SSブログ

【論考】トランスジェンダー大学教員として思うこと [論文・講演アーカイブ]

この「トランスジェンダー大学教員として思うこと」は、公益財団法人日本学術協力財団の機関誌『学術の動向』2019年12月号、特集「Gender Equality 2.0からSDGsを展望する」に掲載されたものです。
学術の動向2019年12月号.jpg
内容的には、2019年7月4日の国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)&日本学術会議主催の、GS10フォローアップ2019公開シンポジウム「Gender Equality 2.0からSDGsを展望する—架け橋—」(市ヶ谷:科学技術振興機構・東京本部)でお話ししたことがベースになっている。

編集委員長である伊藤公雄先生(京都大学名誉教授・京都産業大学教授・高校の先輩)には、たいへんお世話になりました。
こうした機会をいただきましたこと、とても感謝しています。

学術の動向2019年12月号 (1).jpg 学術の動向2019年12月号 (2).jpg
学術の動向2019年12月号 (3).jpg 学術の動向2019年12月号 (4).jpg
-----------------------------------------------------------------------
        トランスジェンダー大学教員として思うこと
          三橋順子(明治大学文学部非常勤講師)

1 トランスジェンダーがかかえる問題
トランスジェンダー(ここでは、生まれた時に指定された性別とは異なる性別で生活している人)の人生は、一般の人生のスタートが0からだとすると、マイナス50からの出発と言われます。

50のマイナス分は、自分が望む性別を獲得することに費やされます。望む性別の獲得の内実は、身体の外形を医学的な処置によって可能な限り望みの性別に近づけたり、戸籍の性別を変更するなど人によってさまざまです(すべてのトランスジェンダーが戸籍の性別変更まで望むわけではありません)。共通することは、日本のような男女二元社会(世の中には男性と女性の2つしかなく、それは生まれてから死ぬまで変化しないと認識されている社会)の中で、男女どちらかの望みの性別で(完璧でないにしても,ある程度)適合しなければならないということです。そうでなければ、社会活動がきわめて困難になります。

これだけでも相当な難事であり、その途中で倒れる人や、なんとか達成して一般の人並みの0からのスタートラインに立てた時には、もう力が残っていない人も出てきます。性別移行の途上や、性別移行達成後に自殺する人が後を絶たないのは、そういうことなのです。

やっと0からスタートして、勉学と研鑽を重ねて、いざ就職ということになると、また大きなハンデキャップがあります。トランスジェンダーであることがわかると、これまで日本の企業はまず採用しませんでした。まして、戸籍の性別変更をしていないトランスジェンダーの場合、外見上の性別と書類上の性別が異なれば、試験さえ受けさせてもらえない、実質的な「門前払い」が通例でした。

0からスタートして頑張って、一般の人と同じ100のラインまで来ても、トランスジェンダーの場合は駄目なのです。150、いや200くらいの実力があって、はじめて一般の100の人と同等になるという感じです。それは、どんなに努力をしてもトランスジェンダーであるということだけで認められなかった私の実感です。

ここまで読んで、それは女性の就労差別と似ていると思われた方がいるでしょう。たしかに構造的に似ています。女性は120くらい(あるいはもっと?)の実力があって、はじめて男性と対等という感じでしょうか。

違うのは、女性の就労差別については、それなりに社会的認知・問題認識があり、かつ「男女雇用機会均等法」という差別解消のための法的裏付けがあるのに対し、トランスジェンダーの就労差別についてはほとんど社会的認知がなく、「性別を理由として、差別的取扱いをしてはならない」としているはずの「均等法」においても実質的に対象外(想定外)だということです。

日本社会では、就労だけでなく、さまざまな分野の「ジェンダー平等」において、そもそもトランスジェンダーの存在が想定されていないのです。そして、私のような男性から女性へのトランスジェンダー(Trans-woman)の場合、トランスジェンダーへの差別と女性への差別を二重に受けることになります。

2 私の体験から
さて、私は2000年度に「三橋順子」として中央大学文学部兼任講師に任用され「現代社会研究(5)」の講義を担当しました。日本初のトランスジェンダーの大学教員ということで、初回の講義の日には、週刊誌が3つも取材に来るという騒ぎになりました。それらが店頭に並ぶとすぐに、たくさんの抗議電話が大学にかかってきました。

20世紀末までの日本のトランスジェンダーの就労は、ショービジネス(ダンサー)、飲食接客(ホステス)、性風俗産業(セックスワーカー)の3つにほぼ限定されていました。私はそれを「ニューハーフ三業種」と呼んでいますが、それらの業種に就くのなら社会的に許容されるが、それ以外の業種には就けないという状況(社会慣行)でした。ちなみに「ニューハーフ」とは商業的な(男性から女性への)トランスジェンダーを指す和製英語です。

私は、そうした社会慣行を打ち破ったので、「神聖な学問・教育の場である大学の教壇にニューハーフが立つなんて」という感じで、社会的衝撃・反発がとても大きかったのです。

2003年に都内のある中学校の授業にゲスト講師として招かれた時には、わずか1コマ(50分)の授業なのに、地元の保守系の女性団体が「ニューハーフを教壇に立たせるな!」と反対運動を展開しました。私は中学・高校(社会科)の一級教員免許を持っているのに。21世紀の初頭ですら、教育や学術の分野にトランスジェンダーが関わることに、どれだけハードルが高かったか、分かっていただけると思います

以来、20年、8つの大学で非常勤講師として講義をしてきましたが、教育面での性別に関わるトラブルはありません。講師がTrans-womanであることは、シラバス(講義要綱)に明記してあるので、そういう講師に教わりたくない学生は受講しません。ときどき、シラバスをちゃんと読まずに履修して初回のガイダンスで驚く学生はいますが、だいたい数回で慣れます。

苦い思い出は、ほとんど事務方とのトラブルです。2005年度に専論講座としては日本初となる「トランスジェンダー論」の講義を担当した、お茶の水女子大学ではトラブルの連続でした。1つは通勤費の算出のベースになる出勤簿に本名(戸籍上の男性名)で捺印するように言われたこと。もう1つは「職員録」への記載で「本名」か「本名と通称(女性名)の併記」かの選択を迫られたことです。どちらも拒否しました。なぜなら辞令は私の通称(女性名)である「三橋順子」でいただいていたからです。

「ジェンダー研究の本山」を自認する大学が「日本最初のトランスジェンダー論の講義をしてほしい」と呼んでおいて、この有様でした。前者に関しては、毎回のことなので、さすがに嫌気が差して「それなら通勤費、いただかなくて結構です。たかが720円で筋は曲げられません」と開き直ったところ、事務の人が「では、ご本名の印鑑をこちらで買って捺し直します」という、信じられないような解決になりました。

また、2012年度から「ジェンダー論」の講義を担当することになった明治大学文学部では、履歴書の性別欄でトラブルになりました。私の場合、自分のジェンダー(社会的性別)に従って「女」と書けば有印私文書不実記載になりかねないし、かといって「男」と書くのはジェンダー・アイデンティティに反するのでできません。また「男女雇用機会均等法」の趣旨からも履歴書の性別欄は不要と考えるので、性別欄は不記載(空白)にしています。

今回もそうしたところ、人事課から性別欄に「『男』と書くように」というメモが付されて履歴書が戻ってきました。私が、先に記したような空白にする理由を説明したところ、「性別欄が空白の履歴書は前例がなく受け取れない」という返事。先例がないのは当たり前で、私が「初めて」なのですから。「それでは仕方がありません、講師就任はこちらからお願いしたことではありませんので、結構です」ということで任用手続きが完全に止まってしまいました。

私がなぜ妥協しないか、それはきっと私の後に続いてくれるだろうトランスジェンダーの大学講師に悪しき先例を残したくなかったからです。それが、トランスジェンダー大学教員のパイオニアである私の責務だと考えたからです。

結局、たかが一非常勤講師の人事に、学長さんが「履歴書をそのまま受け取るように」と人事課に指示を出し、私の任用は実現しました。

3 問題解決のために必要なこと
長々と過去の事例を記したのは、通勤簿に捺す印鑑、履歴書の性別欄のような小さなものが、トランスジェンダーの就労の妨げになるということです。硬直した男女二元論のシステムによって、トランスジェンダーの就労が困難になり、能力を発揮する場が奪われている現状があるのです。

ここで気づいてほしいのは、他の6つの大学では、事務方とのトラブルはほとんどなかったことです。ある大学で、性別欄の空白について尋ねられましたが、説明をしたら納得してもらえました。つまり、わずかな配慮、システムの修正によって、トランスジェンダーの就労状況の改善は可能であるということです。

トランスジェンダーが社会に求めているのは、性別の自己決定の尊重と、その社会的承認です。なにも性別二元社会を根底から覆すような要望をしているのではありません。トランスジェンダーの存在を認識して、小さな配慮・システムの修正をしてほしいという要望です。

ここでトラブル事例として紹介した明治大学は、今では「ダイバーシティ&インクルージョン宣言」を出し、性的マイノリティ、とりわけトランスジェンダーへの配慮をマニュアル化した先進的な大学になっています。

人口減少社会である21世紀の日本社会には、性的マイノリティを排除している余裕はもうありません。性的マイノリティを排除せず多様性(ダイバーシティ)の1つとして包摂(インクルージョン)し、能力を活かしていくことが、より豊かな社会につながり、その方が日本社会にとって「得」だということです。

早い話、わずか1cm四方の性別欄にこだわって、(安い給料にもかかわらず)毎期400人前後の受講生を集める人気講師を逃すのと、システムを少し修正してその力量を活かすのと、どちらが「得」かということです。

もう一度、トランスジェンダーの人生をたどってみましょう。まず小学校~高校では、2016年4月1日の文部科学省の通達「性同一性障害や性的指向・性自認に係る、児童生徒に対するきめ細かな対応等の実施について」で、教育現場の対応が進み、かなりの改善がなされました。

大学での就学については、2015年くらいから、国際基督教大学、明治大学、早稲田大学、大阪府立大学、龍谷大学、筑波大学などでトランスジェンダー学生への対応ガイドラインが策定され、望みの性別での通称名の使用を認めるなど、積極的な対応がなされています。とりわけ2018年度から導入された筑波大学のガイドラインは、病理を前提にしない(診断書の提出を求めない)対応方針で、かつ極めて詳細なものです。今後、他大学のお手本になるでしょう。

また、お茶の水女子大学、奈良女子大学、宮城学院女子大学など、いくつかの女子大学で、2020年度以降、Trans-womanの受験生を「女子」として受け入れることになりました。

このように教育面では、この数年でトランスジェンダー学生の状況は大きく改善されています。残る障壁は就労です。就労差別さえなくなれば、トランスジェンダーの状況は間違いなく大きく改善されます。そのためには、学生を社会に送り出す大学関係者の理解とバックアップが強く求められるのです。

今回、私を「ジェンダー・サミットのフォローアップシンポ」に呼んでいただいたこと、『学術の動向』に執筆の機会をいただいたことが、日本社会におけるトランスジェンダーの存在を認識し、その状況の改善の必要性を考えていただく、きっかけになれば、たいへん幸いに思います。

nice!(0)  コメント(0) 

【論考】新宿の「連れ込み旅館」と歌舞伎町「ラブホテル」街の形成 [論文・講演アーカイブ]

    新宿の「連れ込み旅館」と歌舞伎町「ラブホテル」街の形成
               三橋 順子

はじめに
1995年頃、「夜の歌舞伎町の『女』」になったばかりの駆け出しの私に、店のママがこう教えてくれた。「縦軸が区役所通り、横軸が花道通り、原点が『風林会館』前の交差点ね。で、第4象限がこの店があるホステスクラブや飲み屋の集中地域、第3象限が『コマ劇』がある歌舞伎町の中心街。ここらへんはもし何かあっても、(ヤクザに顔が利く)あたしが助けてあげられる。でも、第2象限は入ってはダメ。あそこは外国のマフィアの縄張りだから、あたしは助けてあげられない。第1象限はラブホテル街だから彼氏に連れて行ってもらいなさい」。

それから間もなく、私は材木屋の若旦那と付き合い始めた。彼との「性なる場」は、中央自動車道なら八王子、東名高速なら海老名あたりまでドライブして入る「ラブホテル」が定番だった。ある夜、時間がなくて手近の新宿歌舞伎町の「ラブホテル」に行こうということになった。「なんで、こんなにたくさんラブホがあるの!?」と驚く私に、彼が「ラブホ街はね、奥の方がサービスがいいんだよ」と教えてくれたのを覚えている。手前の方のホテルは、黙っていても客が入るので、サービスの手を抜きがちなのだそうだ。その言葉どおり、私たちは「ラブホ」街のいちばん奥(北)に近いホテルに入った。たしか「サボイ」(歌舞伎町2-5-6)という名のホテルだった。

その少しあと、訳知りの店のお客さんから「歌舞伎町のラブホ街はね、千駄ヶ谷の連れ込み旅館が東京オリンピックで立ち退きになって、それで移ってきたんだよ」という話を聞いた。その時は「へ~ぇ、そうなんだ」と素直に思った(でも、実際は違った)。

新宿の「連れ込み旅館」から「ラブホテル街」の形成までを歴史地理的にたどることにより、長年の疑問を解決しようと思う。

1 新宿の「性なる場」の特色
拙著『新宿「性なる街」の歴史地理』(註1)で述べたように、新宿は、内藤新宿の「飯盛女」に始まり、大正末期にできた「新宿遊廓」、戦後の黙認売春地区「赤線・新宿二丁目」、非合法売春地区「青線・花園三光町」を経て、現代の歌舞伎町の性風俗街まで連綿と「性なる場」が存在してきた。その点が同じ山の手エリアの盛り場、渋谷、池袋との大きな違いだ。

「連れ込み旅館」の全盛期1953~57年頃は、まだ「売春防止法」が制定される以前の「赤線」時代だ。「赤線」の全盛期は1952~53年頃で「連れ込み旅館」の全盛期より少し前だから「赤線」後期に相当する。つまり、「赤線」と「連れ込み旅館」とは同時並存なのだ。

両者の関係については、東京東部には圧倒的に「赤線」が集中し(区部13か所のうち10か所が存在)、「連れ込み旅館」の数がきわめて少なく、逆に東京西部には「赤線」が少なく(城西エリアの新宿二丁目と、城南エリアの品川、武蔵新田の3か所)、逆に「連れ込み旅館」の分布が濃密である。それらは「性なる場」を利用する階層の違い、さらに性愛文化にかなり大きな違いがあったことを思わせる。

言葉を換えるならば、東京では「赤線」と「連れ込み旅館」は住み分けていたと言っていい。その中の例外が、山の手唯一の、そして東京第3の規模をもち、老舗の「赤線」新吉原に勝るとも劣らない人気を誇った「赤線」新宿二丁目だった。

つまり、東京の中で「赤線」と「連れ込み旅館」が住み分けている状況下で、新宿において「赤線」と「連れ込み旅館」はどのような形で存在したのか? やはり住み分けていたのか、そうでないのかというテーマが設定できる。

さらに新宿の「性なる場」をややこしくしているのは、都内最大規模の非合法売春地区「青線」花園・三光町である。戦後の買売春地帯の「本家」?である「赤線」新宿二丁目をときに凌ぐくらい人気があったこの「青線」街は、10~20年?を隔てて成立する歌舞伎町の旅館・ホテル街と地理的に近い、というかほとんど隣接する。その間になにか関係はなかったのかも考えないといけない。

とはいえ、あまり先走らず、まずは新宿の「連れ込み旅館」巡りから始めよう。

2 新宿の「連れ込み旅館」の分布
私が作った「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」(註2)によると、新宿エリアに31軒の「連れ込み旅館」が確認できる。これは千駄ヶ谷の39軒、渋谷の32軒に次いで東京第3位である。

モータリゼーションの発達がまだそれほどでもない1950年代の「連れ込み旅館」の立地は鉄道の駅が基本だった。そこで新宿駅を中心に西→南→東→北と反時計回りに巡ってみよう。

(1)西口方面
現在、東京都庁を盟主とする新宿副都心の玄関口として賑わっている新宿駅西口も、1960年代までは駅の裏口という印象だった。改札を出ると広いバス乗り場があり、その向こうに街並があったが、じきに淀橋浄水場の塀に突き当たってしまう。

淀橋浄水場は1965年まで東京中心域への給水を一手に引き受けていた広大な施設で、その跡地を再開発したのが新宿副都心だ。浄水池を埋め立てずにその底を基盤にビルを建てたので、あのあたりの道路はビルの1階より高いところを通っている。ちなみに、新都心で最初の高層ビルである「京王プラザホテル」の開業が1971年、2番目の住友ビルが1974年。

バス乗り場と浄水場に挟まれた狭い一帯に4軒ほどの旅館・ホテルが点在していた。京王電鉄新宿駅の向かい、安田生命のビルの南側の道を西に進むと新宿郵便経局の斜め向かいに「旅館かどや」があった。広告には「西口下車徒歩2分 安田生命横入」とある。今も同じ場所で「かどやホテル」が営業している。

現在の「かどやホテル」はビジネスホテルだが、1950年代の「旅館かどや」も「連れ込み旅館」と言っていいのか、いささかためらいを覚える。

「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」の採録基準は、『内外タイムス』や『日本観光新聞』などの性風俗関係の頁に広告を出していること、料金設定が「お二人様(御同伴)」で「休憩(休息)」であることの2点を基準にしている(註3)。千駄ヶ谷をはじめとして多くの「連れ込み旅館」は毎週のように広告を載せるが、「かどや」の広告は1、2回しか見かけない。

そもそも、商用の客が中心の一般の旅館(古風な言い方をすれば商人宿)と「連れ込み旅館」の間に明確な線引きはない。「商人宿」的な旅館が「最近、流行りの『ご休憩』設定、儲かりそうだからウチもやってみるか」という感じで始めたケースもけっこうあったらしい(註4)。それで収益が向上して「連れ込み」専用に移行した所もあれば、逆にそれほどの収益改善がなく元の商用客中心に戻った所もあったはず。「かどや」の場合は、後者のように思う。
新宿駅西口(かどや・19541220).jpg
かどや(19541220)

何度も言うが、この頃の西口は西側が浄水場の塀で塞がれていて、東西に方向に余地が乏しい。そこで、旅館は北側に展開していた。

西口を北に行くと、歌舞伎町方面から「大ガード」を潜ってきた青梅街道が西口駅前の南北道と交差する「柏木交差点」(現:新宿大ガード西交差点)に出る。「柏木」は現在の北新宿1~4丁目の旧称だが、「角筈」や「追分」など新宿の古い地名とともに忘れられつつある。

「旅館みやこ」(19560413)は「柏木交差点ガソリンスタンド裏」とある。1962年頃現況の住宅地図には、柏木交差点の北西角にシェル石油のガソリンスタンドがある。その2ブロック西に「みやこビル」(1959年竣工)があり、すでに廃業してビル化したようだ(現在も同地に「ミヤコビル」がある)。敷地からして小さな旅館だったと思う。

「みやこ」と同じブロック、すぐ西側に「大海老旅館」があった。「みやこ」よりだいぶ規模が大きい。広告には「青梅街道北側」「新築落成」とある。以前からあった旅館が「ご休憩」客を当て込んで1954年に新館を建てたのだろう。1970年代前営業していたが、現在は「東京調理師専門学校」になっている。
新宿駅西口(みやこ・19560413).jpg   新宿駅西口(大海老旅館・19540530).jpg
 みやこ         大海老旅館
 (19560413)      (19540530)

いかにも当時流行のおしゃれな「連れ込み」風の名前の「文化ホテル」は「西口交差点 新宿登記所前通」とある。「西口交差点」(=柏木交差点)から小滝橋通りを北に100m少し進み左に入る道を200m行ったところにあった。かなりわかりにくい場所だ。この場所は1961年頃現況の住宅地図で突き止めたのだが、1962年頃現況図では南隣の「旭旅館」と一体化している。

「らくらく」は、「文化ホテル」と同じ「新宿登記所前通」をさらに2ブロック北に行った所にあった。さらに立地は良くない。「新宿で一番安い」を売りにするのも仕方がなかっただろう。

新宿駅西口(文化ホテル・19530925k).jpg  新宿駅西口(らくらく・19570303).jpg
 文化ホテル        らくらく
 (19530925k)      (19570303)

なお、1951年頃現況の「火災保険特殊地図」では、「かどや」「みやこ」「大海老」「文化ホテル」「らくらく」が確認でき、西口の「連れ込み旅館」の開業が1950年代初頭以前、戦後さほど経たない時期であることがわかる。

柏木一丁目 (2) - コピー - コピー.jpg
【地図1】柏木一丁目の旅館群(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)
柏木一丁目 (4) - コピー.jpg
【地図2】「大海老旅館」と「みやこ旅館」(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)
柏木一丁目 (3) - コピー.jpg
【地図3】「文化ホテル」と「らくらくホテル」(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)

ところで、東京都庁舎西側の広大な新宿中央公園の北西に、角筈村の鎮守社熊野神社がある。紀州の熊野三山から十二所権現を勧請したことから、この付近を「十二社」(じゅうにそう)と呼んだ。神社の西には大きな池があり、江戸時代には近郊の行楽地、近代以降は三業地として賑わった。1962年頃現況の地図でも、池の南に「十二社温泉)」があり、池の西側の高台には料亭が立ち並んでいた様子がわかる。

「連れ込み旅館」の広告の中に「十二社」を称しているものが2つある。まず「浮世荘」は、「新宿十二社池ノ上」と称し「新宿駅南口より京王帝都中野練馬行きバス2分」と案内している。しかし、1962年頃現況の地図を見ても十二社の池の近くにはそれらしきものが見当たらない。視野を広げると、甲州街道(国道20号線)のランドマークだったガスタンク(東京ガス淀橋供給所、1990年廃止。現:ホテルパークハイアット東京の敷地)の西側のブロックに見つかった。住所的には角筈三丁目で十二社とはとても言えない。

もう1軒の「抱月」も「新宿十二社の新名物」と称しているが、添えられている地図をたどると、都営角筈アパート(現:東京都新宿住宅展示場)の西側、山手通りに近い所になる。やはり住所は角筈三丁目だ。1962年頃現況図には見えないが、「浮世荘」よりさらに十二社からは遠い。

どちらも、「十二社」と称しているが、明らかに僭称だ。現代だったら、事実と異なる悪質広告として問題になると思うが、当時の規制はいたって緩かった。
新宿十二社(浮世荘・19570124).jpg  新宿十二社(抱月・19540113).jpg
 浮世荘         抱月
 (19570124)      (19540113) 

(2)南口方面
新宿駅南口は甲州街道に面しているが、実は道の向こうは新宿区ではなく渋谷区。「バスタ新宿」も住所は渋谷区千駄ヶ谷五丁目になる。とはいえ、「連れ込み旅館」は駅立地が基本なので、新宿駅を起点にしていると思われる旅館を見ていこう。

「旅館すがや」は広告に「甲州口(徒歩五十秒)とあるように、南口を出て甲州街道を横断した場所にあった。ほんとうに向かい側で50秒は嘘ではない。この一角は南口の大規模な再開発で一変しているが、都営地下鉄新宿線の2番出口があるビルが跡地になる。

「旅館豊嶋」は「甲州街道南側」とあるが、甲州街道から南へ山手線の代々木駅方面に向かう道に入り、2つ目のT字路を右(西)に入ったところにあった。1970年代後半まで営業していたが、現在は「JR九州ホテルブラッサム新宿」の敷地の一部になっている。

「羽田旅館」は「南口3分 鉄道病院裏」とある。「鉄道病院」は「中央鉄道病院」で現在の「JR東京総合病院」のこと。南口からの道筋は「鉄道病院」まで行ったら行き過ぎで、「豊嶋」がある道を西に進んだところにあった。現在は名前そのまま「羽田ビル」(1975年竣工)になっている。

広告はないが、甲州街道沿いにあった「景雲荘」と同じ名前のビジネスホテル「景雲荘」が100m南に現在する。そこは「旅館あけぼの」があった場所なのだが、もしかすると、同じ系列で移転したのかもしれない。

新宿駅南口に近い「鉄道病院」の北側・東側一帯には、1962年頃現況図で、広告がある3軒を含めて11軒ほどの旅館・ホテルが確認でき、旅館街をなしていた。それはさらに南の代々木駅周辺、さらに南東の千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街につながっていく。

新宿駅南口(すがや・19540521).jpg 新宿駅南口(豊嶋・19550909k).jpg 新宿駅南口(羽田旅館・19550418).jpg  
 すがや         豊嶋           羽田旅館
 (19540521)      (19570107)       (19550416)

新宿駅南口 (2) - コピー.jpg
【地図4】新宿駅南口の旅館群(1962年頃現況住宅地図)

新宿駅南口方面で、行政区画的にも新宿区になるのは、新宿四丁目だけだ。ここだけが渋谷区に出っ張る形になっている。この新宿四丁目は江戸時代には徳川将軍家所縁の天竜寺の門前町(寺領)「南町」だったが、「ご瓦解」(明治維新)後は、「旭町」と名を変え、木賃宿指定地になり貧民街(スラム)化してしまう。

その状況は戦後にまで引き継がれ、戦後の混乱期、数多くの街娼が南口界隈に立っていた頃には、そうした木賃宿起源の安宿「ドヤ」が、街娼が客を連れ込む「性なる場」として利用されていた。いわゆる「パンパン宿」と呼ばれたものだ。1950~60年代にも数多くの簡易旅館が立ち並んでいたが、「連れ込み旅館」とは性格が異なるので、ここでは扱わない(註5)。

新宿四丁目には、昭和初期に斜めに町を引き裂くように明治通り(環状5号線)が設置された。「とみ田」は「新宿駅より3分 明治通り」とあるように、新宿四丁目の南部、明治通りの東側にあった。広告には「新宿の自然境」とある。たしかに南東200mほどのところに新宿御苑があるが・・・。跡地には現在「パシフィックワコービル」が建っている。1970年竣工なので、1960年代末に廃業したのだろう。
新宿駅南口(とみ田・19530731).jpg
 とみ田(19530731)

旭町 (1) - コピー.jpg
【地図5】新宿4丁目(旭町)の旅館群(1962年頃現況住宅地図)
旭町 (2) - コピー.jpg
【地図6】「とみた」の位置(1962年頃現況住宅地図)

(3)東口方面
新宿駅の表玄関、東口正面は、当然のことながら東を向いて、中央通りにつながっていた。南北に長い駅舎の東側に庇があり、タクシー乗り場がある。ところが、現在「東口」というと、「アルタ」の向かい側の「東口広場」をイメージする人が多くなってしまった。あそこは駅舎の妻の部分から出ていて、方角からも、本来、北口と言うべき所だ。

ということで、東口方面とは、東口正面の中央通りと、実質的なメインストリートである新宿通り(追分より西は青梅街道)の周辺ということになる。

かなり広いエリアにもかかわらず、広告が確認できるのは、わずかに3つだけ。広大な、そして新宿でもっとも繁華な一帯であるにもかかわらず、きわめて少ない。とりわけ、メインストリートである新宿通り周辺にはまったく見い出せなかった。

まず、三光町(現:新宿五丁目の西部)。「白鳳荘」は、広告に「伊勢丹裏電車大通り三光町電停前」「(駅より五分)花園神社参道右」とある。「伊勢丹裏電車大通り」は現在の靖国通りのこと。都電(11、12、13系統)の三光町停留所は、靖国通りと明治通りの交差点(現:新宿五丁目交差点)の東寄りにあった。停留所を下りれば花園神社の南参道は目の前で、鳥居をくぐって少し進んだ右手に「白鳳荘」はあった。「駅から五分」は新宿駅から、急げばそんなものか。料金の300円均一は「御同伴」はともかく「御泊」は破格に安い(新宿では「泊り」500円以上が相場)。

1962年頃現況の住宅地図には、「白鳳荘」の北側に「高島旅館」と「万葉旅館」があって小さな旅館街を形成していた。1951年頃現状の火災保険図には、「白鳳荘」はすでにあり、「万葉旅館」の場所は「OFF LMIT。」という建物になっている。OFF LMITSは性病蔓延を理由に連合国軍将兵の性的な場への立ち入りを禁止した指令(1946年3月)だが、それを逆手にとった屋号だろうか。

現在「白鳳荘」の跡地には「白鳳ビル」(1966年竣工)が建つ。しかも、敷地は南側、靖国通り沿いにまで拡大している。「連れ込み旅館」で稼いでビル経営に転身し成功した代表的な例だと思う。
新宿三光町(白鳳荘・19560621).jpg
 白鳳荘(19560621)

続いて番衆町(現:新宿五丁目の西部)。「アカシホテル」は、広告に「素人が自分の好みで作った宿。それだけに部屋も設備も素晴らしい!サービスも素人だけに又落ち着ける」と素人っぽさを売りにしているが、やはり素人経営はうまくいかなかったのか、1962年頃現状の地図には見えない。

「番衆町35 市ヶ谷大通り☆スタンド横」とある、「市ヶ谷大通り」はやはり靖国通りのこと。「☆スタンド」は、赤い☆をマークにしていたカルテックス(日本石油)のガソリンスタンドで、1962年頃現況の住宅地図にはたしかに靖国通りに面して「日本石油KK新宿給油所」があり、その横に「旅館こまき」がある。これが「アカシホテル」の後身だろう。

「新宿白樺荘」は、別の記事に「新宿三光町電停から市ヶ谷に向い五分」とあり、こんな絵が添えられている(『内外タイムス』1954年12月23日)。長野県「蓼科温泉観光ホテル」の連絡所を兼ねているとのことなので、資本関係があったのかもしれない。ちなみに名称にわざわざ「新宿」を付けているのは、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」の老舗「白樺荘」があるためと思われる。

1962年頃現状の地図には、「アカシホテル」があったと推測される場所の北隣に「旅館白樺」が見える。現在は2つの地所を併せて「神谷ビル」(1976年竣工)になっている。

新宿番衆町(アカシホテル・19550417).jpg  新宿番衆町(新宿白樺荘・19541221).jpg   
 アカシホテル       新宿白樺荘
 (19550417)       (19541221)
新宿番衆町(新宿白樺荘・19541223) (2).jpg
新宿白樺荘のイラスト(19541223)

番衆町 (1) - コピー.jpg
【地図7】番衆町の旅館群。小規模な旅館が散在する(1962年頃現況住宅地図)。

番衆町 (3).jpg
【地図8】「白樺荘」の位置(1962年頃現況住宅地図)

東口方面の広告があまりに少ないので、少し足を延ばしてみよう。番衆町の東の富久町は、元「市ヶ谷富久町」と言ったように、もう新宿とは言えないが、そこに「クインホテル」があった。広告の地図にあるように靖国通りのロータリー(現:富久町西交差点)の北東にあった。広告には「浅草行バス花園町停留所前 都電四谷四丁目下車3分、三光町下車3分」とあるが、交通の便は良くない。都電だと新宿通りを走る11、12系統の四谷四丁目停留所から北に歩くのが近い。跡地は「サウスタワー」(1995年竣工)というオフィスビルになっている。

ところで、富久町の東の市ヶ谷台(市谷本村町)には、戦時中、帝国陸軍の中枢(陸軍省、参謀本部、教育総監部)があったが、戦後の占領期には進駐軍に接収され、1959年に返還されるまで一帯は「パーシングハイツ」と呼ばれていた。広告に「ラジオ・バス・電話完備」とあるように洋式の「クインホテル」が富久町にあったのは、アメリカ軍との関係があったと思う。
新宿富久町(クインホテル・19550708k).jpg
   クインホテル(19550708k)

靖国通りを進んできた都電13系統は、三光町の停留所を過ぎると左折して明治通りに入る。そして新田裏(現:新宿六丁目交差点)から北東方向に専用軌道になる。大久保車庫前を通過して再び路面に出たところに東大久保停留所があった。近くに「抜弁天(ぬけべんてん)」の通称で知られる厳嶋(いつくしま)神社がある。

「二条」は「伊勢丹裏三光町より飯田橋に向い四ッ目 電停東大久保牛込抜弁天下車一分」とあるように、東大久保停留所から200mほどの所にあった(電車通りではなく裏道)。住所は余丁町になるが、このあたりは、当時は鉄道の駅からも遠く、都電なくしてはありえない立地だ(現在は都営地下鉄大江戸線の若松河田駅が近い)。「高級旅荘」をうたっているが、料金を値下げして安めに設定していた。それでも経営が難しかったのか、1962年頃現状の地図では料亭になっている。
新宿抜弁天(二条・19550620).jpg
  二条(19550506)

さて、例によって広告を見てきたが、東口方面はあまりに少なく、全体像がつかめない。そこで、方法を変えて、1962年頃現況の地図に見える旅館を地域ごとに数えてみた。 

広いので下記のように7つのブロックに分けてみた(註6)。
① 中央通り北側、新宿通り南側、JR線東側、明治通り西側の旧「三越裏」。
② 新宿通り北側、靖国通り南側、明治通り西側の「紀伊国屋書店」や「伊勢丹」があるブロック。
③ 新宿通り北側、靖国通り南側、明治通り東側、御苑大通り西側の「末廣亭」があるブロック。
④ 新宿御苑北側、新宿通り南側、御苑大通り(延長)東側の東西に細長いブロック。
⑤ 新宿通り北側、靖国通り南側、明治通り西側の新宿二丁目「赤線」「青線」地区を含む「仲通り」周辺。
⑥ 靖国通り北側、都電回送線(現:遊歩道「四季の道」)東側、花園神社周辺の旧・三光町。
⑦ 靖国通り北側、明治通り東側、医大前通り南側の旧・番衆町。

結果は、以下の通り。
① 0軒
② 1軒
③ 3軒
④ 4軒
⑤ 3軒(「赤線」「青線」地区の転業旅館は除く)
⑥ 11軒
⑦ 15軒

つまり、新宿駅東口エリアは、一般旅館、「連れ込み旅館」を問わず、旅館が少ないのだ。とくに、駅に近いほどその傾向は顕著で、もっとも繁華な①②には合わせて1軒しかない。わかりやすく言えば、東口には「駅前旅館」がないのだ。②の大ガードに近い所に「山城屋」という商人宿っぽい屋号の小さな旅館があるだけ。③の3軒も2軒は小規模で、まずまずの規模は末広通りが靖国通りに出るあたりにあった「花菱旅館」だけ。このエリアには、進駐軍兵士専用の「連れ込み」として知られた「大和ホテル」があった。1951年頃現況の火災保険図にはみえるが、1962年頃現況図ではもう消えている。

たしかに繁華街(商業地域)は人目が多く「連れ込み旅館」に入りにくいかもしれないが、裏通りはいくらでもある。他の盛り場では、そうした繁華街の裏通りに「連れ込み旅館」があることは珍しくない。しかし、新宿にはそれがない。

こうした傾向は、私がこのあたりで遊んでいた頃(1990年代)にも気づいていた(近場でSexできる場所がない)が、これほどまではっきり傾向が出るとは思わなかった。

繁華街を外れても傾向は変わらない。1958年1月末まで「赤線」「青線」が営業していた、⑤の二丁目「仲通り」周辺も、「売春防止法」完全施行後の転業旅館(しばしば偽装転業)を除けは、小さな旅館が3軒あるだけ。同じ二丁目でも新宿通り南側の④の方が4軒とまだ多い。

「赤線」は特殊飲食店(カフェー)の2階にある女給の私室で性行為が行われるので、近隣の旅館に泊まる必要はない。「青線」は店の中の隠し部屋(多くは3階、屋根裏部屋)で性行為を行うが、女性の数だけ部屋がない場合もある。使用中で塞がっている場合は、待つか、別に用意してあるアパートの一室が使われたらしい(註7)、いずれにしても「赤線」「青線」地区に旅館がほとんどないのは必要がないからだ。

東口中心エリアから外れた、新宿駅からは遠い靖国通りの北側になると、ようやく旅館が増えてくる。「白鳳荘」が広告を出している⑥の三光町は11軒、「アカシホテル」「新宿白樺荘」のある⑦番衆町は15軒と、むしろ旅館が多い感じになる。

このエリアは、1940年代後半から50年代初頭まで、いわゆる「パンパン宿」が多かった地域だ。「パンパン宿」とは、街娼が男性客を連れ込んで性行為をするための宿で、小規模な旅館や民家の間貸しが多かった。

1949年6月現在とされる「新宿元遊廓付近図」(註9)の下の方、三光町、番衆町には多数の「パンパン宿」が描かれている。要通りや「赤線」地区の周辺の街娼たちの仕事場だったと思われる。

三光町、番衆町に散在する小規模な旅館の中には、そうした「パンパン宿」に起源をもつものがかなりあったのではないかと推測している。

さて、「赤線」「青線」があった時代(1958年以前)、新宿駅東口、あるいは都電の新宿二丁目や三光町で下車した性欲にあふれた男たちは、真っすぐに二丁目の「赤線」や、「三光町」の「青線」街を目指したはずだ。途中で街娼に引っかからない限り、彼らは旅館を必要としない。東口界隈は需要がないから「連れ込み旅館」は立地しない。

素人の女性を連れた男性は、新宿駅でも南口(もしくは西口)で下り、駅に近い「連れ込み旅館」に入るか、タクシーで千駄ヶ谷に向かう。

やはり、新宿の中でも「赤線」と「連れ込み旅館」は住み分けていたと思われる。

神崎清「新宿の夜景図―売春危険地帯を行く―」(『座談』1949年9月)
方向を示す記号が真逆になっている。実際は下が北。

(4)歌舞伎町方面
西口、南口、東口と巡ってきたので北口になるはずだが、先述したように新宿駅に北口はない。1950~60年代は、食品デパートの「二幸」(現:「アルタ」)方面への出口が実質的な北口になり、靖国通りにあった都電の新宿駅前(終点)に向かい、さらに靖国通りを渡って歌舞伎町に通じていた。

本来の歌舞伎町エリア(現:歌舞伎町一丁目)で広告が確認できるのは、「桂月荘」1軒だけで「新宿地球座裏通り」とある。「新宿地球座」は「新宿コマ劇場」(現:「新宿東宝ビル」)の西にあった「地球会館」にあった映画館(後のジョイシネマ。現:「ヒューマックスパビリオン新宿アネックス」)。1951年頃現況の火災保険地図で「地球座」の南西のブロックにあったことがわかる。しかし1962年頃現況の地図では別の建物になっている。

歌舞伎町エリアの旅館は、1962年頃現況の地図では7軒ほどで、いずれも規模は大きくない。
 
新宿歌舞伎町(桂月荘・19530518).jpg
 桂月荘(19530518)
歌舞伎町2丁目 (2) - コピー.jpg
【地図9】「桂月荘」の位置(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)

ところが、「コマ劇」の裏通り(通称:花道通り、元はカニ川の流路)を越えて西大久保1丁目(現:歌舞伎町2丁目)に入ると、急に旅館の数が増え、しかも大型化する。広告が確認できる旅館が14軒もある。例によって地域を分けてみよう

① 区役所通り西側、職安通り南側(旧:西大久保1丁目の西部、現:歌舞伎町二丁目)
② 区役所通り東側、職安通り南側(旧:西大久保1丁目の東部、現:歌舞伎町二丁目)
③ 職安通り北側、大久保通り南側(旧:西大久保二丁目、現:大久保一丁目)

①の旧:西大久保1丁目の西部には、広告が確認できる旅館がなんと9軒もある。
「お宿藤や」は「新宿区役所通り」とあるように、区役所通り沿いにあった。現在このあたりのランドマークになっている「風林会館」があるブロックで、そのやや北、坂の麓にあった。このブロックには1962年頃現況図で5軒もの旅館が群集していた。

「小町園」は「新宿歌舞伎町高台」とあるが、「コマ劇」の裏手、花道通りを渡って坂を上って2ブロック目にあった。たしかに高台だ。1962年頃現況図では「割烹」になっている。このブロックにも旅館が4軒。

「山手荘」は「歌舞伎町桜通高台」とあり、「小町園」の東隣のブロックにあった。「桜通」は、区役所通りの一つ西側の南北道のこと。このブロックにも旅館が4軒。

西大久保(1963) (7).jpg
【地図10】「藤や」「小町園」「山手荘」の位置(1962年頃現況の住宅地図)

「双松」は「コマ劇場ウラ高台」とあるが、花道通りから数えて5つ目、「山手荘」の2つ上の桜通り西側のブロックにあった。「コマ劇ウラ」だと思ったら、かなり坂上。ここも5軒が密集。

「杵屋旅館」は「新宿歌舞伎町より二分、改正鬼王神社通り 社会保険所隣」とある。「鬼王神社」は区役所通りが職安通りにぶつかる東側にある「稲荷鬼王神社」のこと。「改正」は道路計画に基づいて拡幅・新設される道路のことで、区役所通りは、戦後の拡幅・新設なのでこう呼ばれたのだろう。つまり「改正鬼王神社通り」は区役所通りのこと。しかし、「杵屋旅館」は区役所通り沿いではない。区役所通りが職安通りにぶつかるT字路を西に行き2ブロック目に「社会保険所」(新宿社会保険出張所)があり、「杵屋旅館」はその西3軒隣だった。この広告の案内はかなりのミスリードで、たぶんたどり着けないだろう。また「歌舞伎町二分」というのも、カップルが最短ルートで坂道を駆け上らないと無理だと思う。

「新田中」は、「区役所通り坂上煙草屋横 新宿劇場通大久保病院右入」とある。東大久保一丁目界隈は、ほぼ東西、南北の道路が直交しているが、その中を明治通りから職安通りまで南東から北西に斜めに通っている道がある。現在は区役所通りで分断されているが、こちらの方が(おそらく江戸時代からある)古い道。両者が斜め交差する南側に「宮本タバコ店」があった。そこを左に「斜め道」に入って進むと、職安通りに出る直前の北側に「新田中」があった。跡地は「新田中ビル」になっている。
西大久保(1963) (5).jpg
【地図11】「双松」「杵屋旅館」「新田中」の位置(1962年頃現況の住宅地図)

「鶴松」は、「アイレスカメラ裏通り コマ劇場裏 高台」とある。「アイレスカメラ」の工場は区役所通りの坂を上った西側にあった。その「裏通り」は例の「斜め道」のことと思われるが、1962年頃現況図には見えない

「多ま木」は「新宿大久保病院裏」とあるとおり、大久保病院の西側、西武新宿線の線路との間のブロックに「たまき」がある。このブロックにも5軒の旅館が集まっている。「たまき」は比較的小規模な旅館だが、1951年現況の「火災保険特殊地図」にすでに見える。

「若菊」は、「コマ劇 裏 大久保病院前東に入る北側」とあって地図が付いている。それによると大久保病院の東側、花道通りから2ブロック目になるはずだが、1962年頃現況図には見えない。
歌舞伎町2丁目 (4) - コピー.jpg
【地図12】「たまき」の位置(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)

新宿区役所通り(お宿藤や・19550213).jpg 新宿歌舞伎町(小町園・19540521).jpg 新宿歌舞伎町(山手荘・19550326).jpg  
 お宿藤や       小町園       山手荘
 (19550213)     (19540521)    (19550326)
新宿歌舞伎町(双松・19571204).jpg 新宿西大久保(杵屋旅館・19551228).jpg   新宿区役所通り(新田中・19541024).jpg 
 双松         杵屋旅館       新田中
(19571204)      (19551228)    (19541024)
新宿歌舞伎町(鶴松・19571229).jpg   新宿西大久保(多ま木・19530918k).jpg  
 鶴松          多ま木  
 (19571229)     (19530918k) 
新宿歌舞伎町(若菊・19560902).jpg  
   若菊(19560902)      
    
②の旧:西大久保1丁目の東部には、広告が確認できる旅館が3軒ある。   
「富士見荘」はこの時代には珍しい「完全冷房」を売りにしていた宿で、広告には「新宿駅ヨリ3分・花園神社裏」もしくは「区役所裏通り」とある。花園神社を目印に行くなら、神社と旧「青線」花園歓楽街(現:ゴールデン街・花園街)との間の南北道を北に進み、新田裏で花道通りと交差して、坂を上ったすぐの左側にあった。区役所通りからだと1本東側の道になる(これが「区役所裏通り」?」)。跡地には「ライオンズプラザ新宿」という大きなマンションが建っている。

「富士見荘」の「区役所裏通り」を挟んで向かいには「一楽荘」があった。広告に「新宿区役所通りの四角右折・医師会館隣」とあるように、北隣には「新宿区医師会館・准看護婦学校」があった。福島県の飯坂温泉「一楽荘」の東京支店ということだが、規模は小さい。

「東京ホテル」は、新宿エリアで最も頻繁に広告を出していた宿で、広告のバリエーションも多い。案内には「新宿駅東口から五分 西大久保高台」とあり、地図が添えられている。地図の「花園通り」は、先ほども触れた花園神社と旧「青線」花園歓楽街との間の南北道のこと。花道通りとの交差点から坂を上り、最初のT字路を左折すればよい。あるいは、区役所通りの坂を上がって1つ目の角を左折して裏通りに出て北に進んだ所。ホテルを称しているだけあって「全室洋間」で、設備は「スチーム(暖房)ラジオ 洗面所 電話」つきだった。
西大久保(1963) (4).jpg
【地図13】「富士見荘」「一楽荘」「東京ホテル」の位置(1962年頃現況の住宅地図)

新宿区役所通り(東京ホテル・19540611k).jpg 新宿区役所通り(東京ホテル・19540730k).jpg 新宿区役所通り(東京ホテル・19541210k).jpg 新宿区役所通り(東京ホテル・19550213).jpg
「東京ホテル」の広告バージョン
(19540611k) (19540730k) 
(19541210k) (19550213)
新宿区役所通り(富士見荘・19550819k).jpg 新宿区役所通り(一楽荘・19571103).jpg
  富士見荘                  一楽荘
  (19550819k)               (19571103) 

③の職安通りの北側、西大久保二丁目には、広告が確認できる旅館が2軒ある。
「日本苑」は「新宿コマ劇ウラ3分」と案内している。たしかにコマ劇裏の南北道の坂を上りきり、職安通りを越えてさらに進めば着くが、3分では無理。別の広告で「自家用車にて御送迎奉仕」としていることからも、立地に恵まれていないことがわかる。

「ときわ」は明治通りと職安通りの交差点(現:新宿7丁目交差点)のさらに北、明治通りの東側にあった。広告は「トロリーバス西大久保一丁目停留所際」と、明治通りを走るトロリーバスで案内しているが、それしか交通の便はなかった(現在は東京メトロ副都心線東新宿駅のほぼ真上)。1962年頃現況の地図を見ると、かなり広大な敷地に複数の建物が立ち並んでいる。広告によれば、舞台付きの大広間や結婚式場もある新宿エリアでは珍しい「高級旅館」だったようだ。その割に「泊800円、休400円」安い。現在はホテル「相鉄フレッサイン東新宿駅前」の敷地になっている。 

新宿西大久保(日本苑・19570302).jpg 新宿西大久保(ときわ・19550830).jpg
  日本苑                   ときわ
  (19570302)                (19550830)

西大久保(1963) (2) - コピー.jpg
【地図14】「日本苑」の位置(1962年頃現況の住宅地図)。
図の中央を東西に走るのが「職安通り」

西大久保(1963) (3) - コピー.jpg
【地図15】「ときわ」の位置(1962年頃現況の住宅地図)。
かなり大きな旅館であることがわかる。

1962年頃現況の地図に見える旅館を数えてみよう。まず①の西大久保一丁目の区役所通り西側に54軒、②の西大久保一丁目の区役所通り東側に16軒、そして③の西大久保二丁目に3軒、合計73軒となる。①は②の3倍以上で、圧倒的な旅館集中地域であることがわかった。東口方面全体の37軒に比べても、かなり多い。

すでに1960年代初頭に、歌舞伎町の北側、大久保に至る坂の麓から途中、そして坂上にかけて、巨大な旅館街が形成されていたことがわかった。

次の問題はそれがいつ頃、形成されたかということになる。この地域、戦前は比較的大きな区画に住宅が散在する閑静な高級住宅地だった。枢密院議長から内閣総理大臣(35代)になった平沼麒一郎の邸宅などがあったが、1945年5月25日の山の手大空襲でほとんど焼け野原になってしまう。

1951年頃現況の火災保険図では、坂下から坂の途中かけて「小町園」「清水」「たまき」、それといかにも進駐軍ご用達風の「GRAND HOTEL」(後に「サンテ風呂」)「京浜館ホテル」「山水楼ホテル」など10軒ほどのホテル・旅館が見えるが、坂の途中から坂上にかけてはまだ空地(焼け跡)が目立ち、大久保病院の北東に「旅館新東京」があるだけで旅館街は形成されていない。
歌舞伎町2丁目 (1) - コピー.jpg
【地図16】1951年頃の西大久保一丁目(1951年頃現況「火災保険特殊地図」)

広告の出方からしても、この地域に多数の旅館が現れるのは1950年代半ば(1954~56年頃)と思われる。

つまり、歌舞伎町の北側の旅館群の形成時期は、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」群の形成とほぼ同じころ、細かく言えば数年遅れるくらいということになる。したがって、この地域の旅館群の形成を千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」群の衰退や1964年の東京オリンピックと関連付ける俗説はまったく成り立つ余地はない。歌舞伎町の北側の旅館群の形成は、この地域独自の問題として考える必要がある。

3 歌舞伎町二丁目の旅館・「ラブホテル」街の形成過程
(1)1950~1960年代の旅館群の立地理由
1950年代半ばに成立したと推測される旅館街が歌舞伎町のすぐ裏手(北側)にある以上、その立地はやはり歌舞伎町と関連して考えるべきだ。そこで、歌舞伎町の歴史を簡単に振り返ってみよう。

歌舞伎町(現:歌舞伎町一丁目)は、戦前まで淀橋区角筈一丁目の一部だった。1879年のコレラ流行に対応して避病院(伝染病専門病院。現:都立大久保病院)が東大久保に建てられたように、いたって寂しい場所だった。その後、1920年に東京府立第五高等女学校(現:中野区富士見町に移転した都立富士高校)が建てられ、周囲は閑静な住宅街になった。ところが、1945年5月25日の東京山の手大空襲で、角筈一丁目一帯も焼け野原になってしまう。

戦後、焼け野原になった地に大きな夢を描いたのが、軍に佃煮などを納入して財を築いた鈴木喜兵衛だった。彼は、終戦後すぐに旧住民に働きかけて借地権利を委ねる「復興協力会」を設立し、さらに大地主の峯島茂兵衛の協力も取り付け、大規模な区画整理をした上で劇場・映画館などを集中させる大興行街の計画を作り上げた。その目玉が歌舞伎座の誘致だった(都市計画を立案したのは建築家の石川栄耀、1893~1955年)。

1948年4月1日、角筈一丁目の靖国通り以北の地域は、町名を歌舞伎町とし(東大久保一丁目、二丁目の一部も吸収)、新たな人工的に作られた町が発足した。

しかし、結果的に、歌舞伎座の誘致は失敗し、1950年に開催した「東京文化産業博覧会」も大赤字を出し、鈴木喜兵衛の計画は頓挫してしまう。

ただ、博覧会の建物を転用して映画館街が作られ、歌舞伎座誘致の障害になった大規模建築の規制が1954年に解除されると、ようやく興行街の建設が軌道に乗り始める(そこには台湾華僑の出資協力があった)。1956年、歌舞伎座予定地(第五高等女学校跡地)に東宝が同心円状に配された三重の廻り舞台(独楽のような)を備えた大規模劇場「コマ劇場」をオープンして興行街の中核になる(註9)。
そして、戦前からの新宿の繁華街「三越裏」から客を奪い、1960年代に入ると、歌舞伎町は新宿第一の繁華街としての地位を確立し、さらには高度経済成長期の東京における新興の盛り場として台頭していく。

こうした歌舞伎町の成立史を顧みると、旅館街が形成されたと推定される1950年代中頃は、「コマ劇」開場に象徴される「盛り場」歌舞伎町の勃興期であったことがわかる。

さて、鈴木喜兵衛は、歌舞伎町の計画を打ち出すに際して「道義的繁華街」を提唱していた。つまり「盛り場」には付き物の性的な要素を排除した純粋な興行街の建設を目指した。性的なものは「新宿遊廓」の伝統を引く新宿二丁目の「赤線」に委ねればいいと考えていたのだろう。実際、なんとか出来上がった歌舞伎町中心部には「性なる場」が欠落していた。東部には歌舞伎小路、新宿センター、新天地、歌舞伎新町などの「青線」があったが、それはあくまで非合法な存在だった(註7)。

「性なる場」とは言えないまでも、遊楽の場も歌舞伎町の周辺には乏しかった。1950年代の遊楽の代表は料亭での芸者遊びだが、新宿の花街は四谷荒木町、四谷大木戸(現:四谷四丁目)、角筈十二社(現:西新宿四丁目)の3か所で、どこも歌舞伎町からは遠い。

歌舞伎町が「盛り場」として人を集めるにつれて、遊楽の場や「性なる場」の需要が高まっていったのではなかろうか。それに応じたのが、歌舞伎町の裏手の坂下の地域だったと思われる。

この地域には、割烹(料理屋)なのか旅館なのか微妙なものがいくつかある。1951年の地図には割烹とありながら1954年には旅館として広告を出し、1962年の地図にはまた割烹とある「小町園」や、広告はないが、地図上で割烹→旅館→割烹と変転する「恒松」などである。これらは割烹とも旅館ともいえる場、つまり、それなりの料理が提供され、女性も呼べて、宿泊もできる「割烹旅館」だったと思われる(ちなみに、この地域の旅館にやたらと「松」が付く屋号が多いのはなぜなのだろう?)。

歌舞伎町裏手の旅館群の始まりは、こうした食欲と性欲の両方を満たす「割烹旅館」だったのではないか。割烹旅館は基本的に食事を提供しない「連れ込み旅館」とは性格を異にする。そこで遊ぶ人もそれなりに社会的地位がある階層だったろう。

その後、歌舞伎町の「盛り場」化の進展に伴い客層は広がっていく。たとえば、映画を楽しんだ後のアベックはどこに行くのだろう。そうした需要に応じる場が必要とされ、性欲の充足に特化した「連れ込み旅館」が坂の途中、さらに坂上に展開していったのではないだろうか。

ともかく資料がなく、確実なことはわからないが、状況を踏まえながら推測してみたが、当たらずとも言え遠からずだろう。

(2)東への発展と「ラブホテル」街化
次の問題は、現代につながる「ラブホテル」群の形成過程になる。1950年代中頃に形成された旅館群が、そのまま「ラブホテル」群に発展したのなら話は簡単なのだが・・・。住宅地図で年代を追ってたどってみよう。 

調査したのは、1962年、1966年、1969年、1977年、2009年の現況図である。それぞれ地図の西大久保一丁目(現:歌舞伎町二丁目)エリアにおける旅館・ホテルの数を調査した。その結果は下記のようになった。

70→72→83→73→75 

45年間にわたって70~80軒で推移していて、全体数としては大きな変化はない。つまり、この地域は現代に至るまで60年以上も旅館・ホテル街としての機能を維持していることになる、これは「連れ込み旅館」群が壊滅する千駄ヶ谷や、「ラブホテル」が一極集中化する渋谷と比べて、かなり特徴的だ。

しかし、1962年現況図に見える旅館70軒中、その後も一貫して旅館・ホテルとして営業を続け2009年に至ったのは20軒に過ぎない(29%)。かなりの出入り(廃業・開業)があったことがわかる。

西大久保(1963) (1) - コピー.jpg
【地図17】1962年頃の西大久保1丁目(1962年頃現況の住宅地図)。

次にエリアを分けて、細かく検討してみよう。このエリアを南北に貫く区役所通りを軸に西部と東部に分ける。さらに便宜的にそれぞれを坂下・坂の途中・坂上に分けてみた。

     62年 66年 69年 77年 09年     62年 66年 69年 77年 09年
  西部 54→52→53→32→43  東部 16→20→31→41→32
  坂下 12→12→ 9→ 5→ 6  坂下  7→ 7→ 8→ 7→ 9
  坂中 23→21→26→15→22  坂中  7→10→16→25→18
  坂上 19→19→18→12→15  坂上  2→ 3→ 7→ 9→ 5

西大久保一丁目、区役所通り西側の旅館群は1960年代中頃までは大きな変化はなかった。1966年頃現況の地図では、ほとんど旅館が健在で、姿を消したのは54軒中4軒に過ぎない。新たに登場した旅館もあり、総数は52軒となり、保たれている。

この点は、区役所通り東側の旅館群も基本的には同じである。ただ、数が16軒から20軒にやや増えている。増えたのは区役所通り東側の東部、具体的に言えば、明治通りの1つ西側の南北道(2番地と6番地の境界)の坂の途中に3軒が新規に開業し既存の3軒と合わせて6軒が道の両側に連なる形になる。

1969年頃現況図では、西側にも少し変化がみられる。「新田中」など既存の5軒が廃業するが、「小町園」のあるブロック(現:歌舞伎町二丁目11番地)北側の広い駐車場だったところに「ホテル和光」(註10)ができるなど7軒が開業するので、数は51軒から53軒と微増する。注目すべきは新規開業のほとんど(7軒中6軒)が「ホテル」を名乗っていることだ。既存の旅館の中にも、松喜旅館→ホテル松喜のように「旅館」「旅荘」から「ホテル」に名を変えるものもいくつか出てきている。ただ、「ホテル」化の兆しは見えるものの、全体から見れば、旅館・旅荘を名乗るものが4分の3以上(53軒中40軒)を占める。

これに対して、区役所通り東側はかなり大きな変化が見られる。まず、数が20軒から31軒へと大きく増加する(55%増)。まだ西側の53軒に比べれば6割ほどだが。ここでも新規開業の15軒のうち13軒が「ホテル」を名乗っている。増えた場所は坂下2軒、坂の途中9軒、坂上4軒で、坂の途中に集中している。

具体的に見てみよう。区役所通りに面した坂の途中のブロック(現:歌舞伎町2丁目11番地)には、これまで小規模な「みなと旅館」1軒しかなかったが、巨大な「ホテルLee」をはじめ、「ホテルニュー若草」「ホテル水月」「ホテル青春」「ホテル東美」の5軒のホテルが出現する。「ホテルLee」は、現在「Lee3ビル」という商業ビルになっているが、竣工は1968年とのことで、変化の始まりは1968~69年であると抑えられる。

もう1つの増加地域は、坂の途中から坂上にかけて、例の「斜め道」の両側のブロック(現:歌舞伎町2丁目6、7番地)である。「斜め道」の南側に「旅荘あおい」「ホテル栄泉」、北側に「東峰モーテル」「ホテル楽苑」の4軒が現れる。さらに「斜め道」の坂下(1、2番地)にも「ホテル清光苑」「モテル迎賓荘」の2軒ができ、「斜め道」の両側がホテル街化しつつある様子が見られる。

ここで、注目しておきたいのは「モーテル」「モテル」という名称で、地図で見る限り、この地域では1969年現況図で初めて出現する。確認できるのは6軒で、すべて区役所通り東側、さらに言えば、1966年頃現況の地図にすでに旅館が連なっていた「南北道」と「斜め道」の周辺である。
斜め道・南北道 (4).jpg
【地図18】1969年頃の「斜め道」と「南北道」付近(1969年頃現況の住宅地図)

「モーテル」は「モータリスト・ホテル」の略で、ガレージと部屋がつながっていて車ごと泊まれる、ワンルーム&ワンガレージ式の宿泊施設のことだが、日本ではもっぱら車に乗ったアベックがそのまま繰り込んでSexできる場所という意味合いが強い。連棟式(ガレージ付きの部屋が並ぶ)の「モーテル」としては、1968年に開業した横浜の「モテル京浜」が最初とのことなので、それから程なくして「モーテル」を名乗る宿が新宿二も出現したことになる(註11)。

そうした「モーテル」の性格を考えれば、なぜ、明治通り寄りの地域にだけ「モーテル」が現れたか容易に想像がつく。早い話、明治通りから直接入れるルートだからだ。

新宿方向から明治通りを北進し、新田裏の交差点(現:新宿6丁目交差点)を過ぎてすぐに、「斜め道」の入口がある。入って1つ目のX字の交差点を右(北)に入ればホテルが連なる「南北道」だ。
新田裏の交差点を左折して花道通りに入り、「風林会館」前の交差点を右折して区役所通りに入るルートより直角三角形の2辺より斜辺が短い理屈になるし、交通量的にも楽で早い。明治通りから「斜め道」のルートは、車でホテル街に向かうにはきわめて便利が良い(だから、「はじめに」の材木屋の若旦那もいつもこのルートを使っていた)。

つまり、モータリゼーションの発達が、アベック(カップル)の行動様式を変えつつあったということだ。新宿駅から歌舞伎町に来て映画を見たアベックが、徒歩で旅館街を目指していた時代から、明治通りをドライブしてきたカップルが車でホテル街を目指すような形が増えてきたということだと思う。

どうも、区役所通りの西側と東側では、「ラブホテル」街化のプロセスが違ったようだ。東側の変化が早く、すでに1960年代末にモータリゼーションの波に対応する動きが出てきていた。それに対して西側の変化は遅かった。

次に1970年代を見てみよう。ちなみに1978年7月1日、住居表示の改定にともない、西大久保一丁目は歌舞伎町二丁目になった。
歌舞伎町2丁目(1978) - コピー.jpg
【地図19】1977年頃の西大久保一丁目=歌舞伎町二丁目(1977年頃現況の住宅地図)

1977年頃現況図では旅館の軒数に大きな変化がみられる。西側は8年間に53軒から32軒と急減する(40%減)。これは旧タイプの旅館がオフィスビル化したためと思われる。たとえば、坂下の23番地には60年代5軒の旅館が密集していたが、まず「旅館志津河」があった場所に1968年に「風林会館」が建ち、ほぼ同時期に「旅館三八荘」がビル化、その後1972年頃までに「旅館藤や」と「旅館なかせ」もビル化して廃業し、残るは「Hかつむら」1軒だけになってしまった。坂の途中でも「千代の家」「ふじやま」「すみ吉」「八汐」「紫苑」「宝仙」、坂上では「伊賀」「一楽」「松の枝」「一松」「こいし」「うえき」など、1960年代初頭から営業を続けてきた、屋号からして和風と思われる旅館が廃業・ビル化している。残った32軒中20軒が「ホテル」を名乗っていることからも、旧タイプ(和風)の旅館の廃業と「ホテル化」(洋風)が急速に進行したことがわかる。

これに対して東側は31軒から41軒へと大きく増加(35%増)、初めて軒数で西側を上回った。増加が目立つのは例の「斜め道」北側」・「南北道」西側の6番地で5軒から8軒に増加する。また6番地の北側の2本目の「南北道」(6番地と14番地の境界)の東側の5番地も1軒から4軒へと急増する。この結果、2本目の南北道の東側にずらりと大型の「ラブホテル」が並ぶ景観が出現した。「はじめに」の会話がなされているのが、まさにこの道だった。
歌舞伎町2丁目(1978) - コピー (2) - コピー.jpg
【地図20】1977年頃の「斜め道」と2本の「南北道」付近(1977年頃現況の住宅地図)

こうして、歌舞伎町2丁目の「ラブホテル」街化は1970年代に、区役所通り東側を中心に進行し、1980年代には都内有数の「ラブホテル」街となった。

その後、西側のエリアでもラブホテル化が進行し、2009年には東側32軒に対し、西側43軒と再逆転する。その経緯については本稿の目的から外れるので省略する。

(3)旧「青線」街東と「連れ込み旅館」
最後に、「はじめに」で触れた「青線」街と西大久保一丁目(現:歌舞伎町二丁目)の旅館街の関係について記しておこう。花園神社裏の「青線」花園三光町界隈の唯一の旅館は、「花園小町」(現:花園一、三、五番街)の北側にあった「花園旅館」だ。すでに1951年頃現況の火災保険地図に見える。この旅館は「青線」の隠し部屋が満員であふれた場合の、あるいは隠し部屋での「ショート」のSexではなく「泊り」でしたい客の行き場として機能していたと思われる。

ところが、1958年4月の売春防止法完全施行で、「青線」が(実際はもとかく)普通の飲み屋街になり、隠し部屋も封鎖され店内でのSexができなくなると、飲み屋で知り合った即席カップルのSexの場としての旅館の需要が高まってくる。それに応じたのが「花園旅館」や1960年代後半にその北側にできた「ホテル石川」であり、少し奥(北)の西大久保一丁目東部、坂下の旅館街だったと思われる。両者は300mほどの至近距離だった。

1980~90年代に新宿花園五番街にあった女装バー「ジュネ」(1994年に区役所通り沿いに移転)を拠点に活動していた久保島静香姐さんという方がいた(私の大先輩)。晩年「寝た男の数が女装者の勲章よ」と言っていたように性行動が活発な女装者だった。その静香姐さんの「日記(抄)」に。男性と「歌舞伎町のラブホテル優雅苑」、「行きつけの優雅苑」という記述が何回か見える。時期は1986~87年頃のこと(註12)。

「優雅苑」は1969年頃現況の住宅地図に初めて見える。場所は例の「斜め道」の北側、明治通りの1本西側の南北道の西側(歌舞伎町2丁6番地)。1969年の地図では継ぎ目に当たっていて不鮮明だが、1977年現況図では「モテル迎賓荘」と同じ敷地内にある別館のようだ(現在は「GRAND CHARIOT」という大きなラブホテルの敷地の一部)。
この「モテル迎賓荘」は、「羅錦卿」という名前からして華僑系と思われる人の邸宅をそのまま「モテル」にしたらしい(建物の形が変わっていない)。どんな雰囲気だったのか興味があるが、静香姐さんにもう話を聞けないのが残念だ。
優雅園(1970).jpg 優雅園(1978).jpg
【地図21】1969年頃の「優雅園」付近(1969年頃現況の住宅地図)
【地図22】1977年頃の「優雅園」付近(1977年頃現況の住宅地図)

おわりに
第1章では、新宿の中心街に「連れ込み旅館」がきわめて少ないこと、それは「赤線」と「連れ込み旅館」の住み分けが、少なくとも1950年代にはなされていたことを確認できた。第2章では歌舞伎町裏の旅館群の形成は1950年代半ばであり、それは歌舞伎町の「盛り場」化と連動するもので、新宿独自の理由によるものであり、千駄ヶ谷などの近隣の「連れ込み旅館」街の盛衰や東京オリンピック(1964年)と関連させる俗説は成り立たないこと、また旅館群の「ラブホテル」化は1970年代に進行したことを論証した。

私が愛する町・新宿の「謎」を解くことは、長年の念願だったが、20数年ぶりに、ようやく「宿題」を済ますことができた。


(註1)三橋順子『新宿「性なる街」の歴史地理』(朝日選書。2018年)
(註2)「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)は公開していないが、これを使って書いた論考として、次の3本がある。
 ①三橋順子「1950年代東京の『連れ込み旅館』について ―『城南の箱根』ってどこ?―」(2020年)
 https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-08
 ② 三橋順子「東京・千駄ヶ谷の『連れ込み旅館』街について ―『鳩の森騒動』と旅館街の終焉―」(2020年)
 https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-13 
 ③ 三橋順子「坂の途中・渋谷の「性なる場」の変遷 ―「連れ込み旅館」から「ラブホテル街」の形成へ―」(2020年)
 https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-20
(註3)三橋(註2)の①。
(註4)金益見『性愛空間の文化史』(ミネルヴァ書房、2012年)24頁
(註5)三橋(註1)書、コラム7「『旭町ドヤ街』の今昔」
(註6)ここに入っていない中央通り南側、甲州街道北側、JR線東側、明治通り西側のブロックと、新宿高校北側、新宿通り南側、明治通り東側、御苑大通り(延長)西側のブロック、そして新宿四丁目の3つは南口方面と考えた。
(註7)三橋(註1)書、第5章「新宿の「青」と「赤」―戦後における『性なる場』の再編―」
(註8)神崎清「新宿の夜景図―売春危険地帯を行く―」(『座談』1949年9月)
(註9)木村勝美『新宿歌舞伎町物語』潮出版社、1986年)、稲葉佳子・青池憲司『台湾人の歌舞伎町』(紀伊国屋書店、2017年)
(註10)1998年2月21日、「ホテル和光」でニューハーフのセックスワーカーが客の海上自衛官を刺殺するという事件が起こった。女性を買ったつもりだったのに相手がニューハーフであることを知った男性客が逆上し暴行に及んだことが発端で、偶発的・防衛的な殺人で、かなり同情すべき余地があった。別の取材を通じて知り合った『サンデー毎日』の女性記者が「現地を見たい」というのでボディーガードを兼ねて道案内したことがある。
(註11)鈴木由加里『ラブホテルの力 ―現代日本のセクシュアリティ―』(廣済堂ライブラリー、2002年)112~117頁。
(註12)矢島正見編著『おかま道を行く : 谷津瀬由美研究』(戦後日本<トランスジェンダー>社会史研究会、2000年)。谷津瀬由美は久保島静香姐さんの変名。

【備考】広告画像に付された8桁の数字は、広告が掲載された新聞の年月日を示す。
末尾に「k」があるのは『日本観光新聞』、他は『内外タイムス』。

【住宅地図】
「火災保険特殊地図 1951」(『(地図物語)あの日の新宿』武揚堂、2008年)
「東京都全住宅案内地図帳 新宿区東部 1962」(住宅協会)
「東京都全住宅案内地図帳 新宿区西部 1962」(住宅協会)
「(東京都大阪府全住宅精密図帳)新宿区 1963年度版」(住宅協会地図部)
「(東京都大阪府全住宅案内地図帳)新宿区 1967年度版」(公共施設地図株式会社)
「(全国統一地形図式航空地図全住宅案内地図帳)新宿区 1970年度版」(公共施設地図航空株式会社)
「(ゼンリンの住宅地図)新宿区 1978」(日本住宅地図出版)
「(ゼンリン住宅地図. 東京都)新宿区 2010」(ゼンリン)

nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。