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日本女装昔話【第30回】流転の女形 曾我廼家市蝶(その2) [日本女装昔話]

【第30回】流転の女形 曾我廼家市蝶(その2) 1940~1950年代

曾我廼家市蝶(しちょう)こと小林由利は、曾我廼家五郎劇団の女形から、中国大陸に渡り、敗戦後は上野で女装男娼として身を売るという苦難の末、1952年(昭和27)4月、文京区湯島天神「男坂」下にバー「湯島」を開店します。
 
当時の東京には、美少年のゲイボーイが接客するゲイバーは何軒かありましたが、女装の人が相手をしてくれる店は、新橋烏森神社境内にあった「やなぎ」(お島ママ)ぐらいで、まだほとんどありませんでした。

江戸時代には陰間茶屋が立ち並び、男色の地として名高かった湯島の歴史と風情を偲ぶことができるこの店は、女装者愛好の男性の人気を集めました。
 
店は、1階が3畳ほどの小さなカウンターと4畳半ほどの洋風の客席、2階に4畳半の座敷が2つ。現在の感覚では広いとは言えませんが、住宅事情の悪い当時にあってはなかなかの構えだったようです。

曾我廼家市蝶2.jpg
「湯島」時代の曾我廼家市蝶、1952年頃。
(「流転女形系図」『人間探究』28号 1952年8月)

女装バー「湯島」.jpg
湯島天神下の「湯島」の場所
(かびや・かずひこ「ゲイ・バァの生態-上野・浅草界隈-」『あまとりあ』5-8、1955年8月)
 
1950~60年代にゲイ世界に関するルポや評論を数多く執筆した、かびや・かずひこ(鹿火屋一彦)は、店主の女になりきっている様子、渋い落ち着いた趣味をほめながら「厳しいこの世の中に女(?)手一つで」「このような店をしかも一つの風格を保ちつつ営んでゆこうとする『彼女』の苦辛と焦慮」を感じています(「ゲイ・バァの生態」『あまとりあ』5-8、1955年8月)。

ところが、市蝶と「湯島」の全盛期は長くありませんでした。開店から6年たたない1957年の末頃、「湯島」は、店名の由来となった湯島の地を離れてしまいます。理由はわかりません。
 
日本最初の女装趣味サークル演劇研究会の会報『演研通信』2号(1958年2月)に出ている広告によれば、移転先は豊島区池袋2丁目。

当時の池袋駅北口は風紀・治安の良くない場末で、湯島時代のお客は離れ、市蝶も「湯島」も次第に忘れられていきます。

女装者愛好男性の第一人者と知られ、市蝶とも交友があった西塔哲(「富貴クラブ」会長)は、「好きな男には身の皮はいでも尽くすキップのよさと、アッサリした好人物なので他人に利用されることも多く」と、市蝶の性格を語っています。

零落の原因は、おそらくそんな性格にあったのでしょう(鎌田意好「異装心理と異装者列伝-女形の巻(2)-」『風俗奇譚』1965年5月号)。
 
それから10数年の月日が流れた1970年、市蝶こと小林由利の名は、まったく思いがけない形で新聞に掲載されます。

4月18日の早朝、東池袋4丁目のアパートで「男娼・由利(55)」が絞殺死体となって発見されたのでした。
遺体は布団の中で和服姿の仰向けの姿勢で、着ていた茶羽織りの襟で首を絞められていました(『毎日新聞』1970年4月18日夕刊)。
 
捜査の結果、顔見知りの35歳の鳶職の男が犯人として逮捕されました。
犯行理由は、2人で飲み歩いた後、アパートの部屋に行ったところ、金銭を要求されたので殺した、というものでした。

こうした状況から、晩年の由利が、再び女装男娼の稼業に戻ってしまったことがうかがえます。
 
女形として華やかな舞台を踏みながら、生活のために女装男娼となり、一度は店を持ち盛名を得ながら、また没落して老男娼として殺される。まさに新派悲劇を地でいくような流転の人生でした。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第53号、2006年8月)

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