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日本女装昔話【番外編・第5回】一流ホテルと契約した女装歌手 橘アンリの夢 [日本女装昔話]

一流ホテルと契約した女装歌手 橘アンリの夢 (1969年)

もうほとんどの人は忘れてしまっているでしょうが(生まれていない?)、1960年代後半という時代は、高度経済成長期の真っ只中であると同時に「性転換」ブームと呼べるような時代でした。

1965年10月に性転換手術を行った医師が優生保護法違反で摘発された「ブルーボーイ事件」がきっかけになり、その判決(有罪)が確定する1970年ころまで、マスコミはともかくやたらとこの種の情報を流しまくったからです。
 
国内では、雄琴温泉の性転換芸者よし幸、性転換ダンサー銀座ローズ、同ジュリアン・ジュリーなど、海外ネタではオーストリアの有名女子スキー選手の男性への性転換、アメリカの性転換女性作家の妊娠騒動、イギリスの性転換女性アッシュレー夫人の離婚裁判などが報じられました。

カルーセル麻紀が売り出したのも、丸山(美輪)明宏が三島由紀夫脚本の「黒蜥蜴」に女優として主演して大ヒットしたのもこの時代でした。
 
そんな時代に咲いた花のひとつが女装歌手橘アンリ(21 自称)でした。

彼女は、1969年9月に東京赤坂のホテル・ニュージャパンと「女性」歌手として出演契約を結んで話題になった人です。
橘アンリ.jpg
歌う橘アンリ(『週刊新潮』 1969年6月28日号)

混血女性のような顔だちきゃしゃな首、スラリとした脚、ミニドレス姿で週3回、のレストランのステージに立ち、シャンソンやカンツォーネを歌いました。

声はやはり低音、それでも外人がほんとんどの客にはOKだったようです。
 
彼女は、四国の松山で6人兄弟の末っ子に生まれ、小学校時代に両親と死別し、4人の姉に囲まれて、しゃべる言葉は女言葉、姉たちの感性を自分の感覚として成長しました。

中学2年の時、ゲイの大学生にフェラチオされて目覚め、野球の名門松山商業高校時代もオネエ言葉で通したそうです。

卒業後は上京して会計事務所に勤めましたが1年半しか続かず、四谷のゲイバー「一力茶屋」へ入店、ゲイボーイとして「女」を磨きました。

そして、芸能マネージャーの目に留まり、9カ月の歌のレッスンの後、めでたくデビューとなりました。
 
東京オリンピック(1964年)前後の赤坂は、ちょっと不良っぽい外人が多く、インターナショナルで怪しい雰囲気の街でした。

ブルーボーイ・ショーで評判になった「ゴールデン赤坂」などショーを売り物にするクラブやゲイバーも多く、そう、現在の六本木と新宿歌舞伎町を混ぜたような感じかもしれません。

アンリはそうした街に咲いた妖しい一輪の花だったのです。
 
「彼女の場合は美少年で売ってるのでしょう。わたしは外見もこの通り女だし、女として売ってるの」。
アンリは、当時売り出し中のピーターにライバル意識を燃やしていました。
しかし「歌手として一流に」という彼女の夢はかないませんでした。
ライバル視したピーター(池畑慎之介)のその後の大活躍とは比べる術もありません。
橘アンリ「甘い生活」.jpg
橘アンリ「甘い生活」(1970年)

アンリが歌った13年後、ホテル・ニュージャパンは紅蓮の炎に包まれ、死者33人の大惨事を起こします。
そのニュースをアンリはどこでどうして見ていたのでしょうか。
 
参考資料 :『週刊文春』1969年10月20日号

(初出:『ニューハーフ倶楽部』 第34号、2001年11月)

【追記】
トランスジェンダー歌手については、下記をご覧ください。
三橋順子「トランスジェンダー歌謡の歴史」
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2017-01-07
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日本女装昔話【番外編・第4回】新劇女優を目指した男性 花井優子の挑戦 [日本女装昔話]

新劇女優を目指した男性 花井優子の挑戦 (1978年)

歌舞伎に代表される日本の伝統的な演劇は、女形と深い関係があります。
しかし、そうした歌舞伎(旧劇)に対抗してヨーロッパの演劇の影響下に始まった新劇は、女優中心で(例外的な劇団を除いて)女形が舞台に起用されることは稀でした。
 
そうした性別の区分がうるさい新劇の世界で「女優」を目指した一人の男性がいました。
1978年に演劇集団「円(えん)」の研究生に採用された花井優子(25)です。
 
長男として生まれた「彼女」は、母親の化粧品を塗っては鏡の前でうっとりする子供時代を経て、中学3年の時、担任の男性教師に犯され、完全に「女」に目覚めてしまいます。

ちょうどその頃、新劇の大物女優「文学座」の杉村春子の公演「女の一生」を見て感動し、新劇女優になる夢を抱きます。
 
大学進学を機に上京、テレビで見た赤坂のゲイ・クラブ「ジョイ」のママ(マダム・ジョイ)の美しさに魅せられて、女装して19歳でゲイ・クラブでアルバイトを始め、大学は2年で中退。

このままだったら典型的なゲイボーイのコースでしたが、彼女は仕事のかたわら芝居見学を続けます。

23歳の時、日本国内で去勢手術を受け、また一歩、女に近づき、そして、25歳になったこの年、ついに念願かなって「円」の研究生に採用されたのです。
 
身長168cm、体重47kg、B84W58H85というスレンダーなボディは、外見的にはほとんど女性。しかも写真のように、ちょっとエキゾチックな美形です。
花井優子.jpg
花井優子(『週刊プレイボーイ』1978年10月10日号)

容姿だけなら十分に女優として通用しそうですが、容姿だけでは女優は務まりません。
彼女の場合、演技力もさることながら、最大の悩みは声。
メリハリの効いた舞台声を出そうとすると、男の地声が出てしまうのです。

その弱点をなんとか克服して「火の玉みたいな感じのする女を思い切り演じてみたいの」というのが、彼女の望みでした。
 
この記事から23年がたちました。
残念なことにその後の花井優子の動静について、週刊誌の類は何も伝えていません。
新劇女優として舞台に立つという彼女の夢は果たしてかなったのでしょうか。

演劇世界は厳しい世界です。
劇団の研究生になっても舞台に立ち、名の有る役につくにはまでには厳しい修行が待っています。
大成する人は、その中でもごく少数です。
多くは世間に名を知られることなく舞台から消えていくのです。

花井優子もその一人だったのでしょうか。
 
彼女の挑戦の数年後の1981年、ニューハーフをキャッチ・コピーに松原留美子が角川映画「蔵の中」の主演女優に抜擢されます。
しかし、彼女の女優生命も短いものでした。

1990年には矢木沢まりが「Mrレディ 夜明けのシンデレラ」に主演しましたが、やはり女優としては大成しませんでした。
大御所の美輪明宏やピーター(池畑慎之介)は別格として、トランスジェンダー「女優」はいないのが現状です。
そろそろ誰か出てきて欲しいと思うのですが・・・。
 
参考資料 :『週刊プレイボーイ』1978年10月10日号

(初出:『ニューハーフ倶楽部』 第33号、2001年8月)
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日本女装昔話【番外編・第3回】泡姫は男の子! 日本最初のニューハーフ・ソープ嬢 [日本女装昔話]

泡姫は男の子! 日本最初のニューハーフ・ソープ嬢 (1981年)

「ニューハーフ・ソープ嬢」と題しましたが、実はまだ「ニューハーフ」という言葉も「ソープランド」という言葉も無く、それぞれ「ゲイボーイ」「トルコ風呂」と呼ばれていた20年前のお話です。
 
当時「トルコ風呂」のメッカとして、知らない男性はいない名声?と繁栄を誇っていた滋賀県雄琴温泉に「男性トルコ嬢」が出現し、並大抵のサービスでは驚かない常連客の間で大いに話題になりました。

話題の主は、雄琴温泉「トルコ江戸城」に勤務する綾姫さん(21歳)。
雄琴温泉「トルコ江戸城」の綾姫嬢.jpg
日本初のゲイボーイ「トルコ嬢」 雄琴温泉「トルコ江戸城」の綾姫嬢
(『アサヒ芸能』1981年2月5日号)

トルコ嬢歴まだ3カ月、店の制服のチャイナドレス姿も初々しく、身長160cm、体重45kgのスレンダーな身体でありながら、B81W59H82というなかなかのプロポーション、小ぶりだがきれいにふくらんだ乳房は女性ホルモン注射の成果、表情もしぐさも語り口も見事な女ぶりなのです。
 
とは言え、彼女の戸籍は男性。
山梨県で5人兄弟の次男として生まれ、中学までは陸上部で活躍した普通の男の子、卒業後は大工を目指して技術専門学校へ進みました。
ところが、18歳の時、母親が入院していた病院で知り合った年下のゲイの高校生におフェラされたのがきっかけで心の中の「女」が目覚めてしまいます。
 
家出して京都祇園のスナックで女性に混じってホステス修行。
そこの常連客の男性に言い寄られて半ば強引に「処女」喪失。
そして、性転換手術の費用を貯める目的で雄琴の「トルコ嬢」になったという訳です。
 
当然のことながら、彼女、トルコ嬢の仕事はすべてこなします。
「ローション洗い」(ローションを全身に塗ったトルコ嬢がボディを使って洗ってくれる)の時に発揮する舌技はなかなかの評判だし、もちろん「本番」もOK(入れる場所が少し違うようですけど)。

彼女を雇った「江戸城」の鈴木社長も「ホンモノのトルコ嬢より、ずっと女らしい子」、「テクニックもどこをどう攻めれば男が気持ちよくなるか、それが経験でわかっているから、これはもうバツグン」と手放しでほめちぎってます。
 
彼女は平均一日4人のお客を取る売れっ子。
「ノンケの男が好き」、「わたしは女になっているつもりだし、女になりきりたいんだから」と言う彼女には、ノンケ男相手の「トルコ嬢」の仕事は合っていたのでしょう。
 
今から6年ほど前、写真週刊誌が岐阜の金津園「ホワイトハウス」勤務の白石敬子さん(23歳)を「ニューハーフ・ソープ嬢、第一号」と紹介しました(『FRIDAY』1995年6月30日号)。
しかし、本当の第1号は、その15年前にすでに出現していたのです。
 
現在ならニューハーフのソープ嬢と言っても驚くほどのことではないかもしれません。
しかし、20年前は違います。
衝撃的な出来事でした。
そうした意味で、綾姫さんはニューハーフの風俗業界進出のパイオニアの一人と言えるし、また彼女を雇った社長の先見の明にも敬意を表したいと思います。
 
あれから20年、綾姫さんがどこかで幸せなオバさんになっていればいいなと思います。
 
参考資料 :『アサヒ芸能』1981年2月5日号

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第32号、2001年5月)
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日本女装昔話【番外編・第2回】名門私立女子大の怪しい受験生の正体は? [日本女装昔話]

名門私立女子大の怪しい受験生の正体は?(1975年)

毎年、大学入試シーズンになると不正受験のニュースが話題になります。
不正受験には様々なテクニックがありますが、これほど大胆華麗?、ユーモラスな手口で人々の関心を集めた事件はないでしょう。
 
舞台は今から25年前、東京多磨地区にある私立の名門T女子大です。
津田塾女子大学.jpg
事件の舞台になったT女子大学

国際関係学科の試験終了後、一人の受験生が試験官に「私のお隣の人、男の人ではないでしょうか」と告げてきたのが事の発端でした。
 
なにしろ女子大です。
驚いた試験官は受験票の束から問題の受験生の写真を取り出して密告者に確認を求めました。

しかし、受験票の人物と試験を受けた人物は確かに同一人物でした。
「これが男だって?そんなバカな」「ちょっと老けてるけどね。やっぱり女性でしょう」。
入学試験委員室の教授たちは、この時点では正体を見破れなかったのです。
 
これで終わっていたら、不正受験は完全犯罪だったかもしれません。
ところが、翌日の英文学科の試験にも問題の「彼女」が現れたのです。
白いタートルネックのセーターに真っ赤なパンタロン、165cmの長身に洒落た7分丈コートをはおり、口紅も鮮やかな水商売風の濃化粧。

地味な服装の受験生の中ではひときわ人目を引く容姿です。
 
前日は見逃してしまった教授たちのマークは厳しいものがありました。
「手がごつごつしていて女性の手でない」「化粧の下に青い髭剃り跡が見える」、疑惑を裏付ける報告が次々に入試本部にもたらされます。

「間違いなく男だ。替え玉受験だ!」と断定派の老教授。
「いや、ホルモン異常の女性かもしれない。決めつけて間違ったら人権問題になる」と慎重派の若手教授。
入試本部は喧々諤々の大騒ぎになりました。

その時、ある教授が疑惑人物と同じ高校出身の受験生がいたことを思い出しました。
入試が終わった後、同級生たちに受験票の写真が提示されました。

「あなた方の同級生の〇山〇子さんですか」。
2人の同級生は激しく頭を振って「違います!」と断言しました。

これで決まりました。
教授たちは別室に待機させていた疑惑人物を問い詰めました。
観念した「彼女」は、あっさり白状しました。
「彼女」の正体は、なんと本物の〇山〇子の実の父親だったのです。
しかも50歳近い彼は娘の高校の英語教師でした。

後日、娘も父親の無謀な賭けの「共犯」であることがわかりました。
 
前代未聞の父親女装替え玉受験という悲喜劇はこうして幕を下ろしました。

世間はこの事件に驚き、笑いながらも、女装してまで娘の合格を図った悲しい父性愛にいくばくかの同情を寄せました。
 
しかし、この事件には不思議な点があります。
まず彼のあまりに見事な女装ぶり。
喉仏を隠すタートルネック、ごつごつした脚線を隠すパンタロン、娘の協力があったにしろ女装ファッションとしての要点を見事に押さえているのです。

そして女装時の堂々とした態度。
彼は受験の2日間、女子トイレを利用するなど女子大という女の園で臆する事なく行動しています。

これは熟練した女装者でも容易なことではありません。
 
こんなハイレベルな女装行為が、替え玉受験のために思いついた即席の女装者に、はたして可能でしょうか?

もしかして彼は、トップレベルのアマチュア女装者だったのでは・・・?。
真相は25年の時の流れのかなたです。
 
参考資料 :『週刊サンケイ』1975年4月17日号
      『週刊朝日』1975年4月18日号

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第31号、2001年1月)
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日本女装昔話【番外編・第1回】女装芸者「市ちゃん」 [日本女装昔話]

女装芸者「市ちゃん」 (1959年)

三河高原に抱かれた愛知県東加茂郡足助(あすけ)町。
1959年の晩秋、町外れの農家小沢家で、半年前に家出した一人息子の市左衛門(よりによって超古風な名前ですね)の帰郷祝いが開かれていました。

本人に先立ってトラック数台分の荷物、テレビ、電気洗濯機など最新式の家庭電化製品や立派な桐たんすにぎっしり詰まった豪華な女物の衣装などが運び込まれていました。
その様子を見た招待客たちは「市坊は東京のお大尽の娘を嫁にもらった」と噂し合いました。
 
宴もたけなわ、電蓄から流れる三味線の音に合わせて、一人のあでやかな芸者が現れ、扇片手に舞い始めました。
驚く人たちがよくよく見れば、当夜の主賓のはずの市坊。
「市坊が女になった!」。
衝撃はたちまち麓の町にまで広がりました。
女装芸者(鬼怒川温泉・市ちゃん) (2) - コピー.jpg
芸者時代の市ちゃん(『風俗奇譚』1962年1月号)

子供の頃から女の子とばかり遊んでいた市ちゃんは、中学卒業後は土産物店に勤めながら三味線や日本舞踊を習う女っぽい青年でした。

青年団の集団作業でも力の弱い市ちゃんは能率が上がらず「女以下じゃ」と馬鹿にされていたのです。
春のある日、山村での生活が嫌気がさした市ちゃんは、なけなしの5000円を持って村から姿を消しました。
 
数日後、お金を使い果たし東京駅の待合室で途方にくれていた市ちゃんに中年男性が声をかけました。
男は思いがけないことを言いました。「芸者に化けてみないか」。
市ちゃんの女性的傾向を見抜いていたのです(すごい慧眼!)。

着いた先は栃木県鬼怒川温泉。身なりを女姿に変えた市ちゃんは、検番(芸者の管理組合)の試験にすんなり合格し、「きぬ栄」の名でおひろめとなりました。

さすがに置屋の女将は市ちゃんが男であることを見破っていましたが、市ちゃんの女っぷりに「これは行ける」と思った女将は、市ちゃんに女になりきる秘訣を事細かに授けました。

秘密は女将と朋輩の芸者以外に漏れることはなく、若くて美人、三味線と日舞が上手なきぬ栄は、たちまち売れっ奴にのし上っていきました。
 
8月、東京の某銀行の慰安旅行で鬼怒川温泉にやって来た50がらみの部長が、きぬ栄にホレこみましだ。

週末には必ず通ってくるほどの熱の入れようで、やがてお定まりの身請け話となりました。
きぬ栄を囲った男は彼女が欲しがる家電製品や着物を次々に買い与えましたが、きぬ栄は「結婚するまでは」と決して肌を許そうとしません。

とは言え、男の執着を避けるにも限度があり、そもそも戸籍が男なのだから結婚はできません。
思い詰めたきぬ栄は、男と別れ貢がせた道具や衣装を持って故郷に帰ることを決心します。
 
こうした事情で先程の衝撃の帰郷場面となったのです。
「女になるというなら仕方がないわさ。こうなれば息子の思うように生きさせなければなあ。今はそういう世の中なんじゃで」市ちゃんの母はこう語っています。

40年前とは思えない、なんと進んだコメントでしょう。
 
当時、推定20歳の市ちゃんも今では60歳。元気で女として暮らしていることを祈りたいです。
 
参考資料 :『週刊文春』1960年5月16日号

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第30号、2000年11月)

【追記】たいへん残念なことに、「市ちゃん」は、1970年前後に自殺されたことが判明しています。
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「日本女装昔話」番外編の目次 [日本女装昔話]

「日本女装昔話」番外編
 
ここに掲載した5つの物語は、ニューハーフ系商業雑誌『ニューハーフ倶楽部』(三和出版)第30号(2000年11月)から34号(2001年11月)の「Human history」に掲載されたものです。

このコーナーは、人物や事件に焦点をあてて女装世界を語る趣旨で、同誌の創刊直後から続く名門コーナーでしたが、執筆担当の方が病気で倒れたため、その代役として私が「橘さぎり」の筆名で5回分を執筆したものです。

本来の執筆担当の方の復帰の目処がたたないため、私の連載コーナー「女装百話」(このサイトでは「日本女装昔話」)に吸収合併する形で打ち切りとなりました。

ここに「日本女装昔話」番外編として収録します。

番外編 第1回 女装芸者「市ちゃん」 1959年
 (『ニューハーフ倶楽部』第30号、2000年11月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-25
番外編 第2回 名門私立女子大の怪しい受験生の正体は? 1975年
 (『ニューハーフ倶楽部』第31号、2001年1月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-25-1
番外編 第3回 泡姫は男の子!日本最初のニューハーフ・ソープ嬢 1981年
 (『ニューハーフ倶楽部』第32号、2001年5月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-25-2
番外編 第4回 新劇女優を目指した男性 花井優子の挑戦 1978年
 (『ニューハーフ倶楽部』 第33号、2001年8月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-25-3
番外編 第5回 一流ホテルと契約した女装歌手 橘アンリの夢 1969年
 (『ニューハーフ倶楽部』 第34号、2001年11月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-25-4
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日本女装昔話【第34回】大阪の「男娼道場」主、上田笑子 [日本女装昔話]

【第34回】大阪の「男娼道場」主、上田笑子 1950~1970年代

前回は、女装男娼の集合写真の分析から、少なくとも大阪では、戦前(1930年代)から、女装男娼の横のつながりがあったことが推測できました。
 
実はその写真に私の興味を強く引く人物が写っていました。
1930年代(昭和5~15年)と推測した屋内での記念写真の右端の「藤井一男 笑子 二十五才」と記された人物です。

この「笑子」が戦後、1950年代から70年代にかけて、大阪釜ケ崎(山王町界隈)で「男娼道場」の主と言われた、上田笑子と同一人物ではないだろうかと気づいたからです。
 
上田笑子については、1958年(昭和33)の「大阪の美人男娼ベストテン」というルポが「この道の草分け」「蔭間茶屋"エミちゃんの家"のママ」、「彼女のシマを"おかまスクール"と呼ぶ」と紹介しています(『増刊・実話と秘録:風俗読本』1958年1月号)。
女装男娼(上田笑子).jpg
1957年、42歳のころの上田笑子。(『増刊・実話と秘録』1958年1月号)

それから12年たった1970年(昭和45)には「私の"オカマ道場"の卒業生は四千人よ-大阪・釜ケ崎、上田笑子の陽気なゲイ人生-」という記事が週刊誌に載っています(『週刊ポスト』1970年12月25日号)。

そこには、彼女が女装男娼を育成する「男娼道場」を開いて25年になること、育てた子は「もう四千人くらいになりますやろうなァ」「東京の男娼の八割方がたはウチの出やね」と語られています。

これらの記事から、上田笑子のプロフィールを整理してみましょう。
本名は上田廣造、1910年(明治43)奈良県生まれ。
13歳のとき(1923年=大正12)から男娼の仲間に入り、以後、その道一筋。1945年(昭和20)、つまり、終戦後すぐに「男娼道場」を開設し、多くの後進を育成した、ということになります。

となると、彼女は1935年(昭和10)に25歳だった計算になり、例の1930年代と推定される集合写真の「笑子 二五歳」とぴったり一致してくるのです。
もっとも、本名が、藤井一男と上田廣造でぜんぜん違うのですが、「藤井一男」が偽名の可能性もあり、写真の面差しは、どこか似たものがあるように思います。
 
さて、笑子は「東京の男娼の八割方がたはウチの出」と豪語していますが、実際にそうだったのでしょうか。
8割かどうかを確かめる術はありませんが、どうも女装男娼は、戦前、戦後を通じて、関西(大阪)が本場だったのは確かなようです。
 
戦前、東京の浅草や銀座で逮捕された女装男娼の中にも、関西からの遠征組がかなりいたこと、戦後の東京上野の女装男娼の間でも、関西系が幅をきかしていたことなど、その兆候はいくつもあります。

さらに歴史を遡れば、江戸の歌舞伎の女形、あるいは陰間茶屋の蔭子は、お酒と同じく「下り者」(京・大阪から江戸に下ってきた者)が第一とされ、東育ち(江戸・東国の生まれ)は武骨で使い物にならないとされていました。
 
昭和期の女装男娼の関西優位には、そんな伝統も反映していたのかもしれません。
ただ、関西の状況を記した資料が乏しく、実態不明な点が多いのが残念です。
男娼バー「ゆかり」.jpg
大阪釜ケ崎の女装バー「ゆかり」(1957年ころ)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第57号、2007年8月)

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日本女装昔話【第33回】女装男娼の集合写真 [日本女装昔話]

【第33回】女装男娼の集合写真 1935年

前回、ご紹介した『エロ・グロ男娼日記』に関連して、昭和戦前期の女装男娼について調べているうちに、私が所蔵している資料の中の1枚の写真が気になりはじめました。

同性愛者のグループを紹介した週刊誌の記事に掲載されている「大正時代の大阪の男娼たち」というキャプションがついた写真です。
女装男娼の集合写真1.jpg 
「日本花卉研究会-世にも不思議な社交クラブ-」(『週刊文春』1959年6月15日号)

写真には8人の着物姿の「女性」が椅子に腰掛けて並んでいます。
皆それぞれに着飾った姿、それに背景などから、スナップ写真ではなく、ちゃんとした場所で何かの会合の折りに記念撮影的に撮られたもののようです。

しかし、彼女たちが本物の女性でないのは、下部に男性名と女装名(それに年齢)が記されていることからわかります。
印刷が不鮮明なのが残念ですが、皆さん、なかなかの女っぷりで、女装レベルの高さがうかがえます。
 
なぜ、この写真が気になるかというと、理由が2つあります。
ひとつは、写真の時期の問題です。
直感的に「大正時代」よりももっと新しい昭和戦前期の写真ではないかと思ったのです。
というのは、昭和の着物文化史を勉強している私の目からすると、左端の「繁子」が着ている幾何学模様の着物(銘仙?)、左から3人目の「百合子」が着ている大柄の模様銘仙?は大正期では早すぎるのです。
この手のモダンな柄は、1930年代(昭和5~15)の流行です。
 
2つ目は、女装男娼の組織化の問題です。
『エロ・グロ男娼日記』の愛子や、昭和2~12年の東京における逮捕事例をみても、戦前期の女装男娼は単独行動で、グループ化の形跡は見られません。
東京の女装男娼が組織化されるのは戦後混乱期の上野において、というのが私の仮説です。

しかし、この写真によれば、少なくとも大阪ではすでに戦前期に、こうした会合をもつ程度には、女装男娼の横のつながりがあったことになります。
 
さらに調べている内に、もう一枚、女装男娼の集合写真らしいものを見つけました。
女装男娼の集合写真2.jpg
井上泰宏『性の誘惑と犯罪』(1951年10月 あまとりあ社)

1951年に刊行された井上泰宏『性の誘惑と犯罪』の口絵に掲載されていたものです。
キャプションには「女化男子」とあり、写っている10人が女装の男性であることがわかります。
しかし、撮影時期・場所、どういう人たちなのかは一切記されていません。
 
この写真も、着物文化史的に見てみましょう。
屋外での撮影ということもあって、10人中7人が大きなショール(肩掛け)を羽織っているのが注目されます。
この手のショールが大流行するのは、やはり1930年代なのです。
最初の写真でも、室内にもかかわらず右から4人目の「お千代」が羽織っています。

というわけで、この写真もまた1930年代のものと推定できます。
当時、アマチュアの女装者はまったく顕在化していないので、彼女たちもまたプロ、つまり女装男娼と考えて間違いないでしょう。

場所が不明なのは残念ですが、やはり集会を開く程度の横のつながりが、すでにあったことが確認できるのです。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第56号、2007年5月)

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日本女装昔話【第32回】『エロ・グロ男娼日記』の世界(その2) [日本女装昔話]

【第32回】『エロ・グロ男娼日記』の世界(その2) 1931年

前回は、昭和6年(1931)に刊行即日発禁処分になった実録(風)小説『エロ・グロ男娼日記』(流山龍之助著 三興社)の主人公、浅草の美人男娼「愛子」の生活ぶりを紹介しました。

そこで問題となるのは、愛子のような女装男娼が、昭和初期の東京にほんとうに実在したか?とういうことです。
 
そのヒントは作中にありました。
ある日、愛子は浅草公園の木馬館裏手にいた人品のいい男に誘いをかけたところ、これが象潟署の刑事で、彼女は直ちに逮捕連行されてしまいます。
そして「旦那如何です モガ姿の変態が刑事に誘ひ」という見出しで新聞に載ってしまいました。
 
この箇所を読んだ時、「あれ?どこかで見た記事だなぁ」と思いました。
早速、ファイルを調べてみると、小説刊行の3ヵ月前の『読売新聞』昭和6年2月27日号にまったく同じ見出の記事がありました。

小説の愛子逮捕の記事は、実在の女装男娼逮捕の記事を出身県と氏名を伏字にしただけでそのまま流用していたのです。
 
この時、逮捕されたのは 福島県生れの西館儀一(24歳)という女装男娼。
この人物は、富喜子と名乗って浅草を拠点に活動していたことが他の記事からわかります(『東京朝日新聞』昭和2年8月13日号)。
 
もちろん、この記事の一致から、愛子=西館儀一(富喜子)と考えるのはあまりに単純すぎます。
ただ、愛子のモデルになるよう女装男娼が、昭和初期の東京浅草に確実に存在していたことは間違いありません。

小説の中で、愛子が新聞記者のロングインタビューを受ける箇所があります。
記者は愛子から、出身、子供時代の思い出、女装男娼になった経緯、現在の日常などを詳細に聞き出しています。
 
おそらく、小説の作者(流山龍之助)も、この新聞記者のように実在の女装男娼から詳しいインタビューをとり、それをもとに小説化したのではないでしょうか。
それほどこの『エロ・グロ男娼日記』はリアリティに富んでいるのです。
 
浅草を拠点に活動していた女装男娼たちは、やがてモダン東京の新興の盛り場として賑わいはじめた銀座に進出します。

愛子も銀座に出かけて松坂屋デパートで半襟などを買った後、上客(退役陸軍大佐)をつかんでいます。
浅草から銀座へ、東京の盛り場の中心の移動とともに、女装男娼の活動地域も移動するというのはおもしろい現象です。
 
その結果として、1933~37年(昭和8~12)、銀座で逮捕された女装男娼が何度か新聞の紙面を賑わすことになりました。

その中には、1937年3月に逮捕された福島ゆみ子こと山本太四郎(24歳)のように、「どう見ても女」と新聞で絶賛?された美人男娼もいました。
女装男娼(福島ゆみ子)1.jpg
女装男娼福島ゆみ子の艶姿。
「男ナンテ甘いわ」というキャプションが実に効果的。
(『読売新聞』昭和12年3月28日号)
女装男娼(福島ゆみ子)2(2).jpg
「これが男に見えますか」という見出しの通り、大きな市松柄の振袖の着物に華やかな色柄の羽織、ショールをかけた当時の流行ファッションを見事に着こなしている。
(『東京日日新聞』1937年3月31日号)
 
困難な社会状況の中で、たとえ男娼という形であっても、「女」として生きようとした彼女たちに、どこか共感を覚えるのは私だけでしょうか。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第55号、2007年2月)


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日本女装昔話【第31回】『エロ・グロ男娼日記』の世界(その1) [日本女装昔話]

【第31回】『エロ・グロ男娼日記』の世界(その1) 1931年

国立国会図書館の特別閲覧室には、旧内務省が発禁処分にした一群の図書が収蔵されています。
その中に、流山龍之助著『エロ・グロ男娼日記』という文庫版108頁の小冊子があります。

昭和6年(1931)5月25日に、下谷区西町(現:台東区東上野1丁目)にあった三興社から刊行された翌日、「風俗」を乱すという理由で即日発禁処分を受けたいわく付きの本です。
エログロ男娼日記.jpg 
黄色と黒のモダンなデザインの表紙。
エログロ男娼日記 (2).jpg
「六年五月二十六日 禁止 別本」という処分を示すペン書きと「内務省」の丸印。

後に「削除改訂版」が出たようですが、現存する初版はおそらくこの一冊のみと思われる貴重なものです。
 
主人公は、浅草の女装男娼「愛子」(22歳)。
時代は、帝都東京がエロ・グロブームに沸き、モダン文化が花開いた昭和5年(1930)頃。
愛子の日記(手記)の形態をとった実録?小説です。
 
愛子の日常をのぞいてみましょう。
自宅は浅草の興行街(六区)の近く、朝は9~10時に起き、床を畳み、姉さんかぶりで部屋を掃除。
その後、化粧。牛乳で洗顔、コールドクリームでマッサージ、水白粉で生地を整え、パウダーで仕上げ、頬紅をたたき、口紅、眉墨を入れます。
髪は櫛目を入れ、アイロンで巻毛とウェーブを付けます。
しゃべり言葉の一人称は「あたし」「あたくし」。

銭湯は、以前は女湯を使っていましたが、男娼として界隈で有名になったので、今は男湯。
ほぼフルタイムの女装生活です。

遅い朝食を食べに食堂に入ると、男性から「よう、別嬪!」と声がかかり、馴染み客からは「お前はいつ見てもキレイだなぁ。まるで女だってそれ程なのはタントいねぇぜ」と言われるほどで、かなりの美貌。

初会の客が女性と誤認するのもしばしばで、警察に捕まった時も、刑事にも「なかなかいいスケナオ(女)ぢゃねえか」と言われ女子房に放りこまれたほど。

今風に言えば、パス度はかなりのハイレベルですね。

若い美人、しかも気立ても穏やかですから仕事はいたって順調。
会社員の若い男を誘い旅館で一戦した翌日は、朝食後にひょうたん池(浅草六区)で出会った不良中学生3人を自宅に連れ込み、まとめて面倒をみてやり、夜になって時間(ショート)の客1人、泊まり客1人で収入6円という一日。
 
電車初乗りが5銭、そばが10銭、天丼が40銭という時代ですから、6円は現在の物価に換算して15000円くらいでしょうか。
 
銀座で五十年配の立派な紳士(退役陸軍大佐)に声をかけられ、大森(現:大田区)の待合で遊んだり、ブルジュア弁護士の自家用車で、なんと京都・大阪までドライブしたり、醜男ですが誠意のある妻子持ちの請負師に妾になってくれと迫られたり、「旦那いかがです」と、うっかり私服警官に声をかけて、留置所で10日間を過ごすことになったり、なかなか波乱に富んだおもしろおかしい生活を送っています。
 
さて、女装の社会史を研究している私の関心からすると、問題は、愛子のような女装男娼が、昭和初期の東京にほんとうに実在したか?とういうことです。

その点については、また次回に。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第54号、2006年11月)

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