から脱却できず、ほんとうの意味での女性自我が確立できないと、加齢によって容姿が衰えてくる時に自我が崩壊してしまう。美貌の盛りを過ぎた30~40代のニューハーフに自殺者が目立つのはそのためなのだ。
 
エリコも彼女たちと同類であり、事件に巻き込まれなかったら同じ道筋をたどった可能性がある。エリコにとっての無条件の救い(甘えの対象)である男らしい女友達胡蝶蘭の存在もまた「依存」以外の何ものでもない。
 
しかし、 エリコは、陰謀に巻き込まれ、何度も死に向き合うような修羅場をくぐり抜けることで、精神を鍛えられ次第に変化していく。第9章でエリコが敵の男たちを返り討ちにするシーンは、エリコが本来持っていたはずの知力と勇気が、女になった身体の中に蘇る印象的な場面である。胡蝶蘭との関係も、第11章で彼女を「殺す」ことで、「依存」から脱却して真の友情へと変わっていく。また、獣姦ショーの女性芸人小青との出会いを通じて、生まれながらの女性とも交流できるようになる。

このように『エリコ』は、美貌ではあるが自立できない一人の弱々しい性転換女性が、女性としての自我を確立し、しなやかでたくましい真の美しさをもった女性に変貌していく成長物語として、読むことができるだろう。
 
最後に『エリコ』批判をひとつ。『エリコ』の22世紀日本は、合法的な性転換手術も性転換後の戸籍の変更もできない社会である。エリコがそうであるように、非合法な性の転換をとげた女性は、一般の職業に就労できず、セックスワーク(娼婦)でしか生活の糧を得ることができない。たしかにそれは、20世紀日本の姿の投影である。
 
しかし、日本でも1997年に性転換手術(実態的には、外性器を異性のそれに似せて形成する手術で、エリコのように十分な機能はもたない)が事実上合法化され、2003年7月には「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」が公布された。この法律には様々な問題点があるのだが、ともかく翌2004年7月から戸籍の性別変更が可能になった。こうした21世紀日本の現実を踏まえた時、『エリコ』作品世界は、あまりに性的マイノリティにとって暗すぎる世界である。
 
私は、「SFセミナー2001」で「SFにおけるトランスジェンダー(性別越境)」という話をさせていただいたが、その時、『エリコ』を例に、日本SFのジェンダー/セクシュアリティ設定は、必ずしも未来的ではなく現代的で、未来の「性と社会」のイメージとしては、あまりに貧しい、という批判をした。
 
その思いは、再読した今回ますます強くなった。日本SFがそうしたジェンダー/セクシュアリティに関する保守性を打ち破り、大胆な「性と社会」の未来像を提示した作品を生み出すことを期待したい。



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