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Trans-womanの美人コンテスト「ミス・インターナショナル・クイーン [講義資料]

「ミス・インターナショナル・クイーン」は、タイの観光地パタヤ(Pattaya)で2004年から年に1度開催されてい世界的規模のTrans-womanの美人コンテストです。

初期の頃はタイを中心とする東南アジア圏のTrans-womanしか出場しませんでしたが、次第に参加国が増え、現在では世界各国の代表者が美を競い合う場になりました。

日本人では、はるな愛さんは、2009年の「ミス・インターナショナル・クイーン(Miss International Queen)」で優勝しました。
日本人として初、コンテスト史上最高齢(37歳)の優勝という快挙でした。
 
「Miss International Queen 2009」 優勝は、はるな愛(日本)
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2009年と2007年の優勝者
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2015年大会の様子を紹介しましょう。
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画像は決勝に進出した9人です。
右から2人目の黄色のドレスが日本代表の西原さつきさんです。
世界に通用するプロポーションで、「今年はかなり行ける」と期待したのですが、ミス・フォトジェニック賞(実質4・5位)に選ばれたものの、残念ながらベスト3には残れませんでした。
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グランプリは、フィリピン代表のトリクシー・マリステラ(TrixieMaristela)さん。
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2位は、ブラジル代表のヴァレスカ・ドミニク・フェハーズさん。3位に、地元タイ代表のソーピダー・シリワッタナーヌクンさん。
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近年の傾向として、ブラジル(2013年優勝)、ベネズエラ(2014年優勝)など南米勢の活躍が目立ち、地元のタイがなかなか優勝できなくなりました。日本勢の2009年優勝のはるな愛さん、2010年2位のたけうち亜美さん以降、ベスト3進出がなく苦戦が続いています

2015年は女性のミスコンで最も権威があるとされるミス・ユニバース(Miss Universe)もフィリピン代表が優勝し、フィリピンが二冠でした。フィリピンはミス・ユニバースで4回優勝しているようにミスコンではアジア最強国です(日本は優勝2回)。

南米勢も、女性のミスコン上位の常連で、女性、Trans-womanを問わず、どうも、見せる(魅せる)技術に優れた伝統があるようです。

2020年(3月開催)の優勝は、メキシコ代表のバレンティナ・フルシェ(Valentina Fluchaire)さんでした。
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東京レインボープライド(TRP)・パレード [講義資料]

東京レインボープライド(TRP)・パレードの様子です。
撮影は2016~2019年です。
 
公園通り「丸井MODI」のレインボーフラッグ(2016)
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パレードの先頭、左からL,T,G,T(2016)
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レズビアンの模擬結婚式(2016)
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それぞれの主張を掲げる参加者(2016)
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「故郷を帰れる街にしたい」(2017)
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「暴露(アウティング)は人権侵害です!!」(2017)
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パレードの花形は、ドラァグ・クイーン(ゲイの女装パフォーマンス)(2016・2018)
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AIDS予防啓発運動のフロート(2016)
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「NO HATE」(反・憎悪犯罪)のフロート(2016)
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2018年は、「丸井」がスポンサーになり、沿道の街路灯に、写真家レスリー・キー撮影の「OUT IN JAPAN」
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(日本のLGBTの肖像写真シリーズ)が掲げられた。自分が出ているとは知らず、撮影していてびっくり。
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2019年は、今まで沿道でありながら動きがなかった西武デパートが、大きなレインボーフラッグを出してくれた。また沿道の観客も増えた。少しずつ協賛・支援の輪がひろがっていく。
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2018年からは、セックスワーカーとその支援者も参加するようになった。
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赤い雨傘(レッド・アンブレラ)は、セックスワーカーの人権運動の象徴。
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東京レインボープライド・パレード2019の詳細は下記で見られます。
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2019-04-28-1
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2019-04-28-2

2020年のパレードは残念ながら、「コロナ禍」のため中止になってしまいましたが、必ずまた、渋谷の街・代々木の森にレインボーフラッグがひるがえる日が来るでしょう。
その時には、ぜひ応援に来てください。


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遥かなる旅の記憶―38年前のシルクロード紀行(その1)― [論文・講演アーカイブ]

中国関係書籍の専門店「東方書店」の広報誌『東方』2020年9月号(474号)に、エッセー「遥かなる旅の記憶ー38年前のシルクロード紀行(その1)ー」が掲載されました。
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若き日の旅の記憶が、やはり若き日に定期購読していた雑誌に掲載されたこと、とても感慨深く、うれしいです。
「その1」は出国から、北京~ウルムチ~トルファンの旅の記録です。
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    遥かなる旅の記憶
      ―38年前のシルクロード紀行(その1)―
            三橋順子

初めての海外旅行がシルクロード
真綿のような積雲を浮かべた真っ青な東シナ海が黄色味を帯び始め、さらに黄土色に変わった。やがて島が見え、中国の大地が姿を現した。飛行機は上海上空で大きく旋回し、ほぼ直角に進路を変え、大運河に沿うように北京を目指す。

1982年8月20日、27歳の大学院生だった私は、國學院大学「考古学研究会友好訪中団」の一員として、まだ滑走路が1本しかない成田国際空港を出発した。初めての海外旅行、そして初めての空の旅だった。

日本古代史の研究者になることを志していた私が、なぜ専門違いの考古学の訪中団に加わったかというと、指導教授の林陸朗先生(日本古代史)が団長だったからだ。つまりお供(団長随員)である。

当時の成田―北京の飛行ルートは、現在の朝鮮半島を横切る最短コースではなく、直行便でも上海を迂回するルートだった。長崎・五島列島から東シナ海を横断して長江河口を目指す奈良~平安時代の遣唐使の航路と同じだった。だから、円仁の『入唐求法巡礼行記』にあるのと同じように、海の色の変化で大陸が近いことを知る経験ができた。

北京に着いて、さっそく故宮を見学。日本の宮都(平城京など)とは比べ物にならない広大さに驚いたが、高校生の時、「中国革命における長征の意義について」というレポートを書いて、今思えば、明らかに左翼の世界史の教諭に激賞されたくらい毛沢東思想かぶれの少年だった私(大学時代に憑き物が落ちた)は、毛主席の肖像画が掲げられた天安門を背景に記念写真を撮れたのがうれしかった。

当時の中国は、毛沢東の後継者だった華国鋒から実権を奪った鄧小平体制の初期(胡耀邦総書記、趙紫陽首相の時代)で、「改革開放」の近代化路線はまだ途に就いたばかり、文化大革命期の余韻が色濃く残っていた。

ウイグル自治区の仕組み
2日目の朝、中国民航機で新疆ウイグル自治区の省都、烏魯木斉(ウルムチ)に飛んだ。黄土台地、オルドスの平原、沙漠の塩湖や涸川(ワジ)、雪をいただく祁連山脈。地理学の教科書では知っていたが見たこともない風景に興奮した。
ウルムチに到着後、さっそく自治区博物館と少数民族博物館を見学。外に出ようとすると、一瞬たじろいだほど大勢の人たちが私たちを待っていた。珍しい「外賓」を見物しようとする人たちで、特に子供たちは興味津々という様子だった。

当時の新彊ウイグル自治区はまだ外国人観光客に開放されておらず、入域するには学術調査団の形をとらなければならなかった。私たちが「考古学研究会友好訪中団」と大袈裟に名乗っているのも、そうした理由だった。

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「外賓」を見物するウルムチの人々

宿泊した「崑崙賓館」は、ソ連が建てた天井が無駄に高い大きなホテル。エレベーターは手動で、女性服務員がタイミングを計ってレバーを引いて止める。段差数センチで止まると、乗っている人たちが拍手する。時には10センチ近い段差になることもあった。「ああ、これだからソ連は本格的な航空母艦が造れないのだな」と思った。

夕方、新疆ウイグル自治区政府を表敬訪問。公式行事なので、あらかじめ提出した名簿通りに列んで挨拶をする。私はいちばん年下の大学院生なので序列25位、つまりいちばん下っ端だ。「友好訪中団」の団長である林教授が挨拶し、それを受けてイスラム帽をかぶった白髭のウイグル族の長老の自治区政府主席が歓迎の辞を述べる。「皆さん、遠い日本からよくいらっしゃいました。なにかお困りのことがあったら、副主席の張さんに言ってください」

この一言で、自治区政府の仕組みがわかった。副主席は漢族で共産党の書記を兼ねている。自治区の顔はウイグル族、実権は漢族。この統治システムは、もうすでに確立していた(今はもっと露骨になっている)。

ちなみに、こうした場合、まず現地ガイドがウイグル語を中国語に訳し、それを全行程随行のガイドが日本語に訳すという二重通訳。中央から派遣されたガイド趙星海氏は私と同年齢の若い男性だったが、かなりのエリートで、現地のガイドとは格が違うという感じだった。

火州・トルファンへ
3日目の朝9時半、バスでトルファン(吐魯蕃)を目指して出発。バスは日野自動車製。郊外に出ると樹木はまったくなく、ところどころに草が生えている半砂漠、そしてそれすらもない小石だらけの礫沙漠(ゴビ)が続く。その向こうに天山山脈のボゴダ山(5445m)が白く輝いていた。

2時間ほどで達坂城人民公社に着いた。ここはいわゆる模範人民公社らしく、ウルムチ―トルファン往還を通る要人や外賓のための招待所があり、簡素だが清潔な食堂で昼食が供された。まさに沙漠の中のオアシスで、集落の周囲には農場が、さらにその外周に広大な放牧地が広がっていた。ここでも子供たちが集まってきて、束の間の日中友好交流(簡単な筆談)を楽しんだ。

人民公社とは、かつて中華人民共和国の農村にあった組織で、ソ連の農業集団化を模倣した集団所有制のもとで「自力更生、自給自足」の生産活動(農業・工業)を行い、同時に末端行政機関でもあった。しかし、改革開放政策の進展で1983年までにほとんどの人民公社は解体されたので、私たちが見たのはその最末期の姿ということになる。

13時半、火州・トルファンに着いた。ウルムチから休憩を含めて4時間の行程。宿舎の「吐魯蕃招待所」で一休みした後、五星人民公社のカレーズ(地下水路)の出口の見学に出かけた。遠く天山山脈から沙漠の地下をトンネルで流れてくる水は、想像していたよりずっと水量が豊かだった。ただ、天山の雪解け水なのでとても冷たく、農地に入れる前に地上の水路を迂回させて温めなければならない。水路の周囲にはポプラが林をなし、薄茶色の沙漠ばかり見てきた目にはまぶしいほど鮮やかな緑の農地が広がっていた。逆に言えば、カレーズがトルファン・オアシスの生命線であることがよくわかった。その昔、来襲する遊牧民族は、カレーズを破壊したという話はもっともだ。水道(みずみち)を絶たれれば、たちまちオアシス都市は干上がってしまう。

そこから、交河故城に向かう。車師国(前2世紀~5世紀)の都で、2本の峡谷に挟まれ、周囲は断崖絶壁で難攻不落を思わせる大規模な都市遺跡。NHK特集「シルクロード -絲綢之路(しちゅうのみち)-」(1980年4月~1981年3月)で大要はつかんでいたが、やはり驚いた。古代都市の遺構がそのまま地上にあり、あちこちに遺物が散乱している。居住区地区の街角で、誰かに出会いそうな気がするくらいだ。日本では古代の遺跡はすべて土に埋もれていて、発掘をした遺構や遺物を通じて、ようやくそこに何があったかを知ることができるのに。遺跡というもののイメージがまったく変わった。

遺跡で金髪の女の子に出会った。この地にさらに西方のアーリア系の血が及んでいることがわかる。ウイグルの人たちの顔立ちはかなり多様で、日本人に近いモンゴル系の人もいれば、彫りが深いトルコ系の人も多い。民族のるつぼという感じだ。

次に吐魯蕃博物館を見学。ここでトルファン文書(5~6世紀の高昌王国時代の漢文文書)を見た。私は学部時代、トルファン文書の研究で知られる土肥義和教授の講義を受けたので、実物を目の当たりにしてとても興奮した。そもそもの話、湿潤な日本では木に書かれた文書(木簡)や漆被膜に包まれた紙の文書(漆紙文書)など特殊な条件で残ることはあっても、紙の文書が地中からそのまま出土するということはまずありえない。出土文字史料については、それなりに学んできたが、「常識」が次々に覆されていく。

やっと招待所に戻って夕食。その後は「外賓」を歓迎する「ウイグル歌舞の夕べ」。ブドウ棚の下に絨毯が敷かれ、西域の楽器の生演奏で合わせてウイグル族の女性が踊る。回転が多い踊りで、唐詩にある長安の胡旋舞を思わせる(実際には胡旋舞のイメージを基にした再現のように思う)。

宴が終わったのは22時だった。でも空がまだ薄っすら明るい。トルファンは東経90度、15度で1時間だから、東経120度基準の北京標準時とは、2時間の時差があるはず。しかし、皇帝が時を一元的に支配する伝統がある中国は広い国土すべてが北京標準時なので、22時と言っても実際は20時なのだ(おまけに北緯42度なので夏の日没は遅い)。

ベゼクリク千仏洞へ
4日目の朝、シャワーを浴びる。元が雪解け水なので震えるほど冷たい。朝のお祈りを告げる声が流れてくる。異世界(イスラム世界)に来たことをあらためて実感。

火焔山の麓にあるベゼクリク千仏洞に向かう。壁画の切り取り跡が痛々しい。中国政府は、ドイツのアルベルト・フォン・ル・コックをはじめとする探検家による壁画の持ち出しを文物の略奪として強く批判している。それはもっともだ。しかし、ル・コックらが壁画を持ち出さなかったとして、中華人民共和国が保全に乗り出すまでの70年ほどの間、壁画が無事だったかというと疑わしい。なぜなら残されている壁画もかなり損傷しているからだ。像の顔、とくに眼の部分が削られているものが目立つ。これは偶像崇拝を否定する(というか怖れる)イスラム教徒の仕業だからだ。文物の保存の難しさを目の当たりにした。
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ベゼクリク千仏洞

千仏洞があるムルトク川の峡谷は、川畔にわずかに緑がある以外一木一草もない荒涼とした沙漠地帯。火焔山は砂岩の山肌に無数の溝が穿たれ、風化して落ちた砂が山麓の沙漠に続いている。この日の気温は46度だった。しかし汗はまったくかかない。たちまち蒸発してしまうからだ。気づくと肌がざらざらしている。よく見ると細かな塩の結晶だった。そんな乾燥した気候なのに、なんとこの日は雨が降った。ほんの僅か、バスの窓に水滴がついただけだったが。8月下旬にして今年初めての雨とのことだった。

巨大な城壁に囲まれた高昌故城へ。シルクロード交易で栄え、唐に滅ぼされた高昌王国(460~640年)の都。大寺院跡の仏龕にわずかに残る彩色光背(仏像はすべて失われている)に、この地を経由した玄奘三蔵の労苦をしのんだ。
招待所に戻って昼食。午後はまず額敏塔(蘇公塔)へ。清朝の乾隆41年(1779)に建てられた高さ44mのイスラム教の塔で、(今ではとても上れない)螺旋階段を上りきると、トルファン・オアシスが一望できる。

近くの蒲萄溝人民公社で休憩。川沿いの豊かなオアシスで、名前の通り、ブドウがたわわに実っていた。乾ききった気候の中で食べるブドウ、スイカ、ハミ瓜がなんと甘露だったことか。

ふとブドウ棚の脇の木を見上げると、なんだか馴染みのある葉っぱをしている。北関東の養蚕地帯に生まれ育った私は、その葉が桑に似ていることに気付いた。ガイドさんに尋ねると、やはり桑の木。ただ故郷の桑とは比べ物にならない大木だ。それでも桑があれば蚕が飼えるし生糸が採れる。今でも養蚕をしているか尋ねてみたが、残念ながらよくわからなかった。これがシルクローの旅で、絹の存在を感じた唯一の機会だった。

驢馬(ろば)タクシーとバザール
トルファン文書が出土したアスターナ古墳群を見学して、トルファンでの公式見学を終えた。招待所に戻って、さすがに疲れて休んでいたら、若手グループがバザールに行くという。それなら、行かないわけにはいかない。

招待所の門の前には、何台もの驢馬タクシーが待っていた。真っ先に寄ってきた少年馭者と値段交渉。「最初は1人1元」(当時のレートは1元=135円。現在は約15円、なんと9分の1)と吹っ掛けてきたが、5人乗るからということで1人2角(27円)に値切った。
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少年馭者の驢馬タクシー

驢馬タクシーは馭者が1頭の驢馬を操り、2輪の荷台を牽引する。荷台の左右に2人ずつ、後に1人が外向きに腰掛ける5人乗り。馭者がロバの背中と軛(くびき)の間に鞭の柄を差し込んでしごくと、ロバは並足から駆足になる。思っていたよりスピードが出るが、それほど揺れず、振り落とされることはない。

中央バザールは活気に満ちていた。露店で羊の串焼き、練った小麦を焼いた丸いパン状のもの、ヒマワリの種などが売られている。スイカを売る少年、羊の臓物を竿秤で量り売りするおじいさん、そして野外床屋。建物は映画館だけ(入場料は1角4分=19円)。ウイグルの人たちの暮らしを生で感じることができて、とても楽しかった。

それにしても、雨が降らないということは、住居や生活様式にこうも大きく影響するものなのか。外壁は立派な映画館に屋根はない。露店もまったく覆いがなく、文字通りの露天だ。雨が多い日本では、露店は雨よけがないと商売にならないから、まず覆いを付ける。トルファンの人たちからすれば、不要だから付けないだけなのだろうが。
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羊の臓物売りのおじいさん

ただ、私たちが持っているお金は、毛沢東の肖像の人民元ではなく、外国人専用の「外貨兌換券」(1994年末で廃止)。事前にガイドから「兌換券は公設商店でないと使えません(使ってはいけません)」と言われていたのでなにも買えなかった(後で、公設商店以外の場でも、商人たちは喜んで受け取ることがわかった。なぜなら闇レートで1兌換券=1.8人民元だったから)。

映画館の前にかわいらしいウイグル族の姉妹がいて、こっちを見ている。写真を撮らせてもらった後、手を振ったら、姉ははにかみ、妹は手を振り返してくれた。
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「さようなら、トルファン」

招待所に帰ろうと歩き出したら、なんとあの少年馭者の驢馬タクシーが待っていた。こうなると乗らないわけにはいかない。結局、彼は2角×5人×2=2元(270円)を手にしたことになる。しかも兌換券で。きっと家に帰って父母に褒められたことだろう。あの時、14歳と言っていたから今は52歳、立派なタクシー運転手になっただろうか? それとも……。現在のウイグルの人たちの抑圧された状況を知るたびに心が痛む。

招待所でトルファン最後の食事をして、深夜の沙漠をトルファン駅に向かう(市街からかなり離れている)。そして、23時35分発の「烏京特快」(ウルムチと北京を3泊4日で結ぶ寝台特急列車)に乗車して東に向かった。軟臥車(1等寝台車)の寝台に横たわると、ハードスケジュールの疲れで、たちまち眠りに落ちた。(続く)


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日本女装昔話【番外編・第5回】一流ホテルと契約した女装歌手 橘アンリの夢 [日本女装昔話]

一流ホテルと契約した女装歌手 橘アンリの夢 (1969年)

もうほとんどの人は忘れてしまっているでしょうが(生まれていない?)、1960年代後半という時代は、高度経済成長期の真っ只中であると同時に「性転換」ブームと呼べるような時代でした。

1965年10月に性転換手術を行った医師が優生保護法違反で摘発された「ブルーボーイ事件」がきっかけになり、その判決(有罪)が確定する1970年ころまで、マスコミはともかくやたらとこの種の情報を流しまくったからです。
 
国内では、雄琴温泉の性転換芸者よし幸、性転換ダンサー銀座ローズ、同ジュリアン・ジュリーなど、海外ネタではオーストリアの有名女子スキー選手の男性への性転換、アメリカの性転換女性作家の妊娠騒動、イギリスの性転換女性アッシュレー夫人の離婚裁判などが報じられました。

カルーセル麻紀が売り出したのも、丸山(美輪)明宏が三島由紀夫脚本の「黒蜥蜴」に女優として主演して大ヒットしたのもこの時代でした。
 
そんな時代に咲いた花のひとつが女装歌手橘アンリ(21 自称)でした。

彼女は、1969年9月に東京赤坂のホテル・ニュージャパンと「女性」歌手として出演契約を結んで話題になった人です。
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歌う橘アンリ(『週刊新潮』 1969年6月28日号)

混血女性のような顔だちきゃしゃな首、スラリとした脚、ミニドレス姿で週3回、のレストランのステージに立ち、シャンソンやカンツォーネを歌いました。

声はやはり低音、それでも外人がほんとんどの客にはOKだったようです。
 
彼女は、四国の松山で6人兄弟の末っ子に生まれ、小学校時代に両親と死別し、4人の姉に囲まれて、しゃべる言葉は女言葉、姉たちの感性を自分の感覚として成長しました。

中学2年の時、ゲイの大学生にフェラチオされて目覚め、野球の名門松山商業高校時代もオネエ言葉で通したそうです。

卒業後は上京して会計事務所に勤めましたが1年半しか続かず、四谷のゲイバー「一力茶屋」へ入店、ゲイボーイとして「女」を磨きました。

そして、芸能マネージャーの目に留まり、9カ月の歌のレッスンの後、めでたくデビューとなりました。
 
東京オリンピック(1964年)前後の赤坂は、ちょっと不良っぽい外人が多く、インターナショナルで怪しい雰囲気の街でした。

ブルーボーイ・ショーで評判になった「ゴールデン赤坂」などショーを売り物にするクラブやゲイバーも多く、そう、現在の六本木と新宿歌舞伎町を混ぜたような感じかもしれません。

アンリはそうした街に咲いた妖しい一輪の花だったのです。
 
「彼女の場合は美少年で売ってるのでしょう。わたしは外見もこの通り女だし、女として売ってるの」。
アンリは、当時売り出し中のピーターにライバル意識を燃やしていました。
しかし「歌手として一流に」という彼女の夢はかないませんでした。
ライバル視したピーター(池畑慎之介)のその後の大活躍とは比べる術もありません。
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橘アンリ「甘い生活」(1970年)

アンリが歌った13年後、ホテル・ニュージャパンは紅蓮の炎に包まれ、死者33人の大惨事を起こします。
そのニュースをアンリはどこでどうして見ていたのでしょうか。
 
参考資料 :『週刊文春』1969年10月20日号

(初出:『ニューハーフ倶楽部』 第34号、2001年11月)

【追記】
トランスジェンダー歌手については、下記をご覧ください。
三橋順子「トランスジェンダー歌謡の歴史」
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2017-01-07
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日本女装昔話【番外編・第4回】新劇女優を目指した男性 花井優子の挑戦 [日本女装昔話]

新劇女優を目指した男性 花井優子の挑戦 (1978年)

歌舞伎に代表される日本の伝統的な演劇は、女形と深い関係があります。
しかし、そうした歌舞伎(旧劇)に対抗してヨーロッパの演劇の影響下に始まった新劇は、女優中心で(例外的な劇団を除いて)女形が舞台に起用されることは稀でした。
 
そうした性別の区分がうるさい新劇の世界で「女優」を目指した一人の男性がいました。
1978年に演劇集団「円(えん)」の研究生に採用された花井優子(25)です。
 
長男として生まれた「彼女」は、母親の化粧品を塗っては鏡の前でうっとりする子供時代を経て、中学3年の時、担任の男性教師に犯され、完全に「女」に目覚めてしまいます。

ちょうどその頃、新劇の大物女優「文学座」の杉村春子の公演「女の一生」を見て感動し、新劇女優になる夢を抱きます。
 
大学進学を機に上京、テレビで見た赤坂のゲイ・クラブ「ジョイ」のママ(マダム・ジョイ)の美しさに魅せられて、女装して19歳でゲイ・クラブでアルバイトを始め、大学は2年で中退。

このままだったら典型的なゲイボーイのコースでしたが、彼女は仕事のかたわら芝居見学を続けます。

23歳の時、日本国内で去勢手術を受け、また一歩、女に近づき、そして、25歳になったこの年、ついに念願かなって「円」の研究生に採用されたのです。
 
身長168cm、体重47kg、B84W58H85というスレンダーなボディは、外見的にはほとんど女性。しかも写真のように、ちょっとエキゾチックな美形です。
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花井優子(『週刊プレイボーイ』1978年10月10日号)

容姿だけなら十分に女優として通用しそうですが、容姿だけでは女優は務まりません。
彼女の場合、演技力もさることながら、最大の悩みは声。
メリハリの効いた舞台声を出そうとすると、男の地声が出てしまうのです。

その弱点をなんとか克服して「火の玉みたいな感じのする女を思い切り演じてみたいの」というのが、彼女の望みでした。
 
この記事から23年がたちました。
残念なことにその後の花井優子の動静について、週刊誌の類は何も伝えていません。
新劇女優として舞台に立つという彼女の夢は果たしてかなったのでしょうか。

演劇世界は厳しい世界です。
劇団の研究生になっても舞台に立ち、名の有る役につくにはまでには厳しい修行が待っています。
大成する人は、その中でもごく少数です。
多くは世間に名を知られることなく舞台から消えていくのです。

花井優子もその一人だったのでしょうか。
 
彼女の挑戦の数年後の1981年、ニューハーフをキャッチ・コピーに松原留美子が角川映画「蔵の中」の主演女優に抜擢されます。
しかし、彼女の女優生命も短いものでした。

1990年には矢木沢まりが「Mrレディ 夜明けのシンデレラ」に主演しましたが、やはり女優としては大成しませんでした。
大御所の美輪明宏やピーター(池畑慎之介)は別格として、トランスジェンダー「女優」はいないのが現状です。
そろそろ誰か出てきて欲しいと思うのですが・・・。
 
参考資料 :『週刊プレイボーイ』1978年10月10日号

(初出:『ニューハーフ倶楽部』 第33号、2001年8月)
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日本女装昔話【番外編・第3回】泡姫は男の子! 日本最初のニューハーフ・ソープ嬢 [日本女装昔話]

泡姫は男の子! 日本最初のニューハーフ・ソープ嬢 (1981年)

「ニューハーフ・ソープ嬢」と題しましたが、実はまだ「ニューハーフ」という言葉も「ソープランド」という言葉も無く、それぞれ「ゲイボーイ」「トルコ風呂」と呼ばれていた20年前のお話です。
 
当時「トルコ風呂」のメッカとして、知らない男性はいない名声?と繁栄を誇っていた滋賀県雄琴温泉に「男性トルコ嬢」が出現し、並大抵のサービスでは驚かない常連客の間で大いに話題になりました。

話題の主は、雄琴温泉「トルコ江戸城」に勤務する綾姫さん(21歳)。
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日本初のゲイボーイ「トルコ嬢」 雄琴温泉「トルコ江戸城」の綾姫嬢
(『アサヒ芸能』1981年2月5日号)

トルコ嬢歴まだ3カ月、店の制服のチャイナドレス姿も初々しく、身長160cm、体重45kgのスレンダーな身体でありながら、B81W59H82というなかなかのプロポーション、小ぶりだがきれいにふくらんだ乳房は女性ホルモン注射の成果、表情もしぐさも語り口も見事な女ぶりなのです。
 
とは言え、彼女の戸籍は男性。
山梨県で5人兄弟の次男として生まれ、中学までは陸上部で活躍した普通の男の子、卒業後は大工を目指して技術専門学校へ進みました。
ところが、18歳の時、母親が入院していた病院で知り合った年下のゲイの高校生におフェラされたのがきっかけで心の中の「女」が目覚めてしまいます。
 
家出して京都祇園のスナックで女性に混じってホステス修行。
そこの常連客の男性に言い寄られて半ば強引に「処女」喪失。
そして、性転換手術の費用を貯める目的で雄琴の「トルコ嬢」になったという訳です。
 
当然のことながら、彼女、トルコ嬢の仕事はすべてこなします。
「ローション洗い」(ローションを全身に塗ったトルコ嬢がボディを使って洗ってくれる)の時に発揮する舌技はなかなかの評判だし、もちろん「本番」もOK(入れる場所が少し違うようですけど)。

彼女を雇った「江戸城」の鈴木社長も「ホンモノのトルコ嬢より、ずっと女らしい子」、「テクニックもどこをどう攻めれば男が気持ちよくなるか、それが経験でわかっているから、これはもうバツグン」と手放しでほめちぎってます。
 
彼女は平均一日4人のお客を取る売れっ子。
「ノンケの男が好き」、「わたしは女になっているつもりだし、女になりきりたいんだから」と言う彼女には、ノンケ男相手の「トルコ嬢」の仕事は合っていたのでしょう。
 
今から6年ほど前、写真週刊誌が岐阜の金津園「ホワイトハウス」勤務の白石敬子さん(23歳)を「ニューハーフ・ソープ嬢、第一号」と紹介しました(『FRIDAY』1995年6月30日号)。
しかし、本当の第1号は、その15年前にすでに出現していたのです。
 
現在ならニューハーフのソープ嬢と言っても驚くほどのことではないかもしれません。
しかし、20年前は違います。
衝撃的な出来事でした。
そうした意味で、綾姫さんはニューハーフの風俗業界進出のパイオニアの一人と言えるし、また彼女を雇った社長の先見の明にも敬意を表したいと思います。
 
あれから20年、綾姫さんがどこかで幸せなオバさんになっていればいいなと思います。
 
参考資料 :『アサヒ芸能』1981年2月5日号

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第32号、2001年5月)
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日本女装昔話【番外編・第2回】名門私立女子大の怪しい受験生の正体は? [日本女装昔話]

名門私立女子大の怪しい受験生の正体は?(1975年)

毎年、大学入試シーズンになると不正受験のニュースが話題になります。
不正受験には様々なテクニックがありますが、これほど大胆華麗?、ユーモラスな手口で人々の関心を集めた事件はないでしょう。
 
舞台は今から25年前、東京多磨地区にある私立の名門T女子大です。
津田塾女子大学.jpg
事件の舞台になったT女子大学

国際関係学科の試験終了後、一人の受験生が試験官に「私のお隣の人、男の人ではないでしょうか」と告げてきたのが事の発端でした。
 
なにしろ女子大です。
驚いた試験官は受験票の束から問題の受験生の写真を取り出して密告者に確認を求めました。

しかし、受験票の人物と試験を受けた人物は確かに同一人物でした。
「これが男だって?そんなバカな」「ちょっと老けてるけどね。やっぱり女性でしょう」。
入学試験委員室の教授たちは、この時点では正体を見破れなかったのです。
 
これで終わっていたら、不正受験は完全犯罪だったかもしれません。
ところが、翌日の英文学科の試験にも問題の「彼女」が現れたのです。
白いタートルネックのセーターに真っ赤なパンタロン、165cmの長身に洒落た7分丈コートをはおり、口紅も鮮やかな水商売風の濃化粧。

地味な服装の受験生の中ではひときわ人目を引く容姿です。
 
前日は見逃してしまった教授たちのマークは厳しいものがありました。
「手がごつごつしていて女性の手でない」「化粧の下に青い髭剃り跡が見える」、疑惑を裏付ける報告が次々に入試本部にもたらされます。

「間違いなく男だ。替え玉受験だ!」と断定派の老教授。
「いや、ホルモン異常の女性かもしれない。決めつけて間違ったら人権問題になる」と慎重派の若手教授。
入試本部は喧々諤々の大騒ぎになりました。

その時、ある教授が疑惑人物と同じ高校出身の受験生がいたことを思い出しました。
入試が終わった後、同級生たちに受験票の写真が提示されました。

「あなた方の同級生の〇山〇子さんですか」。
2人の同級生は激しく頭を振って「違います!」と断言しました。

これで決まりました。
教授たちは別室に待機させていた疑惑人物を問い詰めました。
観念した「彼女」は、あっさり白状しました。
「彼女」の正体は、なんと本物の〇山〇子の実の父親だったのです。
しかも50歳近い彼は娘の高校の英語教師でした。

後日、娘も父親の無謀な賭けの「共犯」であることがわかりました。
 
前代未聞の父親女装替え玉受験という悲喜劇はこうして幕を下ろしました。

世間はこの事件に驚き、笑いながらも、女装してまで娘の合格を図った悲しい父性愛にいくばくかの同情を寄せました。
 
しかし、この事件には不思議な点があります。
まず彼のあまりに見事な女装ぶり。
喉仏を隠すタートルネック、ごつごつした脚線を隠すパンタロン、娘の協力があったにしろ女装ファッションとしての要点を見事に押さえているのです。

そして女装時の堂々とした態度。
彼は受験の2日間、女子トイレを利用するなど女子大という女の園で臆する事なく行動しています。

これは熟練した女装者でも容易なことではありません。
 
こんなハイレベルな女装行為が、替え玉受験のために思いついた即席の女装者に、はたして可能でしょうか?

もしかして彼は、トップレベルのアマチュア女装者だったのでは・・・?。
真相は25年の時の流れのかなたです。
 
参考資料 :『週刊サンケイ』1975年4月17日号
      『週刊朝日』1975年4月18日号

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第31号、2001年1月)
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日本女装昔話【番外編・第1回】女装芸者「市ちゃん」 [日本女装昔話]

女装芸者「市ちゃん」 (1959年)

三河高原に抱かれた愛知県東加茂郡足助(あすけ)町。
1959年の晩秋、町外れの農家小沢家で、半年前に家出した一人息子の市左衛門(よりによって超古風な名前ですね)の帰郷祝いが開かれていました。

本人に先立ってトラック数台分の荷物、テレビ、電気洗濯機など最新式の家庭電化製品や立派な桐たんすにぎっしり詰まった豪華な女物の衣装などが運び込まれていました。
その様子を見た招待客たちは「市坊は東京のお大尽の娘を嫁にもらった」と噂し合いました。
 
宴もたけなわ、電蓄から流れる三味線の音に合わせて、一人のあでやかな芸者が現れ、扇片手に舞い始めました。
驚く人たちがよくよく見れば、当夜の主賓のはずの市坊。
「市坊が女になった!」。
衝撃はたちまち麓の町にまで広がりました。
女装芸者(鬼怒川温泉・市ちゃん) (2) - コピー.jpg
芸者時代の市ちゃん(『風俗奇譚』1962年1月号)

子供の頃から女の子とばかり遊んでいた市ちゃんは、中学卒業後は土産物店に勤めながら三味線や日本舞踊を習う女っぽい青年でした。

青年団の集団作業でも力の弱い市ちゃんは能率が上がらず「女以下じゃ」と馬鹿にされていたのです。
春のある日、山村での生活が嫌気がさした市ちゃんは、なけなしの5000円を持って村から姿を消しました。
 
数日後、お金を使い果たし東京駅の待合室で途方にくれていた市ちゃんに中年男性が声をかけました。
男は思いがけないことを言いました。「芸者に化けてみないか」。
市ちゃんの女性的傾向を見抜いていたのです(すごい慧眼!)。

着いた先は栃木県鬼怒川温泉。身なりを女姿に変えた市ちゃんは、検番(芸者の管理組合)の試験にすんなり合格し、「きぬ栄」の名でおひろめとなりました。

さすがに置屋の女将は市ちゃんが男であることを見破っていましたが、市ちゃんの女っぷりに「これは行ける」と思った女将は、市ちゃんに女になりきる秘訣を事細かに授けました。

秘密は女将と朋輩の芸者以外に漏れることはなく、若くて美人、三味線と日舞が上手なきぬ栄は、たちまち売れっ奴にのし上っていきました。
 
8月、東京の某銀行の慰安旅行で鬼怒川温泉にやって来た50がらみの部長が、きぬ栄にホレこみましだ。

週末には必ず通ってくるほどの熱の入れようで、やがてお定まりの身請け話となりました。
きぬ栄を囲った男は彼女が欲しがる家電製品や着物を次々に買い与えましたが、きぬ栄は「結婚するまでは」と決して肌を許そうとしません。

とは言え、男の執着を避けるにも限度があり、そもそも戸籍が男なのだから結婚はできません。
思い詰めたきぬ栄は、男と別れ貢がせた道具や衣装を持って故郷に帰ることを決心します。
 
こうした事情で先程の衝撃の帰郷場面となったのです。
「女になるというなら仕方がないわさ。こうなれば息子の思うように生きさせなければなあ。今はそういう世の中なんじゃで」市ちゃんの母はこう語っています。

40年前とは思えない、なんと進んだコメントでしょう。
 
当時、推定20歳の市ちゃんも今では60歳。元気で女として暮らしていることを祈りたいです。
 
参考資料 :『週刊文春』1960年5月16日号

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第30号、2000年11月)

【追記】たいへん残念なことに、「市ちゃん」は、1970年前後に自殺されたことが判明しています。
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「日本女装昔話」番外編の目次 [日本女装昔話]

「日本女装昔話」番外編
 
ここに掲載した5つの物語は、ニューハーフ系商業雑誌『ニューハーフ倶楽部』(三和出版)第30号(2000年11月)から34号(2001年11月)の「Human history」に掲載されたものです。

このコーナーは、人物や事件に焦点をあてて女装世界を語る趣旨で、同誌の創刊直後から続く名門コーナーでしたが、執筆担当の方が病気で倒れたため、その代役として私が「橘さぎり」の筆名で5回分を執筆したものです。

本来の執筆担当の方の復帰の目処がたたないため、私の連載コーナー「女装百話」(このサイトでは「日本女装昔話」)に吸収合併する形で打ち切りとなりました。

ここに「日本女装昔話」番外編として収録します。

番外編 第1回 女装芸者「市ちゃん」 1959年
 (『ニューハーフ倶楽部』第30号、2000年11月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-25
番外編 第2回 名門私立女子大の怪しい受験生の正体は? 1975年
 (『ニューハーフ倶楽部』第31号、2001年1月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-25-1
番外編 第3回 泡姫は男の子!日本最初のニューハーフ・ソープ嬢 1981年
 (『ニューハーフ倶楽部』第32号、2001年5月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-25-2
番外編 第4回 新劇女優を目指した男性 花井優子の挑戦 1978年
 (『ニューハーフ倶楽部』 第33号、2001年8月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-25-3
番外編 第5回 一流ホテルと契約した女装歌手 橘アンリの夢 1969年
 (『ニューハーフ倶楽部』 第34号、2001年11月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-25-4
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日本女装昔話【第34回】大阪の「男娼道場」主、上田笑子 [日本女装昔話]

【第34回】大阪の「男娼道場」主、上田笑子 1950~1970年代

前回は、女装男娼の集合写真の分析から、少なくとも大阪では、戦前(1930年代)から、女装男娼の横のつながりがあったことが推測できました。
 
実はその写真に私の興味を強く引く人物が写っていました。
1930年代(昭和5~15年)と推測した屋内での記念写真の右端の「藤井一男 笑子 二十五才」と記された人物です。

この「笑子」が戦後、1950年代から70年代にかけて、大阪釜ケ崎(山王町界隈)で「男娼道場」の主と言われた、上田笑子と同一人物ではないだろうかと気づいたからです。
 
上田笑子については、1958年(昭和33)の「大阪の美人男娼ベストテン」というルポが「この道の草分け」「蔭間茶屋"エミちゃんの家"のママ」、「彼女のシマを"おかまスクール"と呼ぶ」と紹介しています(『増刊・実話と秘録:風俗読本』1958年1月号)。
女装男娼(上田笑子).jpg
1957年、42歳のころの上田笑子。(『増刊・実話と秘録』1958年1月号)

それから12年たった1970年(昭和45)には「私の"オカマ道場"の卒業生は四千人よ-大阪・釜ケ崎、上田笑子の陽気なゲイ人生-」という記事が週刊誌に載っています(『週刊ポスト』1970年12月25日号)。

そこには、彼女が女装男娼を育成する「男娼道場」を開いて25年になること、育てた子は「もう四千人くらいになりますやろうなァ」「東京の男娼の八割方がたはウチの出やね」と語られています。

これらの記事から、上田笑子のプロフィールを整理してみましょう。
本名は上田廣造、1910年(明治43)奈良県生まれ。
13歳のとき(1923年=大正12)から男娼の仲間に入り、以後、その道一筋。1945年(昭和20)、つまり、終戦後すぐに「男娼道場」を開設し、多くの後進を育成した、ということになります。

となると、彼女は1935年(昭和10)に25歳だった計算になり、例の1930年代と推定される集合写真の「笑子 二五歳」とぴったり一致してくるのです。
もっとも、本名が、藤井一男と上田廣造でぜんぜん違うのですが、「藤井一男」が偽名の可能性もあり、写真の面差しは、どこか似たものがあるように思います。
 
さて、笑子は「東京の男娼の八割方がたはウチの出」と豪語していますが、実際にそうだったのでしょうか。
8割かどうかを確かめる術はありませんが、どうも女装男娼は、戦前、戦後を通じて、関西(大阪)が本場だったのは確かなようです。
 
戦前、東京の浅草や銀座で逮捕された女装男娼の中にも、関西からの遠征組がかなりいたこと、戦後の東京上野の女装男娼の間でも、関西系が幅をきかしていたことなど、その兆候はいくつもあります。

さらに歴史を遡れば、江戸の歌舞伎の女形、あるいは陰間茶屋の蔭子は、お酒と同じく「下り者」(京・大阪から江戸に下ってきた者)が第一とされ、東育ち(江戸・東国の生まれ)は武骨で使い物にならないとされていました。
 
昭和期の女装男娼の関西優位には、そんな伝統も反映していたのかもしれません。
ただ、関西の状況を記した資料が乏しく、実態不明な点が多いのが残念です。
男娼バー「ゆかり」.jpg
大阪釜ケ崎の女装バー「ゆかり」(1957年ころ)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第57号、2007年8月)

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