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日本女装昔話【第26回】華族の坊ちゃまの性転換 松平多恵子 [日本女装昔話]

【第26回】華族の坊ちゃまの性転換 松平多恵子 1950年代

前々回、前回と日本最初の「性転換」女性、永井明子(1951年2月造膣手術、53年9月報道)について紹介しましたが、今回はそれに続く第2例です。
 
「性転換」女性の第2例は、1954年秋に『日本観光新聞』に報道された松平任弘(女性名:多恵子 34歳)だと思われます。

松平は1922年(大正11)に東京渋谷区松濤の生まれ、旧男爵家の三男で、秩父宮勢津子妃殿下の従兄弟にあたるという名門の出身でした。

海軍中尉として中国戦線(上海)に従軍し、47年(昭和22)に帰国した後、53年秋に睾丸摘出と陰茎切除手術を受ました。
 
松平が注目されたのは、その出身が高松藩12万石のお殿様に連なるに大名華族という上流階級だったことです。

明治政府により旧公家や大名家、それに明治維新の勲功者を対象に設定された特権階級である華族の制度は、1947年の日本国憲法の実施により廃止されましたが、その余光はまだまだ根強いものがありました。
 
一方で、国家の保護を失い経済的に困窮した華族の没落もいろいろ報道されていた時代でした。
男爵家のお坊ちゃまの女性への性転換は、そうした世相を背景に、庶民にとって格好の話題になったのです。
 
松平が、手術に至った事情については、週刊誌では終戦後の混乱の中で負った戦傷で男性機能を喪失したことがきっかけとされています。
つまり「名誉の負傷」の場所が悪かったことがきっかけということです。
松平多恵子1.jpg
30歳代の松平多恵子(『奇譚クラブ』1955年1月号)

しかし、当時、女装や転性の研究家として知られていた滋賀雄二のインタビュー記事「人工女性 松平多恵子との会見記」(『奇譚クラブ』1955年1月号)によれば、松平は睾丸肉腫の手術の際に医師に願って陰茎切除も行ったと語っていて、戦傷云々の話はまったく出てきません。

また『日本週報』1954年11月5日号の記事によれば、松平は幼少の頃から、女性的性格、女装常習の傾向があり、18歳の頃に家出、女装で女給などをしながら各地を転々とした後、高松玉枝の芸名で旅の一座の女形として活躍した過去があったそうです。

その後、親に連れ戻され、男性として大学入学、卒業と同時に海軍少尉に任官して、暗号解読を任務とする上海第二気象隊に配属されます。
部下はひそかに「お嬢さん隊長」と呼んでいたそうです。
 
そうした前歴や、戦後、日本舞踊教師・舞踊家として身を立てていた事情を考えると、「性転換」は松平の女性化願望の結果であって、戦傷云々とか睾丸肉腫とかいう話は、体面を取り繕うための理由付けだったのではないでしょうか。
 
なお、松平の「性転換」は、精巣と陰茎の除去手術のみで、インタビューの1954年末の時点では造膣手術は受けていません。

現在の基準では「性転換」とは言えませんが、「性転換」概念がまだ確立されていない1950年代では、そうした造膣未了の例や半陰陽の治療手術も「性転換」として報道していました。
 
『ヤングレディ』1965年10月31日号の記事によると、松平は、舞踊家としての活動をやめて、男性と「結婚」していました。
女としての後半生が平穏であったことを願いたいと思います。

松平多恵子2.jpg
40歳代の松平多恵子(『ヤングレディ』1965年10月31日号)


(初出:『ニューハーフ倶楽部』第49号、2005年8月)

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