「純綿・純女」 ―講談社現代新書『性的なことば』から [論文・講演アーカイブ]
三橋順子「純綿・純女」 井上章一+斎藤光+渋谷知美+三橋順子『性的なことば』(講談社現代新書、2010年)407~412頁
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純 綿・純 女 (三橋 順子)
「おい、順子、あれはどっちだ?」
ここは新宿歌舞伎町の女装スナック「ジュネ」。トイレに立って席に戻る途中の私を、カウンター席で飲んでいた常連客のSさんが引きとめた。そして、ボックス席で私が相手をしていた女性を指差しながら尋ねた。
「彼女ですか? 本物ですよ」
「なんだ、やっぱり、純綿(じゅんめん)かぁ。いい女なのに惜しいな」
新宿の女装コミュニティの店は、女装客と女装者を好む(非女装の)男性客との出会いの場所であり、希に来店する女性客はゲスト扱いで、男性客が口説いたり、お触りしたりするのはタブーである。
女装者好きの男性(女装者愛好男性)の代表格であるSさんが、目をつけた相手が生得的な女性であることを知って残念に思ったのは、そういうわけだ。このように女装コミュニティやニューハーフの世界では、生得的な(遺伝的な)女性のことを「純綿(じゅんめん)」と呼んできた。
この言葉を最初に耳にしたのは、私がこの店のお手伝いホステスをするようになった一九九五年から程ないころだったと思う。
「じゅんめんって、どう書くのですか?」と尋ねた私に、薫ママが「純粋の純に綿(わた)って書くのよ。昔、スフっていう人工綿があってね、それって綿としてまがい物なわけ。それが私たち(女装者)。本物の綿が純綿で、本物の女性ってことなのよ」と教えてくれた。
スフとは、いわゆるレーヨン(rayon)のことで、絹、もしくは木綿の安価な代替品として用いられた再生繊維である。レーヨンが、ステープル・ファイバーと言われたことからスフと呼ばれた。
つまり、品質の劣る人工繊維のスフを自分たち女装者にあて、生得的な女性を純度100%の天然繊維に例えたもので、かなり自虐的な臭いが感じられる。しかし、そこには、ゲイ(男性同性愛者)コミュニティに見られるミソジニー(女性嫌悪)とは逆の、女装コミュニティにおける生得的な女性に対する憧憬の意識がうかがえる。
では、純綿という言葉が生まれたのはいつのことだろうか。小説家の吉行淳之介に「男娼会見記」というエッセイがある。現在は、『吉行淳之介エッセイ・コレクション2 男と女』(ちくま文庫)に収録されているが、初出は1963年8月刊行の『紳士放浪記 男と女のにんげん術』である。ただ、文中の記述から「会見」は、もう少し以前、おそらくは1950年末に行われたように思われる。
「男娼について、又それに関連して同性愛について、私は幾分の知識を持っている。しかし、私がその知識を得たのは、そのことに関して、ヤジ馬的な好奇心を持ったためであって、その性向・趣味があるためではない。つまり、私はソノ道の専門語でいえば『純綿』である。又、その知識も、僅かなものだ。一度、専門家(?)に会っていろいろ話を聞いてみたいと思った」
この記述から、1950年代末~60年代初めに「純綿」という専門用語があったことが確実にわかる。しかし、問題はその意味である。吉行の「純綿」の用法は、文意からして「その(同性愛)性向・趣味が」ない人、あるいは、「ソノ道(男娼・同性愛)」の「専門家」ではない人という意味になる。
現在のゲイ用語でいう「ノン気」(同性愛気質がない異性愛の人)に近い意味で、なにより男性である吉行が「私は・・・純綿である」と言っていることからも、女装コミュニティでの用法「生得的な(遺伝的な)女性」からは、かなり遠い。
なにぶん、文献資料が乏しい世界なので、こういう用法がなかったと断定することはできない。しかし、これはやはり誤用だと思う。ある特殊な世界に外部の人間が入ってきたときに、その世界の隠語や専門用語を誤解し誤用してしまうことは珍しいことではない。
女装コミュニティでの用法が文字として記録されたものとしては、加茂こずえ「女装交友録(二〇)」(『風俗奇譚』1969年1月号)に、現代風に言えば「パス度」(女性としての通用度)が高い女装者の写真のキャプションとして「純メンに近い女装マニア」とあるのが、今のところ、いちばん古い。
文献資料の探索は、今後も続けることにして、「純綿」という言葉が成立する状況を考えてみよう。新宿女装コミュニティの原型は1960年代後半に形作られた。さらにその淵源となるゲイバー世界は1950一年代後半に形成された。一方、スフの生産が急増して、日常の衣類に多く使われたのは50年代後半から60年代のことで、時代的にはほぼ合致する。また、本物と偽者を対比してたとえるのに、バターとマーガリンのような食品ではなく、純綿とスフという繊維製品が使われたのは、繊維業界が活況を呈していた「糸偏景気」の時代(1950年代後半)がふさわしいように思う。「生得的な(遺伝的な)女性」を「純綿」にたとえる用法は、ゲイバーの出現・急増と、スフの生産増加が重なる1950年代後半に生まれたと推測したい。
ところで、私たちの世代には、レーヨンは通じても、もうスフという言葉はほとんど通じない。したがって、スフと純綿という対応関係も頭に浮かんでこない。そうした状況下では、「じゅんめんさん」という言い方が90年代後半のコミュニティに伝わっていても、その原義やどういう漢字を当てるかということは、もうあやふやになっていた。聞きたがりの私は、一世代上のママから直接教えてもらえたが、そうでない普通の女装者には、じゅんめん=純綿という知識を持たない人もけっこういたように思う。そうした人たちの間では、「純面」という文字をあてる人もいたが、これでは何の意味かますますわからない。
さらに、90年代末くらいから、「じゅんめん」から末尾の「ん」が脱落して「じゅんめ」という言い方が行われるようになった。そして「純女」という文字があてられていく。そこから、さらにミス・ダンディなどの男装者に対して、生得的な男性を意味する「純男(すみお)」という派生語も生まれた。
現代の女装コミュニティでは、おそらくほとんどの人が、生得的な女性をさす言葉を「じゅんめ=純女」と理解していると思う。漢字の意味合いからしても、純粋な女性という意味になるので、もとからこういう言い方だったと疑っていないのではないだろうか。
ちなみに、同義の用法として、生得的な女性を「天然もの」、ニューハーフを「養殖もの」という言い方もあるが、これはそれほど古い用法ではないだろう。
純綿から純女へという変化には、ある言葉の原義が忘れられ、言葉が崩れていく過程で、いかにももっともらしい漢字があてられ、その結果、言葉が再生するという、辞書に固定化されない俗語ならではの変容を見ることができ、興味深いものがある。
しかし、「純女」という専門(業界)用語を知ったからといって、生得的な女性が、女装者やニューハーフの前で「私たち純女は・・・」と、あまり言わない方がいいと思う。聞いている女装者やニューハーフにしてみると、「そっち(本物の女)が純女なら、あたしたちは不純女(ふじゅんめ)かい」と皮肉のひとつも言いたくなるから。
原キャプションで、発音が「純メン」であることが確認できる。
(『風俗奇譚』1969年1月号)
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純 綿・純 女 (三橋 順子)
「おい、順子、あれはどっちだ?」
ここは新宿歌舞伎町の女装スナック「ジュネ」。トイレに立って席に戻る途中の私を、カウンター席で飲んでいた常連客のSさんが引きとめた。そして、ボックス席で私が相手をしていた女性を指差しながら尋ねた。
「彼女ですか? 本物ですよ」
「なんだ、やっぱり、純綿(じゅんめん)かぁ。いい女なのに惜しいな」
新宿の女装コミュニティの店は、女装客と女装者を好む(非女装の)男性客との出会いの場所であり、希に来店する女性客はゲスト扱いで、男性客が口説いたり、お触りしたりするのはタブーである。
女装者好きの男性(女装者愛好男性)の代表格であるSさんが、目をつけた相手が生得的な女性であることを知って残念に思ったのは、そういうわけだ。このように女装コミュニティやニューハーフの世界では、生得的な(遺伝的な)女性のことを「純綿(じゅんめん)」と呼んできた。
この言葉を最初に耳にしたのは、私がこの店のお手伝いホステスをするようになった一九九五年から程ないころだったと思う。
「じゅんめんって、どう書くのですか?」と尋ねた私に、薫ママが「純粋の純に綿(わた)って書くのよ。昔、スフっていう人工綿があってね、それって綿としてまがい物なわけ。それが私たち(女装者)。本物の綿が純綿で、本物の女性ってことなのよ」と教えてくれた。
スフとは、いわゆるレーヨン(rayon)のことで、絹、もしくは木綿の安価な代替品として用いられた再生繊維である。レーヨンが、ステープル・ファイバーと言われたことからスフと呼ばれた。
つまり、品質の劣る人工繊維のスフを自分たち女装者にあて、生得的な女性を純度100%の天然繊維に例えたもので、かなり自虐的な臭いが感じられる。しかし、そこには、ゲイ(男性同性愛者)コミュニティに見られるミソジニー(女性嫌悪)とは逆の、女装コミュニティにおける生得的な女性に対する憧憬の意識がうかがえる。
では、純綿という言葉が生まれたのはいつのことだろうか。小説家の吉行淳之介に「男娼会見記」というエッセイがある。現在は、『吉行淳之介エッセイ・コレクション2 男と女』(ちくま文庫)に収録されているが、初出は1963年8月刊行の『紳士放浪記 男と女のにんげん術』である。ただ、文中の記述から「会見」は、もう少し以前、おそらくは1950年末に行われたように思われる。
「男娼について、又それに関連して同性愛について、私は幾分の知識を持っている。しかし、私がその知識を得たのは、そのことに関して、ヤジ馬的な好奇心を持ったためであって、その性向・趣味があるためではない。つまり、私はソノ道の専門語でいえば『純綿』である。又、その知識も、僅かなものだ。一度、専門家(?)に会っていろいろ話を聞いてみたいと思った」
この記述から、1950年代末~60年代初めに「純綿」という専門用語があったことが確実にわかる。しかし、問題はその意味である。吉行の「純綿」の用法は、文意からして「その(同性愛)性向・趣味が」ない人、あるいは、「ソノ道(男娼・同性愛)」の「専門家」ではない人という意味になる。
現在のゲイ用語でいう「ノン気」(同性愛気質がない異性愛の人)に近い意味で、なにより男性である吉行が「私は・・・純綿である」と言っていることからも、女装コミュニティでの用法「生得的な(遺伝的な)女性」からは、かなり遠い。
なにぶん、文献資料が乏しい世界なので、こういう用法がなかったと断定することはできない。しかし、これはやはり誤用だと思う。ある特殊な世界に外部の人間が入ってきたときに、その世界の隠語や専門用語を誤解し誤用してしまうことは珍しいことではない。
女装コミュニティでの用法が文字として記録されたものとしては、加茂こずえ「女装交友録(二〇)」(『風俗奇譚』1969年1月号)に、現代風に言えば「パス度」(女性としての通用度)が高い女装者の写真のキャプションとして「純メンに近い女装マニア」とあるのが、今のところ、いちばん古い。
文献資料の探索は、今後も続けることにして、「純綿」という言葉が成立する状況を考えてみよう。新宿女装コミュニティの原型は1960年代後半に形作られた。さらにその淵源となるゲイバー世界は1950一年代後半に形成された。一方、スフの生産が急増して、日常の衣類に多く使われたのは50年代後半から60年代のことで、時代的にはほぼ合致する。また、本物と偽者を対比してたとえるのに、バターとマーガリンのような食品ではなく、純綿とスフという繊維製品が使われたのは、繊維業界が活況を呈していた「糸偏景気」の時代(1950年代後半)がふさわしいように思う。「生得的な(遺伝的な)女性」を「純綿」にたとえる用法は、ゲイバーの出現・急増と、スフの生産増加が重なる1950年代後半に生まれたと推測したい。
ところで、私たちの世代には、レーヨンは通じても、もうスフという言葉はほとんど通じない。したがって、スフと純綿という対応関係も頭に浮かんでこない。そうした状況下では、「じゅんめんさん」という言い方が90年代後半のコミュニティに伝わっていても、その原義やどういう漢字を当てるかということは、もうあやふやになっていた。聞きたがりの私は、一世代上のママから直接教えてもらえたが、そうでない普通の女装者には、じゅんめん=純綿という知識を持たない人もけっこういたように思う。そうした人たちの間では、「純面」という文字をあてる人もいたが、これでは何の意味かますますわからない。
さらに、90年代末くらいから、「じゅんめん」から末尾の「ん」が脱落して「じゅんめ」という言い方が行われるようになった。そして「純女」という文字があてられていく。そこから、さらにミス・ダンディなどの男装者に対して、生得的な男性を意味する「純男(すみお)」という派生語も生まれた。
現代の女装コミュニティでは、おそらくほとんどの人が、生得的な女性をさす言葉を「じゅんめ=純女」と理解していると思う。漢字の意味合いからしても、純粋な女性という意味になるので、もとからこういう言い方だったと疑っていないのではないだろうか。
ちなみに、同義の用法として、生得的な女性を「天然もの」、ニューハーフを「養殖もの」という言い方もあるが、これはそれほど古い用法ではないだろう。
純綿から純女へという変化には、ある言葉の原義が忘れられ、言葉が崩れていく過程で、いかにももっともらしい漢字があてられ、その結果、言葉が再生するという、辞書に固定化されない俗語ならではの変容を見ることができ、興味深いものがある。
しかし、「純女」という専門(業界)用語を知ったからといって、生得的な女性が、女装者やニューハーフの前で「私たち純女は・・・」と、あまり言わない方がいいと思う。聞いている女装者やニューハーフにしてみると、「そっち(本物の女)が純女なら、あたしたちは不純女(ふじゅんめ)かい」と皮肉のひとつも言いたくなるから。
原キャプションで、発音が「純メン」であることが確認できる。
(『風俗奇譚』1969年1月号)
(講演録)「GID(性同一性障害)学会」第22回研究大会・教育講演「GID以前と以後」 [論文・講演アーカイブ]
「GID(性同一性障害)学会」第22回研究大会は、当初、2020年3月20・21日に川崎市で開催されるはずだった。
私は、川崎市在住ということで、大会長の中山浩先生(川崎市こども家庭センター部長)からご指名いただき、教育講演をさせていただくことになった。
ところが、残念なことに「コロナ禍」のため、大会は延期になってしまった。
そして、1年経っても「コロナ禍」は収まらず、結局、川崎市での開催は幻に終わり、2021年4月に、オンデマンド開催ということになった。
これは、その記録である(一部、誤字訂正)。
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「GID(性同一性障害)学会」第22回研究大会 2021.04.03(オンデマンド配信)
教育講演
GID以前と以後
三橋順子(性社会文化史研究者・明治大学非常勤講師)
皆さん、こんにちは。教育講演を担当いたします三橋順子です。実は、GID学会で講演させていただくのは3度目になります。1度目は2015年の第17回大会(大阪府立大学)の基調講演「性別越境現象」、2度目は2018年の第20回大会(東京・御茶ノ水)の特別講演「GID学会20年の歩みをふりかえる――医療者でもなく、当事者でもなく――」です。理事でもない永世平会員の私がこうした機会を3度もいただくこと、たいへん感謝しております。僭越ではありますが、よろしくお願いいたします。
(参照)
第17回基調講演の記録 https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2015-03-23-2
第20回特別講演の記録 https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2018-03-26
とはいえ、3度目ともなりますと、さすがにお話しするネタも乏しくなります。苦肉の策として、今回は「GID以前と以後」と題しまして「以前」と「以後」の2題話をいたします。日頃、学生には「レポートのテーマは1つに絞りなさい」と言っているのですが、困ったものです。当初の予定では2つをつなぐ話も少しはしようと思っていましたが、「オンデマンド配信」ということで、機材の関係でできなくなりました。
言い訳は、このくらいにして、本題に入りましょう。「以前」については、日本最初のSRS(Sex Reasignment Surgery)についての新発見史料をご紹介します。「以後」については、現在の重要課題である、性別移行の法システムの再構築についてお話します。
第1部 GID以前 ー日本最初のSRSについての新史料ー
日本最初のSRSは1951年4月頃、永井明さん(女性名:明子)に対して行われたもので、執刀は石川正臣日本医科大学教授(1891~1987年、後に日本産婦人科学会会長)でした。
ちなみに、この手術は、1951年5月15日のイギリスのRobert Cowell(女性名:Roberta)より前の可能性が大で、戦後では世界で最も早い事例と思われます。
(図1)永井明子さん(1954年頃)
しかし、新聞報道や、手術を受けた永井明子さんの「手記」はあるものの、執刀医である石川教授側の資料はほとんどなく、術式などは不明でした。
ところで、現在、私は1950~60年代の「性風俗雑誌」の収集とアーカイブ化計画を進めているのですが、その一環として『風俗奇譚』1961年12月号(文献資料刊行会)を購入して、内容をパラパラ見ているうちに「医学博士 石川明 性転換手術はこうして行なう」という記事の重要性に気づきました。2019年のことです。
(図2)『風俗奇譚』1961年12月号の表紙
(図3)同、目次の一部
実は、この記事、20年近く前にコピーしてファイルしてあったのですが、当時は、ほとんど気に留めていませんでした。ということで、厳密には新発見でなく、再発見です。
ポイントは著者名です。石川明という著者名は、執刀医の石川正臣と手術を受けた永井明を合成したアナグラムだったのです。
石川正臣
→ 石川 明
永井 明
なぜ、これまで気づかなかったのか?と思うと同時に、これは本物だと思いました。それは、内容を読むうちに確信になりました。
(図4) 記事全文
記事は、A5版3段組4ページの短いもので、最初に短い序文があり、以下、①「転性手術の歴史」、②「現在の手術方法」、③「将来の見通し」の3章構成になっています。
序文には「性転換手術は、実際どのように行ない、どのような結果になるか、また手術に要する費用、日数などはどのくらいか、などということについて、関心をお持ちのかたも少なくないと思われますので、外科の臨床にたずさわっている者として、実例をお知らせしよう。」とあり、著者が「外科の臨床にたずさわる人」であることがわかります。
最も興味深いのは、②「現在の手術方法」、つまり1950年代~60年代初頭の術式についての記載です。この部分は、去勢のみ、去勢&陰茎切除、造膣の3段階に分けて記述されています。
まず去勢手術については、次のように述べています。
「なるべく陰嚢上部に二センチほどの切開を入れる。その線が縦か横かうるさくいう人もいるが、どっちでも大差はない。切り口から片方ずつ睾丸を脱転させて(これは割合簡単にコロリと出る)から、精管その他を糸で縛って切り離す。消毒は、赤チン程度でじゅうぶんである。切開したところもまた、しいて縫わなくてよい。」
「この手術は、簡単で、しかも効果はほかの転性手術と全然変わらないから、もっと普及してもよさそうなものだが、実際に希望者が非常に少ないのは、やはり、きわめて小さくはなるが、陰茎と陰嚢が残ることであろう。」
「もし、費用の点から手術に踏み切れない人がいたら、まず、この簡便法だけを受け、その後、適当な時期に、陰茎切断をおやりになるといい。早く去勢手術を受ければ、それだけ早く効果が現われるわけであるから。」
「この手術さえ受けていれば、あとは女性ホルモン(卵胞ホルモンだけでよい)を適宜使用することで、徐々に男性性徴のいくつかを消すことができる。」
現代の医学水準からしても大きな違和感はない見解だと思います。切開線の縦か横かに言及するあたり、プロであることを感じさせます。
続いて、当時の言い方で「性転換手術」の説明になります。
「外見上も完全に女性性器化する方法をのべよう。これが、いわゆる性転換手術であるが、細かくいうとまだ二段階ある。つまり膣を造るか造らないかである。かつての未熟な外科技術では人工造膣など思いもよらないことだったが、今は時間さえかければ、なんでもない。」
興味深いのは、「少し特異なのは患者の寝かせかたで、両足を開いたかっこうで、少し頭のほうを低くして、あおむけに、つまり産婦人科の診察台を少し頭のほうに傾けたものと思えばよい。」と手術時の姿勢について述べていることで、GID学会でもSRSを行う形成外科の先生がこの点について見解を述べているのを思い出しました。
以下、詳細な術式の説明が続きます。
「メスは陰茎のつけねの上の部分から入れて、陰嚢のつけ根にそって左右両側から肛門の前二センチのところまで皮膚を切る。昔の去勢であれば、そのとき陰茎も睾丸もみんな切ったわけだが、いまは、切るのは皮膚だけである。そうすると、陰茎の亀頭の部分だけがひっついているだけで、ペロッと皮膚がとれ、陰茎の筋肉や睾丸が露出するわけである。もちろん、止血その他は、皮切の進行につれて行なっていく。
まず、処置するのは、睾丸である。鼠径部(太もものつけ根)で精管とその他を分離して、別々にそれぞれ縛ってから切断する。これで両方の睾丸はからだから離れるわけである。
つぎに、横下腹にある陰茎靱帯(勃起させる筋)を切ってから、陰茎を前から後ろへ引きはがすようなつもりで、陰茎海綿体(陰茎の上半部)と恥骨とがくっついているのを削りとりながら切り離す。これで、陰茎は尿道海綿体(下半分)がすこしからだについているだけで、ダラリとなる。
あとは、新しい尿道口をどこにつくるか長さをかげんして横に切断すればいい。
傷口の縫合は、女性の陰唇部に相当する。余裕も残さなければならないし尿道の位置もそれに見合うものでなくてはいけない。針も糸も細めのもので、縫合間隔も比較的せまく縫う。このあと、尿道には、カテーテルという細い管を入れておいて、排尿が不便でならないようにする。人工造膣を行なわない場合は、一週間ほどで抜糸できる。
女性に造膣手術をする場合(まれにそういう人もいる)だと、膣壁用に大腿部の皮膚などを切りとらなくてはならないが、転性手術の場合は、切りとった陰嚢が、ちょうどよい。陰嚢の、内側だったほうを外に裏返してプロテーゼ(棒)にかぶせる。太すぎる場合は、縫い縮めてから。前につくっておいた隙間に挿入するわけである。プロテーゼはむろんそのままにして、それから縫合である。」
造膣手術の術式が「反転法」であることが確認できます。この点、新聞記事などでは、何で「内張り」したのか不明確だったのですが、陰嚢の皮膚を使ったことがはっきりしました。
術式を詳しくかつ明瞭に述べている点、試行錯誤段階ではなく、すでに術式が確立していることを思わせます。この点については、転性希望者への「性転換手術」が、膣のない女性への膣形成手術の応用であることによると思われます。そして、なぜ産婦人科の教授が最初の「性転換手術」を執刀したのかということも、理解できました。
ただ、術式の解説が詳しすぎ、性風俗雑誌の読者のほとんどには不要(理解不能)な情報のように思います。私も術式の詳細についてはコメントする能力がないので、評価は現代の形成外科の先生方にお委ねいたします。
以下、術後のケアについては、
「プロテーゼのぬきかえ(毎日行なう)を行なうときは、傷口にふれるので、痛みを訴える患者が多い。ややもすると、人工膣は、腹圧によってつぶされがちだから、気長に治療することが必要である。」
全治については、
「造膣なしの場合で二週間、造膣をともなう場合で一カ月というところであろう。」
と述べています。
そして、費用については、
「術者の技術によってかなり幅があるが、入院費こみで、膣なしが五万円前後、膣つきが十万円前後と思えばよい。」
と述べています。
1960年代初頭の物価を現代に換算するのは、物によって価格上昇率がかなり異なるので難しいのですが、いろいろ考慮すると、だいたい10~15倍見当だと思います。
つまり、造膣なしで現在の50~75万円、造膣までして100~150万円に相当するということになり、現在の感覚と大きな違和感はないと思います。
最期の③「将来の見通し」では、
「将来、生体蛋白の構造が究明されつくしたあかツきには、他人の臓器との交換も可能になるだろうから、性転換者が妊娠して子供を生めるようになる可能性もあるかもしれない。」
と述べていて、1961年という時代を考えると、とてもハイレベルな見識だと思います。
さて、石川教授はなぜ、1961年というこの時点で、それまでの沈黙を破って「性転換手術」について語ったのでしょうか?
1つは、1951年の永井明子さんの手術から10年が経った時期であることが考えられます。「ほとぼりが冷めた」ということです。
もう1つは、1891年生まれの石川博士は1961年に満70歳で、大学教授として定年退職を迎えた可能性が高いことです。フリーな立場になり、今まで控えていたことを語れるようになったという推測です。おそらく2つの理由が相まってではないかと思います。
ここでふと、思ったのですが、石川教授が執刀した「性転換手術」は、1951年の永井明子さんの1例だけだったのでしょうか?
この記事のまったく気負いがない、いたって平静な記述からすると、もっとしていたのではないか?と思えてきます。たとえば1955年に完全な男性から女性への「性転換手術(造膣あり)」を受けた人としては(知られている限り)2例目の古川敏郎(女性名:椎名敏江)の場合、手術を受けた場所は「大きな病院」としかわかっていません。もしかして、石川教授が・・・と妄想しています。もちろん証拠はないのですが。
ここまでの内容、実は22回大会の一般演題でお話して「優秀演題賞」で理事長先生から表彰していただこうともくろんでいました。
その願望が虚しくなったところで、第1部を終えたいと思います。
要は、日本はけっしてSRSの後進国ではなく、むしろ1950~60年代前半までは世界の最先端の水準だったということです。
第2部 GID以後 ーICD-11の施行にともなう性別移行法の制定ー
時代も内容もガラッと変わって、「GID以後」のお話しは、ICD-11の施行にともなう性別移行法の制定についてです。
皆さん、ご存知のように、2019年5月の世界保健機関(WHO)総会で新しい「疾病及び関連保健問題の国際統計分類」(ICD-11)が採択されました。これによって従来の第10版(ICD-10)で精神疾患のグループ名(F64)として記載されていた「Gender Identity Disorder(性同一性障害)」という概念は無くなり、同時にそのグループに病名として規定されていた「Transsexualism(性転換症)」と「Dual role transvestism(両性役割服装倒錯症)」も消滅しました。
そして、新設された「Conditions related to sexual health(性の健康に関連する状態)」の章に「Gender Incongruence(性別不合)」が置かれました。つまり、ICD-11によって、性別に違和感があること、性別の移行を望むことは、Disorder(疾患)からCondition(状態)になったということです。
病理維持派の人たちが「病名が変わっただけ」と言うのは、明らかな間違いです。
こうして1990年のICD-10による同性愛の脱病理化に遅れること29年にして、世界のトランスジェンダーの多くが待ち望んでいた性別移行の脱精神疾患化がようやく実現しました。
ここで留意すべきは、脱病理化(Depathologization)は脱医療化(Demedicalization)ではないということです。日本では、両者を混同して「医療が受けられなくなる!」と、脱病理化に反対する当事者がいますが、性別移行のために必要な医療を受けたい人々の権利は当然のことながら保障されなければなりません。言い方を換えるならば、現在進行中の変化は、医療福祉モデルから(医療を受ける権利を含む)人権モデルへの転換ということになります。
ICD-11は2022年から施行されます。とにもかくにも、トランスジェンダーにとっての新しい時代の到来を当事者の一人として寿ぎたいと思います。「おめでとう!世界のトランスジェンダーの仲間たち」。
「WPATH2014」(バンコク)に集まったアジアのトランスジェンダーたち
さて、ICD-11の発効に関連して喫緊の課題になるのが、性別移行の法システムをどのように再構築するか?という問題です。「コロナ禍」で諸事滞っている間に2022年初のICD-11の発効まであと8カ月になってしまいました。間に合うのでしょうか?
日本は、これまで2003年7月成立(2004年7月施行)の「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(GID特例法)」によって、戸籍の性別(続柄)の変更を希望する人たちに対応してきました。
しかし、ICD-11の発効によって法律の名称になっている「性同一性障害」概念が消失し、また性別移行の脱精神疾患化の決定により、性別移行の適格者を精神科医が認定するという精神疾患であることを前提とした枠組みが成り立たなくなります。そもそもの話として法律が要求している「性同一性障害」の診断書を医師が書けない状況になるのです。
さらに、「GID特例法」が定める性別変更の要件は、国際的な人権規範に照らして様々な点で問題があります。
たとえば、第3条の2項(非婚要件)、3項(未成年の子なし要件)は、「結婚している、あるいは親であるといった社会的身分もその当事者の性同一性の法的承認つまり法的性別変更を妨げない」とするジョグジャカルタ第3原則に明らかに反しています。
また、同4項(生殖機能喪失要件)、5項(性器外形近似要件)は、「性同一性の法的承認、つまり法的性別変更の条件にホルモン療法や不妊手術や性別適合手術といった医学的治療は必須とされない」とするジョグジャカルタ第3原則、および、法的な性別の変更に生殖腺の切除手術を要件とすることは、トランスジェンダーの身体の完全性・自己決定の自由・人間の尊厳に反する人権侵害であるとする、2014年の国連諸機関共同声明に明らかに抵触します。
とくに共同声明を無視する姿勢は、国連だけでなく、声明の発表後、続々と対応して法改正を行い、性別移行法から手術要件を削除した欧米諸国のメディア、人権関係のNPO、関連学会から強い批判を受けています。そうした批判に対応しなくてよいのでしょうか?
日本が人権を重視する民主国家であることを、今後も世界に標榜していくのならば、やはり無視はまずいと思います。
世の中には、国際的な人権規範など無視して、日本独自の道を進むべし、という人もいますが、だったら欧米の精神医学の所産である「性同一性障害」概念などは受け入れなければ良かったわけです。
なお、GID学会では、2019年の第21回総会(岡山大学)で、2014年の国連諸機関共同声明を支持する理事会の決定が、総会で承認されています。
現行の「GID特例法」の最大の問題点は、戸籍変更のために当事者が必ずしも望まない手術を受けざるを得ないシステムにあります。
必ずしも手術を受けたくない人に、戸籍変更のためだけに高額の費用、身体への負荷、医療事故のリスクを課すことは人権侵害ということです。
さらに、法による生殖を不能にする手術へ誘導は、明らかに生殖権の侵害です。生殖権は人間の基本的な権利であり、戸籍の変更とバーターされるようなものではありません。
こうした状況を踏まえると、「特例法」の改正ではなく、「特例法」を廃止し、新・性別移行法を制定する必要があると、私は考えます。
さて、2018年5月31日、針間克己先生(はりまメンタルクリニック院長)と私は、「日本学術会議」法学委員会「社会と教育におけるLGBTIの権利保障分科会」に参考人として招かれ、東京・乃木坂の「日本学術会議」ビルに出向きました。
「日本学術会議」は内閣総理大臣の諮問機関である公的な機関です。針間先生と私は、三成美保委員長(奈良女子大学教授・副学長)をはじめとする委員の前で、「GID特例法」改正問題について、意見を述べました。
まず、針間先生が「性別違和(性同一性障害)と性分化疾患医療の現状と課題」と題して見解を述べ、次いで、私が「新・性別移行法」の私案をお話ししました。
私案のポイントを整理すますと、①病理を前提としない、②年齢以外の要件を規定しない、③家裁での審判システムを残す、④「お試し期間」(Real Life Experience)を設ける、⑤申請と許可の間に一定期間(1年)を置く、の5点になります。
①と②は、国際的な人権規範に沿うため、③は乱用防止の効果を持たせるため、④は性別移行の実質性を担保するため、⑤は興味本位の乱用や再変更の頻発を防止するためで、同時にそれが「お試し期間」にもなります。
国際的な人権規範を重視しつつ、日本社会との適合性を重視したたつもりです。
(参照)
三橋順子「LGBTと法律 ―日本における性別移行法をめぐる諸問題―」(谷口洋幸編著『LGBTをめぐる法と社会』日本加除出版、2019年)
この意見陳述から、2年半が経った2020年10月、「日本学術会議」法学委員会「社会と教育におけるLGBTIの権利保障分科会」の意見書「性的マイノリティの権利保障をめざして(Ⅱ)―トランスジェンダーの尊厳を保障するための法整備に向けてー」が提出されました。
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-24-t297-4.pdf
その内容は、①「GID特例法」の廃止と新「性別移行法」の制定、②成人要件以外の4要件(非婚要件、未成年の子なし要件、生殖機能喪失要件、性器外形近似要件)の撤廃、③戸籍における性別変更履歴の移記の廃止、などです。
①については、
「トランスジェンダーの権利保障のために、国際人権基準に照らして、性同一性障害者特例法に代わる性別記載の変更手続に係る新法の成立が必須である。国会議員あるいは内閣府による速やかな発議を経て、立法府での迅速な法律制定を求めたい。」
とし、さらに、
「トランスジェンダーの人権保障のためには、本人の性自認のあり方に焦点をあてる「人
権モデル」に則った性別変更手続の保障が必須である。現行特例法は、「性同一性障害」
(2019 年 WHO 総会で「国際疾病分類」からの削除を決定)という「精神疾患」の診断・
治療に主眼を置く「医学モデル」に立脚しており、速やかに廃止されるべきである。」
「特例法に代わる新法は「性別記載の変更手続に関する法律(仮称)」とし、国際人権基準に則した形での性別変更手続の簡素化が求められる。」
と、「医学モデル」から国際人権基準に則した「人権モデル」への転換を提言しています。
この点については、私もまったく同感です。
②の内、生殖機能喪失要件については、
「身体への侵襲を受けない権利」(憲法13 条)を保障するという見地からも、WHO を含む国際機関からの2014 年共同声明に記された国際基準の見地からも、生殖不能要件を廃止することを提案する」
としています。
「性器外形近似要件」についても、同様に「身体への侵襲を受けない権利」は、憲法 13 条による保障されるものである。」としたうえで、「特例法」の立法理由で挙げられている「(トイレ、更衣室、公衆浴場などの施設利用にともなう社会的)混乱や問題」については、「メーカーや施設責任者の協力を得て設備や環境の改善による対応が可能であり」、また「トランスジェンダーを装う「なりすまし」は犯罪行為であり、刑事法で対応すべき」とし、結論として「トランスジェンダーの「身体への侵襲を受けない権利」を否定する根拠にはならず、目的と手段があまりに不均衡である」として、生殖不能要件と外性器近似要件(合わせて手術要件)の廃止を提案しています。
人権と生活習慣との間に対立が生じる可能性がある場合、両者の擦り合わせが必要になりますが、その際には、生活習慣を改善すべきであり、人権を抑圧すべきでないことは、当然だと思います。
③については、戸籍に「【平成15 年法律第111 号3条による裁判確定日】」という性別変更履歴を記載することを止めるべきという提言です。これは以前から、戸籍の性別を変更した人たちが主張していたことです。
実は、「提言」が公表される半年前の2020年3月19日に、日本学術会議で「意見交換会」が開催され、参考人として、針間先生、公明党の谷合正明参議院議員、そして私が出席しましたが、その時には、すでに「提言案」ができていました。
机の上に置かれていた「提言案」を一読して、正直言って、かなり驚きました。
「人権モデル」に基づいた積極的な「提言」はおおいに評価できますが、司法機関がまったく関与することなく、行政手続きだけで性別が変更できる実質的な「届出制(自己申告)」であり、従来の法システムに比べてかなり急進的なものだったからです。
私が重視する、日本社会の現実との適合という点で、いささか不安を覚える内容でした。
やはり、なんらかのゲイト・キーパーは必要なのではないでしょうか。その役割をこれまでは精神科医が務めてきました。しかし、性別移行の脱精神疾患化が達成された今、それは法理からして無理です。となると、その役割は家庭裁判所に委ねるしかありません。これまでも家裁は「審判」という形で介在していたはずですが、実際にはほとんど形式的でした。それに少しは実質性を持たせたらどうかと思うのです。
ちなみに、私のこうした意見は、「トランスジェンダーの性別変更意思が確定的であることを担保するために、申告から一定期間経過後に性別変更の記載をすることや、家庭裁判所が意思確認をすることなどが考えられる。」という形で「提言」に付言的に取り込まれています。
残念ながら、現在の自民党・菅内閣の「日本学術会議」への抑圧的な姿勢からして、「提言」がそのまま実現する可能性は低いでしょう。
しかし、内閣総理大臣の諮問機関が提出した公的性格をもつ「提言」です。
一部のLGBT団体などが「GID特例法」の「改正」運動を進めているのは、「提言」を無視している点、脱精神疾患化の意義を十分に理解せず、精神疾患を前提とした「特例法」の枠組みを維持しようとしている点の二つで、筋としても、法理としても間違っていると思います。
性別移行の法システムの再構築という課題については、私案の提示、「日本学術会議」への意見具申など、社会的影響力に乏しい野良講師の私にできることは、やったつもりです。
結果がどうなるか?わかりませんが、私としては、新「性別移行法」が、国際的な人権規範に適う、欧米諸国に恥ずかしくない内容になることを心から願っています。
最期に、付け加えますと、ICD-11の施行によって、日本精神神経学会の「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン」も根拠を失い空文化します。1990年のICD-10では、日本精神神経学会は同性愛を精神疾患とする従来の姿勢をなかなか改めず、同性愛者団体の抗議をうけて、5年後の1995年になって、ようやく「同性愛はいかなる形でも病気ではない」という声明を出しました。今回は、そうした醜態を演じることがないように、率先して「性別を移行したいと考えることは精神疾患ではない」旨の声明を出して欲しいと思います。
そろそろ時間になりました。
これで、教育講演を終わりにいたします。
ご清聴ありがとうございました。
私は、川崎市在住ということで、大会長の中山浩先生(川崎市こども家庭センター部長)からご指名いただき、教育講演をさせていただくことになった。
ところが、残念なことに「コロナ禍」のため、大会は延期になってしまった。
そして、1年経っても「コロナ禍」は収まらず、結局、川崎市での開催は幻に終わり、2021年4月に、オンデマンド開催ということになった。
これは、その記録である(一部、誤字訂正)。
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「GID(性同一性障害)学会」第22回研究大会 2021.04.03(オンデマンド配信)
教育講演
GID以前と以後
三橋順子(性社会文化史研究者・明治大学非常勤講師)
皆さん、こんにちは。教育講演を担当いたします三橋順子です。実は、GID学会で講演させていただくのは3度目になります。1度目は2015年の第17回大会(大阪府立大学)の基調講演「性別越境現象」、2度目は2018年の第20回大会(東京・御茶ノ水)の特別講演「GID学会20年の歩みをふりかえる――医療者でもなく、当事者でもなく――」です。理事でもない永世平会員の私がこうした機会を3度もいただくこと、たいへん感謝しております。僭越ではありますが、よろしくお願いいたします。
(参照)
第17回基調講演の記録 https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2015-03-23-2
第20回特別講演の記録 https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2018-03-26
とはいえ、3度目ともなりますと、さすがにお話しするネタも乏しくなります。苦肉の策として、今回は「GID以前と以後」と題しまして「以前」と「以後」の2題話をいたします。日頃、学生には「レポートのテーマは1つに絞りなさい」と言っているのですが、困ったものです。当初の予定では2つをつなぐ話も少しはしようと思っていましたが、「オンデマンド配信」ということで、機材の関係でできなくなりました。
言い訳は、このくらいにして、本題に入りましょう。「以前」については、日本最初のSRS(Sex Reasignment Surgery)についての新発見史料をご紹介します。「以後」については、現在の重要課題である、性別移行の法システムの再構築についてお話します。
第1部 GID以前 ー日本最初のSRSについての新史料ー
日本最初のSRSは1951年4月頃、永井明さん(女性名:明子)に対して行われたもので、執刀は石川正臣日本医科大学教授(1891~1987年、後に日本産婦人科学会会長)でした。
ちなみに、この手術は、1951年5月15日のイギリスのRobert Cowell(女性名:Roberta)より前の可能性が大で、戦後では世界で最も早い事例と思われます。
(図1)永井明子さん(1954年頃)
しかし、新聞報道や、手術を受けた永井明子さんの「手記」はあるものの、執刀医である石川教授側の資料はほとんどなく、術式などは不明でした。
ところで、現在、私は1950~60年代の「性風俗雑誌」の収集とアーカイブ化計画を進めているのですが、その一環として『風俗奇譚』1961年12月号(文献資料刊行会)を購入して、内容をパラパラ見ているうちに「医学博士 石川明 性転換手術はこうして行なう」という記事の重要性に気づきました。2019年のことです。
(図2)『風俗奇譚』1961年12月号の表紙
(図3)同、目次の一部
実は、この記事、20年近く前にコピーしてファイルしてあったのですが、当時は、ほとんど気に留めていませんでした。ということで、厳密には新発見でなく、再発見です。
ポイントは著者名です。石川明という著者名は、執刀医の石川正臣と手術を受けた永井明を合成したアナグラムだったのです。
石川正臣
→ 石川 明
永井 明
なぜ、これまで気づかなかったのか?と思うと同時に、これは本物だと思いました。それは、内容を読むうちに確信になりました。
(図4) 記事全文
記事は、A5版3段組4ページの短いもので、最初に短い序文があり、以下、①「転性手術の歴史」、②「現在の手術方法」、③「将来の見通し」の3章構成になっています。
序文には「性転換手術は、実際どのように行ない、どのような結果になるか、また手術に要する費用、日数などはどのくらいか、などということについて、関心をお持ちのかたも少なくないと思われますので、外科の臨床にたずさわっている者として、実例をお知らせしよう。」とあり、著者が「外科の臨床にたずさわる人」であることがわかります。
最も興味深いのは、②「現在の手術方法」、つまり1950年代~60年代初頭の術式についての記載です。この部分は、去勢のみ、去勢&陰茎切除、造膣の3段階に分けて記述されています。
まず去勢手術については、次のように述べています。
「なるべく陰嚢上部に二センチほどの切開を入れる。その線が縦か横かうるさくいう人もいるが、どっちでも大差はない。切り口から片方ずつ睾丸を脱転させて(これは割合簡単にコロリと出る)から、精管その他を糸で縛って切り離す。消毒は、赤チン程度でじゅうぶんである。切開したところもまた、しいて縫わなくてよい。」
「この手術は、簡単で、しかも効果はほかの転性手術と全然変わらないから、もっと普及してもよさそうなものだが、実際に希望者が非常に少ないのは、やはり、きわめて小さくはなるが、陰茎と陰嚢が残ることであろう。」
「もし、費用の点から手術に踏み切れない人がいたら、まず、この簡便法だけを受け、その後、適当な時期に、陰茎切断をおやりになるといい。早く去勢手術を受ければ、それだけ早く効果が現われるわけであるから。」
「この手術さえ受けていれば、あとは女性ホルモン(卵胞ホルモンだけでよい)を適宜使用することで、徐々に男性性徴のいくつかを消すことができる。」
現代の医学水準からしても大きな違和感はない見解だと思います。切開線の縦か横かに言及するあたり、プロであることを感じさせます。
続いて、当時の言い方で「性転換手術」の説明になります。
「外見上も完全に女性性器化する方法をのべよう。これが、いわゆる性転換手術であるが、細かくいうとまだ二段階ある。つまり膣を造るか造らないかである。かつての未熟な外科技術では人工造膣など思いもよらないことだったが、今は時間さえかければ、なんでもない。」
興味深いのは、「少し特異なのは患者の寝かせかたで、両足を開いたかっこうで、少し頭のほうを低くして、あおむけに、つまり産婦人科の診察台を少し頭のほうに傾けたものと思えばよい。」と手術時の姿勢について述べていることで、GID学会でもSRSを行う形成外科の先生がこの点について見解を述べているのを思い出しました。
以下、詳細な術式の説明が続きます。
「メスは陰茎のつけねの上の部分から入れて、陰嚢のつけ根にそって左右両側から肛門の前二センチのところまで皮膚を切る。昔の去勢であれば、そのとき陰茎も睾丸もみんな切ったわけだが、いまは、切るのは皮膚だけである。そうすると、陰茎の亀頭の部分だけがひっついているだけで、ペロッと皮膚がとれ、陰茎の筋肉や睾丸が露出するわけである。もちろん、止血その他は、皮切の進行につれて行なっていく。
まず、処置するのは、睾丸である。鼠径部(太もものつけ根)で精管とその他を分離して、別々にそれぞれ縛ってから切断する。これで両方の睾丸はからだから離れるわけである。
つぎに、横下腹にある陰茎靱帯(勃起させる筋)を切ってから、陰茎を前から後ろへ引きはがすようなつもりで、陰茎海綿体(陰茎の上半部)と恥骨とがくっついているのを削りとりながら切り離す。これで、陰茎は尿道海綿体(下半分)がすこしからだについているだけで、ダラリとなる。
あとは、新しい尿道口をどこにつくるか長さをかげんして横に切断すればいい。
傷口の縫合は、女性の陰唇部に相当する。余裕も残さなければならないし尿道の位置もそれに見合うものでなくてはいけない。針も糸も細めのもので、縫合間隔も比較的せまく縫う。このあと、尿道には、カテーテルという細い管を入れておいて、排尿が不便でならないようにする。人工造膣を行なわない場合は、一週間ほどで抜糸できる。
女性に造膣手術をする場合(まれにそういう人もいる)だと、膣壁用に大腿部の皮膚などを切りとらなくてはならないが、転性手術の場合は、切りとった陰嚢が、ちょうどよい。陰嚢の、内側だったほうを外に裏返してプロテーゼ(棒)にかぶせる。太すぎる場合は、縫い縮めてから。前につくっておいた隙間に挿入するわけである。プロテーゼはむろんそのままにして、それから縫合である。」
造膣手術の術式が「反転法」であることが確認できます。この点、新聞記事などでは、何で「内張り」したのか不明確だったのですが、陰嚢の皮膚を使ったことがはっきりしました。
術式を詳しくかつ明瞭に述べている点、試行錯誤段階ではなく、すでに術式が確立していることを思わせます。この点については、転性希望者への「性転換手術」が、膣のない女性への膣形成手術の応用であることによると思われます。そして、なぜ産婦人科の教授が最初の「性転換手術」を執刀したのかということも、理解できました。
ただ、術式の解説が詳しすぎ、性風俗雑誌の読者のほとんどには不要(理解不能)な情報のように思います。私も術式の詳細についてはコメントする能力がないので、評価は現代の形成外科の先生方にお委ねいたします。
以下、術後のケアについては、
「プロテーゼのぬきかえ(毎日行なう)を行なうときは、傷口にふれるので、痛みを訴える患者が多い。ややもすると、人工膣は、腹圧によってつぶされがちだから、気長に治療することが必要である。」
全治については、
「造膣なしの場合で二週間、造膣をともなう場合で一カ月というところであろう。」
と述べています。
そして、費用については、
「術者の技術によってかなり幅があるが、入院費こみで、膣なしが五万円前後、膣つきが十万円前後と思えばよい。」
と述べています。
1960年代初頭の物価を現代に換算するのは、物によって価格上昇率がかなり異なるので難しいのですが、いろいろ考慮すると、だいたい10~15倍見当だと思います。
つまり、造膣なしで現在の50~75万円、造膣までして100~150万円に相当するということになり、現在の感覚と大きな違和感はないと思います。
最期の③「将来の見通し」では、
「将来、生体蛋白の構造が究明されつくしたあかツきには、他人の臓器との交換も可能になるだろうから、性転換者が妊娠して子供を生めるようになる可能性もあるかもしれない。」
と述べていて、1961年という時代を考えると、とてもハイレベルな見識だと思います。
さて、石川教授はなぜ、1961年というこの時点で、それまでの沈黙を破って「性転換手術」について語ったのでしょうか?
1つは、1951年の永井明子さんの手術から10年が経った時期であることが考えられます。「ほとぼりが冷めた」ということです。
もう1つは、1891年生まれの石川博士は1961年に満70歳で、大学教授として定年退職を迎えた可能性が高いことです。フリーな立場になり、今まで控えていたことを語れるようになったという推測です。おそらく2つの理由が相まってではないかと思います。
ここでふと、思ったのですが、石川教授が執刀した「性転換手術」は、1951年の永井明子さんの1例だけだったのでしょうか?
この記事のまったく気負いがない、いたって平静な記述からすると、もっとしていたのではないか?と思えてきます。たとえば1955年に完全な男性から女性への「性転換手術(造膣あり)」を受けた人としては(知られている限り)2例目の古川敏郎(女性名:椎名敏江)の場合、手術を受けた場所は「大きな病院」としかわかっていません。もしかして、石川教授が・・・と妄想しています。もちろん証拠はないのですが。
ここまでの内容、実は22回大会の一般演題でお話して「優秀演題賞」で理事長先生から表彰していただこうともくろんでいました。
その願望が虚しくなったところで、第1部を終えたいと思います。
要は、日本はけっしてSRSの後進国ではなく、むしろ1950~60年代前半までは世界の最先端の水準だったということです。
第2部 GID以後 ーICD-11の施行にともなう性別移行法の制定ー
時代も内容もガラッと変わって、「GID以後」のお話しは、ICD-11の施行にともなう性別移行法の制定についてです。
皆さん、ご存知のように、2019年5月の世界保健機関(WHO)総会で新しい「疾病及び関連保健問題の国際統計分類」(ICD-11)が採択されました。これによって従来の第10版(ICD-10)で精神疾患のグループ名(F64)として記載されていた「Gender Identity Disorder(性同一性障害)」という概念は無くなり、同時にそのグループに病名として規定されていた「Transsexualism(性転換症)」と「Dual role transvestism(両性役割服装倒錯症)」も消滅しました。
そして、新設された「Conditions related to sexual health(性の健康に関連する状態)」の章に「Gender Incongruence(性別不合)」が置かれました。つまり、ICD-11によって、性別に違和感があること、性別の移行を望むことは、Disorder(疾患)からCondition(状態)になったということです。
病理維持派の人たちが「病名が変わっただけ」と言うのは、明らかな間違いです。
こうして1990年のICD-10による同性愛の脱病理化に遅れること29年にして、世界のトランスジェンダーの多くが待ち望んでいた性別移行の脱精神疾患化がようやく実現しました。
ここで留意すべきは、脱病理化(Depathologization)は脱医療化(Demedicalization)ではないということです。日本では、両者を混同して「医療が受けられなくなる!」と、脱病理化に反対する当事者がいますが、性別移行のために必要な医療を受けたい人々の権利は当然のことながら保障されなければなりません。言い方を換えるならば、現在進行中の変化は、医療福祉モデルから(医療を受ける権利を含む)人権モデルへの転換ということになります。
ICD-11は2022年から施行されます。とにもかくにも、トランスジェンダーにとっての新しい時代の到来を当事者の一人として寿ぎたいと思います。「おめでとう!世界のトランスジェンダーの仲間たち」。
「WPATH2014」(バンコク)に集まったアジアのトランスジェンダーたち
さて、ICD-11の発効に関連して喫緊の課題になるのが、性別移行の法システムをどのように再構築するか?という問題です。「コロナ禍」で諸事滞っている間に2022年初のICD-11の発効まであと8カ月になってしまいました。間に合うのでしょうか?
日本は、これまで2003年7月成立(2004年7月施行)の「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(GID特例法)」によって、戸籍の性別(続柄)の変更を希望する人たちに対応してきました。
しかし、ICD-11の発効によって法律の名称になっている「性同一性障害」概念が消失し、また性別移行の脱精神疾患化の決定により、性別移行の適格者を精神科医が認定するという精神疾患であることを前提とした枠組みが成り立たなくなります。そもそもの話として法律が要求している「性同一性障害」の診断書を医師が書けない状況になるのです。
さらに、「GID特例法」が定める性別変更の要件は、国際的な人権規範に照らして様々な点で問題があります。
たとえば、第3条の2項(非婚要件)、3項(未成年の子なし要件)は、「結婚している、あるいは親であるといった社会的身分もその当事者の性同一性の法的承認つまり法的性別変更を妨げない」とするジョグジャカルタ第3原則に明らかに反しています。
また、同4項(生殖機能喪失要件)、5項(性器外形近似要件)は、「性同一性の法的承認、つまり法的性別変更の条件にホルモン療法や不妊手術や性別適合手術といった医学的治療は必須とされない」とするジョグジャカルタ第3原則、および、法的な性別の変更に生殖腺の切除手術を要件とすることは、トランスジェンダーの身体の完全性・自己決定の自由・人間の尊厳に反する人権侵害であるとする、2014年の国連諸機関共同声明に明らかに抵触します。
とくに共同声明を無視する姿勢は、国連だけでなく、声明の発表後、続々と対応して法改正を行い、性別移行法から手術要件を削除した欧米諸国のメディア、人権関係のNPO、関連学会から強い批判を受けています。そうした批判に対応しなくてよいのでしょうか?
日本が人権を重視する民主国家であることを、今後も世界に標榜していくのならば、やはり無視はまずいと思います。
世の中には、国際的な人権規範など無視して、日本独自の道を進むべし、という人もいますが、だったら欧米の精神医学の所産である「性同一性障害」概念などは受け入れなければ良かったわけです。
なお、GID学会では、2019年の第21回総会(岡山大学)で、2014年の国連諸機関共同声明を支持する理事会の決定が、総会で承認されています。
現行の「GID特例法」の最大の問題点は、戸籍変更のために当事者が必ずしも望まない手術を受けざるを得ないシステムにあります。
必ずしも手術を受けたくない人に、戸籍変更のためだけに高額の費用、身体への負荷、医療事故のリスクを課すことは人権侵害ということです。
さらに、法による生殖を不能にする手術へ誘導は、明らかに生殖権の侵害です。生殖権は人間の基本的な権利であり、戸籍の変更とバーターされるようなものではありません。
こうした状況を踏まえると、「特例法」の改正ではなく、「特例法」を廃止し、新・性別移行法を制定する必要があると、私は考えます。
さて、2018年5月31日、針間克己先生(はりまメンタルクリニック院長)と私は、「日本学術会議」法学委員会「社会と教育におけるLGBTIの権利保障分科会」に参考人として招かれ、東京・乃木坂の「日本学術会議」ビルに出向きました。
「日本学術会議」は内閣総理大臣の諮問機関である公的な機関です。針間先生と私は、三成美保委員長(奈良女子大学教授・副学長)をはじめとする委員の前で、「GID特例法」改正問題について、意見を述べました。
まず、針間先生が「性別違和(性同一性障害)と性分化疾患医療の現状と課題」と題して見解を述べ、次いで、私が「新・性別移行法」の私案をお話ししました。
私案のポイントを整理すますと、①病理を前提としない、②年齢以外の要件を規定しない、③家裁での審判システムを残す、④「お試し期間」(Real Life Experience)を設ける、⑤申請と許可の間に一定期間(1年)を置く、の5点になります。
①と②は、国際的な人権規範に沿うため、③は乱用防止の効果を持たせるため、④は性別移行の実質性を担保するため、⑤は興味本位の乱用や再変更の頻発を防止するためで、同時にそれが「お試し期間」にもなります。
国際的な人権規範を重視しつつ、日本社会との適合性を重視したたつもりです。
(参照)
三橋順子「LGBTと法律 ―日本における性別移行法をめぐる諸問題―」(谷口洋幸編著『LGBTをめぐる法と社会』日本加除出版、2019年)
この意見陳述から、2年半が経った2020年10月、「日本学術会議」法学委員会「社会と教育におけるLGBTIの権利保障分科会」の意見書「性的マイノリティの権利保障をめざして(Ⅱ)―トランスジェンダーの尊厳を保障するための法整備に向けてー」が提出されました。
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-24-t297-4.pdf
その内容は、①「GID特例法」の廃止と新「性別移行法」の制定、②成人要件以外の4要件(非婚要件、未成年の子なし要件、生殖機能喪失要件、性器外形近似要件)の撤廃、③戸籍における性別変更履歴の移記の廃止、などです。
①については、
「トランスジェンダーの権利保障のために、国際人権基準に照らして、性同一性障害者特例法に代わる性別記載の変更手続に係る新法の成立が必須である。国会議員あるいは内閣府による速やかな発議を経て、立法府での迅速な法律制定を求めたい。」
とし、さらに、
「トランスジェンダーの人権保障のためには、本人の性自認のあり方に焦点をあてる「人
権モデル」に則った性別変更手続の保障が必須である。現行特例法は、「性同一性障害」
(2019 年 WHO 総会で「国際疾病分類」からの削除を決定)という「精神疾患」の診断・
治療に主眼を置く「医学モデル」に立脚しており、速やかに廃止されるべきである。」
「特例法に代わる新法は「性別記載の変更手続に関する法律(仮称)」とし、国際人権基準に則した形での性別変更手続の簡素化が求められる。」
と、「医学モデル」から国際人権基準に則した「人権モデル」への転換を提言しています。
この点については、私もまったく同感です。
②の内、生殖機能喪失要件については、
「身体への侵襲を受けない権利」(憲法13 条)を保障するという見地からも、WHO を含む国際機関からの2014 年共同声明に記された国際基準の見地からも、生殖不能要件を廃止することを提案する」
としています。
「性器外形近似要件」についても、同様に「身体への侵襲を受けない権利」は、憲法 13 条による保障されるものである。」としたうえで、「特例法」の立法理由で挙げられている「(トイレ、更衣室、公衆浴場などの施設利用にともなう社会的)混乱や問題」については、「メーカーや施設責任者の協力を得て設備や環境の改善による対応が可能であり」、また「トランスジェンダーを装う「なりすまし」は犯罪行為であり、刑事法で対応すべき」とし、結論として「トランスジェンダーの「身体への侵襲を受けない権利」を否定する根拠にはならず、目的と手段があまりに不均衡である」として、生殖不能要件と外性器近似要件(合わせて手術要件)の廃止を提案しています。
人権と生活習慣との間に対立が生じる可能性がある場合、両者の擦り合わせが必要になりますが、その際には、生活習慣を改善すべきであり、人権を抑圧すべきでないことは、当然だと思います。
③については、戸籍に「【平成15 年法律第111 号3条による裁判確定日】」という性別変更履歴を記載することを止めるべきという提言です。これは以前から、戸籍の性別を変更した人たちが主張していたことです。
実は、「提言」が公表される半年前の2020年3月19日に、日本学術会議で「意見交換会」が開催され、参考人として、針間先生、公明党の谷合正明参議院議員、そして私が出席しましたが、その時には、すでに「提言案」ができていました。
机の上に置かれていた「提言案」を一読して、正直言って、かなり驚きました。
「人権モデル」に基づいた積極的な「提言」はおおいに評価できますが、司法機関がまったく関与することなく、行政手続きだけで性別が変更できる実質的な「届出制(自己申告)」であり、従来の法システムに比べてかなり急進的なものだったからです。
私が重視する、日本社会の現実との適合という点で、いささか不安を覚える内容でした。
やはり、なんらかのゲイト・キーパーは必要なのではないでしょうか。その役割をこれまでは精神科医が務めてきました。しかし、性別移行の脱精神疾患化が達成された今、それは法理からして無理です。となると、その役割は家庭裁判所に委ねるしかありません。これまでも家裁は「審判」という形で介在していたはずですが、実際にはほとんど形式的でした。それに少しは実質性を持たせたらどうかと思うのです。
ちなみに、私のこうした意見は、「トランスジェンダーの性別変更意思が確定的であることを担保するために、申告から一定期間経過後に性別変更の記載をすることや、家庭裁判所が意思確認をすることなどが考えられる。」という形で「提言」に付言的に取り込まれています。
残念ながら、現在の自民党・菅内閣の「日本学術会議」への抑圧的な姿勢からして、「提言」がそのまま実現する可能性は低いでしょう。
しかし、内閣総理大臣の諮問機関が提出した公的性格をもつ「提言」です。
一部のLGBT団体などが「GID特例法」の「改正」運動を進めているのは、「提言」を無視している点、脱精神疾患化の意義を十分に理解せず、精神疾患を前提とした「特例法」の枠組みを維持しようとしている点の二つで、筋としても、法理としても間違っていると思います。
性別移行の法システムの再構築という課題については、私案の提示、「日本学術会議」への意見具申など、社会的影響力に乏しい野良講師の私にできることは、やったつもりです。
結果がどうなるか?わかりませんが、私としては、新「性別移行法」が、国際的な人権規範に適う、欧米諸国に恥ずかしくない内容になることを心から願っています。
最期に、付け加えますと、ICD-11の施行によって、日本精神神経学会の「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン」も根拠を失い空文化します。1990年のICD-10では、日本精神神経学会は同性愛を精神疾患とする従来の姿勢をなかなか改めず、同性愛者団体の抗議をうけて、5年後の1995年になって、ようやく「同性愛はいかなる形でも病気ではない」という声明を出しました。今回は、そうした醜態を演じることがないように、率先して「性別を移行したいと考えることは精神疾患ではない」旨の声明を出して欲しいと思います。
そろそろ時間になりました。
これで、教育講演を終わりにいたします。
ご清聴ありがとうございました。
(講演録)洲崎・亀戸の性文化史 [論文・講演アーカイブ]
「江東区2019男女共同参画フォーラム」(2019.06.23:パルシティ江東)でおこなった講演の記録です。
『21世紀の女たちへの伝言』8号(江東の女性史研究会、2022年7月)に掲載された講演録の原版です。
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(講演録)洲崎・亀戸の性文化史
三橋 順子(明治大学非常勤講師、性社会文化史研究者)
ご紹介いただきました三橋順子です、よろしくお願いいたします。今回こういう形でお話する機会をいただきましたこと、とても嬉しく思います。というのも、私が遊廓、そして戦後の「赤線」、広い意味での売春地帯の歴史に実際に関心を持ったのは洲崎が最初だったからです。最初に訪れたのは二〇〇〇年ですから、もう一九年前です。なぜそういうことになったかというと、当時私は、京都の国際日本文化研究センターの教授である井上章一さんが主催している「関西性欲研究会」に参加したばかりで、その研究会が東京で合宿をする際に、先生から現地見学を企画するように言われまして、それで「赤線」時代の建物がまだ残っていた洲崎を案内することにしました。下調べのため、二〇〇〇年一一月、最初の現地調査に訪れました。研究会の現地見学は年が明けた二〇〇一年の一月で、東京に大雪が降った翌日でした。こんな雪がたくさん残っている状態で洲崎をご案内したことを鮮明に覚えています。〔写真を見せながら〕これ私です。比較的最近まで残っていた「大賀」というお店の前です。これが私の「赤線」研究・遊廓研究の事実上のスタートでした。
旧「大賀」の前で私(2001年1月28日)
私の自己紹介ですが、いくつかの大学で非常勤講師をやっております。専門はジェンダー・セクシュアリティの歴史研究、特に、自分がそうなので、性別越境、トランスジェンダーの社会文化史です。もう一つのテーマとして、買売春、主に「赤線」の歴史研究をしています。二〇一八年一〇月に『新宿 「性なる街」の歴史地理』を出しました。新宿を中心とした東京の「性なる街」の歴史地理ですが、江東区については亀戸についてコラムを一つ書いております。洲崎については、まとまった記述はしていませんが、かなりあちこちで触れております。ということで、二〇〇一年からこの本を出すまで、足掛け一八年かかりましたが、私なりに「赤線」を中心とする歴史をまとめたつもりです。書名が歴史地理になっているのは、私、一応歴史を勉強した人間なのですが、子どもの頃から地図が大好きで、場所とか街への関心が強く、この本も地図がたくさん入っています。そんな感じで、今日も地図がちょろちょろと出てまいります。
1 遊廓と「赤線」、制度と歴史
最初に、遊廓と「赤線」について基本的なことをお話ししておこうと思います。早い話、戦前が遊廓で、戦後が「赤線」なのです。これについて自分の本に愚痴っぽく書いたことなのですが、フェミニズム系の女性学の先生に、「名前は違っても、女性が管理されて強制的に売春させられて搾取されていたという点では何も変わらないわよ」と言われてしまって、「いやそう決めつけちゃったら何の学問の進歩もないでしょ」と思ったのですが、私にとっては、かなり違います。もちろん売春の場であって、女性がそこで身体を張って、身体を使って労働していたという点は同じですけども、システムがやはりかなり違います。そこら辺のことを丁寧にお話するとそれだけで一時間半かかってしまうので、できるだけ簡単にしようと思います。本当はそもそも江戸時代の話からしなければいけないのですけど、近代公娼制度、明治以降の制度に焦点を当てます。
ちょっと意外かもしれませんが、江戸時代に公認されていた遊廓は、新吉原(現:台東区)一か所です。他にも色々潜り的な場所がありましたが、少なくとも公許、公に許されているところは一つだけという建前は、江戸時代を通じて基本的に崩れません。ところが、幕末に変なことがありまして、それは後でお話します。そして、明治新政府になりますと、遊廓が拡大します。東京府下では、新吉原に加えて、品川、千住、板橋、内藤新宿という、江戸から出ていく街道の最初の宿場である「四宿」、それから多摩地域の甲州街道の宿場町、調布、府中、八王子、合計九か所になります。近代国家になって遊廓が拡大するということ、これポイントです。
一八七二年(明治五)に芸娼妓解放令という御触れが出ます。強制的な年季奉公の廃止など、女性の人身売買を規制する目的の法令です。これは外国から「日本は人身売買、事実上の奴隷制度やっているじゃないか」と責められて、諸外国の手前、「そういうのは止めます」ということで公娼制度を廃止する姿勢を示したものなのですが、内心は全く違いまして、ほとんど実効性がありません。翌年に「貸座敷渡世規則」「娼妓規則」という法令を出しまして、法律で規制するという形をとりながら、それまでの遊廓システムを、事実上、公認する形を作ります。だから実質、何も変わらないのです。それが一九〇〇年(明治三三)に「貸座敷取締規則」「娼妓取締規則」という形で、法律として近代化します。この話、先日も某大学でしてきましたが、明治民法ができるのが一八九八年(明治三一)で、明治の三〇年代はいろいろな法律を近代的に作り直した時期なのです。その一環としてこういうものができます。
その内容は、娼妓稼ぎをする者、つまり売春的な稼ぎをする者は警察の娼妓名簿へ登録しなさい、と。登録すると鑑札が渡されます。娼妓鑑札制と言うのですが、基本、個人に許可を出す形で、売春の個人ライセンスです。その際、登録が認められるのは(数え年)一八歳以上の女性ということになります。それ以前の、もっと若い少女が売春させられていた状況は法律で規制されます。また、娼妓は官庁が許可した貸座敷の内、つまり、遊廓の中でなければ営業はできないことになります。貸座敷というのは、娼妓に座敷を貸すという営業形態ですが、それはあくまでも建前で、事実上は遊廓の妓楼、娼館です。そして、貸座敷の営業許可をエリア制にします。つまり、売春をする女性は個人ライセンスだけれど、売春する場所を貸座敷に限定し、さらにその貸座敷の営業をエリアで統制することで、娼婦を一か所に集めて管理する形態を作ります。こうした形を集娼制と言います。政府は集娼制を維持したいのです。逆に、娼婦があちこちに散っている形を散娼制と言いますが、政府、特に警察はこれをとても嫌がります。ともかく業者に便宜を図ることで一か所に集める。なぜ一か所に集めたいかと言うと、一つは売春のコントロールであり、もう一つは性病の管理です。売春を管理して性病の蔓延を防ぐということに政府の強い意識があります。
それと、正確に言うと「遊廓」という言い方は法律用語ではありません。「貸座敷免許地」もしくは「貸座敷指定地」というのが法律的に正しいのですが、当時の文献、人々の言い方として「遊廓」という江戸時代以来の言葉がそのまま使われているわけです。
もう一点、重要なポイントになるのが、娼妓(娼婦)と芸妓(芸者)の許可を分離したことです。この「芸娼妓分離」制に明治政府はとても力を入れます。ただ、実際には、地方などで、そうした仕事をする人が少ないようなところだと、一人で二枚鑑札――芸者と娼妓の両方の許可をもらっている――という人もいました。東京はかなり分離をしっかりしています。やはり警視庁お膝元、政府のお膝元ですから。
元々、前近代(江戸時代以前)の日本は、芸能と飲食接客、そして売春(セックス・ワーク)は三位一体で分離していません。三味線を弾いて唄を歌って(芸能)、お酌をして(飲食接客)、それが終わるとセックス・ワークというのを一人が行うのはごく普通でした。それが分離していくのは、江戸時代中頃、十八世紀の新吉原からですが、基本的に前近代の日本では分かれていません。だから、高級娼妓である花魁は色々な芸能ができないといけないのです。それが「遊廓文化」でした。明治政府は芸能とセックス・ワークが分離することを政策的にやります。その結果、娼妓はただセックス・ワークだけをする人になってしまいます。遊廓もファッションや芸能など色々な文化の発信地だったのが、単に性を売る場所に変わっていきます。遊女が持っていた聖なるものと賤なるものの二面性から、聖なるもの、つまり「花魁ってやっぱりすごいよね」という要素が失われていき、娼婦を卑しむ見方だけが残ってしまいます。そして、そこに明治時代になって日本に入ってきた売春を悪徳とするキリスト教の性規範が重なり、売春従事女性への蔑視が強まっていきます。キリスト教の廃娼運動の人たちは娼妓を「醜業婦」、「醜い」仕事をしている女性と呼ぶようになります。
もう一つ、娼妓取締規則から少し遅れて一九〇八年(明治四一)に、密売淫の禁止が制定されます。貸座敷指定地内で鑑札を持つ娼妓が行う売春以外の、貸座敷指定地の外、鑑札を持たない娼婦による売春をすべて密売春として全面的に禁止します。つまり、自由売春ができなくなるということです。自由売春の禁止によって、国家にとっては売春の管理が徹底でき、遊廓の業者にとっては売春営業を独占できる。両者にとってメリットがあったわけです。
こうして、明治政府のもと、自由売春の禁止、売春の国家管理、遊廓の売春営業独占を3つの柱とする近代公娼制が完成します。時期的には明治の終わりぐらいですね。それが大正・昭和戦前期と続き、戦間期を経て、敗戦後の一九四六年(昭和二一年)二月まで継続していく、これが戦前の遊廓制度です。
さて、ようやく昭和戦後期の「赤線」の話になります。一九四五年(昭和二〇)八月一五日の敗戦の三日後、一八日に、Recreation and Amusement Association (以下、RAA)という、日本語で「特殊慰安施設協会」が警察の指令で作られます。これは日本を占領してくる進駐軍、占領軍の将兵の慰安、早い話、性欲を満たすための施設です。当時、「性の防波堤」、一般の婦女子を、アメリカ軍をはじめとする占領軍兵士の性欲から守るための防波堤を設けるという発想でした。
「性の防波堤」を作るにしても、そういう性的慰安施設を経営するノウハウを持ち、セックス・ワークで働いてくれる女性たちを集めることができる人と言えば、遊廓業者たちです。警察は、遊廓業者や、私娼街の業者たちに協力を依頼してRAAができるわけです。旧・洲崎遊廓の業者や、私娼街だった亀戸の業者もRAAに参加することになります。
ところが、せっかく作ったのに、その七カ月後の一九四六年(昭和二一)三月に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命令で連合国軍兵士のRAA施設への立ち入りが禁止されます。いわゆる「OFF LIMITS(立ち入り禁止)指令」です。理由は性病の蔓延です。アメリカ兵士の性病感染率がすごく高い。これはRAAの日本人女性がたくさん性病に罹っていて、そこから感染している、だから立ち入り禁止という見解をGHQはとるわけです。「どっちが悪い」ということになると、よくわかりません。アメリカ軍の兵士が性病に罹っていて、それが日本の女性にうつされて、またアメリカ軍に戻ってくるという、そういう形態も考えなければいけません。たぶん実態はそんなところだと思います。
しかし、ともかくオフリミッツ。そうなると、RAAの施設に雇われていた女性たちは、仕事にならないので、解雇されてしまいます。すでに、戦後の社会的混乱、生活困窮で、大量のストリート・ガール(街娼)、当時の言葉でいう「パンパン」――パンパンの語源は諸説あって大変なので解説しませんが――が出現しています。そこにRAAを解雇された女性たちが加わり、街のあちこちに街娼が立つ状態になる。これは典型的な散娼化です。性病のコントロールができなくなるので警察が一番嫌がる形態です。
話が前後しますが、一九四六年一月に貸座敷取締規則、娼妓取締規則など戦前の公娼制度(貸座敷・娼妓鑑札制)に関する法規を廃止するようにというGHQ指令が出ます。人権抑圧でありデモクラシーの理念にふさわしくないということです。占領期ではGHQ指令は絶対ですから、日本政府は従うしかありません。二月に内務省から全国の警察へ通達を出して、これで明治時代以来の近代公娼制は解体されたことになります。
ところが、同じ年の一二月、警察は特殊飲食店というものを許可します。そして、特殊飲食店で働く女性従業員(女給)が店で知り合ったお客さんと仲良くなって、「じゃあ私のお部屋いらっしゃいよ」という形で、自分の私室、プライベートな部屋に誘い、そこで自由恋愛という形でセックスが行われ、男性が女性にお礼を渡す、という建前のシステムを考え出されます。女給さんに部屋を貸しているカフェーの経営者は「何も関知してません」という建前です。そして、警察は特殊飲食店の営業を、エリアを指定して許可します。こうして、エリア限定で、買売春行為を警察が黙認するシステム、「赤線」が始まります。
だから、当時の「赤線」のカフェーというのは、一階が酒場と小さいダンスホール、二階が女給さんの部屋という構造になっています。建前としては、酒場やホールで男性と女給さんが親しくなる。実際は、そこでお酒飲む人はあまりいなくて、すぐに二階に上がるのですが。
なぜ「赤線」と言うかというと、警察がそういう特殊飲食店を許可した地域(特飲街)を赤鉛筆で地図上に囲ったから「赤線」と言うのだ、いうのが一般的な説です。でも微妙に証言が違っていたりしていて確証はありません(笑)。
それと、この説では「赤線」指定は、赤線で囲ったエリアなのですが、実際にはエリアからはみ出した特殊飲食店もあります。実は、「赤線」洲崎にもはみ出しているお店があります。つまり、特殊飲食店の許可は個別店舗なので、エリアで考えると、微妙にズレてくるのです。細かい話ですが…。
よく「赤線って合法なんですか、違法なんですか」という質問があります。これはどちらとも言えないです。「赤線」を警察が公認した売春地帯と定義するのは間違いです。当時の法制の基本は、売春は違法ですから合法ではありません。だけど、このエリア、赤線で囲ったエリアだけは目瞑る、摘発はしないという黙認エリアなのです。そこら辺、すごく微妙な話なのです。
ここは今日の話の一つのポイントなのですが、戦前も戦後も、こうした売春関係の場は、警察ととても密接な関係があります。現在の警察と風俗営業業者は、――もちろん裏で何かあるかもしれませんけど―― 基本的に摘発する側、される側で敵対関係です。だけど遊廓時代、そして「赤線」時代はそうではなくて、結構、持ちつ持たれつというか、はっきり言ってグルなのです(笑)。グル、お互い共通利害があるという風に理解すると、いろいろよくわかるのです。「赤線」も売春営業を続けたい業者と、性病コントロールのために集娼制を維持したい警察の共通利害が生み出したシステムなのです。
ここで、地図を見ていただきたいのですが、東京区部の「赤線」分布です。
このマルが洲崎で、ここが亀戸ですね。東京都の「赤線」は区部一三か所、多摩地域四か所の合計一七か所ですが、区部に限ると、東半分に多いことがわかると思います。西半分は、私が調べた新宿、それから品川、そして、ほとんど知られていませんが、大田区の武蔵新田です。大田区の行政の人も、区内に赤線があったって知らなかったというぐらいなのですが(笑)、この三か所だけで、あとは全部、東半分です。台東区の新吉原は隅田川の西ですが、江東区の洲崎・亀戸、それから墨田区の玉ノ井、鳩の街、葛飾区の立石、足立区の千住、江戸川区の小岩、新小岩、それから一番北が亀有(葛飾区)ですね。区部一三か所の一〇か所が東半分に集中しています。
そして、「赤線」の全盛期と呼ばれた一九五二年(昭和二七)末に、区部一三か所で、一一四二軒、従業婦、事実上、売春をしている女性は、四四五四人というデータがあります。こういう数字がきっちり出てくるのも、警察が管理しているからなのです。
ここで、ちょっと性病の話をします。「赤線」の建て前は自由恋愛ですけど、実質的に売春をする女性を一か所に集めている集娼施設です。なぜ警察は集娼施設を黙認したかと言えば、性病の定期健診を行って、性病の流行を防ぐ、コントロールするためです。「赤線」業者の全国組織が、正式名称を「全国性病予防自治会」であることが、それを示しています(会場笑)。今、お笑いになったとおりで、現代の感覚からすると冗談みたいな名称ですけども、これが本質なのです。
性病、ここでは主に梅毒と淋病ですが、どちらも、抗生物質がかなり良く効き、現在ではそんなに治りにくい病気ではありません。早くに発見してきちんと治療すればちゃんと治ります。しかし、抗生物質が普及する以前はそうではありませんでした。特に梅毒は、長期間にわたって症状が進んで最終的に死に至る病ですし、淋病は軍隊にとってとても厄介な病気でした。男性の尿道で炎症を起こしますので、早い話、股間が痛い、排尿のたびに激痛ということになります。股間が痛かったり痒かったり、いつも股間を気にしている兵隊では戦争で使い物にならないです。(会場笑)。だから軍隊にとっては、性病は著しく戦闘力を削ぐ病気であり、徴兵検査のときに厳しくチェックするように重大視をされていたわけです。
そうした軍隊と性病の歴史があるわけですが、ちょうどRAAから「赤線」くらいのところが転換期になります。アメリカで軍にかなりの量のペニシリンが供給されるのが太平洋戦争の末期です。これが性病によく効く、ほんとうにたちまち治るそうです。
日本占領期のアメリカ軍はペニシリンを使っていますが、さすがのアメリカもまだそんなに贅沢に使える状況ではありません。日本側はまだまったくペニシリン持っていません。だから、日本占領軍の兵士がたくさん性病に罹ると、アメリカ本国に「ペニシリンをもっと送ってくれ」と頼むわけです。アメリカ本国からしてみると、貴重なペニシリンを日本に送っても送っても追加注文が来る。「日本占領軍はいったい何をやってるんだ?!」と問題になり、その結果、オフリミッツ、立ち入り禁止ということになったのです。
さらに――こんな話していると時間がなくなってしまいますが――、アメリカ兵の相手をする日本女性の性病を治療しないと感染率が下がらないということで、日本女性にもペニシリンを渡します。ところが、彼女たちはペニシリンを渡されても、自分で注射できません。技術的なこともありますが、当時の社会状況からして注射器は入手困難ですから。三年前(二〇一六年)に九二歳で亡くなった私の父は、当時、新宿の医学生でした。新宿のそういう女性たちにペニシリンを注射してくれたらお小遣いあげる、本物のコーヒー飲ませてあげるみたいな条件で、アルバイトをしていました。ともかく性病への意識が現在とはまったく違うということです。
一方で、特殊飲食店が許可されない地域もあって、それは「赤線」に対して「青線」と呼ばれていました。でも、これは青鉛筆で囲っていたかは怪しいです。
「赤線」システムは、法的には一九五八年(昭和三三年)四月一日の売春防止法の完全施行まで続きます。「赤線」は一九四六年から五八年まで――足掛け一三年ですね――続いた戦後の「黙認売春システム」ということです。
ちなみに、売春防止法の完全施行は四月一日で、その前日の三月三一日が「赤線の灯が消えた日」と、世の中で認識されているのですが、これはほぼ間違いです。東京の主な赤線は三月三一日の一か月前、つまり二月二八日でほとんど営業を終えています。こちらの研究会ではそこら辺をきちんと調べられていて、さっき見せていただいた資料にありましたが、当時を知っている方が、ちゃんと「二月まで」と語っています。とても感激しました。新宿はさらに一か月前で、一月三一日で終わっています。たった一、二か月のことですけが、人の記憶はすごくいい加減で、三月三一日に女給さんとお客がみんなで「蛍の光」を歌って「赤線」が終わったような話になっていますけど、それは事実ではないということです。
さて、前半の最後に戦前の遊廓と戦後の「赤線」とどこが違うか?比較をしておきましょう。
まず、経営規模が全然違います。遊廓時代、都内の遊廓の一軒平均の従業婦は大体一〇人です。平均で一〇人、だから大きい妓楼だと二〇人ぐらい女性を働かせていました。それが戦後の「赤線」になると、およそ平均四人です。もっと小さいところもあります。経営規模がまったく異なります。
さらに重要なのは収入の分配です。戦前と戦後ではまったく違います。戦前ははっきりした取り決めがありませんが、おそらく実質一対九、「一」が娼妓で、「九」が経営者(貸座敷)側です。業者の搾取度が非常に高いです。こんなに搾取されていたら借金を返せるはずがないわけで、借金による人身拘束が常態でした。これもちゃんと、こちらの研究会の聞き取りで、ご自身が業者だった方が語っています。対して戦後は、驚くべきことですけども、業者と女給さんの分配を五対五、半々にするよう警察が指導しています。ところが実際は、食費と税金が業者持ちで、従業婦が四、業者が六だったようです。さっき読ませていただいた元経営者の方の聞き書きでは「四対六でも(経営的に)結構大変だった」と言っています。まぁそれは業者の側のぼやきですね。ともかく、戦前と戦後では収入の分配率が大きく違います。
そして、働いている女給さんの収入もピンからキリです。これは今の水商売、たとえばキャバクラ嬢なんかも本当にピンキリです。上は月収レベルで数百万というキャバクラ嬢がいますし、キリは十万もいかないような子がいます。水商売世界というのはそういう実力社会、格差世界です。当時の「赤線」も同じで、トップクラスの売上の女給さんは当時の職業婦人の中でも格段に高収入です。「赤線」の従業婦を職業婦人に入れるなんてとんでもないという意見もあると思いますが、客観的に比較してそうです。若干、伝説なのかもしれませんが、「赤線」新吉原の高級店のさらにナンバーワンの女給さんの収入は当時の国会議員よりも上でした(笑)。稼いでいる女給さんのほとんどは、贅沢をしていたわけではなく、親元に送金していたようです。個人の収入としては格段に高いですが、それで一家一族を養い支えていた女性がたくさんいたということです。
あと、戦前と戦後で大きく違うのは、働いている女性の自由度です。戦前は本当に自由がありません。新吉原にしても洲崎にしても、遊廓のエリアの中だけの自由、それすらもお供が監視に付くというような状況です。それが戦後の「赤線」になると、監視が付けられないのです。戦前の遊廓は、妓楼にいる娼妓も多いですが、それ以外の男衆や女衆もたくさん雇っています。一人の娼妓の収入に大勢の従業員が寄生しているという形なので、収入の分配が一対九になってしまうのです。人手が多いので、娼妓の外出に一人のおばさんを付けて監視することが可能でした。ところが、戦後の「赤線」は経営規模が格段に小さくなります。女給さんを四人雇っている、建前は住まわせているとして、経営者とその妻(お母さん)、あとは女衆(おばさん)と女中さんが一人ずつくらいです。女給の外出に一人付けることができないです。だから「赤線」の女給さんの自由度はかなり高い。都電に乗って買い物にも映画館にも行ける。だから、悪賢い女給だと、業者からお金借りて、それでいなくなってしまう人もいたようです。
戦前の遊廓は、そもそもが人身売買であり、借金による人身拘束で、娼妓の自由度が著しく低い。「性奴隷」と言っていいと思います。世界の売春システムの中でも、日本の遊廓のシステムは、悪い意味でとても完成度が高い管理売春システムです。それを明治時代後半のくらいから海外に輸出していきます。最初は台湾、次に朝鮮半島、さらに大連、そして満洲に輸出し、南方に展開し、ということを戦争中までずっとやっていた。それがいわゆる「慰安婦」問題につながるわけです。
それに比べると戦後の「赤線」は、管理売春と自由売春の中間ぐらいの性格です。人身売買はゼロではありません。問題になっているケースもありますが、わざわざお金を払って女性を買い集めなくても、女性の方から「働かせてください」って来る。だから、違法なことをする必要もなかった。逆に業者の方が居心地を良くして稼ぎ手の女給さんをつなぎとめる、というのが当時の語りです。違法なことをあえてするのは、よほどひどい店で、働き手の女性が寄ってこないような店だと言っています。
2 洲崎の歴史――遊廓の成立、「赤線」化、消えゆく現在
さて、ようやく洲崎の話です。洲崎遊廓は非常に成り立ちが複雑です。いろいろな説があって、原稿書きながらけっこう苦労しました。
洲崎遊廓の成立については、まず根津遊廓の話をしないといけません。根津から洲崎につながってくるわけですから。根津遊廓は、もともと根津神社(現:文京区)の近くの根津門前町にあった「岡場所」(非公認の売春地帯)です。江戸時代は先ほども言いましたように吉原だけが公許で、それ以外はすべて非公認でした。それが一八六八年(慶応四年)――敢えて慶応四年と書きましたけど、明治元年です、官軍の江戸侵攻の直前です――に、江戸幕府の陸軍奉行・浅野美作守氏祐という人が根津遊廓として公許したということになっています。しかし、江戸時代の遊廓の統制は町奉行所の管轄で、責任者は町奉行です。また、根津遊廓の門前町は寺社地なので、寺社奉行の管轄です。遊廓の経営は町奉行の管轄、土地の管轄は寺社奉行、どちらにしても陸軍奉行が認可するのは明らかに筋違いでおかしいのです。想像すると、幕末のどさくさで、軍事的な費用に困っていた陸軍奉行が根津の業者から献金を受ける代わりに公許したのかなと思います。ともかく、幕府倒壊直前の混乱期のことで、まともな公許ではありません。
だから、明治新政府はそれを素直に認めません。非常に微妙な位置づけになります。先ほど、一八七三年(明治六)の東京府令による貸座敷許可地は六か所と言いましたけど、厳密に言うと、新吉原、品川、板橋、千住、内藤新宿の五か所で、根津は新吉原の下に「付け足り 根津」とあるのです(笑)。新吉原のおまけというか、新吉原の管轄の内という形での認可だったようです。一本立ちしていない、でも一応、認可はされているという、かなり微妙な位置づけでした。
そして、一八八四年(明治一七)に根津に程近い本郷に東京医学校(現;東京大学医学部の前身)が移転してきます。で、医学校の近くに遊廓があるのは風紀上よろしくないという話が出てきます。近いと言ってもそんなに近いわけでもないし、根津を潰しても新吉原に行けばいいわけで、どうもよくわからない話なのですが、ともかく風紀上の理由で一八八八年(明治二一)一二月をもって根津での営業は禁止、立ち退きということになります。
ちなみに、東京帝国大学出身で、評論『小説神髄』で知られる文学者の坪内逍遥の奥さんは、元・根津遊廓・大八幡楼の娼妓「花紫」で、学生だった逍遥が通い詰めて落籍し、一八八六年(明治一九)に結婚します。同時期にそういうことがあったわけですが、それが強制移転の理由にまでなるとは思えません。
立ち退き先は、東京湾岸の平井新田というところ、ここは江戸時代まで広大な干潟で、安政江戸大地震(一八五五年)の後、大量の塵芥を捨てたりして埋め立てが進んでいました。しかし、台風が来て高潮になるとあっという間に潮を被ってしまうというような土地です。そうした海とも陸ともつかないような場所を造成して、当時の東京府深川区に編入します。そして、立ち退き期限の半年前の一八八八年六月に移転を完了し、貸座敷許可地になります。これが洲崎遊廓の成立です。
根津からの移転を受け入れる代わりに、移転先の洲崎では一人前の貸座敷許可地、遊廓として認可する、そんな取引(バーター)が東京府と妓楼の業者の間であったのかなと想像しています。
これは一九三〇年(昭和一〇)の地図です。
左が平久町と平井新田です。ここは少し埋め立てが進んでいました。その北東に洲崎弁天があります。洲崎弁天は江戸時代にすでに行楽地になっていました。というか、洲崎弁天しかなく、あとは干潟とも埋め立て地ともつかないものが広がっていたわけです。平井新田の東側に長方形の土地を造成します。長崎の出島みたいな感じで、四周が水面で隔てられ、陸とは繋がっていません。南側は海(東京湾)です。現在は埋め立てが進んで、海が遠くなりましたが、当時は本当に海辺です。
ここで重要なのは隔絶性です。廓とは、周りを塀とか石垣とか堀とかで囲われている隔絶された場所という意味ですから、洲崎の地形はまさに廓です。人工的に堀を巡らした新吉原よりもずっと隔絶性が高い。元からの水面を周囲に残し、表の出入口は洲崎橋、それと洲崎弁天の方に行く小さな橋(西洲崎橋)が裏門みたいな感じです。船をつかえば別ですが、二つの橋に番人を置けば、脱出不能という、遊廓としては理想的な地形です。
それでは、洲崎の画像を見ていきましょう。
歌川広重の「東都名所 洲崎弁財天境内全図・同海浜汐干之図」です。左手前が洲崎弁天、現在の洲崎神社ですね。その向こうにはずーっと干潟が広がっていて、人々が潮干狩りをしています。さらに遠く品川沖。後に洲崎遊廓ができるのは洲崎弁天のさらに左側ですが、まだ影も形もありません。
これは、正確にいつかわかりませんが、遊廓ができたのが一八八八年で、一九〇〇年出版の本に載っていますから、おそらく出来て間もない一八九〇年代の写真だと思います。おそらく、洲崎遊廓の写真としてはいちばん古いでしょう。一面の干潟が広がっていて、そこに漁師さんがいて、海の向こうに不思議な塔のある建物が見えます。洲崎がまさに海辺の遊廓であることがよくわかります。
一八九八年(明治三一)に発行された「東京名所」に描かれた洲崎遊廓の夜景です。前の写真とほぼ同じ海越しの角度で、満月の東京湾岸を人々が散策している様子が描かれています。手前の男性二人はこれから遊廓に向かうのでしょうか? 海辺の行楽を兼ねてセックスしに行くみたいな、そんな場所だったのかもしれません。
これは、洲崎遊廓の内部を描いた絵です、先ほどの写真に見えた特徴的な二つの時計台が描かれています。柳が植えられた道路は中央を南北に貫くメインストリートで先に海が見えます。
海辺というのも善し悪しで、なにしろすぐ先が海ですから、洲崎遊廓は台風に伴う高潮の被害を何度も受けています。特にひどかったのが一九一一年(明治四四)と一九一七年(大正六)の高潮で、死者が出る被害でした。これは一九一一年の被災写真(絵葉書)で、新遠江楼という妓楼が、高波に直撃されて、叩き潰されたように完全に倒壊しています。門柱も倒れていますね。日頃は海が近くて良い感じなのですけど、災害に弱いのが欠点でした。
明治全盛の洲崎遊廓は一九一二年(明治四五)三月の大火で焼けてしまいます。この絵葉書には、洋風な建物、時計台が見えないので、おそらく大火の後の大正期だと思います。メインストリートに沿って木造三階建ての和風の妓楼が並んでいます。
これは、石川光陽『昭和の東京』に入っている一九三四年(昭和九)の洲崎遊廓の写真です。
石川さんは朝日新聞のカメラマンとして活躍された方です。二台の人力車に乗った娼妓は、洲崎病院に性病検診に行った帰りではないかと石川さんは解説しています。おそらくそうでしょう。場所はどこだろう?と思い、調べてみました。中央の建物は玄関の上に「三日月楼」と読めます。さらに左の遠景の建物に「新甲子」とあります。
地図を調べると、見つかりました。いちばん広い大門通りから東に二ブロック入ったところに三日月楼とありまして、さらに新甲子があります。人力車は三日月楼の前を東から西(地図では右から左)に進んでいて、カメラマンはそれを赤丸のあたりから東方向を撮っています。まぁ、だからどうだっていうことなのですけども(笑)。
もう一枚、石川さんの写真集からです。大きな通りではなく、雨上がり、水たまりがある裏通りを歩く二人の女性、おそらく娼妓だと思います。やはり一九三四年の撮影ですが、場所はさすがにちょっと調べがつきませんでした。見ているうちにだんだんわかったのですが、石川さんは、写り込む人を選んでいますね(会場笑)。きれいな人が多いのです(会場笑)。カメラをじっくり構えてきれいな子が来るまで待っていたのではないかなと。この二人も美人さんだと思います。とくに左の女性は笑顔がすてきです。
これは一九三六年(昭和一一)の洲崎遊廓の空中写真です。近年、国土地理院のサイトで空中写真が見られるようになり、ずっと使いやすくなりました。私は新宿遊廓について空中写真を使って調べたのですが、その時、遊廓地区の空中写真に特徴があることに気づきました。それは、真ん中に暗い部分がある建物がたくさんあることです。私は片仮名のロの字型建物と言っていますが、上の写真にもたくさん見られます。これは何かと言うと、真ん中に庭を置いて、四週を建物で囲む建築様式を真上から写すと、中庭部分が暗いロの字型に見えるわけです。遊廓建築がだいたい木造三階建で中庭を囲む形になるのは、どの部屋からも庭が見られるようにという配慮と、採光、明かり採りのためです。すべての妓楼がそういう形式ではないにしろ、やはりこの形が多く、遊廓建築の特色です。だから、ロの字型の建物が密集しているところは、遊廓エリアだと判断できます。
このことを、新宿で最初見つけて、洲崎でも言えます。さらに名古屋の中村遊廓もまさにそうです。ところが、不思議なことに新吉原の空中写真にはほとんどロの字型が見られません。新吉原は、一九一一年(明治四四)の「吉原大火」、一九二三年(大正一二)の関東大震災と全焼を重ねていくうちに、そうした江戸時代以来の建築様式から離れたのかなと思ったのですが、そんなこと言ったら、洲崎も同じで・・・(笑)。今ところ、理由はわかりません。
これは、一九三六年(昭和一一)の洲崎遊廓の詳細な住宅地図(火災保険特殊地図)です。ちょっとわかりにくいと思いますが、オレンジ色で囲ったのが妓楼です。ものすごい数です。本当にびっしりで、極めて密度が高いです。ただ、橋を渡って大門(上の中央)を入ってすぐの西側(地図では左側)のブロックだけ、ちょっと区画が違っていて、そこに商店や郵便局などが、妓楼以外の建物がまとまっています。たぶん、計画的にそういう配置にしたのでしょう。
特徴的なのは、道路がものすごく広いこと。メインストリートの大門通りは幅三五メートルです。三五メートルというと、今の自動車道路で六車線です。人力車くらいしか走っていない時代に三五メートルというのはものすごいです。そして、大門通りに直交する横(東西)の大通りが半分の一七メートルです。私の本の「コラム1」に書きましたが、戦前の遊廓、とくに新たに作った遊廓は、ともかく道が広く規格性が高い。不必要に道が広いのは、ただの交通路ではなく、火災のときの防火帯の役割を兼ねているからです。洲崎の場合もそれがとてもよくわかります。
遊廓びっしりの中で南東隅だけ、妓楼がありません、ここに何があるかというと、洲崎警視庁病院です。そして、その隣に産業組合の取締事務所と性病検診所があります。はじめの方で「警察と業者はグルです」と言いましたが、洲崎の場合、警察と業者組合兼診察所の位置関係で、それがもろわかりなのです(笑)。ここまではっきり仲良くしているところも、そうはないです(笑)。
洲崎遊廓の全盛期は昭和初期です。一九二九年(昭和四)のデータが残っていますが、貸座敷一八三軒、娼妓一九三七人です。一軒あたり平均一〇・六人。地図を見てもかなり妓楼の大小がありますから、大きな妓楼は二〇人くらいの娼妓を抱えていたでしょう。この段階で都内第二位。やはり新吉原が第一位で二二八軒、二三六二人で、洲崎がその次。三位の新宿は五六軒、五七〇人ですから、洲崎とは四倍近い規模の差があり、新吉原と洲崎が東京の二大遊廓であるのは間違いありません。全国だと、大阪の松島遊廓が一位なので、洲崎は全国三位ということになります。
よく言われる言葉が「吉原大名、洲崎半纏」です。まあ、大名が来ていたのは新吉原の初期までですが、洲崎は北に接する木場の職人さんが主な客筋でした。では「木場の旦那衆はどっち行ったんだろう」と思うのですが〔会場より「吉原」〕、はい、やはり新吉原でしょうね。あまり近いとかえって行きにくいだろうし(会場一部笑)。職人さんのほかには、船員さん、あと、下町の職工さん、それから景気が良いとき漁師さん、沖仲仕はなかなか来られないかな。江戸時代以来の歴史で、格式ばったところがある新吉原に対して、気取りのない雰囲気の、潮の香も懐かしい庶民的な遊廓だったと言われています。
それに関連して、地図を見ていて気付いたのですが、西側の水路沿いに割と大きめの妓楼が並んでいて、妓楼の裏側にちょっとした舟寄の石段かあれば、船で来て上がれるのではないかなと思いました。残念ながら、そこら辺の写真はないのですが。
さて、洲崎遊廓は太平洋戦争中の一九四三年(昭和一八)一〇月に、海軍省の接収命令が出て、一二月に全域が接収されてしまいます。建物だけでなく、布団も鍋・釜・食器の台所道具も全部置いていくようにという命令でした。お女郎さんがお客の相手をしていた部屋が軍需工場――石川島(後の石川島播磨重工業、現、IHI)――などに配属される勤労動員の青年たちの宿舎になります。だから布団も台所用具もそのまま使えるように「居抜き」接収なのです。
接収される妓楼の経営者からしたら、いくら海軍省の命令でも、これではたまりません。そこはやはり「見返り」が用意されていて、洲崎の業者たちは、立川飛行場がある立川、羽田飛行場の近くの穴守(大田区)などに作られる軍関係の「慰安所」の経営者に転身していきます。東京の「赤線」分布のところでちょっとお話した武蔵新田(大田区)は、洲崎の業者が作った穴守の「慰安所」が、羽田飛行場の拡張で再移転した場所なのです。
接収された洲崎遊廓の建物群は、一九四五年(昭和二〇)三月一〇日の東京下町大空襲で全滅します。おそらくスパイの報告で、あそこはもう遊廓じゃなく軍需工場の宿舎だと、わかっていたのだろうと思います。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、西洲崎橋のたもとに今でも戦災殉難供養塔があります。やはり、この地形、逃げにくいのです。なんとか橋のところまで来たけれど、逃げ切れずにここで亡くなった方がたくさんいたということです。
ようやく戦後です。結局、立川の錦町、羽衣町、それから武蔵新田、もとの本拠地である洲崎が、戦後、アメリカ軍兵士の「慰安所」を経て、「赤線」になります。洲崎遊廓系の「赤線」は、東京都内一七か所中四つもあるのです。勢力大拡張です。軍に率先して協力した見返りはやはり大きかったということです。実は、亀戸も移転しながら分化して、一か所が三か所に増殖します。
洲崎系の赤線の本拠を象徴するのがこの「洲崎パラダイス」の大アーチ」です。洲崎橋を渡ったすぐのところです。
ちなみに、「洲崎パラダイス」の名前を有名にしたのは、一九五六年の映画『洲崎パラダイス 赤信号』(川島雄三監督、日活)です。この映画、洲崎橋の北側、「赤線」の外側にある飲み屋が主な舞台なので、旧廓内、当時の「赤線」はほとんど映っていません。主演の新珠三千代と三橋達也が当時の美女・美男の典型で映画としては好きなのですが、「赤線」の資料としてはあまり使えないです。
戦後、旧遊廓の東半分だけが「赤線」指定地になります。さっき見せていただいた聞き書きには、西半分は緑地になるはずだったと書いてありました。それは初耳でしたが、でも全然緑地にならなかった。それと、指定地から二軒だけはみ出しています。これは、前に述べましたように、特殊飲食店の指定は一軒一軒が基本で、赤い線で囲った指定エリアは便宜的という事情によるものです。
一九五二年末の調査で、「赤線」洲崎は、特殊飲食店一〇八軒、女給さん五〇五人、一軒あたり平均四・七人です。戦前の遊廓時代の平均が一〇・六人ですから、経営規模は半分になっています。それでも、四・七人というのは都内の「赤線」では多い方です。軒数では新吉原、玉の井に次いで第三位、女給の数では新吉原に次いで第二位で、規模は都内の赤線でも二位か三位かです。「規模は」と言ったのは、料金的には上に来ないからです。はっきり言って、安いです。料金的に言うと、トップが新吉原で、次いで、新宿と鳩の街(墨田区)が並びます。洲崎はかなり安い方です。さらに安い亀戸よりちょっと上くらいです。トップクラスの新吉原がショートで五〇〇~八〇〇円なのに対し、洲崎は三〇〇~四〇〇円でほぼ半額です。遊廓時代よりも戦後の「赤線」はさらに庶民的になった感じです。
次に「赤線」時代の写真を見てみましょう。と、言っても同時代の写真はあまり残っていません。まして、営業中の写真になるとさらに少なくなります。
例の「大賀」です。『洲崎遊廓物語』という洲崎遊廓の歴史を書いた本に載っている写真です、正確な撮影時期はわからないのですが、店の前に並んでいる女給さんが全員和装(着物)なので、「赤線」の初期かなと思います。一九五〇年前後と推測しています。数少ない「赤線」営業時の写真で、女給さんも撮られるのを意識している感じで、隠し撮りではないと思います。もしかして、なにかの記念撮影かもしれません。それと「大賀」は横の大通りに沿っていますので、道がとても広いことがわかります。
これも営業中の写真ですが、こちらは全員洋装です、女給さん。店にもよると思いますが、赤線の前半は和装が多くて、後半はほとんど洋装化してきます。これは一九五五年、「赤線」後期の写真です。場所を調べたいのですが、店の名前が読めそうで読めません。
「赤線」は一九五八年(昭和三三)四月一日の売春防止法の完全施行で廃止・廃業になりますが、すでに述べましたように、東京都の「赤線」は、それに先立つ二月の末までで営業停止になっています。これは業者組合が警察に営業許可を返上しているので、一斉廃業です。
「赤線」地区のその後です。新吉原は、現在、都内最大のソープランド街になっていますが、あれはむしろ例外で、都内の「赤線」地帯はほとんどは、その後、歓楽街・性風俗街にはならずに、一般住宅地になっています。洲崎もそうです。ただ、新宿は、また特異で、現在「ゲイ・タウン」、男性同性愛者のお店が集中するエリアになっています。
洲崎は、近年まで住宅街の中に「赤線」時代の建物がかなり残っていました。アパートや一般住宅として使われていましたが、この三年くらいで急激に姿を消して、もうほぼ全滅だと思います。これはどこの旧「赤線」でもそうです。戦災の後に建てた建物は、もう七〇年以上経っているので、木造建物の耐用年数をとっくに超えているわけです。
それでは、まだ「赤線」時代の建物が少し残っていた二〇〇〇年に撮影した写真を見てみましょう。
洲崎橋の上から撮った写真です。橋を渡るまでは片側一車線、両側で二車線です。それが、橋を渡って旧・遊廓地区に入ると、中央分離帯がある片側三車線になります。もう圧倒的に広くなるのがわかると思います。道路としては無駄に広い(会場笑う)。だからもう両側の一車線分は完全に駐車ベルトになっていますが、それでも二車線は完全に余裕です
旧廓内に入って左側(東側)最初の角に八百屋さん、そして肉屋さんが入っているとても特徴的な建物がありました。「赤線」時代「サンエス」という屋号だったカフェー(特殊飲食店)です。
一階の柱は根元の方がオレンジ色、上はきれいなブルーのモザイクタイル装飾です。二階は、角柱を面取りした擬似円柱にやはり鮮やかなブルーのタイルを貼っています。
この写真を撮った時には「サンエス」という屋号だったことは知らなかったのですが、2階の出窓の手すりにSが3つ並んでいて、後になって「あ、サンエスだったんだ」と気づきました。
これは「サンエス」の筋向かい側にあった「ミハル」という屋号の建物です。バルコニーがとても特徴的です。バルコニーを持つ「赤線」建築は割とあるのですが、その中でも装飾的でモダンな感じです。また両サイドを一階から二階まで通しているブルーのタイルの柱が印象的です。とてもきれいな濃いブルーのタイルでした。「サンエス」もそうですが、どうも洲崎は他の地域と比べて、ブルーを多用しているような気がします。やはり海のイメージがあるのかなと思います。
ところで、私ぐらいから上の年配の方は、小さなタイル(豆タイル)をモザイクに貼り合わせて装飾する技法を知っていると思います。家庭でもお風呂(浴室)などで使いました。そうしたモザイクタイルの装飾を多用したのは、お風呂屋さん(銭湯)、クリーニング屋さん、病院、そして「赤線」のカフェーなのです。タイルには「衛生的」というイメージがあり、その四つの業種を結びつけるのは「衛生」というイメージです。性交渉の場である「赤線」と「衛生」って、今の感覚では結びつきませんが、「赤線」業者の組合が「全国性病予防自治会」であったことを思い出してください。やはり「衛生」なのです。こうしたタイル装飾、現在やろうとしても、もう職人さんがいなくて、できないそうです。だからこそ、柱一本、壁の一部でも保存して欲しかったです。もう遅いのですが。
これは「あけぼの」という屋号だった建物で、撮影時点では一般住宅でした。
一階の車庫になっている部分は、扉ないのでちょっと覗いたら、おしゃれな燭台が見えたので、外から撮らせていただきました。おそらく、車庫になっている所が、小さなダンスホールだったのではないかなと思います。
三度目登場の「大賀」です。最後は共産党の江東支部になっていて(笑)、すごくびっくりしました。二〇一一年の東日本大地震で半壊してしまい、それで取り壊しということです。埋め立て地で地盤が良くないことと、やはり建物の耐用年数が来ていたのだと思います。私が記念撮影したところなので残念でした。「大賀」は原色のタイルを使わずに、黒タイルで装飾した太い円柱を入口の左右に構えていました、シックな感じで、ちょっと路線が違うのかなという感じでした。
これは「松竹」という屋号だった建物です。ある種、「赤線」建物の典型的です。「赤線」建築の特徴の一つとして、表間口に入口が複数ある形態がしばしば見られます。この建物も軒が出ている箇所が三つあります。撮影した時には塞がれていましたが、もともと入口が三か所あったと思われます。たいした間口でもないのに入口が三か所。つまり、それぞれの入口に一人ずつ女給さんが立って、お客も招いていたのだと思います。あるいは、来る客と帰る客が鉢合わせしないように入口と出口を別にしている可能性もあります。旧「赤線」の建物を見分けるとき、入口の数が不必要に多いのはかなり確率が高いポイントです。
この建物、若干煤けてしまっていますが、モザイクタイルの柱がよく残っていて、下が褐色の大きめのタイル、上はきれいなエメラルド・グリーンのモザイクタイルでした。さらに窓枠の縁に捩じり棒みたいなタイルが並んでいて、とても印象的でした。残念ながらそういうものがすべて姿を消してしまったわけです。
3 亀戸の私娼街と「赤線」
時間が足りなくなってきましたが、最後に江東区のもう一つの「赤線」亀戸のお話をします。
亀戸は、亀戸天神社を中心とする江戸の東の郊外の行楽地ですが、そこにいつから「性なる場」ができたのか、よくわかりません。一八八七年(明治二〇)ごろには、すでに銘酒屋が軒を並べていたようです。銘酒屋というのは、お酒を売るふりをして女性を売っている店です。一応、酒瓶が並んでいます。でも埃を被っていたりします。ろくに飲まずに上とか奥の部屋に行ってしまうからです。なぜ亀戸に「銘酒屋」街ができたのか、起源がはっきりしません。一九一〇~二〇年代、大正期にはすでに二五〇軒を超えていて「天神裏」、――亀戸天神の裏ですね――と呼ばれる私娼街を形成していました。
一九二三年(大正一二)の関東大震災で、浅草の銘酒屋街「十二階下」が壊滅します。「十二階下」というのは、有名な「凌雲閣」という一二階建ての建物の下にあった銘酒屋街で、「凌雲閣」は観光地として有名ですが、その下はかなり怪しい場所でした(笑)。その壊滅した「十二階下」の銘酒屋街から、業者が川を渡って亀戸に移転してきて、亀戸の私娼街はさらに大きくなります。
この亀戸の私娼街、なんと「亀戸遊園地」と名乗っていたのです。大人しか行けない遊園地、子どもを連れて行ってはいけない遊園地、「お父さん、今度亀戸遊園地連れてって」と言われても連れて行ってはだめです(会場笑)。
この写真は、亀戸にある天祖神社という神社さんの玉垣です。中と左は「亀戸」と小さく書いてあって、その下に「遊園地」とあります。右は「亀戸遊園地」「総代 吉田金兵衛」とあります。戦前の東京最大の私娼街「亀戸遊園地」の存在を今に伝える貴重な資料です。
この写真は10年以上前に撮ったものなので、本を出す前に、もう少し良い感じで撮り直そうと思って行ったら、記憶の所に見当たりません。「おかしいなぁ、たしかここら辺にあったのになぁ」と探しているうちに、ふと気づきました。「あれ、こんな案内板なかったよね」。区が立てた案内版と玉垣の間を覗いたらありました。「何もここに立てなくてもいいのに、いや逆かも、わざとここに立てたのかも」。どうも都合の悪い歴史を隠蔽する意図があるような気がします(会場笑)。
亀戸の私娼街は、昭和初期の最盛期には四三二軒、一〇〇〇人を超える酌婦――登録上は酌婦、つまりお酒を注ぐ女性。でも実態は娼婦――がいました。かなりすごい規模です。知名度では、同じ私娼街の玉の井(現:墨田区東向島)には及びませんでしたけど、規模では最大です。玉の井が有名になったのは永井荷風の『濹東綺譚』(一九三七年)ですね。
エリアは、亀戸天神社の北西、横十間川にかかる栗原橋の東辺りで、戦前の住所では城東区亀戸三丁目(現:江東区亀戸三丁目)になります。さっき見せていただいた本に、当時を知っている方が、「亀戸三丁目」と言うと、タクシーの運転手が馴染の、というか契約している店に連れて行ってくれた、と語っています。それほど有名で、通り名になっていたのですね。
亀戸の私娼街は、一九四五年(昭和二〇)三月一〇日の「東京下町大空襲」で全滅します。業者は立石(葛飾区)、新小岩、小岩(江戸川区)などに移転・分散するのですが本拠地の亀戸の再建はなかなか進みませんでした。ところが、九月二八日、日本を占領したアメリカ太平洋陸軍総監代理ブルース・ウェブスター大佐が東京都衛生局の防疫課長、与謝野光――歌人の与謝野鉄幹・晶子夫妻の長男です――をGHQ本部に呼びつけて、「性病予防に協力してほしい」と要請をします。当時の状況では「協力してほしい」と占領軍に言われたら命令ですから、与謝野は日本占領軍用の慰安施設の準備にかかります。
その際、ウェブスター大佐から白人兵士用と黒人兵士用を分けるようにと指示されていたので、新吉原・千住・品川などの旧公娼系を白人兵士専用に、玉の井・亀戸・新小岩など私娼街系を黒人兵士専用に割り振ります。ちなみに、将校用は大体、芸者さんがいた花街です。たとえば白山(文京区)とかですね。
アメリカ軍は人種差別が激しいので、軍の治安上、白人兵と黒人兵をいっしょにしませんでした。慰安所が白人用と黒人用に分かれているだけでなく、相手をする女性も分かれています。一度、黒人兵の相手をした女性は絶対に白人兵の方には回さないという、日本人の感覚からしたら、意味がわからないに近い人種差別ですが――こういう話も段々伝わらなくなりますが――、ともかく、アメリカ軍の要請などで、そうしたわけです。
そして、一一月一五日に亀戸の「慰安所」が営業を開始します。ウェブスター大佐の要請からわずか一か月半でできてしまいました。亀戸の私娼街は空襲で丸焼けになった後、なかなか再建できなかったわけですが、それがたちまちできてしまいます。施設の建設に必要な資材がおそらく優先的に供給されたのではないかと思われます。日本政府から優先的に供給されたのか、進駐軍から供給されたのか、資料的にはわからないのですけど、どうも状況からして進駐軍のような気がします。理由はまた後で話します。
例によって航空写真を見ていて気づきました。上の画像の左が横十間川で、そこに栗原橋がかかっています。ちょっと薄黒っぽく見えるところは焼け跡で、地面が露出していて家が建っていないところです。正確な撮影年月日はわかりませんが、おそらく一九四七年(昭和二二)ぐらいだろうと思います。
焼け野原の中に、とても規則的に、大型の建物が連なっています、広い道路(黒っぽく写ってる)の北側中央ブロックに横長の大型建物が四棟(A、B、C、D)並んでいます。ほとんど同規格です。道路の南側にもう一棟(E)、その南に向きを南北に変えて中型の建物が二棟(G.H)、それから北側の西ブロックにもう二棟(F、I)。東ブロックにはやや小型の建物(N、O、P、Q)が二列に並び、さらに三棟(K、L、M)あります。
ともかくパッと見て普通でない建物です。大型であると上に、規則的・規格的に配置されています。大規模な公団団地などの航空写真と同じような感じです。建物の間には庭のスペースがあって、それもみんな同じ幅で規則的です。
この画像を建築史の井上章一先生(現:国際日本文化研究センター所長)に見ていただいたところ、「なんか米軍の兵舎みたいな建て方やね」と、おっしゃいました。
物資が乏しい時代に、焼け野原の東京下町にこれほど大型で規格性のある建物を建てられるは誰か?ということです。戦中までだったら日本軍関係なのですが、もう戦後です。そうなると、やはりアメリカ占領軍なのではないか、設計がアメリカ軍なら、先ほど述べた建物や配置の特徴も理解できます。確証はありませんが、状況証拠に、そう考えています。
ところが、せっかく建てた立派な占領軍兵士「慰安所」も開設からわずか四カ月足らずで、「OFF LIMITS」指令が出て、機能を停止してしまいます。
この地図は、一九五四年(昭和二九)の江東区亀戸三丁目の火災保険特殊地図です。塗ってあるのが特殊飲食店です。先ほどの空中写真のだいたい七年後です。広い道路の両側(南北)5ブロックが「赤線」でした。東南のブロックに組合事務所と診療所がありました。比較すると北側中央ブロックに横長の大型建物四棟(A、B、C、D)、道路の南側の三棟(E、G、H)、北側の西ブロックの二棟(F、I)。東ブロックのやや小型の建物群(N、O、P、Q)など、多くの建物が一致します。アメリカ軍が設計したと推測される建物がそのまま転用するかたちで「赤線」になったのが亀戸の大きな特徴です。
一九五一年(昭和二六)の現地ルポに「昔の面影はない」、「最盛の姿を見れば、道路も広く、全部が新築であって、近代カフェーの形を取り入れた洋館建てである」と記されています。私娼街だった面影はないのは空襲で全焼しているので当然ですが、「洋館建て」という表現が単に「洋風」というよりも、もっとアメリカっぽいという意味なのかなと思います。そして、「なかなか豪華なものだ」という評価になっています。
これは、おそらく、アメリカ軍が設計した建物を、そのまま「赤線」に転用していたので、他の「赤線」と違う印象を受けたのではないかと推測します。
このルポの直後の一九五二年(昭和二七)の「赤線」亀戸のポジションは、軒数でも女給数でも都内第五位です。軒数で新吉原、玉の井、洲崎、鳩の街、亀戸、人数で新吉原、洲崎、新宿、玉の井、亀戸の順です。ただ、安いのです(笑)。ショートで三〇〇~四〇〇円、泊りで七〇〇~一〇〇〇円。都内の「赤線」では下から二つ目のクラスです。だから、建物は立派な洋館建てだけど、料金は安いという、ちょっと不思議な状況だったようです。
亀戸も他の「赤線」と同様に一九五八年(昭和三三)二月末で営業停止になります。その後は、ここも一般住宅地になります。そこに。近年までアメリカ軍兵士「慰安所」、そして「赤線」時代の建物が三軒残っていました。
そのうちの一軒が、大型建物Fです。「赤線」時代は「三富」という屋号でした。それが「三富荘」という名のアパートになって残っていました。それをグーグル・ストリートビューで確認して、撮影のために現地に行ったのですが、なんと更地になっていて(会場どよめく)、もう呆然というか、とてもショックでした。タイムラグ六か月の間に解体されてしまっていたのです。本にどうしても写真を載せたかったので、写した方をインターネットで探して、「本を進呈する」というお約束で掲載許可をいただいたのがこの写真です。蔦がすごくからまっていて、何が何だかわからないような建物なのですが、よく見ると、とても不思議な建物です。
まず、これらの大型建物群、空中写真ではわかりにくいかもしれませんが、屋根が特徴的で、切妻ではなく、寄棟みたいな形です。それと、アパートとしてはとても大きいのです。妻の中央に玄関がありますが、おそらくそこから廊下が延びて、左右に部屋があったと思われます。二階も同様で廊下の両サイドに部屋がずっと奥へ続く。しかもこの「三富荘」は元の建物(大型建物F)の半分だけなのです。西側の「大前田」という屋号だった部分は、後ろに見える大きなマンションになってしまっています。
「三富荘」の二階だけでも、窓の数などから見当をつけて、おそらく一〇部屋ぐらいありそうです。となると、なくなっている部分を合わせてその倍の二〇部屋、一階は全部が個室ではないにしろ、一、二階合わせて三〇部屋以上、それだけの数の慰安婦がアメリカ軍兵士を相手に仕事をしていたということです。
これも、お借りした写真です。百日紅の花がきれいですが、すでに住人はいないようで廃屋化が進んでいます。ともかく、とても貴重な遺構だったのですが、残念ながら間に合いませんでした。
もう一軒、大型建物Dの東側部分が残っています。西側は「美つかど」という屋号ですけが、東側は屋号の記載がありません。「美つかど」が続いているのかなという気もします。現在は倉庫になっていて、だいぶ改装されていますが、特徴的な、切妻でない入母屋でもない屋根がよく残っています。
一番きれいに残っているのは、空中写真で「P」と記号を振ったやや小型の建物、「赤線」時代は「双葉」という屋号だった建物です。現在は道路に面した部分が個人住宅、後ろ側がたぶんアパートだと思います(個人住宅なので写真と地図は不掲載)。窓などが逆U字型のデザインで、入口が二つ、その一つに赤褐色のタイルで装飾した角柱があり、「赤線」建物の特徴を備えています。ちょっと南欧風みたいなおしゃれな感じです。洲崎の「赤線」建物群が姿を消した今となっては、江東区に残る数少ない「赤線」遺構として貴重だと思います。
おわりに―身体を張って生きてきた女性たちの歴史を忘れないために―
時間になりました。用意してきたスライドも、これでお終いですが、最後に一言。私、こういう形で遊廓や「赤線」の歴史地理研究をしているわけですが、いろいろ調べれば調べるほどそこで働いていた女性たち、いろいろ困難な状況の中で身体を張って生き抜いた女性たちへの思いが深くなります。彼女たちの多くは自分が生き抜くためだけでなく、家族を養うために働いていました。昔からよく言われることですが、遊廓や「赤線」の女性には長女が多いと。つまり姉が身体を張って稼いで、両親を養うだけでなく、弟を学校に通わせて身が立つようにし、妹が身売りしなくて済むようにする。実際に「赤線」女給の収支簿などを見ても、故郷の家への送金額がとても大きい。だから「赤線」廃止で仕事の場が奪われるとき、彼女たちはとても困ったわけです。自分一人なら違う仕事でもなんとかやっていけるけど、故郷への送金ができなくなる、そうした切実な事情があったから、「赤線」廃止に反対する運動に立ち上がったのです。
自らのため、家族のために身体を張って懸命に生きた女性たちがいたことを忘れないでほしいと思います。
ところが、世の中はそうした方向とは逆です。たとえば、新宿区は新宿遊廓、「赤線」新宿について、そこそこ調べてはいるのに、区の出版物にはほとんど記述しません。だから、新宿遊廓が現在の地図上でどこにあったのか、『新宿区史』をいくら調べても出てこないのです。そして、地上にはいっさい説明板を設けていません。ここが新宿遊廓だったという表示はありません。
台東区は、新吉原があまりに有名で、隠しようがないからか、区の教育委員会がそれぞれの場所にそれなりの説明板を立てています。そう言えば、江東区は、洲崎も亀戸も、何の説明版もありませんね。亀戸の天祖神社の玉垣の「亀戸遊園地」もやっぱり隠したがっているのかなと思います。先程ちょっとお話をうかがったったところでは、こちらで出された本の増刷ができないという問題があるそうで、やはり遊廓や「赤線」のことが載っている本は、あまり多くの人に読まれたくないと区は考えているのかもしれません。
それは逆だと思います。以前はそうした人たちへの偏見がまだまだ強かったですし、実際にその関係者もいらっしゃいました。業者さんや、そこで働いていた女性が、その頃のことを思い出したくないという気持ちも、わからないではないです。だけど、直接的な関わりを持った方の多くは、もうこの世にいないぐらいの年代になってきました。私が本を出せたのも、そうしたタイミングだったからです。もっと早くにお話を聞いておけば良かったと思う一方で、今だから出せたという側面もあります。
そういう意味では、この会が蓄積された「語り」はとても重要です。先程、読ませていただいて、洲崎にしても亀戸にても、実際を知っている方の聞き書きは本当に貴重です。私がいろいろ調べて、東京「赤線」は「三月末じゃなくて二月末でもう終わっていたんだ」というようなことを、「終わったのは二月ですよ」と、知っている方、記憶が正確な方なら、ぱっと言えるのです。そういう話はもう二度と聞けないわけで、私たちができることは、それを次の世代、次の世に伝えていくことです。
自分の本の意味は、自分を育ててくれた大好きな新宿の街の歴史を書きたかったと同時に、隠されてしまう歴史、語り伝えられなくなってしまう歴史を掘り起こして、次の世に伝えたかったのです。新宿の街は内藤新宿の「飯盛女」から始まって、新宿遊廓のお女郎さん、「赤線」新宿2丁目の女給さん、そして現在の歌舞伎町のキャバクラ嬢たち、女性たちが身体を張って稼いで盛り立ててきた場所なのです。そうした街で、そういう人たちの歴史をないもののように扱うことに、とても腹が立ちました。私も歌舞伎町の夜の「女」の一人だったわけで、余計に怒りが強かったのですね。それでその怒りをはっきり本に書いてしまったので、「新宿歴史博物館」からはもうお呼びがかからないだろうなと思います(会場笑う、講座終了のアナウンス入る)。
そういうことで時間になりました。もし大丈夫なら質問を…。
質疑応答
Q. 性の産業っていうのは必要なものなんですか?
A. 今、私、首を傾げたように、とても難しい質問ですけども、そこら辺、私は現実主義者なので、必要か必要でないかというよりも、無くそうと思っても無くならないのです。それが本来的に必要であるかどうかということよりも、第一に考えなければいけないのは、そこで働く女性たち、まぁ女性限定ではありませんけど、主に女性たちのリスクをどうやって減らすか、リスクというのは性病感染――今でも性病ありますし――、望まない妊娠、暴力、不当な経済的な搾取、そうしたリスクをどう減らすかが重要だと思うのです。「性産業」をどうすべきかというのは、世界的にたいへんな問題で、今述べましたように「需要がある以上そういうリスク管理をもっとちゃんとするべきだ」という意見がある一方で、「いや供給するから需要が生まれるんだ」という売春禁止的な考え方もあり、いろいろな国で、いろいろな方法を試しているのが現在です。性を売る側を「売春防止法」で規制している日本、「性売買特別法」で性を売る側、買う側双方を処罰対象にしている韓国みたいな国、それからスウェーデンは、買うことを禁止、刑罰化することで性産業を無くしていこうしています。その場合、現実に性産業で働いて収入を得ている女性たちの生活保障をどうするかという問題もあるのです。まぁ、いつも思うことですが、なかなか難しいです。ただ、私は、昔も今もできるだけ働く女性の側に立って考えていきたいと思っています。
【主な参考文献】
石川光陽『昭和の東京―あのころの街と風俗』(朝日新聞社、1987年)
岡崎柾男『洲崎遊廓物語』(青蛙房、1988年)
三橋順子『新宿「性なる街」の歴史地理』(朝日選書、2018年)
第2章、第6章、コラム1、コラム2
『21世紀の女たちへの伝言』8号(江東の女性史研究会、2022年7月)に掲載された講演録の原版です。
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(講演録)洲崎・亀戸の性文化史
三橋 順子(明治大学非常勤講師、性社会文化史研究者)
ご紹介いただきました三橋順子です、よろしくお願いいたします。今回こういう形でお話する機会をいただきましたこと、とても嬉しく思います。というのも、私が遊廓、そして戦後の「赤線」、広い意味での売春地帯の歴史に実際に関心を持ったのは洲崎が最初だったからです。最初に訪れたのは二〇〇〇年ですから、もう一九年前です。なぜそういうことになったかというと、当時私は、京都の国際日本文化研究センターの教授である井上章一さんが主催している「関西性欲研究会」に参加したばかりで、その研究会が東京で合宿をする際に、先生から現地見学を企画するように言われまして、それで「赤線」時代の建物がまだ残っていた洲崎を案内することにしました。下調べのため、二〇〇〇年一一月、最初の現地調査に訪れました。研究会の現地見学は年が明けた二〇〇一年の一月で、東京に大雪が降った翌日でした。こんな雪がたくさん残っている状態で洲崎をご案内したことを鮮明に覚えています。〔写真を見せながら〕これ私です。比較的最近まで残っていた「大賀」というお店の前です。これが私の「赤線」研究・遊廓研究の事実上のスタートでした。
旧「大賀」の前で私(2001年1月28日)
私の自己紹介ですが、いくつかの大学で非常勤講師をやっております。専門はジェンダー・セクシュアリティの歴史研究、特に、自分がそうなので、性別越境、トランスジェンダーの社会文化史です。もう一つのテーマとして、買売春、主に「赤線」の歴史研究をしています。二〇一八年一〇月に『新宿 「性なる街」の歴史地理』を出しました。新宿を中心とした東京の「性なる街」の歴史地理ですが、江東区については亀戸についてコラムを一つ書いております。洲崎については、まとまった記述はしていませんが、かなりあちこちで触れております。ということで、二〇〇一年からこの本を出すまで、足掛け一八年かかりましたが、私なりに「赤線」を中心とする歴史をまとめたつもりです。書名が歴史地理になっているのは、私、一応歴史を勉強した人間なのですが、子どもの頃から地図が大好きで、場所とか街への関心が強く、この本も地図がたくさん入っています。そんな感じで、今日も地図がちょろちょろと出てまいります。
1 遊廓と「赤線」、制度と歴史
最初に、遊廓と「赤線」について基本的なことをお話ししておこうと思います。早い話、戦前が遊廓で、戦後が「赤線」なのです。これについて自分の本に愚痴っぽく書いたことなのですが、フェミニズム系の女性学の先生に、「名前は違っても、女性が管理されて強制的に売春させられて搾取されていたという点では何も変わらないわよ」と言われてしまって、「いやそう決めつけちゃったら何の学問の進歩もないでしょ」と思ったのですが、私にとっては、かなり違います。もちろん売春の場であって、女性がそこで身体を張って、身体を使って労働していたという点は同じですけども、システムがやはりかなり違います。そこら辺のことを丁寧にお話するとそれだけで一時間半かかってしまうので、できるだけ簡単にしようと思います。本当はそもそも江戸時代の話からしなければいけないのですけど、近代公娼制度、明治以降の制度に焦点を当てます。
ちょっと意外かもしれませんが、江戸時代に公認されていた遊廓は、新吉原(現:台東区)一か所です。他にも色々潜り的な場所がありましたが、少なくとも公許、公に許されているところは一つだけという建前は、江戸時代を通じて基本的に崩れません。ところが、幕末に変なことがありまして、それは後でお話します。そして、明治新政府になりますと、遊廓が拡大します。東京府下では、新吉原に加えて、品川、千住、板橋、内藤新宿という、江戸から出ていく街道の最初の宿場である「四宿」、それから多摩地域の甲州街道の宿場町、調布、府中、八王子、合計九か所になります。近代国家になって遊廓が拡大するということ、これポイントです。
一八七二年(明治五)に芸娼妓解放令という御触れが出ます。強制的な年季奉公の廃止など、女性の人身売買を規制する目的の法令です。これは外国から「日本は人身売買、事実上の奴隷制度やっているじゃないか」と責められて、諸外国の手前、「そういうのは止めます」ということで公娼制度を廃止する姿勢を示したものなのですが、内心は全く違いまして、ほとんど実効性がありません。翌年に「貸座敷渡世規則」「娼妓規則」という法令を出しまして、法律で規制するという形をとりながら、それまでの遊廓システムを、事実上、公認する形を作ります。だから実質、何も変わらないのです。それが一九〇〇年(明治三三)に「貸座敷取締規則」「娼妓取締規則」という形で、法律として近代化します。この話、先日も某大学でしてきましたが、明治民法ができるのが一八九八年(明治三一)で、明治の三〇年代はいろいろな法律を近代的に作り直した時期なのです。その一環としてこういうものができます。
その内容は、娼妓稼ぎをする者、つまり売春的な稼ぎをする者は警察の娼妓名簿へ登録しなさい、と。登録すると鑑札が渡されます。娼妓鑑札制と言うのですが、基本、個人に許可を出す形で、売春の個人ライセンスです。その際、登録が認められるのは(数え年)一八歳以上の女性ということになります。それ以前の、もっと若い少女が売春させられていた状況は法律で規制されます。また、娼妓は官庁が許可した貸座敷の内、つまり、遊廓の中でなければ営業はできないことになります。貸座敷というのは、娼妓に座敷を貸すという営業形態ですが、それはあくまでも建前で、事実上は遊廓の妓楼、娼館です。そして、貸座敷の営業許可をエリア制にします。つまり、売春をする女性は個人ライセンスだけれど、売春する場所を貸座敷に限定し、さらにその貸座敷の営業をエリアで統制することで、娼婦を一か所に集めて管理する形態を作ります。こうした形を集娼制と言います。政府は集娼制を維持したいのです。逆に、娼婦があちこちに散っている形を散娼制と言いますが、政府、特に警察はこれをとても嫌がります。ともかく業者に便宜を図ることで一か所に集める。なぜ一か所に集めたいかと言うと、一つは売春のコントロールであり、もう一つは性病の管理です。売春を管理して性病の蔓延を防ぐということに政府の強い意識があります。
それと、正確に言うと「遊廓」という言い方は法律用語ではありません。「貸座敷免許地」もしくは「貸座敷指定地」というのが法律的に正しいのですが、当時の文献、人々の言い方として「遊廓」という江戸時代以来の言葉がそのまま使われているわけです。
もう一点、重要なポイントになるのが、娼妓(娼婦)と芸妓(芸者)の許可を分離したことです。この「芸娼妓分離」制に明治政府はとても力を入れます。ただ、実際には、地方などで、そうした仕事をする人が少ないようなところだと、一人で二枚鑑札――芸者と娼妓の両方の許可をもらっている――という人もいました。東京はかなり分離をしっかりしています。やはり警視庁お膝元、政府のお膝元ですから。
元々、前近代(江戸時代以前)の日本は、芸能と飲食接客、そして売春(セックス・ワーク)は三位一体で分離していません。三味線を弾いて唄を歌って(芸能)、お酌をして(飲食接客)、それが終わるとセックス・ワークというのを一人が行うのはごく普通でした。それが分離していくのは、江戸時代中頃、十八世紀の新吉原からですが、基本的に前近代の日本では分かれていません。だから、高級娼妓である花魁は色々な芸能ができないといけないのです。それが「遊廓文化」でした。明治政府は芸能とセックス・ワークが分離することを政策的にやります。その結果、娼妓はただセックス・ワークだけをする人になってしまいます。遊廓もファッションや芸能など色々な文化の発信地だったのが、単に性を売る場所に変わっていきます。遊女が持っていた聖なるものと賤なるものの二面性から、聖なるもの、つまり「花魁ってやっぱりすごいよね」という要素が失われていき、娼婦を卑しむ見方だけが残ってしまいます。そして、そこに明治時代になって日本に入ってきた売春を悪徳とするキリスト教の性規範が重なり、売春従事女性への蔑視が強まっていきます。キリスト教の廃娼運動の人たちは娼妓を「醜業婦」、「醜い」仕事をしている女性と呼ぶようになります。
もう一つ、娼妓取締規則から少し遅れて一九〇八年(明治四一)に、密売淫の禁止が制定されます。貸座敷指定地内で鑑札を持つ娼妓が行う売春以外の、貸座敷指定地の外、鑑札を持たない娼婦による売春をすべて密売春として全面的に禁止します。つまり、自由売春ができなくなるということです。自由売春の禁止によって、国家にとっては売春の管理が徹底でき、遊廓の業者にとっては売春営業を独占できる。両者にとってメリットがあったわけです。
こうして、明治政府のもと、自由売春の禁止、売春の国家管理、遊廓の売春営業独占を3つの柱とする近代公娼制が完成します。時期的には明治の終わりぐらいですね。それが大正・昭和戦前期と続き、戦間期を経て、敗戦後の一九四六年(昭和二一年)二月まで継続していく、これが戦前の遊廓制度です。
さて、ようやく昭和戦後期の「赤線」の話になります。一九四五年(昭和二〇)八月一五日の敗戦の三日後、一八日に、Recreation and Amusement Association (以下、RAA)という、日本語で「特殊慰安施設協会」が警察の指令で作られます。これは日本を占領してくる進駐軍、占領軍の将兵の慰安、早い話、性欲を満たすための施設です。当時、「性の防波堤」、一般の婦女子を、アメリカ軍をはじめとする占領軍兵士の性欲から守るための防波堤を設けるという発想でした。
「性の防波堤」を作るにしても、そういう性的慰安施設を経営するノウハウを持ち、セックス・ワークで働いてくれる女性たちを集めることができる人と言えば、遊廓業者たちです。警察は、遊廓業者や、私娼街の業者たちに協力を依頼してRAAができるわけです。旧・洲崎遊廓の業者や、私娼街だった亀戸の業者もRAAに参加することになります。
ところが、せっかく作ったのに、その七カ月後の一九四六年(昭和二一)三月に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命令で連合国軍兵士のRAA施設への立ち入りが禁止されます。いわゆる「OFF LIMITS(立ち入り禁止)指令」です。理由は性病の蔓延です。アメリカ兵士の性病感染率がすごく高い。これはRAAの日本人女性がたくさん性病に罹っていて、そこから感染している、だから立ち入り禁止という見解をGHQはとるわけです。「どっちが悪い」ということになると、よくわかりません。アメリカ軍の兵士が性病に罹っていて、それが日本の女性にうつされて、またアメリカ軍に戻ってくるという、そういう形態も考えなければいけません。たぶん実態はそんなところだと思います。
しかし、ともかくオフリミッツ。そうなると、RAAの施設に雇われていた女性たちは、仕事にならないので、解雇されてしまいます。すでに、戦後の社会的混乱、生活困窮で、大量のストリート・ガール(街娼)、当時の言葉でいう「パンパン」――パンパンの語源は諸説あって大変なので解説しませんが――が出現しています。そこにRAAを解雇された女性たちが加わり、街のあちこちに街娼が立つ状態になる。これは典型的な散娼化です。性病のコントロールができなくなるので警察が一番嫌がる形態です。
話が前後しますが、一九四六年一月に貸座敷取締規則、娼妓取締規則など戦前の公娼制度(貸座敷・娼妓鑑札制)に関する法規を廃止するようにというGHQ指令が出ます。人権抑圧でありデモクラシーの理念にふさわしくないということです。占領期ではGHQ指令は絶対ですから、日本政府は従うしかありません。二月に内務省から全国の警察へ通達を出して、これで明治時代以来の近代公娼制は解体されたことになります。
ところが、同じ年の一二月、警察は特殊飲食店というものを許可します。そして、特殊飲食店で働く女性従業員(女給)が店で知り合ったお客さんと仲良くなって、「じゃあ私のお部屋いらっしゃいよ」という形で、自分の私室、プライベートな部屋に誘い、そこで自由恋愛という形でセックスが行われ、男性が女性にお礼を渡す、という建前のシステムを考え出されます。女給さんに部屋を貸しているカフェーの経営者は「何も関知してません」という建前です。そして、警察は特殊飲食店の営業を、エリアを指定して許可します。こうして、エリア限定で、買売春行為を警察が黙認するシステム、「赤線」が始まります。
だから、当時の「赤線」のカフェーというのは、一階が酒場と小さいダンスホール、二階が女給さんの部屋という構造になっています。建前としては、酒場やホールで男性と女給さんが親しくなる。実際は、そこでお酒飲む人はあまりいなくて、すぐに二階に上がるのですが。
なぜ「赤線」と言うかというと、警察がそういう特殊飲食店を許可した地域(特飲街)を赤鉛筆で地図上に囲ったから「赤線」と言うのだ、いうのが一般的な説です。でも微妙に証言が違っていたりしていて確証はありません(笑)。
それと、この説では「赤線」指定は、赤線で囲ったエリアなのですが、実際にはエリアからはみ出した特殊飲食店もあります。実は、「赤線」洲崎にもはみ出しているお店があります。つまり、特殊飲食店の許可は個別店舗なので、エリアで考えると、微妙にズレてくるのです。細かい話ですが…。
よく「赤線って合法なんですか、違法なんですか」という質問があります。これはどちらとも言えないです。「赤線」を警察が公認した売春地帯と定義するのは間違いです。当時の法制の基本は、売春は違法ですから合法ではありません。だけど、このエリア、赤線で囲ったエリアだけは目瞑る、摘発はしないという黙認エリアなのです。そこら辺、すごく微妙な話なのです。
ここは今日の話の一つのポイントなのですが、戦前も戦後も、こうした売春関係の場は、警察ととても密接な関係があります。現在の警察と風俗営業業者は、――もちろん裏で何かあるかもしれませんけど―― 基本的に摘発する側、される側で敵対関係です。だけど遊廓時代、そして「赤線」時代はそうではなくて、結構、持ちつ持たれつというか、はっきり言ってグルなのです(笑)。グル、お互い共通利害があるという風に理解すると、いろいろよくわかるのです。「赤線」も売春営業を続けたい業者と、性病コントロールのために集娼制を維持したい警察の共通利害が生み出したシステムなのです。
ここで、地図を見ていただきたいのですが、東京区部の「赤線」分布です。
このマルが洲崎で、ここが亀戸ですね。東京都の「赤線」は区部一三か所、多摩地域四か所の合計一七か所ですが、区部に限ると、東半分に多いことがわかると思います。西半分は、私が調べた新宿、それから品川、そして、ほとんど知られていませんが、大田区の武蔵新田です。大田区の行政の人も、区内に赤線があったって知らなかったというぐらいなのですが(笑)、この三か所だけで、あとは全部、東半分です。台東区の新吉原は隅田川の西ですが、江東区の洲崎・亀戸、それから墨田区の玉ノ井、鳩の街、葛飾区の立石、足立区の千住、江戸川区の小岩、新小岩、それから一番北が亀有(葛飾区)ですね。区部一三か所の一〇か所が東半分に集中しています。
そして、「赤線」の全盛期と呼ばれた一九五二年(昭和二七)末に、区部一三か所で、一一四二軒、従業婦、事実上、売春をしている女性は、四四五四人というデータがあります。こういう数字がきっちり出てくるのも、警察が管理しているからなのです。
ここで、ちょっと性病の話をします。「赤線」の建て前は自由恋愛ですけど、実質的に売春をする女性を一か所に集めている集娼施設です。なぜ警察は集娼施設を黙認したかと言えば、性病の定期健診を行って、性病の流行を防ぐ、コントロールするためです。「赤線」業者の全国組織が、正式名称を「全国性病予防自治会」であることが、それを示しています(会場笑)。今、お笑いになったとおりで、現代の感覚からすると冗談みたいな名称ですけども、これが本質なのです。
性病、ここでは主に梅毒と淋病ですが、どちらも、抗生物質がかなり良く効き、現在ではそんなに治りにくい病気ではありません。早くに発見してきちんと治療すればちゃんと治ります。しかし、抗生物質が普及する以前はそうではありませんでした。特に梅毒は、長期間にわたって症状が進んで最終的に死に至る病ですし、淋病は軍隊にとってとても厄介な病気でした。男性の尿道で炎症を起こしますので、早い話、股間が痛い、排尿のたびに激痛ということになります。股間が痛かったり痒かったり、いつも股間を気にしている兵隊では戦争で使い物にならないです。(会場笑)。だから軍隊にとっては、性病は著しく戦闘力を削ぐ病気であり、徴兵検査のときに厳しくチェックするように重大視をされていたわけです。
そうした軍隊と性病の歴史があるわけですが、ちょうどRAAから「赤線」くらいのところが転換期になります。アメリカで軍にかなりの量のペニシリンが供給されるのが太平洋戦争の末期です。これが性病によく効く、ほんとうにたちまち治るそうです。
日本占領期のアメリカ軍はペニシリンを使っていますが、さすがのアメリカもまだそんなに贅沢に使える状況ではありません。日本側はまだまったくペニシリン持っていません。だから、日本占領軍の兵士がたくさん性病に罹ると、アメリカ本国に「ペニシリンをもっと送ってくれ」と頼むわけです。アメリカ本国からしてみると、貴重なペニシリンを日本に送っても送っても追加注文が来る。「日本占領軍はいったい何をやってるんだ?!」と問題になり、その結果、オフリミッツ、立ち入り禁止ということになったのです。
さらに――こんな話していると時間がなくなってしまいますが――、アメリカ兵の相手をする日本女性の性病を治療しないと感染率が下がらないということで、日本女性にもペニシリンを渡します。ところが、彼女たちはペニシリンを渡されても、自分で注射できません。技術的なこともありますが、当時の社会状況からして注射器は入手困難ですから。三年前(二〇一六年)に九二歳で亡くなった私の父は、当時、新宿の医学生でした。新宿のそういう女性たちにペニシリンを注射してくれたらお小遣いあげる、本物のコーヒー飲ませてあげるみたいな条件で、アルバイトをしていました。ともかく性病への意識が現在とはまったく違うということです。
一方で、特殊飲食店が許可されない地域もあって、それは「赤線」に対して「青線」と呼ばれていました。でも、これは青鉛筆で囲っていたかは怪しいです。
「赤線」システムは、法的には一九五八年(昭和三三年)四月一日の売春防止法の完全施行まで続きます。「赤線」は一九四六年から五八年まで――足掛け一三年ですね――続いた戦後の「黙認売春システム」ということです。
ちなみに、売春防止法の完全施行は四月一日で、その前日の三月三一日が「赤線の灯が消えた日」と、世の中で認識されているのですが、これはほぼ間違いです。東京の主な赤線は三月三一日の一か月前、つまり二月二八日でほとんど営業を終えています。こちらの研究会ではそこら辺をきちんと調べられていて、さっき見せていただいた資料にありましたが、当時を知っている方が、ちゃんと「二月まで」と語っています。とても感激しました。新宿はさらに一か月前で、一月三一日で終わっています。たった一、二か月のことですけが、人の記憶はすごくいい加減で、三月三一日に女給さんとお客がみんなで「蛍の光」を歌って「赤線」が終わったような話になっていますけど、それは事実ではないということです。
さて、前半の最後に戦前の遊廓と戦後の「赤線」とどこが違うか?比較をしておきましょう。
まず、経営規模が全然違います。遊廓時代、都内の遊廓の一軒平均の従業婦は大体一〇人です。平均で一〇人、だから大きい妓楼だと二〇人ぐらい女性を働かせていました。それが戦後の「赤線」になると、およそ平均四人です。もっと小さいところもあります。経営規模がまったく異なります。
さらに重要なのは収入の分配です。戦前と戦後ではまったく違います。戦前ははっきりした取り決めがありませんが、おそらく実質一対九、「一」が娼妓で、「九」が経営者(貸座敷)側です。業者の搾取度が非常に高いです。こんなに搾取されていたら借金を返せるはずがないわけで、借金による人身拘束が常態でした。これもちゃんと、こちらの研究会の聞き取りで、ご自身が業者だった方が語っています。対して戦後は、驚くべきことですけども、業者と女給さんの分配を五対五、半々にするよう警察が指導しています。ところが実際は、食費と税金が業者持ちで、従業婦が四、業者が六だったようです。さっき読ませていただいた元経営者の方の聞き書きでは「四対六でも(経営的に)結構大変だった」と言っています。まぁそれは業者の側のぼやきですね。ともかく、戦前と戦後では収入の分配率が大きく違います。
そして、働いている女給さんの収入もピンからキリです。これは今の水商売、たとえばキャバクラ嬢なんかも本当にピンキリです。上は月収レベルで数百万というキャバクラ嬢がいますし、キリは十万もいかないような子がいます。水商売世界というのはそういう実力社会、格差世界です。当時の「赤線」も同じで、トップクラスの売上の女給さんは当時の職業婦人の中でも格段に高収入です。「赤線」の従業婦を職業婦人に入れるなんてとんでもないという意見もあると思いますが、客観的に比較してそうです。若干、伝説なのかもしれませんが、「赤線」新吉原の高級店のさらにナンバーワンの女給さんの収入は当時の国会議員よりも上でした(笑)。稼いでいる女給さんのほとんどは、贅沢をしていたわけではなく、親元に送金していたようです。個人の収入としては格段に高いですが、それで一家一族を養い支えていた女性がたくさんいたということです。
あと、戦前と戦後で大きく違うのは、働いている女性の自由度です。戦前は本当に自由がありません。新吉原にしても洲崎にしても、遊廓のエリアの中だけの自由、それすらもお供が監視に付くというような状況です。それが戦後の「赤線」になると、監視が付けられないのです。戦前の遊廓は、妓楼にいる娼妓も多いですが、それ以外の男衆や女衆もたくさん雇っています。一人の娼妓の収入に大勢の従業員が寄生しているという形なので、収入の分配が一対九になってしまうのです。人手が多いので、娼妓の外出に一人のおばさんを付けて監視することが可能でした。ところが、戦後の「赤線」は経営規模が格段に小さくなります。女給さんを四人雇っている、建前は住まわせているとして、経営者とその妻(お母さん)、あとは女衆(おばさん)と女中さんが一人ずつくらいです。女給の外出に一人付けることができないです。だから「赤線」の女給さんの自由度はかなり高い。都電に乗って買い物にも映画館にも行ける。だから、悪賢い女給だと、業者からお金借りて、それでいなくなってしまう人もいたようです。
戦前の遊廓は、そもそもが人身売買であり、借金による人身拘束で、娼妓の自由度が著しく低い。「性奴隷」と言っていいと思います。世界の売春システムの中でも、日本の遊廓のシステムは、悪い意味でとても完成度が高い管理売春システムです。それを明治時代後半のくらいから海外に輸出していきます。最初は台湾、次に朝鮮半島、さらに大連、そして満洲に輸出し、南方に展開し、ということを戦争中までずっとやっていた。それがいわゆる「慰安婦」問題につながるわけです。
それに比べると戦後の「赤線」は、管理売春と自由売春の中間ぐらいの性格です。人身売買はゼロではありません。問題になっているケースもありますが、わざわざお金を払って女性を買い集めなくても、女性の方から「働かせてください」って来る。だから、違法なことをする必要もなかった。逆に業者の方が居心地を良くして稼ぎ手の女給さんをつなぎとめる、というのが当時の語りです。違法なことをあえてするのは、よほどひどい店で、働き手の女性が寄ってこないような店だと言っています。
2 洲崎の歴史――遊廓の成立、「赤線」化、消えゆく現在
さて、ようやく洲崎の話です。洲崎遊廓は非常に成り立ちが複雑です。いろいろな説があって、原稿書きながらけっこう苦労しました。
洲崎遊廓の成立については、まず根津遊廓の話をしないといけません。根津から洲崎につながってくるわけですから。根津遊廓は、もともと根津神社(現:文京区)の近くの根津門前町にあった「岡場所」(非公認の売春地帯)です。江戸時代は先ほども言いましたように吉原だけが公許で、それ以外はすべて非公認でした。それが一八六八年(慶応四年)――敢えて慶応四年と書きましたけど、明治元年です、官軍の江戸侵攻の直前です――に、江戸幕府の陸軍奉行・浅野美作守氏祐という人が根津遊廓として公許したということになっています。しかし、江戸時代の遊廓の統制は町奉行所の管轄で、責任者は町奉行です。また、根津遊廓の門前町は寺社地なので、寺社奉行の管轄です。遊廓の経営は町奉行の管轄、土地の管轄は寺社奉行、どちらにしても陸軍奉行が認可するのは明らかに筋違いでおかしいのです。想像すると、幕末のどさくさで、軍事的な費用に困っていた陸軍奉行が根津の業者から献金を受ける代わりに公許したのかなと思います。ともかく、幕府倒壊直前の混乱期のことで、まともな公許ではありません。
だから、明治新政府はそれを素直に認めません。非常に微妙な位置づけになります。先ほど、一八七三年(明治六)の東京府令による貸座敷許可地は六か所と言いましたけど、厳密に言うと、新吉原、品川、板橋、千住、内藤新宿の五か所で、根津は新吉原の下に「付け足り 根津」とあるのです(笑)。新吉原のおまけというか、新吉原の管轄の内という形での認可だったようです。一本立ちしていない、でも一応、認可はされているという、かなり微妙な位置づけでした。
そして、一八八四年(明治一七)に根津に程近い本郷に東京医学校(現;東京大学医学部の前身)が移転してきます。で、医学校の近くに遊廓があるのは風紀上よろしくないという話が出てきます。近いと言ってもそんなに近いわけでもないし、根津を潰しても新吉原に行けばいいわけで、どうもよくわからない話なのですが、ともかく風紀上の理由で一八八八年(明治二一)一二月をもって根津での営業は禁止、立ち退きということになります。
ちなみに、東京帝国大学出身で、評論『小説神髄』で知られる文学者の坪内逍遥の奥さんは、元・根津遊廓・大八幡楼の娼妓「花紫」で、学生だった逍遥が通い詰めて落籍し、一八八六年(明治一九)に結婚します。同時期にそういうことがあったわけですが、それが強制移転の理由にまでなるとは思えません。
立ち退き先は、東京湾岸の平井新田というところ、ここは江戸時代まで広大な干潟で、安政江戸大地震(一八五五年)の後、大量の塵芥を捨てたりして埋め立てが進んでいました。しかし、台風が来て高潮になるとあっという間に潮を被ってしまうというような土地です。そうした海とも陸ともつかないような場所を造成して、当時の東京府深川区に編入します。そして、立ち退き期限の半年前の一八八八年六月に移転を完了し、貸座敷許可地になります。これが洲崎遊廓の成立です。
根津からの移転を受け入れる代わりに、移転先の洲崎では一人前の貸座敷許可地、遊廓として認可する、そんな取引(バーター)が東京府と妓楼の業者の間であったのかなと想像しています。
これは一九三〇年(昭和一〇)の地図です。
左が平久町と平井新田です。ここは少し埋め立てが進んでいました。その北東に洲崎弁天があります。洲崎弁天は江戸時代にすでに行楽地になっていました。というか、洲崎弁天しかなく、あとは干潟とも埋め立て地ともつかないものが広がっていたわけです。平井新田の東側に長方形の土地を造成します。長崎の出島みたいな感じで、四周が水面で隔てられ、陸とは繋がっていません。南側は海(東京湾)です。現在は埋め立てが進んで、海が遠くなりましたが、当時は本当に海辺です。
ここで重要なのは隔絶性です。廓とは、周りを塀とか石垣とか堀とかで囲われている隔絶された場所という意味ですから、洲崎の地形はまさに廓です。人工的に堀を巡らした新吉原よりもずっと隔絶性が高い。元からの水面を周囲に残し、表の出入口は洲崎橋、それと洲崎弁天の方に行く小さな橋(西洲崎橋)が裏門みたいな感じです。船をつかえば別ですが、二つの橋に番人を置けば、脱出不能という、遊廓としては理想的な地形です。
それでは、洲崎の画像を見ていきましょう。
歌川広重の「東都名所 洲崎弁財天境内全図・同海浜汐干之図」です。左手前が洲崎弁天、現在の洲崎神社ですね。その向こうにはずーっと干潟が広がっていて、人々が潮干狩りをしています。さらに遠く品川沖。後に洲崎遊廓ができるのは洲崎弁天のさらに左側ですが、まだ影も形もありません。
これは、正確にいつかわかりませんが、遊廓ができたのが一八八八年で、一九〇〇年出版の本に載っていますから、おそらく出来て間もない一八九〇年代の写真だと思います。おそらく、洲崎遊廓の写真としてはいちばん古いでしょう。一面の干潟が広がっていて、そこに漁師さんがいて、海の向こうに不思議な塔のある建物が見えます。洲崎がまさに海辺の遊廓であることがよくわかります。
一八九八年(明治三一)に発行された「東京名所」に描かれた洲崎遊廓の夜景です。前の写真とほぼ同じ海越しの角度で、満月の東京湾岸を人々が散策している様子が描かれています。手前の男性二人はこれから遊廓に向かうのでしょうか? 海辺の行楽を兼ねてセックスしに行くみたいな、そんな場所だったのかもしれません。
これは、洲崎遊廓の内部を描いた絵です、先ほどの写真に見えた特徴的な二つの時計台が描かれています。柳が植えられた道路は中央を南北に貫くメインストリートで先に海が見えます。
海辺というのも善し悪しで、なにしろすぐ先が海ですから、洲崎遊廓は台風に伴う高潮の被害を何度も受けています。特にひどかったのが一九一一年(明治四四)と一九一七年(大正六)の高潮で、死者が出る被害でした。これは一九一一年の被災写真(絵葉書)で、新遠江楼という妓楼が、高波に直撃されて、叩き潰されたように完全に倒壊しています。門柱も倒れていますね。日頃は海が近くて良い感じなのですけど、災害に弱いのが欠点でした。
明治全盛の洲崎遊廓は一九一二年(明治四五)三月の大火で焼けてしまいます。この絵葉書には、洋風な建物、時計台が見えないので、おそらく大火の後の大正期だと思います。メインストリートに沿って木造三階建ての和風の妓楼が並んでいます。
これは、石川光陽『昭和の東京』に入っている一九三四年(昭和九)の洲崎遊廓の写真です。
石川さんは朝日新聞のカメラマンとして活躍された方です。二台の人力車に乗った娼妓は、洲崎病院に性病検診に行った帰りではないかと石川さんは解説しています。おそらくそうでしょう。場所はどこだろう?と思い、調べてみました。中央の建物は玄関の上に「三日月楼」と読めます。さらに左の遠景の建物に「新甲子」とあります。
地図を調べると、見つかりました。いちばん広い大門通りから東に二ブロック入ったところに三日月楼とありまして、さらに新甲子があります。人力車は三日月楼の前を東から西(地図では右から左)に進んでいて、カメラマンはそれを赤丸のあたりから東方向を撮っています。まぁ、だからどうだっていうことなのですけども(笑)。
もう一枚、石川さんの写真集からです。大きな通りではなく、雨上がり、水たまりがある裏通りを歩く二人の女性、おそらく娼妓だと思います。やはり一九三四年の撮影ですが、場所はさすがにちょっと調べがつきませんでした。見ているうちにだんだんわかったのですが、石川さんは、写り込む人を選んでいますね(会場笑)。きれいな人が多いのです(会場笑)。カメラをじっくり構えてきれいな子が来るまで待っていたのではないかなと。この二人も美人さんだと思います。とくに左の女性は笑顔がすてきです。
これは一九三六年(昭和一一)の洲崎遊廓の空中写真です。近年、国土地理院のサイトで空中写真が見られるようになり、ずっと使いやすくなりました。私は新宿遊廓について空中写真を使って調べたのですが、その時、遊廓地区の空中写真に特徴があることに気づきました。それは、真ん中に暗い部分がある建物がたくさんあることです。私は片仮名のロの字型建物と言っていますが、上の写真にもたくさん見られます。これは何かと言うと、真ん中に庭を置いて、四週を建物で囲む建築様式を真上から写すと、中庭部分が暗いロの字型に見えるわけです。遊廓建築がだいたい木造三階建で中庭を囲む形になるのは、どの部屋からも庭が見られるようにという配慮と、採光、明かり採りのためです。すべての妓楼がそういう形式ではないにしろ、やはりこの形が多く、遊廓建築の特色です。だから、ロの字型の建物が密集しているところは、遊廓エリアだと判断できます。
このことを、新宿で最初見つけて、洲崎でも言えます。さらに名古屋の中村遊廓もまさにそうです。ところが、不思議なことに新吉原の空中写真にはほとんどロの字型が見られません。新吉原は、一九一一年(明治四四)の「吉原大火」、一九二三年(大正一二)の関東大震災と全焼を重ねていくうちに、そうした江戸時代以来の建築様式から離れたのかなと思ったのですが、そんなこと言ったら、洲崎も同じで・・・(笑)。今ところ、理由はわかりません。
これは、一九三六年(昭和一一)の洲崎遊廓の詳細な住宅地図(火災保険特殊地図)です。ちょっとわかりにくいと思いますが、オレンジ色で囲ったのが妓楼です。ものすごい数です。本当にびっしりで、極めて密度が高いです。ただ、橋を渡って大門(上の中央)を入ってすぐの西側(地図では左側)のブロックだけ、ちょっと区画が違っていて、そこに商店や郵便局などが、妓楼以外の建物がまとまっています。たぶん、計画的にそういう配置にしたのでしょう。
特徴的なのは、道路がものすごく広いこと。メインストリートの大門通りは幅三五メートルです。三五メートルというと、今の自動車道路で六車線です。人力車くらいしか走っていない時代に三五メートルというのはものすごいです。そして、大門通りに直交する横(東西)の大通りが半分の一七メートルです。私の本の「コラム1」に書きましたが、戦前の遊廓、とくに新たに作った遊廓は、ともかく道が広く規格性が高い。不必要に道が広いのは、ただの交通路ではなく、火災のときの防火帯の役割を兼ねているからです。洲崎の場合もそれがとてもよくわかります。
遊廓びっしりの中で南東隅だけ、妓楼がありません、ここに何があるかというと、洲崎警視庁病院です。そして、その隣に産業組合の取締事務所と性病検診所があります。はじめの方で「警察と業者はグルです」と言いましたが、洲崎の場合、警察と業者組合兼診察所の位置関係で、それがもろわかりなのです(笑)。ここまではっきり仲良くしているところも、そうはないです(笑)。
洲崎遊廓の全盛期は昭和初期です。一九二九年(昭和四)のデータが残っていますが、貸座敷一八三軒、娼妓一九三七人です。一軒あたり平均一〇・六人。地図を見てもかなり妓楼の大小がありますから、大きな妓楼は二〇人くらいの娼妓を抱えていたでしょう。この段階で都内第二位。やはり新吉原が第一位で二二八軒、二三六二人で、洲崎がその次。三位の新宿は五六軒、五七〇人ですから、洲崎とは四倍近い規模の差があり、新吉原と洲崎が東京の二大遊廓であるのは間違いありません。全国だと、大阪の松島遊廓が一位なので、洲崎は全国三位ということになります。
よく言われる言葉が「吉原大名、洲崎半纏」です。まあ、大名が来ていたのは新吉原の初期までですが、洲崎は北に接する木場の職人さんが主な客筋でした。では「木場の旦那衆はどっち行ったんだろう」と思うのですが〔会場より「吉原」〕、はい、やはり新吉原でしょうね。あまり近いとかえって行きにくいだろうし(会場一部笑)。職人さんのほかには、船員さん、あと、下町の職工さん、それから景気が良いとき漁師さん、沖仲仕はなかなか来られないかな。江戸時代以来の歴史で、格式ばったところがある新吉原に対して、気取りのない雰囲気の、潮の香も懐かしい庶民的な遊廓だったと言われています。
それに関連して、地図を見ていて気付いたのですが、西側の水路沿いに割と大きめの妓楼が並んでいて、妓楼の裏側にちょっとした舟寄の石段かあれば、船で来て上がれるのではないかなと思いました。残念ながら、そこら辺の写真はないのですが。
さて、洲崎遊廓は太平洋戦争中の一九四三年(昭和一八)一〇月に、海軍省の接収命令が出て、一二月に全域が接収されてしまいます。建物だけでなく、布団も鍋・釜・食器の台所道具も全部置いていくようにという命令でした。お女郎さんがお客の相手をしていた部屋が軍需工場――石川島(後の石川島播磨重工業、現、IHI)――などに配属される勤労動員の青年たちの宿舎になります。だから布団も台所用具もそのまま使えるように「居抜き」接収なのです。
接収される妓楼の経営者からしたら、いくら海軍省の命令でも、これではたまりません。そこはやはり「見返り」が用意されていて、洲崎の業者たちは、立川飛行場がある立川、羽田飛行場の近くの穴守(大田区)などに作られる軍関係の「慰安所」の経営者に転身していきます。東京の「赤線」分布のところでちょっとお話した武蔵新田(大田区)は、洲崎の業者が作った穴守の「慰安所」が、羽田飛行場の拡張で再移転した場所なのです。
接収された洲崎遊廓の建物群は、一九四五年(昭和二〇)三月一〇日の東京下町大空襲で全滅します。おそらくスパイの報告で、あそこはもう遊廓じゃなく軍需工場の宿舎だと、わかっていたのだろうと思います。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、西洲崎橋のたもとに今でも戦災殉難供養塔があります。やはり、この地形、逃げにくいのです。なんとか橋のところまで来たけれど、逃げ切れずにここで亡くなった方がたくさんいたということです。
ようやく戦後です。結局、立川の錦町、羽衣町、それから武蔵新田、もとの本拠地である洲崎が、戦後、アメリカ軍兵士の「慰安所」を経て、「赤線」になります。洲崎遊廓系の「赤線」は、東京都内一七か所中四つもあるのです。勢力大拡張です。軍に率先して協力した見返りはやはり大きかったということです。実は、亀戸も移転しながら分化して、一か所が三か所に増殖します。
洲崎系の赤線の本拠を象徴するのがこの「洲崎パラダイス」の大アーチ」です。洲崎橋を渡ったすぐのところです。
ちなみに、「洲崎パラダイス」の名前を有名にしたのは、一九五六年の映画『洲崎パラダイス 赤信号』(川島雄三監督、日活)です。この映画、洲崎橋の北側、「赤線」の外側にある飲み屋が主な舞台なので、旧廓内、当時の「赤線」はほとんど映っていません。主演の新珠三千代と三橋達也が当時の美女・美男の典型で映画としては好きなのですが、「赤線」の資料としてはあまり使えないです。
戦後、旧遊廓の東半分だけが「赤線」指定地になります。さっき見せていただいた聞き書きには、西半分は緑地になるはずだったと書いてありました。それは初耳でしたが、でも全然緑地にならなかった。それと、指定地から二軒だけはみ出しています。これは、前に述べましたように、特殊飲食店の指定は一軒一軒が基本で、赤い線で囲った指定エリアは便宜的という事情によるものです。
一九五二年末の調査で、「赤線」洲崎は、特殊飲食店一〇八軒、女給さん五〇五人、一軒あたり平均四・七人です。戦前の遊廓時代の平均が一〇・六人ですから、経営規模は半分になっています。それでも、四・七人というのは都内の「赤線」では多い方です。軒数では新吉原、玉の井に次いで第三位、女給の数では新吉原に次いで第二位で、規模は都内の赤線でも二位か三位かです。「規模は」と言ったのは、料金的には上に来ないからです。はっきり言って、安いです。料金的に言うと、トップが新吉原で、次いで、新宿と鳩の街(墨田区)が並びます。洲崎はかなり安い方です。さらに安い亀戸よりちょっと上くらいです。トップクラスの新吉原がショートで五〇〇~八〇〇円なのに対し、洲崎は三〇〇~四〇〇円でほぼ半額です。遊廓時代よりも戦後の「赤線」はさらに庶民的になった感じです。
次に「赤線」時代の写真を見てみましょう。と、言っても同時代の写真はあまり残っていません。まして、営業中の写真になるとさらに少なくなります。
例の「大賀」です。『洲崎遊廓物語』という洲崎遊廓の歴史を書いた本に載っている写真です、正確な撮影時期はわからないのですが、店の前に並んでいる女給さんが全員和装(着物)なので、「赤線」の初期かなと思います。一九五〇年前後と推測しています。数少ない「赤線」営業時の写真で、女給さんも撮られるのを意識している感じで、隠し撮りではないと思います。もしかして、なにかの記念撮影かもしれません。それと「大賀」は横の大通りに沿っていますので、道がとても広いことがわかります。
これも営業中の写真ですが、こちらは全員洋装です、女給さん。店にもよると思いますが、赤線の前半は和装が多くて、後半はほとんど洋装化してきます。これは一九五五年、「赤線」後期の写真です。場所を調べたいのですが、店の名前が読めそうで読めません。
「赤線」は一九五八年(昭和三三)四月一日の売春防止法の完全施行で廃止・廃業になりますが、すでに述べましたように、東京都の「赤線」は、それに先立つ二月の末までで営業停止になっています。これは業者組合が警察に営業許可を返上しているので、一斉廃業です。
「赤線」地区のその後です。新吉原は、現在、都内最大のソープランド街になっていますが、あれはむしろ例外で、都内の「赤線」地帯はほとんどは、その後、歓楽街・性風俗街にはならずに、一般住宅地になっています。洲崎もそうです。ただ、新宿は、また特異で、現在「ゲイ・タウン」、男性同性愛者のお店が集中するエリアになっています。
洲崎は、近年まで住宅街の中に「赤線」時代の建物がかなり残っていました。アパートや一般住宅として使われていましたが、この三年くらいで急激に姿を消して、もうほぼ全滅だと思います。これはどこの旧「赤線」でもそうです。戦災の後に建てた建物は、もう七〇年以上経っているので、木造建物の耐用年数をとっくに超えているわけです。
それでは、まだ「赤線」時代の建物が少し残っていた二〇〇〇年に撮影した写真を見てみましょう。
洲崎橋の上から撮った写真です。橋を渡るまでは片側一車線、両側で二車線です。それが、橋を渡って旧・遊廓地区に入ると、中央分離帯がある片側三車線になります。もう圧倒的に広くなるのがわかると思います。道路としては無駄に広い(会場笑う)。だからもう両側の一車線分は完全に駐車ベルトになっていますが、それでも二車線は完全に余裕です
旧廓内に入って左側(東側)最初の角に八百屋さん、そして肉屋さんが入っているとても特徴的な建物がありました。「赤線」時代「サンエス」という屋号だったカフェー(特殊飲食店)です。
一階の柱は根元の方がオレンジ色、上はきれいなブルーのモザイクタイル装飾です。二階は、角柱を面取りした擬似円柱にやはり鮮やかなブルーのタイルを貼っています。
この写真を撮った時には「サンエス」という屋号だったことは知らなかったのですが、2階の出窓の手すりにSが3つ並んでいて、後になって「あ、サンエスだったんだ」と気づきました。
これは「サンエス」の筋向かい側にあった「ミハル」という屋号の建物です。バルコニーがとても特徴的です。バルコニーを持つ「赤線」建築は割とあるのですが、その中でも装飾的でモダンな感じです。また両サイドを一階から二階まで通しているブルーのタイルの柱が印象的です。とてもきれいな濃いブルーのタイルでした。「サンエス」もそうですが、どうも洲崎は他の地域と比べて、ブルーを多用しているような気がします。やはり海のイメージがあるのかなと思います。
ところで、私ぐらいから上の年配の方は、小さなタイル(豆タイル)をモザイクに貼り合わせて装飾する技法を知っていると思います。家庭でもお風呂(浴室)などで使いました。そうしたモザイクタイルの装飾を多用したのは、お風呂屋さん(銭湯)、クリーニング屋さん、病院、そして「赤線」のカフェーなのです。タイルには「衛生的」というイメージがあり、その四つの業種を結びつけるのは「衛生」というイメージです。性交渉の場である「赤線」と「衛生」って、今の感覚では結びつきませんが、「赤線」業者の組合が「全国性病予防自治会」であったことを思い出してください。やはり「衛生」なのです。こうしたタイル装飾、現在やろうとしても、もう職人さんがいなくて、できないそうです。だからこそ、柱一本、壁の一部でも保存して欲しかったです。もう遅いのですが。
これは「あけぼの」という屋号だった建物で、撮影時点では一般住宅でした。
一階の車庫になっている部分は、扉ないのでちょっと覗いたら、おしゃれな燭台が見えたので、外から撮らせていただきました。おそらく、車庫になっている所が、小さなダンスホールだったのではないかなと思います。
三度目登場の「大賀」です。最後は共産党の江東支部になっていて(笑)、すごくびっくりしました。二〇一一年の東日本大地震で半壊してしまい、それで取り壊しということです。埋め立て地で地盤が良くないことと、やはり建物の耐用年数が来ていたのだと思います。私が記念撮影したところなので残念でした。「大賀」は原色のタイルを使わずに、黒タイルで装飾した太い円柱を入口の左右に構えていました、シックな感じで、ちょっと路線が違うのかなという感じでした。
これは「松竹」という屋号だった建物です。ある種、「赤線」建物の典型的です。「赤線」建築の特徴の一つとして、表間口に入口が複数ある形態がしばしば見られます。この建物も軒が出ている箇所が三つあります。撮影した時には塞がれていましたが、もともと入口が三か所あったと思われます。たいした間口でもないのに入口が三か所。つまり、それぞれの入口に一人ずつ女給さんが立って、お客も招いていたのだと思います。あるいは、来る客と帰る客が鉢合わせしないように入口と出口を別にしている可能性もあります。旧「赤線」の建物を見分けるとき、入口の数が不必要に多いのはかなり確率が高いポイントです。
この建物、若干煤けてしまっていますが、モザイクタイルの柱がよく残っていて、下が褐色の大きめのタイル、上はきれいなエメラルド・グリーンのモザイクタイルでした。さらに窓枠の縁に捩じり棒みたいなタイルが並んでいて、とても印象的でした。残念ながらそういうものがすべて姿を消してしまったわけです。
3 亀戸の私娼街と「赤線」
時間が足りなくなってきましたが、最後に江東区のもう一つの「赤線」亀戸のお話をします。
亀戸は、亀戸天神社を中心とする江戸の東の郊外の行楽地ですが、そこにいつから「性なる場」ができたのか、よくわかりません。一八八七年(明治二〇)ごろには、すでに銘酒屋が軒を並べていたようです。銘酒屋というのは、お酒を売るふりをして女性を売っている店です。一応、酒瓶が並んでいます。でも埃を被っていたりします。ろくに飲まずに上とか奥の部屋に行ってしまうからです。なぜ亀戸に「銘酒屋」街ができたのか、起源がはっきりしません。一九一〇~二〇年代、大正期にはすでに二五〇軒を超えていて「天神裏」、――亀戸天神の裏ですね――と呼ばれる私娼街を形成していました。
一九二三年(大正一二)の関東大震災で、浅草の銘酒屋街「十二階下」が壊滅します。「十二階下」というのは、有名な「凌雲閣」という一二階建ての建物の下にあった銘酒屋街で、「凌雲閣」は観光地として有名ですが、その下はかなり怪しい場所でした(笑)。その壊滅した「十二階下」の銘酒屋街から、業者が川を渡って亀戸に移転してきて、亀戸の私娼街はさらに大きくなります。
この亀戸の私娼街、なんと「亀戸遊園地」と名乗っていたのです。大人しか行けない遊園地、子どもを連れて行ってはいけない遊園地、「お父さん、今度亀戸遊園地連れてって」と言われても連れて行ってはだめです(会場笑)。
この写真は、亀戸にある天祖神社という神社さんの玉垣です。中と左は「亀戸」と小さく書いてあって、その下に「遊園地」とあります。右は「亀戸遊園地」「総代 吉田金兵衛」とあります。戦前の東京最大の私娼街「亀戸遊園地」の存在を今に伝える貴重な資料です。
この写真は10年以上前に撮ったものなので、本を出す前に、もう少し良い感じで撮り直そうと思って行ったら、記憶の所に見当たりません。「おかしいなぁ、たしかここら辺にあったのになぁ」と探しているうちに、ふと気づきました。「あれ、こんな案内板なかったよね」。区が立てた案内版と玉垣の間を覗いたらありました。「何もここに立てなくてもいいのに、いや逆かも、わざとここに立てたのかも」。どうも都合の悪い歴史を隠蔽する意図があるような気がします(会場笑)。
亀戸の私娼街は、昭和初期の最盛期には四三二軒、一〇〇〇人を超える酌婦――登録上は酌婦、つまりお酒を注ぐ女性。でも実態は娼婦――がいました。かなりすごい規模です。知名度では、同じ私娼街の玉の井(現:墨田区東向島)には及びませんでしたけど、規模では最大です。玉の井が有名になったのは永井荷風の『濹東綺譚』(一九三七年)ですね。
エリアは、亀戸天神社の北西、横十間川にかかる栗原橋の東辺りで、戦前の住所では城東区亀戸三丁目(現:江東区亀戸三丁目)になります。さっき見せていただいた本に、当時を知っている方が、「亀戸三丁目」と言うと、タクシーの運転手が馴染の、というか契約している店に連れて行ってくれた、と語っています。それほど有名で、通り名になっていたのですね。
亀戸の私娼街は、一九四五年(昭和二〇)三月一〇日の「東京下町大空襲」で全滅します。業者は立石(葛飾区)、新小岩、小岩(江戸川区)などに移転・分散するのですが本拠地の亀戸の再建はなかなか進みませんでした。ところが、九月二八日、日本を占領したアメリカ太平洋陸軍総監代理ブルース・ウェブスター大佐が東京都衛生局の防疫課長、与謝野光――歌人の与謝野鉄幹・晶子夫妻の長男です――をGHQ本部に呼びつけて、「性病予防に協力してほしい」と要請をします。当時の状況では「協力してほしい」と占領軍に言われたら命令ですから、与謝野は日本占領軍用の慰安施設の準備にかかります。
その際、ウェブスター大佐から白人兵士用と黒人兵士用を分けるようにと指示されていたので、新吉原・千住・品川などの旧公娼系を白人兵士専用に、玉の井・亀戸・新小岩など私娼街系を黒人兵士専用に割り振ります。ちなみに、将校用は大体、芸者さんがいた花街です。たとえば白山(文京区)とかですね。
アメリカ軍は人種差別が激しいので、軍の治安上、白人兵と黒人兵をいっしょにしませんでした。慰安所が白人用と黒人用に分かれているだけでなく、相手をする女性も分かれています。一度、黒人兵の相手をした女性は絶対に白人兵の方には回さないという、日本人の感覚からしたら、意味がわからないに近い人種差別ですが――こういう話も段々伝わらなくなりますが――、ともかく、アメリカ軍の要請などで、そうしたわけです。
そして、一一月一五日に亀戸の「慰安所」が営業を開始します。ウェブスター大佐の要請からわずか一か月半でできてしまいました。亀戸の私娼街は空襲で丸焼けになった後、なかなか再建できなかったわけですが、それがたちまちできてしまいます。施設の建設に必要な資材がおそらく優先的に供給されたのではないかと思われます。日本政府から優先的に供給されたのか、進駐軍から供給されたのか、資料的にはわからないのですけど、どうも状況からして進駐軍のような気がします。理由はまた後で話します。
例によって航空写真を見ていて気づきました。上の画像の左が横十間川で、そこに栗原橋がかかっています。ちょっと薄黒っぽく見えるところは焼け跡で、地面が露出していて家が建っていないところです。正確な撮影年月日はわかりませんが、おそらく一九四七年(昭和二二)ぐらいだろうと思います。
焼け野原の中に、とても規則的に、大型の建物が連なっています、広い道路(黒っぽく写ってる)の北側中央ブロックに横長の大型建物が四棟(A、B、C、D)並んでいます。ほとんど同規格です。道路の南側にもう一棟(E)、その南に向きを南北に変えて中型の建物が二棟(G.H)、それから北側の西ブロックにもう二棟(F、I)。東ブロックにはやや小型の建物(N、O、P、Q)が二列に並び、さらに三棟(K、L、M)あります。
ともかくパッと見て普通でない建物です。大型であると上に、規則的・規格的に配置されています。大規模な公団団地などの航空写真と同じような感じです。建物の間には庭のスペースがあって、それもみんな同じ幅で規則的です。
この画像を建築史の井上章一先生(現:国際日本文化研究センター所長)に見ていただいたところ、「なんか米軍の兵舎みたいな建て方やね」と、おっしゃいました。
物資が乏しい時代に、焼け野原の東京下町にこれほど大型で規格性のある建物を建てられるは誰か?ということです。戦中までだったら日本軍関係なのですが、もう戦後です。そうなると、やはりアメリカ占領軍なのではないか、設計がアメリカ軍なら、先ほど述べた建物や配置の特徴も理解できます。確証はありませんが、状況証拠に、そう考えています。
ところが、せっかく建てた立派な占領軍兵士「慰安所」も開設からわずか四カ月足らずで、「OFF LIMITS」指令が出て、機能を停止してしまいます。
この地図は、一九五四年(昭和二九)の江東区亀戸三丁目の火災保険特殊地図です。塗ってあるのが特殊飲食店です。先ほどの空中写真のだいたい七年後です。広い道路の両側(南北)5ブロックが「赤線」でした。東南のブロックに組合事務所と診療所がありました。比較すると北側中央ブロックに横長の大型建物四棟(A、B、C、D)、道路の南側の三棟(E、G、H)、北側の西ブロックの二棟(F、I)。東ブロックのやや小型の建物群(N、O、P、Q)など、多くの建物が一致します。アメリカ軍が設計したと推測される建物がそのまま転用するかたちで「赤線」になったのが亀戸の大きな特徴です。
一九五一年(昭和二六)の現地ルポに「昔の面影はない」、「最盛の姿を見れば、道路も広く、全部が新築であって、近代カフェーの形を取り入れた洋館建てである」と記されています。私娼街だった面影はないのは空襲で全焼しているので当然ですが、「洋館建て」という表現が単に「洋風」というよりも、もっとアメリカっぽいという意味なのかなと思います。そして、「なかなか豪華なものだ」という評価になっています。
これは、おそらく、アメリカ軍が設計した建物を、そのまま「赤線」に転用していたので、他の「赤線」と違う印象を受けたのではないかと推測します。
このルポの直後の一九五二年(昭和二七)の「赤線」亀戸のポジションは、軒数でも女給数でも都内第五位です。軒数で新吉原、玉の井、洲崎、鳩の街、亀戸、人数で新吉原、洲崎、新宿、玉の井、亀戸の順です。ただ、安いのです(笑)。ショートで三〇〇~四〇〇円、泊りで七〇〇~一〇〇〇円。都内の「赤線」では下から二つ目のクラスです。だから、建物は立派な洋館建てだけど、料金は安いという、ちょっと不思議な状況だったようです。
亀戸も他の「赤線」と同様に一九五八年(昭和三三)二月末で営業停止になります。その後は、ここも一般住宅地になります。そこに。近年までアメリカ軍兵士「慰安所」、そして「赤線」時代の建物が三軒残っていました。
そのうちの一軒が、大型建物Fです。「赤線」時代は「三富」という屋号でした。それが「三富荘」という名のアパートになって残っていました。それをグーグル・ストリートビューで確認して、撮影のために現地に行ったのですが、なんと更地になっていて(会場どよめく)、もう呆然というか、とてもショックでした。タイムラグ六か月の間に解体されてしまっていたのです。本にどうしても写真を載せたかったので、写した方をインターネットで探して、「本を進呈する」というお約束で掲載許可をいただいたのがこの写真です。蔦がすごくからまっていて、何が何だかわからないような建物なのですが、よく見ると、とても不思議な建物です。
まず、これらの大型建物群、空中写真ではわかりにくいかもしれませんが、屋根が特徴的で、切妻ではなく、寄棟みたいな形です。それと、アパートとしてはとても大きいのです。妻の中央に玄関がありますが、おそらくそこから廊下が延びて、左右に部屋があったと思われます。二階も同様で廊下の両サイドに部屋がずっと奥へ続く。しかもこの「三富荘」は元の建物(大型建物F)の半分だけなのです。西側の「大前田」という屋号だった部分は、後ろに見える大きなマンションになってしまっています。
「三富荘」の二階だけでも、窓の数などから見当をつけて、おそらく一〇部屋ぐらいありそうです。となると、なくなっている部分を合わせてその倍の二〇部屋、一階は全部が個室ではないにしろ、一、二階合わせて三〇部屋以上、それだけの数の慰安婦がアメリカ軍兵士を相手に仕事をしていたということです。
これも、お借りした写真です。百日紅の花がきれいですが、すでに住人はいないようで廃屋化が進んでいます。ともかく、とても貴重な遺構だったのですが、残念ながら間に合いませんでした。
もう一軒、大型建物Dの東側部分が残っています。西側は「美つかど」という屋号ですけが、東側は屋号の記載がありません。「美つかど」が続いているのかなという気もします。現在は倉庫になっていて、だいぶ改装されていますが、特徴的な、切妻でない入母屋でもない屋根がよく残っています。
一番きれいに残っているのは、空中写真で「P」と記号を振ったやや小型の建物、「赤線」時代は「双葉」という屋号だった建物です。現在は道路に面した部分が個人住宅、後ろ側がたぶんアパートだと思います(個人住宅なので写真と地図は不掲載)。窓などが逆U字型のデザインで、入口が二つ、その一つに赤褐色のタイルで装飾した角柱があり、「赤線」建物の特徴を備えています。ちょっと南欧風みたいなおしゃれな感じです。洲崎の「赤線」建物群が姿を消した今となっては、江東区に残る数少ない「赤線」遺構として貴重だと思います。
おわりに―身体を張って生きてきた女性たちの歴史を忘れないために―
時間になりました。用意してきたスライドも、これでお終いですが、最後に一言。私、こういう形で遊廓や「赤線」の歴史地理研究をしているわけですが、いろいろ調べれば調べるほどそこで働いていた女性たち、いろいろ困難な状況の中で身体を張って生き抜いた女性たちへの思いが深くなります。彼女たちの多くは自分が生き抜くためだけでなく、家族を養うために働いていました。昔からよく言われることですが、遊廓や「赤線」の女性には長女が多いと。つまり姉が身体を張って稼いで、両親を養うだけでなく、弟を学校に通わせて身が立つようにし、妹が身売りしなくて済むようにする。実際に「赤線」女給の収支簿などを見ても、故郷の家への送金額がとても大きい。だから「赤線」廃止で仕事の場が奪われるとき、彼女たちはとても困ったわけです。自分一人なら違う仕事でもなんとかやっていけるけど、故郷への送金ができなくなる、そうした切実な事情があったから、「赤線」廃止に反対する運動に立ち上がったのです。
自らのため、家族のために身体を張って懸命に生きた女性たちがいたことを忘れないでほしいと思います。
ところが、世の中はそうした方向とは逆です。たとえば、新宿区は新宿遊廓、「赤線」新宿について、そこそこ調べてはいるのに、区の出版物にはほとんど記述しません。だから、新宿遊廓が現在の地図上でどこにあったのか、『新宿区史』をいくら調べても出てこないのです。そして、地上にはいっさい説明板を設けていません。ここが新宿遊廓だったという表示はありません。
台東区は、新吉原があまりに有名で、隠しようがないからか、区の教育委員会がそれぞれの場所にそれなりの説明板を立てています。そう言えば、江東区は、洲崎も亀戸も、何の説明版もありませんね。亀戸の天祖神社の玉垣の「亀戸遊園地」もやっぱり隠したがっているのかなと思います。先程ちょっとお話をうかがったったところでは、こちらで出された本の増刷ができないという問題があるそうで、やはり遊廓や「赤線」のことが載っている本は、あまり多くの人に読まれたくないと区は考えているのかもしれません。
それは逆だと思います。以前はそうした人たちへの偏見がまだまだ強かったですし、実際にその関係者もいらっしゃいました。業者さんや、そこで働いていた女性が、その頃のことを思い出したくないという気持ちも、わからないではないです。だけど、直接的な関わりを持った方の多くは、もうこの世にいないぐらいの年代になってきました。私が本を出せたのも、そうしたタイミングだったからです。もっと早くにお話を聞いておけば良かったと思う一方で、今だから出せたという側面もあります。
そういう意味では、この会が蓄積された「語り」はとても重要です。先程、読ませていただいて、洲崎にしても亀戸にても、実際を知っている方の聞き書きは本当に貴重です。私がいろいろ調べて、東京「赤線」は「三月末じゃなくて二月末でもう終わっていたんだ」というようなことを、「終わったのは二月ですよ」と、知っている方、記憶が正確な方なら、ぱっと言えるのです。そういう話はもう二度と聞けないわけで、私たちができることは、それを次の世代、次の世に伝えていくことです。
自分の本の意味は、自分を育ててくれた大好きな新宿の街の歴史を書きたかったと同時に、隠されてしまう歴史、語り伝えられなくなってしまう歴史を掘り起こして、次の世に伝えたかったのです。新宿の街は内藤新宿の「飯盛女」から始まって、新宿遊廓のお女郎さん、「赤線」新宿2丁目の女給さん、そして現在の歌舞伎町のキャバクラ嬢たち、女性たちが身体を張って稼いで盛り立ててきた場所なのです。そうした街で、そういう人たちの歴史をないもののように扱うことに、とても腹が立ちました。私も歌舞伎町の夜の「女」の一人だったわけで、余計に怒りが強かったのですね。それでその怒りをはっきり本に書いてしまったので、「新宿歴史博物館」からはもうお呼びがかからないだろうなと思います(会場笑う、講座終了のアナウンス入る)。
そういうことで時間になりました。もし大丈夫なら質問を…。
質疑応答
Q. 性の産業っていうのは必要なものなんですか?
A. 今、私、首を傾げたように、とても難しい質問ですけども、そこら辺、私は現実主義者なので、必要か必要でないかというよりも、無くそうと思っても無くならないのです。それが本来的に必要であるかどうかということよりも、第一に考えなければいけないのは、そこで働く女性たち、まぁ女性限定ではありませんけど、主に女性たちのリスクをどうやって減らすか、リスクというのは性病感染――今でも性病ありますし――、望まない妊娠、暴力、不当な経済的な搾取、そうしたリスクをどう減らすかが重要だと思うのです。「性産業」をどうすべきかというのは、世界的にたいへんな問題で、今述べましたように「需要がある以上そういうリスク管理をもっとちゃんとするべきだ」という意見がある一方で、「いや供給するから需要が生まれるんだ」という売春禁止的な考え方もあり、いろいろな国で、いろいろな方法を試しているのが現在です。性を売る側を「売春防止法」で規制している日本、「性売買特別法」で性を売る側、買う側双方を処罰対象にしている韓国みたいな国、それからスウェーデンは、買うことを禁止、刑罰化することで性産業を無くしていこうしています。その場合、現実に性産業で働いて収入を得ている女性たちの生活保障をどうするかという問題もあるのです。まぁ、いつも思うことですが、なかなか難しいです。ただ、私は、昔も今もできるだけ働く女性の側に立って考えていきたいと思っています。
【主な参考文献】
石川光陽『昭和の東京―あのころの街と風俗』(朝日新聞社、1987年)
岡崎柾男『洲崎遊廓物語』(青蛙房、1988年)
三橋順子『新宿「性なる街」の歴史地理』(朝日選書、2018年)
第2章、第6章、コラム1、コラム2
遥かなる旅の記憶―38年前のシルクロード紀行(その1)― [論文・講演アーカイブ]
中国関係書籍の専門店「東方書店」の広報誌『東方』2020年9月号(474号)に、エッセー「遥かなる旅の記憶ー38年前のシルクロード紀行(その1)ー」が掲載されました。
若き日の旅の記憶が、やはり若き日に定期購読していた雑誌に掲載されたこと、とても感慨深く、うれしいです。
「その1」は出国から、北京~ウルムチ~トルファンの旅の記録です。
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遥かなる旅の記憶
―38年前のシルクロード紀行(その1)―
三橋順子
初めての海外旅行がシルクロード
真綿のような積雲を浮かべた真っ青な東シナ海が黄色味を帯び始め、さらに黄土色に変わった。やがて島が見え、中国の大地が姿を現した。飛行機は上海上空で大きく旋回し、ほぼ直角に進路を変え、大運河に沿うように北京を目指す。
1982年8月20日、27歳の大学院生だった私は、國學院大学「考古学研究会友好訪中団」の一員として、まだ滑走路が1本しかない成田国際空港を出発した。初めての海外旅行、そして初めての空の旅だった。
日本古代史の研究者になることを志していた私が、なぜ専門違いの考古学の訪中団に加わったかというと、指導教授の林陸朗先生(日本古代史)が団長だったからだ。つまりお供(団長随員)である。
当時の成田―北京の飛行ルートは、現在の朝鮮半島を横切る最短コースではなく、直行便でも上海を迂回するルートだった。長崎・五島列島から東シナ海を横断して長江河口を目指す奈良~平安時代の遣唐使の航路と同じだった。だから、円仁の『入唐求法巡礼行記』にあるのと同じように、海の色の変化で大陸が近いことを知る経験ができた。
北京に着いて、さっそく故宮を見学。日本の宮都(平城京など)とは比べ物にならない広大さに驚いたが、高校生の時、「中国革命における長征の意義について」というレポートを書いて、今思えば、明らかに左翼の世界史の教諭に激賞されたくらい毛沢東思想かぶれの少年だった私(大学時代に憑き物が落ちた)は、毛主席の肖像画が掲げられた天安門を背景に記念写真を撮れたのがうれしかった。
当時の中国は、毛沢東の後継者だった華国鋒から実権を奪った鄧小平体制の初期(胡耀邦総書記、趙紫陽首相の時代)で、「改革開放」の近代化路線はまだ途に就いたばかり、文化大革命期の余韻が色濃く残っていた。
ウイグル自治区の仕組み
2日目の朝、中国民航機で新疆ウイグル自治区の省都、烏魯木斉(ウルムチ)に飛んだ。黄土台地、オルドスの平原、沙漠の塩湖や涸川(ワジ)、雪をいただく祁連山脈。地理学の教科書では知っていたが見たこともない風景に興奮した。
ウルムチに到着後、さっそく自治区博物館と少数民族博物館を見学。外に出ようとすると、一瞬たじろいだほど大勢の人たちが私たちを待っていた。珍しい「外賓」を見物しようとする人たちで、特に子供たちは興味津々という様子だった。
当時の新彊ウイグル自治区はまだ外国人観光客に開放されておらず、入域するには学術調査団の形をとらなければならなかった。私たちが「考古学研究会友好訪中団」と大袈裟に名乗っているのも、そうした理由だった。
「外賓」を見物するウルムチの人々
宿泊した「崑崙賓館」は、ソ連が建てた天井が無駄に高い大きなホテル。エレベーターは手動で、女性服務員がタイミングを計ってレバーを引いて止める。段差数センチで止まると、乗っている人たちが拍手する。時には10センチ近い段差になることもあった。「ああ、これだからソ連は本格的な航空母艦が造れないのだな」と思った。
夕方、新疆ウイグル自治区政府を表敬訪問。公式行事なので、あらかじめ提出した名簿通りに列んで挨拶をする。私はいちばん年下の大学院生なので序列25位、つまりいちばん下っ端だ。「友好訪中団」の団長である林教授が挨拶し、それを受けてイスラム帽をかぶった白髭のウイグル族の長老の自治区政府主席が歓迎の辞を述べる。「皆さん、遠い日本からよくいらっしゃいました。なにかお困りのことがあったら、副主席の張さんに言ってください」
この一言で、自治区政府の仕組みがわかった。副主席は漢族で共産党の書記を兼ねている。自治区の顔はウイグル族、実権は漢族。この統治システムは、もうすでに確立していた(今はもっと露骨になっている)。
ちなみに、こうした場合、まず現地ガイドがウイグル語を中国語に訳し、それを全行程随行のガイドが日本語に訳すという二重通訳。中央から派遣されたガイド趙星海氏は私と同年齢の若い男性だったが、かなりのエリートで、現地のガイドとは格が違うという感じだった。
火州・トルファンへ
3日目の朝9時半、バスでトルファン(吐魯蕃)を目指して出発。バスは日野自動車製。郊外に出ると樹木はまったくなく、ところどころに草が生えている半砂漠、そしてそれすらもない小石だらけの礫沙漠(ゴビ)が続く。その向こうに天山山脈のボゴダ山(5445m)が白く輝いていた。
2時間ほどで達坂城人民公社に着いた。ここはいわゆる模範人民公社らしく、ウルムチ―トルファン往還を通る要人や外賓のための招待所があり、簡素だが清潔な食堂で昼食が供された。まさに沙漠の中のオアシスで、集落の周囲には農場が、さらにその外周に広大な放牧地が広がっていた。ここでも子供たちが集まってきて、束の間の日中友好交流(簡単な筆談)を楽しんだ。
人民公社とは、かつて中華人民共和国の農村にあった組織で、ソ連の農業集団化を模倣した集団所有制のもとで「自力更生、自給自足」の生産活動(農業・工業)を行い、同時に末端行政機関でもあった。しかし、改革開放政策の進展で1983年までにほとんどの人民公社は解体されたので、私たちが見たのはその最末期の姿ということになる。
13時半、火州・トルファンに着いた。ウルムチから休憩を含めて4時間の行程。宿舎の「吐魯蕃招待所」で一休みした後、五星人民公社のカレーズ(地下水路)の出口の見学に出かけた。遠く天山山脈から沙漠の地下をトンネルで流れてくる水は、想像していたよりずっと水量が豊かだった。ただ、天山の雪解け水なのでとても冷たく、農地に入れる前に地上の水路を迂回させて温めなければならない。水路の周囲にはポプラが林をなし、薄茶色の沙漠ばかり見てきた目にはまぶしいほど鮮やかな緑の農地が広がっていた。逆に言えば、カレーズがトルファン・オアシスの生命線であることがよくわかった。その昔、来襲する遊牧民族は、カレーズを破壊したという話はもっともだ。水道(みずみち)を絶たれれば、たちまちオアシス都市は干上がってしまう。
そこから、交河故城に向かう。車師国(前2世紀~5世紀)の都で、2本の峡谷に挟まれ、周囲は断崖絶壁で難攻不落を思わせる大規模な都市遺跡。NHK特集「シルクロード -絲綢之路(しちゅうのみち)-」(1980年4月~1981年3月)で大要はつかんでいたが、やはり驚いた。古代都市の遺構がそのまま地上にあり、あちこちに遺物が散乱している。居住区地区の街角で、誰かに出会いそうな気がするくらいだ。日本では古代の遺跡はすべて土に埋もれていて、発掘をした遺構や遺物を通じて、ようやくそこに何があったかを知ることができるのに。遺跡というもののイメージがまったく変わった。
遺跡で金髪の女の子に出会った。この地にさらに西方のアーリア系の血が及んでいることがわかる。ウイグルの人たちの顔立ちはかなり多様で、日本人に近いモンゴル系の人もいれば、彫りが深いトルコ系の人も多い。民族のるつぼという感じだ。
次に吐魯蕃博物館を見学。ここでトルファン文書(5~6世紀の高昌王国時代の漢文文書)を見た。私は学部時代、トルファン文書の研究で知られる土肥義和教授の講義を受けたので、実物を目の当たりにしてとても興奮した。そもそもの話、湿潤な日本では木に書かれた文書(木簡)や漆被膜に包まれた紙の文書(漆紙文書)など特殊な条件で残ることはあっても、紙の文書が地中からそのまま出土するということはまずありえない。出土文字史料については、それなりに学んできたが、「常識」が次々に覆されていく。
やっと招待所に戻って夕食。その後は「外賓」を歓迎する「ウイグル歌舞の夕べ」。ブドウ棚の下に絨毯が敷かれ、西域の楽器の生演奏で合わせてウイグル族の女性が踊る。回転が多い踊りで、唐詩にある長安の胡旋舞を思わせる(実際には胡旋舞のイメージを基にした再現のように思う)。
宴が終わったのは22時だった。でも空がまだ薄っすら明るい。トルファンは東経90度、15度で1時間だから、東経120度基準の北京標準時とは、2時間の時差があるはず。しかし、皇帝が時を一元的に支配する伝統がある中国は広い国土すべてが北京標準時なので、22時と言っても実際は20時なのだ(おまけに北緯42度なので夏の日没は遅い)。
ベゼクリク千仏洞へ、
4日目の朝、シャワーを浴びる。元が雪解け水なので震えるほど冷たい。朝のお祈りを告げる声が流れてくる。異世界(イスラム世界)に来たことをあらためて実感。
火焔山の麓にあるベゼクリク千仏洞に向かう。壁画の切り取り跡が痛々しい。中国政府は、ドイツのアルベルト・フォン・ル・コックをはじめとする探検家による壁画の持ち出しを文物の略奪として強く批判している。それはもっともだ。しかし、ル・コックらが壁画を持ち出さなかったとして、中華人民共和国が保全に乗り出すまでの70年ほどの間、壁画が無事だったかというと疑わしい。なぜなら残されている壁画もかなり損傷しているからだ。像の顔、とくに眼の部分が削られているものが目立つ。これは偶像崇拝を否定する(というか怖れる)イスラム教徒の仕業だからだ。文物の保存の難しさを目の当たりにした。
ベゼクリク千仏洞
千仏洞があるムルトク川の峡谷は、川畔にわずかに緑がある以外一木一草もない荒涼とした沙漠地帯。火焔山は砂岩の山肌に無数の溝が穿たれ、風化して落ちた砂が山麓の沙漠に続いている。この日の気温は46度だった。しかし汗はまったくかかない。たちまち蒸発してしまうからだ。気づくと肌がざらざらしている。よく見ると細かな塩の結晶だった。そんな乾燥した気候なのに、なんとこの日は雨が降った。ほんの僅か、バスの窓に水滴がついただけだったが。8月下旬にして今年初めての雨とのことだった。
巨大な城壁に囲まれた高昌故城へ。シルクロード交易で栄え、唐に滅ぼされた高昌王国(460~640年)の都。大寺院跡の仏龕にわずかに残る彩色光背(仏像はすべて失われている)に、この地を経由した玄奘三蔵の労苦をしのんだ。
招待所に戻って昼食。午後はまず額敏塔(蘇公塔)へ。清朝の乾隆41年(1779)に建てられた高さ44mのイスラム教の塔で、(今ではとても上れない)螺旋階段を上りきると、トルファン・オアシスが一望できる。
近くの蒲萄溝人民公社で休憩。川沿いの豊かなオアシスで、名前の通り、ブドウがたわわに実っていた。乾ききった気候の中で食べるブドウ、スイカ、ハミ瓜がなんと甘露だったことか。
ふとブドウ棚の脇の木を見上げると、なんだか馴染みのある葉っぱをしている。北関東の養蚕地帯に生まれ育った私は、その葉が桑に似ていることに気付いた。ガイドさんに尋ねると、やはり桑の木。ただ故郷の桑とは比べ物にならない大木だ。それでも桑があれば蚕が飼えるし生糸が採れる。今でも養蚕をしているか尋ねてみたが、残念ながらよくわからなかった。これがシルクローの旅で、絹の存在を感じた唯一の機会だった。
驢馬(ろば)タクシーとバザール
トルファン文書が出土したアスターナ古墳群を見学して、トルファンでの公式見学を終えた。招待所に戻って、さすがに疲れて休んでいたら、若手グループがバザールに行くという。それなら、行かないわけにはいかない。
招待所の門の前には、何台もの驢馬タクシーが待っていた。真っ先に寄ってきた少年馭者と値段交渉。「最初は1人1元」(当時のレートは1元=135円。現在は約15円、なんと9分の1)と吹っ掛けてきたが、5人乗るからということで1人2角(27円)に値切った。
少年馭者の驢馬タクシー
驢馬タクシーは馭者が1頭の驢馬を操り、2輪の荷台を牽引する。荷台の左右に2人ずつ、後に1人が外向きに腰掛ける5人乗り。馭者がロバの背中と軛(くびき)の間に鞭の柄を差し込んでしごくと、ロバは並足から駆足になる。思っていたよりスピードが出るが、それほど揺れず、振り落とされることはない。
中央バザールは活気に満ちていた。露店で羊の串焼き、練った小麦を焼いた丸いパン状のもの、ヒマワリの種などが売られている。スイカを売る少年、羊の臓物を竿秤で量り売りするおじいさん、そして野外床屋。建物は映画館だけ(入場料は1角4分=19円)。ウイグルの人たちの暮らしを生で感じることができて、とても楽しかった。
それにしても、雨が降らないということは、住居や生活様式にこうも大きく影響するものなのか。外壁は立派な映画館に屋根はない。露店もまったく覆いがなく、文字通りの露天だ。雨が多い日本では、露店は雨よけがないと商売にならないから、まず覆いを付ける。トルファンの人たちからすれば、不要だから付けないだけなのだろうが。
羊の臓物売りのおじいさん
ただ、私たちが持っているお金は、毛沢東の肖像の人民元ではなく、外国人専用の「外貨兌換券」(1994年末で廃止)。事前にガイドから「兌換券は公設商店でないと使えません(使ってはいけません)」と言われていたのでなにも買えなかった(後で、公設商店以外の場でも、商人たちは喜んで受け取ることがわかった。なぜなら闇レートで1兌換券=1.8人民元だったから)。
映画館の前にかわいらしいウイグル族の姉妹がいて、こっちを見ている。写真を撮らせてもらった後、手を振ったら、姉ははにかみ、妹は手を振り返してくれた。
「さようなら、トルファン」
招待所に帰ろうと歩き出したら、なんとあの少年馭者の驢馬タクシーが待っていた。こうなると乗らないわけにはいかない。結局、彼は2角×5人×2=2元(270円)を手にしたことになる。しかも兌換券で。きっと家に帰って父母に褒められたことだろう。あの時、14歳と言っていたから今は52歳、立派なタクシー運転手になっただろうか? それとも……。現在のウイグルの人たちの抑圧された状況を知るたびに心が痛む。
招待所でトルファン最後の食事をして、深夜の沙漠をトルファン駅に向かう(市街からかなり離れている)。そして、23時35分発の「烏京特快」(ウルムチと北京を3泊4日で結ぶ寝台特急列車)に乗車して東に向かった。軟臥車(1等寝台車)の寝台に横たわると、ハードスケジュールの疲れで、たちまち眠りに落ちた。(続く)
若き日の旅の記憶が、やはり若き日に定期購読していた雑誌に掲載されたこと、とても感慨深く、うれしいです。
「その1」は出国から、北京~ウルムチ~トルファンの旅の記録です。
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遥かなる旅の記憶
―38年前のシルクロード紀行(その1)―
三橋順子
初めての海外旅行がシルクロード
真綿のような積雲を浮かべた真っ青な東シナ海が黄色味を帯び始め、さらに黄土色に変わった。やがて島が見え、中国の大地が姿を現した。飛行機は上海上空で大きく旋回し、ほぼ直角に進路を変え、大運河に沿うように北京を目指す。
1982年8月20日、27歳の大学院生だった私は、國學院大学「考古学研究会友好訪中団」の一員として、まだ滑走路が1本しかない成田国際空港を出発した。初めての海外旅行、そして初めての空の旅だった。
日本古代史の研究者になることを志していた私が、なぜ専門違いの考古学の訪中団に加わったかというと、指導教授の林陸朗先生(日本古代史)が団長だったからだ。つまりお供(団長随員)である。
当時の成田―北京の飛行ルートは、現在の朝鮮半島を横切る最短コースではなく、直行便でも上海を迂回するルートだった。長崎・五島列島から東シナ海を横断して長江河口を目指す奈良~平安時代の遣唐使の航路と同じだった。だから、円仁の『入唐求法巡礼行記』にあるのと同じように、海の色の変化で大陸が近いことを知る経験ができた。
北京に着いて、さっそく故宮を見学。日本の宮都(平城京など)とは比べ物にならない広大さに驚いたが、高校生の時、「中国革命における長征の意義について」というレポートを書いて、今思えば、明らかに左翼の世界史の教諭に激賞されたくらい毛沢東思想かぶれの少年だった私(大学時代に憑き物が落ちた)は、毛主席の肖像画が掲げられた天安門を背景に記念写真を撮れたのがうれしかった。
当時の中国は、毛沢東の後継者だった華国鋒から実権を奪った鄧小平体制の初期(胡耀邦総書記、趙紫陽首相の時代)で、「改革開放」の近代化路線はまだ途に就いたばかり、文化大革命期の余韻が色濃く残っていた。
ウイグル自治区の仕組み
2日目の朝、中国民航機で新疆ウイグル自治区の省都、烏魯木斉(ウルムチ)に飛んだ。黄土台地、オルドスの平原、沙漠の塩湖や涸川(ワジ)、雪をいただく祁連山脈。地理学の教科書では知っていたが見たこともない風景に興奮した。
ウルムチに到着後、さっそく自治区博物館と少数民族博物館を見学。外に出ようとすると、一瞬たじろいだほど大勢の人たちが私たちを待っていた。珍しい「外賓」を見物しようとする人たちで、特に子供たちは興味津々という様子だった。
当時の新彊ウイグル自治区はまだ外国人観光客に開放されておらず、入域するには学術調査団の形をとらなければならなかった。私たちが「考古学研究会友好訪中団」と大袈裟に名乗っているのも、そうした理由だった。
「外賓」を見物するウルムチの人々
宿泊した「崑崙賓館」は、ソ連が建てた天井が無駄に高い大きなホテル。エレベーターは手動で、女性服務員がタイミングを計ってレバーを引いて止める。段差数センチで止まると、乗っている人たちが拍手する。時には10センチ近い段差になることもあった。「ああ、これだからソ連は本格的な航空母艦が造れないのだな」と思った。
夕方、新疆ウイグル自治区政府を表敬訪問。公式行事なので、あらかじめ提出した名簿通りに列んで挨拶をする。私はいちばん年下の大学院生なので序列25位、つまりいちばん下っ端だ。「友好訪中団」の団長である林教授が挨拶し、それを受けてイスラム帽をかぶった白髭のウイグル族の長老の自治区政府主席が歓迎の辞を述べる。「皆さん、遠い日本からよくいらっしゃいました。なにかお困りのことがあったら、副主席の張さんに言ってください」
この一言で、自治区政府の仕組みがわかった。副主席は漢族で共産党の書記を兼ねている。自治区の顔はウイグル族、実権は漢族。この統治システムは、もうすでに確立していた(今はもっと露骨になっている)。
ちなみに、こうした場合、まず現地ガイドがウイグル語を中国語に訳し、それを全行程随行のガイドが日本語に訳すという二重通訳。中央から派遣されたガイド趙星海氏は私と同年齢の若い男性だったが、かなりのエリートで、現地のガイドとは格が違うという感じだった。
火州・トルファンへ
3日目の朝9時半、バスでトルファン(吐魯蕃)を目指して出発。バスは日野自動車製。郊外に出ると樹木はまったくなく、ところどころに草が生えている半砂漠、そしてそれすらもない小石だらけの礫沙漠(ゴビ)が続く。その向こうに天山山脈のボゴダ山(5445m)が白く輝いていた。
2時間ほどで達坂城人民公社に着いた。ここはいわゆる模範人民公社らしく、ウルムチ―トルファン往還を通る要人や外賓のための招待所があり、簡素だが清潔な食堂で昼食が供された。まさに沙漠の中のオアシスで、集落の周囲には農場が、さらにその外周に広大な放牧地が広がっていた。ここでも子供たちが集まってきて、束の間の日中友好交流(簡単な筆談)を楽しんだ。
人民公社とは、かつて中華人民共和国の農村にあった組織で、ソ連の農業集団化を模倣した集団所有制のもとで「自力更生、自給自足」の生産活動(農業・工業)を行い、同時に末端行政機関でもあった。しかし、改革開放政策の進展で1983年までにほとんどの人民公社は解体されたので、私たちが見たのはその最末期の姿ということになる。
13時半、火州・トルファンに着いた。ウルムチから休憩を含めて4時間の行程。宿舎の「吐魯蕃招待所」で一休みした後、五星人民公社のカレーズ(地下水路)の出口の見学に出かけた。遠く天山山脈から沙漠の地下をトンネルで流れてくる水は、想像していたよりずっと水量が豊かだった。ただ、天山の雪解け水なのでとても冷たく、農地に入れる前に地上の水路を迂回させて温めなければならない。水路の周囲にはポプラが林をなし、薄茶色の沙漠ばかり見てきた目にはまぶしいほど鮮やかな緑の農地が広がっていた。逆に言えば、カレーズがトルファン・オアシスの生命線であることがよくわかった。その昔、来襲する遊牧民族は、カレーズを破壊したという話はもっともだ。水道(みずみち)を絶たれれば、たちまちオアシス都市は干上がってしまう。
そこから、交河故城に向かう。車師国(前2世紀~5世紀)の都で、2本の峡谷に挟まれ、周囲は断崖絶壁で難攻不落を思わせる大規模な都市遺跡。NHK特集「シルクロード -絲綢之路(しちゅうのみち)-」(1980年4月~1981年3月)で大要はつかんでいたが、やはり驚いた。古代都市の遺構がそのまま地上にあり、あちこちに遺物が散乱している。居住区地区の街角で、誰かに出会いそうな気がするくらいだ。日本では古代の遺跡はすべて土に埋もれていて、発掘をした遺構や遺物を通じて、ようやくそこに何があったかを知ることができるのに。遺跡というもののイメージがまったく変わった。
遺跡で金髪の女の子に出会った。この地にさらに西方のアーリア系の血が及んでいることがわかる。ウイグルの人たちの顔立ちはかなり多様で、日本人に近いモンゴル系の人もいれば、彫りが深いトルコ系の人も多い。民族のるつぼという感じだ。
次に吐魯蕃博物館を見学。ここでトルファン文書(5~6世紀の高昌王国時代の漢文文書)を見た。私は学部時代、トルファン文書の研究で知られる土肥義和教授の講義を受けたので、実物を目の当たりにしてとても興奮した。そもそもの話、湿潤な日本では木に書かれた文書(木簡)や漆被膜に包まれた紙の文書(漆紙文書)など特殊な条件で残ることはあっても、紙の文書が地中からそのまま出土するということはまずありえない。出土文字史料については、それなりに学んできたが、「常識」が次々に覆されていく。
やっと招待所に戻って夕食。その後は「外賓」を歓迎する「ウイグル歌舞の夕べ」。ブドウ棚の下に絨毯が敷かれ、西域の楽器の生演奏で合わせてウイグル族の女性が踊る。回転が多い踊りで、唐詩にある長安の胡旋舞を思わせる(実際には胡旋舞のイメージを基にした再現のように思う)。
宴が終わったのは22時だった。でも空がまだ薄っすら明るい。トルファンは東経90度、15度で1時間だから、東経120度基準の北京標準時とは、2時間の時差があるはず。しかし、皇帝が時を一元的に支配する伝統がある中国は広い国土すべてが北京標準時なので、22時と言っても実際は20時なのだ(おまけに北緯42度なので夏の日没は遅い)。
ベゼクリク千仏洞へ、
4日目の朝、シャワーを浴びる。元が雪解け水なので震えるほど冷たい。朝のお祈りを告げる声が流れてくる。異世界(イスラム世界)に来たことをあらためて実感。
火焔山の麓にあるベゼクリク千仏洞に向かう。壁画の切り取り跡が痛々しい。中国政府は、ドイツのアルベルト・フォン・ル・コックをはじめとする探検家による壁画の持ち出しを文物の略奪として強く批判している。それはもっともだ。しかし、ル・コックらが壁画を持ち出さなかったとして、中華人民共和国が保全に乗り出すまでの70年ほどの間、壁画が無事だったかというと疑わしい。なぜなら残されている壁画もかなり損傷しているからだ。像の顔、とくに眼の部分が削られているものが目立つ。これは偶像崇拝を否定する(というか怖れる)イスラム教徒の仕業だからだ。文物の保存の難しさを目の当たりにした。
ベゼクリク千仏洞
千仏洞があるムルトク川の峡谷は、川畔にわずかに緑がある以外一木一草もない荒涼とした沙漠地帯。火焔山は砂岩の山肌に無数の溝が穿たれ、風化して落ちた砂が山麓の沙漠に続いている。この日の気温は46度だった。しかし汗はまったくかかない。たちまち蒸発してしまうからだ。気づくと肌がざらざらしている。よく見ると細かな塩の結晶だった。そんな乾燥した気候なのに、なんとこの日は雨が降った。ほんの僅か、バスの窓に水滴がついただけだったが。8月下旬にして今年初めての雨とのことだった。
巨大な城壁に囲まれた高昌故城へ。シルクロード交易で栄え、唐に滅ぼされた高昌王国(460~640年)の都。大寺院跡の仏龕にわずかに残る彩色光背(仏像はすべて失われている)に、この地を経由した玄奘三蔵の労苦をしのんだ。
招待所に戻って昼食。午後はまず額敏塔(蘇公塔)へ。清朝の乾隆41年(1779)に建てられた高さ44mのイスラム教の塔で、(今ではとても上れない)螺旋階段を上りきると、トルファン・オアシスが一望できる。
近くの蒲萄溝人民公社で休憩。川沿いの豊かなオアシスで、名前の通り、ブドウがたわわに実っていた。乾ききった気候の中で食べるブドウ、スイカ、ハミ瓜がなんと甘露だったことか。
ふとブドウ棚の脇の木を見上げると、なんだか馴染みのある葉っぱをしている。北関東の養蚕地帯に生まれ育った私は、その葉が桑に似ていることに気付いた。ガイドさんに尋ねると、やはり桑の木。ただ故郷の桑とは比べ物にならない大木だ。それでも桑があれば蚕が飼えるし生糸が採れる。今でも養蚕をしているか尋ねてみたが、残念ながらよくわからなかった。これがシルクローの旅で、絹の存在を感じた唯一の機会だった。
驢馬(ろば)タクシーとバザール
トルファン文書が出土したアスターナ古墳群を見学して、トルファンでの公式見学を終えた。招待所に戻って、さすがに疲れて休んでいたら、若手グループがバザールに行くという。それなら、行かないわけにはいかない。
招待所の門の前には、何台もの驢馬タクシーが待っていた。真っ先に寄ってきた少年馭者と値段交渉。「最初は1人1元」(当時のレートは1元=135円。現在は約15円、なんと9分の1)と吹っ掛けてきたが、5人乗るからということで1人2角(27円)に値切った。
少年馭者の驢馬タクシー
驢馬タクシーは馭者が1頭の驢馬を操り、2輪の荷台を牽引する。荷台の左右に2人ずつ、後に1人が外向きに腰掛ける5人乗り。馭者がロバの背中と軛(くびき)の間に鞭の柄を差し込んでしごくと、ロバは並足から駆足になる。思っていたよりスピードが出るが、それほど揺れず、振り落とされることはない。
中央バザールは活気に満ちていた。露店で羊の串焼き、練った小麦を焼いた丸いパン状のもの、ヒマワリの種などが売られている。スイカを売る少年、羊の臓物を竿秤で量り売りするおじいさん、そして野外床屋。建物は映画館だけ(入場料は1角4分=19円)。ウイグルの人たちの暮らしを生で感じることができて、とても楽しかった。
それにしても、雨が降らないということは、住居や生活様式にこうも大きく影響するものなのか。外壁は立派な映画館に屋根はない。露店もまったく覆いがなく、文字通りの露天だ。雨が多い日本では、露店は雨よけがないと商売にならないから、まず覆いを付ける。トルファンの人たちからすれば、不要だから付けないだけなのだろうが。
羊の臓物売りのおじいさん
ただ、私たちが持っているお金は、毛沢東の肖像の人民元ではなく、外国人専用の「外貨兌換券」(1994年末で廃止)。事前にガイドから「兌換券は公設商店でないと使えません(使ってはいけません)」と言われていたのでなにも買えなかった(後で、公設商店以外の場でも、商人たちは喜んで受け取ることがわかった。なぜなら闇レートで1兌換券=1.8人民元だったから)。
映画館の前にかわいらしいウイグル族の姉妹がいて、こっちを見ている。写真を撮らせてもらった後、手を振ったら、姉ははにかみ、妹は手を振り返してくれた。
「さようなら、トルファン」
招待所に帰ろうと歩き出したら、なんとあの少年馭者の驢馬タクシーが待っていた。こうなると乗らないわけにはいかない。結局、彼は2角×5人×2=2元(270円)を手にしたことになる。しかも兌換券で。きっと家に帰って父母に褒められたことだろう。あの時、14歳と言っていたから今は52歳、立派なタクシー運転手になっただろうか? それとも……。現在のウイグルの人たちの抑圧された状況を知るたびに心が痛む。
招待所でトルファン最後の食事をして、深夜の沙漠をトルファン駅に向かう(市街からかなり離れている)。そして、23時35分発の「烏京特快」(ウルムチと北京を3泊4日で結ぶ寝台特急列車)に乗車して東に向かった。軟臥車(1等寝台車)の寝台に横たわると、ハードスケジュールの疲れで、たちまち眠りに落ちた。(続く)
論考「トランスジェンダーと青少年問題」季刊『青少年問題』668号 [論文・講演アーカイブ]
季刊『青少年問題』(一般財団法人 青少年問題研究会)668号(2017年10月1日発行)の特集「LGBTとは」に、執筆した論考「トランスジェンダーと青少年問題」。
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トランスジェンダーと青少年問題
三橋 順子
1 トランスジェンダーとは
「LGBT」のTは、トランスジェンダー(Transgender)の頭文字である。けっして性同一性障害(Gender Identity Disorder)の頭文字ではない。もしTが性同一性障害だったら「LGBT」ではなく「LGBG」になってしまう。
では、トランスジェンダーとはなんだろう。現象・行為として定義するならば、生得的な身体の性に則して社会(文化)によって規定される社会的性を強制されることを拒否し、生得的な身体の性とは逆の(別の)社会的性を学習し、それを総体的に身にまとうこと、つまり、つまり、社会的性差(Gender)を越境しようとすることである。人物として定義するならば、そうした社会的性差の越境をしばしば、もしくは定常的に行う人たちということになる。
トランスジェンダーには男性として生まれながら女性ジェンダーを身にまとうMtF(Male to Female)と、女性として生まれながら男性ジェンダーを身にまとうFtM(Female to Male)の二つの方向性がある。最近ではMtFを Trans-woman、FtMFをTrans-manと呼ぶことも増えてきた。
トランスジェンダーは、身体とジェンダーとの不一致を病理(精神疾患)とする考え方に対抗して生まれた非病理概念である。したがって、トランスジェンダーを「心と体の性が異なる人」と説明するのは、性同一性障害の定義に影響された誤りである。敢えて言えば、一致していないのは「心と体」ではなく「ジェンダーと体」である。
トランスジェンダーでは、性別を越境する理由は問わない。ジェンダーと身体の不一致に起因する性別違和感(Gender Dysphoria)が理由であることが多いが、職業的・経済的な事情であっても、定常的なジェンダーの越境が行われていればトランスジェンダーである。
身体とジェンダーを医療によって一致させることを「治療」と考える性同一性障害概念に対して、トランスジェンダー概念ではジェンダーと身体は必ずしも一致させる必要はなく、一致させるか、それとも不一致なままでいるかは自己決定に委ねられるべき問題である。
ちなみに、性別を越境するトランスジェンダーに対して、性別を越境しない人たちをシスジェンダー(Cisgender)という。
2 トランスジェンダーの現在
日本では、1998年の埼玉医科大による性別適合手術の実施をきっかけに、1990年代末から2000年代初頭にかけて性別の移行を望むことを「病」(精神疾患)ととらえる性同一性障害(GID)概念がマス・メディアを通じて広く流布され、性別移行の病理化が一気に進行した。その流れは、2003年7月の「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」の制定(2004年7月実施)に結実し、一定の要件を満たす性同一性障害者は戸籍の性別(続柄)の変更が認められるようになった。
その結果、性同一性障害の診断を得て、国内外で性別適合手術を受け、戸籍の性別を変更する人が急増した。性別違和感に悩み苦しむ人が、手術と戸籍の変更によって望みの性別での生活を実現することは、基本的には良いことである。しかし、その一方で過剰でアンバランスな医療化の弊害も出てきている。たとえば、望みの性別の身体と戸籍を得たにもかかわらず、望みの性別での社会的適応がうまくいかない人が目立つようになり、さらには性別の変更を後悔し性別を元に戻す再変更を望む人すら出てきている。
とはいえ、20世紀末から21世紀00年代の10数年間は、性同一性障害をアイデンティティにする「性同一性障害者」が数多く出現し、「性同一性障害者」のグループが社会的に強い発言力を持った、まさに「性同一性障害の時代」だった。ただし、こうした病理化の突出、性同一性障害をアイデンティティにする人々の急増は、同時期の世界と比べるとかなり特異な現象だった。
2015年頃から日本でも遅ればせながら、性的マイノリティの主な4つのカテゴリーの英語の頭文字を組み合わせてその連帯を示す「LGBT」(LはLesbian:女性同性愛者、GはGay:男性同性愛者、BはBisexual:両性愛者、TはTransgender:性別越境者))概念が広まる。それによって、LGBTの一角であるトランスジェンダーへの社会的認知が広がっていった。
また、世界に目を転ずると、2010年代に入る頃から性別移行の脱精神疾患化の流れがはっきりしてくる。2018年に予定されているWHO(世界保健機関)の疾患リスト(ICD)の改訂では「性同一性障害」という病名は国際的には消え、新設される「conditions related to sexual health(性の健康に関連する状態)」の章に「gender incongruence(性別不一致)」という病名が置かれるなど、性別越境に関係する疾患が精神疾患カテゴリーから外れる案が有力になっている。
これが実現すれば、同性愛に遅れること28年にして性別越境の脱精神疾患化が達成され、性別越境者は長い年月、精神疾患の名のもとに抑圧されてきた状態から、ようやく解放されることになる。
こうした流れの中で、かつて全盛を極めた性同一性障害者グループの活動は、この数年、急速に低下し、社会的発言力ははっきり衰退している。今後、性同一性障害という病名は完全に過去のもの(死語)となり、性別を越えて生きることを「病」ではなく、自らの性別の在り様の選択であるとするトランスジェンダーの主張が主流になっていくだろう。
3 若年FtMの急増問題
戸籍の性別変更者の人数は、2004年から2016年までの13年間で6809人に達している。これは最高裁判所が全国の家庭裁判所で変更手続きをした人数を集計したもので、きわめて信頼度が高い。日本の全人口の0.005%、18500人に1人が戸籍の性別を変更していることになる。
東京都千代田区にある「はりまメンタルクリニック」の針間克己院長は、2005~2016年の間に1273通の戸籍変更診断書を書いている。これは、同期間に戸籍の性別変更を行った6809人の約5分の1(18.6%)に相当する。
戸籍変更診断書を求める人のほとんどは、家庭裁判所に戸籍の性別変更を申し立てると推定され、そのほとんどが受理される。したがって、針間院長が執筆した戸籍変更診断書は、日本の戸籍性別変更全体のほぼ5分の1のサンプルと考えて大過ない。
最高裁判所のデータにはFtM、MtFの区分がなく、性別移行の内訳は不明だが、「はりまメンタルクリニック」の戸籍変更診断書のデータはFtM、MtFの別が示されている。そこで年ごとのFtM、MtFの比率を各年の戸籍性別変更数に当てはめて、年ごとのFtM、MtFの人数を推測し、それを合計してみた。
その結果、女性から男性への変更者(FtM)が5010人、男性から女性への変更者(MtF)が1796人となり、その比率は2.76:1と推測される。2006年まではMtF2: FtM1だったのが、2007年に一気に逆転してMtF1:FtM2になり、2010年以降はMtF1: FtM3~4で推移している。
2007年頃にいったい何が起こったのか? 理由として、FtMを対象とした「性器形状近似要件」の実質的な緩和が考えられる。つまり、ペニス形成手術をしなくても、男性ホルモンで肥大したクリトリスをマイクロペニスに見立てることで、子宮・卵巣の摘出のみで戸籍の性別変更を認める判断が、FtMの戸籍変更数の急増をもたらしたと思われる。
これに対して、戸籍の性別変更をしたMtFの実人数は長期的に見るとほとんど同じレベルで推移していて、大きな増減はない。
次に、戸籍性別変更者の年齢層に注目してみよう。「はりまメンタルクリニック」の2011~2016年の戸籍変更診断書のデータから、若年層(20歳代)の比率を推計すると、全体の61.8%が20歳代であることがわかった。MtFとFtMとでは様相がかなり異なり、MtFでは20歳代の比率は43.6%に止まるのに対し、FtMでは66.9%、つまり3分の2に達する。同期間のMtF:FtM比は全年齢層では1: 3.6であるが、20歳代限定では1:5.5となる。
2011~2016年の6年間の全戸籍変更者は4668人だが、20代のFtMは2496人と推計され、全体の53.5%が20代のFtMということになる。全戸籍変更者の50%以上が若いFtMというのは、かなり衝撃的な数値である。
つまり、性別変更者の現状は、全体の半分以上が若いFtMで占められ、若年層に限定するとFtMはMtFの5~6倍もいる。大雑把な計算だが、20代女性の約2500人に1人(0.04%)が戸籍の性別を男性に変更していることになる。
こうした現状は、性別変更に伴うさまざまな問題のかなりの部分が、若いFtMに関わる問題であることを予測させる。もちろん、MtFにもいろいろな問題はあるが、両者に共通する就労問題を別にすれば、単身高齢化問題など、むしろ中高年層に関わるものが多い。
極言すれば、トランスジェンダーの青少年問題とは、FtMの問題ということになる。
4 FtMのダークビジネス問題
近年、性同一性障害の当事者によるダークビジネス(違法とまでは言えないが質的・倫理的に問題性のあるビジネス)が表面化している。いくつか事例をあげてみよう。
2014年のGID学会第16回研究大会(那覇市)における医療ツーリズムのシンポジウムで、主にタイでの性別適合手術のアテンド(紹介・斡旋)を行う業者の問題が指摘された。
航空券の手配やホテルの予約などの代行業務をする場合、日本では旅行代理業務の資格が必要であり、また現地で病院の斡旋をする際にはタイの官庁に届け出なければならない。ところが、無資格な業者が横行し、アテンドと称しながらタイ語も英語もしゃべれず、現地の病院の日本語ができるスタッフに取り次ぐだけ、あるいは、自分が手術した病院しか紹介しない(できない)など、アテンドの質が伴わない会社があるとの指摘だった。こうした問題があるアテンド会社を経営しているのは、なぜかほとんどFtMなのだ。
2016年5月の「東京レインボープライド」のあるブースが「無料相談」をうたいながら肝心な情報は有料で、しかも法外な値段をとっているという噂が流れてきた。たとえば、「GID学会理事クラスの医師の電話番号、1万円」とか。病院の電話番号は公開情報であり、インターネットで検索すればすぐにわかり、有料の価値はないはずだ。ほかにも、男性化を指南するテキストDVDが3枚セット6万円で販売されているという情報もあった。そして、そうしたビジネスの主体はFtMであると。
どうして、そんなビジネスが成り立つのか不思議でならず、事情通のFtMの知人に尋ねてみたところ、「世の中にはネットで病院の情報を検索できないレベルのFtM予備軍がけっこういるんですよ。三橋さんたちにとっては当たり前の情報を有料でも求めるのは、そういう情報弱者の中学生なのです」と教えられた。「でも、中学生はそんなにお金をもっていないでしょう」と尋ねると、「今は、親が金を出すのですよ。GIDが先天性のものという説が広まると、子どもは『自分がこうなのは親のせいだ』と親を責める。それを真に受けた親が金を出してしまうのです」という返事だった。
確証はないが、少なくともかなりダークな状況があるのは確かなようだ。そこには、現在、問題化している性同一性障害ビジネスの構造がよく見える。それは起業した若いFtMが、より若い情報弱者のFtMをビジネス・ターゲットにし、親に金を出させるという構造だ。先輩のFtMが同じ悩みをもつ後輩のFtM予備軍を「食い物」(金儲けの対象)し、親の心理的な弱みに付け込むやり方は倫理的にかなり問題があるビジネスだと思う。
こうした当事者が当時者を「食い物」にするビジネスは、MtFではほとんど聞いたことがない。MtFの場合、水商売にしろセックス・ワークにしろ、あるいは色仕掛けで手術費用を出させる愛人ビジネスにしろ、ビジネス・ターゲットは常に非当事者の男性だ。MtF当事者がお金を持っていないことはお互いわかっているので、ターゲットにしても仕方がないのだ。
5月6日の『朝日新聞』朝刊(東京版)に「LGBTをめぐる金銭被害を議論」という見出しで「あなたも人権講師になれる」とうたい、LGBTの当事者を高額なセミナーや相談に勧誘するビジネスの存在が報じられた。さらに、7月31日になって地元の『徳島新聞』などが詳細に報じ、それが「共同通信」で配信され、完全に表沙汰になった。
具体的には、2016年10月、徳島県を中心に人権教育関係の講演活動をしている30代のFtM(徳島県教育委員の人権教育指導員)が、東海地方在住の20代のFtMに、セミナーを受講して起業すれば、自治体の人権講師として簡単に稼げるともちかけ、高額(100万円)のセミナー契約を結ばせ、なかなか解約に応じなかったというトラブルである。ここでも先輩FtMが後輩FtMを「食い物」にする構造が見える。これまでの事例と比べて契約金が100万円、違約金の設定が500万円と金額が大きく悪質性が高い。また、自治体の「人権講座」をネタにしている点でも倫理性が問われる。
問題は、こうしたダークなアテンド、通販、セミナーなどを業務として行っているのが、ほとんどFtM系の企業・団体だということだ。なぜ、そうなってしまうのだろう。
FtMの企業家のブログなどを読むと、「デカい仕事をする」とか「一旗揚げる」とかいうフレーズをよく見かける。起業にあたって大志を抱くことは悪いことではないが、どうも古典的な「男らしい」にとらわれている感じがする。専門知識も社会経験も乏しい若者が安易に起業したところで、経営が成り立つほど世の中は甘くはない。結局、企画の貧困、期待される利潤と社会的なリスクとのアンバランス、倫理観の未熟、コンプライアンス(法令遵守)意識の希薄さなどが相まって、ダークなビジネスに手を出してしまうのではないだろうか。
そうした背景にはFtMの就労環境の悪さがあると思う。もちろん、FtMの中にも一般企業に就職したり、専門知識や資格を身につけて自営業で真っ当に働いている人はいる。しかし、残念ながら、そうでないFtMも多い。MtFの場合、企業への就職や自営が難しくても、水商売やセックス・ワークという選択もあるが、FtMにはそうした道がほとんどない。結果、行き場がなくて無理な起業に走るFtMが多くなるのではないだろうか。
まとめにかえて
日本は、世界の中で顕著にFtMの比率が高い国である。世界的にはMtFがFtMよりやや多い国がほとんどであり、その点で明らかに特異な状況であるにもかかわらず、その理由が明らかにされていない。
まったくのシスジェンダー&ヘテロセクシュアルの女性がいきなりFtM化するとは考えにくく、日本におけるFtMの増加分の資源はレズビアンだと思われる。つまり、本来ならレズビアンにとどまる人がFtMに流入しているという推測である。性的に非典型な女性をレズビアンではなくFtMに向かわせる何らかの社会圧があるということだ。その要因として、全体的な女性の生きづらさ、レズビアンの隠蔽による社会的認知の低さ、レズビアン・コミュニティの未確立、同性婚の法的不可能などが考えられる。
FtM集団は、戸籍の性別変更をしていない人まで含めると、おそらく2~3万人規模であり、その多くは20代を中心とする若年層である。かなり大きな集団があるにもかかわらず、その存在が社会的に十分に認識されていない点に根本的な問題があるように思う。
急増する若年FtMが就労の困難で社会的に行き場を失っていることが、現状におけるトランスジェンダーの青少年問題の中核だと考える。
FtM、MtFを問わず、トランスジェンダーにとっての最大の課題は就労問題である。それさえ改善されれば、全体的な状況はかなり良くなるはずだ。現状をリアルに認識した早期の解決が強く望まれる。
-------------------------------------------------------------
トランスジェンダーと青少年問題
三橋 順子
1 トランスジェンダーとは
「LGBT」のTは、トランスジェンダー(Transgender)の頭文字である。けっして性同一性障害(Gender Identity Disorder)の頭文字ではない。もしTが性同一性障害だったら「LGBT」ではなく「LGBG」になってしまう。
では、トランスジェンダーとはなんだろう。現象・行為として定義するならば、生得的な身体の性に則して社会(文化)によって規定される社会的性を強制されることを拒否し、生得的な身体の性とは逆の(別の)社会的性を学習し、それを総体的に身にまとうこと、つまり、つまり、社会的性差(Gender)を越境しようとすることである。人物として定義するならば、そうした社会的性差の越境をしばしば、もしくは定常的に行う人たちということになる。
トランスジェンダーには男性として生まれながら女性ジェンダーを身にまとうMtF(Male to Female)と、女性として生まれながら男性ジェンダーを身にまとうFtM(Female to Male)の二つの方向性がある。最近ではMtFを Trans-woman、FtMFをTrans-manと呼ぶことも増えてきた。
トランスジェンダーは、身体とジェンダーとの不一致を病理(精神疾患)とする考え方に対抗して生まれた非病理概念である。したがって、トランスジェンダーを「心と体の性が異なる人」と説明するのは、性同一性障害の定義に影響された誤りである。敢えて言えば、一致していないのは「心と体」ではなく「ジェンダーと体」である。
トランスジェンダーでは、性別を越境する理由は問わない。ジェンダーと身体の不一致に起因する性別違和感(Gender Dysphoria)が理由であることが多いが、職業的・経済的な事情であっても、定常的なジェンダーの越境が行われていればトランスジェンダーである。
身体とジェンダーを医療によって一致させることを「治療」と考える性同一性障害概念に対して、トランスジェンダー概念ではジェンダーと身体は必ずしも一致させる必要はなく、一致させるか、それとも不一致なままでいるかは自己決定に委ねられるべき問題である。
ちなみに、性別を越境するトランスジェンダーに対して、性別を越境しない人たちをシスジェンダー(Cisgender)という。
2 トランスジェンダーの現在
日本では、1998年の埼玉医科大による性別適合手術の実施をきっかけに、1990年代末から2000年代初頭にかけて性別の移行を望むことを「病」(精神疾患)ととらえる性同一性障害(GID)概念がマス・メディアを通じて広く流布され、性別移行の病理化が一気に進行した。その流れは、2003年7月の「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」の制定(2004年7月実施)に結実し、一定の要件を満たす性同一性障害者は戸籍の性別(続柄)の変更が認められるようになった。
その結果、性同一性障害の診断を得て、国内外で性別適合手術を受け、戸籍の性別を変更する人が急増した。性別違和感に悩み苦しむ人が、手術と戸籍の変更によって望みの性別での生活を実現することは、基本的には良いことである。しかし、その一方で過剰でアンバランスな医療化の弊害も出てきている。たとえば、望みの性別の身体と戸籍を得たにもかかわらず、望みの性別での社会的適応がうまくいかない人が目立つようになり、さらには性別の変更を後悔し性別を元に戻す再変更を望む人すら出てきている。
とはいえ、20世紀末から21世紀00年代の10数年間は、性同一性障害をアイデンティティにする「性同一性障害者」が数多く出現し、「性同一性障害者」のグループが社会的に強い発言力を持った、まさに「性同一性障害の時代」だった。ただし、こうした病理化の突出、性同一性障害をアイデンティティにする人々の急増は、同時期の世界と比べるとかなり特異な現象だった。
2015年頃から日本でも遅ればせながら、性的マイノリティの主な4つのカテゴリーの英語の頭文字を組み合わせてその連帯を示す「LGBT」(LはLesbian:女性同性愛者、GはGay:男性同性愛者、BはBisexual:両性愛者、TはTransgender:性別越境者))概念が広まる。それによって、LGBTの一角であるトランスジェンダーへの社会的認知が広がっていった。
また、世界に目を転ずると、2010年代に入る頃から性別移行の脱精神疾患化の流れがはっきりしてくる。2018年に予定されているWHO(世界保健機関)の疾患リスト(ICD)の改訂では「性同一性障害」という病名は国際的には消え、新設される「conditions related to sexual health(性の健康に関連する状態)」の章に「gender incongruence(性別不一致)」という病名が置かれるなど、性別越境に関係する疾患が精神疾患カテゴリーから外れる案が有力になっている。
これが実現すれば、同性愛に遅れること28年にして性別越境の脱精神疾患化が達成され、性別越境者は長い年月、精神疾患の名のもとに抑圧されてきた状態から、ようやく解放されることになる。
こうした流れの中で、かつて全盛を極めた性同一性障害者グループの活動は、この数年、急速に低下し、社会的発言力ははっきり衰退している。今後、性同一性障害という病名は完全に過去のもの(死語)となり、性別を越えて生きることを「病」ではなく、自らの性別の在り様の選択であるとするトランスジェンダーの主張が主流になっていくだろう。
3 若年FtMの急増問題
戸籍の性別変更者の人数は、2004年から2016年までの13年間で6809人に達している。これは最高裁判所が全国の家庭裁判所で変更手続きをした人数を集計したもので、きわめて信頼度が高い。日本の全人口の0.005%、18500人に1人が戸籍の性別を変更していることになる。
東京都千代田区にある「はりまメンタルクリニック」の針間克己院長は、2005~2016年の間に1273通の戸籍変更診断書を書いている。これは、同期間に戸籍の性別変更を行った6809人の約5分の1(18.6%)に相当する。
戸籍変更診断書を求める人のほとんどは、家庭裁判所に戸籍の性別変更を申し立てると推定され、そのほとんどが受理される。したがって、針間院長が執筆した戸籍変更診断書は、日本の戸籍性別変更全体のほぼ5分の1のサンプルと考えて大過ない。
最高裁判所のデータにはFtM、MtFの区分がなく、性別移行の内訳は不明だが、「はりまメンタルクリニック」の戸籍変更診断書のデータはFtM、MtFの別が示されている。そこで年ごとのFtM、MtFの比率を各年の戸籍性別変更数に当てはめて、年ごとのFtM、MtFの人数を推測し、それを合計してみた。
その結果、女性から男性への変更者(FtM)が5010人、男性から女性への変更者(MtF)が1796人となり、その比率は2.76:1と推測される。2006年まではMtF2: FtM1だったのが、2007年に一気に逆転してMtF1:FtM2になり、2010年以降はMtF1: FtM3~4で推移している。
2007年頃にいったい何が起こったのか? 理由として、FtMを対象とした「性器形状近似要件」の実質的な緩和が考えられる。つまり、ペニス形成手術をしなくても、男性ホルモンで肥大したクリトリスをマイクロペニスに見立てることで、子宮・卵巣の摘出のみで戸籍の性別変更を認める判断が、FtMの戸籍変更数の急増をもたらしたと思われる。
これに対して、戸籍の性別変更をしたMtFの実人数は長期的に見るとほとんど同じレベルで推移していて、大きな増減はない。
次に、戸籍性別変更者の年齢層に注目してみよう。「はりまメンタルクリニック」の2011~2016年の戸籍変更診断書のデータから、若年層(20歳代)の比率を推計すると、全体の61.8%が20歳代であることがわかった。MtFとFtMとでは様相がかなり異なり、MtFでは20歳代の比率は43.6%に止まるのに対し、FtMでは66.9%、つまり3分の2に達する。同期間のMtF:FtM比は全年齢層では1: 3.6であるが、20歳代限定では1:5.5となる。
2011~2016年の6年間の全戸籍変更者は4668人だが、20代のFtMは2496人と推計され、全体の53.5%が20代のFtMということになる。全戸籍変更者の50%以上が若いFtMというのは、かなり衝撃的な数値である。
つまり、性別変更者の現状は、全体の半分以上が若いFtMで占められ、若年層に限定するとFtMはMtFの5~6倍もいる。大雑把な計算だが、20代女性の約2500人に1人(0.04%)が戸籍の性別を男性に変更していることになる。
こうした現状は、性別変更に伴うさまざまな問題のかなりの部分が、若いFtMに関わる問題であることを予測させる。もちろん、MtFにもいろいろな問題はあるが、両者に共通する就労問題を別にすれば、単身高齢化問題など、むしろ中高年層に関わるものが多い。
極言すれば、トランスジェンダーの青少年問題とは、FtMの問題ということになる。
4 FtMのダークビジネス問題
近年、性同一性障害の当事者によるダークビジネス(違法とまでは言えないが質的・倫理的に問題性のあるビジネス)が表面化している。いくつか事例をあげてみよう。
2014年のGID学会第16回研究大会(那覇市)における医療ツーリズムのシンポジウムで、主にタイでの性別適合手術のアテンド(紹介・斡旋)を行う業者の問題が指摘された。
航空券の手配やホテルの予約などの代行業務をする場合、日本では旅行代理業務の資格が必要であり、また現地で病院の斡旋をする際にはタイの官庁に届け出なければならない。ところが、無資格な業者が横行し、アテンドと称しながらタイ語も英語もしゃべれず、現地の病院の日本語ができるスタッフに取り次ぐだけ、あるいは、自分が手術した病院しか紹介しない(できない)など、アテンドの質が伴わない会社があるとの指摘だった。こうした問題があるアテンド会社を経営しているのは、なぜかほとんどFtMなのだ。
2016年5月の「東京レインボープライド」のあるブースが「無料相談」をうたいながら肝心な情報は有料で、しかも法外な値段をとっているという噂が流れてきた。たとえば、「GID学会理事クラスの医師の電話番号、1万円」とか。病院の電話番号は公開情報であり、インターネットで検索すればすぐにわかり、有料の価値はないはずだ。ほかにも、男性化を指南するテキストDVDが3枚セット6万円で販売されているという情報もあった。そして、そうしたビジネスの主体はFtMであると。
どうして、そんなビジネスが成り立つのか不思議でならず、事情通のFtMの知人に尋ねてみたところ、「世の中にはネットで病院の情報を検索できないレベルのFtM予備軍がけっこういるんですよ。三橋さんたちにとっては当たり前の情報を有料でも求めるのは、そういう情報弱者の中学生なのです」と教えられた。「でも、中学生はそんなにお金をもっていないでしょう」と尋ねると、「今は、親が金を出すのですよ。GIDが先天性のものという説が広まると、子どもは『自分がこうなのは親のせいだ』と親を責める。それを真に受けた親が金を出してしまうのです」という返事だった。
確証はないが、少なくともかなりダークな状況があるのは確かなようだ。そこには、現在、問題化している性同一性障害ビジネスの構造がよく見える。それは起業した若いFtMが、より若い情報弱者のFtMをビジネス・ターゲットにし、親に金を出させるという構造だ。先輩のFtMが同じ悩みをもつ後輩のFtM予備軍を「食い物」(金儲けの対象)し、親の心理的な弱みに付け込むやり方は倫理的にかなり問題があるビジネスだと思う。
こうした当事者が当時者を「食い物」にするビジネスは、MtFではほとんど聞いたことがない。MtFの場合、水商売にしろセックス・ワークにしろ、あるいは色仕掛けで手術費用を出させる愛人ビジネスにしろ、ビジネス・ターゲットは常に非当事者の男性だ。MtF当事者がお金を持っていないことはお互いわかっているので、ターゲットにしても仕方がないのだ。
5月6日の『朝日新聞』朝刊(東京版)に「LGBTをめぐる金銭被害を議論」という見出しで「あなたも人権講師になれる」とうたい、LGBTの当事者を高額なセミナーや相談に勧誘するビジネスの存在が報じられた。さらに、7月31日になって地元の『徳島新聞』などが詳細に報じ、それが「共同通信」で配信され、完全に表沙汰になった。
具体的には、2016年10月、徳島県を中心に人権教育関係の講演活動をしている30代のFtM(徳島県教育委員の人権教育指導員)が、東海地方在住の20代のFtMに、セミナーを受講して起業すれば、自治体の人権講師として簡単に稼げるともちかけ、高額(100万円)のセミナー契約を結ばせ、なかなか解約に応じなかったというトラブルである。ここでも先輩FtMが後輩FtMを「食い物」にする構造が見える。これまでの事例と比べて契約金が100万円、違約金の設定が500万円と金額が大きく悪質性が高い。また、自治体の「人権講座」をネタにしている点でも倫理性が問われる。
問題は、こうしたダークなアテンド、通販、セミナーなどを業務として行っているのが、ほとんどFtM系の企業・団体だということだ。なぜ、そうなってしまうのだろう。
FtMの企業家のブログなどを読むと、「デカい仕事をする」とか「一旗揚げる」とかいうフレーズをよく見かける。起業にあたって大志を抱くことは悪いことではないが、どうも古典的な「男らしい」にとらわれている感じがする。専門知識も社会経験も乏しい若者が安易に起業したところで、経営が成り立つほど世の中は甘くはない。結局、企画の貧困、期待される利潤と社会的なリスクとのアンバランス、倫理観の未熟、コンプライアンス(法令遵守)意識の希薄さなどが相まって、ダークなビジネスに手を出してしまうのではないだろうか。
そうした背景にはFtMの就労環境の悪さがあると思う。もちろん、FtMの中にも一般企業に就職したり、専門知識や資格を身につけて自営業で真っ当に働いている人はいる。しかし、残念ながら、そうでないFtMも多い。MtFの場合、企業への就職や自営が難しくても、水商売やセックス・ワークという選択もあるが、FtMにはそうした道がほとんどない。結果、行き場がなくて無理な起業に走るFtMが多くなるのではないだろうか。
まとめにかえて
日本は、世界の中で顕著にFtMの比率が高い国である。世界的にはMtFがFtMよりやや多い国がほとんどであり、その点で明らかに特異な状況であるにもかかわらず、その理由が明らかにされていない。
まったくのシスジェンダー&ヘテロセクシュアルの女性がいきなりFtM化するとは考えにくく、日本におけるFtMの増加分の資源はレズビアンだと思われる。つまり、本来ならレズビアンにとどまる人がFtMに流入しているという推測である。性的に非典型な女性をレズビアンではなくFtMに向かわせる何らかの社会圧があるということだ。その要因として、全体的な女性の生きづらさ、レズビアンの隠蔽による社会的認知の低さ、レズビアン・コミュニティの未確立、同性婚の法的不可能などが考えられる。
FtM集団は、戸籍の性別変更をしていない人まで含めると、おそらく2~3万人規模であり、その多くは20代を中心とする若年層である。かなり大きな集団があるにもかかわらず、その存在が社会的に十分に認識されていない点に根本的な問題があるように思う。
急増する若年FtMが就労の困難で社会的に行き場を失っていることが、現状におけるトランスジェンダーの青少年問題の中核だと考える。
FtM、MtFを問わず、トランスジェンダーにとっての最大の課題は就労問題である。それさえ改善されれば、全体的な状況はかなり良くなるはずだ。現状をリアルに認識した早期の解決が強く望まれる。
論文「ICD-11とトランスジェンダー」(『保健の科学』2020年4月号) [論文・講演アーカイブ]
『保健の科学』(杏林書院)2020年4月号「特集・多様化する性について考える」に、
論文「ICD-11とトランスジェンダー」を執筆しました。
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ICD-11とトランスジェンダー
三橋順子
はじめに
2014年2月、タイのバンコクで開催された「WPATH(World Professional Association for Transgender Health=トランスジェンダーの健康のための世界専門職協会)」の大会に併設された連続シンポジウム「Trans People in Asia and the Pacific」には、インド、ネパール、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、ニュージーランド、トンガ、香港、中国、日本のトランスジェンダーが集り、一日も早い性別移行の脱病理化を主張した。
それから5年、2019年5月のWHO(世界保健機関)総会で「疾病及び関連保健問題の国際統計分類(International Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems)」の第11版(ICD‐11)が採択され、ようやく世界のトランスジェンダー(誕生時に指定された性別と違う性別で生活している人)の多くが待ち望んでいた性別移行の脱精神疾患化が実現した。もう私たちは精神疾患ではない。おめでとう! アジア&パシフィックの同志たち、そして欧米も含めた世界のトランスジェンダーの仲間たち。
「WPATH2014」に集ったアジア・パシフィックのトランスジェンダー
1 これまでの経緯
自己の性別に対する違和感があること、性別を移行したいと考えることを「病」と考える病理概念である「性同一性障害(Gender identity disorder)」は、1980年に採択されたアメリカ精神医学会の「精神疾患の分類と診断の手引(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)」の第3版(DSM-Ⅲ)に登場し、DSM-Ⅳ、DSM-Ⅳ-TRにも受け継がれた。
一方、ICD-10では第5章「精神および行動の障害」のグループ名(F64)として、Gender identity disorderが規定され、診断名(病名)としてはTranssexualism(性転換症)とDual-role Transvestism(両性役割服装倒錯症)が記載されていた。
1990年のICD-10で同性愛が脱病理化した流れを受けて、世界のトランスジェンダー活動家は、ICDの次の改訂での性別移行の脱病理化を目指すことになった。ICDの改訂は本来10年ごとにされるはずだが、様々な事情で遅れている間に、DSMの第4版から第5版への改訂の時期(当初の予定は2011年)が来てしまった。そこで、2010年には「TGEUは、トランスジェンダーを病気扱いすることに強く反対し、2011年のDSM改訂では、疾患リストに載ることへの批判を支援していく」という形で性同一性障害を疾病リストから外す(性別移行の脱病理化)提案がなされた(TGEU=Transgender EuropeのプレジデントStephen Whittleの声明)。
2013年5月施行のDSM-5では、残念ながら、性別移行の脱病理化は達成されなかった。それでも「Disorderだけは止めてくれ!」というトランスジェンダーの切実な声に応える形で「Gender identity disorder」から「Gender dysphoria」へ疾患名が変更された。
こうして「Gender identity disorder」はDSMから消え、そもそも診断名ではないICDと合わせて、世界で通用しているマニュアルから(大人の)病名としては消滅した。実際、Gender identity disorderは、2010年代中頃段階で世界的にはほとんど死語(過去の用語)になっていた。ところが、日本だけは「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(GID特例法)」が求める「性同一性障害」の診断書を精神科医が書き続けるという奇妙な現象が続いていた。
遅れていたICDの改訂は、当初2015年に予定されていて、冒頭に述べたWPATH2014でも、各国のトランスジェンダー活動家が改訂委員会のメンバーに活発なロビー活動を行っていた。
結局、2年さらに1年遅れて、2018年6月のWHO総会で、28年ぶりの大改定となるICD-11案が提示された。性別移行については「Gender identity disorder(性同一性障害)」という名称は疾患グループ名としても診断名としても完全に消滅し、新設された第17章「Conditions related to sexual health(性の健康に関連する状態)」に「Gender incongruence(性別不合)」が置かれ、性別移行の脱精神疾患化が達成された。第17章は、第1~16章のdisorder(疾患)とdisorderではない第18章妊娠・出産との間にあり、性別の移行を望むことは、これまでの精神疾患という位置づけに比べて、扱いが大幅に軽くなっている。
なお、ここで注意しておくべきことは、脱疾患化は脱医療化ではないということだ。SRS(Sex Reassignment Surgery=性別適合手術)など性別移行に伴う医療を受けたい人々が医療サービスを受ける権利は今後も保障される。
ICD-11は、2019年5月のWHO総会で正式採択され、トランスジェンダーは、同性愛の脱病理化(1990年のICD-10で達成)に遅れること29年にして、19世紀以来の長い年月、精神疾患の名のもとに抑圧されてきた状態から、ようやく解放されることになった。
2 子供の性別違和問題
今回のICDの性別移行に関する改訂で、最後まで揉めたのは子供の性別違和感(Gender dysphoria)をどう扱うかという問題だった。
ICD-10の「Gender identity disorder of childhood=小児期の性同一性障害」(F64.2)を引き継ぐ項目を立てるのか、それともなくすかで、専門委員の意見が真っ二つに分かれたと聞く。
前者は、性別違和感を訴える子供は現実にいるし、親や学校が診断書を求めることも多いので、それに応じる診断名・診断基準は必要だという意見。後者は思春期以前の子供の性別違和は不安定であり確定的な診断は難しく、ホルモン投与などの医療処置もとれないのだから、診断名は必要ないという意見。どちらも、それなりに論拠があり、性別移行の脱精神疾患化の方針はかなり早くに定まっていたにもかかわらず、この部分の最終的な調整がつかなかった。
結局、「Gender incongruence of childhood=子供の性別不合」という形でリストに残ることになったが、子供の性別違和をどう捉えるか、今後に問題を残すことになった。
学校保健の現場でも、性別違和を持つ児童に対しては、いたずらに診断(診断書)を求めて、急いで男児・女児どちらかに固定化するのではなく、医療のサポートも受けながら、就学継続を最優先に、当人の希望に沿った柔軟な対応をすることが望まれる。
かなり強い性別違和がある児童でも、思春期以降に違和が緩和・解消するケースは、大学における受講生の観察でもそれなりにある(緩和・解消したケースはジェンダークリニックには行かないので、医療では把握できない)。もちろん、思春期以降も違和が継続する場合も多いのだが、この問題については、早期発見はともかく、早期治療は必ずしもベストではないことを認識し、経過観察を重視すべきだと思う。
3 変更点とこれからなすべきこと
ICD-11の採択によって何が変わったのか? すでに述べたように、これまでの精神疾患という位置づけから「性の健康に関連する状態」いう形に変わったことがいちばん大きい。「性の健康に関連する状態」には他に性機能不全(勃起不全や射精不全)、性疼痛症などが含まれていて、性別不合はそれらと横並びということだ。
disorders(疾病)からconditions(状態)へという変化に伴って、診断名がGender identity disorderからGender Incongruenceに変わった。名称だけでなく、診断基準も変化している。逐条の解釈は省くが、性別移行医療の専門家である針間克己医師(はりまメンタルクリニック院長)によれば「身体違和に焦点を絞り、身体治療を希望する者を対象にしている」という。脱病理化の流れの中で「身体治療が受けられるように、全体のリストに残したという経緯を考えれば当然のこと」である。逆に言えば、身体違和が弱く社会的違和が強いタイプの性別移行は、ほぼ脱病理化されたといえるだろう。
ところで、「次のICDの改訂(ICD-11)で、性同一性障害という病名が消え、性別移行が精神疾患から外れるらしい」という情報は、DSM-5の改訂作業が進行していた2012年夏頃には日本に伝わっていた。にもかかわらず、日本の反応はかなり鈍かった。専門学会である「GID(性同一性障害)学会」は積極的な情報収集をしようとしなかったし、当事者団体は「そんなことがあるはずはない」と高をくくっていた感がある。まして海外の情報に接する機会が乏しい個々の当事者には「性同一性障害がなくなる」など思いもよらないことだった。
なぜ、海外の情報に通じた専門家の見解に耳を傾けなかったのか、そこには日本特有の事情がある。日本において性同一性障害という概念が急速に流布したのは1990年代末のことで、以後、2000年代初めにかけて、医療と法律、そしてメディアの協同によって「性同一性障害体制」とでもいうべき、性別移行を病理化したシステムが強固に確立された。その結果、日本は、世界で最も性同一性障害概念が社会に広く流布した「性同一性障害王国」になってしまった。そうした体制にどっぷり浸かっている人たちは、体制を大きく変革するような情報をことさらに無視し続けたのだ。
また、日本ではほとんど認識がないが、これほど数多くの「性同一性障害者」を名乗る人がいるのは、世界中で日本だけだ。欧米でもアジアでも性別移行の当事者のほとんどはTransgender(もしくはTranssexual)を名乗り、精神医学の専門用語(精神疾患概念)であるGender identity disorderをアイデンティティとする人はほとんどいない(そもそもGender identity disorderは人を指さない)。そうした点で、日本の状況は世界の中で特異(というか奇異)であり、Gender identity disorderという病名の消失に最も戸惑っている国ではないかと思う。
しかし、ICD-11の施行期限(2021年末)まで、もう2年足らずしかない。その間に必要な移行措置を取らなければならず、ぐずぐずしてはいられない。
まず、WHOの「脱精神疾患化」の決定を「骨抜き」にせず定着させることがなにより大事だ。具体的には、今まで日本精神神経学会が作成してきた「診断と治療のガイドライン」の改訂が必要になる。精神疾患でなくなったのだから、日本精神神経学会が主導する形は変えるのが筋だろう(現実的にはなかなか難しいと聞くが)。さらに、1995年に日本精神神経学会が「同性愛は性的逸脱とはみなさない」という声明を出したのと同様に、ICD-11が発効する2022年に「性別の移行を望むことはもはや精神疾患ではない」という公式声明を出してほしい。そうしないと、いつまでも性別移行を望むことは精神疾患という過去の認識を引きずることになりかねない。
次に、「性同一性障害」という拠り所を失った「性同一性障害者」が社会的に不利にならないように移行措置をとることが必要だ。具体的には「性同一性障害」から「性別不合」への診断書の読み替え措置をとってほしい。単なる病名の変更ではなく、位置づけも診断基準も変わるのだから、厳密にいえば再断が必要になるはずだが、それは当事者にとってあまりに酷だ。また、2018年4月から始まった性別適合手術への健康保険適用の継続が望まれる。この点については厚生労働省も理解を示していると聞く。
全体として、従来の医療福祉モデルから人権(医療を受ける権利を含む)モデルへの転換を着実に進めていくことが必要だと思う。
4 「手術要件」削除問題
2014年5月、WHOなど国連諸機関が「強制・強要された、または不本意な断種手術の廃絶を求める共同声明(Eliminating forced, coercive and otherwise involuntary sterilization - An interagency statement)」を出した。その内容は、トランスジェンダーやインターセックスの人々が、希望するジェンダーに適合する出生証明書やその他の法的書類を手に入れるために、断種手術を要件とすることは身体の完全性・自己決定の自由・人間の尊厳に反する人権侵害である、というもので、性別変更に性別適合手術を必須とする法システムは人権侵害という考え方が明確に打ち出された。
この声明は、ICD-11と直接的には関わらないが、性別移行に関するWHOの基本的な考え方がベースにある点で関係している。それは、自己決定の重視である。性別の移行にあたって重要なのは自己決定であり、法律はそれを誘導あるいは規制してはいけないし、医療は自己決定をサポートする形が望ましいということだ。
ところが、日本の「GID特例法」は、戸籍の性別変更に際して、SRSを要件にしていて、国連諸機関の共同声明に明白に抵触している。
こうした日本の性別適合手術の構造的な「強制」(性別移行を望む人はSRSを受けないと社会的に不利になるシステム)については、すでに2016年の国連女性差別撤廃員会による履行状況調査や、2017年国連人権理事会の人権状況審査で改善勧告を受けるなど問題視されていた。さらに最近になって、いっそう厳しい視線が送られるようになっている。
2019年に限っても、3月にイギリスの老舗の経済誌『The Economist』が「The Supreme Court agree that transgender people should be sterilised(最高裁判所はトランスジェンダーの人々は断種されることに同意した)」と題する日本発の記事を掲載し、性別の変更に手術が必須とされる日本の司法判断を批判的に紹介している(私のコメントも掲載された)。ほぼ同じ時期に、国際的な人権NGO「Human Rights Watch」は、「高すぎるハードル 日本の法律上の性別認定制度におけるトランスジェンダーへの人権侵害」と題する詳細な報告書(英語・日本語))をまとめている。さらに5月には、WPATHが「GID特例法」の改正(「手術要件」の撤廃)を強く要請する文書を、日本の法務省と厚労省に送付した。
ICD-11で性同一性障害という病名が消失したことにより、性同一性障害という疾患概念に立脚した法律は論拠を失うことになり、ICD-11の発効までの間に法律の手直しは必至だ。
その際、法律名称の変更は当然だが、国連諸機関の共同声明に明確に違反する「手術要件」をどうするかが、議論の大きな焦点になるだろう。私としては、国際的な人権規範に則した、世界に恥ずかしくない新たな「性別移行法」を制定して、「日本はトランスジェンダーの人権の後進国」いう批判を払拭してほしい。
おわりに
私は、2003年に「性別を越えて生きることは『病』なのか?」という論考を発表して以来、一貫して性同一性障害という病理概念と闘ってきた。16年にも及ぶ長く苦しい闘いだったが、ついに脱精神疾患化の日を迎えることができた。
WHO総会(2019年5月26日)でのICD-11正式採択の2日後の大学の講義の際、受講生が見ている前で、パワーポイントの記述を「性同一性障害がなくなる」から「性同一性障害がなくなった」に書き直した。過去形で講義ができる日がようやく来たことが実感され、感慨無量だった。
性別を移行するには程度の差はあれ医療サービスが必要だ。しかし、個々の当事者が医療に囲い込まれ、医療に依存してしまうことは好ましくない。性別の移行はあくまで自己選択・自己決定であるべきだ。医療の側は、自己決定を阻害することなく、性別移行を支援することが求められる。そして、より広く、トランスジェンダーの健康と福祉の増進という観点に立つべきだ。
より多くの性別移行を望む人たちが、病理を前提としなくても、自分の望む性別で充実した生活ができるような社会システムを作っていくことが重要だと考える。
【参考文献】
針間克己『性別違和・性別不合へ―性同一性障害から何が変わったか―』(緑風出版、2019年)
三橋順子「性別を越えて生きることは『病』なのか?」(『情況』2003年12月号、情況出版社、2003年)
三橋順子「LGBTと法律 日本における性別移行法をめぐる諸問題」(谷口洋幸編著『LGBTをめぐる法と社会』日本加除出版、2019年)
論文「ICD-11とトランスジェンダー」を執筆しました。
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ICD-11とトランスジェンダー
三橋順子
はじめに
2014年2月、タイのバンコクで開催された「WPATH(World Professional Association for Transgender Health=トランスジェンダーの健康のための世界専門職協会)」の大会に併設された連続シンポジウム「Trans People in Asia and the Pacific」には、インド、ネパール、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、ニュージーランド、トンガ、香港、中国、日本のトランスジェンダーが集り、一日も早い性別移行の脱病理化を主張した。
それから5年、2019年5月のWHO(世界保健機関)総会で「疾病及び関連保健問題の国際統計分類(International Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems)」の第11版(ICD‐11)が採択され、ようやく世界のトランスジェンダー(誕生時に指定された性別と違う性別で生活している人)の多くが待ち望んでいた性別移行の脱精神疾患化が実現した。もう私たちは精神疾患ではない。おめでとう! アジア&パシフィックの同志たち、そして欧米も含めた世界のトランスジェンダーの仲間たち。
「WPATH2014」に集ったアジア・パシフィックのトランスジェンダー
1 これまでの経緯
自己の性別に対する違和感があること、性別を移行したいと考えることを「病」と考える病理概念である「性同一性障害(Gender identity disorder)」は、1980年に採択されたアメリカ精神医学会の「精神疾患の分類と診断の手引(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)」の第3版(DSM-Ⅲ)に登場し、DSM-Ⅳ、DSM-Ⅳ-TRにも受け継がれた。
一方、ICD-10では第5章「精神および行動の障害」のグループ名(F64)として、Gender identity disorderが規定され、診断名(病名)としてはTranssexualism(性転換症)とDual-role Transvestism(両性役割服装倒錯症)が記載されていた。
1990年のICD-10で同性愛が脱病理化した流れを受けて、世界のトランスジェンダー活動家は、ICDの次の改訂での性別移行の脱病理化を目指すことになった。ICDの改訂は本来10年ごとにされるはずだが、様々な事情で遅れている間に、DSMの第4版から第5版への改訂の時期(当初の予定は2011年)が来てしまった。そこで、2010年には「TGEUは、トランスジェンダーを病気扱いすることに強く反対し、2011年のDSM改訂では、疾患リストに載ることへの批判を支援していく」という形で性同一性障害を疾病リストから外す(性別移行の脱病理化)提案がなされた(TGEU=Transgender EuropeのプレジデントStephen Whittleの声明)。
2013年5月施行のDSM-5では、残念ながら、性別移行の脱病理化は達成されなかった。それでも「Disorderだけは止めてくれ!」というトランスジェンダーの切実な声に応える形で「Gender identity disorder」から「Gender dysphoria」へ疾患名が変更された。
こうして「Gender identity disorder」はDSMから消え、そもそも診断名ではないICDと合わせて、世界で通用しているマニュアルから(大人の)病名としては消滅した。実際、Gender identity disorderは、2010年代中頃段階で世界的にはほとんど死語(過去の用語)になっていた。ところが、日本だけは「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(GID特例法)」が求める「性同一性障害」の診断書を精神科医が書き続けるという奇妙な現象が続いていた。
遅れていたICDの改訂は、当初2015年に予定されていて、冒頭に述べたWPATH2014でも、各国のトランスジェンダー活動家が改訂委員会のメンバーに活発なロビー活動を行っていた。
結局、2年さらに1年遅れて、2018年6月のWHO総会で、28年ぶりの大改定となるICD-11案が提示された。性別移行については「Gender identity disorder(性同一性障害)」という名称は疾患グループ名としても診断名としても完全に消滅し、新設された第17章「Conditions related to sexual health(性の健康に関連する状態)」に「Gender incongruence(性別不合)」が置かれ、性別移行の脱精神疾患化が達成された。第17章は、第1~16章のdisorder(疾患)とdisorderではない第18章妊娠・出産との間にあり、性別の移行を望むことは、これまでの精神疾患という位置づけに比べて、扱いが大幅に軽くなっている。
なお、ここで注意しておくべきことは、脱疾患化は脱医療化ではないということだ。SRS(Sex Reassignment Surgery=性別適合手術)など性別移行に伴う医療を受けたい人々が医療サービスを受ける権利は今後も保障される。
ICD-11は、2019年5月のWHO総会で正式採択され、トランスジェンダーは、同性愛の脱病理化(1990年のICD-10で達成)に遅れること29年にして、19世紀以来の長い年月、精神疾患の名のもとに抑圧されてきた状態から、ようやく解放されることになった。
2 子供の性別違和問題
今回のICDの性別移行に関する改訂で、最後まで揉めたのは子供の性別違和感(Gender dysphoria)をどう扱うかという問題だった。
ICD-10の「Gender identity disorder of childhood=小児期の性同一性障害」(F64.2)を引き継ぐ項目を立てるのか、それともなくすかで、専門委員の意見が真っ二つに分かれたと聞く。
前者は、性別違和感を訴える子供は現実にいるし、親や学校が診断書を求めることも多いので、それに応じる診断名・診断基準は必要だという意見。後者は思春期以前の子供の性別違和は不安定であり確定的な診断は難しく、ホルモン投与などの医療処置もとれないのだから、診断名は必要ないという意見。どちらも、それなりに論拠があり、性別移行の脱精神疾患化の方針はかなり早くに定まっていたにもかかわらず、この部分の最終的な調整がつかなかった。
結局、「Gender incongruence of childhood=子供の性別不合」という形でリストに残ることになったが、子供の性別違和をどう捉えるか、今後に問題を残すことになった。
学校保健の現場でも、性別違和を持つ児童に対しては、いたずらに診断(診断書)を求めて、急いで男児・女児どちらかに固定化するのではなく、医療のサポートも受けながら、就学継続を最優先に、当人の希望に沿った柔軟な対応をすることが望まれる。
かなり強い性別違和がある児童でも、思春期以降に違和が緩和・解消するケースは、大学における受講生の観察でもそれなりにある(緩和・解消したケースはジェンダークリニックには行かないので、医療では把握できない)。もちろん、思春期以降も違和が継続する場合も多いのだが、この問題については、早期発見はともかく、早期治療は必ずしもベストではないことを認識し、経過観察を重視すべきだと思う。
3 変更点とこれからなすべきこと
ICD-11の採択によって何が変わったのか? すでに述べたように、これまでの精神疾患という位置づけから「性の健康に関連する状態」いう形に変わったことがいちばん大きい。「性の健康に関連する状態」には他に性機能不全(勃起不全や射精不全)、性疼痛症などが含まれていて、性別不合はそれらと横並びということだ。
disorders(疾病)からconditions(状態)へという変化に伴って、診断名がGender identity disorderからGender Incongruenceに変わった。名称だけでなく、診断基準も変化している。逐条の解釈は省くが、性別移行医療の専門家である針間克己医師(はりまメンタルクリニック院長)によれば「身体違和に焦点を絞り、身体治療を希望する者を対象にしている」という。脱病理化の流れの中で「身体治療が受けられるように、全体のリストに残したという経緯を考えれば当然のこと」である。逆に言えば、身体違和が弱く社会的違和が強いタイプの性別移行は、ほぼ脱病理化されたといえるだろう。
ところで、「次のICDの改訂(ICD-11)で、性同一性障害という病名が消え、性別移行が精神疾患から外れるらしい」という情報は、DSM-5の改訂作業が進行していた2012年夏頃には日本に伝わっていた。にもかかわらず、日本の反応はかなり鈍かった。専門学会である「GID(性同一性障害)学会」は積極的な情報収集をしようとしなかったし、当事者団体は「そんなことがあるはずはない」と高をくくっていた感がある。まして海外の情報に接する機会が乏しい個々の当事者には「性同一性障害がなくなる」など思いもよらないことだった。
なぜ、海外の情報に通じた専門家の見解に耳を傾けなかったのか、そこには日本特有の事情がある。日本において性同一性障害という概念が急速に流布したのは1990年代末のことで、以後、2000年代初めにかけて、医療と法律、そしてメディアの協同によって「性同一性障害体制」とでもいうべき、性別移行を病理化したシステムが強固に確立された。その結果、日本は、世界で最も性同一性障害概念が社会に広く流布した「性同一性障害王国」になってしまった。そうした体制にどっぷり浸かっている人たちは、体制を大きく変革するような情報をことさらに無視し続けたのだ。
また、日本ではほとんど認識がないが、これほど数多くの「性同一性障害者」を名乗る人がいるのは、世界中で日本だけだ。欧米でもアジアでも性別移行の当事者のほとんどはTransgender(もしくはTranssexual)を名乗り、精神医学の専門用語(精神疾患概念)であるGender identity disorderをアイデンティティとする人はほとんどいない(そもそもGender identity disorderは人を指さない)。そうした点で、日本の状況は世界の中で特異(というか奇異)であり、Gender identity disorderという病名の消失に最も戸惑っている国ではないかと思う。
しかし、ICD-11の施行期限(2021年末)まで、もう2年足らずしかない。その間に必要な移行措置を取らなければならず、ぐずぐずしてはいられない。
まず、WHOの「脱精神疾患化」の決定を「骨抜き」にせず定着させることがなにより大事だ。具体的には、今まで日本精神神経学会が作成してきた「診断と治療のガイドライン」の改訂が必要になる。精神疾患でなくなったのだから、日本精神神経学会が主導する形は変えるのが筋だろう(現実的にはなかなか難しいと聞くが)。さらに、1995年に日本精神神経学会が「同性愛は性的逸脱とはみなさない」という声明を出したのと同様に、ICD-11が発効する2022年に「性別の移行を望むことはもはや精神疾患ではない」という公式声明を出してほしい。そうしないと、いつまでも性別移行を望むことは精神疾患という過去の認識を引きずることになりかねない。
次に、「性同一性障害」という拠り所を失った「性同一性障害者」が社会的に不利にならないように移行措置をとることが必要だ。具体的には「性同一性障害」から「性別不合」への診断書の読み替え措置をとってほしい。単なる病名の変更ではなく、位置づけも診断基準も変わるのだから、厳密にいえば再断が必要になるはずだが、それは当事者にとってあまりに酷だ。また、2018年4月から始まった性別適合手術への健康保険適用の継続が望まれる。この点については厚生労働省も理解を示していると聞く。
全体として、従来の医療福祉モデルから人権(医療を受ける権利を含む)モデルへの転換を着実に進めていくことが必要だと思う。
4 「手術要件」削除問題
2014年5月、WHOなど国連諸機関が「強制・強要された、または不本意な断種手術の廃絶を求める共同声明(Eliminating forced, coercive and otherwise involuntary sterilization - An interagency statement)」を出した。その内容は、トランスジェンダーやインターセックスの人々が、希望するジェンダーに適合する出生証明書やその他の法的書類を手に入れるために、断種手術を要件とすることは身体の完全性・自己決定の自由・人間の尊厳に反する人権侵害である、というもので、性別変更に性別適合手術を必須とする法システムは人権侵害という考え方が明確に打ち出された。
この声明は、ICD-11と直接的には関わらないが、性別移行に関するWHOの基本的な考え方がベースにある点で関係している。それは、自己決定の重視である。性別の移行にあたって重要なのは自己決定であり、法律はそれを誘導あるいは規制してはいけないし、医療は自己決定をサポートする形が望ましいということだ。
ところが、日本の「GID特例法」は、戸籍の性別変更に際して、SRSを要件にしていて、国連諸機関の共同声明に明白に抵触している。
こうした日本の性別適合手術の構造的な「強制」(性別移行を望む人はSRSを受けないと社会的に不利になるシステム)については、すでに2016年の国連女性差別撤廃員会による履行状況調査や、2017年国連人権理事会の人権状況審査で改善勧告を受けるなど問題視されていた。さらに最近になって、いっそう厳しい視線が送られるようになっている。
2019年に限っても、3月にイギリスの老舗の経済誌『The Economist』が「The Supreme Court agree that transgender people should be sterilised(最高裁判所はトランスジェンダーの人々は断種されることに同意した)」と題する日本発の記事を掲載し、性別の変更に手術が必須とされる日本の司法判断を批判的に紹介している(私のコメントも掲載された)。ほぼ同じ時期に、国際的な人権NGO「Human Rights Watch」は、「高すぎるハードル 日本の法律上の性別認定制度におけるトランスジェンダーへの人権侵害」と題する詳細な報告書(英語・日本語))をまとめている。さらに5月には、WPATHが「GID特例法」の改正(「手術要件」の撤廃)を強く要請する文書を、日本の法務省と厚労省に送付した。
ICD-11で性同一性障害という病名が消失したことにより、性同一性障害という疾患概念に立脚した法律は論拠を失うことになり、ICD-11の発効までの間に法律の手直しは必至だ。
その際、法律名称の変更は当然だが、国連諸機関の共同声明に明確に違反する「手術要件」をどうするかが、議論の大きな焦点になるだろう。私としては、国際的な人権規範に則した、世界に恥ずかしくない新たな「性別移行法」を制定して、「日本はトランスジェンダーの人権の後進国」いう批判を払拭してほしい。
おわりに
私は、2003年に「性別を越えて生きることは『病』なのか?」という論考を発表して以来、一貫して性同一性障害という病理概念と闘ってきた。16年にも及ぶ長く苦しい闘いだったが、ついに脱精神疾患化の日を迎えることができた。
WHO総会(2019年5月26日)でのICD-11正式採択の2日後の大学の講義の際、受講生が見ている前で、パワーポイントの記述を「性同一性障害がなくなる」から「性同一性障害がなくなった」に書き直した。過去形で講義ができる日がようやく来たことが実感され、感慨無量だった。
性別を移行するには程度の差はあれ医療サービスが必要だ。しかし、個々の当事者が医療に囲い込まれ、医療に依存してしまうことは好ましくない。性別の移行はあくまで自己選択・自己決定であるべきだ。医療の側は、自己決定を阻害することなく、性別移行を支援することが求められる。そして、より広く、トランスジェンダーの健康と福祉の増進という観点に立つべきだ。
より多くの性別移行を望む人たちが、病理を前提としなくても、自分の望む性別で充実した生活ができるような社会システムを作っていくことが重要だと考える。
【参考文献】
針間克己『性別違和・性別不合へ―性同一性障害から何が変わったか―』(緑風出版、2019年)
三橋順子「性別を越えて生きることは『病』なのか?」(『情況』2003年12月号、情況出版社、2003年)
三橋順子「LGBTと法律 日本における性別移行法をめぐる諸問題」(谷口洋幸編著『LGBTをめぐる法と社会』日本加除出版、2019年)
【論考】トランスジェンダー大学教員として思うこと [論文・講演アーカイブ]
この「トランスジェンダー大学教員として思うこと」は、公益財団法人日本学術協力財団の機関誌『学術の動向』2019年12月号、特集「Gender Equality 2.0からSDGsを展望する」に掲載されたものです。
内容的には、2019年7月4日の国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)&日本学術会議主催の、GS10フォローアップ2019公開シンポジウム「Gender Equality 2.0からSDGsを展望する—架け橋—」(市ヶ谷:科学技術振興機構・東京本部)でお話ししたことがベースになっている。
編集委員長である伊藤公雄先生(京都大学名誉教授・京都産業大学教授・高校の先輩)には、たいへんお世話になりました。
こうした機会をいただきましたこと、とても感謝しています。
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トランスジェンダー大学教員として思うこと
三橋順子(明治大学文学部非常勤講師)
1 トランスジェンダーがかかえる問題
トランスジェンダー(ここでは、生まれた時に指定された性別とは異なる性別で生活している人)の人生は、一般の人生のスタートが0からだとすると、マイナス50からの出発と言われます。
50のマイナス分は、自分が望む性別を獲得することに費やされます。望む性別の獲得の内実は、身体の外形を医学的な処置によって可能な限り望みの性別に近づけたり、戸籍の性別を変更するなど人によってさまざまです(すべてのトランスジェンダーが戸籍の性別変更まで望むわけではありません)。共通することは、日本のような男女二元社会(世の中には男性と女性の2つしかなく、それは生まれてから死ぬまで変化しないと認識されている社会)の中で、男女どちらかの望みの性別で(完璧でないにしても,ある程度)適合しなければならないということです。そうでなければ、社会活動がきわめて困難になります。
これだけでも相当な難事であり、その途中で倒れる人や、なんとか達成して一般の人並みの0からのスタートラインに立てた時には、もう力が残っていない人も出てきます。性別移行の途上や、性別移行達成後に自殺する人が後を絶たないのは、そういうことなのです。
やっと0からスタートして、勉学と研鑽を重ねて、いざ就職ということになると、また大きなハンデキャップがあります。トランスジェンダーであることがわかると、これまで日本の企業はまず採用しませんでした。まして、戸籍の性別変更をしていないトランスジェンダーの場合、外見上の性別と書類上の性別が異なれば、試験さえ受けさせてもらえない、実質的な「門前払い」が通例でした。
0からスタートして頑張って、一般の人と同じ100のラインまで来ても、トランスジェンダーの場合は駄目なのです。150、いや200くらいの実力があって、はじめて一般の100の人と同等になるという感じです。それは、どんなに努力をしてもトランスジェンダーであるということだけで認められなかった私の実感です。
ここまで読んで、それは女性の就労差別と似ていると思われた方がいるでしょう。たしかに構造的に似ています。女性は120くらい(あるいはもっと?)の実力があって、はじめて男性と対等という感じでしょうか。
違うのは、女性の就労差別については、それなりに社会的認知・問題認識があり、かつ「男女雇用機会均等法」という差別解消のための法的裏付けがあるのに対し、トランスジェンダーの就労差別についてはほとんど社会的認知がなく、「性別を理由として、差別的取扱いをしてはならない」としているはずの「均等法」においても実質的に対象外(想定外)だということです。
日本社会では、就労だけでなく、さまざまな分野の「ジェンダー平等」において、そもそもトランスジェンダーの存在が想定されていないのです。そして、私のような男性から女性へのトランスジェンダー(Trans-woman)の場合、トランスジェンダーへの差別と女性への差別を二重に受けることになります。
2 私の体験から
さて、私は2000年度に「三橋順子」として中央大学文学部兼任講師に任用され「現代社会研究(5)」の講義を担当しました。日本初のトランスジェンダーの大学教員ということで、初回の講義の日には、週刊誌が3つも取材に来るという騒ぎになりました。それらが店頭に並ぶとすぐに、たくさんの抗議電話が大学にかかってきました。
20世紀末までの日本のトランスジェンダーの就労は、ショービジネス(ダンサー)、飲食接客(ホステス)、性風俗産業(セックスワーカー)の3つにほぼ限定されていました。私はそれを「ニューハーフ三業種」と呼んでいますが、それらの業種に就くのなら社会的に許容されるが、それ以外の業種には就けないという状況(社会慣行)でした。ちなみに「ニューハーフ」とは商業的な(男性から女性への)トランスジェンダーを指す和製英語です。
私は、そうした社会慣行を打ち破ったので、「神聖な学問・教育の場である大学の教壇にニューハーフが立つなんて」という感じで、社会的衝撃・反発がとても大きかったのです。
2003年に都内のある中学校の授業にゲスト講師として招かれた時には、わずか1コマ(50分)の授業なのに、地元の保守系の女性団体が「ニューハーフを教壇に立たせるな!」と反対運動を展開しました。私は中学・高校(社会科)の一級教員免許を持っているのに。21世紀の初頭ですら、教育や学術の分野にトランスジェンダーが関わることに、どれだけハードルが高かったか、分かっていただけると思います
以来、20年、8つの大学で非常勤講師として講義をしてきましたが、教育面での性別に関わるトラブルはありません。講師がTrans-womanであることは、シラバス(講義要綱)に明記してあるので、そういう講師に教わりたくない学生は受講しません。ときどき、シラバスをちゃんと読まずに履修して初回のガイダンスで驚く学生はいますが、だいたい数回で慣れます。
苦い思い出は、ほとんど事務方とのトラブルです。2005年度に専論講座としては日本初となる「トランスジェンダー論」の講義を担当した、お茶の水女子大学ではトラブルの連続でした。1つは通勤費の算出のベースになる出勤簿に本名(戸籍上の男性名)で捺印するように言われたこと。もう1つは「職員録」への記載で「本名」か「本名と通称(女性名)の併記」かの選択を迫られたことです。どちらも拒否しました。なぜなら辞令は私の通称(女性名)である「三橋順子」でいただいていたからです。
「ジェンダー研究の本山」を自認する大学が「日本最初のトランスジェンダー論の講義をしてほしい」と呼んでおいて、この有様でした。前者に関しては、毎回のことなので、さすがに嫌気が差して「それなら通勤費、いただかなくて結構です。たかが720円で筋は曲げられません」と開き直ったところ、事務の人が「では、ご本名の印鑑をこちらで買って捺し直します」という、信じられないような解決になりました。
また、2012年度から「ジェンダー論」の講義を担当することになった明治大学文学部では、履歴書の性別欄でトラブルになりました。私の場合、自分のジェンダー(社会的性別)に従って「女」と書けば有印私文書不実記載になりかねないし、かといって「男」と書くのはジェンダー・アイデンティティに反するのでできません。また「男女雇用機会均等法」の趣旨からも履歴書の性別欄は不要と考えるので、性別欄は不記載(空白)にしています。
今回もそうしたところ、人事課から性別欄に「『男』と書くように」というメモが付されて履歴書が戻ってきました。私が、先に記したような空白にする理由を説明したところ、「性別欄が空白の履歴書は前例がなく受け取れない」という返事。先例がないのは当たり前で、私が「初めて」なのですから。「それでは仕方がありません、講師就任はこちらからお願いしたことではありませんので、結構です」ということで任用手続きが完全に止まってしまいました。
私がなぜ妥協しないか、それはきっと私の後に続いてくれるだろうトランスジェンダーの大学講師に悪しき先例を残したくなかったからです。それが、トランスジェンダー大学教員のパイオニアである私の責務だと考えたからです。
結局、たかが一非常勤講師の人事に、学長さんが「履歴書をそのまま受け取るように」と人事課に指示を出し、私の任用は実現しました。
3 問題解決のために必要なこと
長々と過去の事例を記したのは、通勤簿に捺す印鑑、履歴書の性別欄のような小さなものが、トランスジェンダーの就労の妨げになるということです。硬直した男女二元論のシステムによって、トランスジェンダーの就労が困難になり、能力を発揮する場が奪われている現状があるのです。
ここで気づいてほしいのは、他の6つの大学では、事務方とのトラブルはほとんどなかったことです。ある大学で、性別欄の空白について尋ねられましたが、説明をしたら納得してもらえました。つまり、わずかな配慮、システムの修正によって、トランスジェンダーの就労状況の改善は可能であるということです。
トランスジェンダーが社会に求めているのは、性別の自己決定の尊重と、その社会的承認です。なにも性別二元社会を根底から覆すような要望をしているのではありません。トランスジェンダーの存在を認識して、小さな配慮・システムの修正をしてほしいという要望です。
ここでトラブル事例として紹介した明治大学は、今では「ダイバーシティ&インクルージョン宣言」を出し、性的マイノリティ、とりわけトランスジェンダーへの配慮をマニュアル化した先進的な大学になっています。
人口減少社会である21世紀の日本社会には、性的マイノリティを排除している余裕はもうありません。性的マイノリティを排除せず多様性(ダイバーシティ)の1つとして包摂(インクルージョン)し、能力を活かしていくことが、より豊かな社会につながり、その方が日本社会にとって「得」だということです。
早い話、わずか1cm四方の性別欄にこだわって、(安い給料にもかかわらず)毎期400人前後の受講生を集める人気講師を逃すのと、システムを少し修正してその力量を活かすのと、どちらが「得」かということです。
もう一度、トランスジェンダーの人生をたどってみましょう。まず小学校~高校では、2016年4月1日の文部科学省の通達「性同一性障害や性的指向・性自認に係る、児童生徒に対するきめ細かな対応等の実施について」で、教育現場の対応が進み、かなりの改善がなされました。
大学での就学については、2015年くらいから、国際基督教大学、明治大学、早稲田大学、大阪府立大学、龍谷大学、筑波大学などでトランスジェンダー学生への対応ガイドラインが策定され、望みの性別での通称名の使用を認めるなど、積極的な対応がなされています。とりわけ2018年度から導入された筑波大学のガイドラインは、病理を前提にしない(診断書の提出を求めない)対応方針で、かつ極めて詳細なものです。今後、他大学のお手本になるでしょう。
また、お茶の水女子大学、奈良女子大学、宮城学院女子大学など、いくつかの女子大学で、2020年度以降、Trans-womanの受験生を「女子」として受け入れることになりました。
このように教育面では、この数年でトランスジェンダー学生の状況は大きく改善されています。残る障壁は就労です。就労差別さえなくなれば、トランスジェンダーの状況は間違いなく大きく改善されます。そのためには、学生を社会に送り出す大学関係者の理解とバックアップが強く求められるのです。
今回、私を「ジェンダー・サミットのフォローアップシンポ」に呼んでいただいたこと、『学術の動向』に執筆の機会をいただいたことが、日本社会におけるトランスジェンダーの存在を認識し、その状況の改善の必要性を考えていただく、きっかけになれば、たいへん幸いに思います。
内容的には、2019年7月4日の国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)&日本学術会議主催の、GS10フォローアップ2019公開シンポジウム「Gender Equality 2.0からSDGsを展望する—架け橋—」(市ヶ谷:科学技術振興機構・東京本部)でお話ししたことがベースになっている。
編集委員長である伊藤公雄先生(京都大学名誉教授・京都産業大学教授・高校の先輩)には、たいへんお世話になりました。
こうした機会をいただきましたこと、とても感謝しています。
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トランスジェンダー大学教員として思うこと
三橋順子(明治大学文学部非常勤講師)
1 トランスジェンダーがかかえる問題
トランスジェンダー(ここでは、生まれた時に指定された性別とは異なる性別で生活している人)の人生は、一般の人生のスタートが0からだとすると、マイナス50からの出発と言われます。
50のマイナス分は、自分が望む性別を獲得することに費やされます。望む性別の獲得の内実は、身体の外形を医学的な処置によって可能な限り望みの性別に近づけたり、戸籍の性別を変更するなど人によってさまざまです(すべてのトランスジェンダーが戸籍の性別変更まで望むわけではありません)。共通することは、日本のような男女二元社会(世の中には男性と女性の2つしかなく、それは生まれてから死ぬまで変化しないと認識されている社会)の中で、男女どちらかの望みの性別で(完璧でないにしても,ある程度)適合しなければならないということです。そうでなければ、社会活動がきわめて困難になります。
これだけでも相当な難事であり、その途中で倒れる人や、なんとか達成して一般の人並みの0からのスタートラインに立てた時には、もう力が残っていない人も出てきます。性別移行の途上や、性別移行達成後に自殺する人が後を絶たないのは、そういうことなのです。
やっと0からスタートして、勉学と研鑽を重ねて、いざ就職ということになると、また大きなハンデキャップがあります。トランスジェンダーであることがわかると、これまで日本の企業はまず採用しませんでした。まして、戸籍の性別変更をしていないトランスジェンダーの場合、外見上の性別と書類上の性別が異なれば、試験さえ受けさせてもらえない、実質的な「門前払い」が通例でした。
0からスタートして頑張って、一般の人と同じ100のラインまで来ても、トランスジェンダーの場合は駄目なのです。150、いや200くらいの実力があって、はじめて一般の100の人と同等になるという感じです。それは、どんなに努力をしてもトランスジェンダーであるということだけで認められなかった私の実感です。
ここまで読んで、それは女性の就労差別と似ていると思われた方がいるでしょう。たしかに構造的に似ています。女性は120くらい(あるいはもっと?)の実力があって、はじめて男性と対等という感じでしょうか。
違うのは、女性の就労差別については、それなりに社会的認知・問題認識があり、かつ「男女雇用機会均等法」という差別解消のための法的裏付けがあるのに対し、トランスジェンダーの就労差別についてはほとんど社会的認知がなく、「性別を理由として、差別的取扱いをしてはならない」としているはずの「均等法」においても実質的に対象外(想定外)だということです。
日本社会では、就労だけでなく、さまざまな分野の「ジェンダー平等」において、そもそもトランスジェンダーの存在が想定されていないのです。そして、私のような男性から女性へのトランスジェンダー(Trans-woman)の場合、トランスジェンダーへの差別と女性への差別を二重に受けることになります。
2 私の体験から
さて、私は2000年度に「三橋順子」として中央大学文学部兼任講師に任用され「現代社会研究(5)」の講義を担当しました。日本初のトランスジェンダーの大学教員ということで、初回の講義の日には、週刊誌が3つも取材に来るという騒ぎになりました。それらが店頭に並ぶとすぐに、たくさんの抗議電話が大学にかかってきました。
20世紀末までの日本のトランスジェンダーの就労は、ショービジネス(ダンサー)、飲食接客(ホステス)、性風俗産業(セックスワーカー)の3つにほぼ限定されていました。私はそれを「ニューハーフ三業種」と呼んでいますが、それらの業種に就くのなら社会的に許容されるが、それ以外の業種には就けないという状況(社会慣行)でした。ちなみに「ニューハーフ」とは商業的な(男性から女性への)トランスジェンダーを指す和製英語です。
私は、そうした社会慣行を打ち破ったので、「神聖な学問・教育の場である大学の教壇にニューハーフが立つなんて」という感じで、社会的衝撃・反発がとても大きかったのです。
2003年に都内のある中学校の授業にゲスト講師として招かれた時には、わずか1コマ(50分)の授業なのに、地元の保守系の女性団体が「ニューハーフを教壇に立たせるな!」と反対運動を展開しました。私は中学・高校(社会科)の一級教員免許を持っているのに。21世紀の初頭ですら、教育や学術の分野にトランスジェンダーが関わることに、どれだけハードルが高かったか、分かっていただけると思います
以来、20年、8つの大学で非常勤講師として講義をしてきましたが、教育面での性別に関わるトラブルはありません。講師がTrans-womanであることは、シラバス(講義要綱)に明記してあるので、そういう講師に教わりたくない学生は受講しません。ときどき、シラバスをちゃんと読まずに履修して初回のガイダンスで驚く学生はいますが、だいたい数回で慣れます。
苦い思い出は、ほとんど事務方とのトラブルです。2005年度に専論講座としては日本初となる「トランスジェンダー論」の講義を担当した、お茶の水女子大学ではトラブルの連続でした。1つは通勤費の算出のベースになる出勤簿に本名(戸籍上の男性名)で捺印するように言われたこと。もう1つは「職員録」への記載で「本名」か「本名と通称(女性名)の併記」かの選択を迫られたことです。どちらも拒否しました。なぜなら辞令は私の通称(女性名)である「三橋順子」でいただいていたからです。
「ジェンダー研究の本山」を自認する大学が「日本最初のトランスジェンダー論の講義をしてほしい」と呼んでおいて、この有様でした。前者に関しては、毎回のことなので、さすがに嫌気が差して「それなら通勤費、いただかなくて結構です。たかが720円で筋は曲げられません」と開き直ったところ、事務の人が「では、ご本名の印鑑をこちらで買って捺し直します」という、信じられないような解決になりました。
また、2012年度から「ジェンダー論」の講義を担当することになった明治大学文学部では、履歴書の性別欄でトラブルになりました。私の場合、自分のジェンダー(社会的性別)に従って「女」と書けば有印私文書不実記載になりかねないし、かといって「男」と書くのはジェンダー・アイデンティティに反するのでできません。また「男女雇用機会均等法」の趣旨からも履歴書の性別欄は不要と考えるので、性別欄は不記載(空白)にしています。
今回もそうしたところ、人事課から性別欄に「『男』と書くように」というメモが付されて履歴書が戻ってきました。私が、先に記したような空白にする理由を説明したところ、「性別欄が空白の履歴書は前例がなく受け取れない」という返事。先例がないのは当たり前で、私が「初めて」なのですから。「それでは仕方がありません、講師就任はこちらからお願いしたことではありませんので、結構です」ということで任用手続きが完全に止まってしまいました。
私がなぜ妥協しないか、それはきっと私の後に続いてくれるだろうトランスジェンダーの大学講師に悪しき先例を残したくなかったからです。それが、トランスジェンダー大学教員のパイオニアである私の責務だと考えたからです。
結局、たかが一非常勤講師の人事に、学長さんが「履歴書をそのまま受け取るように」と人事課に指示を出し、私の任用は実現しました。
3 問題解決のために必要なこと
長々と過去の事例を記したのは、通勤簿に捺す印鑑、履歴書の性別欄のような小さなものが、トランスジェンダーの就労の妨げになるということです。硬直した男女二元論のシステムによって、トランスジェンダーの就労が困難になり、能力を発揮する場が奪われている現状があるのです。
ここで気づいてほしいのは、他の6つの大学では、事務方とのトラブルはほとんどなかったことです。ある大学で、性別欄の空白について尋ねられましたが、説明をしたら納得してもらえました。つまり、わずかな配慮、システムの修正によって、トランスジェンダーの就労状況の改善は可能であるということです。
トランスジェンダーが社会に求めているのは、性別の自己決定の尊重と、その社会的承認です。なにも性別二元社会を根底から覆すような要望をしているのではありません。トランスジェンダーの存在を認識して、小さな配慮・システムの修正をしてほしいという要望です。
ここでトラブル事例として紹介した明治大学は、今では「ダイバーシティ&インクルージョン宣言」を出し、性的マイノリティ、とりわけトランスジェンダーへの配慮をマニュアル化した先進的な大学になっています。
人口減少社会である21世紀の日本社会には、性的マイノリティを排除している余裕はもうありません。性的マイノリティを排除せず多様性(ダイバーシティ)の1つとして包摂(インクルージョン)し、能力を活かしていくことが、より豊かな社会につながり、その方が日本社会にとって「得」だということです。
早い話、わずか1cm四方の性別欄にこだわって、(安い給料にもかかわらず)毎期400人前後の受講生を集める人気講師を逃すのと、システムを少し修正してその力量を活かすのと、どちらが「得」かということです。
もう一度、トランスジェンダーの人生をたどってみましょう。まず小学校~高校では、2016年4月1日の文部科学省の通達「性同一性障害や性的指向・性自認に係る、児童生徒に対するきめ細かな対応等の実施について」で、教育現場の対応が進み、かなりの改善がなされました。
大学での就学については、2015年くらいから、国際基督教大学、明治大学、早稲田大学、大阪府立大学、龍谷大学、筑波大学などでトランスジェンダー学生への対応ガイドラインが策定され、望みの性別での通称名の使用を認めるなど、積極的な対応がなされています。とりわけ2018年度から導入された筑波大学のガイドラインは、病理を前提にしない(診断書の提出を求めない)対応方針で、かつ極めて詳細なものです。今後、他大学のお手本になるでしょう。
また、お茶の水女子大学、奈良女子大学、宮城学院女子大学など、いくつかの女子大学で、2020年度以降、Trans-womanの受験生を「女子」として受け入れることになりました。
このように教育面では、この数年でトランスジェンダー学生の状況は大きく改善されています。残る障壁は就労です。就労差別さえなくなれば、トランスジェンダーの状況は間違いなく大きく改善されます。そのためには、学生を社会に送り出す大学関係者の理解とバックアップが強く求められるのです。
今回、私を「ジェンダー・サミットのフォローアップシンポ」に呼んでいただいたこと、『学術の動向』に執筆の機会をいただいたことが、日本社会におけるトランスジェンダーの存在を認識し、その状況の改善の必要性を考えていただく、きっかけになれば、たいへん幸いに思います。
【論考】新宿の「連れ込み旅館」と歌舞伎町「ラブホテル」街の形成 [論文・講演アーカイブ]
新宿の「連れ込み旅館」と歌舞伎町「ラブホテル」街の形成
三橋 順子
はじめに
1995年頃、「夜の歌舞伎町の『女』」になったばかりの駆け出しの私に、店のママがこう教えてくれた。「縦軸が区役所通り、横軸が花道通り、原点が『風林会館』前の交差点ね。で、第4象限がこの店があるホステスクラブや飲み屋の集中地域、第3象限が『コマ劇』がある歌舞伎町の中心街。ここらへんはもし何かあっても、(ヤクザに顔が利く)あたしが助けてあげられる。でも、第2象限は入ってはダメ。あそこは外国のマフィアの縄張りだから、あたしは助けてあげられない。第1象限はラブホテル街だから彼氏に連れて行ってもらいなさい」。
それから間もなく、私は材木屋の若旦那と付き合い始めた。彼との「性なる場」は、中央自動車道なら八王子、東名高速なら海老名あたりまでドライブして入る「ラブホテル」が定番だった。ある夜、時間がなくて手近の新宿歌舞伎町の「ラブホテル」に行こうということになった。「なんで、こんなにたくさんラブホがあるの!?」と驚く私に、彼が「ラブホ街はね、奥の方がサービスがいいんだよ」と教えてくれたのを覚えている。手前の方のホテルは、黙っていても客が入るので、サービスの手を抜きがちなのだそうだ。その言葉どおり、私たちは「ラブホ」街のいちばん奥(北)に近いホテルに入った。たしか「サボイ」(歌舞伎町2-5-6)という名のホテルだった。
その少しあと、訳知りの店のお客さんから「歌舞伎町のラブホ街はね、千駄ヶ谷の連れ込み旅館が東京オリンピックで立ち退きになって、それで移ってきたんだよ」という話を聞いた。その時は「へ~ぇ、そうなんだ」と素直に思った(でも、実際は違った)。
新宿の「連れ込み旅館」から「ラブホテル街」の形成までを歴史地理的にたどることにより、長年の疑問を解決しようと思う。
1 新宿の「性なる場」の特色
拙著『新宿「性なる街」の歴史地理』(註1)で述べたように、新宿は、内藤新宿の「飯盛女」に始まり、大正末期にできた「新宿遊廓」、戦後の黙認売春地区「赤線・新宿二丁目」、非合法売春地区「青線・花園三光町」を経て、現代の歌舞伎町の性風俗街まで連綿と「性なる場」が存在してきた。その点が同じ山の手エリアの盛り場、渋谷、池袋との大きな違いだ。
「連れ込み旅館」の全盛期1953~57年頃は、まだ「売春防止法」が制定される以前の「赤線」時代だ。「赤線」の全盛期は1952~53年頃で「連れ込み旅館」の全盛期より少し前だから「赤線」後期に相当する。つまり、「赤線」と「連れ込み旅館」とは同時並存なのだ。
両者の関係については、東京東部には圧倒的に「赤線」が集中し(区部13か所のうち10か所が存在)、「連れ込み旅館」の数がきわめて少なく、逆に東京西部には「赤線」が少なく(城西エリアの新宿二丁目と、城南エリアの品川、武蔵新田の3か所)、逆に「連れ込み旅館」の分布が濃密である。それらは「性なる場」を利用する階層の違い、さらに性愛文化にかなり大きな違いがあったことを思わせる。
言葉を換えるならば、東京では「赤線」と「連れ込み旅館」は住み分けていたと言っていい。その中の例外が、山の手唯一の、そして東京第3の規模をもち、老舗の「赤線」新吉原に勝るとも劣らない人気を誇った「赤線」新宿二丁目だった。
つまり、東京の中で「赤線」と「連れ込み旅館」が住み分けている状況下で、新宿において「赤線」と「連れ込み旅館」はどのような形で存在したのか? やはり住み分けていたのか、そうでないのかというテーマが設定できる。
さらに新宿の「性なる場」をややこしくしているのは、都内最大規模の非合法売春地区「青線」花園・三光町である。戦後の買売春地帯の「本家」?である「赤線」新宿二丁目をときに凌ぐくらい人気があったこの「青線」街は、10~20年?を隔てて成立する歌舞伎町の旅館・ホテル街と地理的に近い、というかほとんど隣接する。その間になにか関係はなかったのかも考えないといけない。
とはいえ、あまり先走らず、まずは新宿の「連れ込み旅館」巡りから始めよう。
2 新宿の「連れ込み旅館」の分布
私が作った「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」(註2)によると、新宿エリアに31軒の「連れ込み旅館」が確認できる。これは千駄ヶ谷の39軒、渋谷の32軒に次いで東京第3位である。
モータリゼーションの発達がまだそれほどでもない1950年代の「連れ込み旅館」の立地は鉄道の駅が基本だった。そこで新宿駅を中心に西→南→東→北と反時計回りに巡ってみよう。
(1)西口方面
現在、東京都庁を盟主とする新宿副都心の玄関口として賑わっている新宿駅西口も、1960年代までは駅の裏口という印象だった。改札を出ると広いバス乗り場があり、その向こうに街並があったが、じきに淀橋浄水場の塀に突き当たってしまう。
淀橋浄水場は1965年まで東京中心域への給水を一手に引き受けていた広大な施設で、その跡地を再開発したのが新宿副都心だ。浄水池を埋め立てずにその底を基盤にビルを建てたので、あのあたりの道路はビルの1階より高いところを通っている。ちなみに、新都心で最初の高層ビルである「京王プラザホテル」の開業が1971年、2番目の住友ビルが1974年。
バス乗り場と浄水場に挟まれた狭い一帯に4軒ほどの旅館・ホテルが点在していた。京王電鉄新宿駅の向かい、安田生命のビルの南側の道を西に進むと新宿郵便経局の斜め向かいに「旅館かどや」があった。広告には「西口下車徒歩2分 安田生命横入」とある。今も同じ場所で「かどやホテル」が営業している。
現在の「かどやホテル」はビジネスホテルだが、1950年代の「旅館かどや」も「連れ込み旅館」と言っていいのか、いささかためらいを覚える。
「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」の採録基準は、『内外タイムス』や『日本観光新聞』などの性風俗関係の頁に広告を出していること、料金設定が「お二人様(御同伴)」で「休憩(休息)」であることの2点を基準にしている(註3)。千駄ヶ谷をはじめとして多くの「連れ込み旅館」は毎週のように広告を載せるが、「かどや」の広告は1、2回しか見かけない。
そもそも、商用の客が中心の一般の旅館(古風な言い方をすれば商人宿)と「連れ込み旅館」の間に明確な線引きはない。「商人宿」的な旅館が「最近、流行りの『ご休憩』設定、儲かりそうだからウチもやってみるか」という感じで始めたケースもけっこうあったらしい(註4)。それで収益が向上して「連れ込み」専用に移行した所もあれば、逆にそれほどの収益改善がなく元の商用客中心に戻った所もあったはず。「かどや」の場合は、後者のように思う。
かどや(19541220)
何度も言うが、この頃の西口は西側が浄水場の塀で塞がれていて、東西に方向に余地が乏しい。そこで、旅館は北側に展開していた。
西口を北に行くと、歌舞伎町方面から「大ガード」を潜ってきた青梅街道が西口駅前の南北道と交差する「柏木交差点」(現:新宿大ガード西交差点)に出る。「柏木」は現在の北新宿1~4丁目の旧称だが、「角筈」や「追分」など新宿の古い地名とともに忘れられつつある。
「旅館みやこ」(19560413)は「柏木交差点ガソリンスタンド裏」とある。1962年頃現況の住宅地図には、柏木交差点の北西角にシェル石油のガソリンスタンドがある。その2ブロック西に「みやこビル」(1959年竣工)があり、すでに廃業してビル化したようだ(現在も同地に「ミヤコビル」がある)。敷地からして小さな旅館だったと思う。
「みやこ」と同じブロック、すぐ西側に「大海老旅館」があった。「みやこ」よりだいぶ規模が大きい。広告には「青梅街道北側」「新築落成」とある。以前からあった旅館が「ご休憩」客を当て込んで1954年に新館を建てたのだろう。1970年代前営業していたが、現在は「東京調理師専門学校」になっている。
みやこ 大海老旅館
(19560413) (19540530)
いかにも当時流行のおしゃれな「連れ込み」風の名前の「文化ホテル」は「西口交差点 新宿登記所前通」とある。「西口交差点」(=柏木交差点)から小滝橋通りを北に100m少し進み左に入る道を200m行ったところにあった。かなりわかりにくい場所だ。この場所は1961年頃現況の住宅地図で突き止めたのだが、1962年頃現況図では南隣の「旭旅館」と一体化している。
「らくらく」は、「文化ホテル」と同じ「新宿登記所前通」をさらに2ブロック北に行った所にあった。さらに立地は良くない。「新宿で一番安い」を売りにするのも仕方がなかっただろう。
文化ホテル らくらく
(19530925k) (19570303)
なお、1951年頃現況の「火災保険特殊地図」では、「かどや」「みやこ」「大海老」「文化ホテル」「らくらく」が確認でき、西口の「連れ込み旅館」の開業が1950年代初頭以前、戦後さほど経たない時期であることがわかる。
【地図1】柏木一丁目の旅館群(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)
【地図2】「大海老旅館」と「みやこ旅館」(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)
【地図3】「文化ホテル」と「らくらくホテル」(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)
ところで、東京都庁舎西側の広大な新宿中央公園の北西に、角筈村の鎮守社熊野神社がある。紀州の熊野三山から十二所権現を勧請したことから、この付近を「十二社」(じゅうにそう)と呼んだ。神社の西には大きな池があり、江戸時代には近郊の行楽地、近代以降は三業地として賑わった。1962年頃現況の地図でも、池の南に「十二社温泉)」があり、池の西側の高台には料亭が立ち並んでいた様子がわかる。
「連れ込み旅館」の広告の中に「十二社」を称しているものが2つある。まず「浮世荘」は、「新宿十二社池ノ上」と称し「新宿駅南口より京王帝都中野練馬行きバス2分」と案内している。しかし、1962年頃現況の地図を見ても十二社の池の近くにはそれらしきものが見当たらない。視野を広げると、甲州街道(国道20号線)のランドマークだったガスタンク(東京ガス淀橋供給所、1990年廃止。現:ホテルパークハイアット東京の敷地)の西側のブロックに見つかった。住所的には角筈三丁目で十二社とはとても言えない。
もう1軒の「抱月」も「新宿十二社の新名物」と称しているが、添えられている地図をたどると、都営角筈アパート(現:東京都新宿住宅展示場)の西側、山手通りに近い所になる。やはり住所は角筈三丁目だ。1962年頃現況図には見えないが、「浮世荘」よりさらに十二社からは遠い。
どちらも、「十二社」と称しているが、明らかに僭称だ。現代だったら、事実と異なる悪質広告として問題になると思うが、当時の規制はいたって緩かった。
浮世荘 抱月
(19570124) (19540113)
(2)南口方面
新宿駅南口は甲州街道に面しているが、実は道の向こうは新宿区ではなく渋谷区。「バスタ新宿」も住所は渋谷区千駄ヶ谷五丁目になる。とはいえ、「連れ込み旅館」は駅立地が基本なので、新宿駅を起点にしていると思われる旅館を見ていこう。
「旅館すがや」は広告に「甲州口(徒歩五十秒)とあるように、南口を出て甲州街道を横断した場所にあった。ほんとうに向かい側で50秒は嘘ではない。この一角は南口の大規模な再開発で一変しているが、都営地下鉄新宿線の2番出口があるビルが跡地になる。
「旅館豊嶋」は「甲州街道南側」とあるが、甲州街道から南へ山手線の代々木駅方面に向かう道に入り、2つ目のT字路を右(西)に入ったところにあった。1970年代後半まで営業していたが、現在は「JR九州ホテルブラッサム新宿」の敷地の一部になっている。
「羽田旅館」は「南口3分 鉄道病院裏」とある。「鉄道病院」は「中央鉄道病院」で現在の「JR東京総合病院」のこと。南口からの道筋は「鉄道病院」まで行ったら行き過ぎで、「豊嶋」がある道を西に進んだところにあった。現在は名前そのまま「羽田ビル」(1975年竣工)になっている。
広告はないが、甲州街道沿いにあった「景雲荘」と同じ名前のビジネスホテル「景雲荘」が100m南に現在する。そこは「旅館あけぼの」があった場所なのだが、もしかすると、同じ系列で移転したのかもしれない。
新宿駅南口に近い「鉄道病院」の北側・東側一帯には、1962年頃現況図で、広告がある3軒を含めて11軒ほどの旅館・ホテルが確認でき、旅館街をなしていた。それはさらに南の代々木駅周辺、さらに南東の千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街につながっていく。
すがや 豊嶋 羽田旅館
(19540521) (19570107) (19550416)
【地図4】新宿駅南口の旅館群(1962年頃現況住宅地図)
新宿駅南口方面で、行政区画的にも新宿区になるのは、新宿四丁目だけだ。ここだけが渋谷区に出っ張る形になっている。この新宿四丁目は江戸時代には徳川将軍家所縁の天竜寺の門前町(寺領)「南町」だったが、「ご瓦解」(明治維新)後は、「旭町」と名を変え、木賃宿指定地になり貧民街(スラム)化してしまう。
その状況は戦後にまで引き継がれ、戦後の混乱期、数多くの街娼が南口界隈に立っていた頃には、そうした木賃宿起源の安宿「ドヤ」が、街娼が客を連れ込む「性なる場」として利用されていた。いわゆる「パンパン宿」と呼ばれたものだ。1950~60年代にも数多くの簡易旅館が立ち並んでいたが、「連れ込み旅館」とは性格が異なるので、ここでは扱わない(註5)。
新宿四丁目には、昭和初期に斜めに町を引き裂くように明治通り(環状5号線)が設置された。「とみ田」は「新宿駅より3分 明治通り」とあるように、新宿四丁目の南部、明治通りの東側にあった。広告には「新宿の自然境」とある。たしかに南東200mほどのところに新宿御苑があるが・・・。跡地には現在「パシフィックワコービル」が建っている。1970年竣工なので、1960年代末に廃業したのだろう。
とみ田(19530731)
【地図5】新宿4丁目(旭町)の旅館群(1962年頃現況住宅地図)
【地図6】「とみた」の位置(1962年頃現況住宅地図)
(3)東口方面
新宿駅の表玄関、東口正面は、当然のことながら東を向いて、中央通りにつながっていた。南北に長い駅舎の東側に庇があり、タクシー乗り場がある。ところが、現在「東口」というと、「アルタ」の向かい側の「東口広場」をイメージする人が多くなってしまった。あそこは駅舎の妻の部分から出ていて、方角からも、本来、北口と言うべき所だ。
ということで、東口方面とは、東口正面の中央通りと、実質的なメインストリートである新宿通り(追分より西は青梅街道)の周辺ということになる。
かなり広いエリアにもかかわらず、広告が確認できるのは、わずかに3つだけ。広大な、そして新宿でもっとも繁華な一帯であるにもかかわらず、きわめて少ない。とりわけ、メインストリートである新宿通り周辺にはまったく見い出せなかった。
まず、三光町(現:新宿五丁目の西部)。「白鳳荘」は、広告に「伊勢丹裏電車大通り三光町電停前」「(駅より五分)花園神社参道右」とある。「伊勢丹裏電車大通り」は現在の靖国通りのこと。都電(11、12、13系統)の三光町停留所は、靖国通りと明治通りの交差点(現:新宿五丁目交差点)の東寄りにあった。停留所を下りれば花園神社の南参道は目の前で、鳥居をくぐって少し進んだ右手に「白鳳荘」はあった。「駅から五分」は新宿駅から、急げばそんなものか。料金の300円均一は「御同伴」はともかく「御泊」は破格に安い(新宿では「泊り」500円以上が相場)。
1962年頃現況の住宅地図には、「白鳳荘」の北側に「高島旅館」と「万葉旅館」があって小さな旅館街を形成していた。1951年頃現状の火災保険図には、「白鳳荘」はすでにあり、「万葉旅館」の場所は「OFF LMIT。」という建物になっている。OFF LMITSは性病蔓延を理由に連合国軍将兵の性的な場への立ち入りを禁止した指令(1946年3月)だが、それを逆手にとった屋号だろうか。
現在「白鳳荘」の跡地には「白鳳ビル」(1966年竣工)が建つ。しかも、敷地は南側、靖国通り沿いにまで拡大している。「連れ込み旅館」で稼いでビル経営に転身し成功した代表的な例だと思う。
白鳳荘(19560621)
続いて番衆町(現:新宿五丁目の西部)。「アカシホテル」は、広告に「素人が自分の好みで作った宿。それだけに部屋も設備も素晴らしい!サービスも素人だけに又落ち着ける」と素人っぽさを売りにしているが、やはり素人経営はうまくいかなかったのか、1962年頃現状の地図には見えない。
「番衆町35 市ヶ谷大通り☆スタンド横」とある、「市ヶ谷大通り」はやはり靖国通りのこと。「☆スタンド」は、赤い☆をマークにしていたカルテックス(日本石油)のガソリンスタンドで、1962年頃現況の住宅地図にはたしかに靖国通りに面して「日本石油KK新宿給油所」があり、その横に「旅館こまき」がある。これが「アカシホテル」の後身だろう。
「新宿白樺荘」は、別の記事に「新宿三光町電停から市ヶ谷に向い五分」とあり、こんな絵が添えられている(『内外タイムス』1954年12月23日)。長野県「蓼科温泉観光ホテル」の連絡所を兼ねているとのことなので、資本関係があったのかもしれない。ちなみに名称にわざわざ「新宿」を付けているのは、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」の老舗「白樺荘」があるためと思われる。
1962年頃現状の地図には、「アカシホテル」があったと推測される場所の北隣に「旅館白樺」が見える。現在は2つの地所を併せて「神谷ビル」(1976年竣工)になっている。
アカシホテル 新宿白樺荘
(19550417) (19541221)
新宿白樺荘のイラスト(19541223)
【地図7】番衆町の旅館群。小規模な旅館が散在する(1962年頃現況住宅地図)。
【地図8】「白樺荘」の位置(1962年頃現況住宅地図)
東口方面の広告があまりに少ないので、少し足を延ばしてみよう。番衆町の東の富久町は、元「市ヶ谷富久町」と言ったように、もう新宿とは言えないが、そこに「クインホテル」があった。広告の地図にあるように靖国通りのロータリー(現:富久町西交差点)の北東にあった。広告には「浅草行バス花園町停留所前 都電四谷四丁目下車3分、三光町下車3分」とあるが、交通の便は良くない。都電だと新宿通りを走る11、12系統の四谷四丁目停留所から北に歩くのが近い。跡地は「サウスタワー」(1995年竣工)というオフィスビルになっている。
ところで、富久町の東の市ヶ谷台(市谷本村町)には、戦時中、帝国陸軍の中枢(陸軍省、参謀本部、教育総監部)があったが、戦後の占領期には進駐軍に接収され、1959年に返還されるまで一帯は「パーシングハイツ」と呼ばれていた。広告に「ラジオ・バス・電話完備」とあるように洋式の「クインホテル」が富久町にあったのは、アメリカ軍との関係があったと思う。
クインホテル(19550708k)
靖国通りを進んできた都電13系統は、三光町の停留所を過ぎると左折して明治通りに入る。そして新田裏(現:新宿六丁目交差点)から北東方向に専用軌道になる。大久保車庫前を通過して再び路面に出たところに東大久保停留所があった。近くに「抜弁天(ぬけべんてん)」の通称で知られる厳嶋(いつくしま)神社がある。
「二条」は「伊勢丹裏三光町より飯田橋に向い四ッ目 電停東大久保牛込抜弁天下車一分」とあるように、東大久保停留所から200mほどの所にあった(電車通りではなく裏道)。住所は余丁町になるが、このあたりは、当時は鉄道の駅からも遠く、都電なくしてはありえない立地だ(現在は都営地下鉄大江戸線の若松河田駅が近い)。「高級旅荘」をうたっているが、料金を値下げして安めに設定していた。それでも経営が難しかったのか、1962年頃現状の地図では料亭になっている。
二条(19550506)
さて、例によって広告を見てきたが、東口方面はあまりに少なく、全体像がつかめない。そこで、方法を変えて、1962年頃現況の地図に見える旅館を地域ごとに数えてみた。
広いので下記のように7つのブロックに分けてみた(註6)。
① 中央通り北側、新宿通り南側、JR線東側、明治通り西側の旧「三越裏」。
② 新宿通り北側、靖国通り南側、明治通り西側の「紀伊国屋書店」や「伊勢丹」があるブロック。
③ 新宿通り北側、靖国通り南側、明治通り東側、御苑大通り西側の「末廣亭」があるブロック。
④ 新宿御苑北側、新宿通り南側、御苑大通り(延長)東側の東西に細長いブロック。
⑤ 新宿通り北側、靖国通り南側、明治通り西側の新宿二丁目「赤線」「青線」地区を含む「仲通り」周辺。
⑥ 靖国通り北側、都電回送線(現:遊歩道「四季の道」)東側、花園神社周辺の旧・三光町。
⑦ 靖国通り北側、明治通り東側、医大前通り南側の旧・番衆町。
結果は、以下の通り。
① 0軒
② 1軒
③ 3軒
④ 4軒
⑤ 3軒(「赤線」「青線」地区の転業旅館は除く)
⑥ 11軒
⑦ 15軒
つまり、新宿駅東口エリアは、一般旅館、「連れ込み旅館」を問わず、旅館が少ないのだ。とくに、駅に近いほどその傾向は顕著で、もっとも繁華な①②には合わせて1軒しかない。わかりやすく言えば、東口には「駅前旅館」がないのだ。②の大ガードに近い所に「山城屋」という商人宿っぽい屋号の小さな旅館があるだけ。③の3軒も2軒は小規模で、まずまずの規模は末広通りが靖国通りに出るあたりにあった「花菱旅館」だけ。このエリアには、進駐軍兵士専用の「連れ込み」として知られた「大和ホテル」があった。1951年頃現況の火災保険図にはみえるが、1962年頃現況図ではもう消えている。
たしかに繁華街(商業地域)は人目が多く「連れ込み旅館」に入りにくいかもしれないが、裏通りはいくらでもある。他の盛り場では、そうした繁華街の裏通りに「連れ込み旅館」があることは珍しくない。しかし、新宿にはそれがない。
こうした傾向は、私がこのあたりで遊んでいた頃(1990年代)にも気づいていた(近場でSexできる場所がない)が、これほどまではっきり傾向が出るとは思わなかった。
繁華街を外れても傾向は変わらない。1958年1月末まで「赤線」「青線」が営業していた、⑤の二丁目「仲通り」周辺も、「売春防止法」完全施行後の転業旅館(しばしば偽装転業)を除けは、小さな旅館が3軒あるだけ。同じ二丁目でも新宿通り南側の④の方が4軒とまだ多い。
「赤線」は特殊飲食店(カフェー)の2階にある女給の私室で性行為が行われるので、近隣の旅館に泊まる必要はない。「青線」は店の中の隠し部屋(多くは3階、屋根裏部屋)で性行為を行うが、女性の数だけ部屋がない場合もある。使用中で塞がっている場合は、待つか、別に用意してあるアパートの一室が使われたらしい(註7)、いずれにしても「赤線」「青線」地区に旅館がほとんどないのは必要がないからだ。
東口中心エリアから外れた、新宿駅からは遠い靖国通りの北側になると、ようやく旅館が増えてくる。「白鳳荘」が広告を出している⑥の三光町は11軒、「アカシホテル」「新宿白樺荘」のある⑦番衆町は15軒と、むしろ旅館が多い感じになる。
このエリアは、1940年代後半から50年代初頭まで、いわゆる「パンパン宿」が多かった地域だ。「パンパン宿」とは、街娼が男性客を連れ込んで性行為をするための宿で、小規模な旅館や民家の間貸しが多かった。
1949年6月現在とされる「新宿元遊廓付近図」(註9)の下の方、三光町、番衆町には多数の「パンパン宿」が描かれている。要通りや「赤線」地区の周辺の街娼たちの仕事場だったと思われる。
三光町、番衆町に散在する小規模な旅館の中には、そうした「パンパン宿」に起源をもつものがかなりあったのではないかと推測している。
さて、「赤線」「青線」があった時代(1958年以前)、新宿駅東口、あるいは都電の新宿二丁目や三光町で下車した性欲にあふれた男たちは、真っすぐに二丁目の「赤線」や、「三光町」の「青線」街を目指したはずだ。途中で街娼に引っかからない限り、彼らは旅館を必要としない。東口界隈は需要がないから「連れ込み旅館」は立地しない。
素人の女性を連れた男性は、新宿駅でも南口(もしくは西口)で下り、駅に近い「連れ込み旅館」に入るか、タクシーで千駄ヶ谷に向かう。
やはり、新宿の中でも「赤線」と「連れ込み旅館」は住み分けていたと思われる。
神崎清「新宿の夜景図―売春危険地帯を行く―」(『座談』1949年9月)
方向を示す記号が真逆になっている。実際は下が北。
(4)歌舞伎町方面
西口、南口、東口と巡ってきたので北口になるはずだが、先述したように新宿駅に北口はない。1950~60年代は、食品デパートの「二幸」(現:「アルタ」)方面への出口が実質的な北口になり、靖国通りにあった都電の新宿駅前(終点)に向かい、さらに靖国通りを渡って歌舞伎町に通じていた。
本来の歌舞伎町エリア(現:歌舞伎町一丁目)で広告が確認できるのは、「桂月荘」1軒だけで「新宿地球座裏通り」とある。「新宿地球座」は「新宿コマ劇場」(現:「新宿東宝ビル」)の西にあった「地球会館」にあった映画館(後のジョイシネマ。現:「ヒューマックスパビリオン新宿アネックス」)。1951年頃現況の火災保険地図で「地球座」の南西のブロックにあったことがわかる。しかし1962年頃現況の地図では別の建物になっている。
歌舞伎町エリアの旅館は、1962年頃現況の地図では7軒ほどで、いずれも規模は大きくない。
桂月荘(19530518)
【地図9】「桂月荘」の位置(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)
ところが、「コマ劇」の裏通り(通称:花道通り、元はカニ川の流路)を越えて西大久保1丁目(現:歌舞伎町2丁目)に入ると、急に旅館の数が増え、しかも大型化する。広告が確認できる旅館が14軒もある。例によって地域を分けてみよう
① 区役所通り西側、職安通り南側(旧:西大久保1丁目の西部、現:歌舞伎町二丁目)
② 区役所通り東側、職安通り南側(旧:西大久保1丁目の東部、現:歌舞伎町二丁目)
③ 職安通り北側、大久保通り南側(旧:西大久保二丁目、現:大久保一丁目)
①の旧:西大久保1丁目の西部には、広告が確認できる旅館がなんと9軒もある。
「お宿藤や」は「新宿区役所通り」とあるように、区役所通り沿いにあった。現在このあたりのランドマークになっている「風林会館」があるブロックで、そのやや北、坂の麓にあった。このブロックには1962年頃現況図で5軒もの旅館が群集していた。
「小町園」は「新宿歌舞伎町高台」とあるが、「コマ劇」の裏手、花道通りを渡って坂を上って2ブロック目にあった。たしかに高台だ。1962年頃現況図では「割烹」になっている。このブロックにも旅館が4軒。
「山手荘」は「歌舞伎町桜通高台」とあり、「小町園」の東隣のブロックにあった。「桜通」は、区役所通りの一つ西側の南北道のこと。このブロックにも旅館が4軒。
【地図10】「藤や」「小町園」「山手荘」の位置(1962年頃現況の住宅地図)
「双松」は「コマ劇場ウラ高台」とあるが、花道通りから数えて5つ目、「山手荘」の2つ上の桜通り西側のブロックにあった。「コマ劇ウラ」だと思ったら、かなり坂上。ここも5軒が密集。
「杵屋旅館」は「新宿歌舞伎町より二分、改正鬼王神社通り 社会保険所隣」とある。「鬼王神社」は区役所通りが職安通りにぶつかる東側にある「稲荷鬼王神社」のこと。「改正」は道路計画に基づいて拡幅・新設される道路のことで、区役所通りは、戦後の拡幅・新設なのでこう呼ばれたのだろう。つまり「改正鬼王神社通り」は区役所通りのこと。しかし、「杵屋旅館」は区役所通り沿いではない。区役所通りが職安通りにぶつかるT字路を西に行き2ブロック目に「社会保険所」(新宿社会保険出張所)があり、「杵屋旅館」はその西3軒隣だった。この広告の案内はかなりのミスリードで、たぶんたどり着けないだろう。また「歌舞伎町二分」というのも、カップルが最短ルートで坂道を駆け上らないと無理だと思う。
「新田中」は、「区役所通り坂上煙草屋横 新宿劇場通大久保病院右入」とある。東大久保一丁目界隈は、ほぼ東西、南北の道路が直交しているが、その中を明治通りから職安通りまで南東から北西に斜めに通っている道がある。現在は区役所通りで分断されているが、こちらの方が(おそらく江戸時代からある)古い道。両者が斜め交差する南側に「宮本タバコ店」があった。そこを左に「斜め道」に入って進むと、職安通りに出る直前の北側に「新田中」があった。跡地は「新田中ビル」になっている。
【地図11】「双松」「杵屋旅館」「新田中」の位置(1962年頃現況の住宅地図)
「鶴松」は、「アイレスカメラ裏通り コマ劇場裏 高台」とある。「アイレスカメラ」の工場は区役所通りの坂を上った西側にあった。その「裏通り」は例の「斜め道」のことと思われるが、1962年頃現況図には見えない
「多ま木」は「新宿大久保病院裏」とあるとおり、大久保病院の西側、西武新宿線の線路との間のブロックに「たまき」がある。このブロックにも5軒の旅館が集まっている。「たまき」は比較的小規模な旅館だが、1951年現況の「火災保険特殊地図」にすでに見える。
「若菊」は、「コマ劇 裏 大久保病院前東に入る北側」とあって地図が付いている。それによると大久保病院の東側、花道通りから2ブロック目になるはずだが、1962年頃現況図には見えない。
【地図12】「たまき」の位置(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)
お宿藤や 小町園 山手荘
(19550213) (19540521) (19550326)
双松 杵屋旅館 新田中
(19571204) (19551228) (19541024)
鶴松 多ま木
(19571229) (19530918k)
若菊(19560902)
②の旧:西大久保1丁目の東部には、広告が確認できる旅館が3軒ある。
「富士見荘」はこの時代には珍しい「完全冷房」を売りにしていた宿で、広告には「新宿駅ヨリ3分・花園神社裏」もしくは「区役所裏通り」とある。花園神社を目印に行くなら、神社と旧「青線」花園歓楽街(現:ゴールデン街・花園街)との間の南北道を北に進み、新田裏で花道通りと交差して、坂を上ったすぐの左側にあった。区役所通りからだと1本東側の道になる(これが「区役所裏通り」?」)。跡地には「ライオンズプラザ新宿」という大きなマンションが建っている。
「富士見荘」の「区役所裏通り」を挟んで向かいには「一楽荘」があった。広告に「新宿区役所通りの四角右折・医師会館隣」とあるように、北隣には「新宿区医師会館・准看護婦学校」があった。福島県の飯坂温泉「一楽荘」の東京支店ということだが、規模は小さい。
「東京ホテル」は、新宿エリアで最も頻繁に広告を出していた宿で、広告のバリエーションも多い。案内には「新宿駅東口から五分 西大久保高台」とあり、地図が添えられている。地図の「花園通り」は、先ほども触れた花園神社と旧「青線」花園歓楽街との間の南北道のこと。花道通りとの交差点から坂を上り、最初のT字路を左折すればよい。あるいは、区役所通りの坂を上がって1つ目の角を左折して裏通りに出て北に進んだ所。ホテルを称しているだけあって「全室洋間」で、設備は「スチーム(暖房)ラジオ 洗面所 電話」つきだった。
【地図13】「富士見荘」「一楽荘」「東京ホテル」の位置(1962年頃現況の住宅地図)
「東京ホテル」の広告バージョン
(19540611k) (19540730k)
(19541210k) (19550213)
富士見荘 一楽荘
(19550819k) (19571103)
③の職安通りの北側、西大久保二丁目には、広告が確認できる旅館が2軒ある。
「日本苑」は「新宿コマ劇ウラ3分」と案内している。たしかにコマ劇裏の南北道の坂を上りきり、職安通りを越えてさらに進めば着くが、3分では無理。別の広告で「自家用車にて御送迎奉仕」としていることからも、立地に恵まれていないことがわかる。
「ときわ」は明治通りと職安通りの交差点(現:新宿7丁目交差点)のさらに北、明治通りの東側にあった。広告は「トロリーバス西大久保一丁目停留所際」と、明治通りを走るトロリーバスで案内しているが、それしか交通の便はなかった(現在は東京メトロ副都心線東新宿駅のほぼ真上)。1962年頃現況の地図を見ると、かなり広大な敷地に複数の建物が立ち並んでいる。広告によれば、舞台付きの大広間や結婚式場もある新宿エリアでは珍しい「高級旅館」だったようだ。その割に「泊800円、休400円」安い。現在はホテル「相鉄フレッサイン東新宿駅前」の敷地になっている。
日本苑 ときわ
(19570302) (19550830)
【地図14】「日本苑」の位置(1962年頃現況の住宅地図)。
図の中央を東西に走るのが「職安通り」
【地図15】「ときわ」の位置(1962年頃現況の住宅地図)。
かなり大きな旅館であることがわかる。
1962年頃現況の地図に見える旅館を数えてみよう。まず①の西大久保一丁目の区役所通り西側に54軒、②の西大久保一丁目の区役所通り東側に16軒、そして③の西大久保二丁目に3軒、合計73軒となる。①は②の3倍以上で、圧倒的な旅館集中地域であることがわかった。東口方面全体の37軒に比べても、かなり多い。
すでに1960年代初頭に、歌舞伎町の北側、大久保に至る坂の麓から途中、そして坂上にかけて、巨大な旅館街が形成されていたことがわかった。
次の問題はそれがいつ頃、形成されたかということになる。この地域、戦前は比較的大きな区画に住宅が散在する閑静な高級住宅地だった。枢密院議長から内閣総理大臣(35代)になった平沼麒一郎の邸宅などがあったが、1945年5月25日の山の手大空襲でほとんど焼け野原になってしまう。
1951年頃現況の火災保険図では、坂下から坂の途中かけて「小町園」「清水」「たまき」、それといかにも進駐軍ご用達風の「GRAND HOTEL」(後に「サンテ風呂」)「京浜館ホテル」「山水楼ホテル」など10軒ほどのホテル・旅館が見えるが、坂の途中から坂上にかけてはまだ空地(焼け跡)が目立ち、大久保病院の北東に「旅館新東京」があるだけで旅館街は形成されていない。
【地図16】1951年頃の西大久保一丁目(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)
広告の出方からしても、この地域に多数の旅館が現れるのは1950年代半ば(1954~56年頃)と思われる。
つまり、歌舞伎町の北側の旅館群の形成時期は、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」群の形成とほぼ同じころ、細かく言えば数年遅れるくらいということになる。したがって、この地域の旅館群の形成を千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」群の衰退や1964年の東京オリンピックと関連付ける俗説はまったく成り立つ余地はない。歌舞伎町の北側の旅館群の形成は、この地域独自の問題として考える必要がある。
3 歌舞伎町二丁目の旅館・「ラブホテル」街の形成過程
(1)1950~1960年代の旅館群の立地理由
1950年代半ばに成立したと推測される旅館街が歌舞伎町のすぐ裏手(北側)にある以上、その立地はやはり歌舞伎町と関連して考えるべきだ。そこで、歌舞伎町の歴史を簡単に振り返ってみよう。
歌舞伎町(現:歌舞伎町一丁目)は、戦前まで淀橋区角筈一丁目の一部だった。1879年のコレラ流行に対応して避病院(伝染病専門病院。現:都立大久保病院)が東大久保に建てられたように、いたって寂しい場所だった。その後、1920年に東京府立第五高等女学校(現:中野区富士見町に移転した都立富士高校)が建てられ、周囲は閑静な住宅街になった。ところが、1945年5月25日の東京山の手大空襲で、角筈一丁目一帯も焼け野原になってしまう。
戦後、焼け野原になった地に大きな夢を描いたのが、軍に佃煮などを納入して財を築いた鈴木喜兵衛だった。彼は、終戦後すぐに旧住民に働きかけて借地権利を委ねる「復興協力会」を設立し、さらに大地主の峯島茂兵衛の協力も取り付け、大規模な区画整理をした上で劇場・映画館などを集中させる大興行街の計画を作り上げた。その目玉が歌舞伎座の誘致だった(都市計画を立案したのは建築家の石川栄耀、1893~1955年)。
1948年4月1日、角筈一丁目の靖国通り以北の地域は、町名を歌舞伎町とし(東大久保一丁目、二丁目の一部も吸収)、新たな人工的に作られた町が発足した。
しかし、結果的に、歌舞伎座の誘致は失敗し、1950年に開催した「東京文化産業博覧会」も大赤字を出し、鈴木喜兵衛の計画は頓挫してしまう。
ただ、博覧会の建物を転用して映画館街が作られ、歌舞伎座誘致の障害になった大規模建築の規制が1954年に解除されると、ようやく興行街の建設が軌道に乗り始める(そこには台湾華僑の出資協力があった)。1956年、歌舞伎座予定地(第五高等女学校跡地)に東宝が同心円状に配された三重の廻り舞台(独楽のような)を備えた大規模劇場「コマ劇場」をオープンして興行街の中核になる(註9)。
そして、戦前からの新宿の繁華街「三越裏」から客を奪い、1960年代に入ると、歌舞伎町は新宿第一の繁華街としての地位を確立し、さらには高度経済成長期の東京における新興の盛り場として台頭していく。
こうした歌舞伎町の成立史を顧みると、旅館街が形成されたと推定される1950年代中頃は、「コマ劇」開場に象徴される「盛り場」歌舞伎町の勃興期であったことがわかる。
さて、鈴木喜兵衛は、歌舞伎町の計画を打ち出すに際して「道義的繁華街」を提唱していた。つまり「盛り場」には付き物の性的な要素を排除した純粋な興行街の建設を目指した。性的なものは「新宿遊廓」の伝統を引く新宿二丁目の「赤線」に委ねればいいと考えていたのだろう。実際、なんとか出来上がった歌舞伎町中心部には「性なる場」が欠落していた。東部には歌舞伎小路、新宿センター、新天地、歌舞伎新町などの「青線」があったが、それはあくまで非合法な存在だった(註7)。
「性なる場」とは言えないまでも、遊楽の場も歌舞伎町の周辺には乏しかった。1950年代の遊楽の代表は料亭での芸者遊びだが、新宿の花街は四谷荒木町、四谷大木戸(現:四谷四丁目)、角筈十二社(現:西新宿四丁目)の3か所で、どこも歌舞伎町からは遠い。
歌舞伎町が「盛り場」として人を集めるにつれて、遊楽の場や「性なる場」の需要が高まっていったのではなかろうか。それに応じたのが、歌舞伎町の裏手の坂下の地域だったと思われる。
この地域には、割烹(料理屋)なのか旅館なのか微妙なものがいくつかある。1951年の地図には割烹とありながら1954年には旅館として広告を出し、1962年の地図にはまた割烹とある「小町園」や、広告はないが、地図上で割烹→旅館→割烹と変転する「恒松」などである。これらは割烹とも旅館ともいえる場、つまり、それなりの料理が提供され、女性も呼べて、宿泊もできる「割烹旅館」だったと思われる(ちなみに、この地域の旅館にやたらと「松」が付く屋号が多いのはなぜなのだろう?)。
歌舞伎町裏手の旅館群の始まりは、こうした食欲と性欲の両方を満たす「割烹旅館」だったのではないか。割烹旅館は基本的に食事を提供しない「連れ込み旅館」とは性格を異にする。そこで遊ぶ人もそれなりに社会的地位がある階層だったろう。
その後、歌舞伎町の「盛り場」化の進展に伴い客層は広がっていく。たとえば、映画を楽しんだ後のアベックはどこに行くのだろう。そうした需要に応じる場が必要とされ、性欲の充足に特化した「連れ込み旅館」が坂の途中、さらに坂上に展開していったのではないだろうか。
ともかく資料がなく、確実なことはわからないが、状況を踏まえながら推測してみたが、当たらずとも言え遠からずだろう。
(2)東への発展と「ラブホテル」街化
次の問題は、現代につながる「ラブホテル」群の形成過程になる。1950年代中頃に形成された旅館群が、そのまま「ラブホテル」群に発展したのなら話は簡単なのだが・・・。住宅地図で年代を追ってたどってみよう。
調査したのは、1962年、1966年、1969年、1977年、2009年の現況図である。それぞれ地図の西大久保一丁目(現:歌舞伎町二丁目)エリアにおける旅館・ホテルの数を調査した。その結果は下記のようになった。
70→72→83→73→75
45年間にわたって70~80軒で推移していて、全体数としては大きな変化はない。つまり、この地域は現代に至るまで60年以上も旅館・ホテル街としての機能を維持していることになる、これは「連れ込み旅館」群が壊滅する千駄ヶ谷や、「ラブホテル」が一極集中化する渋谷と比べて、かなり特徴的だ。
しかし、1962年現況図に見える旅館70軒中、その後も一貫して旅館・ホテルとして営業を続け2009年に至ったのは20軒に過ぎない(29%)。かなりの出入り(廃業・開業)があったことがわかる。
【地図17】1962年頃の西大久保1丁目(1962年頃現況の住宅地図)。
次にエリアを分けて、細かく検討してみよう。このエリアを南北に貫く区役所通りを軸に西部と東部に分ける。さらに便宜的にそれぞれを坂下・坂の途中・坂上に分けてみた。
62年 66年 69年 77年 09年 62年 66年 69年 77年 09年
西部 54→52→53→32→43 東部 16→20→31→41→32
坂下 12→12→ 9→ 5→ 6 坂下 7→ 7→ 8→ 7→ 9
坂中 23→21→26→15→22 坂中 7→10→16→25→18
坂上 19→19→18→12→15 坂上 2→ 3→ 7→ 9→ 5
西大久保一丁目、区役所通り西側の旅館群は1960年代中頃までは大きな変化はなかった。1966年頃現況の地図では、ほとんど旅館が健在で、姿を消したのは54軒中4軒に過ぎない。新たに登場した旅館もあり、総数は52軒となり、保たれている。
この点は、区役所通り東側の旅館群も基本的には同じである。ただ、数が16軒から20軒にやや増えている。増えたのは区役所通り東側の東部、具体的に言えば、明治通りの1つ西側の南北道(2番地と6番地の境界)の坂の途中に3軒が新規に開業し既存の3軒と合わせて6軒が道の両側に連なる形になる。
1969年頃現況図では、西側にも少し変化がみられる。「新田中」など既存の5軒が廃業するが、「小町園」のあるブロック(現:歌舞伎町二丁目11番地)北側の広い駐車場だったところに「ホテル和光」(註10)ができるなど7軒が開業するので、数は51軒から53軒と微増する。注目すべきは新規開業のほとんど(7軒中6軒)が「ホテル」を名乗っていることだ。既存の旅館の中にも、松喜旅館→ホテル松喜のように「旅館」「旅荘」から「ホテル」に名を変えるものもいくつか出てきている。ただ、「ホテル」化の兆しは見えるものの、全体から見れば、旅館・旅荘を名乗るものが4分の3以上(53軒中40軒)を占める。
これに対して、区役所通り東側はかなり大きな変化が見られる。まず、数が20軒から31軒へと大きく増加する(55%増)。まだ西側の53軒に比べれば6割ほどだが。ここでも新規開業の15軒のうち13軒が「ホテル」を名乗っている。増えた場所は坂下2軒、坂の途中9軒、坂上4軒で、坂の途中に集中している。
具体的に見てみよう。区役所通りに面した坂の途中のブロック(現:歌舞伎町2丁目11番地)には、これまで小規模な「みなと旅館」1軒しかなかったが、巨大な「ホテルLee」をはじめ、「ホテルニュー若草」「ホテル水月」「ホテル青春」「ホテル東美」の5軒のホテルが出現する。「ホテルLee」は、現在「Lee3ビル」という商業ビルになっているが、竣工は1968年とのことで、変化の始まりは1968~69年であると抑えられる。
もう1つの増加地域は、坂の途中から坂上にかけて、例の「斜め道」の両側のブロック(現:歌舞伎町2丁目6、7番地)である。「斜め道」の南側に「旅荘あおい」「ホテル栄泉」、北側に「東峰モーテル」「ホテル楽苑」の4軒が現れる。さらに「斜め道」の坂下(1、2番地)にも「ホテル清光苑」「モテル迎賓荘」の2軒ができ、「斜め道」の両側がホテル街化しつつある様子が見られる。
ここで、注目しておきたいのは「モーテル」「モテル」という名称で、地図で見る限り、この地域では1969年現況図で初めて出現する。確認できるのは6軒で、すべて区役所通り東側、さらに言えば、1966年頃現況の地図にすでに旅館が連なっていた「南北道」と「斜め道」の周辺である。
【地図18】1969年頃の「斜め道」と「南北道」付近(1969年頃現況の住宅地図)
「モーテル」は「モータリスト・ホテル」の略で、ガレージと部屋がつながっていて車ごと泊まれる、ワンルーム&ワンガレージ式の宿泊施設のことだが、日本ではもっぱら車に乗ったアベックがそのまま繰り込んでSexできる場所という意味合いが強い。連棟式(ガレージ付きの部屋が並ぶ)の「モーテル」としては、1968年に開業した横浜の「モテル京浜」が最初とのことなので、それから程なくして「モーテル」を名乗る宿が新宿二も出現したことになる(註11)。
そうした「モーテル」の性格を考えれば、なぜ、明治通り寄りの地域にだけ「モーテル」が現れたか容易に想像がつく。早い話、明治通りから直接入れるルートだからだ。
新宿方向から明治通りを北進し、新田裏の交差点(現:新宿6丁目交差点)を過ぎてすぐに、「斜め道」の入口がある。入って1つ目のX字の交差点を右(北)に入ればホテルが連なる「南北道」だ。
新田裏の交差点を左折して花道通りに入り、「風林会館」前の交差点を右折して区役所通りに入るルートより直角三角形の2辺より斜辺が短い理屈になるし、交通量的にも楽で早い。明治通りから「斜め道」のルートは、車でホテル街に向かうにはきわめて便利が良い(だから、「はじめに」の材木屋の若旦那もいつもこのルートを使っていた)。
つまり、モータリゼーションの発達が、アベック(カップル)の行動様式を変えつつあったということだ。新宿駅から歌舞伎町に来て映画を見たアベックが、徒歩で旅館街を目指していた時代から、明治通りをドライブしてきたカップルが車でホテル街を目指すような形が増えてきたということだと思う。
どうも、区役所通りの西側と東側では、「ラブホテル」街化のプロセスが違ったようだ。東側の変化が早く、すでに1960年代末にモータリゼーションの波に対応する動きが出てきていた。それに対して西側の変化は遅かった。
次に1970年代を見てみよう。ちなみに1978年7月1日、住居表示の改定にともない、西大久保一丁目は歌舞伎町二丁目になった。
【地図19】1977年頃の西大久保一丁目=歌舞伎町二丁目(1977年頃現況の住宅地図)
1977年頃現況図では旅館の軒数に大きな変化がみられる。西側は8年間に53軒から32軒と急減する(40%減)。これは旧タイプの旅館がオフィスビル化したためと思われる。たとえば、坂下の23番地には60年代5軒の旅館が密集していたが、まず「旅館志津河」があった場所に1968年に「風林会館」が建ち、ほぼ同時期に「旅館三八荘」がビル化、その後1972年頃までに「旅館藤や」と「旅館なかせ」もビル化して廃業し、残るは「Hかつむら」1軒だけになってしまった。坂の途中でも「千代の家」「ふじやま」「すみ吉」「八汐」「紫苑」「宝仙」、坂上では「伊賀」「一楽」「松の枝」「一松」「こいし」「うえき」など、1960年代初頭から営業を続けてきた、屋号からして和風と思われる旅館が廃業・ビル化している。残った32軒中20軒が「ホテル」を名乗っていることからも、旧タイプ(和風)の旅館の廃業と「ホテル化」(洋風)が急速に進行したことがわかる。
これに対して東側は31軒から41軒へと大きく増加(35%増)、初めて軒数で西側を上回った。増加が目立つのは例の「斜め道」北側」・「南北道」西側の6番地で5軒から8軒に増加する。また6番地の北側の2本目の「南北道」(6番地と14番地の境界)の東側の5番地も1軒から4軒へと急増する。この結果、2本目の南北道の東側にずらりと大型の「ラブホテル」が並ぶ景観が出現した。「はじめに」の会話がなされているのが、まさにこの道だった。
【地図20】1977年頃の「斜め道」と2本の「南北道」付近(1977年頃現況の住宅地図)
こうして、歌舞伎町2丁目の「ラブホテル」街化は1970年代に、区役所通り東側を中心に進行し、1980年代には都内有数の「ラブホテル」街となった。
その後、西側のエリアでもラブホテル化が進行し、2009年には東側32軒に対し、西側43軒と再逆転する。その経緯については本稿の目的から外れるので省略する。
(3)旧「青線」街東と「連れ込み旅館」
最後に、「はじめに」で触れた「青線」街と西大久保一丁目(現:歌舞伎町二丁目)の旅館街の関係について記しておこう。花園神社裏の「青線」花園三光町界隈の唯一の旅館は、「花園小町」(現:花園一、三、五番街)の北側にあった「花園旅館」だ。すでに1951年頃現況の火災保険地図に見える。この旅館は「青線」の隠し部屋が満員であふれた場合の、あるいは隠し部屋での「ショート」のSexではなく「泊り」でしたい客の行き場として機能していたと思われる。
ところが、1958年4月の売春防止法完全施行で、「青線」が(実際はもとかく)普通の飲み屋街になり、隠し部屋も封鎖され店内でのSexができなくなると、飲み屋で知り合った即席カップルのSexの場としての旅館の需要が高まってくる。それに応じたのが「花園旅館」や1960年代後半にその北側にできた「ホテル石川」であり、少し奥(北)の西大久保一丁目東部、坂下の旅館街だったと思われる。両者は300mほどの至近距離だった。
1980~90年代に新宿花園五番街にあった女装バー「ジュネ」(1994年に区役所通り沿いに移転)を拠点に活動していた久保島静香姐さんという方がいた(私の大先輩)。晩年「寝た男の数が女装者の勲章よ」と言っていたように性行動が活発な女装者だった。その静香姐さんの「日記(抄)」に。男性と「歌舞伎町のラブホテル優雅苑」、「行きつけの優雅苑」という記述が何回か見える。時期は1986~87年頃のこと(註12)。
「優雅苑」は1969年頃現況の住宅地図に初めて見える。場所は例の「斜め道」の北側、明治通りの1本西側の南北道の西側(歌舞伎町2丁6番地)。1969年の地図では継ぎ目に当たっていて不鮮明だが、1977年現況図では「モテル迎賓荘」と同じ敷地内にある別館のようだ(現在は「GRAND CHARIOT」という大きなラブホテルの敷地の一部)。
この「モテル迎賓荘」は、「羅錦卿」という名前からして華僑系と思われる人の邸宅をそのまま「モテル」にしたらしい(建物の形が変わっていない)。どんな雰囲気だったのか興味があるが、静香姐さんにもう話を聞けないのが残念だ。
【地図21】1969年頃の「優雅園」付近(1969年頃現況の住宅地図)
【地図22】1977年頃の「優雅園」付近(1977年頃現況の住宅地図)
おわりに
第1章では、新宿の中心街に「連れ込み旅館」がきわめて少ないこと、それは「赤線」と「連れ込み旅館」の住み分けが、少なくとも1950年代にはなされていたことを確認できた。第2章では歌舞伎町裏の旅館群の形成は1950年代半ばであり、それは歌舞伎町の「盛り場」化と連動するもので、新宿独自の理由によるものであり、千駄ヶ谷などの近隣の「連れ込み旅館」街の盛衰や東京オリンピック(1964年)と関連させる俗説は成り立たないこと、また旅館群の「ラブホテル」化は1970年代に進行したことを論証した。
私が愛する町・新宿の「謎」を解くことは、長年の念願だったが、20数年ぶりに、ようやく「宿題」を済ますことができた。
註
(註1)三橋順子『新宿「性なる街」の歴史地理』(朝日選書。2018年)
(註2)「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)は公開していないが、これを使って書いた論考として、次の3本がある。
①三橋順子「1950年代東京の『連れ込み旅館』について ―『城南の箱根』ってどこ?―」(2020年)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-08
② 三橋順子「東京・千駄ヶ谷の『連れ込み旅館』街について ―『鳩の森騒動』と旅館街の終焉―」(2020年)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-13
③ 三橋順子「坂の途中・渋谷の「性なる場」の変遷 ―「連れ込み旅館」から「ラブホテル街」の形成へ―」(2020年)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-20
(註3)三橋(註2)の①。
(註4)金益見『性愛空間の文化史』(ミネルヴァ書房、2012年)24頁
(註5)三橋(註1)書、コラム7「『旭町ドヤ街』の今昔」
(註6)ここに入っていない中央通り南側、甲州街道北側、JR線東側、明治通り西側のブロックと、新宿高校北側、新宿通り南側、明治通り東側、御苑大通り(延長)西側のブロック、そして新宿四丁目の3つは南口方面と考えた。
(註7)三橋(註1)書、第5章「新宿の「青」と「赤」―戦後における『性なる場』の再編―」
(註8)神崎清「新宿の夜景図―売春危険地帯を行く―」(『座談』1949年9月)
(註9)木村勝美『新宿歌舞伎町物語』潮出版社、1986年)、稲葉佳子・青池憲司『台湾人の歌舞伎町』(紀伊国屋書店、2017年)
(註10)1998年2月21日、「ホテル和光」でニューハーフのセックスワーカーが客の海上自衛官を刺殺するという事件が起こった。女性を買ったつもりだったのに相手がニューハーフであることを知った男性客が逆上し暴行に及んだことが発端で、偶発的・防衛的な殺人で、かなり同情すべき余地があった。別の取材を通じて知り合った『サンデー毎日』の女性記者が「現地を見たい」というのでボディーガードを兼ねて道案内したことがある。
(註11)鈴木由加里『ラブホテルの力 ―現代日本のセクシュアリティ―』(廣済堂ライブラリー、2002年)112~117頁。
(註12)矢島正見編著『おかま道を行く : 谷津瀬由美研究』(戦後日本<トランスジェンダー>社会史研究会、2000年)。谷津瀬由美は久保島静香姐さんの変名。
【備考】広告画像に付された8桁の数字は、広告が掲載された新聞の年月日を示す。
末尾に「k」があるのは『日本観光新聞』、他は『内外タイムス』。
【住宅地図】
「火災保険特殊地図 1951」(『(地図物語)あの日の新宿』武揚堂、2008年)
「東京都全住宅案内地図帳 新宿区東部 1962」(住宅協会)
「東京都全住宅案内地図帳 新宿区西部 1962」(住宅協会)
「(東京都大阪府全住宅精密図帳)新宿区 1963年度版」(住宅協会地図部)
「(東京都大阪府全住宅案内地図帳)新宿区 1967年度版」(公共施設地図株式会社)
「(全国統一地形図式航空地図全住宅案内地図帳)新宿区 1970年度版」(公共施設地図航空株式会社)
「(ゼンリンの住宅地図)新宿区 1978」(日本住宅地図出版)
「(ゼンリン住宅地図. 東京都)新宿区 2010」(ゼンリン)
三橋 順子
はじめに
1995年頃、「夜の歌舞伎町の『女』」になったばかりの駆け出しの私に、店のママがこう教えてくれた。「縦軸が区役所通り、横軸が花道通り、原点が『風林会館』前の交差点ね。で、第4象限がこの店があるホステスクラブや飲み屋の集中地域、第3象限が『コマ劇』がある歌舞伎町の中心街。ここらへんはもし何かあっても、(ヤクザに顔が利く)あたしが助けてあげられる。でも、第2象限は入ってはダメ。あそこは外国のマフィアの縄張りだから、あたしは助けてあげられない。第1象限はラブホテル街だから彼氏に連れて行ってもらいなさい」。
それから間もなく、私は材木屋の若旦那と付き合い始めた。彼との「性なる場」は、中央自動車道なら八王子、東名高速なら海老名あたりまでドライブして入る「ラブホテル」が定番だった。ある夜、時間がなくて手近の新宿歌舞伎町の「ラブホテル」に行こうということになった。「なんで、こんなにたくさんラブホがあるの!?」と驚く私に、彼が「ラブホ街はね、奥の方がサービスがいいんだよ」と教えてくれたのを覚えている。手前の方のホテルは、黙っていても客が入るので、サービスの手を抜きがちなのだそうだ。その言葉どおり、私たちは「ラブホ」街のいちばん奥(北)に近いホテルに入った。たしか「サボイ」(歌舞伎町2-5-6)という名のホテルだった。
その少しあと、訳知りの店のお客さんから「歌舞伎町のラブホ街はね、千駄ヶ谷の連れ込み旅館が東京オリンピックで立ち退きになって、それで移ってきたんだよ」という話を聞いた。その時は「へ~ぇ、そうなんだ」と素直に思った(でも、実際は違った)。
新宿の「連れ込み旅館」から「ラブホテル街」の形成までを歴史地理的にたどることにより、長年の疑問を解決しようと思う。
1 新宿の「性なる場」の特色
拙著『新宿「性なる街」の歴史地理』(註1)で述べたように、新宿は、内藤新宿の「飯盛女」に始まり、大正末期にできた「新宿遊廓」、戦後の黙認売春地区「赤線・新宿二丁目」、非合法売春地区「青線・花園三光町」を経て、現代の歌舞伎町の性風俗街まで連綿と「性なる場」が存在してきた。その点が同じ山の手エリアの盛り場、渋谷、池袋との大きな違いだ。
「連れ込み旅館」の全盛期1953~57年頃は、まだ「売春防止法」が制定される以前の「赤線」時代だ。「赤線」の全盛期は1952~53年頃で「連れ込み旅館」の全盛期より少し前だから「赤線」後期に相当する。つまり、「赤線」と「連れ込み旅館」とは同時並存なのだ。
両者の関係については、東京東部には圧倒的に「赤線」が集中し(区部13か所のうち10か所が存在)、「連れ込み旅館」の数がきわめて少なく、逆に東京西部には「赤線」が少なく(城西エリアの新宿二丁目と、城南エリアの品川、武蔵新田の3か所)、逆に「連れ込み旅館」の分布が濃密である。それらは「性なる場」を利用する階層の違い、さらに性愛文化にかなり大きな違いがあったことを思わせる。
言葉を換えるならば、東京では「赤線」と「連れ込み旅館」は住み分けていたと言っていい。その中の例外が、山の手唯一の、そして東京第3の規模をもち、老舗の「赤線」新吉原に勝るとも劣らない人気を誇った「赤線」新宿二丁目だった。
つまり、東京の中で「赤線」と「連れ込み旅館」が住み分けている状況下で、新宿において「赤線」と「連れ込み旅館」はどのような形で存在したのか? やはり住み分けていたのか、そうでないのかというテーマが設定できる。
さらに新宿の「性なる場」をややこしくしているのは、都内最大規模の非合法売春地区「青線」花園・三光町である。戦後の買売春地帯の「本家」?である「赤線」新宿二丁目をときに凌ぐくらい人気があったこの「青線」街は、10~20年?を隔てて成立する歌舞伎町の旅館・ホテル街と地理的に近い、というかほとんど隣接する。その間になにか関係はなかったのかも考えないといけない。
とはいえ、あまり先走らず、まずは新宿の「連れ込み旅館」巡りから始めよう。
2 新宿の「連れ込み旅館」の分布
私が作った「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」(註2)によると、新宿エリアに31軒の「連れ込み旅館」が確認できる。これは千駄ヶ谷の39軒、渋谷の32軒に次いで東京第3位である。
モータリゼーションの発達がまだそれほどでもない1950年代の「連れ込み旅館」の立地は鉄道の駅が基本だった。そこで新宿駅を中心に西→南→東→北と反時計回りに巡ってみよう。
(1)西口方面
現在、東京都庁を盟主とする新宿副都心の玄関口として賑わっている新宿駅西口も、1960年代までは駅の裏口という印象だった。改札を出ると広いバス乗り場があり、その向こうに街並があったが、じきに淀橋浄水場の塀に突き当たってしまう。
淀橋浄水場は1965年まで東京中心域への給水を一手に引き受けていた広大な施設で、その跡地を再開発したのが新宿副都心だ。浄水池を埋め立てずにその底を基盤にビルを建てたので、あのあたりの道路はビルの1階より高いところを通っている。ちなみに、新都心で最初の高層ビルである「京王プラザホテル」の開業が1971年、2番目の住友ビルが1974年。
バス乗り場と浄水場に挟まれた狭い一帯に4軒ほどの旅館・ホテルが点在していた。京王電鉄新宿駅の向かい、安田生命のビルの南側の道を西に進むと新宿郵便経局の斜め向かいに「旅館かどや」があった。広告には「西口下車徒歩2分 安田生命横入」とある。今も同じ場所で「かどやホテル」が営業している。
現在の「かどやホテル」はビジネスホテルだが、1950年代の「旅館かどや」も「連れ込み旅館」と言っていいのか、いささかためらいを覚える。
「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」の採録基準は、『内外タイムス』や『日本観光新聞』などの性風俗関係の頁に広告を出していること、料金設定が「お二人様(御同伴)」で「休憩(休息)」であることの2点を基準にしている(註3)。千駄ヶ谷をはじめとして多くの「連れ込み旅館」は毎週のように広告を載せるが、「かどや」の広告は1、2回しか見かけない。
そもそも、商用の客が中心の一般の旅館(古風な言い方をすれば商人宿)と「連れ込み旅館」の間に明確な線引きはない。「商人宿」的な旅館が「最近、流行りの『ご休憩』設定、儲かりそうだからウチもやってみるか」という感じで始めたケースもけっこうあったらしい(註4)。それで収益が向上して「連れ込み」専用に移行した所もあれば、逆にそれほどの収益改善がなく元の商用客中心に戻った所もあったはず。「かどや」の場合は、後者のように思う。
かどや(19541220)
何度も言うが、この頃の西口は西側が浄水場の塀で塞がれていて、東西に方向に余地が乏しい。そこで、旅館は北側に展開していた。
西口を北に行くと、歌舞伎町方面から「大ガード」を潜ってきた青梅街道が西口駅前の南北道と交差する「柏木交差点」(現:新宿大ガード西交差点)に出る。「柏木」は現在の北新宿1~4丁目の旧称だが、「角筈」や「追分」など新宿の古い地名とともに忘れられつつある。
「旅館みやこ」(19560413)は「柏木交差点ガソリンスタンド裏」とある。1962年頃現況の住宅地図には、柏木交差点の北西角にシェル石油のガソリンスタンドがある。その2ブロック西に「みやこビル」(1959年竣工)があり、すでに廃業してビル化したようだ(現在も同地に「ミヤコビル」がある)。敷地からして小さな旅館だったと思う。
「みやこ」と同じブロック、すぐ西側に「大海老旅館」があった。「みやこ」よりだいぶ規模が大きい。広告には「青梅街道北側」「新築落成」とある。以前からあった旅館が「ご休憩」客を当て込んで1954年に新館を建てたのだろう。1970年代前営業していたが、現在は「東京調理師専門学校」になっている。
みやこ 大海老旅館
(19560413) (19540530)
いかにも当時流行のおしゃれな「連れ込み」風の名前の「文化ホテル」は「西口交差点 新宿登記所前通」とある。「西口交差点」(=柏木交差点)から小滝橋通りを北に100m少し進み左に入る道を200m行ったところにあった。かなりわかりにくい場所だ。この場所は1961年頃現況の住宅地図で突き止めたのだが、1962年頃現況図では南隣の「旭旅館」と一体化している。
「らくらく」は、「文化ホテル」と同じ「新宿登記所前通」をさらに2ブロック北に行った所にあった。さらに立地は良くない。「新宿で一番安い」を売りにするのも仕方がなかっただろう。
文化ホテル らくらく
(19530925k) (19570303)
なお、1951年頃現況の「火災保険特殊地図」では、「かどや」「みやこ」「大海老」「文化ホテル」「らくらく」が確認でき、西口の「連れ込み旅館」の開業が1950年代初頭以前、戦後さほど経たない時期であることがわかる。
【地図1】柏木一丁目の旅館群(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)
【地図2】「大海老旅館」と「みやこ旅館」(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)
【地図3】「文化ホテル」と「らくらくホテル」(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)
ところで、東京都庁舎西側の広大な新宿中央公園の北西に、角筈村の鎮守社熊野神社がある。紀州の熊野三山から十二所権現を勧請したことから、この付近を「十二社」(じゅうにそう)と呼んだ。神社の西には大きな池があり、江戸時代には近郊の行楽地、近代以降は三業地として賑わった。1962年頃現況の地図でも、池の南に「十二社温泉)」があり、池の西側の高台には料亭が立ち並んでいた様子がわかる。
「連れ込み旅館」の広告の中に「十二社」を称しているものが2つある。まず「浮世荘」は、「新宿十二社池ノ上」と称し「新宿駅南口より京王帝都中野練馬行きバス2分」と案内している。しかし、1962年頃現況の地図を見ても十二社の池の近くにはそれらしきものが見当たらない。視野を広げると、甲州街道(国道20号線)のランドマークだったガスタンク(東京ガス淀橋供給所、1990年廃止。現:ホテルパークハイアット東京の敷地)の西側のブロックに見つかった。住所的には角筈三丁目で十二社とはとても言えない。
もう1軒の「抱月」も「新宿十二社の新名物」と称しているが、添えられている地図をたどると、都営角筈アパート(現:東京都新宿住宅展示場)の西側、山手通りに近い所になる。やはり住所は角筈三丁目だ。1962年頃現況図には見えないが、「浮世荘」よりさらに十二社からは遠い。
どちらも、「十二社」と称しているが、明らかに僭称だ。現代だったら、事実と異なる悪質広告として問題になると思うが、当時の規制はいたって緩かった。
浮世荘 抱月
(19570124) (19540113)
(2)南口方面
新宿駅南口は甲州街道に面しているが、実は道の向こうは新宿区ではなく渋谷区。「バスタ新宿」も住所は渋谷区千駄ヶ谷五丁目になる。とはいえ、「連れ込み旅館」は駅立地が基本なので、新宿駅を起点にしていると思われる旅館を見ていこう。
「旅館すがや」は広告に「甲州口(徒歩五十秒)とあるように、南口を出て甲州街道を横断した場所にあった。ほんとうに向かい側で50秒は嘘ではない。この一角は南口の大規模な再開発で一変しているが、都営地下鉄新宿線の2番出口があるビルが跡地になる。
「旅館豊嶋」は「甲州街道南側」とあるが、甲州街道から南へ山手線の代々木駅方面に向かう道に入り、2つ目のT字路を右(西)に入ったところにあった。1970年代後半まで営業していたが、現在は「JR九州ホテルブラッサム新宿」の敷地の一部になっている。
「羽田旅館」は「南口3分 鉄道病院裏」とある。「鉄道病院」は「中央鉄道病院」で現在の「JR東京総合病院」のこと。南口からの道筋は「鉄道病院」まで行ったら行き過ぎで、「豊嶋」がある道を西に進んだところにあった。現在は名前そのまま「羽田ビル」(1975年竣工)になっている。
広告はないが、甲州街道沿いにあった「景雲荘」と同じ名前のビジネスホテル「景雲荘」が100m南に現在する。そこは「旅館あけぼの」があった場所なのだが、もしかすると、同じ系列で移転したのかもしれない。
新宿駅南口に近い「鉄道病院」の北側・東側一帯には、1962年頃現況図で、広告がある3軒を含めて11軒ほどの旅館・ホテルが確認でき、旅館街をなしていた。それはさらに南の代々木駅周辺、さらに南東の千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街につながっていく。
すがや 豊嶋 羽田旅館
(19540521) (19570107) (19550416)
【地図4】新宿駅南口の旅館群(1962年頃現況住宅地図)
新宿駅南口方面で、行政区画的にも新宿区になるのは、新宿四丁目だけだ。ここだけが渋谷区に出っ張る形になっている。この新宿四丁目は江戸時代には徳川将軍家所縁の天竜寺の門前町(寺領)「南町」だったが、「ご瓦解」(明治維新)後は、「旭町」と名を変え、木賃宿指定地になり貧民街(スラム)化してしまう。
その状況は戦後にまで引き継がれ、戦後の混乱期、数多くの街娼が南口界隈に立っていた頃には、そうした木賃宿起源の安宿「ドヤ」が、街娼が客を連れ込む「性なる場」として利用されていた。いわゆる「パンパン宿」と呼ばれたものだ。1950~60年代にも数多くの簡易旅館が立ち並んでいたが、「連れ込み旅館」とは性格が異なるので、ここでは扱わない(註5)。
新宿四丁目には、昭和初期に斜めに町を引き裂くように明治通り(環状5号線)が設置された。「とみ田」は「新宿駅より3分 明治通り」とあるように、新宿四丁目の南部、明治通りの東側にあった。広告には「新宿の自然境」とある。たしかに南東200mほどのところに新宿御苑があるが・・・。跡地には現在「パシフィックワコービル」が建っている。1970年竣工なので、1960年代末に廃業したのだろう。
とみ田(19530731)
【地図5】新宿4丁目(旭町)の旅館群(1962年頃現況住宅地図)
【地図6】「とみた」の位置(1962年頃現況住宅地図)
(3)東口方面
新宿駅の表玄関、東口正面は、当然のことながら東を向いて、中央通りにつながっていた。南北に長い駅舎の東側に庇があり、タクシー乗り場がある。ところが、現在「東口」というと、「アルタ」の向かい側の「東口広場」をイメージする人が多くなってしまった。あそこは駅舎の妻の部分から出ていて、方角からも、本来、北口と言うべき所だ。
ということで、東口方面とは、東口正面の中央通りと、実質的なメインストリートである新宿通り(追分より西は青梅街道)の周辺ということになる。
かなり広いエリアにもかかわらず、広告が確認できるのは、わずかに3つだけ。広大な、そして新宿でもっとも繁華な一帯であるにもかかわらず、きわめて少ない。とりわけ、メインストリートである新宿通り周辺にはまったく見い出せなかった。
まず、三光町(現:新宿五丁目の西部)。「白鳳荘」は、広告に「伊勢丹裏電車大通り三光町電停前」「(駅より五分)花園神社参道右」とある。「伊勢丹裏電車大通り」は現在の靖国通りのこと。都電(11、12、13系統)の三光町停留所は、靖国通りと明治通りの交差点(現:新宿五丁目交差点)の東寄りにあった。停留所を下りれば花園神社の南参道は目の前で、鳥居をくぐって少し進んだ右手に「白鳳荘」はあった。「駅から五分」は新宿駅から、急げばそんなものか。料金の300円均一は「御同伴」はともかく「御泊」は破格に安い(新宿では「泊り」500円以上が相場)。
1962年頃現況の住宅地図には、「白鳳荘」の北側に「高島旅館」と「万葉旅館」があって小さな旅館街を形成していた。1951年頃現状の火災保険図には、「白鳳荘」はすでにあり、「万葉旅館」の場所は「OFF LMIT。」という建物になっている。OFF LMITSは性病蔓延を理由に連合国軍将兵の性的な場への立ち入りを禁止した指令(1946年3月)だが、それを逆手にとった屋号だろうか。
現在「白鳳荘」の跡地には「白鳳ビル」(1966年竣工)が建つ。しかも、敷地は南側、靖国通り沿いにまで拡大している。「連れ込み旅館」で稼いでビル経営に転身し成功した代表的な例だと思う。
白鳳荘(19560621)
続いて番衆町(現:新宿五丁目の西部)。「アカシホテル」は、広告に「素人が自分の好みで作った宿。それだけに部屋も設備も素晴らしい!サービスも素人だけに又落ち着ける」と素人っぽさを売りにしているが、やはり素人経営はうまくいかなかったのか、1962年頃現状の地図には見えない。
「番衆町35 市ヶ谷大通り☆スタンド横」とある、「市ヶ谷大通り」はやはり靖国通りのこと。「☆スタンド」は、赤い☆をマークにしていたカルテックス(日本石油)のガソリンスタンドで、1962年頃現況の住宅地図にはたしかに靖国通りに面して「日本石油KK新宿給油所」があり、その横に「旅館こまき」がある。これが「アカシホテル」の後身だろう。
「新宿白樺荘」は、別の記事に「新宿三光町電停から市ヶ谷に向い五分」とあり、こんな絵が添えられている(『内外タイムス』1954年12月23日)。長野県「蓼科温泉観光ホテル」の連絡所を兼ねているとのことなので、資本関係があったのかもしれない。ちなみに名称にわざわざ「新宿」を付けているのは、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」の老舗「白樺荘」があるためと思われる。
1962年頃現状の地図には、「アカシホテル」があったと推測される場所の北隣に「旅館白樺」が見える。現在は2つの地所を併せて「神谷ビル」(1976年竣工)になっている。
アカシホテル 新宿白樺荘
(19550417) (19541221)
新宿白樺荘のイラスト(19541223)
【地図7】番衆町の旅館群。小規模な旅館が散在する(1962年頃現況住宅地図)。
【地図8】「白樺荘」の位置(1962年頃現況住宅地図)
東口方面の広告があまりに少ないので、少し足を延ばしてみよう。番衆町の東の富久町は、元「市ヶ谷富久町」と言ったように、もう新宿とは言えないが、そこに「クインホテル」があった。広告の地図にあるように靖国通りのロータリー(現:富久町西交差点)の北東にあった。広告には「浅草行バス花園町停留所前 都電四谷四丁目下車3分、三光町下車3分」とあるが、交通の便は良くない。都電だと新宿通りを走る11、12系統の四谷四丁目停留所から北に歩くのが近い。跡地は「サウスタワー」(1995年竣工)というオフィスビルになっている。
ところで、富久町の東の市ヶ谷台(市谷本村町)には、戦時中、帝国陸軍の中枢(陸軍省、参謀本部、教育総監部)があったが、戦後の占領期には進駐軍に接収され、1959年に返還されるまで一帯は「パーシングハイツ」と呼ばれていた。広告に「ラジオ・バス・電話完備」とあるように洋式の「クインホテル」が富久町にあったのは、アメリカ軍との関係があったと思う。
クインホテル(19550708k)
靖国通りを進んできた都電13系統は、三光町の停留所を過ぎると左折して明治通りに入る。そして新田裏(現:新宿六丁目交差点)から北東方向に専用軌道になる。大久保車庫前を通過して再び路面に出たところに東大久保停留所があった。近くに「抜弁天(ぬけべんてん)」の通称で知られる厳嶋(いつくしま)神社がある。
「二条」は「伊勢丹裏三光町より飯田橋に向い四ッ目 電停東大久保牛込抜弁天下車一分」とあるように、東大久保停留所から200mほどの所にあった(電車通りではなく裏道)。住所は余丁町になるが、このあたりは、当時は鉄道の駅からも遠く、都電なくしてはありえない立地だ(現在は都営地下鉄大江戸線の若松河田駅が近い)。「高級旅荘」をうたっているが、料金を値下げして安めに設定していた。それでも経営が難しかったのか、1962年頃現状の地図では料亭になっている。
二条(19550506)
さて、例によって広告を見てきたが、東口方面はあまりに少なく、全体像がつかめない。そこで、方法を変えて、1962年頃現況の地図に見える旅館を地域ごとに数えてみた。
広いので下記のように7つのブロックに分けてみた(註6)。
① 中央通り北側、新宿通り南側、JR線東側、明治通り西側の旧「三越裏」。
② 新宿通り北側、靖国通り南側、明治通り西側の「紀伊国屋書店」や「伊勢丹」があるブロック。
③ 新宿通り北側、靖国通り南側、明治通り東側、御苑大通り西側の「末廣亭」があるブロック。
④ 新宿御苑北側、新宿通り南側、御苑大通り(延長)東側の東西に細長いブロック。
⑤ 新宿通り北側、靖国通り南側、明治通り西側の新宿二丁目「赤線」「青線」地区を含む「仲通り」周辺。
⑥ 靖国通り北側、都電回送線(現:遊歩道「四季の道」)東側、花園神社周辺の旧・三光町。
⑦ 靖国通り北側、明治通り東側、医大前通り南側の旧・番衆町。
結果は、以下の通り。
① 0軒
② 1軒
③ 3軒
④ 4軒
⑤ 3軒(「赤線」「青線」地区の転業旅館は除く)
⑥ 11軒
⑦ 15軒
つまり、新宿駅東口エリアは、一般旅館、「連れ込み旅館」を問わず、旅館が少ないのだ。とくに、駅に近いほどその傾向は顕著で、もっとも繁華な①②には合わせて1軒しかない。わかりやすく言えば、東口には「駅前旅館」がないのだ。②の大ガードに近い所に「山城屋」という商人宿っぽい屋号の小さな旅館があるだけ。③の3軒も2軒は小規模で、まずまずの規模は末広通りが靖国通りに出るあたりにあった「花菱旅館」だけ。このエリアには、進駐軍兵士専用の「連れ込み」として知られた「大和ホテル」があった。1951年頃現況の火災保険図にはみえるが、1962年頃現況図ではもう消えている。
たしかに繁華街(商業地域)は人目が多く「連れ込み旅館」に入りにくいかもしれないが、裏通りはいくらでもある。他の盛り場では、そうした繁華街の裏通りに「連れ込み旅館」があることは珍しくない。しかし、新宿にはそれがない。
こうした傾向は、私がこのあたりで遊んでいた頃(1990年代)にも気づいていた(近場でSexできる場所がない)が、これほどまではっきり傾向が出るとは思わなかった。
繁華街を外れても傾向は変わらない。1958年1月末まで「赤線」「青線」が営業していた、⑤の二丁目「仲通り」周辺も、「売春防止法」完全施行後の転業旅館(しばしば偽装転業)を除けは、小さな旅館が3軒あるだけ。同じ二丁目でも新宿通り南側の④の方が4軒とまだ多い。
「赤線」は特殊飲食店(カフェー)の2階にある女給の私室で性行為が行われるので、近隣の旅館に泊まる必要はない。「青線」は店の中の隠し部屋(多くは3階、屋根裏部屋)で性行為を行うが、女性の数だけ部屋がない場合もある。使用中で塞がっている場合は、待つか、別に用意してあるアパートの一室が使われたらしい(註7)、いずれにしても「赤線」「青線」地区に旅館がほとんどないのは必要がないからだ。
東口中心エリアから外れた、新宿駅からは遠い靖国通りの北側になると、ようやく旅館が増えてくる。「白鳳荘」が広告を出している⑥の三光町は11軒、「アカシホテル」「新宿白樺荘」のある⑦番衆町は15軒と、むしろ旅館が多い感じになる。
このエリアは、1940年代後半から50年代初頭まで、いわゆる「パンパン宿」が多かった地域だ。「パンパン宿」とは、街娼が男性客を連れ込んで性行為をするための宿で、小規模な旅館や民家の間貸しが多かった。
1949年6月現在とされる「新宿元遊廓付近図」(註9)の下の方、三光町、番衆町には多数の「パンパン宿」が描かれている。要通りや「赤線」地区の周辺の街娼たちの仕事場だったと思われる。
三光町、番衆町に散在する小規模な旅館の中には、そうした「パンパン宿」に起源をもつものがかなりあったのではないかと推測している。
さて、「赤線」「青線」があった時代(1958年以前)、新宿駅東口、あるいは都電の新宿二丁目や三光町で下車した性欲にあふれた男たちは、真っすぐに二丁目の「赤線」や、「三光町」の「青線」街を目指したはずだ。途中で街娼に引っかからない限り、彼らは旅館を必要としない。東口界隈は需要がないから「連れ込み旅館」は立地しない。
素人の女性を連れた男性は、新宿駅でも南口(もしくは西口)で下り、駅に近い「連れ込み旅館」に入るか、タクシーで千駄ヶ谷に向かう。
やはり、新宿の中でも「赤線」と「連れ込み旅館」は住み分けていたと思われる。
神崎清「新宿の夜景図―売春危険地帯を行く―」(『座談』1949年9月)
方向を示す記号が真逆になっている。実際は下が北。
(4)歌舞伎町方面
西口、南口、東口と巡ってきたので北口になるはずだが、先述したように新宿駅に北口はない。1950~60年代は、食品デパートの「二幸」(現:「アルタ」)方面への出口が実質的な北口になり、靖国通りにあった都電の新宿駅前(終点)に向かい、さらに靖国通りを渡って歌舞伎町に通じていた。
本来の歌舞伎町エリア(現:歌舞伎町一丁目)で広告が確認できるのは、「桂月荘」1軒だけで「新宿地球座裏通り」とある。「新宿地球座」は「新宿コマ劇場」(現:「新宿東宝ビル」)の西にあった「地球会館」にあった映画館(後のジョイシネマ。現:「ヒューマックスパビリオン新宿アネックス」)。1951年頃現況の火災保険地図で「地球座」の南西のブロックにあったことがわかる。しかし1962年頃現況の地図では別の建物になっている。
歌舞伎町エリアの旅館は、1962年頃現況の地図では7軒ほどで、いずれも規模は大きくない。
桂月荘(19530518)
【地図9】「桂月荘」の位置(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)
ところが、「コマ劇」の裏通り(通称:花道通り、元はカニ川の流路)を越えて西大久保1丁目(現:歌舞伎町2丁目)に入ると、急に旅館の数が増え、しかも大型化する。広告が確認できる旅館が14軒もある。例によって地域を分けてみよう
① 区役所通り西側、職安通り南側(旧:西大久保1丁目の西部、現:歌舞伎町二丁目)
② 区役所通り東側、職安通り南側(旧:西大久保1丁目の東部、現:歌舞伎町二丁目)
③ 職安通り北側、大久保通り南側(旧:西大久保二丁目、現:大久保一丁目)
①の旧:西大久保1丁目の西部には、広告が確認できる旅館がなんと9軒もある。
「お宿藤や」は「新宿区役所通り」とあるように、区役所通り沿いにあった。現在このあたりのランドマークになっている「風林会館」があるブロックで、そのやや北、坂の麓にあった。このブロックには1962年頃現況図で5軒もの旅館が群集していた。
「小町園」は「新宿歌舞伎町高台」とあるが、「コマ劇」の裏手、花道通りを渡って坂を上って2ブロック目にあった。たしかに高台だ。1962年頃現況図では「割烹」になっている。このブロックにも旅館が4軒。
「山手荘」は「歌舞伎町桜通高台」とあり、「小町園」の東隣のブロックにあった。「桜通」は、区役所通りの一つ西側の南北道のこと。このブロックにも旅館が4軒。
【地図10】「藤や」「小町園」「山手荘」の位置(1962年頃現況の住宅地図)
「双松」は「コマ劇場ウラ高台」とあるが、花道通りから数えて5つ目、「山手荘」の2つ上の桜通り西側のブロックにあった。「コマ劇ウラ」だと思ったら、かなり坂上。ここも5軒が密集。
「杵屋旅館」は「新宿歌舞伎町より二分、改正鬼王神社通り 社会保険所隣」とある。「鬼王神社」は区役所通りが職安通りにぶつかる東側にある「稲荷鬼王神社」のこと。「改正」は道路計画に基づいて拡幅・新設される道路のことで、区役所通りは、戦後の拡幅・新設なのでこう呼ばれたのだろう。つまり「改正鬼王神社通り」は区役所通りのこと。しかし、「杵屋旅館」は区役所通り沿いではない。区役所通りが職安通りにぶつかるT字路を西に行き2ブロック目に「社会保険所」(新宿社会保険出張所)があり、「杵屋旅館」はその西3軒隣だった。この広告の案内はかなりのミスリードで、たぶんたどり着けないだろう。また「歌舞伎町二分」というのも、カップルが最短ルートで坂道を駆け上らないと無理だと思う。
「新田中」は、「区役所通り坂上煙草屋横 新宿劇場通大久保病院右入」とある。東大久保一丁目界隈は、ほぼ東西、南北の道路が直交しているが、その中を明治通りから職安通りまで南東から北西に斜めに通っている道がある。現在は区役所通りで分断されているが、こちらの方が(おそらく江戸時代からある)古い道。両者が斜め交差する南側に「宮本タバコ店」があった。そこを左に「斜め道」に入って進むと、職安通りに出る直前の北側に「新田中」があった。跡地は「新田中ビル」になっている。
【地図11】「双松」「杵屋旅館」「新田中」の位置(1962年頃現況の住宅地図)
「鶴松」は、「アイレスカメラ裏通り コマ劇場裏 高台」とある。「アイレスカメラ」の工場は区役所通りの坂を上った西側にあった。その「裏通り」は例の「斜め道」のことと思われるが、1962年頃現況図には見えない
「多ま木」は「新宿大久保病院裏」とあるとおり、大久保病院の西側、西武新宿線の線路との間のブロックに「たまき」がある。このブロックにも5軒の旅館が集まっている。「たまき」は比較的小規模な旅館だが、1951年現況の「火災保険特殊地図」にすでに見える。
「若菊」は、「コマ劇 裏 大久保病院前東に入る北側」とあって地図が付いている。それによると大久保病院の東側、花道通りから2ブロック目になるはずだが、1962年頃現況図には見えない。
【地図12】「たまき」の位置(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)
お宿藤や 小町園 山手荘
(19550213) (19540521) (19550326)
双松 杵屋旅館 新田中
(19571204) (19551228) (19541024)
鶴松 多ま木
(19571229) (19530918k)
若菊(19560902)
②の旧:西大久保1丁目の東部には、広告が確認できる旅館が3軒ある。
「富士見荘」はこの時代には珍しい「完全冷房」を売りにしていた宿で、広告には「新宿駅ヨリ3分・花園神社裏」もしくは「区役所裏通り」とある。花園神社を目印に行くなら、神社と旧「青線」花園歓楽街(現:ゴールデン街・花園街)との間の南北道を北に進み、新田裏で花道通りと交差して、坂を上ったすぐの左側にあった。区役所通りからだと1本東側の道になる(これが「区役所裏通り」?」)。跡地には「ライオンズプラザ新宿」という大きなマンションが建っている。
「富士見荘」の「区役所裏通り」を挟んで向かいには「一楽荘」があった。広告に「新宿区役所通りの四角右折・医師会館隣」とあるように、北隣には「新宿区医師会館・准看護婦学校」があった。福島県の飯坂温泉「一楽荘」の東京支店ということだが、規模は小さい。
「東京ホテル」は、新宿エリアで最も頻繁に広告を出していた宿で、広告のバリエーションも多い。案内には「新宿駅東口から五分 西大久保高台」とあり、地図が添えられている。地図の「花園通り」は、先ほども触れた花園神社と旧「青線」花園歓楽街との間の南北道のこと。花道通りとの交差点から坂を上り、最初のT字路を左折すればよい。あるいは、区役所通りの坂を上がって1つ目の角を左折して裏通りに出て北に進んだ所。ホテルを称しているだけあって「全室洋間」で、設備は「スチーム(暖房)ラジオ 洗面所 電話」つきだった。
【地図13】「富士見荘」「一楽荘」「東京ホテル」の位置(1962年頃現況の住宅地図)
「東京ホテル」の広告バージョン
(19540611k) (19540730k)
(19541210k) (19550213)
富士見荘 一楽荘
(19550819k) (19571103)
③の職安通りの北側、西大久保二丁目には、広告が確認できる旅館が2軒ある。
「日本苑」は「新宿コマ劇ウラ3分」と案内している。たしかにコマ劇裏の南北道の坂を上りきり、職安通りを越えてさらに進めば着くが、3分では無理。別の広告で「自家用車にて御送迎奉仕」としていることからも、立地に恵まれていないことがわかる。
「ときわ」は明治通りと職安通りの交差点(現:新宿7丁目交差点)のさらに北、明治通りの東側にあった。広告は「トロリーバス西大久保一丁目停留所際」と、明治通りを走るトロリーバスで案内しているが、それしか交通の便はなかった(現在は東京メトロ副都心線東新宿駅のほぼ真上)。1962年頃現況の地図を見ると、かなり広大な敷地に複数の建物が立ち並んでいる。広告によれば、舞台付きの大広間や結婚式場もある新宿エリアでは珍しい「高級旅館」だったようだ。その割に「泊800円、休400円」安い。現在はホテル「相鉄フレッサイン東新宿駅前」の敷地になっている。
日本苑 ときわ
(19570302) (19550830)
【地図14】「日本苑」の位置(1962年頃現況の住宅地図)。
図の中央を東西に走るのが「職安通り」
【地図15】「ときわ」の位置(1962年頃現況の住宅地図)。
かなり大きな旅館であることがわかる。
1962年頃現況の地図に見える旅館を数えてみよう。まず①の西大久保一丁目の区役所通り西側に54軒、②の西大久保一丁目の区役所通り東側に16軒、そして③の西大久保二丁目に3軒、合計73軒となる。①は②の3倍以上で、圧倒的な旅館集中地域であることがわかった。東口方面全体の37軒に比べても、かなり多い。
すでに1960年代初頭に、歌舞伎町の北側、大久保に至る坂の麓から途中、そして坂上にかけて、巨大な旅館街が形成されていたことがわかった。
次の問題はそれがいつ頃、形成されたかということになる。この地域、戦前は比較的大きな区画に住宅が散在する閑静な高級住宅地だった。枢密院議長から内閣総理大臣(35代)になった平沼麒一郎の邸宅などがあったが、1945年5月25日の山の手大空襲でほとんど焼け野原になってしまう。
1951年頃現況の火災保険図では、坂下から坂の途中かけて「小町園」「清水」「たまき」、それといかにも進駐軍ご用達風の「GRAND HOTEL」(後に「サンテ風呂」)「京浜館ホテル」「山水楼ホテル」など10軒ほどのホテル・旅館が見えるが、坂の途中から坂上にかけてはまだ空地(焼け跡)が目立ち、大久保病院の北東に「旅館新東京」があるだけで旅館街は形成されていない。
【地図16】1951年頃の西大久保一丁目(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)
広告の出方からしても、この地域に多数の旅館が現れるのは1950年代半ば(1954~56年頃)と思われる。
つまり、歌舞伎町の北側の旅館群の形成時期は、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」群の形成とほぼ同じころ、細かく言えば数年遅れるくらいということになる。したがって、この地域の旅館群の形成を千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」群の衰退や1964年の東京オリンピックと関連付ける俗説はまったく成り立つ余地はない。歌舞伎町の北側の旅館群の形成は、この地域独自の問題として考える必要がある。
3 歌舞伎町二丁目の旅館・「ラブホテル」街の形成過程
(1)1950~1960年代の旅館群の立地理由
1950年代半ばに成立したと推測される旅館街が歌舞伎町のすぐ裏手(北側)にある以上、その立地はやはり歌舞伎町と関連して考えるべきだ。そこで、歌舞伎町の歴史を簡単に振り返ってみよう。
歌舞伎町(現:歌舞伎町一丁目)は、戦前まで淀橋区角筈一丁目の一部だった。1879年のコレラ流行に対応して避病院(伝染病専門病院。現:都立大久保病院)が東大久保に建てられたように、いたって寂しい場所だった。その後、1920年に東京府立第五高等女学校(現:中野区富士見町に移転した都立富士高校)が建てられ、周囲は閑静な住宅街になった。ところが、1945年5月25日の東京山の手大空襲で、角筈一丁目一帯も焼け野原になってしまう。
戦後、焼け野原になった地に大きな夢を描いたのが、軍に佃煮などを納入して財を築いた鈴木喜兵衛だった。彼は、終戦後すぐに旧住民に働きかけて借地権利を委ねる「復興協力会」を設立し、さらに大地主の峯島茂兵衛の協力も取り付け、大規模な区画整理をした上で劇場・映画館などを集中させる大興行街の計画を作り上げた。その目玉が歌舞伎座の誘致だった(都市計画を立案したのは建築家の石川栄耀、1893~1955年)。
1948年4月1日、角筈一丁目の靖国通り以北の地域は、町名を歌舞伎町とし(東大久保一丁目、二丁目の一部も吸収)、新たな人工的に作られた町が発足した。
しかし、結果的に、歌舞伎座の誘致は失敗し、1950年に開催した「東京文化産業博覧会」も大赤字を出し、鈴木喜兵衛の計画は頓挫してしまう。
ただ、博覧会の建物を転用して映画館街が作られ、歌舞伎座誘致の障害になった大規模建築の規制が1954年に解除されると、ようやく興行街の建設が軌道に乗り始める(そこには台湾華僑の出資協力があった)。1956年、歌舞伎座予定地(第五高等女学校跡地)に東宝が同心円状に配された三重の廻り舞台(独楽のような)を備えた大規模劇場「コマ劇場」をオープンして興行街の中核になる(註9)。
そして、戦前からの新宿の繁華街「三越裏」から客を奪い、1960年代に入ると、歌舞伎町は新宿第一の繁華街としての地位を確立し、さらには高度経済成長期の東京における新興の盛り場として台頭していく。
こうした歌舞伎町の成立史を顧みると、旅館街が形成されたと推定される1950年代中頃は、「コマ劇」開場に象徴される「盛り場」歌舞伎町の勃興期であったことがわかる。
さて、鈴木喜兵衛は、歌舞伎町の計画を打ち出すに際して「道義的繁華街」を提唱していた。つまり「盛り場」には付き物の性的な要素を排除した純粋な興行街の建設を目指した。性的なものは「新宿遊廓」の伝統を引く新宿二丁目の「赤線」に委ねればいいと考えていたのだろう。実際、なんとか出来上がった歌舞伎町中心部には「性なる場」が欠落していた。東部には歌舞伎小路、新宿センター、新天地、歌舞伎新町などの「青線」があったが、それはあくまで非合法な存在だった(註7)。
「性なる場」とは言えないまでも、遊楽の場も歌舞伎町の周辺には乏しかった。1950年代の遊楽の代表は料亭での芸者遊びだが、新宿の花街は四谷荒木町、四谷大木戸(現:四谷四丁目)、角筈十二社(現:西新宿四丁目)の3か所で、どこも歌舞伎町からは遠い。
歌舞伎町が「盛り場」として人を集めるにつれて、遊楽の場や「性なる場」の需要が高まっていったのではなかろうか。それに応じたのが、歌舞伎町の裏手の坂下の地域だったと思われる。
この地域には、割烹(料理屋)なのか旅館なのか微妙なものがいくつかある。1951年の地図には割烹とありながら1954年には旅館として広告を出し、1962年の地図にはまた割烹とある「小町園」や、広告はないが、地図上で割烹→旅館→割烹と変転する「恒松」などである。これらは割烹とも旅館ともいえる場、つまり、それなりの料理が提供され、女性も呼べて、宿泊もできる「割烹旅館」だったと思われる(ちなみに、この地域の旅館にやたらと「松」が付く屋号が多いのはなぜなのだろう?)。
歌舞伎町裏手の旅館群の始まりは、こうした食欲と性欲の両方を満たす「割烹旅館」だったのではないか。割烹旅館は基本的に食事を提供しない「連れ込み旅館」とは性格を異にする。そこで遊ぶ人もそれなりに社会的地位がある階層だったろう。
その後、歌舞伎町の「盛り場」化の進展に伴い客層は広がっていく。たとえば、映画を楽しんだ後のアベックはどこに行くのだろう。そうした需要に応じる場が必要とされ、性欲の充足に特化した「連れ込み旅館」が坂の途中、さらに坂上に展開していったのではないだろうか。
ともかく資料がなく、確実なことはわからないが、状況を踏まえながら推測してみたが、当たらずとも言え遠からずだろう。
(2)東への発展と「ラブホテル」街化
次の問題は、現代につながる「ラブホテル」群の形成過程になる。1950年代中頃に形成された旅館群が、そのまま「ラブホテル」群に発展したのなら話は簡単なのだが・・・。住宅地図で年代を追ってたどってみよう。
調査したのは、1962年、1966年、1969年、1977年、2009年の現況図である。それぞれ地図の西大久保一丁目(現:歌舞伎町二丁目)エリアにおける旅館・ホテルの数を調査した。その結果は下記のようになった。
70→72→83→73→75
45年間にわたって70~80軒で推移していて、全体数としては大きな変化はない。つまり、この地域は現代に至るまで60年以上も旅館・ホテル街としての機能を維持していることになる、これは「連れ込み旅館」群が壊滅する千駄ヶ谷や、「ラブホテル」が一極集中化する渋谷と比べて、かなり特徴的だ。
しかし、1962年現況図に見える旅館70軒中、その後も一貫して旅館・ホテルとして営業を続け2009年に至ったのは20軒に過ぎない(29%)。かなりの出入り(廃業・開業)があったことがわかる。
【地図17】1962年頃の西大久保1丁目(1962年頃現況の住宅地図)。
次にエリアを分けて、細かく検討してみよう。このエリアを南北に貫く区役所通りを軸に西部と東部に分ける。さらに便宜的にそれぞれを坂下・坂の途中・坂上に分けてみた。
62年 66年 69年 77年 09年 62年 66年 69年 77年 09年
西部 54→52→53→32→43 東部 16→20→31→41→32
坂下 12→12→ 9→ 5→ 6 坂下 7→ 7→ 8→ 7→ 9
坂中 23→21→26→15→22 坂中 7→10→16→25→18
坂上 19→19→18→12→15 坂上 2→ 3→ 7→ 9→ 5
西大久保一丁目、区役所通り西側の旅館群は1960年代中頃までは大きな変化はなかった。1966年頃現況の地図では、ほとんど旅館が健在で、姿を消したのは54軒中4軒に過ぎない。新たに登場した旅館もあり、総数は52軒となり、保たれている。
この点は、区役所通り東側の旅館群も基本的には同じである。ただ、数が16軒から20軒にやや増えている。増えたのは区役所通り東側の東部、具体的に言えば、明治通りの1つ西側の南北道(2番地と6番地の境界)の坂の途中に3軒が新規に開業し既存の3軒と合わせて6軒が道の両側に連なる形になる。
1969年頃現況図では、西側にも少し変化がみられる。「新田中」など既存の5軒が廃業するが、「小町園」のあるブロック(現:歌舞伎町二丁目11番地)北側の広い駐車場だったところに「ホテル和光」(註10)ができるなど7軒が開業するので、数は51軒から53軒と微増する。注目すべきは新規開業のほとんど(7軒中6軒)が「ホテル」を名乗っていることだ。既存の旅館の中にも、松喜旅館→ホテル松喜のように「旅館」「旅荘」から「ホテル」に名を変えるものもいくつか出てきている。ただ、「ホテル」化の兆しは見えるものの、全体から見れば、旅館・旅荘を名乗るものが4分の3以上(53軒中40軒)を占める。
これに対して、区役所通り東側はかなり大きな変化が見られる。まず、数が20軒から31軒へと大きく増加する(55%増)。まだ西側の53軒に比べれば6割ほどだが。ここでも新規開業の15軒のうち13軒が「ホテル」を名乗っている。増えた場所は坂下2軒、坂の途中9軒、坂上4軒で、坂の途中に集中している。
具体的に見てみよう。区役所通りに面した坂の途中のブロック(現:歌舞伎町2丁目11番地)には、これまで小規模な「みなと旅館」1軒しかなかったが、巨大な「ホテルLee」をはじめ、「ホテルニュー若草」「ホテル水月」「ホテル青春」「ホテル東美」の5軒のホテルが出現する。「ホテルLee」は、現在「Lee3ビル」という商業ビルになっているが、竣工は1968年とのことで、変化の始まりは1968~69年であると抑えられる。
もう1つの増加地域は、坂の途中から坂上にかけて、例の「斜め道」の両側のブロック(現:歌舞伎町2丁目6、7番地)である。「斜め道」の南側に「旅荘あおい」「ホテル栄泉」、北側に「東峰モーテル」「ホテル楽苑」の4軒が現れる。さらに「斜め道」の坂下(1、2番地)にも「ホテル清光苑」「モテル迎賓荘」の2軒ができ、「斜め道」の両側がホテル街化しつつある様子が見られる。
ここで、注目しておきたいのは「モーテル」「モテル」という名称で、地図で見る限り、この地域では1969年現況図で初めて出現する。確認できるのは6軒で、すべて区役所通り東側、さらに言えば、1966年頃現況の地図にすでに旅館が連なっていた「南北道」と「斜め道」の周辺である。
【地図18】1969年頃の「斜め道」と「南北道」付近(1969年頃現況の住宅地図)
「モーテル」は「モータリスト・ホテル」の略で、ガレージと部屋がつながっていて車ごと泊まれる、ワンルーム&ワンガレージ式の宿泊施設のことだが、日本ではもっぱら車に乗ったアベックがそのまま繰り込んでSexできる場所という意味合いが強い。連棟式(ガレージ付きの部屋が並ぶ)の「モーテル」としては、1968年に開業した横浜の「モテル京浜」が最初とのことなので、それから程なくして「モーテル」を名乗る宿が新宿二も出現したことになる(註11)。
そうした「モーテル」の性格を考えれば、なぜ、明治通り寄りの地域にだけ「モーテル」が現れたか容易に想像がつく。早い話、明治通りから直接入れるルートだからだ。
新宿方向から明治通りを北進し、新田裏の交差点(現:新宿6丁目交差点)を過ぎてすぐに、「斜め道」の入口がある。入って1つ目のX字の交差点を右(北)に入ればホテルが連なる「南北道」だ。
新田裏の交差点を左折して花道通りに入り、「風林会館」前の交差点を右折して区役所通りに入るルートより直角三角形の2辺より斜辺が短い理屈になるし、交通量的にも楽で早い。明治通りから「斜め道」のルートは、車でホテル街に向かうにはきわめて便利が良い(だから、「はじめに」の材木屋の若旦那もいつもこのルートを使っていた)。
つまり、モータリゼーションの発達が、アベック(カップル)の行動様式を変えつつあったということだ。新宿駅から歌舞伎町に来て映画を見たアベックが、徒歩で旅館街を目指していた時代から、明治通りをドライブしてきたカップルが車でホテル街を目指すような形が増えてきたということだと思う。
どうも、区役所通りの西側と東側では、「ラブホテル」街化のプロセスが違ったようだ。東側の変化が早く、すでに1960年代末にモータリゼーションの波に対応する動きが出てきていた。それに対して西側の変化は遅かった。
次に1970年代を見てみよう。ちなみに1978年7月1日、住居表示の改定にともない、西大久保一丁目は歌舞伎町二丁目になった。
【地図19】1977年頃の西大久保一丁目=歌舞伎町二丁目(1977年頃現況の住宅地図)
1977年頃現況図では旅館の軒数に大きな変化がみられる。西側は8年間に53軒から32軒と急減する(40%減)。これは旧タイプの旅館がオフィスビル化したためと思われる。たとえば、坂下の23番地には60年代5軒の旅館が密集していたが、まず「旅館志津河」があった場所に1968年に「風林会館」が建ち、ほぼ同時期に「旅館三八荘」がビル化、その後1972年頃までに「旅館藤や」と「旅館なかせ」もビル化して廃業し、残るは「Hかつむら」1軒だけになってしまった。坂の途中でも「千代の家」「ふじやま」「すみ吉」「八汐」「紫苑」「宝仙」、坂上では「伊賀」「一楽」「松の枝」「一松」「こいし」「うえき」など、1960年代初頭から営業を続けてきた、屋号からして和風と思われる旅館が廃業・ビル化している。残った32軒中20軒が「ホテル」を名乗っていることからも、旧タイプ(和風)の旅館の廃業と「ホテル化」(洋風)が急速に進行したことがわかる。
これに対して東側は31軒から41軒へと大きく増加(35%増)、初めて軒数で西側を上回った。増加が目立つのは例の「斜め道」北側」・「南北道」西側の6番地で5軒から8軒に増加する。また6番地の北側の2本目の「南北道」(6番地と14番地の境界)の東側の5番地も1軒から4軒へと急増する。この結果、2本目の南北道の東側にずらりと大型の「ラブホテル」が並ぶ景観が出現した。「はじめに」の会話がなされているのが、まさにこの道だった。
【地図20】1977年頃の「斜め道」と2本の「南北道」付近(1977年頃現況の住宅地図)
こうして、歌舞伎町2丁目の「ラブホテル」街化は1970年代に、区役所通り東側を中心に進行し、1980年代には都内有数の「ラブホテル」街となった。
その後、西側のエリアでもラブホテル化が進行し、2009年には東側32軒に対し、西側43軒と再逆転する。その経緯については本稿の目的から外れるので省略する。
(3)旧「青線」街東と「連れ込み旅館」
最後に、「はじめに」で触れた「青線」街と西大久保一丁目(現:歌舞伎町二丁目)の旅館街の関係について記しておこう。花園神社裏の「青線」花園三光町界隈の唯一の旅館は、「花園小町」(現:花園一、三、五番街)の北側にあった「花園旅館」だ。すでに1951年頃現況の火災保険地図に見える。この旅館は「青線」の隠し部屋が満員であふれた場合の、あるいは隠し部屋での「ショート」のSexではなく「泊り」でしたい客の行き場として機能していたと思われる。
ところが、1958年4月の売春防止法完全施行で、「青線」が(実際はもとかく)普通の飲み屋街になり、隠し部屋も封鎖され店内でのSexができなくなると、飲み屋で知り合った即席カップルのSexの場としての旅館の需要が高まってくる。それに応じたのが「花園旅館」や1960年代後半にその北側にできた「ホテル石川」であり、少し奥(北)の西大久保一丁目東部、坂下の旅館街だったと思われる。両者は300mほどの至近距離だった。
1980~90年代に新宿花園五番街にあった女装バー「ジュネ」(1994年に区役所通り沿いに移転)を拠点に活動していた久保島静香姐さんという方がいた(私の大先輩)。晩年「寝た男の数が女装者の勲章よ」と言っていたように性行動が活発な女装者だった。その静香姐さんの「日記(抄)」に。男性と「歌舞伎町のラブホテル優雅苑」、「行きつけの優雅苑」という記述が何回か見える。時期は1986~87年頃のこと(註12)。
「優雅苑」は1969年頃現況の住宅地図に初めて見える。場所は例の「斜め道」の北側、明治通りの1本西側の南北道の西側(歌舞伎町2丁6番地)。1969年の地図では継ぎ目に当たっていて不鮮明だが、1977年現況図では「モテル迎賓荘」と同じ敷地内にある別館のようだ(現在は「GRAND CHARIOT」という大きなラブホテルの敷地の一部)。
この「モテル迎賓荘」は、「羅錦卿」という名前からして華僑系と思われる人の邸宅をそのまま「モテル」にしたらしい(建物の形が変わっていない)。どんな雰囲気だったのか興味があるが、静香姐さんにもう話を聞けないのが残念だ。
【地図21】1969年頃の「優雅園」付近(1969年頃現況の住宅地図)
【地図22】1977年頃の「優雅園」付近(1977年頃現況の住宅地図)
おわりに
第1章では、新宿の中心街に「連れ込み旅館」がきわめて少ないこと、それは「赤線」と「連れ込み旅館」の住み分けが、少なくとも1950年代にはなされていたことを確認できた。第2章では歌舞伎町裏の旅館群の形成は1950年代半ばであり、それは歌舞伎町の「盛り場」化と連動するもので、新宿独自の理由によるものであり、千駄ヶ谷などの近隣の「連れ込み旅館」街の盛衰や東京オリンピック(1964年)と関連させる俗説は成り立たないこと、また旅館群の「ラブホテル」化は1970年代に進行したことを論証した。
私が愛する町・新宿の「謎」を解くことは、長年の念願だったが、20数年ぶりに、ようやく「宿題」を済ますことができた。
註
(註1)三橋順子『新宿「性なる街」の歴史地理』(朝日選書。2018年)
(註2)「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)は公開していないが、これを使って書いた論考として、次の3本がある。
①三橋順子「1950年代東京の『連れ込み旅館』について ―『城南の箱根』ってどこ?―」(2020年)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-08
② 三橋順子「東京・千駄ヶ谷の『連れ込み旅館』街について ―『鳩の森騒動』と旅館街の終焉―」(2020年)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-13
③ 三橋順子「坂の途中・渋谷の「性なる場」の変遷 ―「連れ込み旅館」から「ラブホテル街」の形成へ―」(2020年)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-20
(註3)三橋(註2)の①。
(註4)金益見『性愛空間の文化史』(ミネルヴァ書房、2012年)24頁
(註5)三橋(註1)書、コラム7「『旭町ドヤ街』の今昔」
(註6)ここに入っていない中央通り南側、甲州街道北側、JR線東側、明治通り西側のブロックと、新宿高校北側、新宿通り南側、明治通り東側、御苑大通り(延長)西側のブロック、そして新宿四丁目の3つは南口方面と考えた。
(註7)三橋(註1)書、第5章「新宿の「青」と「赤」―戦後における『性なる場』の再編―」
(註8)神崎清「新宿の夜景図―売春危険地帯を行く―」(『座談』1949年9月)
(註9)木村勝美『新宿歌舞伎町物語』潮出版社、1986年)、稲葉佳子・青池憲司『台湾人の歌舞伎町』(紀伊国屋書店、2017年)
(註10)1998年2月21日、「ホテル和光」でニューハーフのセックスワーカーが客の海上自衛官を刺殺するという事件が起こった。女性を買ったつもりだったのに相手がニューハーフであることを知った男性客が逆上し暴行に及んだことが発端で、偶発的・防衛的な殺人で、かなり同情すべき余地があった。別の取材を通じて知り合った『サンデー毎日』の女性記者が「現地を見たい」というのでボディーガードを兼ねて道案内したことがある。
(註11)鈴木由加里『ラブホテルの力 ―現代日本のセクシュアリティ―』(廣済堂ライブラリー、2002年)112~117頁。
(註12)矢島正見編著『おかま道を行く : 谷津瀬由美研究』(戦後日本<トランスジェンダー>社会史研究会、2000年)。谷津瀬由美は久保島静香姐さんの変名。
【備考】広告画像に付された8桁の数字は、広告が掲載された新聞の年月日を示す。
末尾に「k」があるのは『日本観光新聞』、他は『内外タイムス』。
【住宅地図】
「火災保険特殊地図 1951」(『(地図物語)あの日の新宿』武揚堂、2008年)
「東京都全住宅案内地図帳 新宿区東部 1962」(住宅協会)
「東京都全住宅案内地図帳 新宿区西部 1962」(住宅協会)
「(東京都大阪府全住宅精密図帳)新宿区 1963年度版」(住宅協会地図部)
「(東京都大阪府全住宅案内地図帳)新宿区 1967年度版」(公共施設地図株式会社)
「(全国統一地形図式航空地図全住宅案内地図帳)新宿区 1970年度版」(公共施設地図航空株式会社)
「(ゼンリンの住宅地図)新宿区 1978」(日本住宅地図出版)
「(ゼンリン住宅地図. 東京都)新宿区 2010」(ゼンリン)
【論考】坂の途中・渋谷の「性なる場」の変遷 ―「連れ込み旅館」から「ラブホテル街」の形成へ― [論文・講演アーカイブ]
坂の途中・渋谷の「性なる場」の変遷
―「連れ込み旅館」から「ラブホテル街」の形成へ―
三橋 順子
はじめに
渋谷という街は、新宿に比べると「性なる場」が少ない。新宿は、内藤新宿の「飯盛り女」に始まり、大正末期にできた「新宿遊廓」、戦後の黙認売春地区「赤線・新宿二丁目」、非合法売春地区「青線・花園三光町」を経て、現代の歌舞伎町の性風俗街まで連綿と「性なる場」がある。それに対して、渋谷には「遊廓」も「赤線」も「青線」もなかった。あるのは円山町の花街だけ。もちろん、円山町の奥には街娼はいた(それが表面化したのが1997年の「東電女性社員殺害事件」)し、今も円山の「ラブホテル」街を仕事場にするデリバリーの風俗嬢もいるが、それらにしても新宿の方がずっとお盛んだ。つまり、渋谷はどうにも「性なる場」が希薄なのだ。そんな中で、唯一、渋谷が新宿に拮抗できる「性なる場」が1950年代の「連れ込み旅館」だ。
私が作った「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」(註1)によると、渋谷エリアに32軒の「連れ込み旅館」が確認できる。これは千駄ヶ谷の39軒に次ぎ東京第2位、新宿の31軒をわずかだが凌いでいる。渋谷の「性なる場」と言えば「連れ込み旅館」とまでは言えないが、けっこう比重は高いと思う。
ところで、私は学生・院生時代の9年間を渋谷の街で過ごした。1970年代後半から1980年代前半のことだ。
学部生の頃、友人とときどき行ったコーヒーのおいしい喫茶店が桜丘の坂の途中にあった。たしか「論」という店だった(その後、移転し2013年閉店)。ある日、待ち合わせより早く着いたので、坂の先に行ってみた。上りきるあたりにラブホテルがあった。
院生の頃、先輩に連れていかれた雀荘が「中央街」の奥の坂の途中にあった。「雀荘(すずめそう)」というふざけた名前の雀荘だ。階下(2階)は、ストリップ劇場(渋谷OS劇場)だった。その坂の先にもラブホテルがあった。
こうした体験から、私は、少なくとも渋谷では、ラブホテルは坂の途中、もしくは坂の上の高台にあるものだと思っていた。
渋谷・ハチ公前で待ち合せたカップルは、ともかく坂を上っていけば、ラブホテルに入れるという感じだった。早い話、道玄坂を上っていけば円山町の「ラブホテル街」に行きつく。東急本店通りも同じで、左側でも右側でも坂を上れば、そこに「ラブホテル」があった。
いつ、そうした街の形ができたのだろう? 渋谷の「性なる場」の歴史地理を解明してみたい。
1 渋谷の地形と「連れ込み旅館」の分布
よく知られているように、渋谷はすり鉢のような地形で、その低いところにJR渋谷駅がある。もう少し正確に言えば、渋谷駅は暗渠化した渋谷川の上にある(暗渠は渋谷駅東口を通って渋谷橋で地上に出る)。渋谷では、ほぼ渋谷川に沿って走る明治通りが低地で、その両側が坂、さらに高台になっている。
数値でいえば、渋谷川の低地は駅付近で標高15m、周囲の台地は30~35m(道玄坂上の水準点が35.4m)、比高は15~20mで、その間が斜面、坂になっている。
青山の台地を走ってきた大山街道(江戸時代の大山参詣の道)は、宮益坂を急勾配で下り、渋谷川の低地で明治通りと直交すると、今度はすぐに道玄坂を上っていく。まるでジェットコースターのようだ(宮増坂下交差点の東は、通称、青山通り)。
渋谷の地理は、ほぼ南北に走る明治通りを縦軸に、東西に走る大山街道を横軸に(原点は宮益坂下交差点)考えるとわかりやすい。
第1象限は明治通り東側・宮益坂北側の旧・美竹町、宮下町、上通二丁目(現:渋谷区渋谷一丁目)、第2象限は明治通り西側・道玄坂北側の旧・宇田川町、大向通、円山町、上通四丁目、松濤町、北谷町(現:宇田川町、道玄坂二丁目、円山町、松濤一丁目、神南一丁目)。第3象限は明治通り西側・道玄坂南側の旧・上通三丁目、大和田町、桜ガ丘町、南平台町(現:道玄坂一丁目、桜丘町、南平台町)、第4象限が明治通り東側・宮益坂南側の旧・金王町、中通、並木町(現:渋谷二丁目、三丁目)となる。
すでに述べたように、「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」には、渋谷エリアに31軒の「連れ込み旅館」が確認できる。これはあくまで当時の新聞(『内外タイムス』『日本観光新聞』)に広告が掲載された旅館のみで、実際にはもっと多かっただろう。
先の象限に従って分類すると、次のようになる。
第1象限 1軒
第2象限 18軒
第3象限 7軒
第4象限 1軒
その他 5軒
第2象限(明治通り西側、道玄坂北側)が圧倒的に多く、全31軒の6割近くを占める。次いで第3象限(明治通り西側、道玄坂南側)が7軒、第1と第4象限(明治通りの東側)はそれぞれ1軒と少ない。
ちなみに、その他は、神泉町に1軒、神山町に1軒、旧・目黒区上目黒八丁目(現:目黒区青葉台三丁目、四丁目)に3軒。
以下、象限(地域)ごとに、「連れ込み旅館」から「ラブホテル」へ、その変遷をたどってみよう。ただし、行論の都合上、少ない地域から多い地域へ順序を変えて見ることにする(4→1→3→2の順)。
2 第4象限(明治通り東側、宮益坂南側)
この地域で唯一、広告がある「大洋」は、渋谷駅の東口「渋谷警察署裏 高台」にあった。住所は金王町(現・渋谷三丁目)になる。「渋谷駅二分」は急げばそんな感じだ。別の記事には「金王八幡裏」とあるが、旅館の前の道そのまま進めば、渋谷の鎮守・金王八幡神社に至る。
広告では「見晴しのよい」「高台」が強調されている。このあたりは学生時代の通学路でよく知っているが、たしかに緩い上り坂の途中だが、「高台」とまでは言えないように思う。
この「大洋」は、別の広告で、浜松町と人形町の「一二三旅館」と同じ経営で、その「別館」という位置づけだったことがわかる。広告によれば1954年の新築開業で、また、別の記事(『内外タイムス』1954年5月11号)の挿絵を信じれば三階建の和風建築だった。
大洋(19540404) 大洋(19540520)
大洋(19540511)
1969年頃現況の住宅地図では、「大洋」の敷地は「渋谷ロイヤルマンション」になっている。存続期間は長くなかったようだ。現在は「渋谷ロイヤルビル」(オフィスビル、1974年竣工)が建っている。
この地域には、旅館やホテルがほとんどない。背後に青山学院、実践女子大学、國學院大学などがある文教地区(旧:緑岡町、常盤松町・若木町。現:渋谷四丁目、東一丁目、四丁目)を控え、早くから高級住宅地化したためだろうか。
【地図1】金王町付近(1962年頃現況の住宅地図)
(クリックすると大きくなります)
3 第1象限(明治通り東側、宮益坂北側)
この地域で唯一、広告がある「たきや」は、宮益坂の途中、渋谷「郵便局上隣」の路地にあった。住所は美竹町。広告の地図に見える「東映」は、「渋谷東映」映画館のことで、現在は「ビックカメラ」が入っている「渋谷TOEI プラザ」ビルになっている(7、9階は「渋谷TOEI」映画館)。
1962年頃現況の住宅地図を見ると、隣接のブロックに「旅荘美竹」「宮益ホテル」「旅館梢月」「旅館清水」があり、坂の途中の小さな旅館街をなしていた。さらに、坂下の明治通りの近くには「東横ホテル」(1967年廃業)と「旅荘フタバ」があった。いずれも同種の「連れ込み旅館」だろう。
たきや(19540402k)
この坂の途中の小さな旅館のその後を見てみよう(註2)。「たきや」は広告を出した翌年の1964年に廃業し「旅館東荘」になったが、1976年には駐車場になり、じきに「渋谷キャステール」というマンションが建った(1977年6月竣工)。
旅館街としては1969年の8軒が最高で、その後は数を減らし、1980年代には旅館街の形は失われた。1988年に旅荘美琴荘が「ホテルウォンズイン」に、美琴荘別館は「ホテルミコト」になり、少なくとも1995年までは営業していた。その後「ホテルミコト」は駐車場になったが、「ホテルウォンズイン」は現在も営業中である。1964年の創業から数えると56年、この地域の「性なる場」としての役割を保っている。
ホテルウォンズイン(2020年4月)
【表1】宮益坂(美竹町)の旅館・ホテル街の変遷
(クリックすると大きくなります)
【地図2】宮益坂(美竹町)の旅館街(1962年頃現況の住宅地図)
4 第3象限(明治通り西側、道玄坂南側)
渋谷駅の南西の一帯、現在、玉川通りのバイパス(国道246号線)がカットしているが、もともとは一続きの丘陵だった。
(1)桜ケ丘
まず、旧・大和田町、桜ヶ丘町のエリア。ここでは4軒の「連れ込み旅館」が広告を出している。
渋谷駅南口を出てバス発着所を抜けて、南平台に至る上り坂に入ると、右側に「平安楼」がある。広告には「桜ヶ丘 南口 西へ 高台」とある。やはり坂の途中の「連れ込み旅館」だ。
さらに坂を上ると、渋谷区立大和田小学校(現:渋谷区文化総合センター大和田)の先に「東洋荘」があった。別の広告に「桜ヶ丘 大和田小学校上」とある通りだ。丘の上の立地で、広告の挿絵や写真のように、下から見上げればかなりの威容だったはずだ。
「東洋荘」の写真(19540122k)
ちなみに、広告はないが、「平安楼」と「東洋荘」の間に、やはり「大和田小学校」に隣接して「旅館 桜ケ丘会館」があり、同種の旅館だと思われる。
大和田小学校の周囲に「連れ込み旅館」が多かったのは、1957年6月に旅館業法が改正され、学校の周囲おおむね100m以内に「清純な施設環境が著しく害されるおそれがあると認め」られる業者の営業は許可されなくなるまでは、なんらの規制もなかったからだ。「東洋荘」は1956年3月以前の開業なので、法的な問題はなかった。
「ひさご」は「渋谷駅南口3分 桜丘32」とある。桜並木がある「さくら通り」ではなく、すこし左に行ったところ(現在、曲がり角に「キリンシティ」がある)から桜丘を真っすぐ上る坂の途中、右側にあった。規模は小さい。この道の両側には、広告はないが坂下に「旅荘司」(1969年廃業)、「ひさご」のすぐ下には「旅館いずみ」、上には「桜ケ丘ホテル」、道向かいには「旅館京香」(1965年廃業)などがあり、5軒ほどが坂の途中の小さな旅館街をなしていた。「山水」は広告に「桜ヶ丘 高台」とあるが、場所はわからない。
大和田小学校の周囲の「連れ込み旅館」の寿命はあまり長くない。「平安楼」は1963年に廃業したようで1969年頃現況の住宅地図では「富士ハイツ」というアパートになっている(現在は「セルリアンタワー東急ホテル」の敷地の一部」)。「東洋荘」も1963年の廃業で、1969年頃現況の地図では北側3分の1ほどが「旅荘みき」(1975年廃業)になっている(現在はマンション「エクゼクティブ渋谷」1976年竣工)。「旅荘桜ケ丘会館」は健在でその後も名称を変えながら2003年まで営業を続ける。「東洋荘」があった場所の先(大和田小学校の裏手)に「ホテル白雲荘」(1975年廃業)と「ホテルグリーン」(1971年廃業)ができ、さらに奥に「ホテル南平台」ができたが、ほとんどが1970年代中頃までに消えた。
それに対して、桜丘町の小さな旅館街の寿命は少し長い。「ひさご」は1969年頃の地図にも見える(1971年廃業)。1976年頃現況図で3軒、1982年頃現況図で2軒が残っていた。「桜ケ丘ホテル」は1999年まで営業していたようで、学生時代の私が見たのは、ここであった可能性が高い。
桜丘の旅館・ホテル街は、それぞれ1軒を残して1970年代後半~80年代に姿を消した。
平安楼 東洋荘
(19560325) (19560309k)
ひさご 山水
(19541127) (19570331)
【表2】桜丘町の旅館・ホテル街の変遷
【地図3】桜丘町の旅館・ホテル街(1962年頃現況の住宅地図)
(2)「中央街」の奥(道玄坂一丁目)
渋谷駅南口から道路を渡り、「東急プラザ」の右側の「渋谷中央街」を奥に進むと上り坂になる。坂の途中のT字路を右手に行くと、営団地下鉄(現:東京メトロ)銀座線の車庫がある。この一帯(旧:大和田町、現:道玄坂一丁目)には14軒ほどの旅館が坂の途中の旅館街を形成していた。
「あたり荘」は「地下鉄車庫脇坂上」とあるように、地下鉄車庫のすぐ南側、坂を上りきった所にあった。「あたり荘」のあるブロックと、その向かいの車庫際のブロックには、8軒の中小規模の旅館があった。「あたり荘」はその中でも最大規模で、広告によると、千駄ヶ谷の「あたり荘」と同じ経営者(渋谷が本店)のようだ。
その1ブロック手前(東)に「ホテル一楽」があった、広告には「大和田町高台 駒大横」とある。1961年には南隣にプロレスの力道山の本拠「リキスポーツプラザ」ができる。
「永好(ながよし)」は地図に見当たらない。「地下鉄車庫前 東急本社前」という記載をたよりに探すと「南平台東急ビル」の裏手に「旅館永吉」があり、「ながよし」と読めるのでこれに相当すると思われる。ただ「地下鉄車庫前」とは言えないが。
その後の状況を追うと、1969年頃現況の地図では「あたり荘」は隣の料亭や個人宅を併せてさらに大きくなり、「一楽」も「永吉」も健在だ。しかし「あたり荘」は1969年に廃業したようで、1976年頃の地図では、跡地に大きなマンション「プリメーラ道玄坂」(1974年竣工)が建っている。
「一楽」は1973年に廃業し、1976年頃には更地になっていたが、じきにマンション「ソシアル道玄坂」(1977年竣工)が建った。「永吉」も1971年に廃業し「新南平台東急ビル」(1974年竣工)の敷地になってしまう。
周辺の旅館群は、1976年頃にはなお6軒がホテル化して残っていたが、1982年頃には4軒に、1995年頃には2軒になってしまう。そして現在、このエリアのラブホテルは「ホテルシルク」と「ホテル梅村」の跡地に1988年に開業した「ホテルP&Aプラザ」の2軒だけになっている。こうして坂の上の旅館・ホテル街はほぼ消滅してしまった。
ちなみに、院生時代の私が見かけたホテルは、この最後に残った「ホテルシルク」だった可能性が強い。
あたり荘 ホテル一楽
(19550211k) (19551111)
旅館永好(19550820)
【表3】「中央街」の奥(道玄坂一丁目)の旅館・ホテル街の変遷
【地図4】「中央街」の奥(1962年頃現況の住宅地図)
5 第2象限(明治通り西側、道玄坂北側)
18軒という最も多くの「連れ込み旅館」の広告が確認できるが、この地域の地形はかなり複雑だ。北西~西北西方向から流れる宇田川が谷を刻んで渋谷川に合流する。宇田川は暗渠化され井ノ頭通りになっている。さらに西南西から松濤の谷(現:東急文化村前の通り)が宇田川に入る、また南から神泉の谷が松濤の谷に合わさる。
(参考図)宇田川の水系
本田創「東京の水 2005 Revisited 2015 Remaster Edition」
http://tokyowater2005remaster.blogspot.com/2015/12/2-10.html
そこで、この地域は、さらに5つの小地域に分けてみることにする。
(1)「公園通り」北側(神南一丁目)
宇田川の谷の北側の台地を、代々木公園の南口から渋谷区役所前を通り、緩く下って「渋谷MODI」がある神南1丁目交差点に至るのが渋谷公園通りだ(1973年「渋谷PARCO」のオープンに合わせて命名。その前は「区役所通り」と呼ばれていた)。その北側(北谷町)には、1950年代後半、「飛龍荘」と「渋谷ホテル」の2軒の「連れ込み旅館」があった。
「飛龍荘」の広告には「松竹先 渋谷信用金庫角左入る」とある。ただ「渋谷駅下車二分」は無理で、アベックが早足で歩いても5分はかかる。「渋谷ホテル」は「松竹の一つ先を曲った高台 北町54」とある(「北町」は「北谷町」の誤植か)。どちらも坂の途中の「連れ込み宿」だった。
ここに見える「松竹」は、現在の「西武デパート渋谷店」A館の場所にあった「渋谷松竹・銀星座」映画館のこと。当時は、映画館が格好のランドマークだった。
1962年頃現状の住宅地図を見ると、当然のことながら「渋谷PARCO」は影も形もない。渋谷から代々木公園を目指す緩い坂道の沿道は、まだビルが立ち並ぶ状態ではなく、かなり閑散としている。それでも北側はそれなりに建物があるが、南側は「東京山手教会」があるくらいで、空き地が目立つ。
「山手教会」の向かい側に「渋谷ホテル」が、その少し坂下の路地に「飛龍閣」があった。
ホテル飛龍閣 渋谷ホテル
(19560107) (19540402k)
【地図5】公園通り(1962年頃現況の住宅地図)
【地図6】公園通り(1969年頃現況の住宅地図)
約7年後の1969年頃現況の住宅地図を見ると、「区役所通り」(後の「公園通り」)の南側は空き地が減って、「西武デパートC館」(現:西武パーキング館)が進出し、その東には映画館「渋谷地球座」が入るビルもできた。
「山手教会」の向かい側の「渋谷ホテル」は姿を消して、商業ビルになっている(1966年廃業、後に敷地の北半分にバレエ用品の「チャコット」の本社ビルが建つ)。「飛龍閣」はビル化したようだが同じ位置にある。
のちに「渋谷PARCO PART1」が建つ「有楽土地所有地」の筋向い、現在「渋谷区勤労福祉会館」があるブロックに「ラブホテル」と思われる「仙亭ホテル」「美苑ホテル」「千春ホテル」がある。「千春」はすでに1962年頃現況の地図に見えているが、このブロックが「ラブホテル」街化しつつあることがうかがえる。
さらに7年後の1976年頃現況図を見ると、1973年に「渋谷PARCO PART1」(赤枠)が開業し、さらに「PART1」の道路を挟んで北側の「仁愛病院」があった場所に「PART2」も開店している(1975年12月開業、2007年末休業)。
「飛龍閣」は「ホテル飛龍閣」になって営業を続けている。
注目すべきは、「勤労福祉会館」があるブロックで、以前からある「仙亭ホテル」「美苑ホテル」「千春ホテル」に加えて、「ホテル虹」「ホテルモンブラン」「渋谷ヒルトップホテル」「ホテルロイヤル」が開業し、7軒が密集する「ラブホテル」街になった。
この辺りは、坂を上りきったあたりで、東側は急勾配で渋谷川の谷に下っている。ホテルの名の通り「ヒルトップ」で、まさに丘の上の「ラブホテル街」だった。
さて、この丘の上の「ラブホテル」街のその後だが、1982年頃現況の地図では、一番古手の「千春ホテル」(1977年廃業)が商業ビルになり、「渋谷ヒルトップホテル」が「ホテルナンバーツー」になったが、なお6軒「ラブホテル」街を形成していた。ただ、一つ下のブロックで頑張っていた「ホテル飛龍閣」は消え、商業ビルになった(「渋谷三洋ビル」)。
【地図7】公園通り(1976年頃現況の住宅地図)
【地図8】公園通り(1982年頃現況の住宅地図)
しかし、1995年現況の地図では様相は一変する。「ホテルナンバーツー」と「ホテル虹」が1982年、「ホテルロイヤル」が1983年、「美苑ホテル」が1989年と相次いで廃業し、残るは「ホテル仙亭」が名を変えた「ホテル渚」(2001年廃業)と「ホテルモンブラン」(2000年廃業)の2軒のみになってしまう。それらも2000年代初頭に姿を消す。
そして今、かつての「ラブホテル」街の面影はまったくない。ここでも坂の途中のホテル街は消滅してしまった。
【表4】公園通りの(神南一丁目)の旅館・ホテル街の変遷
1970年代、おしゃれで文化的な渋谷の象徴として華々しく登場した「PARCO」のすぐ向かいは「ラブホテル」の集中エリアだった。
1970~80年代初頭の若者にとって、渋谷公園通り界隈は、単におしゃれなだけでなく、微妙に性的なエリアだった。公園通りを「ラブホテル」を目指して上っていくカップルもいたし、代々木公園で野外デートをした後、公園通りを下って「ラブホテル」に入るカップルも多かったはずだ。私も代々木競技場のあたりで、何度もデートした思い出がある。貧乏学生でお金がなかったからラブホテルには入らなかったが。
(2)「井ノ頭通り」周辺(宇田川町)
渋谷川の最大の支流、宇田川の谷とその斜面(公園通り南側)の地域。宇田川は暗渠化して下流部は井ノ頭通りになっている。現在、「西武デパート渋谷店」のA館とB館の間を通っている井ノ頭通りが、1960年代まで国際通りと呼ばれていたことを知っている人は、もうかなり少ないだろう。「西武デパート渋谷店」B館の一部になっているところに「渋谷国際」という映画館があったからだ。
この国際通り周辺には、1950年代後半、かなりの数の「連れ込み旅館」があった。広告が確認できるものだけで7軒を数える。
国際通りの入口(明治通りとのT字路)に近い方から見てみよう。
まず、「タナベ」は「国際通り 松竹横」とある。この「松竹」は、既に述べたように、現在の「西武デパート渋谷店」A館の場所にあった「渋谷松竹・銀星座」映画館のことなので、「タナベ」は国際通りの入口に近い南側にあった。
「青木荘」は「松竹と東銀の間左入り 国際向側」とあるので、これも国際通りの南側になる。
「ホテルチトセ」は「国際通り 二又・右側」とある。この「二又」は、東西に走ってきた井ノ頭透りが宇田川の流路と離れて、北西に向きを変える所にあるY字路のことで、現在、間に「渋谷警察署宇田川町交番」がある。ちなみに宇田川の流路は左側(南側)の細い方の道になる。
2016年7月のある日、私は「東急ハンズ」に行こうと井ノ頭通りを歩いていた。ふとビルの名称が目に入った。「ちとせ会館」。
思わず路上で「あ~っ!」と声を出してしまった。まさにそこは「ホテルチトセ」があった「二又・右側」の場所ではないか。
つまり、1950年後半に存在した連れ込み旅館「ホテルチトセ」の名前が、現在の「ちとせ会館」に受け継がれていたということ。なぜ、それまで気づかなかったかといえば、1962年頃現況の住宅地図には、現在の「ちとせ会館」の場所はすでに「宇田川有料駐車場」になっていて「チトセ」の文字はなかったから。この駐車場はかなり広く、「ホテルチトセ」が大きな建物であったことがわかる。広告の「和洋間四十数室」という規模もうなずける。
住宅地図でこの場所を追うと、1962~1976年頃「宇田川有料駐車場」、1978年頃「東急ハンズパーキング」、1982年頃「(仮称)千歳会館」となる、つまり、20年ほど有料駐車場で、ようやく1984年9月に商業ビル「ちとせ会館」が建った。
1950年代の「連れ込み旅館」の屋号が、後継のビルに受け継がれることはときどきあるが、20年を隔ててというのは珍しい。
「チトセ」の話が長くなってしまったが、話を戻そう。
「みすず」は「国際通り 300m右高台」とある。国際通りの入り口から300mというとかなり奥で、「右高台」とあるので、「井ノ頭通」と「公園通り」を結ぶ坂道(「PARCO」の脇に出る、通称「ペンギン通り」)のどこかだろう。この坂道には、1962年頃現況の地図に、右側に「ホテルコスモス」、左側に「旅館つたや」があり、その北に「旅館よし村」があった。どれも坂の途中の宿だ。「コスモス」が「みすず」の後身ではないかと疑っている。
「ふくや」は「国際通り シブヤ浴泉隣」とある。銭湯「渋谷浴泉」は現在、巨大な商業施設「渋谷BEAM」の一部になっている。そのどちら隣かわからないが、「ふくや」は国際通り沿いにあったことは間違いない。1963年に廃業したようだ。
「岩崎」は、1962年頃現況の地図で、Y字路の左側の道をちょっと行って左側に入る路地に見える。広告には「大映真裏」とあるが、「大映」は「東急本店通り」にあった「渋谷大映」映画館のことで、確かにその真裏になる。つまり、今風に言えば「センター街」の奥ということになる。1971年廃業して「新岩崎ビル」になった。
最後に「黒岩荘」。「国際通り 左突き当り」とあるが、例のY字路の左側、宇田川が暗渠になっている道を行くと、やがて道が尽きる。と言うか、そこから上流の宇田川は暗渠ではなく開渠、つまり地上を流れていた(現在は暗渠化され道路になっている)。その宇田川が地上に現れる地点の北岸に「黒岩荘」があった。つまり、かろうじて川べりということになる。
「黒岩荘」は「渋谷の衣川」を称し(読みは「きぬがわ」で栃木県の鬼怒川温泉に仮託)」、「水族館付き」を自慢していた。当時の宇田川にどれほどの魚がいたか、かなり疑問だが、どうもこの旅館は川・水へのこだわりが感じられる。それも宇田川の畔という立地、失われた清流への追憶によるのかもしれない。「黒岩荘」は1979年に廃業し、跡地には「渋谷エステートビル」(オフィスビル)が建っている。
残念ながら、この地域の「連れ込み旅館は」は、1962年現況の地図でも正確な位置が確認できないものが多い。ただ、旧・宇田川の谷(低地)の国際通りと、その北側(南向き)の斜面(坂の途中)にかなりの数の「連れ込み旅館」があったことは間違いない。広告に見えないものを合わせると10軒を超えるだろう。
この地域は、その後渋谷でも有数の繁華街となっていき、1960年代の閑静な環境は失われ、いち早く商業ビル化が進んだ。多くの「連れ込み旅館」は「ラブホテル」化することなく姿を消したのはそのためだろう。それでも、1982年頃現況図では、宇田川北側の斜面を上る「ペンギン坂」の途中に「ホテル石庭」が、「ペンギン坂」と「スペイン坂」の合流点に「ホテルオリエント」があった。「ホテル石庭」は「ホテルコスモス」の後身だ。「ホテルオリエント」については1980年代の初め頃、「スペイン坂」を降りるとき「こんな賑やかな場所では入りにくいだろうな」と思った記憶がある。
どちらも1980年代半ばまでにオフィスビルになり、この界隈から「性なる場」は消えてしまった。
タナベ 青木荘
(19570117) (19530430)
チトセ みすず
(19550507) (19561207k)
ふくや 岩崎 黒岩荘
(19571211) (19551228) (19570130)
【地図9】井ノ頭透り(1962年頃現況の住宅地図)
(3)「東急本店通り」北側(松濤一丁目)
渋谷川の支流、宇田川のそのまた支流の松濤の谷筋を中心とする地域。松濤の川は、佐賀の鍋島侯爵家の別邸(現:鍋島松濤公園)の松濤池の湧水を源流とし、現在の「東急百貨店本店」の裏側を流れて、宇田川に合流していた。
「東急本店」(1967年開業)の敷地には、1964年まで「渋谷区立大向小学校」(宇田川町に移転し、1997年に統合に伴い神南小学校に改称)があった。「大向(おおむこう)」とは宇田川西側の細長い低地で、大正期までは「大向田んぼ」と呼ばれる水田が広がっていた。玉川通りから分かれて(分岐点には「渋谷109」)ここを北西方向に走る道が大向通りで、入口を入って少し行った右(北)側には「渋谷大映」映画館があったので大映通りとも呼ばれていた(後に東急本店通り、現:東急文化村通り)。
「渋谷大映」映画館(1950年1月)。最近まで大型パチンコ店「マルハンパチンコタワー渋谷」があった(2016年1月17日閉店)。
また、「大向小学校」前のY字路で大向通りから分かれて、ほぼ松濤の谷に沿って西に向かう道は栄通りと呼ばれていた。
松濤の小さな谷筋の北側(南向き)の斜面、そして宇田川の西側の斜面、つまり大向通りの西側、栄通りの北側に、1962年現況の地図で7軒(別館をカウント)ほどの旅館、ホテルがあった。
「ホテル山王」は2軒見える。1軒は「大向小学校」のすぐ裏手、低い崖を上がったところにもあった。もう1軒は大向通りをかなり奥に行ったところ。立地の便からして小学校裏手の方が先(本館)だろう。広告の「大映の先の横」という記述もふさわしい。推測するに、前にも触れた1957年6月の旅館業法の改正で、学校の周囲おおむね100m以内の営業に規制がかかった(増改築が難しくなった)ことと関係があるかもしれない。小学校裏の「ホテル山王」は明らかに100m以内だから。
大向通りの左側の斜面には手前から「一休荘」「ホテルエコー」、そして「ホテル山王」(別館?)が並んでいた。さらに奥に広告はないが「旅館こだま荘」があった。
「一休荘」の広告には「渋谷大映先 交番右入る」、「ホテルエコー」の広告には「大映先 大向通」とあり、「ホテル山王」も含めていずれも「大映」をランドマークにしている。1950年代の都市における映画館の重要性がよくわかる。
次に「ホテル ニューフジ」だが、広告の道案内には「大映通 消防署隣」とある。「消防署」は「渋谷消防署栄通出張所」のことで、広告にはかなりいい加減な地図が付いているが、要は消防署の火の見やぐらと郵便局(栄通り郵便局)の間の道を入れということ、この道は「観世能楽堂」に行く上り坂で、何度も歩いたことがある。
1962年現況の地図には「ホテル ニューフジ」は見えないが、地図の場所には「ホテル石亭」があり、これが後身だと思われる。西隣に「ホテル石亭・別館」があった。
ちなみに、「ホテル ニューフジ」=「ホテル石亭」の上の段には東京都知事の公館があった。連れ込みホテルと都知事公館はお隣さんだったのだ。
この斜面のホテル街のその後を見てみよう。1969年現況の地図では「一休荘」がビルになって消えた以外は健在だ。都知事公館の主は東龍太郎から美濃部亮吉に変わった。ところが1976年頃現況の地図では「山王本館」(1969年廃業)と「石亭本館・別館」(1969年廃業)が消え「山王別館」と「エコー」、それに「こだま荘」の3軒になってしまう。「山王本館」と「石亭別館」は駐車場に、「石亭本館」の跡地は空地になっている。
そして、1982年頃現況図では、「山王別館」がオフィスビル(「サンエルサビル」1978年竣工)になって消え、「エコー」と「こだま荘」の2軒になる。「石亭本館」の跡地は南に拡張した都知事公館(主は鈴木俊一)に飲み込まれる。「ホテルエコー」は1986年まで営業を続けたようだが、斜面のホテル街は1980年代半ばに姿を消した。
ホテルエコー(19531126)
ホテル山王(19550911)
一休荘(19560325)
ホテル ニューフジ(19540222)
【表5】松濤谷北斜面(松濤一丁目)の旅館・ホテル街の変遷
【地図10】松濤谷北斜面の旅館・ホテル街(1962年頃現況の住宅地図)
(4)円山下・中腹(道玄坂二丁目)
玉川通り(道玄坂)北、大向通り(文化村通り)の西、松濤の谷の南側、旧栄通り郵便局(現在の「東急文化村)の西隣)から円山に上っていく坂道(現在の道玄坂二丁目と円山町の境界)の東。円山に上っていく途中(中腹)、現在の道玄坂二丁目の地域。円山の「三業地」は別に扱う。
1962年頃現況の地図には、この地域に17軒ほどの旅館を数えることができるが、多くは小規模なもので、広告が確認できるのは3軒のみ。
「高田旅館」は、大向通りの西側の斜面、階段状に整地した4段目にあった。この辺りには、道玄坂以外に真っすぐに上る道はなく道路が迷路のように複雑だ。広告に「道玄坂上る テアトル映画街入口 薬屋右入る四つ角左」とややこしいことを書いているのは、そのためだろう。
「テアトル映画館街」は「百軒店」の中にあった「テアトル渋谷」(現:「ライオンズマンション道玄坂」)、「テアトルSS」(現:「ホテルサンモール」)「テアトルハイツ」(現:マンション「サンモール道玄坂」)の映画館群のことで、「映画館街入口」というのは、現在「百軒店」の入口を示すアーケードがある道のこと。「高田旅館」はそこから入って右(少し下る)に行って左にあった(やはりややこしい)。道玄坂寄りに別館があり、その隣に本館があったが、1969年頃現況の地図では別館部分だけが旅館として営業している(1976、1982の現況図も同様)。1987年に廃業したようで、本館跡地は長らく駐車場だったが、現在(2020年5月)は大規模な再開発事業が進行している。別館跡地は「ホテルR25」(経営者は「高田旅館」と同姓)になっている。
「高田旅館」の一段下には、広告はないがこの地域で最も大きい旅館「渋谷聚楽」があったが、後に広い駐車場になり、現在は高田旅館本館跡地と合わせて、大規模な再開発事業が進行中。
「高田旅館」の1段上に「風久呂」があった。広告には「道玄坂 百軒店 ひまわり楽器右横入る」とある。「風久呂」は1976年頃の現況図には見えるが、1982年頃の現況図では「ホテルガラスの城」になっている。さらに1995年頃の図では「ホテルプリンスキャッスル」になった(現在は廃業)。ちなみに曲がり角の目印の「ひまわり楽器店」は、現在「ひまわりビル」になっている。
「風久呂」の西隣には「旅荘一村」があり、そのまた隣に「二幸」があった。「二幸」の広告は「大映先 大向小学校前高台」とあって大向通から案内している。小学校の前の坂を上って右折した場所なので、その方がわかりやすかったと思う。「二幸」は1976年頃の現況図で西隣にあった旅館を併せて大きくなっている。その敷地は1982年頃の図では「(仮称)ホテルV」となっていて、さらに1995年頃の図では「ホテルアランド」になる。経営がどう受け継がれたか判然としないが、もしかすると「二幸」の発展が「ホテルアランド」なのかもしれない。
高田旅館 風久呂
(19550506k) (19570124)
二幸(19551228)
ところで「百軒店」は、関東大震災(1923年)後に「円山三業地」に隣り合う場所に開発された商店街で、戦後はテアトロ系映画館を中心に、喫茶店、バー、飲み屋、食堂など小規模な飲食店が立ち並ぶ繁華街になった。その中にはあまり旅館はなかった(3軒)。
この地域(道玄坂二丁目)の旅館・ホテルの歴史的な変遷を、住宅地図上で確認できる軒数で見てみよう。
1962年 69年 76年 82年 95年
17 →17 →21 →26 →33
1960年代には変化がなかったが、70年代に入り増えはじめ、80年代には増加基調に拍車がかかり、90年代半ばには、60年代のほぼ2倍にまで増殖している。
今まで、見てきた地域では、坂の途中の旅館街・ホテル街は、80年代までに衰退・ほぼ消滅していたが、道玄坂の途中の旅館街・ホテル街では、まったく逆の様相が現れている。
【地図11】円山下・中腹(道玄坂二丁目)の旅館・ホテル街(1962年頃現況の住宅地図)
(5)円山三業地(円山町)
道玄坂を上がった北側。渋谷台地の上、円山町の三業地(花街)。三業地は、料理屋、待合茶屋、芸妓置屋の三業種の営業が許可された地域のこと。
渋谷・円山の三業地は、1913年に指定され、1919年に「渋谷三業株式会社」を設立、関東大震災(1923)の直前1921年には芸妓置屋137戸、芸妓402人、待合96軒を数えた。戦後も繁栄は続き、1965年には料亭84軒があり、芸者170人がいた。
道玄坂を上りきった道玄坂上交番前交差点を右に入る道(北に進んで坂を下り「東急文化村」の前に出る道=現在の円山町と道玄坂二丁目の境界)の西側、交差点の交番(渋谷警察署道玄坂上交番)の先を左に入る道の北側、神泉の谷に下りる急崖の東側、松濤の谷に下りる南側が「三業地」の中心だった。「渋谷三業組合事務所」は、交番の先の東西道を3ブロック進んだ北側にあった。
この地域で広告が確認できる旅館はわずか2軒だけ。
「ホテルまつ」は広告に「道玄坂上(玉電曲角)本田屋餅菓子店横二軒」と見え、道玄坂上交番前交差点を右に入って3軒目にあった。三業地の中心からはやや外れた、とば口。「玉電曲角」というのは、渋谷駅を出て専用軌道で坂を上がってきた玉川電車(東急田園都市線の前身)がこの交差点でカーブして玉川通りの路面に出る。「本田屋餅菓子店」は1962年現況図で交差点の北角に「喫茶本田屋」と見えるのと関連するものだろう。
「まつ」のその後は、1969年現況図では「料理まつ」と見えるが、1971年に廃業したらしく、1976年現況図では駐車場になっている。現在はオフィスビル「Eスペースタワー」の敷地の一部になっている。
「よね林荘」は「道玄坂上 交番手前右入る」とあるように、道玄坂上交番前交差点を右に入り少し進んで左折した南側にあった。広告に「料亭米林別館」とあり、道向かいには「旅館米林」があり、その別館として1957年に開業したらしい。1969年に廃業したようで1969年頃現況図では別館が「タキザワ旅館」に、本館は「ホテルニッポン」(1969年開業、1975年廃業)なっている。現在は「まつ」と同様、オフィスビル「Eスペースタワー」の敷地の一部。
ホテルまつ よね林荘
(19561023) (19570107)
この地域の広告が少ないのは、そもそも三業地と「連れ込み旅館」は相性が悪いからだと思う。三業地において、性交渉の中心は男性と玄人の女性で、その場は「待合」だった。それに対して「連れ込み旅館」の性交渉は男性と素人の女性だった。性的関係(セクシュアリティ)の構造が異なる。
わかりやすく言えば、玄人の女性が仕事をしている三業地にしてみれば、わざわざ素人の女性を呼び込む必要はなく、むしろ商売の邪魔なのだ。
こうした三業地と「連れ込み旅館」の(きつく言えば)排斥関係は、池袋や大塚の三業地でも見られる。
1962年現況の地図では、三業地の中心部分には料理屋・料亭が76軒数えられる。旅館は13軒にすぎず、圧倒的に料理屋・料亭が優勢だ。さらに言えば、この旅館も立地からして男性が素人の女性を連れ込むのではなく、玄人の女性が男性を連れ込む場所、「待合」的な旅館ではなかったかと思う。
そうした三業地の形態は1969年頃現況の地図でもほとんど変化がない。ところが1976年現況の地図では料理屋・料亭が24軒と大きく減り、旅館・ホテルは19軒に増える。地図の様式が変わったので、料理屋・料亭の数え落としがあると思われるが、ほぼ半減しているのは間違いない。「渋谷三業組合事務所」の建物も「円山自治会館」に変わってしまう。花街の衰退が見て取れる。
そして、1982年現況図では、料亭・料理屋11軒、旅館・ホテル20軒と逆転する。さらに1995年現況図では、9軒に対して27軒と差が大きく開く。
つまり、三業地が衰退してくると、両者の力関係が変わり、「連れ込み」系の旅館やホテルが三業地の中心部にまで入ってくるという現象がはっきり見られる。その勢力交代は1970年代後半に始まり1980年代に決定的に進行した。
【地図12】円山三業地の料亭と旅館(1962年頃現況の住宅地図)
(赤っぽい色が料亭・料理屋、緑色が旅館)
【地図13】円山三業地の料亭と旅館(1982年頃現況の住宅地図)
ところで、松濤の谷から円山へ上がる道は、先に述べた旧・栄通り郵便局(現在の「東急文化村)の西隣)から上がる坂道(現在の道玄坂二丁目と円山町の境界)と、その一本先(西)の坂道の2本がある。円山の三業地に入るには道玄坂からが表口なので、この松濤の谷からの2本の道は裏口に当たる。
1962年現況の地図には、この2本の坂道の周囲に12軒の旅館があった。いずれも規模は小さく、裏口にふさわしい感じだ。ところが1969年現況図では14軒に増える。特に西側の坂道の両側の増加が著しい。こうして1970~1990年代には2本の急坂の両側に14~15軒の「ラブホテル」がびっしり林立するという特異な景観が出現した。
この坂の途中のホテルの開業年を列記すると、坂下に近い「ホテル龍水」1961年、「ホテル三喜荘」1964年、「ホテルサボア」1975年、次の段の「ホテル山水」1965年、「ホテルプリンセス」1967年、「ホテルニュー白川」1969年、もう1段上の「ホテルローレル」1971年、「ホテルユートピア」1973年、「ホテルスイス」1975年、坂上に近い「旅館若草」1973年となる(「ホテルはせがわ」と「ホテルみやま」は開業年不明=1950年代)。ホテルになる前からある「はせがわ」「みやま」「龍水」「三喜荘」「山水」に加えて、1960年代末からホテルの開業が相次いだことがわかる。
つまり、渋谷・円山の「ラブホテル街」の形成は、坂の途中から始まり、次第に坂を上って丘の上に至る、まるで「ラブホテル」が丘を上るかのように形成された。
【地図14】円山裏・二本の坂道周辺(1962年頃現況の住宅地図)
「龍水」「長谷川(はせがわ)」「みやま」はすでに見える。
【地図15】円山裏・二本の坂道周辺(1982年頃現況の住宅地図)
6 その他
地域巡りの最後に「その他」としたものを見てみよう。象限的にはすべて第3象限になる。
(1) 神泉
円山町の台地の西縁は、松濤の谷に南から北へ注ぐ神泉の谷へ急斜面で落ち込む。京王電鉄の井の頭線は、円山町をトンネルで抜けると、神泉駅のところで地上に出て、またすぐにトンネルに入る。駅が神泉谷の底にあることがよくわかる。
神泉駅の北に「菊栄旅館」があった。「高台閑静」とうたっているように、神泉谷の西側の斜面にあった。ここもやはり「坂の途中」の宿だったが1964年に廃業した。
神泉駅から東へ、急坂の途中に「旅館女大名」(1969年廃業)が、坂を上ったあたりには「旅館一条」(1964年廃業)「旅館たなか」(1965年廃業)があった。これらも1960年代末までに消える。
菊栄旅館(19530619k)
【地図16】神泉谷(1962年頃現況の住宅地図)
(2)神山町
1955~58年頃、かなり斬新なデザインの広告を出していた「ホテルキャデラック」。住所の「神山59」は、山手通り(環状6号線)から東に少し入ったあたりで、神山町でも松濤町との境界に近い場所。
神山町一帯は今でこそ「奥渋谷」と呼ばれる人気スポットになっているが、渋谷駅からはかなり遠い。広告にも「渋谷駅より幡ヶ谷行きバス」(現:東急バス渋55系統)「3ツ目東大裏下車」「渋谷駅からタクシー70円」とあり、「自家用車時代にふさわしい」というコピーからも、逆に歩くにはつらい距離であることがわかる。
神山町59番地はさして広くない。1962年頃現況の地図を見ると、そこに「東京湯ヶ島ホテル」がある。比較的大きなホテルで59番地の半分近くを占めている。残り半分は「新自由キリスト道会本部」とその付属の「松村幼稚園」が占め、他に余地がないので、これが「ホテルキャデラック」の後身だろう。
広告に「旧プリンスオブトーキョー」とあるが、今のところどんな施設か不明である(なんとなく進駐軍関係のような・・・)。
現在、この場所は、なんとモンゴル大使館になっている。15年ほど前、地方在住の友人に頼まれて、モンゴル大使館にビザの代行取得に行ったことがある。松濤公園を左手に見ながら道を真っすぐどんどん奥に進む感じだった。そうか、あそこだったのか!
ちなみに、「東京湯ヶ島ホテル」の廃業は1971年、日本とモンゴル人民共和国(当時)との国交樹立、大使館開設は1972年なので、辻褄はぴったり合う。
ホテルキャデラック(19551120)
ホテルキャデラック(19561020)
ホテルキャデラック(19580212)
【地図17】神山町付近(1962年頃現況の住宅地図)
(3)「大坂上」付近(目黒区青葉台)
道玄坂を上りきったさらに先、玉川通り(大山街道)が渋谷台地から目黒川の谷に下りる急勾配「大坂」の上。行政区分はもう目黒区で、当時は上目黒八丁目、現在は玉川通りの南側が青葉台三丁目、北側が青葉台四丁目になっている。
道玄宿 山のホテル
(19561207k) (19550702)
「道玄宿」は「道玄坂上四つ角」とあるが、この「四つ角」は玉川通りと(旧)山手通りが交差する、現在の「神泉町交差点」のこと(ここから西が目黒区になる)。その南西角に「道玄宿」はあった。「渋谷の高台」とあるように道玄坂を上りきった台地の最高地点(標高35m)に近い「丘の上の宿」だった。跡地は「(株)トヨタ東京カローラ・渋谷店」になっている。
ところで、1976年頃現況の地図には円山町の花街に近い道玄坂二丁目に「旅館道玄宿」が見える。この旅館は1969年頃現況図には「旅館道玄坂」として見えているが、「道玄宿」が正しいとするならば、もしかすると、道玄坂上の「道玄宿」が玉川通りの拡幅(1960年代後半)で敷地が削られたのを機会に道玄坂二丁目に移転したのかもしれない。
「山のホテル」は、松濤の「ホテル ニューフジ」と同系列で、玉川通りをさらに西に行った「大坂上」にあった。「渋谷駅八分」は相当健脚のアベックでも無理だと思う。「中将本舗前」とあるのは、婦人薬「中将湯」で有名な「津村順天堂」(現:「ツムラ」)の目黒工場がこの地にあったから。
玉川通の北側の斜面には「旅館大藤館」「旅館福田屋」「旅荘新舞子」があり、「山の上ホテル」と合わせて、ここも坂の上の小さな旅館・ホテル街を形成していた。
このホテルは「山の」という名称に加えて「丘の離れ」というコピーからわかるように「都会の山荘」のイメージを強く演出していた。広告の挿絵もまるで軽井沢かどこの山荘のようだ。
玉川通り沿いに別館があり、その奥(南側)に本館があったが、本館の南側はすぐに崖で、目黒川の低地(標高13m)とは15m以上の差があり、たしかに眺望は絶好だったと思う。
それにしても、現代の私たちは「都内で味わう奥伊豆情緒」は、いくらなんでも大袈裟だと思う。しかし、まだ観光旅行に出かけられる人が少なかった時代には、そうした仮託(疑似体験)に客を寄せる十分な効果があったのだろう(註3)。
現在、本館部分には、高級マンション「パークコート目黒青葉台ヒルトップレジデンス」が建っている。
(19571004)
「三平」は、池袋の連れ込み旅館「三平」が渋谷に進出してきた宿で、1957年の開業。別の広告に「道玄坂上 三丁右入る」とあるが、玉川通りが目黒川の谷に下る「大坂」の北側斜面を階段状に整地した場所にあった。「断崖上」というのは大袈裟だが、見晴らしは良かったはず。「三平」の2つ下の段には「旅館山渓園」があった。
ただ、渋谷駅からははるかに遠く(約1.5km)、道玄坂上にあった玉電(東急田園都市線の前身の路面電車)の「上通停留所」からでも、かなり距離がある(約800m)。送迎に「自家用車無料サービス」というのも無理もない
この付近は首都高速3号渋谷線の池尻インターチェンジが設置されたため、道路の改変が激しく、跡地の比定が難しかったが、現在、「ソネンハイム大橋」というマンションの北隣に相当する。
三平(19570116)
【地図18】道元坂上~大坂上付近(1962年頃現況の住宅地図)
おわりに
以上、ぐるっと渋谷の「連れ込み旅館」から「ラブホテル」の歴史地理的な状況をみてきた。その結果、1950年代後半から60年代にかけて、渋谷のあちこちに旅館街が形成されていたことがわかった。そのキーワードは「坂の途中」だ。整理してみよう。
形成 全盛 衰退
① 美竹町(宮益坂の途中) 1960年代初頭?1960年代末(8軒) 1980年代
② 桜丘町(桜丘へ上がる坂) 1950年代後半 1960年代初頭(9軒)1970年代後半
③ 道玄坂一丁目(中央街奥の坂)1950年代後半 1960年代初頭(14軒)1970年代後半
④ 神南一丁目(公園通りの途中)1970年代前半 1976年(7軒) 1980年代前半
⑤ 宇田川町(宇田川の北斜面) 1950年代後半 1960年代初頭(10軒)1960年代後半
⑥ 松濤一丁目(松濤谷の北斜面)1950年代後半 1960年代前半(7軒) 1970年代
⑦ 道玄坂二丁目(道玄坂の途中)1950年代後半 1990年代(33軒) 2000年代後半
⑧ 円山町(円山三業地の裏の坂)1950年代後半?1990年代(14軒) 2000年代後半
つまり、渋谷の坂の途中の旅館・ホテル街は8か所あった。若き日の私の「坂を上っていくとラブホテルがある」という印象は間違っていなかった。そのうち①②③⑤⑥の5か所は、1950年代後半から60年代初頭に形成され、60年代に全盛期を迎え、70年代から80年代に衰退し、ほぼ消滅していくという同じパターンをたどる。④だけは形成が70年代前半と遅いが、衰退の時期はやはり1980年代で変わらない。
消えていった6か所と、まったく違う動きをするのが⑥⑦で、形成の時期こそ同じだが、1970代後半~80年代に大増殖し、90年代にかけて全盛期を迎える。
つまり、①~⑥の旅館・ホテル街が衰退・消滅していくのと、⑦⑧が増殖・全盛となる現象が、1970代後半~80年代に同時並行的に起こったことになる。さらに⑥⑦は坂の途中から坂の上、つまり古くからの三業地である円山町の中心部にも侵入していく。増殖する「ラブホテル」は坂を上り丘の頂に達する。その結果、道玄坂と松濤の谷に挟まれた地帯に「ラブホテル」が極端に集中し、1980年代に巨大な「渋谷円山町ラブホテル街」が形成された。
2020年4月の段階で、渋谷区の「ラブホテル」の分布を調べたところ、全61軒の内訳は、円山町に28軒、道玄坂二丁目に27軒、地理的に連続するこのエリアに90%の55軒がある。玉川通り向かいの道玄坂一丁目の3軒を合わせると95%に達する。残り3軒は隣の駅の恵比寿なので、渋谷エリアの他の地域には「ラブホテル」はないと言ってもいいほどの集中度だ(註4)。
なぜこのような現象が起こったのだろうか?
同じ業種の店が狭いエリアに多数立地すれば過当競争になって共倒れの危険性が高まるのではないか、それより適宜分散した方が良いのではないか、と素人考えに思う。
その一方で、同様の過剰集積の事例が2つ思い浮かぶ。
一つは、1950年代後半の千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街だ(註5)。さして広くない地域に広告が確認できるものだけで39軒、おそらく50軒近い「連れ込み旅館」があり、東京最大の集中地域だった。経営的にはさぞ競争が激しかったと思うが、利用者の側からすれば、女性を連れて新宿駅南口からタクシーに乗り「千駄ヶ谷へ」と言えば、運転手が馴染みの旅館に連れて行ってくれる。ともかく女連れで千駄ヶ谷に行けば性交渉ができるというメリットがあった。
もう一つは、1970年代初頭に始まる「新宿ゲイタウン」の形成である(註6)。新宿二丁目「仲通り」周辺の狭い地域に200軒以上のゲイバーが集中する状態は、明らかに過剰集積だが、それで50年も成り立っている。それを支えているのは、ともかく二丁目に行けば、同じ性的指向の仲間に会えてと楽しい時間を過ごせるというメリットだ。
実は、「二丁目ゲイタウン」が形成される以前、山の手の盛り場、池袋にも、新宿の二丁目以外の地域にも、そして渋谷にも、ゲイバーがあった。そうした各地域に点在していたゲイバーは、ゲイタウン成立後に、すべてではないにしろ、姿を消していく(註7)。
地域に散在していたものが消え、特定のある地域に集中するという同じような過剰集積現象が、しかも似たような時期に起こっている。そこに「渋谷円山町ラブホテル街」の過剰の理由があると思う。
すり鉢の底の渋谷駅で降りたカップルは、どちら方向に歩いて坂を上るか迷うことなく、ともかく道玄坂を上がり円山町の「ラブホテル」街を目指せば、セックスできる。こうした利用者にとってのメリットが、過剰集積を支えている。
それでもまだ、遮二無二、円山町を目指すより、どこの坂を上ろうかとためらうカップルの方が情緒があって、私には好ましく思うのだが。
【註】
(註1)「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)は公開していないが、これを使って書いた論考として、次の2本がある。
① 三橋順子「1950年代東京の『連れ込み旅館』について ―『城南の箱根』ってどこ?―」(2020年)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-08
② 三橋順子「東京・千駄ヶ谷の『連れ込み旅館』街について ―『鳩の森騒動』と旅館街の終焉―」(2020年)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-13
(註2)渋谷の旅館・ホテルの開業・廃業年については、金益見『性愛空間の文化史』(ミネルヴァ書房、2012年)32~43頁掲載の「経営者名簿」を参照した。
(註3)1950年代の「連れ込み旅館」の有名観光地・温泉への仮託は三橋(註1)の①を参照
(註4)カップルズ「東京都 渋谷区のラブホテル一覧」
https://couples.jp/hotels/search-by/cities/20
(註5)三橋(註1)の②を参照。
(註6)三橋順子「新宿二丁目『ゲイタウン』の形成過程」(『現代風俗学研究』19号 現代風俗研究会・東京の会、2019年)
(註7)「東京・大阪『ゲイ・レズ・SMバー』徹底比較」(『週刊大衆』1971年月日不明)によると、渋谷には9軒のゲイバーがあったが、「新宿二丁目。ゲイタウン」の成立後、数を減らしていく(三橋順子「戦後東京における『男色文化』の歴史地理的変遷」『現代風俗学研究』12号、現代風俗研究会・東京の会、2006年)。時期は異なるが、石田仁「いわゆる淫乱旅館について」(井上章一・三橋順子編『性欲の研究 東京のエロ地理編』平凡社、2015年)によると「千雅(せんが)」(1975~1989年)という男性同性愛者向けの「淫乱旅館」が道玄坂上にあった(三業地の外、南西のブロック)。1969年頃現況の住宅地図にみえる「花仙(かせん)」という旅館が前身とのこと。
【備考】
広告図版の8桁の数字は、掲載年月日を示す。
末尾にkがついているのは『日本観光新聞』、他はすべて『内外タイムス』。
【住宅地図】
「東京都全住宅案内図帳・渋谷区東部 1959」
(住宅協会。1959年)
「東京都大阪府全住宅精密図帳・渋谷区 1963年版」
(住宅協会東京支所、1962年6月)
「全国統一地形図式航空地図全住宅案内地図帳・渋谷区 1970年度版」
(公共施設地図航空株式会社、1971年1月)
「ゼンリンの住宅地図・東京都渋谷区 1983」
(日本住宅地図出版、1983年3月)
「ゼンリンの住宅地図・東京都渋谷区 1996」
(ゼンリン、1996年1月)
なお、住宅地図の調査と発行のタイムラグを考慮して、1963年版→1962年頃現況図、1970年版→1969年頃現況図などのように1年戻して表記した。
2020年4月20日 掲載
2020年5月6日 データ修正
2020年5月27日 現地調査に基づき、文章の一部修正。
―「連れ込み旅館」から「ラブホテル街」の形成へ―
三橋 順子
はじめに
渋谷という街は、新宿に比べると「性なる場」が少ない。新宿は、内藤新宿の「飯盛り女」に始まり、大正末期にできた「新宿遊廓」、戦後の黙認売春地区「赤線・新宿二丁目」、非合法売春地区「青線・花園三光町」を経て、現代の歌舞伎町の性風俗街まで連綿と「性なる場」がある。それに対して、渋谷には「遊廓」も「赤線」も「青線」もなかった。あるのは円山町の花街だけ。もちろん、円山町の奥には街娼はいた(それが表面化したのが1997年の「東電女性社員殺害事件」)し、今も円山の「ラブホテル」街を仕事場にするデリバリーの風俗嬢もいるが、それらにしても新宿の方がずっとお盛んだ。つまり、渋谷はどうにも「性なる場」が希薄なのだ。そんな中で、唯一、渋谷が新宿に拮抗できる「性なる場」が1950年代の「連れ込み旅館」だ。
私が作った「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」(註1)によると、渋谷エリアに32軒の「連れ込み旅館」が確認できる。これは千駄ヶ谷の39軒に次ぎ東京第2位、新宿の31軒をわずかだが凌いでいる。渋谷の「性なる場」と言えば「連れ込み旅館」とまでは言えないが、けっこう比重は高いと思う。
ところで、私は学生・院生時代の9年間を渋谷の街で過ごした。1970年代後半から1980年代前半のことだ。
学部生の頃、友人とときどき行ったコーヒーのおいしい喫茶店が桜丘の坂の途中にあった。たしか「論」という店だった(その後、移転し2013年閉店)。ある日、待ち合わせより早く着いたので、坂の先に行ってみた。上りきるあたりにラブホテルがあった。
院生の頃、先輩に連れていかれた雀荘が「中央街」の奥の坂の途中にあった。「雀荘(すずめそう)」というふざけた名前の雀荘だ。階下(2階)は、ストリップ劇場(渋谷OS劇場)だった。その坂の先にもラブホテルがあった。
こうした体験から、私は、少なくとも渋谷では、ラブホテルは坂の途中、もしくは坂の上の高台にあるものだと思っていた。
渋谷・ハチ公前で待ち合せたカップルは、ともかく坂を上っていけば、ラブホテルに入れるという感じだった。早い話、道玄坂を上っていけば円山町の「ラブホテル街」に行きつく。東急本店通りも同じで、左側でも右側でも坂を上れば、そこに「ラブホテル」があった。
いつ、そうした街の形ができたのだろう? 渋谷の「性なる場」の歴史地理を解明してみたい。
1 渋谷の地形と「連れ込み旅館」の分布
よく知られているように、渋谷はすり鉢のような地形で、その低いところにJR渋谷駅がある。もう少し正確に言えば、渋谷駅は暗渠化した渋谷川の上にある(暗渠は渋谷駅東口を通って渋谷橋で地上に出る)。渋谷では、ほぼ渋谷川に沿って走る明治通りが低地で、その両側が坂、さらに高台になっている。
数値でいえば、渋谷川の低地は駅付近で標高15m、周囲の台地は30~35m(道玄坂上の水準点が35.4m)、比高は15~20mで、その間が斜面、坂になっている。
青山の台地を走ってきた大山街道(江戸時代の大山参詣の道)は、宮益坂を急勾配で下り、渋谷川の低地で明治通りと直交すると、今度はすぐに道玄坂を上っていく。まるでジェットコースターのようだ(宮増坂下交差点の東は、通称、青山通り)。
渋谷の地理は、ほぼ南北に走る明治通りを縦軸に、東西に走る大山街道を横軸に(原点は宮益坂下交差点)考えるとわかりやすい。
第1象限は明治通り東側・宮益坂北側の旧・美竹町、宮下町、上通二丁目(現:渋谷区渋谷一丁目)、第2象限は明治通り西側・道玄坂北側の旧・宇田川町、大向通、円山町、上通四丁目、松濤町、北谷町(現:宇田川町、道玄坂二丁目、円山町、松濤一丁目、神南一丁目)。第3象限は明治通り西側・道玄坂南側の旧・上通三丁目、大和田町、桜ガ丘町、南平台町(現:道玄坂一丁目、桜丘町、南平台町)、第4象限が明治通り東側・宮益坂南側の旧・金王町、中通、並木町(現:渋谷二丁目、三丁目)となる。
すでに述べたように、「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」には、渋谷エリアに31軒の「連れ込み旅館」が確認できる。これはあくまで当時の新聞(『内外タイムス』『日本観光新聞』)に広告が掲載された旅館のみで、実際にはもっと多かっただろう。
先の象限に従って分類すると、次のようになる。
第1象限 1軒
第2象限 18軒
第3象限 7軒
第4象限 1軒
その他 5軒
第2象限(明治通り西側、道玄坂北側)が圧倒的に多く、全31軒の6割近くを占める。次いで第3象限(明治通り西側、道玄坂南側)が7軒、第1と第4象限(明治通りの東側)はそれぞれ1軒と少ない。
ちなみに、その他は、神泉町に1軒、神山町に1軒、旧・目黒区上目黒八丁目(現:目黒区青葉台三丁目、四丁目)に3軒。
以下、象限(地域)ごとに、「連れ込み旅館」から「ラブホテル」へ、その変遷をたどってみよう。ただし、行論の都合上、少ない地域から多い地域へ順序を変えて見ることにする(4→1→3→2の順)。
2 第4象限(明治通り東側、宮益坂南側)
この地域で唯一、広告がある「大洋」は、渋谷駅の東口「渋谷警察署裏 高台」にあった。住所は金王町(現・渋谷三丁目)になる。「渋谷駅二分」は急げばそんな感じだ。別の記事には「金王八幡裏」とあるが、旅館の前の道そのまま進めば、渋谷の鎮守・金王八幡神社に至る。
広告では「見晴しのよい」「高台」が強調されている。このあたりは学生時代の通学路でよく知っているが、たしかに緩い上り坂の途中だが、「高台」とまでは言えないように思う。
この「大洋」は、別の広告で、浜松町と人形町の「一二三旅館」と同じ経営で、その「別館」という位置づけだったことがわかる。広告によれば1954年の新築開業で、また、別の記事(『内外タイムス』1954年5月11号)の挿絵を信じれば三階建の和風建築だった。
大洋(19540404) 大洋(19540520)
大洋(19540511)
1969年頃現況の住宅地図では、「大洋」の敷地は「渋谷ロイヤルマンション」になっている。存続期間は長くなかったようだ。現在は「渋谷ロイヤルビル」(オフィスビル、1974年竣工)が建っている。
この地域には、旅館やホテルがほとんどない。背後に青山学院、実践女子大学、國學院大学などがある文教地区(旧:緑岡町、常盤松町・若木町。現:渋谷四丁目、東一丁目、四丁目)を控え、早くから高級住宅地化したためだろうか。
【地図1】金王町付近(1962年頃現況の住宅地図)
(クリックすると大きくなります)
3 第1象限(明治通り東側、宮益坂北側)
この地域で唯一、広告がある「たきや」は、宮益坂の途中、渋谷「郵便局上隣」の路地にあった。住所は美竹町。広告の地図に見える「東映」は、「渋谷東映」映画館のことで、現在は「ビックカメラ」が入っている「渋谷TOEI プラザ」ビルになっている(7、9階は「渋谷TOEI」映画館)。
1962年頃現況の住宅地図を見ると、隣接のブロックに「旅荘美竹」「宮益ホテル」「旅館梢月」「旅館清水」があり、坂の途中の小さな旅館街をなしていた。さらに、坂下の明治通りの近くには「東横ホテル」(1967年廃業)と「旅荘フタバ」があった。いずれも同種の「連れ込み旅館」だろう。
たきや(19540402k)
この坂の途中の小さな旅館のその後を見てみよう(註2)。「たきや」は広告を出した翌年の1964年に廃業し「旅館東荘」になったが、1976年には駐車場になり、じきに「渋谷キャステール」というマンションが建った(1977年6月竣工)。
旅館街としては1969年の8軒が最高で、その後は数を減らし、1980年代には旅館街の形は失われた。1988年に旅荘美琴荘が「ホテルウォンズイン」に、美琴荘別館は「ホテルミコト」になり、少なくとも1995年までは営業していた。その後「ホテルミコト」は駐車場になったが、「ホテルウォンズイン」は現在も営業中である。1964年の創業から数えると56年、この地域の「性なる場」としての役割を保っている。
ホテルウォンズイン(2020年4月)
【表1】宮益坂(美竹町)の旅館・ホテル街の変遷
(クリックすると大きくなります)
【地図2】宮益坂(美竹町)の旅館街(1962年頃現況の住宅地図)
4 第3象限(明治通り西側、道玄坂南側)
渋谷駅の南西の一帯、現在、玉川通りのバイパス(国道246号線)がカットしているが、もともとは一続きの丘陵だった。
(1)桜ケ丘
まず、旧・大和田町、桜ヶ丘町のエリア。ここでは4軒の「連れ込み旅館」が広告を出している。
渋谷駅南口を出てバス発着所を抜けて、南平台に至る上り坂に入ると、右側に「平安楼」がある。広告には「桜ヶ丘 南口 西へ 高台」とある。やはり坂の途中の「連れ込み旅館」だ。
さらに坂を上ると、渋谷区立大和田小学校(現:渋谷区文化総合センター大和田)の先に「東洋荘」があった。別の広告に「桜ヶ丘 大和田小学校上」とある通りだ。丘の上の立地で、広告の挿絵や写真のように、下から見上げればかなりの威容だったはずだ。
「東洋荘」の写真(19540122k)
ちなみに、広告はないが、「平安楼」と「東洋荘」の間に、やはり「大和田小学校」に隣接して「旅館 桜ケ丘会館」があり、同種の旅館だと思われる。
大和田小学校の周囲に「連れ込み旅館」が多かったのは、1957年6月に旅館業法が改正され、学校の周囲おおむね100m以内に「清純な施設環境が著しく害されるおそれがあると認め」られる業者の営業は許可されなくなるまでは、なんらの規制もなかったからだ。「東洋荘」は1956年3月以前の開業なので、法的な問題はなかった。
「ひさご」は「渋谷駅南口3分 桜丘32」とある。桜並木がある「さくら通り」ではなく、すこし左に行ったところ(現在、曲がり角に「キリンシティ」がある)から桜丘を真っすぐ上る坂の途中、右側にあった。規模は小さい。この道の両側には、広告はないが坂下に「旅荘司」(1969年廃業)、「ひさご」のすぐ下には「旅館いずみ」、上には「桜ケ丘ホテル」、道向かいには「旅館京香」(1965年廃業)などがあり、5軒ほどが坂の途中の小さな旅館街をなしていた。「山水」は広告に「桜ヶ丘 高台」とあるが、場所はわからない。
大和田小学校の周囲の「連れ込み旅館」の寿命はあまり長くない。「平安楼」は1963年に廃業したようで1969年頃現況の住宅地図では「富士ハイツ」というアパートになっている(現在は「セルリアンタワー東急ホテル」の敷地の一部」)。「東洋荘」も1963年の廃業で、1969年頃現況の地図では北側3分の1ほどが「旅荘みき」(1975年廃業)になっている(現在はマンション「エクゼクティブ渋谷」1976年竣工)。「旅荘桜ケ丘会館」は健在でその後も名称を変えながら2003年まで営業を続ける。「東洋荘」があった場所の先(大和田小学校の裏手)に「ホテル白雲荘」(1975年廃業)と「ホテルグリーン」(1971年廃業)ができ、さらに奥に「ホテル南平台」ができたが、ほとんどが1970年代中頃までに消えた。
それに対して、桜丘町の小さな旅館街の寿命は少し長い。「ひさご」は1969年頃の地図にも見える(1971年廃業)。1976年頃現況図で3軒、1982年頃現況図で2軒が残っていた。「桜ケ丘ホテル」は1999年まで営業していたようで、学生時代の私が見たのは、ここであった可能性が高い。
桜丘の旅館・ホテル街は、それぞれ1軒を残して1970年代後半~80年代に姿を消した。
平安楼 東洋荘
(19560325) (19560309k)
ひさご 山水
(19541127) (19570331)
【表2】桜丘町の旅館・ホテル街の変遷
【地図3】桜丘町の旅館・ホテル街(1962年頃現況の住宅地図)
(2)「中央街」の奥(道玄坂一丁目)
渋谷駅南口から道路を渡り、「東急プラザ」の右側の「渋谷中央街」を奥に進むと上り坂になる。坂の途中のT字路を右手に行くと、営団地下鉄(現:東京メトロ)銀座線の車庫がある。この一帯(旧:大和田町、現:道玄坂一丁目)には14軒ほどの旅館が坂の途中の旅館街を形成していた。
「あたり荘」は「地下鉄車庫脇坂上」とあるように、地下鉄車庫のすぐ南側、坂を上りきった所にあった。「あたり荘」のあるブロックと、その向かいの車庫際のブロックには、8軒の中小規模の旅館があった。「あたり荘」はその中でも最大規模で、広告によると、千駄ヶ谷の「あたり荘」と同じ経営者(渋谷が本店)のようだ。
その1ブロック手前(東)に「ホテル一楽」があった、広告には「大和田町高台 駒大横」とある。1961年には南隣にプロレスの力道山の本拠「リキスポーツプラザ」ができる。
「永好(ながよし)」は地図に見当たらない。「地下鉄車庫前 東急本社前」という記載をたよりに探すと「南平台東急ビル」の裏手に「旅館永吉」があり、「ながよし」と読めるのでこれに相当すると思われる。ただ「地下鉄車庫前」とは言えないが。
その後の状況を追うと、1969年頃現況の地図では「あたり荘」は隣の料亭や個人宅を併せてさらに大きくなり、「一楽」も「永吉」も健在だ。しかし「あたり荘」は1969年に廃業したようで、1976年頃の地図では、跡地に大きなマンション「プリメーラ道玄坂」(1974年竣工)が建っている。
「一楽」は1973年に廃業し、1976年頃には更地になっていたが、じきにマンション「ソシアル道玄坂」(1977年竣工)が建った。「永吉」も1971年に廃業し「新南平台東急ビル」(1974年竣工)の敷地になってしまう。
周辺の旅館群は、1976年頃にはなお6軒がホテル化して残っていたが、1982年頃には4軒に、1995年頃には2軒になってしまう。そして現在、このエリアのラブホテルは「ホテルシルク」と「ホテル梅村」の跡地に1988年に開業した「ホテルP&Aプラザ」の2軒だけになっている。こうして坂の上の旅館・ホテル街はほぼ消滅してしまった。
ちなみに、院生時代の私が見かけたホテルは、この最後に残った「ホテルシルク」だった可能性が強い。
あたり荘 ホテル一楽
(19550211k) (19551111)
旅館永好(19550820)
【表3】「中央街」の奥(道玄坂一丁目)の旅館・ホテル街の変遷
【地図4】「中央街」の奥(1962年頃現況の住宅地図)
5 第2象限(明治通り西側、道玄坂北側)
18軒という最も多くの「連れ込み旅館」の広告が確認できるが、この地域の地形はかなり複雑だ。北西~西北西方向から流れる宇田川が谷を刻んで渋谷川に合流する。宇田川は暗渠化され井ノ頭通りになっている。さらに西南西から松濤の谷(現:東急文化村前の通り)が宇田川に入る、また南から神泉の谷が松濤の谷に合わさる。
(参考図)宇田川の水系
本田創「東京の水 2005 Revisited 2015 Remaster Edition」
http://tokyowater2005remaster.blogspot.com/2015/12/2-10.html
そこで、この地域は、さらに5つの小地域に分けてみることにする。
(1)「公園通り」北側(神南一丁目)
宇田川の谷の北側の台地を、代々木公園の南口から渋谷区役所前を通り、緩く下って「渋谷MODI」がある神南1丁目交差点に至るのが渋谷公園通りだ(1973年「渋谷PARCO」のオープンに合わせて命名。その前は「区役所通り」と呼ばれていた)。その北側(北谷町)には、1950年代後半、「飛龍荘」と「渋谷ホテル」の2軒の「連れ込み旅館」があった。
「飛龍荘」の広告には「松竹先 渋谷信用金庫角左入る」とある。ただ「渋谷駅下車二分」は無理で、アベックが早足で歩いても5分はかかる。「渋谷ホテル」は「松竹の一つ先を曲った高台 北町54」とある(「北町」は「北谷町」の誤植か)。どちらも坂の途中の「連れ込み宿」だった。
ここに見える「松竹」は、現在の「西武デパート渋谷店」A館の場所にあった「渋谷松竹・銀星座」映画館のこと。当時は、映画館が格好のランドマークだった。
1962年頃現状の住宅地図を見ると、当然のことながら「渋谷PARCO」は影も形もない。渋谷から代々木公園を目指す緩い坂道の沿道は、まだビルが立ち並ぶ状態ではなく、かなり閑散としている。それでも北側はそれなりに建物があるが、南側は「東京山手教会」があるくらいで、空き地が目立つ。
「山手教会」の向かい側に「渋谷ホテル」が、その少し坂下の路地に「飛龍閣」があった。
ホテル飛龍閣 渋谷ホテル
(19560107) (19540402k)
【地図5】公園通り(1962年頃現況の住宅地図)
【地図6】公園通り(1969年頃現況の住宅地図)
約7年後の1969年頃現況の住宅地図を見ると、「区役所通り」(後の「公園通り」)の南側は空き地が減って、「西武デパートC館」(現:西武パーキング館)が進出し、その東には映画館「渋谷地球座」が入るビルもできた。
「山手教会」の向かい側の「渋谷ホテル」は姿を消して、商業ビルになっている(1966年廃業、後に敷地の北半分にバレエ用品の「チャコット」の本社ビルが建つ)。「飛龍閣」はビル化したようだが同じ位置にある。
のちに「渋谷PARCO PART1」が建つ「有楽土地所有地」の筋向い、現在「渋谷区勤労福祉会館」があるブロックに「ラブホテル」と思われる「仙亭ホテル」「美苑ホテル」「千春ホテル」がある。「千春」はすでに1962年頃現況の地図に見えているが、このブロックが「ラブホテル」街化しつつあることがうかがえる。
さらに7年後の1976年頃現況図を見ると、1973年に「渋谷PARCO PART1」(赤枠)が開業し、さらに「PART1」の道路を挟んで北側の「仁愛病院」があった場所に「PART2」も開店している(1975年12月開業、2007年末休業)。
「飛龍閣」は「ホテル飛龍閣」になって営業を続けている。
注目すべきは、「勤労福祉会館」があるブロックで、以前からある「仙亭ホテル」「美苑ホテル」「千春ホテル」に加えて、「ホテル虹」「ホテルモンブラン」「渋谷ヒルトップホテル」「ホテルロイヤル」が開業し、7軒が密集する「ラブホテル」街になった。
この辺りは、坂を上りきったあたりで、東側は急勾配で渋谷川の谷に下っている。ホテルの名の通り「ヒルトップ」で、まさに丘の上の「ラブホテル街」だった。
さて、この丘の上の「ラブホテル」街のその後だが、1982年頃現況の地図では、一番古手の「千春ホテル」(1977年廃業)が商業ビルになり、「渋谷ヒルトップホテル」が「ホテルナンバーツー」になったが、なお6軒「ラブホテル」街を形成していた。ただ、一つ下のブロックで頑張っていた「ホテル飛龍閣」は消え、商業ビルになった(「渋谷三洋ビル」)。
【地図7】公園通り(1976年頃現況の住宅地図)
【地図8】公園通り(1982年頃現況の住宅地図)
しかし、1995年現況の地図では様相は一変する。「ホテルナンバーツー」と「ホテル虹」が1982年、「ホテルロイヤル」が1983年、「美苑ホテル」が1989年と相次いで廃業し、残るは「ホテル仙亭」が名を変えた「ホテル渚」(2001年廃業)と「ホテルモンブラン」(2000年廃業)の2軒のみになってしまう。それらも2000年代初頭に姿を消す。
そして今、かつての「ラブホテル」街の面影はまったくない。ここでも坂の途中のホテル街は消滅してしまった。
【表4】公園通りの(神南一丁目)の旅館・ホテル街の変遷
1970年代、おしゃれで文化的な渋谷の象徴として華々しく登場した「PARCO」のすぐ向かいは「ラブホテル」の集中エリアだった。
1970~80年代初頭の若者にとって、渋谷公園通り界隈は、単におしゃれなだけでなく、微妙に性的なエリアだった。公園通りを「ラブホテル」を目指して上っていくカップルもいたし、代々木公園で野外デートをした後、公園通りを下って「ラブホテル」に入るカップルも多かったはずだ。私も代々木競技場のあたりで、何度もデートした思い出がある。貧乏学生でお金がなかったからラブホテルには入らなかったが。
(2)「井ノ頭通り」周辺(宇田川町)
渋谷川の最大の支流、宇田川の谷とその斜面(公園通り南側)の地域。宇田川は暗渠化して下流部は井ノ頭通りになっている。現在、「西武デパート渋谷店」のA館とB館の間を通っている井ノ頭通りが、1960年代まで国際通りと呼ばれていたことを知っている人は、もうかなり少ないだろう。「西武デパート渋谷店」B館の一部になっているところに「渋谷国際」という映画館があったからだ。
この国際通り周辺には、1950年代後半、かなりの数の「連れ込み旅館」があった。広告が確認できるものだけで7軒を数える。
国際通りの入口(明治通りとのT字路)に近い方から見てみよう。
まず、「タナベ」は「国際通り 松竹横」とある。この「松竹」は、既に述べたように、現在の「西武デパート渋谷店」A館の場所にあった「渋谷松竹・銀星座」映画館のことなので、「タナベ」は国際通りの入口に近い南側にあった。
「青木荘」は「松竹と東銀の間左入り 国際向側」とあるので、これも国際通りの南側になる。
「ホテルチトセ」は「国際通り 二又・右側」とある。この「二又」は、東西に走ってきた井ノ頭透りが宇田川の流路と離れて、北西に向きを変える所にあるY字路のことで、現在、間に「渋谷警察署宇田川町交番」がある。ちなみに宇田川の流路は左側(南側)の細い方の道になる。
2016年7月のある日、私は「東急ハンズ」に行こうと井ノ頭通りを歩いていた。ふとビルの名称が目に入った。「ちとせ会館」。
思わず路上で「あ~っ!」と声を出してしまった。まさにそこは「ホテルチトセ」があった「二又・右側」の場所ではないか。
つまり、1950年後半に存在した連れ込み旅館「ホテルチトセ」の名前が、現在の「ちとせ会館」に受け継がれていたということ。なぜ、それまで気づかなかったかといえば、1962年頃現況の住宅地図には、現在の「ちとせ会館」の場所はすでに「宇田川有料駐車場」になっていて「チトセ」の文字はなかったから。この駐車場はかなり広く、「ホテルチトセ」が大きな建物であったことがわかる。広告の「和洋間四十数室」という規模もうなずける。
住宅地図でこの場所を追うと、1962~1976年頃「宇田川有料駐車場」、1978年頃「東急ハンズパーキング」、1982年頃「(仮称)千歳会館」となる、つまり、20年ほど有料駐車場で、ようやく1984年9月に商業ビル「ちとせ会館」が建った。
1950年代の「連れ込み旅館」の屋号が、後継のビルに受け継がれることはときどきあるが、20年を隔ててというのは珍しい。
「チトセ」の話が長くなってしまったが、話を戻そう。
「みすず」は「国際通り 300m右高台」とある。国際通りの入り口から300mというとかなり奥で、「右高台」とあるので、「井ノ頭通」と「公園通り」を結ぶ坂道(「PARCO」の脇に出る、通称「ペンギン通り」)のどこかだろう。この坂道には、1962年頃現況の地図に、右側に「ホテルコスモス」、左側に「旅館つたや」があり、その北に「旅館よし村」があった。どれも坂の途中の宿だ。「コスモス」が「みすず」の後身ではないかと疑っている。
「ふくや」は「国際通り シブヤ浴泉隣」とある。銭湯「渋谷浴泉」は現在、巨大な商業施設「渋谷BEAM」の一部になっている。そのどちら隣かわからないが、「ふくや」は国際通り沿いにあったことは間違いない。1963年に廃業したようだ。
「岩崎」は、1962年頃現況の地図で、Y字路の左側の道をちょっと行って左側に入る路地に見える。広告には「大映真裏」とあるが、「大映」は「東急本店通り」にあった「渋谷大映」映画館のことで、確かにその真裏になる。つまり、今風に言えば「センター街」の奥ということになる。1971年廃業して「新岩崎ビル」になった。
最後に「黒岩荘」。「国際通り 左突き当り」とあるが、例のY字路の左側、宇田川が暗渠になっている道を行くと、やがて道が尽きる。と言うか、そこから上流の宇田川は暗渠ではなく開渠、つまり地上を流れていた(現在は暗渠化され道路になっている)。その宇田川が地上に現れる地点の北岸に「黒岩荘」があった。つまり、かろうじて川べりということになる。
「黒岩荘」は「渋谷の衣川」を称し(読みは「きぬがわ」で栃木県の鬼怒川温泉に仮託)」、「水族館付き」を自慢していた。当時の宇田川にどれほどの魚がいたか、かなり疑問だが、どうもこの旅館は川・水へのこだわりが感じられる。それも宇田川の畔という立地、失われた清流への追憶によるのかもしれない。「黒岩荘」は1979年に廃業し、跡地には「渋谷エステートビル」(オフィスビル)が建っている。
残念ながら、この地域の「連れ込み旅館は」は、1962年現況の地図でも正確な位置が確認できないものが多い。ただ、旧・宇田川の谷(低地)の国際通りと、その北側(南向き)の斜面(坂の途中)にかなりの数の「連れ込み旅館」があったことは間違いない。広告に見えないものを合わせると10軒を超えるだろう。
この地域は、その後渋谷でも有数の繁華街となっていき、1960年代の閑静な環境は失われ、いち早く商業ビル化が進んだ。多くの「連れ込み旅館」は「ラブホテル」化することなく姿を消したのはそのためだろう。それでも、1982年頃現況図では、宇田川北側の斜面を上る「ペンギン坂」の途中に「ホテル石庭」が、「ペンギン坂」と「スペイン坂」の合流点に「ホテルオリエント」があった。「ホテル石庭」は「ホテルコスモス」の後身だ。「ホテルオリエント」については1980年代の初め頃、「スペイン坂」を降りるとき「こんな賑やかな場所では入りにくいだろうな」と思った記憶がある。
どちらも1980年代半ばまでにオフィスビルになり、この界隈から「性なる場」は消えてしまった。
タナベ 青木荘
(19570117) (19530430)
チトセ みすず
(19550507) (19561207k)
ふくや 岩崎 黒岩荘
(19571211) (19551228) (19570130)
【地図9】井ノ頭透り(1962年頃現況の住宅地図)
(3)「東急本店通り」北側(松濤一丁目)
渋谷川の支流、宇田川のそのまた支流の松濤の谷筋を中心とする地域。松濤の川は、佐賀の鍋島侯爵家の別邸(現:鍋島松濤公園)の松濤池の湧水を源流とし、現在の「東急百貨店本店」の裏側を流れて、宇田川に合流していた。
「東急本店」(1967年開業)の敷地には、1964年まで「渋谷区立大向小学校」(宇田川町に移転し、1997年に統合に伴い神南小学校に改称)があった。「大向(おおむこう)」とは宇田川西側の細長い低地で、大正期までは「大向田んぼ」と呼ばれる水田が広がっていた。玉川通りから分かれて(分岐点には「渋谷109」)ここを北西方向に走る道が大向通りで、入口を入って少し行った右(北)側には「渋谷大映」映画館があったので大映通りとも呼ばれていた(後に東急本店通り、現:東急文化村通り)。
「渋谷大映」映画館(1950年1月)。最近まで大型パチンコ店「マルハンパチンコタワー渋谷」があった(2016年1月17日閉店)。
また、「大向小学校」前のY字路で大向通りから分かれて、ほぼ松濤の谷に沿って西に向かう道は栄通りと呼ばれていた。
松濤の小さな谷筋の北側(南向き)の斜面、そして宇田川の西側の斜面、つまり大向通りの西側、栄通りの北側に、1962年現況の地図で7軒(別館をカウント)ほどの旅館、ホテルがあった。
「ホテル山王」は2軒見える。1軒は「大向小学校」のすぐ裏手、低い崖を上がったところにもあった。もう1軒は大向通りをかなり奥に行ったところ。立地の便からして小学校裏手の方が先(本館)だろう。広告の「大映の先の横」という記述もふさわしい。推測するに、前にも触れた1957年6月の旅館業法の改正で、学校の周囲おおむね100m以内の営業に規制がかかった(増改築が難しくなった)ことと関係があるかもしれない。小学校裏の「ホテル山王」は明らかに100m以内だから。
大向通りの左側の斜面には手前から「一休荘」「ホテルエコー」、そして「ホテル山王」(別館?)が並んでいた。さらに奥に広告はないが「旅館こだま荘」があった。
「一休荘」の広告には「渋谷大映先 交番右入る」、「ホテルエコー」の広告には「大映先 大向通」とあり、「ホテル山王」も含めていずれも「大映」をランドマークにしている。1950年代の都市における映画館の重要性がよくわかる。
次に「ホテル ニューフジ」だが、広告の道案内には「大映通 消防署隣」とある。「消防署」は「渋谷消防署栄通出張所」のことで、広告にはかなりいい加減な地図が付いているが、要は消防署の火の見やぐらと郵便局(栄通り郵便局)の間の道を入れということ、この道は「観世能楽堂」に行く上り坂で、何度も歩いたことがある。
1962年現況の地図には「ホテル ニューフジ」は見えないが、地図の場所には「ホテル石亭」があり、これが後身だと思われる。西隣に「ホテル石亭・別館」があった。
ちなみに、「ホテル ニューフジ」=「ホテル石亭」の上の段には東京都知事の公館があった。連れ込みホテルと都知事公館はお隣さんだったのだ。
この斜面のホテル街のその後を見てみよう。1969年現況の地図では「一休荘」がビルになって消えた以外は健在だ。都知事公館の主は東龍太郎から美濃部亮吉に変わった。ところが1976年頃現況の地図では「山王本館」(1969年廃業)と「石亭本館・別館」(1969年廃業)が消え「山王別館」と「エコー」、それに「こだま荘」の3軒になってしまう。「山王本館」と「石亭別館」は駐車場に、「石亭本館」の跡地は空地になっている。
そして、1982年頃現況図では、「山王別館」がオフィスビル(「サンエルサビル」1978年竣工)になって消え、「エコー」と「こだま荘」の2軒になる。「石亭本館」の跡地は南に拡張した都知事公館(主は鈴木俊一)に飲み込まれる。「ホテルエコー」は1986年まで営業を続けたようだが、斜面のホテル街は1980年代半ばに姿を消した。
ホテルエコー(19531126)
ホテル山王(19550911)
一休荘(19560325)
ホテル ニューフジ(19540222)
【表5】松濤谷北斜面(松濤一丁目)の旅館・ホテル街の変遷
【地図10】松濤谷北斜面の旅館・ホテル街(1962年頃現況の住宅地図)
(4)円山下・中腹(道玄坂二丁目)
玉川通り(道玄坂)北、大向通り(文化村通り)の西、松濤の谷の南側、旧栄通り郵便局(現在の「東急文化村)の西隣)から円山に上っていく坂道(現在の道玄坂二丁目と円山町の境界)の東。円山に上っていく途中(中腹)、現在の道玄坂二丁目の地域。円山の「三業地」は別に扱う。
1962年頃現況の地図には、この地域に17軒ほどの旅館を数えることができるが、多くは小規模なもので、広告が確認できるのは3軒のみ。
「高田旅館」は、大向通りの西側の斜面、階段状に整地した4段目にあった。この辺りには、道玄坂以外に真っすぐに上る道はなく道路が迷路のように複雑だ。広告に「道玄坂上る テアトル映画街入口 薬屋右入る四つ角左」とややこしいことを書いているのは、そのためだろう。
「テアトル映画館街」は「百軒店」の中にあった「テアトル渋谷」(現:「ライオンズマンション道玄坂」)、「テアトルSS」(現:「ホテルサンモール」)「テアトルハイツ」(現:マンション「サンモール道玄坂」)の映画館群のことで、「映画館街入口」というのは、現在「百軒店」の入口を示すアーケードがある道のこと。「高田旅館」はそこから入って右(少し下る)に行って左にあった(やはりややこしい)。道玄坂寄りに別館があり、その隣に本館があったが、1969年頃現況の地図では別館部分だけが旅館として営業している(1976、1982の現況図も同様)。1987年に廃業したようで、本館跡地は長らく駐車場だったが、現在(2020年5月)は大規模な再開発事業が進行している。別館跡地は「ホテルR25」(経営者は「高田旅館」と同姓)になっている。
「高田旅館」の一段下には、広告はないがこの地域で最も大きい旅館「渋谷聚楽」があったが、後に広い駐車場になり、現在は高田旅館本館跡地と合わせて、大規模な再開発事業が進行中。
「高田旅館」の1段上に「風久呂」があった。広告には「道玄坂 百軒店 ひまわり楽器右横入る」とある。「風久呂」は1976年頃の現況図には見えるが、1982年頃の現況図では「ホテルガラスの城」になっている。さらに1995年頃の図では「ホテルプリンスキャッスル」になった(現在は廃業)。ちなみに曲がり角の目印の「ひまわり楽器店」は、現在「ひまわりビル」になっている。
「風久呂」の西隣には「旅荘一村」があり、そのまた隣に「二幸」があった。「二幸」の広告は「大映先 大向小学校前高台」とあって大向通から案内している。小学校の前の坂を上って右折した場所なので、その方がわかりやすかったと思う。「二幸」は1976年頃の現況図で西隣にあった旅館を併せて大きくなっている。その敷地は1982年頃の図では「(仮称)ホテルV」となっていて、さらに1995年頃の図では「ホテルアランド」になる。経営がどう受け継がれたか判然としないが、もしかすると「二幸」の発展が「ホテルアランド」なのかもしれない。
高田旅館 風久呂
(19550506k) (19570124)
二幸(19551228)
ところで「百軒店」は、関東大震災(1923年)後に「円山三業地」に隣り合う場所に開発された商店街で、戦後はテアトロ系映画館を中心に、喫茶店、バー、飲み屋、食堂など小規模な飲食店が立ち並ぶ繁華街になった。その中にはあまり旅館はなかった(3軒)。
この地域(道玄坂二丁目)の旅館・ホテルの歴史的な変遷を、住宅地図上で確認できる軒数で見てみよう。
1962年 69年 76年 82年 95年
17 →17 →21 →26 →33
1960年代には変化がなかったが、70年代に入り増えはじめ、80年代には増加基調に拍車がかかり、90年代半ばには、60年代のほぼ2倍にまで増殖している。
今まで、見てきた地域では、坂の途中の旅館街・ホテル街は、80年代までに衰退・ほぼ消滅していたが、道玄坂の途中の旅館街・ホテル街では、まったく逆の様相が現れている。
【地図11】円山下・中腹(道玄坂二丁目)の旅館・ホテル街(1962年頃現況の住宅地図)
(5)円山三業地(円山町)
道玄坂を上がった北側。渋谷台地の上、円山町の三業地(花街)。三業地は、料理屋、待合茶屋、芸妓置屋の三業種の営業が許可された地域のこと。
渋谷・円山の三業地は、1913年に指定され、1919年に「渋谷三業株式会社」を設立、関東大震災(1923)の直前1921年には芸妓置屋137戸、芸妓402人、待合96軒を数えた。戦後も繁栄は続き、1965年には料亭84軒があり、芸者170人がいた。
道玄坂を上りきった道玄坂上交番前交差点を右に入る道(北に進んで坂を下り「東急文化村」の前に出る道=現在の円山町と道玄坂二丁目の境界)の西側、交差点の交番(渋谷警察署道玄坂上交番)の先を左に入る道の北側、神泉の谷に下りる急崖の東側、松濤の谷に下りる南側が「三業地」の中心だった。「渋谷三業組合事務所」は、交番の先の東西道を3ブロック進んだ北側にあった。
この地域で広告が確認できる旅館はわずか2軒だけ。
「ホテルまつ」は広告に「道玄坂上(玉電曲角)本田屋餅菓子店横二軒」と見え、道玄坂上交番前交差点を右に入って3軒目にあった。三業地の中心からはやや外れた、とば口。「玉電曲角」というのは、渋谷駅を出て専用軌道で坂を上がってきた玉川電車(東急田園都市線の前身)がこの交差点でカーブして玉川通りの路面に出る。「本田屋餅菓子店」は1962年現況図で交差点の北角に「喫茶本田屋」と見えるのと関連するものだろう。
「まつ」のその後は、1969年現況図では「料理まつ」と見えるが、1971年に廃業したらしく、1976年現況図では駐車場になっている。現在はオフィスビル「Eスペースタワー」の敷地の一部になっている。
「よね林荘」は「道玄坂上 交番手前右入る」とあるように、道玄坂上交番前交差点を右に入り少し進んで左折した南側にあった。広告に「料亭米林別館」とあり、道向かいには「旅館米林」があり、その別館として1957年に開業したらしい。1969年に廃業したようで1969年頃現況図では別館が「タキザワ旅館」に、本館は「ホテルニッポン」(1969年開業、1975年廃業)なっている。現在は「まつ」と同様、オフィスビル「Eスペースタワー」の敷地の一部。
ホテルまつ よね林荘
(19561023) (19570107)
この地域の広告が少ないのは、そもそも三業地と「連れ込み旅館」は相性が悪いからだと思う。三業地において、性交渉の中心は男性と玄人の女性で、その場は「待合」だった。それに対して「連れ込み旅館」の性交渉は男性と素人の女性だった。性的関係(セクシュアリティ)の構造が異なる。
わかりやすく言えば、玄人の女性が仕事をしている三業地にしてみれば、わざわざ素人の女性を呼び込む必要はなく、むしろ商売の邪魔なのだ。
こうした三業地と「連れ込み旅館」の(きつく言えば)排斥関係は、池袋や大塚の三業地でも見られる。
1962年現況の地図では、三業地の中心部分には料理屋・料亭が76軒数えられる。旅館は13軒にすぎず、圧倒的に料理屋・料亭が優勢だ。さらに言えば、この旅館も立地からして男性が素人の女性を連れ込むのではなく、玄人の女性が男性を連れ込む場所、「待合」的な旅館ではなかったかと思う。
そうした三業地の形態は1969年頃現況の地図でもほとんど変化がない。ところが1976年現況の地図では料理屋・料亭が24軒と大きく減り、旅館・ホテルは19軒に増える。地図の様式が変わったので、料理屋・料亭の数え落としがあると思われるが、ほぼ半減しているのは間違いない。「渋谷三業組合事務所」の建物も「円山自治会館」に変わってしまう。花街の衰退が見て取れる。
そして、1982年現況図では、料亭・料理屋11軒、旅館・ホテル20軒と逆転する。さらに1995年現況図では、9軒に対して27軒と差が大きく開く。
つまり、三業地が衰退してくると、両者の力関係が変わり、「連れ込み」系の旅館やホテルが三業地の中心部にまで入ってくるという現象がはっきり見られる。その勢力交代は1970年代後半に始まり1980年代に決定的に進行した。
【地図12】円山三業地の料亭と旅館(1962年頃現況の住宅地図)
(赤っぽい色が料亭・料理屋、緑色が旅館)
【地図13】円山三業地の料亭と旅館(1982年頃現況の住宅地図)
ところで、松濤の谷から円山へ上がる道は、先に述べた旧・栄通り郵便局(現在の「東急文化村)の西隣)から上がる坂道(現在の道玄坂二丁目と円山町の境界)と、その一本先(西)の坂道の2本がある。円山の三業地に入るには道玄坂からが表口なので、この松濤の谷からの2本の道は裏口に当たる。
1962年現況の地図には、この2本の坂道の周囲に12軒の旅館があった。いずれも規模は小さく、裏口にふさわしい感じだ。ところが1969年現況図では14軒に増える。特に西側の坂道の両側の増加が著しい。こうして1970~1990年代には2本の急坂の両側に14~15軒の「ラブホテル」がびっしり林立するという特異な景観が出現した。
この坂の途中のホテルの開業年を列記すると、坂下に近い「ホテル龍水」1961年、「ホテル三喜荘」1964年、「ホテルサボア」1975年、次の段の「ホテル山水」1965年、「ホテルプリンセス」1967年、「ホテルニュー白川」1969年、もう1段上の「ホテルローレル」1971年、「ホテルユートピア」1973年、「ホテルスイス」1975年、坂上に近い「旅館若草」1973年となる(「ホテルはせがわ」と「ホテルみやま」は開業年不明=1950年代)。ホテルになる前からある「はせがわ」「みやま」「龍水」「三喜荘」「山水」に加えて、1960年代末からホテルの開業が相次いだことがわかる。
つまり、渋谷・円山の「ラブホテル街」の形成は、坂の途中から始まり、次第に坂を上って丘の上に至る、まるで「ラブホテル」が丘を上るかのように形成された。
【地図14】円山裏・二本の坂道周辺(1962年頃現況の住宅地図)
「龍水」「長谷川(はせがわ)」「みやま」はすでに見える。
【地図15】円山裏・二本の坂道周辺(1982年頃現況の住宅地図)
6 その他
地域巡りの最後に「その他」としたものを見てみよう。象限的にはすべて第3象限になる。
(1) 神泉
円山町の台地の西縁は、松濤の谷に南から北へ注ぐ神泉の谷へ急斜面で落ち込む。京王電鉄の井の頭線は、円山町をトンネルで抜けると、神泉駅のところで地上に出て、またすぐにトンネルに入る。駅が神泉谷の底にあることがよくわかる。
神泉駅の北に「菊栄旅館」があった。「高台閑静」とうたっているように、神泉谷の西側の斜面にあった。ここもやはり「坂の途中」の宿だったが1964年に廃業した。
神泉駅から東へ、急坂の途中に「旅館女大名」(1969年廃業)が、坂を上ったあたりには「旅館一条」(1964年廃業)「旅館たなか」(1965年廃業)があった。これらも1960年代末までに消える。
菊栄旅館(19530619k)
【地図16】神泉谷(1962年頃現況の住宅地図)
(2)神山町
1955~58年頃、かなり斬新なデザインの広告を出していた「ホテルキャデラック」。住所の「神山59」は、山手通り(環状6号線)から東に少し入ったあたりで、神山町でも松濤町との境界に近い場所。
神山町一帯は今でこそ「奥渋谷」と呼ばれる人気スポットになっているが、渋谷駅からはかなり遠い。広告にも「渋谷駅より幡ヶ谷行きバス」(現:東急バス渋55系統)「3ツ目東大裏下車」「渋谷駅からタクシー70円」とあり、「自家用車時代にふさわしい」というコピーからも、逆に歩くにはつらい距離であることがわかる。
神山町59番地はさして広くない。1962年頃現況の地図を見ると、そこに「東京湯ヶ島ホテル」がある。比較的大きなホテルで59番地の半分近くを占めている。残り半分は「新自由キリスト道会本部」とその付属の「松村幼稚園」が占め、他に余地がないので、これが「ホテルキャデラック」の後身だろう。
広告に「旧プリンスオブトーキョー」とあるが、今のところどんな施設か不明である(なんとなく進駐軍関係のような・・・)。
現在、この場所は、なんとモンゴル大使館になっている。15年ほど前、地方在住の友人に頼まれて、モンゴル大使館にビザの代行取得に行ったことがある。松濤公園を左手に見ながら道を真っすぐどんどん奥に進む感じだった。そうか、あそこだったのか!
ちなみに、「東京湯ヶ島ホテル」の廃業は1971年、日本とモンゴル人民共和国(当時)との国交樹立、大使館開設は1972年なので、辻褄はぴったり合う。
ホテルキャデラック(19551120)
ホテルキャデラック(19561020)
ホテルキャデラック(19580212)
【地図17】神山町付近(1962年頃現況の住宅地図)
(3)「大坂上」付近(目黒区青葉台)
道玄坂を上りきったさらに先、玉川通り(大山街道)が渋谷台地から目黒川の谷に下りる急勾配「大坂」の上。行政区分はもう目黒区で、当時は上目黒八丁目、現在は玉川通りの南側が青葉台三丁目、北側が青葉台四丁目になっている。
道玄宿 山のホテル
(19561207k) (19550702)
「道玄宿」は「道玄坂上四つ角」とあるが、この「四つ角」は玉川通りと(旧)山手通りが交差する、現在の「神泉町交差点」のこと(ここから西が目黒区になる)。その南西角に「道玄宿」はあった。「渋谷の高台」とあるように道玄坂を上りきった台地の最高地点(標高35m)に近い「丘の上の宿」だった。跡地は「(株)トヨタ東京カローラ・渋谷店」になっている。
ところで、1976年頃現況の地図には円山町の花街に近い道玄坂二丁目に「旅館道玄宿」が見える。この旅館は1969年頃現況図には「旅館道玄坂」として見えているが、「道玄宿」が正しいとするならば、もしかすると、道玄坂上の「道玄宿」が玉川通りの拡幅(1960年代後半)で敷地が削られたのを機会に道玄坂二丁目に移転したのかもしれない。
「山のホテル」は、松濤の「ホテル ニューフジ」と同系列で、玉川通りをさらに西に行った「大坂上」にあった。「渋谷駅八分」は相当健脚のアベックでも無理だと思う。「中将本舗前」とあるのは、婦人薬「中将湯」で有名な「津村順天堂」(現:「ツムラ」)の目黒工場がこの地にあったから。
玉川通の北側の斜面には「旅館大藤館」「旅館福田屋」「旅荘新舞子」があり、「山の上ホテル」と合わせて、ここも坂の上の小さな旅館・ホテル街を形成していた。
このホテルは「山の」という名称に加えて「丘の離れ」というコピーからわかるように「都会の山荘」のイメージを強く演出していた。広告の挿絵もまるで軽井沢かどこの山荘のようだ。
玉川通り沿いに別館があり、その奥(南側)に本館があったが、本館の南側はすぐに崖で、目黒川の低地(標高13m)とは15m以上の差があり、たしかに眺望は絶好だったと思う。
それにしても、現代の私たちは「都内で味わう奥伊豆情緒」は、いくらなんでも大袈裟だと思う。しかし、まだ観光旅行に出かけられる人が少なかった時代には、そうした仮託(疑似体験)に客を寄せる十分な効果があったのだろう(註3)。
現在、本館部分には、高級マンション「パークコート目黒青葉台ヒルトップレジデンス」が建っている。
(19571004)
「三平」は、池袋の連れ込み旅館「三平」が渋谷に進出してきた宿で、1957年の開業。別の広告に「道玄坂上 三丁右入る」とあるが、玉川通りが目黒川の谷に下る「大坂」の北側斜面を階段状に整地した場所にあった。「断崖上」というのは大袈裟だが、見晴らしは良かったはず。「三平」の2つ下の段には「旅館山渓園」があった。
ただ、渋谷駅からははるかに遠く(約1.5km)、道玄坂上にあった玉電(東急田園都市線の前身の路面電車)の「上通停留所」からでも、かなり距離がある(約800m)。送迎に「自家用車無料サービス」というのも無理もない
この付近は首都高速3号渋谷線の池尻インターチェンジが設置されたため、道路の改変が激しく、跡地の比定が難しかったが、現在、「ソネンハイム大橋」というマンションの北隣に相当する。
三平(19570116)
【地図18】道元坂上~大坂上付近(1962年頃現況の住宅地図)
おわりに
以上、ぐるっと渋谷の「連れ込み旅館」から「ラブホテル」の歴史地理的な状況をみてきた。その結果、1950年代後半から60年代にかけて、渋谷のあちこちに旅館街が形成されていたことがわかった。そのキーワードは「坂の途中」だ。整理してみよう。
形成 全盛 衰退
① 美竹町(宮益坂の途中) 1960年代初頭?1960年代末(8軒) 1980年代
② 桜丘町(桜丘へ上がる坂) 1950年代後半 1960年代初頭(9軒)1970年代後半
③ 道玄坂一丁目(中央街奥の坂)1950年代後半 1960年代初頭(14軒)1970年代後半
④ 神南一丁目(公園通りの途中)1970年代前半 1976年(7軒) 1980年代前半
⑤ 宇田川町(宇田川の北斜面) 1950年代後半 1960年代初頭(10軒)1960年代後半
⑥ 松濤一丁目(松濤谷の北斜面)1950年代後半 1960年代前半(7軒) 1970年代
⑦ 道玄坂二丁目(道玄坂の途中)1950年代後半 1990年代(33軒) 2000年代後半
⑧ 円山町(円山三業地の裏の坂)1950年代後半?1990年代(14軒) 2000年代後半
つまり、渋谷の坂の途中の旅館・ホテル街は8か所あった。若き日の私の「坂を上っていくとラブホテルがある」という印象は間違っていなかった。そのうち①②③⑤⑥の5か所は、1950年代後半から60年代初頭に形成され、60年代に全盛期を迎え、70年代から80年代に衰退し、ほぼ消滅していくという同じパターンをたどる。④だけは形成が70年代前半と遅いが、衰退の時期はやはり1980年代で変わらない。
消えていった6か所と、まったく違う動きをするのが⑥⑦で、形成の時期こそ同じだが、1970代後半~80年代に大増殖し、90年代にかけて全盛期を迎える。
つまり、①~⑥の旅館・ホテル街が衰退・消滅していくのと、⑦⑧が増殖・全盛となる現象が、1970代後半~80年代に同時並行的に起こったことになる。さらに⑥⑦は坂の途中から坂の上、つまり古くからの三業地である円山町の中心部にも侵入していく。増殖する「ラブホテル」は坂を上り丘の頂に達する。その結果、道玄坂と松濤の谷に挟まれた地帯に「ラブホテル」が極端に集中し、1980年代に巨大な「渋谷円山町ラブホテル街」が形成された。
2020年4月の段階で、渋谷区の「ラブホテル」の分布を調べたところ、全61軒の内訳は、円山町に28軒、道玄坂二丁目に27軒、地理的に連続するこのエリアに90%の55軒がある。玉川通り向かいの道玄坂一丁目の3軒を合わせると95%に達する。残り3軒は隣の駅の恵比寿なので、渋谷エリアの他の地域には「ラブホテル」はないと言ってもいいほどの集中度だ(註4)。
なぜこのような現象が起こったのだろうか?
同じ業種の店が狭いエリアに多数立地すれば過当競争になって共倒れの危険性が高まるのではないか、それより適宜分散した方が良いのではないか、と素人考えに思う。
その一方で、同様の過剰集積の事例が2つ思い浮かぶ。
一つは、1950年代後半の千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街だ(註5)。さして広くない地域に広告が確認できるものだけで39軒、おそらく50軒近い「連れ込み旅館」があり、東京最大の集中地域だった。経営的にはさぞ競争が激しかったと思うが、利用者の側からすれば、女性を連れて新宿駅南口からタクシーに乗り「千駄ヶ谷へ」と言えば、運転手が馴染みの旅館に連れて行ってくれる。ともかく女連れで千駄ヶ谷に行けば性交渉ができるというメリットがあった。
もう一つは、1970年代初頭に始まる「新宿ゲイタウン」の形成である(註6)。新宿二丁目「仲通り」周辺の狭い地域に200軒以上のゲイバーが集中する状態は、明らかに過剰集積だが、それで50年も成り立っている。それを支えているのは、ともかく二丁目に行けば、同じ性的指向の仲間に会えてと楽しい時間を過ごせるというメリットだ。
実は、「二丁目ゲイタウン」が形成される以前、山の手の盛り場、池袋にも、新宿の二丁目以外の地域にも、そして渋谷にも、ゲイバーがあった。そうした各地域に点在していたゲイバーは、ゲイタウン成立後に、すべてではないにしろ、姿を消していく(註7)。
地域に散在していたものが消え、特定のある地域に集中するという同じような過剰集積現象が、しかも似たような時期に起こっている。そこに「渋谷円山町ラブホテル街」の過剰の理由があると思う。
すり鉢の底の渋谷駅で降りたカップルは、どちら方向に歩いて坂を上るか迷うことなく、ともかく道玄坂を上がり円山町の「ラブホテル」街を目指せば、セックスできる。こうした利用者にとってのメリットが、過剰集積を支えている。
それでもまだ、遮二無二、円山町を目指すより、どこの坂を上ろうかとためらうカップルの方が情緒があって、私には好ましく思うのだが。
【註】
(註1)「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)は公開していないが、これを使って書いた論考として、次の2本がある。
① 三橋順子「1950年代東京の『連れ込み旅館』について ―『城南の箱根』ってどこ?―」(2020年)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-08
② 三橋順子「東京・千駄ヶ谷の『連れ込み旅館』街について ―『鳩の森騒動』と旅館街の終焉―」(2020年)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-13
(註2)渋谷の旅館・ホテルの開業・廃業年については、金益見『性愛空間の文化史』(ミネルヴァ書房、2012年)32~43頁掲載の「経営者名簿」を参照した。
(註3)1950年代の「連れ込み旅館」の有名観光地・温泉への仮託は三橋(註1)の①を参照
(註4)カップルズ「東京都 渋谷区のラブホテル一覧」
https://couples.jp/hotels/search-by/cities/20
(註5)三橋(註1)の②を参照。
(註6)三橋順子「新宿二丁目『ゲイタウン』の形成過程」(『現代風俗学研究』19号 現代風俗研究会・東京の会、2019年)
(註7)「東京・大阪『ゲイ・レズ・SMバー』徹底比較」(『週刊大衆』1971年月日不明)によると、渋谷には9軒のゲイバーがあったが、「新宿二丁目。ゲイタウン」の成立後、数を減らしていく(三橋順子「戦後東京における『男色文化』の歴史地理的変遷」『現代風俗学研究』12号、現代風俗研究会・東京の会、2006年)。時期は異なるが、石田仁「いわゆる淫乱旅館について」(井上章一・三橋順子編『性欲の研究 東京のエロ地理編』平凡社、2015年)によると「千雅(せんが)」(1975~1989年)という男性同性愛者向けの「淫乱旅館」が道玄坂上にあった(三業地の外、南西のブロック)。1969年頃現況の住宅地図にみえる「花仙(かせん)」という旅館が前身とのこと。
【備考】
広告図版の8桁の数字は、掲載年月日を示す。
末尾にkがついているのは『日本観光新聞』、他はすべて『内外タイムス』。
【住宅地図】
「東京都全住宅案内図帳・渋谷区東部 1959」
(住宅協会。1959年)
「東京都大阪府全住宅精密図帳・渋谷区 1963年版」
(住宅協会東京支所、1962年6月)
「全国統一地形図式航空地図全住宅案内地図帳・渋谷区 1970年度版」
(公共施設地図航空株式会社、1971年1月)
「ゼンリンの住宅地図・東京都渋谷区 1983」
(日本住宅地図出版、1983年3月)
「ゼンリンの住宅地図・東京都渋谷区 1996」
(ゼンリン、1996年1月)
なお、住宅地図の調査と発行のタイムラグを考慮して、1963年版→1962年頃現況図、1970年版→1969年頃現況図などのように1年戻して表記した。
2020年4月20日 掲載
2020年5月6日 データ修正
2020年5月27日 現地調査に基づき、文章の一部修正。
【論考】東京・千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街について ―「鳩の森騒動」と旅館街の終焉― [論文・講演アーカイブ]
2020年4月14日(火)
この論考「東京・千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街について ―「鳩の森騒動」と旅館街の終焉―」は、2012年1月22日に、井上章一先生(現:日本文化研究センター所長)主催の「性欲研究会」(京都)で報告した内容をベースにしている。
その後、いろいろな事情で放置してあったが、思い立って、その後に収集した資料も加えて、論文形式でまとめた。
とはいえ、どこも載せてくれないのは明白なので、このアーカーカイブに載せておく。
引用される際には、著者名と、この記事のURLを注記していただきたい。
【目次】
はじめに ー「連れ込み旅館」街・千駄ヶ谷ー
1 千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街についての「通説」と批判
2 「鳩の森騒動」の経緯とその影響
3 千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街の衰退時期
(1)1枚の地図は語る
(2)「連れ込み旅館」の個別検証
(3)「連れ込み旅館」群の衰退・解体時期とその理由
おわりに
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東京・千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街について
―「鳩の森騒動」と旅館街の終焉―
三橋順子
はじめに ー「連れ込み旅館」街・千駄ヶ谷ー
東京渋谷区の北部、新宿区に隣り合う千駄ヶ谷地区が、1950年代から60年代にかけて、日本最大の「連れ込み旅館」の密集地域であったことは、もうほとんどの人の記憶から失われている。
「連れ込み旅館」とは、性行為を前提に「連れ込む」宿である。「連れ込む」主体は、街娼(ストリート・ガール)およびそれに類する女性が売春行為をするために男性を誘い導いて「連れ込む」場合と、カップルの男性が性行為のために相手の女性を「連れ込む」場合とがあった。歴史的には前者から後者へと意味(ニュアンス)が転換していく(註1)。
したがって、一般の旅館のように宿泊を必ずしも前提とせず、一時的な滞在(「ご休憩」「ご休息」)のための部屋利用が想定され、料金が設定されている点に特徴がある。
「連れ込み旅館」は、戦後の社会的混乱が一段落した1950年代中頃に急増するが、その東京における中心地が千駄ヶ谷地区だった。当時の千駄ヶ谷1~5丁目および原宿3丁目、竹下町のエリア(「地番改正」が複雑だが、現在の千駄ヶ谷1~5丁目、代々木1、2丁目にほぼ相当)には、1953年の時点で、91軒の旅館があり、さらに新築中が2軒、申請中が4軒という状態だった(註2)。
筆者が当時の新聞広告から作成した「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)全385軒」にも、千駄ヶ谷地区に39軒、北隣の代々木地区に11軒、南隣の原宿7軒と合わせて57軒が確認でき(代々木・千駄ヶ谷・原宿で「代々原旅館組合」を結成していた)、渋谷地区の32軒、新宿地区の31軒を引き離し、都内最大の集中エリアだった。(註3)
広告に見える1954~57年 東京の「連れ込み旅館」(地域別軒数)
千駄ヶ谷(39軒) 銀座(7軒)
渋谷(32軒) 原宿(7軒)
新宿(31軒) 五反田(7軒)
池袋(21軒) 大井町(7軒)
大塚(12軒) 大森・大森海岸(7軒)
代々木(11軒) 蒲田(7軒)
新橋・芝田村町(11軒) 新大久保・大久保(6軒)
長原・洗足池・石川台(10軒) 飯田橋・神楽坂(5軒)
高田馬場(8軒) 浅草(5軒)
赤坂見附・山王下(5軒)
「二千三百平方キロの桃源郷」(『週刊サンケイ』1957年3月10日号)
代々木~千駄ヶ谷~原宿エリアの温泉マークの数は91か所。
千駄ヶ谷駅ホームのアベック。背後に「松岡」「御苑荘」などの看板が見える。
(『週刊東京』1956年5月12日号「せんだがや界隈」)
千駄ヶ谷駅前の立て看板。「はなぶさ分館」「湯乃川」」など。
(『週刊東京』1956年5月12日号「せんだがや界隈」)
1 千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街についての「通説」と批判
千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街について、ある程度まとまった記述をしている書籍としては、保田一章『ラブホテル学入門』の「『千駄ヶ谷』凋落の事情」がほとんど唯一である(註4)。以下、その論旨を箇条書きに整理してみよう。なお( )の年月日は三橋が追記した。
【成立】
(1a)「(1950年6月)朝鮮戦争によって米兵の往来が激しくなった。当然、売春業も繁昌した」
(1b)「千駄ヶ谷に連れ込み旅館が増えはじめたのは、昭和27年(1952)ごろからだった。昭和30年代のはじめには、その数30数軒になっていた」
【隆盛】
(2a)「売防法(売春防止法)施行(1958年4月1日)にともない、元売春業の経営者たちは旅館業に衣替えした」
(2b)「千駄ヶ谷もご多分に漏れず、そうした事情で旅館が急増した」
(2c)「赤線を追われた女たちは、客を連れて千駄ヶ谷へ」
【凋落】
(3a)「それほど隆盛を誇った千駄ヶ谷も凋落の運命をたどる」
(3b)「(1958年)5月には第3回アジア大会が開催された。場所は、後の東京オリンピック開催(1964年10月)を射程に入れていたわけだから千駄ヶ谷周辺」
(3c)「このアジア大会は、日本にとっても戦後から脱却するワンステップという意味をもった」
(3d)そこで「渋谷区は渋谷経済懇談会というのを開き、千駄ヶ谷の温泉マークの自粛をうながした」
(3e)「これをきっかけに住民運動が起こった(1957年2月)。『鳩の森騒動』とも呼ばれるこの運動の結果、千駄ヶ谷は文教地区に指定され、連れ込み旅館の改造も新築もできなくなった」
(3f)「兵糧を断たれたわけで、(千駄ヶ谷の連れ込み旅館街)の自壊は時間の問題となったのだ」
【影響】
(4a)「千駄ヶ谷に代わって、昭和40年代から台頭してきた地区は、湯島、錦糸町であった」
(4b)「新宿、池袋など、都内各地に連れ込み旅館は急増していたが、千駄ヶ谷を利用していた『上客』たちの流れは湯島や錦糸町に変わっていった。特に湯島には『上客』が流れた」
保田の説は、先に述べたように千駄ヶ谷の連れ込み旅館街についてのほとんど唯一の説であり、それだけ影響力があった。現在、インターネットで流布している言説も、保田氏の説をベースにしていると思われる。中には、アジア大会を東京オリンピックに置き換えるなど、部分的な改変がなされているものがあるが(註5)、「通説」の位置を占めているといっていいだろう。
たとえば、金益見がインタビューした渋谷のラブホテル経営者は「オリンピックを境に千駄ヶ谷は文教地区に指定されて、増改築ができないということで全部潰れましたね」」と、保田説と同様の語りをしている(註6)。
しかし、保田説にはかなり問題が多い。まず成立については、千駄ヶ谷地区で最初に「連れ込み旅館」を開業したM旅館(千駄ヶ谷三丁目、特定できず)の主人が「二十一年六月」(1946年6月)と語っている。動機は明治神宮に参拝に行った夜、木陰や草むらでうごめくアベックがたくさんいるのを見て、こうした人たちに性行為の場を安く提供したい、ということだった(註2)。保田説とは時期も事情もかなり違う。
旅館の増加については、1953年の段階で千駄ヶ谷地区(旧・千駄ヶ谷1~4丁目)だけで23軒が数えられる。朝鮮戦争(1950~53)期の好景気を背景に数が増えたと思われる(註7)。この点だけは保田説は当たっている。
次に千駄ヶ谷の旅館街の隆盛を「赤線」廃止との関係で考えることもかなり疑問である。旅館街は、上記のように、「赤線」廃止のかなり以前、「赤線」が存在した時期から存在していた。両者は同時併存の関係にある(註3)。また広告から見る限り、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」の新築ラッシュは1955~56年であり、その隆盛は、あきらかに「赤線」廃止以前である。
千駄ヶ谷の旅館街の料金は、「休憩」にしても「泊り」にしてもかなり高価で、売春女性や男性客が容易に利用できる価格ではなかった。安い旅館の中には実質的な売春宿も存在したが、それは旅館街のメインではなかった(註8)。そもそも「赤線」と「連れ込み旅館」の顧客層は必ずしも重ならないと思われる(註3)。
他にも住民運動のきっかけなど事実誤認があるが、そうした細部の問題点を置いたとしても、保田説には大きな問題がある。保田説は隆盛の理由を「売春防止法」の施行とする(施行は1957年4月1日、罰則を含む完全施行は1958年4月1日)。ところが、その凋落きっかけを1958年5月のアジア大会を視野に入れた行政の「浄化」の動きや1957年2月に始まる「鳩の森騒動」とする。これでは隆盛に至る前に凋落が始まってしまうことになり、根本的な論理矛盾がある。
千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街の盛衰についての「通説」は、まったく成り立たず、全面的に見直さなければならない。
2 「鳩の森騒動」の経緯とその影響
従来、千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街が凋落するきっかけになったとされてきたのが「初の森騒動」である。「鳩の森騒動」とは、1957年(昭和32)2月に、周囲に「連れ込み旅館」が多い東京・渋谷区立鳩の森小学校のPTAが、渋谷区教育委員会や渋谷区PTA連合会と連携して「渋谷区環境対策協議会」を結成し、「教育環境浄化」を求めた住民運動である。
学校と住民が危機感をもったきっかけは、1956年度に鳩の森小学校から転出した生徒が47名と急増したことらしい。47名は全校生徒835名の5.6%に相当する。鳩の森小学校の転出生徒は1953年度32名、54年度27名、55年度25名だった。それが倍近くになったわけで、関係者の衝撃は大きかった。その理由として学校周辺の教育環境の悪化が想定された。
さらに、1956年の夏に、同校の5年生女児が連れの女に逃げられた中年男に「みだらな振る舞い」をされる事件が起こった。これに応じて、10月には、「連れ込み旅館」が多い千駄ヶ谷駅寄り(南東側)の鳩の森小学校の正門が閉鎖された。
そして、1957年2月11日、千駄ヶ谷区民講堂で集会がもたれ「渋谷区環境対策協議会」が発足する。参加者は、鳩の森小学校PTA、隣接各校のPTA、教員など300人で、「不純アベック追放」「温泉旅館しめ出し」を決議し、同校周辺を「文教地区」に指定するよう東京都に要請した。
13日には学区内の主要路に「教育環境浄化地域」と書いた横幕4枚を掲げ、21日には学区内要所に「教育環境浄化地域」と書いたポスターやビラを貼った。こうした動きを受けて、文部省、東京都、渋谷区が現地調査を行った。(註2)
その結果、3月になると、内閣が法改正に乗り出し、旅館業法が改正され、幼稚園から高校までの学校の周囲「おおむね100メートルの区域内」では「清純な施設環境が著しく害されるおそれがあると認め」られる業者の営業は許可されなくなった(旅館業法第3条3項、1957年6月15日交付)。また4月1日付けで「文教地区」の指定がなされた(註9・10)。
実際、千駄ヶ谷二丁目に「連れ込み宿を経営する目的で『たつ旅館』を新築した」経営者は、鳩森八幡幼稚園から100m以内であることを理由に東京都衛生局から営業不許可とされた(註11)。
住民運動の高まりに対して、代々木・千駄ヶ谷・原宿の「連れ込み旅館」経営者の組合「代々原旅館組合」は次のような自粛策を申し合わせた。①看板から「御同伴」「値段」「ドキツイ広告」を消す。②ネオンはなるべく赤などの派手な色は使わない。③新しい営業許可は申請しない(註2)。
このうち①②は「連れ込み旅館」であることを目立たなくする方策である。当時、「連れ込み旅館」の象徴として批判の的だった「温泉マーク」は、1947年に「代々原旅館組合」が使い始めたという(註2・12)。すでに1952年11月に厚生省が「不良温泉マーク旅館取締りにかんする全国調査」をしていて、「不良旅館」シンボルになっていた(註13)。そうした動きに応じて、同組合は1952年に「温泉マーク」の使用の自粛を始め、3年かけて(1955年頃)達成したと主張している。この点については、1954年後半頃から新聞広告から「温泉マーク」がほぼ完全に消えるので、少なくとも千駄ヶ谷地区では実効性はあったと思われる。
③が守られれば新規の開業はなくなるわけだが、既存の「連れ込み旅館」がなくなるわけではなく、「渋谷区環境対策協議会」が求める「温泉旅館しめ出し」とは大きな隔たりがある。
PTAの立ち退き要求に対して業者の代表である石田道孝代々原旅館組合会長は次のように反論している。
「現在、この土地をねらっているのは青線業者や第三国人だ。こんな連中がのりこんできたら大変だ。ここのところをPTAの人たちはよく考えてもらいたい。現に鳩の森小学校前の旅館Sには第三国人がしきりに買いに来ている」(註2)
立ち退き→転売→青線業者・「第三国人」の取得→(売春地帯化)という流れで、さらに教育環境が悪化する可能性を指摘し、自粛を徹底することで、地域住民との共存を目指す姿勢をとった。
非合法な売春業者・「第三国人」の進出については、原宿警察署の斜め向かいの「白雲荘」の実質的な経営者が「新宿西大久保で“オリンピア”という外国人相手の売春ホテルを経営し」「その後、“代々木ホテル”という売春宿を経営」していた「朝鮮人」で、地元有志も組合も「彼に営業を許可したら何をするかわからない」と「絶対反対」していること(註10)を指していると思われる。
実際、5月28日には、増改築の申請を出していた代々木駅前の「千代田旅館」の女性経営者が、アメリカ軍将校相手の秘密売春容疑で摘発されるという事件も起きている(註8)。組合会長の指摘は、単なる言い逃れではなかった。
「鳩の森騒動」は、そのスローガンに「不純アベック追放」とあることからもわかるように、性的な存在(施設・人)を子供たち(児童・生徒)から遠ざけ、目に触れないようにする、戦後、盛んになった「純潔教育」運動の一つの表れである。
それが地域運動となった点では、1950年代にいくつか起こった赤線業者の進出反対運動、たとえば、「池上特飲街事件」(大田区池上、1950年)、「王子特飲街事件」(北区王子、1952年)、「今井特飲街事件」(江戸川区今井、1954年)とも共通するものがある(註14)。
しかし、これから進出しようとする業者を阻止するのと、すでに存在する業者・施設を撤去させるのとでは、その困難度は格段に違う。
「鳩の森騒動」の結果、文教地区の指定が達成され、旅館業法の改正を促し「連れ込み旅館」の新規開業や増築を規制するという大きな成果をあげた。
とはいえ、既存の「連れ込み旅館」が立ち退かされたわけではなく、営業は続けられた。たとえば、組合長の談話に出てくる「旅館S」は、鳩の森小学校の正門のほぼ正面にある「翠山荘」のことだが、「騒動」から少なくとも12年後の1969年まで営業を続けていた(廃業は1971年頃?)。
「鳩の森騒動」は、千駄ヶ谷「連れ込み旅館街」の無制限な拡大を阻止することはできたが、その存在そのものに大きなダメージを与えるほどの効果はなかったと思われる。
「旅館翠山荘」の広告(『内外タイムス』1953年12月19日号)。
略地図で「鳩の森小学校」の道向かいであることがわかる。
広告の「新築落成」の記載を信じれば、1953年の営業開始か。
3 千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街の衰退時期
(1)1枚の地図は語る
この地図は、1968年11月に刊行された週刊誌に掲載された千駄ヶ谷地区の「仕掛け旅館」を示したもので、32軒ほどの旅館が記されている。記事中に取り上げられている宿は「玉荘」「鷹の羽」「あみ(本館」」「翠山荘」「御苑荘」「白樺荘」「南風荘」「みなみ」「松実園」「もみじ」「若水」などで、すべて1950年代の広告に見られる「連れ込み旅館」と一致する(註15)。
つまり、1968年秋の段階で千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街は健在だったのだ。まさに一目瞭然、1958年のアジア大会(もしくは1964年の東京オリンピック)を契機とする「浄化運動」で千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街が凋落。壊滅したという「通説」が、まったく虚妄であることを、この1枚の地図は教えてくれる。
(2)「連れ込み旅館」の個別検証
それでは、少なくとも1968年まで健在だった千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」群は、いつ解体・消滅したのか、それが次の課題となる。
そこで、新聞広告から1957年前後に千駄ヶ谷地区に存在したと思われる「連れ込み旅館」のうち、場所が判明するもの42軒について、個別にその後の変遷を調査した。
資料としたのは1970年、1977年、1983年版の住宅地図で、住宅地図の調査から刊行までのタイムラグを考慮して、それぞれ1年前の元凶と考えた。また2012年に現地調査を行った。したがって「現状」とは2012年の状況である。そこに付した建物の竣工時期は、インターネット上の不動産情報などから抽出した。一部、住宅地図の知見と整合しない部分があるが、その理由として、建物の躯体はそのままに用途を変更した場合などが想定されるので、そのままにした。
なお、①~⑤のエリア分けは、旧・住居表示(丁目)をベースにしているが、現地の地理感覚を加えているので、必ずしも厳密なものではない。
① 旧・渋谷区千駄ヶ谷四丁目:JR線北側・新宿御苑南側
南風荘本館 1969年「あぐら荘別館」 1976年「旅荘あぐら荘」 1982年「旅荘あぐら荘」
現状「メゾンソーラ」(マンション 1980年4月築)
南風荘別館 1969年「旅荘光荘」 1976年「旅荘光荘」 1982年 廃業(アパート)
現状「コーポ松岡」(アパート 1979年4月築)
旅館翠山荘 1969年 営業中 1976年 廃業(マンション)
現状「第2御苑マンション」(マンション 1972年11月築)
マンションの中庭に、旅館時代の日本庭園が残る。
旅館楓荘 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
現状「千駄ヶ谷シルクハイツ」(マンション 1977年11月築)
ホテル七福 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(オフィスビル?)
現状「エルビラ」(オフィスビル? 1974年3月築)
御苑荘別館 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
現状「第20スカイビル」(マンション 1980年2月築)
羽衣苑 1969年 営業中 1976年 廃業(岡設計)
現状「株式会社岡設計ビル」
南風荘本館・別館 楓荘 ホテル七福
(19560718) (19540306) (19551030)
御苑荘別館 羽衣苑
(19560621) (19570107)
千駄ヶ谷駅からガードをくぐったJR線北側・新宿御苑南側の地域。1960年代末まで名称が変わったものはあるものの、すべての旅館が営業を続けていた。1970年代に入り、「鳩の森騒動」で焦点となった鳩の森小学校正門前の「翠山荘」が廃業してマンションになり、いちばん千駄ヶ谷駅に近い「羽衣苑」が建物そのままに設計事務所に転用された。広い敷地に離れ家が点在していた「楓荘」は大規模なマンションになった。その後もマンションやオフィスビルへの転換が続き、1982年の時点で営業を続けていたのは旧・南風荘本館の系譜を引く「あぐら荘」のみとなる。この地域の特色として、比較的閑静な環境からか、マンションへの転換が比較的多い。
② 旧・千駄ヶ谷一丁目 JR中央線南側・「大通り」北側
御苑荘 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
現状「ニュー千駄ヶ谷マンション」(マンション 1978年4月築)
はなぶさ別館 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
現状「佳秀ビル」(オフィスビル 1985年築)
あみ本館 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
現状「河合塾千駄ヶ谷オフィス」(校舎→オフィス 1986年3月築)
あみ別館 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(シャトウ千宗・駐車場)
現状「河合塾千駄ヶ谷オフィス2」(校舎→オフィス 1986年3月築)
松実園 1969年 営業中 1976年 廃業(マンション)
現状「千駄ヶ谷第2スカイハイツ」(マンション 1974年6月築)
旅荘浦島 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
現状 駐車場
舞子ホテル 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
現状「アポセント千駄ヶ谷」(マンション 1974年2月築)
旅館もみぢ 1969年 営業中 1976年 廃業(個人宅・斎藤)
現状「もみじ駐車場」(紅葉不動産)
旅荘たかのは 1969年 営業中 1976年 廃業(駐車場)
現状「インテグレーションSO」(マンション)
旅館玉荘 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
現状「松栄駐車場」(紅葉不動産)
御苑荘本館 あみ本館・別館 松実園
(19560222) (19560607) (19530204)
浦島 舞子ホテル
(19570124) (19561023)
もみぢ たかのは
(19570331) (19561020)
玉荘(19561006)
JR中央線南側で、千駄ヶ谷のメインストリート、通称「大通り」の北側、現在、大きなスペースを占める「国立能楽堂」(1983年8月竣工)の周辺地域。1960年代末まですべての旅館が営業を続けていた。1970年代に入ると3軒が廃業したが、まだ旅館街の形態を保っていた。1982年の時点ではさらに2軒減り往時の半分の5軒になるが、それでも他の地域に比べると格段に残存率が高い。千駄ヶ谷駅の目の前という好立地によるものだろう。
興味深いのは「あみ本館・別館」のその後で、1976年には本館のみ営業を続け、新館はビルと駐車場になっていたが、1980年代半ばに名古屋に本拠を置く大手予備校「河合塾」の東京進出にあたって、本館・新館跡地を合わせて売却した。「河合塾」の校舎(後にオフィス)が斜めに接しているにもかかわらず、つながっていない不便な形なのは、「あみ本館・新館」の土地利用をそのまま継承したからである。ちなみに、当時を知る「河合塾」関係者によると「予備校生は1年しか通わないから、そこが何であったかは気にしない」とのことだった。
「大通り」沿いの「もみぢ」は、1970年代に廃業するが、経営者のS氏は1967年当時、渋谷区議会議員だった(註15)。「連れ込み旅館」の経営者が地元有力者である一例である。「もみぢ」は2012年の現況で「もみじ駐車場」として名を残している(「玉荘」跡地の駐車場も同じ「紅葉不動産」の管理)。
③ 旧・千駄ヶ谷二丁目 鳩の森八幡周辺、同坂下
白樺荘(本館)1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
現状「ライオンズマンション千駄ヶ谷第2」(マンション 1983年10月築)
かたばみ荘 1969年 廃業(マンション)
(東京本館)現状「コーポ青井 千駄ヶ谷」(マンション 1969年9月築)
旅荘松岡 1969年 営業中 1976年 「割烹松岡」 1982年 廃業(マンション)
現状「外苑パークホームズ」「千駄ヶ谷ホリタン」
旅荘おほた 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
現状「ホワイトキャッスル」(マンション 1973年7月築)
旅館きかく (北側)1969年「モテルきかく」1976年 営業中 1982年「ホテルきかく」
現状「ホテルきかく」(休業中)
(南側)1969年「旅荘きかく」1976年 廃業(空地)
現状「メゾンブーケ」(マンション 1974年7月築)
あみ新荘 1969年 営業中 1976年 廃業(第2シャトウ千宗)
現状「第2シャトウ千宗」(オフィスビル 1969年1月築)
旅館いこい 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
現状「サンビューハイツ神宮」(マンション 1981年2月築)
旅館三越 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(オフィスビル)
現状「五月女ビル」(オフィスビル 1977年5月築)
旅館柳水 1969年「白樺新館」 1976年「白樺新館」 1982年 廃業(駐車場)
現状 駐車場
白樺荘(本館) かたばみ荘 旅荘松岡
(19521007) (19540113) (19560621)
おほ多 喜鶴(きかく) あみ新荘
(19560607) (19540404) (19570428)
いこい 三越
(19570507) (19570130)
柳水(19560429)
「大通り」を南に渡った鳩の森八幡周辺と、その坂下の地域。千駄ヶ谷駅からは少し距離があるが、入ろうか入るまいか逡巡しながら歩いているカップルにはこのくらいの距離がちょうどよい、という説もある。
1960年代末まではすべての旅館が営業を続けていた。1970年代に入ると9軒から7軒に減るが、なお旅館街の形を保っていた。しかし、その後、廃業する旅館が続出し、1982年の時点では1軒となり、旅館街としては消滅する。
千駄ヶ谷「連れ込み旅館」群の中でも有数の老舗であり規模も大きかった「白樺荘」は1980年代初頭に廃業し、広い敷地を生かした大規模マンションになった。
同様に広い敷地を有していた「旅荘松岡」は、1970年代に「割烹松岡」に転業した。
最後まで営業を続けたのは「きかく」で、千駄ヶ谷地区で最後の「連れ込み旅館」となる。2012年の段階でも休業中ながらドアに屋号を残していた。
④ 旧・千駄ヶ谷三丁目 明治通り・千駄ヶ谷ロータリー南東側
旅荘みなみ 1969年 営業中 1976年 廃業(株式会社毛利研究所)
現状「幻冬舎本館」
旅館光雲荘 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(オフィスビル)
現状 ビル
旅荘深草 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
(みぐさ)現状 東京メトロ副都心線北参道駅1番出口
旅館大野屋 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(個人宅・大野)
現状 駐車場
旅荘千代原 1969年 営業中 1976年(空地) 1982年 廃業(ハイツ千代原)
現状 マンション
旅館ふる里 1969年 営業中 1976年 廃業(クリニック、喫茶店)
現状
光雲荘 深草 大野屋 ふる里旅館
(19570513) (19521007) (19531115) (19570112)
千駄ヶ谷ロータリー南東側の地域。千駄ヶ谷駅からも代々木駅からもやや遠いが、明治通りには近く自動車での便は良い。新宿駅南口でタクシーに乗ったカップルは、スムースにこの地域の宿に入れる。
1960年代末までは6軒すべての旅館が営業を続けていた。1970年代に入ると半減して3軒になる。さらに1982年の時点では明治通り沿いの「深草(みぐさ)」1軒となり、旅館街としては消滅する。
この地域の特色として、もともと小規模な旅館が多かったためか、マンションよりオフィスビルへの転換が多い。「みなみ」の跡地は、現在、出版社「幻冬舎」の社屋になっている。また「深草」の跡地は、東京メトロ副都心線北参道駅(2008年6月開業)の出口になっている。
⑤ 旧・千駄ヶ谷三丁目 明治通り・千駄ヶ谷ロータリー南西側
白樺荘別館 1969年 営業中 1976年 廃業(新代々木ビル)
現状「新代々木ビル」(オフィスビル 1974年築)
旅館湯の川 1969年 営業中 1976年 廃業(大成ビル)
現状「ヴィールヴァリエ北参道」(マンション 2005年3月築)
旅館みその 1969年 営業中 1976年 廃業(化学工業ビル)
現状 駐車場
南風荘別館 1969年「南風荘新館」 1976年 廃業(コーポ南)
現状「外苑アビタシオンビル」(オフィスビル 1968年10月築)
すずきや旅館 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
現状「東九パレス神宮」(マンション 1980年3月築)
せきれい荘 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
現状「アカデミービル」(オフィスビル 1988年1月築)
旅館まつかさ1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
現状「第5スカイビル」(オフィスビル 1984年3月築)
旅館深山荘 1969年 営業中 1976年 廃業(工事事務所)
現状「深山ビル」(オフィスビル 1986年8月築)
白樺荘別館 南風荘新館
(19540114) (19580402)
すずきや せきれい荘
(19521007) (19561205)
まつかさ 深山荘
(19570130) (19561023)
千駄ヶ谷ロータリー南西側の、明治通りとJR山手線に挟まれた地域。千駄ヶ谷駅、代々木駅、原宿駅いずれからも遠いが、やはり明治通りに近く自動車での便は良い。また明治通りには、1955年12月27日に全通した都営トロリーバス(無軌条電車)の102系統が走っていた。最寄りの停留所「千駄ヶ谷小学校前」を案内する広告もある(「深山荘」など)。
1960年代末までは8軒すべての旅館が営業を続けていたが、1970年代に入ると3分の1近くの3軒に減ってしまう。さらに1982年の時点では「せきれい荘」と「まつかさ」の2軒のみとなる。どちらも1980年代後半には廃業し、旅館街は消滅する。
この地域も、交通の便からか、マンションよりオフィスビルへの転換が多い。「深山荘」は、ビルの名称(深山ビル)に名残をとどめている。
⑥ 旧・新宿区霞ヶ丘町
かすみ荘 1963年以前に区画整理で立ち退き、廃業。
現状「明治公園」(1964年開園)の敷地の一部。
紫雲閣 1963年以前に区画整理で立ち退き、廃業。
現状「明治公園」(1964年開園)の敷地の一部。
かすみ荘(19540430k)
紫雲閣(19541230)
JR中央線の千駄ヶ谷駅の東南部、神宮外苑の西側の地域。千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街の東端。2軒とも、霞ヶ丘町の国立競技場(1958年3月竣工)が東京オリンピック(1964年)のメイン会場に決まったことに伴う周辺地区の区画整理(後に「明治公園」となる)で立ち退きとなり廃業したと思われる。正確な時期は不明だが、1963年以前と推定される。
東京オリンピックの開催が、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」群に直接的に影響した事例だが、東端部の2軒を廃業に追いやったにすぎなかった。
(3)「連れ込み旅館」群の衰退・解体時期とその理由
個別調査の結果を集計すると、下記のようになる
1957 69 76 82年
① 7 7 5 1 (あぐら荘)
② 10 10 7 5 (玉荘、浦島荘、舞子H、はなぶさ、あみ本館)
③ 9 9 7 1 (Hきかく)
④ 6 6 3 1 (深草)
⑤ 8 8 3 2 (せきれい荘、まつかさ)
⑥ 2 0 0 0
42 40 19 10
千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街は、1960年代末までは、全盛期の1950年代後半の軒数をほぼ維持していた。先に掲げた1968年秋の地図の状況は、個別調査によっても実証された。住民運動(「鳩の森騒動」)やアジア大会・東京オリンピック開催にともなう「浄化運動」よって凋落・壊滅したという「通説」はまったく成り立たない。
ところが1970年代中ごろにはほぼ半減してしまう。そして1982年にはさらに半減してわずか10軒、全盛期の4分の1以下になる。地域的にも大きく縮小し、かろうじて旅館街の形を残すのは千駄ヶ谷駅南側の地域(③)だけになってしまう。
以上の検討から、千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街の衰退は1970年代に始まり、1980年代前半に解体、終焉を迎えたと考えられる。「通説」より、衰退で10年、解体で15年ほど遅い。
それでは、千駄ヶ谷「連れ込み旅館」群の衰退の理由はなんだったのだろうか? それは性的なものも含めた日本人の生活環境の変化だと思う。
別稿で述べたように、1950年代の「連れ込み旅館」の利用者が求めたものは、数寄屋造り・風呂付きの部屋、テレビ、冷暖房といった日常生活よりワンランク、ツーランク上の和風ベースの高級感だった。それらは、1960年代の高度経済成長期に曲がりなりにも達成され、特段の魅力を持たなくなってしまった。1970年代以降の利用者が求めるものは、大きなそして仕掛けのあるベッドが置かれた洋室、シャワーがあるスケルトンのバスタブに象徴される洋風ベースのゴージャスさだった。井上章一は「ラブホテル」という名称の出現を1973年とするが(註1)、性交渉の場は、旅館(旅荘)からホテルへと転換していった。
また、モータリゼーションの発達は、アベック(カップル)の行動様式を変えた。二人で鉄道の駅を降りて、そぞろ歩きしながら「連れ込み旅館」を探して入るというパターンから、自家用車でドライブして郊外のモーテルに入るという形に変化していった(註16)。
経営者側にしても、広い敷地に平屋の建物というのは、いかにも効率が悪い。とりわけ地価が高騰した千駄ヶ谷地区などでは、ビル化して、マンションやオフィスビル経営に転業した方がよほど儲かる時代になった。
千駄ヶ谷「連れ込み旅館」群は、そうした時代の流れについていけなくなったのだと思う。
ところで、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街の衰退が、湯島、錦糸町、あるいは新宿歌舞伎町のラブホテル街の形成につながったという俗説があるが、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街が少なくとも1960年代末まで健在だったことが明らかになったことにより、再検討しなければならない。なぜなら、新宿歌舞伎町においては、すでに1960年代に旅館街が形成されていて、辻褄が合わないからだ。これら東京各地のラブホテル街の形成過程は、それぞれ別個に検証する必要がある。
おわりに
1990年代後半、私は新宿歌舞伎町の女装スナックのお手伝いホステスをしていた。いつもは山手線の始発電車で帰るのだが、ママがお小遣いをくれた日やとても疲れた日は、奮発して目黒の自宅までタクシーで帰ることもあった(料金は2800円くらい)。
タクシーは夜明けの明治通りを南に走る。ある朝、おしゃべり好きの白髪の運転手が、千駄ヶ谷の交差点の信号で停まった時、「お客さん、このあたりに連れ込みホテルがたくさんあったって知ってますか?」と話しかけてきた。「そうなの?」と応じると、「(新宿駅の)南口でアベックを乗せて、よくここらの旅館に運んだものですよ。(アベックのお客さんに)「どちらへ?」って聞いて「どこでもいい」と言われると、約束してある旅館に運ぶんです。そうすると(旅館から)チップもらえるんです。200円くらいですけどね。いい時代でした」。歴史研究者の癖で「それいつ頃のこと?」と問うと、「そうですね、自分が30代の頃だから25年くらい前ですかね」という返事。
この会話は、たしか1997年頃だと思う。とすると、運転手の経験談は1970年代初頃ということになる。少なくとも、東京オリンピック(1964年)の後であることは間違いない(ちなみに、タクシーの初乗り料金は1972年に170円になる。ほぼ初乗り1回分のチップがもらえたことになる)。
それから23年という長い歳月が経ち、ようやくあの運転手の思い出話を証明することができた。
【註】
(註1)井上章一『愛の空間』(角川選書、1999年)第4章「円宿時代」
(註2)「二千三百平方キロの桃源郷」(『週刊サンケイ』1957年3月10日号)
(註3)【研究報告】1950年代東京の「連れ込み旅館」について ―「城南の箱根」ってどこ?―」(第2回「セクシュアリティ研究会」、明治大学、2018年8月)。
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-08
(註4)保田一章『ラブホテル学入門』(晩聲社、ヤゲンブラ選書、1983年)63~66頁。
(註5)たとえば、「みちくさ学会」の「東京オリンピック開催を契機に消滅した性風俗(その2:千駄ヶ谷の連れ込み旅館)」(2011年2月23日、著者:風俗散歩氏=フーさん)
http://michikusa-ac.jp/archives/2618395.html
(註6)金益見『性愛空間の文化史』(ミネルヴァ書房、2012年)22頁。
(註7)金益見(註6)書23頁には『渋谷ホテル旅館組合創立五〇周年記念誌』(渋谷ホテル旅館組合、2003年)収録の「祝 千駄谷駅改築落成 駅周辺旅館案内」図が掲載されている。1956年の千駄ヶ谷駅の改築を記念したものと思われるが31軒の旅館が載っている。
(註8)「米将校相手の売春ホテル」(『内外タイムス』1957年6月18日号)
(註9)「どこへ行く“温泉マーク”」(『内外タイムス』1957年3月17日号)
(註10)「温泉マークの許可で再び騒然」(『内外タイムス』1957年4月7日号)
(註11)「連れ込み宿に不許可」(『内外タイムス』1957年9月1日号)
(註12)下川耿史『極楽商売 聞き書き戦後性相史』(筑摩書房、1998年)150~153頁によれば、温泉マークが初めて用いられたのは1948年で、大阪・難波の「大阪家族風呂」という旅館が使い始めたことがきっかけで広まったという。代々原旅館組合の主張はそれより1年早い。
(註13)鈴木由加里『ラブホテルの力 ―現代日本のセクシュアリティ―』(廣済堂ライブラリー、2002年)112~117頁。
(註14)三橋順子『新宿『性なる街の歴史地理』(朝日選書、2018年)
(註15)「全調査=東京・仕掛けホテル」(『週刊大衆』1968年11月14号)。「仕掛けホテル」とは、噴水、震動装置、ブランコなどの「仕掛け」があるホテルのようだが、用語として定着しなかった。
(註16)モーテルについては、鈴木(註13)書118~123頁。『現代用語の基礎知識(1958年版)』(自由国民社)は「モーテル」の項目で「いわば温泉マークのアメリカ版」と説明している(項目執筆担当は大宅壮一)。
【備考】
広告図版の8桁の数字は、掲載年月日を示す。
末尾にkがついているのは『日本観光新聞』、他はすべて『内外タイムス』。
【住宅地図】
「東京都全住宅案内図帳・渋谷区東部 1959」
(住宅協会。1959年)
「東京都大阪府全住宅精密図帳・渋谷区 1963年版」
(住宅協会東京支所、1962年6月)
「全国統一地形図式航空地図全住宅案内地図帳・渋谷区 1970年度版」
(公共施設地図航空株式会社、1971年1月)
「ゼンリンの住宅地図・東京都渋谷区 1983」
(日本住宅地図出版、1983年3月)
「ゼンリンの住宅地図・東京都渋谷区 1996」
(ゼンリン、1996年1月)
なお、住宅地図の調査と発行のタイムラグを考慮して、1963年版→1962年頃現況図、1970年版→1969年頃現況図などのように1年戻して表記した。
【参考文献】
梶山季之『朝は死んでいた』(文藝春秋、1962年)←小説
佐野 洋『密会の宿』
(アサヒ芸能出版、1964年、 『講談倶楽部』連載は1962年、後に徳間文庫、1983年)←小説
保田一章『ラブホテル学入門』(晩聲社、ヤゲンブラ選書、1983年)
花田一彦『ラブホテル文化誌』(現代書館、1996年)
井上章一『愛の空間』(角川選書、1999年)
鈴木由加里『ラブホテルの力 ―現代日本のセクシュアリティ―』(廣済堂ライブラリー、2002年)
金 益見『ラブホテル進化論』(文春新書、2008年)
金 益見『性愛空間の文化史』(ミネルヴァ書房、2012年)
【追記】
2020年5月5日 「データベース」の改訂に伴い、データを修正。
この論考「東京・千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街について ―「鳩の森騒動」と旅館街の終焉―」は、2012年1月22日に、井上章一先生(現:日本文化研究センター所長)主催の「性欲研究会」(京都)で報告した内容をベースにしている。
その後、いろいろな事情で放置してあったが、思い立って、その後に収集した資料も加えて、論文形式でまとめた。
とはいえ、どこも載せてくれないのは明白なので、このアーカーカイブに載せておく。
引用される際には、著者名と、この記事のURLを注記していただきたい。
【目次】
はじめに ー「連れ込み旅館」街・千駄ヶ谷ー
1 千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街についての「通説」と批判
2 「鳩の森騒動」の経緯とその影響
3 千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街の衰退時期
(1)1枚の地図は語る
(2)「連れ込み旅館」の個別検証
(3)「連れ込み旅館」群の衰退・解体時期とその理由
おわりに
-------------------------------------------------
東京・千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街について
―「鳩の森騒動」と旅館街の終焉―
三橋順子
はじめに ー「連れ込み旅館」街・千駄ヶ谷ー
東京渋谷区の北部、新宿区に隣り合う千駄ヶ谷地区が、1950年代から60年代にかけて、日本最大の「連れ込み旅館」の密集地域であったことは、もうほとんどの人の記憶から失われている。
「連れ込み旅館」とは、性行為を前提に「連れ込む」宿である。「連れ込む」主体は、街娼(ストリート・ガール)およびそれに類する女性が売春行為をするために男性を誘い導いて「連れ込む」場合と、カップルの男性が性行為のために相手の女性を「連れ込む」場合とがあった。歴史的には前者から後者へと意味(ニュアンス)が転換していく(註1)。
したがって、一般の旅館のように宿泊を必ずしも前提とせず、一時的な滞在(「ご休憩」「ご休息」)のための部屋利用が想定され、料金が設定されている点に特徴がある。
「連れ込み旅館」は、戦後の社会的混乱が一段落した1950年代中頃に急増するが、その東京における中心地が千駄ヶ谷地区だった。当時の千駄ヶ谷1~5丁目および原宿3丁目、竹下町のエリア(「地番改正」が複雑だが、現在の千駄ヶ谷1~5丁目、代々木1、2丁目にほぼ相当)には、1953年の時点で、91軒の旅館があり、さらに新築中が2軒、申請中が4軒という状態だった(註2)。
筆者が当時の新聞広告から作成した「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)全385軒」にも、千駄ヶ谷地区に39軒、北隣の代々木地区に11軒、南隣の原宿7軒と合わせて57軒が確認でき(代々木・千駄ヶ谷・原宿で「代々原旅館組合」を結成していた)、渋谷地区の32軒、新宿地区の31軒を引き離し、都内最大の集中エリアだった。(註3)
広告に見える1954~57年 東京の「連れ込み旅館」(地域別軒数)
千駄ヶ谷(39軒) 銀座(7軒)
渋谷(32軒) 原宿(7軒)
新宿(31軒) 五反田(7軒)
池袋(21軒) 大井町(7軒)
大塚(12軒) 大森・大森海岸(7軒)
代々木(11軒) 蒲田(7軒)
新橋・芝田村町(11軒) 新大久保・大久保(6軒)
長原・洗足池・石川台(10軒) 飯田橋・神楽坂(5軒)
高田馬場(8軒) 浅草(5軒)
赤坂見附・山王下(5軒)
「二千三百平方キロの桃源郷」(『週刊サンケイ』1957年3月10日号)
代々木~千駄ヶ谷~原宿エリアの温泉マークの数は91か所。
千駄ヶ谷駅ホームのアベック。背後に「松岡」「御苑荘」などの看板が見える。
(『週刊東京』1956年5月12日号「せんだがや界隈」)
千駄ヶ谷駅前の立て看板。「はなぶさ分館」「湯乃川」」など。
(『週刊東京』1956年5月12日号「せんだがや界隈」)
1 千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街についての「通説」と批判
千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街について、ある程度まとまった記述をしている書籍としては、保田一章『ラブホテル学入門』の「『千駄ヶ谷』凋落の事情」がほとんど唯一である(註4)。以下、その論旨を箇条書きに整理してみよう。なお( )の年月日は三橋が追記した。
【成立】
(1a)「(1950年6月)朝鮮戦争によって米兵の往来が激しくなった。当然、売春業も繁昌した」
(1b)「千駄ヶ谷に連れ込み旅館が増えはじめたのは、昭和27年(1952)ごろからだった。昭和30年代のはじめには、その数30数軒になっていた」
【隆盛】
(2a)「売防法(売春防止法)施行(1958年4月1日)にともない、元売春業の経営者たちは旅館業に衣替えした」
(2b)「千駄ヶ谷もご多分に漏れず、そうした事情で旅館が急増した」
(2c)「赤線を追われた女たちは、客を連れて千駄ヶ谷へ」
【凋落】
(3a)「それほど隆盛を誇った千駄ヶ谷も凋落の運命をたどる」
(3b)「(1958年)5月には第3回アジア大会が開催された。場所は、後の東京オリンピック開催(1964年10月)を射程に入れていたわけだから千駄ヶ谷周辺」
(3c)「このアジア大会は、日本にとっても戦後から脱却するワンステップという意味をもった」
(3d)そこで「渋谷区は渋谷経済懇談会というのを開き、千駄ヶ谷の温泉マークの自粛をうながした」
(3e)「これをきっかけに住民運動が起こった(1957年2月)。『鳩の森騒動』とも呼ばれるこの運動の結果、千駄ヶ谷は文教地区に指定され、連れ込み旅館の改造も新築もできなくなった」
(3f)「兵糧を断たれたわけで、(千駄ヶ谷の連れ込み旅館街)の自壊は時間の問題となったのだ」
【影響】
(4a)「千駄ヶ谷に代わって、昭和40年代から台頭してきた地区は、湯島、錦糸町であった」
(4b)「新宿、池袋など、都内各地に連れ込み旅館は急増していたが、千駄ヶ谷を利用していた『上客』たちの流れは湯島や錦糸町に変わっていった。特に湯島には『上客』が流れた」
保田の説は、先に述べたように千駄ヶ谷の連れ込み旅館街についてのほとんど唯一の説であり、それだけ影響力があった。現在、インターネットで流布している言説も、保田氏の説をベースにしていると思われる。中には、アジア大会を東京オリンピックに置き換えるなど、部分的な改変がなされているものがあるが(註5)、「通説」の位置を占めているといっていいだろう。
たとえば、金益見がインタビューした渋谷のラブホテル経営者は「オリンピックを境に千駄ヶ谷は文教地区に指定されて、増改築ができないということで全部潰れましたね」」と、保田説と同様の語りをしている(註6)。
しかし、保田説にはかなり問題が多い。まず成立については、千駄ヶ谷地区で最初に「連れ込み旅館」を開業したM旅館(千駄ヶ谷三丁目、特定できず)の主人が「二十一年六月」(1946年6月)と語っている。動機は明治神宮に参拝に行った夜、木陰や草むらでうごめくアベックがたくさんいるのを見て、こうした人たちに性行為の場を安く提供したい、ということだった(註2)。保田説とは時期も事情もかなり違う。
旅館の増加については、1953年の段階で千駄ヶ谷地区(旧・千駄ヶ谷1~4丁目)だけで23軒が数えられる。朝鮮戦争(1950~53)期の好景気を背景に数が増えたと思われる(註7)。この点だけは保田説は当たっている。
次に千駄ヶ谷の旅館街の隆盛を「赤線」廃止との関係で考えることもかなり疑問である。旅館街は、上記のように、「赤線」廃止のかなり以前、「赤線」が存在した時期から存在していた。両者は同時併存の関係にある(註3)。また広告から見る限り、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」の新築ラッシュは1955~56年であり、その隆盛は、あきらかに「赤線」廃止以前である。
千駄ヶ谷の旅館街の料金は、「休憩」にしても「泊り」にしてもかなり高価で、売春女性や男性客が容易に利用できる価格ではなかった。安い旅館の中には実質的な売春宿も存在したが、それは旅館街のメインではなかった(註8)。そもそも「赤線」と「連れ込み旅館」の顧客層は必ずしも重ならないと思われる(註3)。
他にも住民運動のきっかけなど事実誤認があるが、そうした細部の問題点を置いたとしても、保田説には大きな問題がある。保田説は隆盛の理由を「売春防止法」の施行とする(施行は1957年4月1日、罰則を含む完全施行は1958年4月1日)。ところが、その凋落きっかけを1958年5月のアジア大会を視野に入れた行政の「浄化」の動きや1957年2月に始まる「鳩の森騒動」とする。これでは隆盛に至る前に凋落が始まってしまうことになり、根本的な論理矛盾がある。
千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街の盛衰についての「通説」は、まったく成り立たず、全面的に見直さなければならない。
2 「鳩の森騒動」の経緯とその影響
従来、千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街が凋落するきっかけになったとされてきたのが「初の森騒動」である。「鳩の森騒動」とは、1957年(昭和32)2月に、周囲に「連れ込み旅館」が多い東京・渋谷区立鳩の森小学校のPTAが、渋谷区教育委員会や渋谷区PTA連合会と連携して「渋谷区環境対策協議会」を結成し、「教育環境浄化」を求めた住民運動である。
学校と住民が危機感をもったきっかけは、1956年度に鳩の森小学校から転出した生徒が47名と急増したことらしい。47名は全校生徒835名の5.6%に相当する。鳩の森小学校の転出生徒は1953年度32名、54年度27名、55年度25名だった。それが倍近くになったわけで、関係者の衝撃は大きかった。その理由として学校周辺の教育環境の悪化が想定された。
さらに、1956年の夏に、同校の5年生女児が連れの女に逃げられた中年男に「みだらな振る舞い」をされる事件が起こった。これに応じて、10月には、「連れ込み旅館」が多い千駄ヶ谷駅寄り(南東側)の鳩の森小学校の正門が閉鎖された。
そして、1957年2月11日、千駄ヶ谷区民講堂で集会がもたれ「渋谷区環境対策協議会」が発足する。参加者は、鳩の森小学校PTA、隣接各校のPTA、教員など300人で、「不純アベック追放」「温泉旅館しめ出し」を決議し、同校周辺を「文教地区」に指定するよう東京都に要請した。
13日には学区内の主要路に「教育環境浄化地域」と書いた横幕4枚を掲げ、21日には学区内要所に「教育環境浄化地域」と書いたポスターやビラを貼った。こうした動きを受けて、文部省、東京都、渋谷区が現地調査を行った。(註2)
その結果、3月になると、内閣が法改正に乗り出し、旅館業法が改正され、幼稚園から高校までの学校の周囲「おおむね100メートルの区域内」では「清純な施設環境が著しく害されるおそれがあると認め」られる業者の営業は許可されなくなった(旅館業法第3条3項、1957年6月15日交付)。また4月1日付けで「文教地区」の指定がなされた(註9・10)。
実際、千駄ヶ谷二丁目に「連れ込み宿を経営する目的で『たつ旅館』を新築した」経営者は、鳩森八幡幼稚園から100m以内であることを理由に東京都衛生局から営業不許可とされた(註11)。
住民運動の高まりに対して、代々木・千駄ヶ谷・原宿の「連れ込み旅館」経営者の組合「代々原旅館組合」は次のような自粛策を申し合わせた。①看板から「御同伴」「値段」「ドキツイ広告」を消す。②ネオンはなるべく赤などの派手な色は使わない。③新しい営業許可は申請しない(註2)。
このうち①②は「連れ込み旅館」であることを目立たなくする方策である。当時、「連れ込み旅館」の象徴として批判の的だった「温泉マーク」は、1947年に「代々原旅館組合」が使い始めたという(註2・12)。すでに1952年11月に厚生省が「不良温泉マーク旅館取締りにかんする全国調査」をしていて、「不良旅館」シンボルになっていた(註13)。そうした動きに応じて、同組合は1952年に「温泉マーク」の使用の自粛を始め、3年かけて(1955年頃)達成したと主張している。この点については、1954年後半頃から新聞広告から「温泉マーク」がほぼ完全に消えるので、少なくとも千駄ヶ谷地区では実効性はあったと思われる。
③が守られれば新規の開業はなくなるわけだが、既存の「連れ込み旅館」がなくなるわけではなく、「渋谷区環境対策協議会」が求める「温泉旅館しめ出し」とは大きな隔たりがある。
PTAの立ち退き要求に対して業者の代表である石田道孝代々原旅館組合会長は次のように反論している。
「現在、この土地をねらっているのは青線業者や第三国人だ。こんな連中がのりこんできたら大変だ。ここのところをPTAの人たちはよく考えてもらいたい。現に鳩の森小学校前の旅館Sには第三国人がしきりに買いに来ている」(註2)
立ち退き→転売→青線業者・「第三国人」の取得→(売春地帯化)という流れで、さらに教育環境が悪化する可能性を指摘し、自粛を徹底することで、地域住民との共存を目指す姿勢をとった。
非合法な売春業者・「第三国人」の進出については、原宿警察署の斜め向かいの「白雲荘」の実質的な経営者が「新宿西大久保で“オリンピア”という外国人相手の売春ホテルを経営し」「その後、“代々木ホテル”という売春宿を経営」していた「朝鮮人」で、地元有志も組合も「彼に営業を許可したら何をするかわからない」と「絶対反対」していること(註10)を指していると思われる。
実際、5月28日には、増改築の申請を出していた代々木駅前の「千代田旅館」の女性経営者が、アメリカ軍将校相手の秘密売春容疑で摘発されるという事件も起きている(註8)。組合会長の指摘は、単なる言い逃れではなかった。
「鳩の森騒動」は、そのスローガンに「不純アベック追放」とあることからもわかるように、性的な存在(施設・人)を子供たち(児童・生徒)から遠ざけ、目に触れないようにする、戦後、盛んになった「純潔教育」運動の一つの表れである。
それが地域運動となった点では、1950年代にいくつか起こった赤線業者の進出反対運動、たとえば、「池上特飲街事件」(大田区池上、1950年)、「王子特飲街事件」(北区王子、1952年)、「今井特飲街事件」(江戸川区今井、1954年)とも共通するものがある(註14)。
しかし、これから進出しようとする業者を阻止するのと、すでに存在する業者・施設を撤去させるのとでは、その困難度は格段に違う。
「鳩の森騒動」の結果、文教地区の指定が達成され、旅館業法の改正を促し「連れ込み旅館」の新規開業や増築を規制するという大きな成果をあげた。
とはいえ、既存の「連れ込み旅館」が立ち退かされたわけではなく、営業は続けられた。たとえば、組合長の談話に出てくる「旅館S」は、鳩の森小学校の正門のほぼ正面にある「翠山荘」のことだが、「騒動」から少なくとも12年後の1969年まで営業を続けていた(廃業は1971年頃?)。
「鳩の森騒動」は、千駄ヶ谷「連れ込み旅館街」の無制限な拡大を阻止することはできたが、その存在そのものに大きなダメージを与えるほどの効果はなかったと思われる。
「旅館翠山荘」の広告(『内外タイムス』1953年12月19日号)。
略地図で「鳩の森小学校」の道向かいであることがわかる。
広告の「新築落成」の記載を信じれば、1953年の営業開始か。
3 千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街の衰退時期
(1)1枚の地図は語る
この地図は、1968年11月に刊行された週刊誌に掲載された千駄ヶ谷地区の「仕掛け旅館」を示したもので、32軒ほどの旅館が記されている。記事中に取り上げられている宿は「玉荘」「鷹の羽」「あみ(本館」」「翠山荘」「御苑荘」「白樺荘」「南風荘」「みなみ」「松実園」「もみじ」「若水」などで、すべて1950年代の広告に見られる「連れ込み旅館」と一致する(註15)。
つまり、1968年秋の段階で千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街は健在だったのだ。まさに一目瞭然、1958年のアジア大会(もしくは1964年の東京オリンピック)を契機とする「浄化運動」で千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街が凋落。壊滅したという「通説」が、まったく虚妄であることを、この1枚の地図は教えてくれる。
(2)「連れ込み旅館」の個別検証
それでは、少なくとも1968年まで健在だった千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」群は、いつ解体・消滅したのか、それが次の課題となる。
そこで、新聞広告から1957年前後に千駄ヶ谷地区に存在したと思われる「連れ込み旅館」のうち、場所が判明するもの42軒について、個別にその後の変遷を調査した。
資料としたのは1970年、1977年、1983年版の住宅地図で、住宅地図の調査から刊行までのタイムラグを考慮して、それぞれ1年前の元凶と考えた。また2012年に現地調査を行った。したがって「現状」とは2012年の状況である。そこに付した建物の竣工時期は、インターネット上の不動産情報などから抽出した。一部、住宅地図の知見と整合しない部分があるが、その理由として、建物の躯体はそのままに用途を変更した場合などが想定されるので、そのままにした。
なお、①~⑤のエリア分けは、旧・住居表示(丁目)をベースにしているが、現地の地理感覚を加えているので、必ずしも厳密なものではない。
① 旧・渋谷区千駄ヶ谷四丁目:JR線北側・新宿御苑南側
南風荘本館 1969年「あぐら荘別館」 1976年「旅荘あぐら荘」 1982年「旅荘あぐら荘」
現状「メゾンソーラ」(マンション 1980年4月築)
南風荘別館 1969年「旅荘光荘」 1976年「旅荘光荘」 1982年 廃業(アパート)
現状「コーポ松岡」(アパート 1979年4月築)
旅館翠山荘 1969年 営業中 1976年 廃業(マンション)
現状「第2御苑マンション」(マンション 1972年11月築)
マンションの中庭に、旅館時代の日本庭園が残る。
旅館楓荘 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
現状「千駄ヶ谷シルクハイツ」(マンション 1977年11月築)
ホテル七福 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(オフィスビル?)
現状「エルビラ」(オフィスビル? 1974年3月築)
御苑荘別館 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
現状「第20スカイビル」(マンション 1980年2月築)
羽衣苑 1969年 営業中 1976年 廃業(岡設計)
現状「株式会社岡設計ビル」
南風荘本館・別館 楓荘 ホテル七福
(19560718) (19540306) (19551030)
御苑荘別館 羽衣苑
(19560621) (19570107)
千駄ヶ谷駅からガードをくぐったJR線北側・新宿御苑南側の地域。1960年代末まで名称が変わったものはあるものの、すべての旅館が営業を続けていた。1970年代に入り、「鳩の森騒動」で焦点となった鳩の森小学校正門前の「翠山荘」が廃業してマンションになり、いちばん千駄ヶ谷駅に近い「羽衣苑」が建物そのままに設計事務所に転用された。広い敷地に離れ家が点在していた「楓荘」は大規模なマンションになった。その後もマンションやオフィスビルへの転換が続き、1982年の時点で営業を続けていたのは旧・南風荘本館の系譜を引く「あぐら荘」のみとなる。この地域の特色として、比較的閑静な環境からか、マンションへの転換が比較的多い。
② 旧・千駄ヶ谷一丁目 JR中央線南側・「大通り」北側
御苑荘 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
現状「ニュー千駄ヶ谷マンション」(マンション 1978年4月築)
はなぶさ別館 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
現状「佳秀ビル」(オフィスビル 1985年築)
あみ本館 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
現状「河合塾千駄ヶ谷オフィス」(校舎→オフィス 1986年3月築)
あみ別館 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(シャトウ千宗・駐車場)
現状「河合塾千駄ヶ谷オフィス2」(校舎→オフィス 1986年3月築)
松実園 1969年 営業中 1976年 廃業(マンション)
現状「千駄ヶ谷第2スカイハイツ」(マンション 1974年6月築)
旅荘浦島 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
現状 駐車場
舞子ホテル 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
現状「アポセント千駄ヶ谷」(マンション 1974年2月築)
旅館もみぢ 1969年 営業中 1976年 廃業(個人宅・斎藤)
現状「もみじ駐車場」(紅葉不動産)
旅荘たかのは 1969年 営業中 1976年 廃業(駐車場)
現状「インテグレーションSO」(マンション)
旅館玉荘 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
現状「松栄駐車場」(紅葉不動産)
御苑荘本館 あみ本館・別館 松実園
(19560222) (19560607) (19530204)
浦島 舞子ホテル
(19570124) (19561023)
もみぢ たかのは
(19570331) (19561020)
玉荘(19561006)
JR中央線南側で、千駄ヶ谷のメインストリート、通称「大通り」の北側、現在、大きなスペースを占める「国立能楽堂」(1983年8月竣工)の周辺地域。1960年代末まですべての旅館が営業を続けていた。1970年代に入ると3軒が廃業したが、まだ旅館街の形態を保っていた。1982年の時点ではさらに2軒減り往時の半分の5軒になるが、それでも他の地域に比べると格段に残存率が高い。千駄ヶ谷駅の目の前という好立地によるものだろう。
興味深いのは「あみ本館・別館」のその後で、1976年には本館のみ営業を続け、新館はビルと駐車場になっていたが、1980年代半ばに名古屋に本拠を置く大手予備校「河合塾」の東京進出にあたって、本館・新館跡地を合わせて売却した。「河合塾」の校舎(後にオフィス)が斜めに接しているにもかかわらず、つながっていない不便な形なのは、「あみ本館・新館」の土地利用をそのまま継承したからである。ちなみに、当時を知る「河合塾」関係者によると「予備校生は1年しか通わないから、そこが何であったかは気にしない」とのことだった。
「大通り」沿いの「もみぢ」は、1970年代に廃業するが、経営者のS氏は1967年当時、渋谷区議会議員だった(註15)。「連れ込み旅館」の経営者が地元有力者である一例である。「もみぢ」は2012年の現況で「もみじ駐車場」として名を残している(「玉荘」跡地の駐車場も同じ「紅葉不動産」の管理)。
③ 旧・千駄ヶ谷二丁目 鳩の森八幡周辺、同坂下
白樺荘(本館)1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
現状「ライオンズマンション千駄ヶ谷第2」(マンション 1983年10月築)
かたばみ荘 1969年 廃業(マンション)
(東京本館)現状「コーポ青井 千駄ヶ谷」(マンション 1969年9月築)
旅荘松岡 1969年 営業中 1976年 「割烹松岡」 1982年 廃業(マンション)
現状「外苑パークホームズ」「千駄ヶ谷ホリタン」
旅荘おほた 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
現状「ホワイトキャッスル」(マンション 1973年7月築)
旅館きかく (北側)1969年「モテルきかく」1976年 営業中 1982年「ホテルきかく」
現状「ホテルきかく」(休業中)
(南側)1969年「旅荘きかく」1976年 廃業(空地)
現状「メゾンブーケ」(マンション 1974年7月築)
あみ新荘 1969年 営業中 1976年 廃業(第2シャトウ千宗)
現状「第2シャトウ千宗」(オフィスビル 1969年1月築)
旅館いこい 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
現状「サンビューハイツ神宮」(マンション 1981年2月築)
旅館三越 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(オフィスビル)
現状「五月女ビル」(オフィスビル 1977年5月築)
旅館柳水 1969年「白樺新館」 1976年「白樺新館」 1982年 廃業(駐車場)
現状 駐車場
白樺荘(本館) かたばみ荘 旅荘松岡
(19521007) (19540113) (19560621)
おほ多 喜鶴(きかく) あみ新荘
(19560607) (19540404) (19570428)
いこい 三越
(19570507) (19570130)
柳水(19560429)
「大通り」を南に渡った鳩の森八幡周辺と、その坂下の地域。千駄ヶ谷駅からは少し距離があるが、入ろうか入るまいか逡巡しながら歩いているカップルにはこのくらいの距離がちょうどよい、という説もある。
1960年代末まではすべての旅館が営業を続けていた。1970年代に入ると9軒から7軒に減るが、なお旅館街の形を保っていた。しかし、その後、廃業する旅館が続出し、1982年の時点では1軒となり、旅館街としては消滅する。
千駄ヶ谷「連れ込み旅館」群の中でも有数の老舗であり規模も大きかった「白樺荘」は1980年代初頭に廃業し、広い敷地を生かした大規模マンションになった。
同様に広い敷地を有していた「旅荘松岡」は、1970年代に「割烹松岡」に転業した。
最後まで営業を続けたのは「きかく」で、千駄ヶ谷地区で最後の「連れ込み旅館」となる。2012年の段階でも休業中ながらドアに屋号を残していた。
④ 旧・千駄ヶ谷三丁目 明治通り・千駄ヶ谷ロータリー南東側
旅荘みなみ 1969年 営業中 1976年 廃業(株式会社毛利研究所)
現状「幻冬舎本館」
旅館光雲荘 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(オフィスビル)
現状 ビル
旅荘深草 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
(みぐさ)現状 東京メトロ副都心線北参道駅1番出口
旅館大野屋 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(個人宅・大野)
現状 駐車場
旅荘千代原 1969年 営業中 1976年(空地) 1982年 廃業(ハイツ千代原)
現状 マンション
旅館ふる里 1969年 営業中 1976年 廃業(クリニック、喫茶店)
現状
光雲荘 深草 大野屋 ふる里旅館
(19570513) (19521007) (19531115) (19570112)
千駄ヶ谷ロータリー南東側の地域。千駄ヶ谷駅からも代々木駅からもやや遠いが、明治通りには近く自動車での便は良い。新宿駅南口でタクシーに乗ったカップルは、スムースにこの地域の宿に入れる。
1960年代末までは6軒すべての旅館が営業を続けていた。1970年代に入ると半減して3軒になる。さらに1982年の時点では明治通り沿いの「深草(みぐさ)」1軒となり、旅館街としては消滅する。
この地域の特色として、もともと小規模な旅館が多かったためか、マンションよりオフィスビルへの転換が多い。「みなみ」の跡地は、現在、出版社「幻冬舎」の社屋になっている。また「深草」の跡地は、東京メトロ副都心線北参道駅(2008年6月開業)の出口になっている。
⑤ 旧・千駄ヶ谷三丁目 明治通り・千駄ヶ谷ロータリー南西側
白樺荘別館 1969年 営業中 1976年 廃業(新代々木ビル)
現状「新代々木ビル」(オフィスビル 1974年築)
旅館湯の川 1969年 営業中 1976年 廃業(大成ビル)
現状「ヴィールヴァリエ北参道」(マンション 2005年3月築)
旅館みその 1969年 営業中 1976年 廃業(化学工業ビル)
現状 駐車場
南風荘別館 1969年「南風荘新館」 1976年 廃業(コーポ南)
現状「外苑アビタシオンビル」(オフィスビル 1968年10月築)
すずきや旅館 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
現状「東九パレス神宮」(マンション 1980年3月築)
せきれい荘 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
現状「アカデミービル」(オフィスビル 1988年1月築)
旅館まつかさ1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
現状「第5スカイビル」(オフィスビル 1984年3月築)
旅館深山荘 1969年 営業中 1976年 廃業(工事事務所)
現状「深山ビル」(オフィスビル 1986年8月築)
白樺荘別館 南風荘新館
(19540114) (19580402)
すずきや せきれい荘
(19521007) (19561205)
まつかさ 深山荘
(19570130) (19561023)
千駄ヶ谷ロータリー南西側の、明治通りとJR山手線に挟まれた地域。千駄ヶ谷駅、代々木駅、原宿駅いずれからも遠いが、やはり明治通りに近く自動車での便は良い。また明治通りには、1955年12月27日に全通した都営トロリーバス(無軌条電車)の102系統が走っていた。最寄りの停留所「千駄ヶ谷小学校前」を案内する広告もある(「深山荘」など)。
1960年代末までは8軒すべての旅館が営業を続けていたが、1970年代に入ると3分の1近くの3軒に減ってしまう。さらに1982年の時点では「せきれい荘」と「まつかさ」の2軒のみとなる。どちらも1980年代後半には廃業し、旅館街は消滅する。
この地域も、交通の便からか、マンションよりオフィスビルへの転換が多い。「深山荘」は、ビルの名称(深山ビル)に名残をとどめている。
⑥ 旧・新宿区霞ヶ丘町
かすみ荘 1963年以前に区画整理で立ち退き、廃業。
現状「明治公園」(1964年開園)の敷地の一部。
紫雲閣 1963年以前に区画整理で立ち退き、廃業。
現状「明治公園」(1964年開園)の敷地の一部。
かすみ荘(19540430k)
紫雲閣(19541230)
JR中央線の千駄ヶ谷駅の東南部、神宮外苑の西側の地域。千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街の東端。2軒とも、霞ヶ丘町の国立競技場(1958年3月竣工)が東京オリンピック(1964年)のメイン会場に決まったことに伴う周辺地区の区画整理(後に「明治公園」となる)で立ち退きとなり廃業したと思われる。正確な時期は不明だが、1963年以前と推定される。
東京オリンピックの開催が、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」群に直接的に影響した事例だが、東端部の2軒を廃業に追いやったにすぎなかった。
(3)「連れ込み旅館」群の衰退・解体時期とその理由
個別調査の結果を集計すると、下記のようになる
1957 69 76 82年
① 7 7 5 1 (あぐら荘)
② 10 10 7 5 (玉荘、浦島荘、舞子H、はなぶさ、あみ本館)
③ 9 9 7 1 (Hきかく)
④ 6 6 3 1 (深草)
⑤ 8 8 3 2 (せきれい荘、まつかさ)
⑥ 2 0 0 0
42 40 19 10
千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街は、1960年代末までは、全盛期の1950年代後半の軒数をほぼ維持していた。先に掲げた1968年秋の地図の状況は、個別調査によっても実証された。住民運動(「鳩の森騒動」)やアジア大会・東京オリンピック開催にともなう「浄化運動」よって凋落・壊滅したという「通説」はまったく成り立たない。
ところが1970年代中ごろにはほぼ半減してしまう。そして1982年にはさらに半減してわずか10軒、全盛期の4分の1以下になる。地域的にも大きく縮小し、かろうじて旅館街の形を残すのは千駄ヶ谷駅南側の地域(③)だけになってしまう。
以上の検討から、千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街の衰退は1970年代に始まり、1980年代前半に解体、終焉を迎えたと考えられる。「通説」より、衰退で10年、解体で15年ほど遅い。
それでは、千駄ヶ谷「連れ込み旅館」群の衰退の理由はなんだったのだろうか? それは性的なものも含めた日本人の生活環境の変化だと思う。
別稿で述べたように、1950年代の「連れ込み旅館」の利用者が求めたものは、数寄屋造り・風呂付きの部屋、テレビ、冷暖房といった日常生活よりワンランク、ツーランク上の和風ベースの高級感だった。それらは、1960年代の高度経済成長期に曲がりなりにも達成され、特段の魅力を持たなくなってしまった。1970年代以降の利用者が求めるものは、大きなそして仕掛けのあるベッドが置かれた洋室、シャワーがあるスケルトンのバスタブに象徴される洋風ベースのゴージャスさだった。井上章一は「ラブホテル」という名称の出現を1973年とするが(註1)、性交渉の場は、旅館(旅荘)からホテルへと転換していった。
また、モータリゼーションの発達は、アベック(カップル)の行動様式を変えた。二人で鉄道の駅を降りて、そぞろ歩きしながら「連れ込み旅館」を探して入るというパターンから、自家用車でドライブして郊外のモーテルに入るという形に変化していった(註16)。
経営者側にしても、広い敷地に平屋の建物というのは、いかにも効率が悪い。とりわけ地価が高騰した千駄ヶ谷地区などでは、ビル化して、マンションやオフィスビル経営に転業した方がよほど儲かる時代になった。
千駄ヶ谷「連れ込み旅館」群は、そうした時代の流れについていけなくなったのだと思う。
ところで、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街の衰退が、湯島、錦糸町、あるいは新宿歌舞伎町のラブホテル街の形成につながったという俗説があるが、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街が少なくとも1960年代末まで健在だったことが明らかになったことにより、再検討しなければならない。なぜなら、新宿歌舞伎町においては、すでに1960年代に旅館街が形成されていて、辻褄が合わないからだ。これら東京各地のラブホテル街の形成過程は、それぞれ別個に検証する必要がある。
おわりに
1990年代後半、私は新宿歌舞伎町の女装スナックのお手伝いホステスをしていた。いつもは山手線の始発電車で帰るのだが、ママがお小遣いをくれた日やとても疲れた日は、奮発して目黒の自宅までタクシーで帰ることもあった(料金は2800円くらい)。
タクシーは夜明けの明治通りを南に走る。ある朝、おしゃべり好きの白髪の運転手が、千駄ヶ谷の交差点の信号で停まった時、「お客さん、このあたりに連れ込みホテルがたくさんあったって知ってますか?」と話しかけてきた。「そうなの?」と応じると、「(新宿駅の)南口でアベックを乗せて、よくここらの旅館に運んだものですよ。(アベックのお客さんに)「どちらへ?」って聞いて「どこでもいい」と言われると、約束してある旅館に運ぶんです。そうすると(旅館から)チップもらえるんです。200円くらいですけどね。いい時代でした」。歴史研究者の癖で「それいつ頃のこと?」と問うと、「そうですね、自分が30代の頃だから25年くらい前ですかね」という返事。
この会話は、たしか1997年頃だと思う。とすると、運転手の経験談は1970年代初頃ということになる。少なくとも、東京オリンピック(1964年)の後であることは間違いない(ちなみに、タクシーの初乗り料金は1972年に170円になる。ほぼ初乗り1回分のチップがもらえたことになる)。
それから23年という長い歳月が経ち、ようやくあの運転手の思い出話を証明することができた。
【註】
(註1)井上章一『愛の空間』(角川選書、1999年)第4章「円宿時代」
(註2)「二千三百平方キロの桃源郷」(『週刊サンケイ』1957年3月10日号)
(註3)【研究報告】1950年代東京の「連れ込み旅館」について ―「城南の箱根」ってどこ?―」(第2回「セクシュアリティ研究会」、明治大学、2018年8月)。
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-08
(註4)保田一章『ラブホテル学入門』(晩聲社、ヤゲンブラ選書、1983年)63~66頁。
(註5)たとえば、「みちくさ学会」の「東京オリンピック開催を契機に消滅した性風俗(その2:千駄ヶ谷の連れ込み旅館)」(2011年2月23日、著者:風俗散歩氏=フーさん)
http://michikusa-ac.jp/archives/2618395.html
(註6)金益見『性愛空間の文化史』(ミネルヴァ書房、2012年)22頁。
(註7)金益見(註6)書23頁には『渋谷ホテル旅館組合創立五〇周年記念誌』(渋谷ホテル旅館組合、2003年)収録の「祝 千駄谷駅改築落成 駅周辺旅館案内」図が掲載されている。1956年の千駄ヶ谷駅の改築を記念したものと思われるが31軒の旅館が載っている。
(註8)「米将校相手の売春ホテル」(『内外タイムス』1957年6月18日号)
(註9)「どこへ行く“温泉マーク”」(『内外タイムス』1957年3月17日号)
(註10)「温泉マークの許可で再び騒然」(『内外タイムス』1957年4月7日号)
(註11)「連れ込み宿に不許可」(『内外タイムス』1957年9月1日号)
(註12)下川耿史『極楽商売 聞き書き戦後性相史』(筑摩書房、1998年)150~153頁によれば、温泉マークが初めて用いられたのは1948年で、大阪・難波の「大阪家族風呂」という旅館が使い始めたことがきっかけで広まったという。代々原旅館組合の主張はそれより1年早い。
(註13)鈴木由加里『ラブホテルの力 ―現代日本のセクシュアリティ―』(廣済堂ライブラリー、2002年)112~117頁。
(註14)三橋順子『新宿『性なる街の歴史地理』(朝日選書、2018年)
(註15)「全調査=東京・仕掛けホテル」(『週刊大衆』1968年11月14号)。「仕掛けホテル」とは、噴水、震動装置、ブランコなどの「仕掛け」があるホテルのようだが、用語として定着しなかった。
(註16)モーテルについては、鈴木(註13)書118~123頁。『現代用語の基礎知識(1958年版)』(自由国民社)は「モーテル」の項目で「いわば温泉マークのアメリカ版」と説明している(項目執筆担当は大宅壮一)。
【備考】
広告図版の8桁の数字は、掲載年月日を示す。
末尾にkがついているのは『日本観光新聞』、他はすべて『内外タイムス』。
【住宅地図】
「東京都全住宅案内図帳・渋谷区東部 1959」
(住宅協会。1959年)
「東京都大阪府全住宅精密図帳・渋谷区 1963年版」
(住宅協会東京支所、1962年6月)
「全国統一地形図式航空地図全住宅案内地図帳・渋谷区 1970年度版」
(公共施設地図航空株式会社、1971年1月)
「ゼンリンの住宅地図・東京都渋谷区 1983」
(日本住宅地図出版、1983年3月)
「ゼンリンの住宅地図・東京都渋谷区 1996」
(ゼンリン、1996年1月)
なお、住宅地図の調査と発行のタイムラグを考慮して、1963年版→1962年頃現況図、1970年版→1969年頃現況図などのように1年戻して表記した。
【参考文献】
梶山季之『朝は死んでいた』(文藝春秋、1962年)←小説
佐野 洋『密会の宿』
(アサヒ芸能出版、1964年、 『講談倶楽部』連載は1962年、後に徳間文庫、1983年)←小説
保田一章『ラブホテル学入門』(晩聲社、ヤゲンブラ選書、1983年)
花田一彦『ラブホテル文化誌』(現代書館、1996年)
井上章一『愛の空間』(角川選書、1999年)
鈴木由加里『ラブホテルの力 ―現代日本のセクシュアリティ―』(廣済堂ライブラリー、2002年)
金 益見『ラブホテル進化論』(文春新書、2008年)
金 益見『性愛空間の文化史』(ミネルヴァ書房、2012年)
【追記】
2020年5月5日 「データベース」の改訂に伴い、データを修正。