新宿グランドツアー【14】「二幸」(アルタ)裏 -再び新宿駅東口へ- [新宿グランドツアー]
【14】「二幸」(アルタ)裏 -再び新宿駅東口へ-
旧コマ劇前から伸びる歌舞伎町「セントラルロード」ではなく、ひとつ東の「さくら通り」のところで靖国通りを渡ると、ビルの間の狭い道に入ります。これが「駅前正面通り」、通称「指差し横丁」で、新宿駅から大久保方面に向かう古い道筋でした。「指差し横丁」の名は、その昔、指形が彫られた石の道標があったことから名付けられました。
「指差し横丁」のもう1本西側の道(「アルタ」の裏に突き当たる道)の途中にあったコの字型の路地(今はありません)の奥に、新宿におけるゲイバーの元祖「夜曲」がありました。昭和37年(1962)9月6日、「夜曲」のマスターの佐藤静夫氏が絞殺され、多額の預金(50万円)が奪われるという事件が起こります。同性愛がらみの強盗殺人事件ということで新聞に大きく報じられ、皮肉にもゲイバーの顕在化に寄与することになりました。ちなみに、犯人は元ボーイでした。
かって、フジテレビ「森田一義アワー 笑っていいとも!」の生放送が収録されていたスタジオがあることで知られる「アルタ」は、当時は三越系の食品店「二幸」でした。さらにその前は、「三越」デパートそのもので、「三越」の新宿進出の最初の店舗がここだったのです(昭和5年、追分に移転)。
「アルタ」の前で新宿通り(青梅街道)を渡れば、そこはもう4時間前に出発した新宿駅東口広場です。
ところで、「青梅街道」(新宿通り)、現在は「アルタ」の先でJRの線路に沿うように北にカーブし靖国通りに出て、そこで左に折れて「大ガード」でJR線を潜っていますが、これはどう考えても不自然な形です。実は、本来の街道は新宿駅のすぐ北側にあった踏切で線路と交差していました。ところが、交通量の増加に伴い踏切の渋滞が激しくなったため、現在のルートに道が付け替えられたのです。街道が踏切で線路を渡っていた場所には、昭和2年(1927)に作られた古い地下道があり、現在でも、東口と西口の連絡路として利用されています。
↑ 現在はきれいに整備され、壁面には青梅街道の道筋が描かれている。
それでは、地下道を潜って、西口へ・・・。
【参考文献】
木村勝美『新宿歌舞伎町物語』
(潮出版社 1986年)
班目文雄『江戸東京 街の履歴書3 新宿西口・東口・四谷あたり』
(原書房 1991年)
佐伯修「クボとしての新宿歌舞伎町-ある川の肖像-」
(『マージナル』7号 現代書館 1991年)
野村敏雄『しみじみ歴史散歩 新宿うら町 おもてまち』
(朝日新聞社 1993年)
渡辺英綱『新編・新宿ゴールデン街』
(ふゅーじょんぷろだくと 2003年)
溝口 敦『歌舞伎町・ヤバさの真相』
(文春新書 2009年)
三橋順子「東京・新宿の『青線』について―戦後における『盛り場』の再編と関連して」
(井上章一・三橋順子編『性欲の研究 東京のエロ地理編』平凡社 2015年)
旧コマ劇前から伸びる歌舞伎町「セントラルロード」ではなく、ひとつ東の「さくら通り」のところで靖国通りを渡ると、ビルの間の狭い道に入ります。これが「駅前正面通り」、通称「指差し横丁」で、新宿駅から大久保方面に向かう古い道筋でした。「指差し横丁」の名は、その昔、指形が彫られた石の道標があったことから名付けられました。
「指差し横丁」のもう1本西側の道(「アルタ」の裏に突き当たる道)の途中にあったコの字型の路地(今はありません)の奥に、新宿におけるゲイバーの元祖「夜曲」がありました。昭和37年(1962)9月6日、「夜曲」のマスターの佐藤静夫氏が絞殺され、多額の預金(50万円)が奪われるという事件が起こります。同性愛がらみの強盗殺人事件ということで新聞に大きく報じられ、皮肉にもゲイバーの顕在化に寄与することになりました。ちなみに、犯人は元ボーイでした。
かって、フジテレビ「森田一義アワー 笑っていいとも!」の生放送が収録されていたスタジオがあることで知られる「アルタ」は、当時は三越系の食品店「二幸」でした。さらにその前は、「三越」デパートそのもので、「三越」の新宿進出の最初の店舗がここだったのです(昭和5年、追分に移転)。
「アルタ」の前で新宿通り(青梅街道)を渡れば、そこはもう4時間前に出発した新宿駅東口広場です。
ところで、「青梅街道」(新宿通り)、現在は「アルタ」の先でJRの線路に沿うように北にカーブし靖国通りに出て、そこで左に折れて「大ガード」でJR線を潜っていますが、これはどう考えても不自然な形です。実は、本来の街道は新宿駅のすぐ北側にあった踏切で線路と交差していました。ところが、交通量の増加に伴い踏切の渋滞が激しくなったため、現在のルートに道が付け替えられたのです。街道が踏切で線路を渡っていた場所には、昭和2年(1927)に作られた古い地下道があり、現在でも、東口と西口の連絡路として利用されています。
↑ 現在はきれいに整備され、壁面には青梅街道の道筋が描かれている。
それでは、地下道を潜って、西口へ・・・。
【参考文献】
木村勝美『新宿歌舞伎町物語』
(潮出版社 1986年)
班目文雄『江戸東京 街の履歴書3 新宿西口・東口・四谷あたり』
(原書房 1991年)
佐伯修「クボとしての新宿歌舞伎町-ある川の肖像-」
(『マージナル』7号 現代書館 1991年)
野村敏雄『しみじみ歴史散歩 新宿うら町 おもてまち』
(朝日新聞社 1993年)
渡辺英綱『新編・新宿ゴールデン街』
(ふゅーじょんぷろだくと 2003年)
溝口 敦『歌舞伎町・ヤバさの真相』
(文春新書 2009年)
三橋順子「東京・新宿の『青線』について―戦後における『盛り場』の再編と関連して」
(井上章一・三橋順子編『性欲の研究 東京のエロ地理編』平凡社 2015年)
新宿グランドツアー【13】歌舞伎町の成り立ち [新宿グランドツアー]
【13】歌舞伎町の成り立ち
ヘテロセクシャルの大歓楽街歌舞伎町のど真ん中にかなり目立つ建物があります。歌舞伎町のランドマークのひとつ「王城ビル」です。
その傍らに「歌舞伎町公園」という小さな公園があります。「弁天公園」とも言われるように、そこに琵琶を奏でる弁天様の銅像があります。この弁天像、すぐ背後にある「歌舞伎弁天堂」に祀られている弁天様のレプリカなのですが、ではなぜ歌舞伎町に弁天様なのでしょうか?
明治の頃、このあたりは、大村伯爵の邸宅でした。大村伯爵家は、旧:肥前大村藩2万8千石、天正遣欧使節を送り出した切支丹大名大村純忠の子孫です。そのお庭には、蟹川の流れを引き込んだ、鴨猟ができるほどの大きな池があり、その池の中島に、上野の不忍弁天堂を勧進した弁天様が祀られていました。
↑ 明治42年(1909)の地形図に見える大村伯爵邸。
大きな池と中島が確認できる。
大正の初め、大村伯爵邸は、尾張銀行の頭取の峯島氏の手に渡り、鴨池は淀橋浄水場の工事で掘り上げた土で埋め立てられてしまいました。「大村の池」は「尾張屋の原」に変わりましたが、弁天堂は旧位置のまま残され、大正12年(1923)3月には峯島氏によってお堂の大改修が行われます。現在の「弁天公園」の入口の石柱に(左側)「奉納 株式会社尾張屋銀行」、(右側)「大正十二年三月吉日」と刻まれているのは、歌舞伎町が「尾張屋の原」だった時代の貴重な証言者です。
弁天堂は、戦災によって焼失してしまいますが、弁天像は岡本たか子さんという女性が厨子を背負って救い出し、戦後しばらくは彼女のアパートの一室に安置されていました。そして、昭和21年(1946)、旧位置に再建されたお堂に収まり、周囲の歓楽街の喧騒の中で、静かに鎮座しています。だから、現在の歌舞伎町でいちばんの先住者は、この弁天様なのです。
今、歌舞伎町と呼ばれるこのエリアは、明治12年(1879)のコレラ流行に対応して避病院(伝染病専門病院。現:都立大久保病院)が東大久保に建てられたように、いたって寂しい場所でした。「大村の池」が「尾張屋の原」に変わった後の大正9年(1920)に東京府立第五高等女学校が建てられ、周囲は、閑静な住宅街になりました。しかし、昭和20年(1945)5月の大空襲で、角筈一丁目一帯も焼け野原になってしまい、校舎を焼失した第五高女は、中野区富士見町に移転し、二度と戻ってきませんでした(現:都立富士高校)。
まあ、その後の街の変遷を考えると、教育環境的には、戻ってこなくて正解だったと思いますが・・・。
焼け野原になった地に大きな夢を描いたのが、軍に佃煮などを納入して財を築いた鈴木喜兵衛という男でした。彼は、終戦後すぐに旧住民に働きかけて借地権利を委ねる「復興協力会」を設立し、さらに大地主の峯島茂兵衛の協力も取り付けます。
こうして土地の権利をまとめた上で、鈴木喜兵衛は、大規模な区画整理をした上に劇場・映画館などを集中させる大興行街のプランを作り上げます。その目玉が歌舞伎座の誘致でした。昭和23年(1948)4月1日、角筈一丁目は、町名を歌舞伎町に改め、昭和25年(1950)、歌舞伎町を中心に「東京文化産業博覧会」が開催されました。しかし、結果的に、歌舞伎座の誘致は失敗し、博覧会は大赤字を出し、鈴木喜兵衛のプランは頓挫してしまいます。
ただ、博覧会の建物が転用されて映画館街が作られ、歌舞伎座誘致の障害になった大規模建築の規制が昭和29年(1954)に解除されると、ようやく興行街の建設が軌道に乗り始めます。昭和31年(1956)、東宝が同心円状に配された三重の廻り舞台を備えた大規模劇場「コマ劇場」をオープンします。コマの名は、回り舞台が独楽の回る姿に似ていることに由来し、独楽はコマ劇のシンボルマークになりました。
これらの興行施設が中核になり、三越裏の繁華街から客を奪い、1960年代後半には、歌舞伎町は新宿における新興の盛り場としての地位を確立します。つまり、歌舞伎町は、鈴木喜兵衛のプランによって、町名も町割もまったく新しく人工的に作られた盛り場なのです。
↑ 新宿歌舞伎町(2014)
現在、歌舞伎町には3000軒を数えるバー、キャバレー、性風俗店、ラブホテルなどが密集し、おそらく世界最大の歓楽街を形作っています。その甘い汁に群がる暴力団の事務所が100ヵ所前後もあると言われ、また、外国人マフィアの進出も活発化しています。歌舞伎町が「不夜城」、「欲望の迷宮都市」、「日本一危ない街」「マフィアの棲む街」などと言われる所以ですが、その一方で、石原慎太郎都知事(当時)は、歌舞伎町の「浄化」に執念を燃やし、地元でも歌舞伎町再生の動きが出てきています。
長らく歌舞伎町のランド・マークだったコマ劇場は、平成20年(2008)の大晦日、「第41回年忘れにっぽんの歌」の生放送を最後に52年に及ぶ歴史を閉じました。歌舞伎町は、新しい時代を迎えようとしています。
↑ 「コマ劇」跡の「新宿東宝ビル」ビル。
31階建ての高層ビルで、970室の大規模ホテル「ホテルグレイスリー新宿」やシネコンが入っている。
「コマ劇」があった頃に馴染んだ人は、まったく景色が変わってしまい驚くと思う。
↑ ゴジラは近くに寄り過ぎると見えにくい。
ヘテロセクシャルの大歓楽街歌舞伎町のど真ん中にかなり目立つ建物があります。歌舞伎町のランドマークのひとつ「王城ビル」です。
その傍らに「歌舞伎町公園」という小さな公園があります。「弁天公園」とも言われるように、そこに琵琶を奏でる弁天様の銅像があります。この弁天像、すぐ背後にある「歌舞伎弁天堂」に祀られている弁天様のレプリカなのですが、ではなぜ歌舞伎町に弁天様なのでしょうか?
明治の頃、このあたりは、大村伯爵の邸宅でした。大村伯爵家は、旧:肥前大村藩2万8千石、天正遣欧使節を送り出した切支丹大名大村純忠の子孫です。そのお庭には、蟹川の流れを引き込んだ、鴨猟ができるほどの大きな池があり、その池の中島に、上野の不忍弁天堂を勧進した弁天様が祀られていました。
↑ 明治42年(1909)の地形図に見える大村伯爵邸。
大きな池と中島が確認できる。
大正の初め、大村伯爵邸は、尾張銀行の頭取の峯島氏の手に渡り、鴨池は淀橋浄水場の工事で掘り上げた土で埋め立てられてしまいました。「大村の池」は「尾張屋の原」に変わりましたが、弁天堂は旧位置のまま残され、大正12年(1923)3月には峯島氏によってお堂の大改修が行われます。現在の「弁天公園」の入口の石柱に(左側)「奉納 株式会社尾張屋銀行」、(右側)「大正十二年三月吉日」と刻まれているのは、歌舞伎町が「尾張屋の原」だった時代の貴重な証言者です。
弁天堂は、戦災によって焼失してしまいますが、弁天像は岡本たか子さんという女性が厨子を背負って救い出し、戦後しばらくは彼女のアパートの一室に安置されていました。そして、昭和21年(1946)、旧位置に再建されたお堂に収まり、周囲の歓楽街の喧騒の中で、静かに鎮座しています。だから、現在の歌舞伎町でいちばんの先住者は、この弁天様なのです。
今、歌舞伎町と呼ばれるこのエリアは、明治12年(1879)のコレラ流行に対応して避病院(伝染病専門病院。現:都立大久保病院)が東大久保に建てられたように、いたって寂しい場所でした。「大村の池」が「尾張屋の原」に変わった後の大正9年(1920)に東京府立第五高等女学校が建てられ、周囲は、閑静な住宅街になりました。しかし、昭和20年(1945)5月の大空襲で、角筈一丁目一帯も焼け野原になってしまい、校舎を焼失した第五高女は、中野区富士見町に移転し、二度と戻ってきませんでした(現:都立富士高校)。
まあ、その後の街の変遷を考えると、教育環境的には、戻ってこなくて正解だったと思いますが・・・。
焼け野原になった地に大きな夢を描いたのが、軍に佃煮などを納入して財を築いた鈴木喜兵衛という男でした。彼は、終戦後すぐに旧住民に働きかけて借地権利を委ねる「復興協力会」を設立し、さらに大地主の峯島茂兵衛の協力も取り付けます。
こうして土地の権利をまとめた上で、鈴木喜兵衛は、大規模な区画整理をした上に劇場・映画館などを集中させる大興行街のプランを作り上げます。その目玉が歌舞伎座の誘致でした。昭和23年(1948)4月1日、角筈一丁目は、町名を歌舞伎町に改め、昭和25年(1950)、歌舞伎町を中心に「東京文化産業博覧会」が開催されました。しかし、結果的に、歌舞伎座の誘致は失敗し、博覧会は大赤字を出し、鈴木喜兵衛のプランは頓挫してしまいます。
ただ、博覧会の建物が転用されて映画館街が作られ、歌舞伎座誘致の障害になった大規模建築の規制が昭和29年(1954)に解除されると、ようやく興行街の建設が軌道に乗り始めます。昭和31年(1956)、東宝が同心円状に配された三重の廻り舞台を備えた大規模劇場「コマ劇場」をオープンします。コマの名は、回り舞台が独楽の回る姿に似ていることに由来し、独楽はコマ劇のシンボルマークになりました。
これらの興行施設が中核になり、三越裏の繁華街から客を奪い、1960年代後半には、歌舞伎町は新宿における新興の盛り場としての地位を確立します。つまり、歌舞伎町は、鈴木喜兵衛のプランによって、町名も町割もまったく新しく人工的に作られた盛り場なのです。
↑ 新宿歌舞伎町(2014)
現在、歌舞伎町には3000軒を数えるバー、キャバレー、性風俗店、ラブホテルなどが密集し、おそらく世界最大の歓楽街を形作っています。その甘い汁に群がる暴力団の事務所が100ヵ所前後もあると言われ、また、外国人マフィアの進出も活発化しています。歌舞伎町が「不夜城」、「欲望の迷宮都市」、「日本一危ない街」「マフィアの棲む街」などと言われる所以ですが、その一方で、石原慎太郎都知事(当時)は、歌舞伎町の「浄化」に執念を燃やし、地元でも歌舞伎町再生の動きが出てきています。
長らく歌舞伎町のランド・マークだったコマ劇場は、平成20年(2008)の大晦日、「第41回年忘れにっぽんの歌」の生放送を最後に52年に及ぶ歴史を閉じました。歌舞伎町は、新しい時代を迎えようとしています。
↑ 「コマ劇」跡の「新宿東宝ビル」ビル。
31階建ての高層ビルで、970室の大規模ホテル「ホテルグレイスリー新宿」やシネコンが入っている。
「コマ劇」があった頃に馴染んだ人は、まったく景色が変わってしまい驚くと思う。
↑ ゴジラは近くに寄り過ぎると見えにくい。
新宿グランドツアー【12】歌舞伎町周辺の地形 -都市のクボ(低地)として- [新宿グランドツアー]
【12】 歌舞伎町周辺の地形 -都市のクボ(低地)として-
新宿駅東口から歌舞伎町方向に歩くと、道が緩い下り坂になっています。男物の靴だと気づかないかもしれないが、勾配に敏感なハイヒールだと気づきます。靖国通りを渡って歌舞伎町に入っても緩い下り勾配は続き、やがて歌舞伎町のランド・マークであるコマ劇場の裏から新田裏(現:新宿6丁目交差点)へと通じる花道通りに出ます。花道通りを渡ると、今度ははっきりと上り勾配になります。つまり、花道通りのあたりがいちばん低くなっています。歌舞伎町は、新宿のクボ(低地)なのです。
地図で調べると、新宿駅東口の標高が約37m(淀橋台=武蔵野洪積層台地の高位面)なのに対し、花道通りのあたりには東から30mの等高線が入り込んで谷を形成していて、標高は29mほどと思われます。そこから坂を上り切った鬼王神社のあたりは32mになっています(豊島台=武蔵野洪積層台地の中位面)。平坦なように思われている新宿の街も、実はけっこう起伏があるのです。
↑ 「風林会館」前の交差点から見た花道通り。
遠景の黒っぽい建物は、コマ劇跡地に建った「新宿東宝ビル」ビル。
いちばん低い所をゆるく曲がりくねっている花道通り、実はもともと川でした。西新宿の湧水を水源とし、歌舞伎町を東西に横切って、西向天神社(新宿6丁目)のあたりで北に向きを変え、戸山公園で池を作り、さらに馬場下町から早稲田鶴巻町を抜けて、駒塚橋のあたりで神田川に注ぐ「カニ川(蟹川)」という川だったのです。きっと昔は、沢蟹がいる清流だったのでしょう。今は、すべて暗渠化されて、歌舞伎町の歓楽街やラブホテル街の排水を一手に引き受け、たぶん日本一たくさんの精液が流れ込むと言われる「戸山幹線」という下水道に姿を変えてしまいましたが。
ところで、歌舞伎町の地理を概念化する便利な方法があるので、お教えしましょう。区役所通りを縦軸に、花道通りを横軸とする座標軸をイメージします。原点は、歌舞伎町のランド・マークのひとつ「風林会館」です。4つに分けられた象限は、第1象限(北東)は歌舞伎町2丁目東側のラブホテル街、第2象限(北西)は歌舞伎町2丁目西側の「ディープ歌舞伎町」、第3象限(南西)は歌舞伎町1丁目西側で、コマ劇場があった一般にイメージされるヘテロセクシュアルの歓楽街「歌舞伎町」、そして、第4象限(南東)は歌舞伎町1丁目東側で、ゴールデン街と区役所通り東側のホステスクラブの密集域、と特徴づけることができます。
これは、私が駆け出しの「歌舞伎町の『女』」だった頃、お世話になった「ジュネ」の薫ママが教えてくれた方法です。そしてママは私をこう諭しました。「第4象限はあたしたちのシマ(縄張り)。第3象限の歌舞伎町(1丁目)は0時前なら一人で入ってもまず大丈夫。でも第2象限(ディープ歌舞伎町)は入っては駄目よ。あそこは外国のマフイアが仕切っている場所が多いから、何かあっても助けてあげられない。(第3象限の)歌舞伎町(1丁目)は日本のヤクザのシマだから、(もし何かがあっても)まあ、あたしが話はつけられる。それから第1象限は(ラブホ街だから)男の人に連れていってもらいなさい」
20年ほど前の教えですが、今でもだいたい通用します。歌舞伎町で起こる事件・トラブルの多くは、こうした地域性に疎い人が、興味・欲望にひかれて、入ってはいけない時間帯に入ってはいけないエリア(「ディープ歌舞伎町」)に足を踏み入れることで起こります。皆さんもお気をつけください。
「風林会館」の向かい側(南側)に細い路地があります。知ってる人でないと気づかないほど狭い入口を中に入ると、ここが21世紀の新宿歌舞伎町とは思えない景色が現れます。
1951年にできた旧「青線」の「歌舞伎小路」の跡地で、現在は「新宿センター街」と名乗っていますが、「ゴールデン街」地区がカジュアル化しつつある現在、新宿「青線」街の雰囲気を一番残している場所です。
新宿駅東口から歌舞伎町方向に歩くと、道が緩い下り坂になっています。男物の靴だと気づかないかもしれないが、勾配に敏感なハイヒールだと気づきます。靖国通りを渡って歌舞伎町に入っても緩い下り勾配は続き、やがて歌舞伎町のランド・マークであるコマ劇場の裏から新田裏(現:新宿6丁目交差点)へと通じる花道通りに出ます。花道通りを渡ると、今度ははっきりと上り勾配になります。つまり、花道通りのあたりがいちばん低くなっています。歌舞伎町は、新宿のクボ(低地)なのです。
地図で調べると、新宿駅東口の標高が約37m(淀橋台=武蔵野洪積層台地の高位面)なのに対し、花道通りのあたりには東から30mの等高線が入り込んで谷を形成していて、標高は29mほどと思われます。そこから坂を上り切った鬼王神社のあたりは32mになっています(豊島台=武蔵野洪積層台地の中位面)。平坦なように思われている新宿の街も、実はけっこう起伏があるのです。
↑ 「風林会館」前の交差点から見た花道通り。
遠景の黒っぽい建物は、コマ劇跡地に建った「新宿東宝ビル」ビル。
いちばん低い所をゆるく曲がりくねっている花道通り、実はもともと川でした。西新宿の湧水を水源とし、歌舞伎町を東西に横切って、西向天神社(新宿6丁目)のあたりで北に向きを変え、戸山公園で池を作り、さらに馬場下町から早稲田鶴巻町を抜けて、駒塚橋のあたりで神田川に注ぐ「カニ川(蟹川)」という川だったのです。きっと昔は、沢蟹がいる清流だったのでしょう。今は、すべて暗渠化されて、歌舞伎町の歓楽街やラブホテル街の排水を一手に引き受け、たぶん日本一たくさんの精液が流れ込むと言われる「戸山幹線」という下水道に姿を変えてしまいましたが。
ところで、歌舞伎町の地理を概念化する便利な方法があるので、お教えしましょう。区役所通りを縦軸に、花道通りを横軸とする座標軸をイメージします。原点は、歌舞伎町のランド・マークのひとつ「風林会館」です。4つに分けられた象限は、第1象限(北東)は歌舞伎町2丁目東側のラブホテル街、第2象限(北西)は歌舞伎町2丁目西側の「ディープ歌舞伎町」、第3象限(南西)は歌舞伎町1丁目西側で、コマ劇場があった一般にイメージされるヘテロセクシュアルの歓楽街「歌舞伎町」、そして、第4象限(南東)は歌舞伎町1丁目東側で、ゴールデン街と区役所通り東側のホステスクラブの密集域、と特徴づけることができます。
これは、私が駆け出しの「歌舞伎町の『女』」だった頃、お世話になった「ジュネ」の薫ママが教えてくれた方法です。そしてママは私をこう諭しました。「第4象限はあたしたちのシマ(縄張り)。第3象限の歌舞伎町(1丁目)は0時前なら一人で入ってもまず大丈夫。でも第2象限(ディープ歌舞伎町)は入っては駄目よ。あそこは外国のマフイアが仕切っている場所が多いから、何かあっても助けてあげられない。(第3象限の)歌舞伎町(1丁目)は日本のヤクザのシマだから、(もし何かがあっても)まあ、あたしが話はつけられる。それから第1象限は(ラブホ街だから)男の人に連れていってもらいなさい」
20年ほど前の教えですが、今でもだいたい通用します。歌舞伎町で起こる事件・トラブルの多くは、こうした地域性に疎い人が、興味・欲望にひかれて、入ってはいけない時間帯に入ってはいけないエリア(「ディープ歌舞伎町」)に足を踏み入れることで起こります。皆さんもお気をつけください。
「風林会館」の向かい側(南側)に細い路地があります。知ってる人でないと気づかないほど狭い入口を中に入ると、ここが21世紀の新宿歌舞伎町とは思えない景色が現れます。
1951年にできた旧「青線」の「歌舞伎小路」の跡地で、現在は「新宿センター街」と名乗っていますが、「ゴールデン街」地区がカジュアル化しつつある現在、新宿「青線」街の雰囲気を一番残している場所です。
新宿グランドツアー【11】ゴールデン街・花園街 -「青線」の街、そして、女装コミュニティの発祥の地- [新宿グランドツアー]
【11】ゴールデン街・花園街 -「青線」の街、そして、女装コミュニティの発祥の地-
花園神社の本殿の脇を通り裏門を抜けると、木造建築の小さな飲み屋が密集するエリアがあります。昭和の残り香が色濃くただよう「ゴールデン街・花園街」です。
↑ 上から見た「ゴールデン街・花園街」
ゴールデン街・花園街には、東西方向に6本の路地があり、奥でそれらが南北方向の道(まねき通り)で連ねられています。たとえると、櫛の形に似ています。路地は、靖国通りに近い方(南側)から、無名の路地(G1通り)、ゴールデン街(G2通り)、花園一番街、花園三番街、花園五番街、そして少し離れて花園八番街で、名のある路地は入口にアーケードがあります。
この街の成り立ちは、やや複雑です。昭和24年(1949)の秋、GHQから露店取払い命令が出ました。期限は昭和25年(1950)3月末日まで。新宿駅東口から南口にかけて転化していた「和田組マーケット」の露店業者たちも立ち退きを迫られました。その移転先に選ばれたのが花園神社裏の三光町の薄や葦が生える原っぱでした。彼らは1軒あたり約3.5坪の木造(外観)2階建ての棟割長屋を建て「花園小町」と名乗ります。これが今の「花園街」の起源です。
続いて、新宿2丁目の「赤線」地区の周囲で露店商売をしていた業者がやはり立ち退きにあって移転してきました。彼らは「花園小町」の南側に4戸が一組の連棟式長屋の店舗兼住居を建てて住みつき、「花園歓楽街」と名乗ります。これが今の「ゴールデン街」の起源です。店舗の面積は少し広く1軒あたり約4.5坪でした。
この地区には、両者合わせて240軒ほどの店が密集していますが、こうした成り立ちを反映して、現在でも花園一番街を境にして北側が「新宿三光商店街振興組合」、南側が「新宿ゴールデン街商業組合」という2つの組合に分かれています。
↑ 1984年の「ゴールデン街・花園街」。
「花園一番街」を境界線が走っている。
(渡辺英綱『新編 新宿ゴールデン街』ふーじょんプロダクト・ラピュタ新書 2003年)。
ところで、この地域は、今でこそ繁華な盛り場である歌舞伎町の一角になっていますが、移転当時は新宿駅からも遠い辺鄙な場所で、酒を売るだけでは客が呼べませんでした。そこで生活のために考え出されたのが、「春を売る」ことでした。
ゴールデン街・花園街の建物は、1階が飲食店、2階が店主の住居という基本設計になっていますが、実はさらに上があります。花園街のある店の2階から急角度の階段を上がると(75度ですから階段ではなく梯子です)、1畳半ほどの、蒲団を1組敷くのがやっとの屋根部屋が2つあります。いちばん高い所でも1m50cmほどで、立つと頭がつかえます。
↑ 新宿「ゴールデン街」に残る3階の娼婦部屋と、敷きっぱなしになっていた布団。
1畳半ほどの部屋が2つ並び、入口は棟木側。天井は低いが窓もあり、「3階」の体裁になっている。
(渡辺英綱『新編 新宿ゴールデン街』ふーじょんプロダクト・ラピュタ新書 2003年)。
今でも、ゴールデン街・花園街の建物の軒下を観察すると、細い隙間状の窓が見えるところがあります。屋根裏部屋の明かり&空気取りです。外観は2階建てでも、実は3階(2階半)建てという巧妙な仕組みになっています。
店の前に立つ女性に誘われた男性客は、飲食を装って店に入り、女性とともに屋根部屋に上がって、Sexをするというシステムでした。もし、警察が踏み込んできても、梯子を屋根裏に引き込んで上げ蓋を閉じて、息を潜めていれば、なんとかなるだろうという発想でした。
こうして、新宿最大の「青線」(非合法買売春地区)「花園街」が成立し、昭和33年(1958)3月31日の「売春防止法」完全実施まで、淫靡で猥雑でそして妖しい魅力をもつ「売春の街」として大いに賑わうことになります。
1990年代中頃、不動産バブルの時代、ゴールデン街も地上げ攻勢にあいました。それと関わるのか、放火でゴールデン街一角が焼けたことがありました。消防署が調べると、焼け跡から2組ほどの蒲団が出てきました。1階も2階も店舗のはずなのに・・・? 現在の店主に問いただしても「知らない」と言います。それは、長らく封鎖されていた屋根裏の売春部屋の蒲団だったのです。「知っていても、やっぱり言えないよね」と知り合いの店主が言っていたことを思い出します。
ところで、花園五番街を入ってすぐの左側に鉄平石を貼った特徴的な入口の店があります(1階が「蛾王」というバーになっている建物)。こここそが、新宿女装コミュニティの原点である女装バー「ふき(梢)」があった場所です。内部はすっかり改装されていますが、鉄平石貼りの外観はほぼ当時のままです。
「ふき」は、1960年代前半に読売新聞社に勤務するかたわら、女装秘密結社「富貴クラブ」の有力会員として活躍したアマチュア女装者、加茂こずえが昭和42年(1967)2月に開店した店です。当初はその店名が示す通り「富貴クラブ」との提携のもと、その理念に基づき女装者と女装者を愛好する男性(女装者愛好男性)とが気楽に飲める店として出発しました。
ゴールデン街・花園街には、それ以前から女装男娼やゲイボーイ出身のプロの女装者が男性客を接客する小規模なゲイバーが何軒か存在していましたが、「ふき」はそれらとは異なり、アマチュア女装者が客あるいは臨時従業員(ホステス)として女装者好きの男性客と空間をともにする形を採りました。つまり、店が女装者と女装者愛好男性との「出会い」の場になるという新たな営業スタイルを作り出したのです。
「ふき」は、昭和44年(1969)9月に「梢」と改称し、1970年代前半に全盛期を迎えます。こうしてプロフェッショナルな女装世界(女装系のゲイバー)と純粋なアマチュア女装世界(富貴クラブ)の中間に、セミプロ的色彩を持つ第三の世界、「梢」を拠点とするアマチュア女装者と女装者愛好男性のコミュニティ「新宿女装世界」の原型が形成されました。
私の新宿ホステス時代(1990年代後半)には、「梢」はすでに伝説の店となっていましたが、それでも「梢」出身の先輩女装者や、「梢」で遊んだことのある男性客は、まだ何人か残っていて、当時の思い出を語ってくれました。「梢」に通ったということは、90年代の女装世界では、この世界の重鎮であることを示すステイタス・シンボルでした。
昭和53年(1978)10月、新宿花園五番街の「梢」の隣(花園神社寄り)に女装バー「ジュネ」が開店します。「ジュネ」は昭和59年(1984)年にそれまでオーナーだった中村薫がママになると、経営が乱れた「梢」に代わって新宿の女装世界の中核に成長していきます(「梢」は1982~83年頃に閉店)。
↑ 「ジュネ」の名を受け継ぐ女装バー「Jan June」(花園三番街)
ゴールデン街を西に抜けると、そこに緩やかなカーブを描く石敷きの遊歩道があります。現在は「四季の道」と呼ばれているこの道は、実は都電13系統の専用軌道の廃線跡で、かってここには踏切がありました。
↑ ゴールデン街・花園街の裏手の都電線路跡(遊歩道「四季の道」)
↑ 靖国通りから見た「四季の道」の入口(右側のビルの谷間)。
左側のビルの谷間は「区役所通り」。
踏切だった場所を渡って(「四季の道」を横切って)、「ゴールデン街」のアーケードを潜ると、すぐに新宿区役所通りに出ます。その右側の「丸源54ビル」(現:三経55ビル)の2階に1994年5月に花園五番街から移転した老舗の女装スナック「ジュネ」がありました(2003年12月閉店)。平成7年(1995)夏頃から同10年(1998)年末までの約3年半、私が週1~2度、お手伝いホステスとして新宿歌舞伎町の夜を過ごした店です。
↑ 「ジュネ」時代の私(1997年11月)。店の前の廊下で。
深夜、お客さんを見送った後、眠気覚ましに散歩した「四季の道」で見上げた冴え冴えとした冬の月。ここに立つと、私にとっての遅い青春時代だったその頃を懐かしく思い出します。
花園神社の本殿の脇を通り裏門を抜けると、木造建築の小さな飲み屋が密集するエリアがあります。昭和の残り香が色濃くただよう「ゴールデン街・花園街」です。
↑ 上から見た「ゴールデン街・花園街」
ゴールデン街・花園街には、東西方向に6本の路地があり、奥でそれらが南北方向の道(まねき通り)で連ねられています。たとえると、櫛の形に似ています。路地は、靖国通りに近い方(南側)から、無名の路地(G1通り)、ゴールデン街(G2通り)、花園一番街、花園三番街、花園五番街、そして少し離れて花園八番街で、名のある路地は入口にアーケードがあります。
この街の成り立ちは、やや複雑です。昭和24年(1949)の秋、GHQから露店取払い命令が出ました。期限は昭和25年(1950)3月末日まで。新宿駅東口から南口にかけて転化していた「和田組マーケット」の露店業者たちも立ち退きを迫られました。その移転先に選ばれたのが花園神社裏の三光町の薄や葦が生える原っぱでした。彼らは1軒あたり約3.5坪の木造(外観)2階建ての棟割長屋を建て「花園小町」と名乗ります。これが今の「花園街」の起源です。
続いて、新宿2丁目の「赤線」地区の周囲で露店商売をしていた業者がやはり立ち退きにあって移転してきました。彼らは「花園小町」の南側に4戸が一組の連棟式長屋の店舗兼住居を建てて住みつき、「花園歓楽街」と名乗ります。これが今の「ゴールデン街」の起源です。店舗の面積は少し広く1軒あたり約4.5坪でした。
この地区には、両者合わせて240軒ほどの店が密集していますが、こうした成り立ちを反映して、現在でも花園一番街を境にして北側が「新宿三光商店街振興組合」、南側が「新宿ゴールデン街商業組合」という2つの組合に分かれています。
↑ 1984年の「ゴールデン街・花園街」。
「花園一番街」を境界線が走っている。
(渡辺英綱『新編 新宿ゴールデン街』ふーじょんプロダクト・ラピュタ新書 2003年)。
ところで、この地域は、今でこそ繁華な盛り場である歌舞伎町の一角になっていますが、移転当時は新宿駅からも遠い辺鄙な場所で、酒を売るだけでは客が呼べませんでした。そこで生活のために考え出されたのが、「春を売る」ことでした。
ゴールデン街・花園街の建物は、1階が飲食店、2階が店主の住居という基本設計になっていますが、実はさらに上があります。花園街のある店の2階から急角度の階段を上がると(75度ですから階段ではなく梯子です)、1畳半ほどの、蒲団を1組敷くのがやっとの屋根部屋が2つあります。いちばん高い所でも1m50cmほどで、立つと頭がつかえます。
↑ 新宿「ゴールデン街」に残る3階の娼婦部屋と、敷きっぱなしになっていた布団。
1畳半ほどの部屋が2つ並び、入口は棟木側。天井は低いが窓もあり、「3階」の体裁になっている。
(渡辺英綱『新編 新宿ゴールデン街』ふーじょんプロダクト・ラピュタ新書 2003年)。
今でも、ゴールデン街・花園街の建物の軒下を観察すると、細い隙間状の窓が見えるところがあります。屋根裏部屋の明かり&空気取りです。外観は2階建てでも、実は3階(2階半)建てという巧妙な仕組みになっています。
店の前に立つ女性に誘われた男性客は、飲食を装って店に入り、女性とともに屋根部屋に上がって、Sexをするというシステムでした。もし、警察が踏み込んできても、梯子を屋根裏に引き込んで上げ蓋を閉じて、息を潜めていれば、なんとかなるだろうという発想でした。
こうして、新宿最大の「青線」(非合法買売春地区)「花園街」が成立し、昭和33年(1958)3月31日の「売春防止法」完全実施まで、淫靡で猥雑でそして妖しい魅力をもつ「売春の街」として大いに賑わうことになります。
1990年代中頃、不動産バブルの時代、ゴールデン街も地上げ攻勢にあいました。それと関わるのか、放火でゴールデン街一角が焼けたことがありました。消防署が調べると、焼け跡から2組ほどの蒲団が出てきました。1階も2階も店舗のはずなのに・・・? 現在の店主に問いただしても「知らない」と言います。それは、長らく封鎖されていた屋根裏の売春部屋の蒲団だったのです。「知っていても、やっぱり言えないよね」と知り合いの店主が言っていたことを思い出します。
ところで、花園五番街を入ってすぐの左側に鉄平石を貼った特徴的な入口の店があります(1階が「蛾王」というバーになっている建物)。こここそが、新宿女装コミュニティの原点である女装バー「ふき(梢)」があった場所です。内部はすっかり改装されていますが、鉄平石貼りの外観はほぼ当時のままです。
「ふき」は、1960年代前半に読売新聞社に勤務するかたわら、女装秘密結社「富貴クラブ」の有力会員として活躍したアマチュア女装者、加茂こずえが昭和42年(1967)2月に開店した店です。当初はその店名が示す通り「富貴クラブ」との提携のもと、その理念に基づき女装者と女装者を愛好する男性(女装者愛好男性)とが気楽に飲める店として出発しました。
ゴールデン街・花園街には、それ以前から女装男娼やゲイボーイ出身のプロの女装者が男性客を接客する小規模なゲイバーが何軒か存在していましたが、「ふき」はそれらとは異なり、アマチュア女装者が客あるいは臨時従業員(ホステス)として女装者好きの男性客と空間をともにする形を採りました。つまり、店が女装者と女装者愛好男性との「出会い」の場になるという新たな営業スタイルを作り出したのです。
「ふき」は、昭和44年(1969)9月に「梢」と改称し、1970年代前半に全盛期を迎えます。こうしてプロフェッショナルな女装世界(女装系のゲイバー)と純粋なアマチュア女装世界(富貴クラブ)の中間に、セミプロ的色彩を持つ第三の世界、「梢」を拠点とするアマチュア女装者と女装者愛好男性のコミュニティ「新宿女装世界」の原型が形成されました。
私の新宿ホステス時代(1990年代後半)には、「梢」はすでに伝説の店となっていましたが、それでも「梢」出身の先輩女装者や、「梢」で遊んだことのある男性客は、まだ何人か残っていて、当時の思い出を語ってくれました。「梢」に通ったということは、90年代の女装世界では、この世界の重鎮であることを示すステイタス・シンボルでした。
昭和53年(1978)10月、新宿花園五番街の「梢」の隣(花園神社寄り)に女装バー「ジュネ」が開店します。「ジュネ」は昭和59年(1984)年にそれまでオーナーだった中村薫がママになると、経営が乱れた「梢」に代わって新宿の女装世界の中核に成長していきます(「梢」は1982~83年頃に閉店)。
↑ 「ジュネ」の名を受け継ぐ女装バー「Jan June」(花園三番街)
ゴールデン街を西に抜けると、そこに緩やかなカーブを描く石敷きの遊歩道があります。現在は「四季の道」と呼ばれているこの道は、実は都電13系統の専用軌道の廃線跡で、かってここには踏切がありました。
↑ ゴールデン街・花園街の裏手の都電線路跡(遊歩道「四季の道」)
↑ 靖国通りから見た「四季の道」の入口(右側のビルの谷間)。
左側のビルの谷間は「区役所通り」。
踏切だった場所を渡って(「四季の道」を横切って)、「ゴールデン街」のアーケードを潜ると、すぐに新宿区役所通りに出ます。その右側の「丸源54ビル」(現:三経55ビル)の2階に1994年5月に花園五番街から移転した老舗の女装スナック「ジュネ」がありました(2003年12月閉店)。平成7年(1995)夏頃から同10年(1998)年末までの約3年半、私が週1~2度、お手伝いホステスとして新宿歌舞伎町の夜を過ごした店です。
↑ 「ジュネ」時代の私(1997年11月)。店の前の廊下で。
深夜、お客さんを見送った後、眠気覚ましに散歩した「四季の道」で見上げた冴え冴えとした冬の月。ここに立つと、私にとっての遅い青春時代だったその頃を懐かしく思い出します。
新宿グランドツアー【10】花園神社 -内藤新宿の総鎮守― [新宿グランドツアー]
【10】 花園神社 -内藤新宿の総鎮守―
靖国通りのビルの間に鳥居が見えます。
内藤新宿の総鎮守、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)・日本武尊(やまとたけるのみこと)・受持神(うけもちのかみ)を祀る花園神社です。現在は、明治通り側(東側)が正面になっていますが、元の社殿は南向きで、この南側からのルートが元々の参拝路なのです。南側の鳥居を潜ったところにある1対の唐獅子は、文政4年(1811)に鋳造製されたもので、なかなかの貫録です。
花園神社の由緒はとても古く、古すぎてよくわからないという感じです。少なくとも徳川家康が江戸に入府してきた天正18年(1590)にはすで存在していたようです。ただ、その時の鎮座地は、現在地より250mほど南だったようです。今の伊勢丹デパートのあたりでしょうか。元禄11年(1698)に内藤新宿が開かれると、その鎮守として祀られるようになりました。ところが、寛政年間に、その地が旗本朝倉筑後守宣正の下屋敷になり、自由に参拝できなくなったため、氏子が幕府に願い出て、尾張藩下屋敷の庭の一部だった現在地をたまわって遷座します。そこが多くの花が咲き乱れる花園だったことから「花園稲荷神社」と呼ばれるようになったと伝えられています。
神仏習合の江戸時代には、新義真言宗豊山派愛染院の別院・三光院の住職が別当を勤めたことから「三光院稲荷」とも呼ばれました。戦前のお年寄りは、花園神社を「三光院(さんこい)さん」と呼んだそうです。花園神社の現在の住所は新宿5丁目ですが、その旧町名の三光町は、これに由来します。
昭和3年(1928)、旭町(現:新宿4丁目)にあった雷電稲荷神社(雷電神社)を合祀し、その社殿も境内に移築されましたが戦災で焼失。昭和40年(1965)に、現在のコンクリート製の本殿に建て替えられ、その際に末社・大鳥神社(祭神・日本武尊)を本殿に合祀しました。そのため、現在、拝殿には「花園神社」「雷電神社」「大鳥神社」の3つの扁額が挙げられています。
ちなみに、花園神社の本来の氏子圏は、内藤新宿上町・中町・下町・北町・北裏町・番衆町・添地町で、それに雷電神社の合祀によって南町=旭町が加わりました。
↑ 現在の氏子集団。
すぐ裏手の歌舞伎町1丁目(角筈村、一部は東大久保村)や歌舞伎町2丁目(ほとんどが西大久保村)は、花園神社の氏子ではありません。ゴールデン街地区だけは旧三光町=北裏町なので氏子圏ですが。また「伊勢丹」(内藤新宿下町)は氏子ですが、「三越」、「紀伊国屋」や新宿駅(角筈村)は氏子ではありません。角筈村の総鎮守は、角筈熊野神社(現:西新宿2丁目)、東大久保村の総鎮守は西向天(にしむきてん)神社(現:新宿6丁目)、西大久保村の総鎮守は稲荷鬼王(いなりきおう)神社(現:歌舞伎町2丁目)です。
5月の花園神社の例祭、11月の酉の市の際には、境内に数多くの露店が立ち並び、今では珍しくなった見世物小屋も出て、大勢の人で賑わいます。また、宮司さんが演劇に理解があり、小劇団・前衛劇団が境内に小屋を仮設して公演を行っていることもしばしばあります。
花園神社と演劇の関係で、とりわけ著名なのは、1967年8月、唐十郎率いる「状況劇場」が境内に紅テントを建て、『腰巻お仙 -義理人情いろはにほへと篇』を上演したことでしょう。この紅テント公演は話題を呼び、後の「状況劇場」の方向性を決定づけることになります。紅テントではその後も、『アリババ』、『傀儡版壺坂霊験期』、『由比正雪-反面教師の巻』の上演を行いましたが、地元商店連合会などから「公序良俗に反する」として排斥運動が起こり、神社総代会が境内の使用禁止を通告するに至ります。「状況劇場」は1968年6月29日、「さらば花園!」と題するビラを撒き、花園神社を去っていきました。
ところで、アジール(フランス語:asile)という言葉があります。「聖域」「自由領域」「避難所」などの特殊なエリア、統治権力が及ばない治外法権が認められた場所という意味です。現代日本には、そうした場所はありませんが、大都会新宿の中にポッカリあいた空間である花園神社の境内に、そうしたアジール的なものを、私は感じます。
そういえば、その昔(1980年代以前)、ゴールデン街の店で仲良くなったカップル(男-女、もしくは、男―女装者)が、連れ込み宿の代金を惜しんで、「花園さんの境内で済ませてきた」という話を聞いたことがあります。花園さんは性のアジールでもあったのです。今は、そんなことはない、と思います・・・たぶん。
↑ 境内の威徳稲荷神社には性神信仰が残る。
靖国通りのビルの間に鳥居が見えます。
内藤新宿の総鎮守、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)・日本武尊(やまとたけるのみこと)・受持神(うけもちのかみ)を祀る花園神社です。現在は、明治通り側(東側)が正面になっていますが、元の社殿は南向きで、この南側からのルートが元々の参拝路なのです。南側の鳥居を潜ったところにある1対の唐獅子は、文政4年(1811)に鋳造製されたもので、なかなかの貫録です。
花園神社の由緒はとても古く、古すぎてよくわからないという感じです。少なくとも徳川家康が江戸に入府してきた天正18年(1590)にはすで存在していたようです。ただ、その時の鎮座地は、現在地より250mほど南だったようです。今の伊勢丹デパートのあたりでしょうか。元禄11年(1698)に内藤新宿が開かれると、その鎮守として祀られるようになりました。ところが、寛政年間に、その地が旗本朝倉筑後守宣正の下屋敷になり、自由に参拝できなくなったため、氏子が幕府に願い出て、尾張藩下屋敷の庭の一部だった現在地をたまわって遷座します。そこが多くの花が咲き乱れる花園だったことから「花園稲荷神社」と呼ばれるようになったと伝えられています。
神仏習合の江戸時代には、新義真言宗豊山派愛染院の別院・三光院の住職が別当を勤めたことから「三光院稲荷」とも呼ばれました。戦前のお年寄りは、花園神社を「三光院(さんこい)さん」と呼んだそうです。花園神社の現在の住所は新宿5丁目ですが、その旧町名の三光町は、これに由来します。
昭和3年(1928)、旭町(現:新宿4丁目)にあった雷電稲荷神社(雷電神社)を合祀し、その社殿も境内に移築されましたが戦災で焼失。昭和40年(1965)に、現在のコンクリート製の本殿に建て替えられ、その際に末社・大鳥神社(祭神・日本武尊)を本殿に合祀しました。そのため、現在、拝殿には「花園神社」「雷電神社」「大鳥神社」の3つの扁額が挙げられています。
ちなみに、花園神社の本来の氏子圏は、内藤新宿上町・中町・下町・北町・北裏町・番衆町・添地町で、それに雷電神社の合祀によって南町=旭町が加わりました。
↑ 現在の氏子集団。
すぐ裏手の歌舞伎町1丁目(角筈村、一部は東大久保村)や歌舞伎町2丁目(ほとんどが西大久保村)は、花園神社の氏子ではありません。ゴールデン街地区だけは旧三光町=北裏町なので氏子圏ですが。また「伊勢丹」(内藤新宿下町)は氏子ですが、「三越」、「紀伊国屋」や新宿駅(角筈村)は氏子ではありません。角筈村の総鎮守は、角筈熊野神社(現:西新宿2丁目)、東大久保村の総鎮守は西向天(にしむきてん)神社(現:新宿6丁目)、西大久保村の総鎮守は稲荷鬼王(いなりきおう)神社(現:歌舞伎町2丁目)です。
5月の花園神社の例祭、11月の酉の市の際には、境内に数多くの露店が立ち並び、今では珍しくなった見世物小屋も出て、大勢の人で賑わいます。また、宮司さんが演劇に理解があり、小劇団・前衛劇団が境内に小屋を仮設して公演を行っていることもしばしばあります。
花園神社と演劇の関係で、とりわけ著名なのは、1967年8月、唐十郎率いる「状況劇場」が境内に紅テントを建て、『腰巻お仙 -義理人情いろはにほへと篇』を上演したことでしょう。この紅テント公演は話題を呼び、後の「状況劇場」の方向性を決定づけることになります。紅テントではその後も、『アリババ』、『傀儡版壺坂霊験期』、『由比正雪-反面教師の巻』の上演を行いましたが、地元商店連合会などから「公序良俗に反する」として排斥運動が起こり、神社総代会が境内の使用禁止を通告するに至ります。「状況劇場」は1968年6月29日、「さらば花園!」と題するビラを撒き、花園神社を去っていきました。
ところで、アジール(フランス語:asile)という言葉があります。「聖域」「自由領域」「避難所」などの特殊なエリア、統治権力が及ばない治外法権が認められた場所という意味です。現代日本には、そうした場所はありませんが、大都会新宿の中にポッカリあいた空間である花園神社の境内に、そうしたアジール的なものを、私は感じます。
そういえば、その昔(1980年代以前)、ゴールデン街の店で仲良くなったカップル(男-女、もしくは、男―女装者)が、連れ込み宿の代金を惜しんで、「花園さんの境内で済ませてきた」という話を聞いたことがあります。花園さんは性のアジールでもあったのです。今は、そんなことはない、と思います・・・たぶん。
↑ 境内の威徳稲荷神社には性神信仰が残る。
新宿グランドツアー【9】新宿遊廓から女装スナックがある街へ-新宿3丁目(末広亭ブロック)- [新宿グランドツアー]
【9】 新宿遊廓から女装スナックがある街へ-新宿3丁目(末広亭ブロック)-
新宿3丁目(末広亭ブロック)は、現在は、サラリーマンが気楽に飲める大小の飲食店が軒を並べるエリアになっています。しかし、【6】で述べましたように、昭和戦前期の新宿遊廓の中心域は、現在の町割では新宿3丁目(末広亭ブロック)であり、遊廓のメインストリートの「大門通り」は、3丁目の「要通り」に相当します(大門は、新宿通り側)。
↑ 現在の「要通り」。
↑ 道がわずかに屈曲しているあたりが、新宿遊廓の入口。
実は、ここが新宿遊廓の故地であることは、一般にはほとんど知られていません。なぜなら、新宿区がそのことを現地にまったく表示していないからです。行政によって「性の歴史」の隠蔽が行われている典型的な例だと、私は思います(おそらく地元も共謀)。
ところで、東京の定席としては唯一木造建築の「末広亭」のある通りは、昭和戦前期には「東海通り」と呼ばれ(新宿通りの角に東海銀行の支店があった)、カフェー街を形成していました。旭町の項でも触れた『放浪記』の林芙美子は、追分東海通りの「つるや」というカフェーで女給をしていました。昭和初年頃のことです。
↑ 現在の「末広通り」。
末広亭の通り(東海通り)の東側(新宿通りから入って右側)に連なる店舗(新宿3丁目10番地。中華料理の「満月廬」などがある)の裏は、現在、駐車場になっていますが、注意深く見ると、店舗の裏側のラインが一直線に揃っていることがわかります。実は、この地割線が、新宿遊廓の西側のライン(塀と裏道)に相当します。そして、このラインが、本来の新宿2丁目と3丁目の境界線だったのです。
つまり、ここから東側に、新宿遊廓の妓楼がずらりと軒を連ねていたのです。今から24年前の1992年、私が初めて行った新宿の女装系のお店「梨沙」は、新宿3丁目7番地にありましたが、戦前の地図と合わせてみると、新宿遊廓の西南端に当たり、「第一不二川」という妓楼があった所でした。
ところで、東京新宿の性的マイノリティの世界と言えば、ほとんどの人は、男性同性愛者の世界を想い浮かべるでしょう。しかし、新宿2丁目のいわゆるゲイ・コミュニティとは、まったく別に、女装者のコミュニティが新宿には存在します。
それは、昼間は男性として仕事をしながら、主に週末の夜に女装して街に出るパートタイムの、基本的にはアマチュアの女装者と、そうした女装者を好む非女装の男性(女装者愛好男性)とから成るコミュニティです。
このコミュニティは、21世紀初頭の時点では、歌舞伎町区役所通り周辺から、昭和の残り香が色濃いゴールデン街地区、新宿3丁目の末広亭ブロック、そして2丁目のゲイタウンをかすめて、新宿御苑の北側のブロックに至る広い範囲に散在する10数軒ほどの女装バー/スナックを拠点として形成されていました。
この新宿3丁目の末広亭ブロックは、女装バー/スナックが集まっている街です。要通りの(靖国通り側)入口の「永谷エイトビル」に入っている「粧」、「ゼフィール・ナナ」、T字路を右に曲がった左側の「びびあん」があり(2015年閉店)、その前の小さな路地(老舗の居酒屋「どん底」がある)を入ると左側に「アクトレス」があります。路地が末広亭正面の道に突き当たるあたりに、かって「梨紗」がありました。もうひとつ新宿通り寄りの道に「F(エフ)」があるという具合です。
↑ 「永谷エイトビル」の看板。
「なんだ、たった5軒か」と思われるかもしれないが、新宿全体で10数軒ほどしかない女装系の店の内の3分の1がこのブロックに集まっている。週末の夜に、「アクトレス」がある路地を観察していれば、背の高い「お嬢さん」が何人か通っていくのを見ることができるでしょう。
女装者のコミュニティは、男性同性愛者のコミュニティ(ゲイタウン)に比べると圧倒的に規模が小さく(店舗数で20分の1程度)、また一般の(ヘテロセクシュアルの)歓楽街の中に紛れるように存在しているので、可視化されることはあまりなく、社会の認知度も高くありません。しかし、1960年代半ばに原型が形成されて以来、50年近い長い伝統をもつコミュニティなのです。
この世界では、身体的には男性であっても女装していれば「女」として扱うという認識が共有され、その共通認識に立って、夜の酒場が女装者と女装者愛好男性の、「女」と男の出会いの場として機能しています。そこで展開されるのは、あくまで「女」と男の擬似へテロセクシュアルな意識に基づく関係性で、この点で、男と男のホモセクシュアルな意識に基づく関係が主体である男性同性愛者のコミュニティとは、基本的な理念において差異化されます。
ホモセクシュアルな街である「2丁目ゲイタウン」の中には、以前は女装系のお店はほとんど存在しませんでした。また、ヘテロセクシュアルの歓楽街である歌舞伎町の真ん中にも女装系の店はあまりありません。ホモセクシュアルとヘテロセクシュアルの歓楽街のちょうど中間に、疑似ヘテロセクシュアルな女装系の店が数多く立地しているのは、セクシュアリティの地理的投影(住み分け)という点で、たいへん興味深いものがあります。
新宿3丁目(末広亭ブロック)は、現在は、サラリーマンが気楽に飲める大小の飲食店が軒を並べるエリアになっています。しかし、【6】で述べましたように、昭和戦前期の新宿遊廓の中心域は、現在の町割では新宿3丁目(末広亭ブロック)であり、遊廓のメインストリートの「大門通り」は、3丁目の「要通り」に相当します(大門は、新宿通り側)。
↑ 現在の「要通り」。
↑ 道がわずかに屈曲しているあたりが、新宿遊廓の入口。
実は、ここが新宿遊廓の故地であることは、一般にはほとんど知られていません。なぜなら、新宿区がそのことを現地にまったく表示していないからです。行政によって「性の歴史」の隠蔽が行われている典型的な例だと、私は思います(おそらく地元も共謀)。
ところで、東京の定席としては唯一木造建築の「末広亭」のある通りは、昭和戦前期には「東海通り」と呼ばれ(新宿通りの角に東海銀行の支店があった)、カフェー街を形成していました。旭町の項でも触れた『放浪記』の林芙美子は、追分東海通りの「つるや」というカフェーで女給をしていました。昭和初年頃のことです。
↑ 現在の「末広通り」。
末広亭の通り(東海通り)の東側(新宿通りから入って右側)に連なる店舗(新宿3丁目10番地。中華料理の「満月廬」などがある)の裏は、現在、駐車場になっていますが、注意深く見ると、店舗の裏側のラインが一直線に揃っていることがわかります。実は、この地割線が、新宿遊廓の西側のライン(塀と裏道)に相当します。そして、このラインが、本来の新宿2丁目と3丁目の境界線だったのです。
つまり、ここから東側に、新宿遊廓の妓楼がずらりと軒を連ねていたのです。今から24年前の1992年、私が初めて行った新宿の女装系のお店「梨沙」は、新宿3丁目7番地にありましたが、戦前の地図と合わせてみると、新宿遊廓の西南端に当たり、「第一不二川」という妓楼があった所でした。
ところで、東京新宿の性的マイノリティの世界と言えば、ほとんどの人は、男性同性愛者の世界を想い浮かべるでしょう。しかし、新宿2丁目のいわゆるゲイ・コミュニティとは、まったく別に、女装者のコミュニティが新宿には存在します。
それは、昼間は男性として仕事をしながら、主に週末の夜に女装して街に出るパートタイムの、基本的にはアマチュアの女装者と、そうした女装者を好む非女装の男性(女装者愛好男性)とから成るコミュニティです。
このコミュニティは、21世紀初頭の時点では、歌舞伎町区役所通り周辺から、昭和の残り香が色濃いゴールデン街地区、新宿3丁目の末広亭ブロック、そして2丁目のゲイタウンをかすめて、新宿御苑の北側のブロックに至る広い範囲に散在する10数軒ほどの女装バー/スナックを拠点として形成されていました。
この新宿3丁目の末広亭ブロックは、女装バー/スナックが集まっている街です。要通りの(靖国通り側)入口の「永谷エイトビル」に入っている「粧」、「ゼフィール・ナナ」、T字路を右に曲がった左側の「びびあん」があり(2015年閉店)、その前の小さな路地(老舗の居酒屋「どん底」がある)を入ると左側に「アクトレス」があります。路地が末広亭正面の道に突き当たるあたりに、かって「梨紗」がありました。もうひとつ新宿通り寄りの道に「F(エフ)」があるという具合です。
↑ 「永谷エイトビル」の看板。
「なんだ、たった5軒か」と思われるかもしれないが、新宿全体で10数軒ほどしかない女装系の店の内の3分の1がこのブロックに集まっている。週末の夜に、「アクトレス」がある路地を観察していれば、背の高い「お嬢さん」が何人か通っていくのを見ることができるでしょう。
女装者のコミュニティは、男性同性愛者のコミュニティ(ゲイタウン)に比べると圧倒的に規模が小さく(店舗数で20分の1程度)、また一般の(ヘテロセクシュアルの)歓楽街の中に紛れるように存在しているので、可視化されることはあまりなく、社会の認知度も高くありません。しかし、1960年代半ばに原型が形成されて以来、50年近い長い伝統をもつコミュニティなのです。
この世界では、身体的には男性であっても女装していれば「女」として扱うという認識が共有され、その共通認識に立って、夜の酒場が女装者と女装者愛好男性の、「女」と男の出会いの場として機能しています。そこで展開されるのは、あくまで「女」と男の擬似へテロセクシュアルな意識に基づく関係性で、この点で、男と男のホモセクシュアルな意識に基づく関係が主体である男性同性愛者のコミュニティとは、基本的な理念において差異化されます。
ホモセクシュアルな街である「2丁目ゲイタウン」の中には、以前は女装系のお店はほとんど存在しませんでした。また、ヘテロセクシュアルの歓楽街である歌舞伎町の真ん中にも女装系の店はあまりありません。ホモセクシュアルとヘテロセクシュアルの歓楽街のちょうど中間に、疑似ヘテロセクシュアルな女装系の店が数多く立地しているのは、セクシュアリティの地理的投影(住み分け)という点で、たいへん興味深いものがあります。
新宿グランドツアー【8】成覚寺 -内藤新宿の裏側- [新宿グランドツアー]
【8】 成覚寺 -内藤新宿の裏側-
新宿2丁目の靖国通りに面して、2つの寺院が並んでいます。ともに文禄3年(1594)創建の成覚寺(じょうかくじ)と正受院(しょうじゅいん)です。
東側の正受院は、明了山正受院願光寺(浄土宗)といい、幕末までは会津松平家の菩提寺でした。境内の「奪衣婆像」は、咳止めや子どもの虫封じに霊験があるとされ、お礼参りには綿を奉納する習慣があることから「綿のお婆」と呼ばれています。また、針供養でも知られる寺です。
西側の成覚寺は、十劫山無量寿院成覚寺(浄土宗)といい、内藤新宿の「投げ込み寺」でした。「投げ込み寺」とは、遊女や行き倒れ人など身寄りのない(無縁)の人の遺骸を運びこんで、埋葬・供養した寺のことです。
「投げ込み寺」というと、「大きな穴を掘って遊女の遺体を牛馬のように投げ込んだ」などと記した本がありますが、「投げ込み」という言葉から勝手なイメージを膨らませた大間違いです。運び込まれた遺骸は共同墓に埋められましたが、寺では一人一人ちゃんと過去帳に付けて供養をしています。また、遊女の場合は、身売りの時に、年季の間に死亡した場合は、戒名だけを郷里に送り、遺骸は遊廓の近くの寺に埋葬する契約になっていましたので、楼主が、特別に悪辣なことをしていたわけでもありません。
成覚寺には、江戸時代を通じて、2200~3000人の「飯盛女」(宿場女郎)が埋葬されたと推定されています。境内中央左手には、万延元年(1860)に内藤新宿の楼主たちが建てた「子供合埋碑」があります。
「子供」とは楼主が抱えの遊女を呼んだ言葉です。明治26年(1893)にも貸座敷の経営者たちによって「亡娼妓招魂碑」が建てられましたが、戦災にあって現存しません。
門を入って左手には、江戸時代の戯作者、恋川春町(こいかわ はるまち 延享元~寛政元年 1744~89)の墓があります。春町は『金々先生栄花夢』で後に黄表紙といわれるジャンルを開拓した人ですが、松平定信の「寛政の改革」を茶化したことで咎めを受け、自殺してしまいます。
その隣には、旭町(現:新宿4丁目)の玉川上水北岸から移動した「旭地蔵」があります。
旭町の名は、この旭地蔵に由来します。寛政12年(1800)に内藤新宿の名主高松氏のよって建立されたもので、台座には寛政12~文化10(1800~13)に玉川上水で死亡した18名の男女の名が刻まれています。その内、男女6組12人は心中(情死)者と思われます。
成覚寺は、賑やかな内藤新宿の裏にある悲しい歴史を垣間見せてくれます。
新宿2丁目の靖国通りに面して、2つの寺院が並んでいます。ともに文禄3年(1594)創建の成覚寺(じょうかくじ)と正受院(しょうじゅいん)です。
東側の正受院は、明了山正受院願光寺(浄土宗)といい、幕末までは会津松平家の菩提寺でした。境内の「奪衣婆像」は、咳止めや子どもの虫封じに霊験があるとされ、お礼参りには綿を奉納する習慣があることから「綿のお婆」と呼ばれています。また、針供養でも知られる寺です。
西側の成覚寺は、十劫山無量寿院成覚寺(浄土宗)といい、内藤新宿の「投げ込み寺」でした。「投げ込み寺」とは、遊女や行き倒れ人など身寄りのない(無縁)の人の遺骸を運びこんで、埋葬・供養した寺のことです。
「投げ込み寺」というと、「大きな穴を掘って遊女の遺体を牛馬のように投げ込んだ」などと記した本がありますが、「投げ込み」という言葉から勝手なイメージを膨らませた大間違いです。運び込まれた遺骸は共同墓に埋められましたが、寺では一人一人ちゃんと過去帳に付けて供養をしています。また、遊女の場合は、身売りの時に、年季の間に死亡した場合は、戒名だけを郷里に送り、遺骸は遊廓の近くの寺に埋葬する契約になっていましたので、楼主が、特別に悪辣なことをしていたわけでもありません。
成覚寺には、江戸時代を通じて、2200~3000人の「飯盛女」(宿場女郎)が埋葬されたと推定されています。境内中央左手には、万延元年(1860)に内藤新宿の楼主たちが建てた「子供合埋碑」があります。
「子供」とは楼主が抱えの遊女を呼んだ言葉です。明治26年(1893)にも貸座敷の経営者たちによって「亡娼妓招魂碑」が建てられましたが、戦災にあって現存しません。
門を入って左手には、江戸時代の戯作者、恋川春町(こいかわ はるまち 延享元~寛政元年 1744~89)の墓があります。春町は『金々先生栄花夢』で後に黄表紙といわれるジャンルを開拓した人ですが、松平定信の「寛政の改革」を茶化したことで咎めを受け、自殺してしまいます。
その隣には、旭町(現:新宿4丁目)の玉川上水北岸から移動した「旭地蔵」があります。
旭町の名は、この旭地蔵に由来します。寛政12年(1800)に内藤新宿の名主高松氏のよって建立されたもので、台座には寛政12~文化10(1800~13)に玉川上水で死亡した18名の男女の名が刻まれています。その内、男女6組12人は心中(情死)者と思われます。
成覚寺は、賑やかな内藤新宿の裏にある悲しい歴史を垣間見せてくれます。
新宿グランドツアー【7】遊廓から「赤線」、そしてゲイタウンへ-新宿2丁目の変貌- [新宿グランドツアー]
【7】 遊廓から「赤線」、そしてゲイタウンへ-新宿2丁目の変貌-
(1)新宿遊廓の成立と発展
明治35年(1902)頃、内藤新宿の上町(大木戸~太宗寺入口)には、甲州街道の北側に18軒、南側に9軒、計27軒の貸座敷(実態は妓楼)が軒を連ねていました。また仲町にも17軒の貸座敷があり、新宿全体では53軒を擁していました。
ところが、明治39年(1906)、内藤氏の下屋敷跡が宮内省によって「新宿御苑」として整備され、皇族をはじめとする国内の貴顕と招かれた外国の賓客の遊宴の地になると、御苑に近い街道沿いに娼家が連なっていることが、問題視されるようになります。
娼家を恥ずべきものとして、皇族や外国賓客の目から遠ざけたい政府(警視庁)は、仲町・下町の街道から北に引っ込んだ一帯にあった乳牛牧場「耕牧社」が大正2年(1913)に廃業し、その跡地が「牛屋の原」と呼ばれているのに注目しました。そして、大正7年(1918)、新宿の娼家に「牛屋の原」への集団移転を命じます(大正10年までの期限付き)。
最初は移転を渋っていた娼家も、大正9年の大火で娼家数10軒が焼けたことがきっかけとなり、ようやく動き出し、期限内の大正10年(1921)3月に集団移転が完了しました、ところが、移転直後の3月26日、追分の俵屋倉庫から出火した火事で新築したばかり娼家は全焼してしまいました。仕方なく、もう一度建て直すのですが、短期間に2度も建て直せるだけ、荒稼ぎした貯えがあったということでしょう。こうして大正11年(1922)春、59軒の新築妓楼がうち揃い、盛大なお披露目となりました。新宿遊廓の成立です。
大正12年(1923)9月1日の関東大震災で、下町の二大遊廓「新吉原」(台東区千束)、「洲崎」(江東区東陽町)や、私娼窟の「玉の井」(墨田区向島)、「亀戸」(江東区亀戸)は全焼し壊滅的な被害を受けました。大きな被害を免れた新宿遊廓は、東都の遊客を一手に集める形になり、急速に台頭していきます。
昭和4年(1929)刊行の上村行彰著『日本遊里史』の巻末付録「日本全国遊廓一覧」によると、新宿遊廓は、貸座敷56軒、娼妓570人(1軒あたり10.2人)となっています。
昭和になって中央通りや追分に新宿モダン文化が花開くと、積極的にモダン趣味を取り入れ、江戸時代以来の伝統と格式を誇る「新吉原」を凌いで、実質的にモダン東京で最も賑わう遊廓に成り上がったのです。
↑ 昭和10年(1935)頃の新宿と「新宿遊廓」の位置
新宿遊廓の所在地は、現在の町割では新宿2丁目と3丁目に股がっています。現2丁目に3分の1、現3丁目に3分の2くらいで、メインストリートの「大門通り」は現3丁目の「要通り」に相当します。
これは、昭和20年(1945)の空襲で新宿遊廓が全焼し、さらに昭和24年(1949)に遊廓地区を分断する形で「御苑通り」(新田裏の交差点の南で明治通りから分岐して新宿御苑に突き当たるグリーンベルトがある道路)が作られ、さらに昭和43年(1968)1月1日に、2丁目と3丁目の境界線が東に移動して「御苑通り」が境界になったためです。
(2)新宿2丁目「赤線」地帯
戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の方針で「娼妓取締規則」など、戦前の遊廓制度が解体され、指定された地域内に限って特殊飲食店の営業を認め、買売春を黙認する「赤線」のシステム(1946~58)が始まります。新宿では、旧新宿遊廓のエリアの内、「御苑通り」の東側が「赤線」指定地(仲通りの西側。現:新宿2丁目16・17・18番地)になります。そして、その南側などに非合法買売春地区である「青線」(12番地)が成立します。
↑ 「柳通り」南側にあった「ひとみ」(1953年)
「赤線」全盛期の昭和27年(1952)年末の統計によると、新宿の「赤線」は、業者74軒、従業婦477人(1軒あたり6.5人)で、規模(従業婦数)では、新吉原、洲崎に次ぎ都内3位でした。
↑ 通りの左側が二丁目「赤線」の中心部。
ほぼ同じ場所の現在(2015年)。
「赤線」は、昭和31年(1956)10月に成立した「売春防止法」によって、その命脈を絶たれることになりました。それでも新宿の「赤線」は、最末期の昭和32年(1957年)3月でも70軒、451人(6.4人)の規模を保ち(洲崎を抜いて2位)、最後まで旺盛な需要があったことがわかります。昭和33年(1958)3月31日、「売春防止法」が完全施行されたことで、新宿の「赤線」の灯は消えました。その最後の日の様相は、白鳥信一監督「赤線最後の日 昭和33年3月31日」(1974年、日活)に再現されています。
(3) ゲイタウンへの変貌
昭和30年代後半(1960~65)になると、「赤線」が廃止されて空洞化した2丁目に、「ぼんち」「蘭屋」などのゲイバーが進出するようになります。新宿のゲイバーは、それ以前にも、新宿駅東口「二幸」(現:アルタ)裏にあった「夜曲」(戦前?~1962)、明治通りの「大映」の裏にあった「イプセン」、区役所通りの「アドニス」などがありましたが、当然のことながら、「赤線」「青線」というヘテロセクシュアルな性愛の街である2丁目には、1軒もありませんでした。
その後も2丁目に開店するゲイバーの数は増し、昭和46年(1971)には、仲通りと花園通りの交差点の北西側の旧「赤線」地区を中心に約64軒のゲイバーが密集するようになります。さらに1980年には170軒、バブル経済全盛の1990年前後には250~300軒に達し、現在でも約200軒が営業しています。
現在の「ゲイタウン」の中枢部は、かっての「赤線」指定地域に見事なまでに重なります。こうして、ヘテロセクシュアルな遊廓→「赤線」の街だった新宿2丁目は、わずか15~20年ほどの間に、世界最大のホモセクシュアルの盛り場「(新宿)二丁目ゲイタウン」へと変貌を遂げました。
↑ ゲイ・グッズの専門店
暖かな季節の週末(金・土曜)の夜、2丁目の仲通りに足を踏み入れると、不思議な体験ができます。まず、路上に立っている男の数がやたらと多いのに気づきます。男性は、そうした男たちから発せられる、今まで感じたことのない、品定めされるような性的な視線が全身に絡みつくのを感じるでしょう。逆に、女性はどんなセクシーなファッションをしていても、あっさり無視されか、「あんた、来る場所が違うわよ」という冷たい視点がさらされます。ここでは、多くの人たちが「常識」だと思っているセクシュアリティが反転します。だからこそ一般社会ではマイノリティであるホモセクシュアルの人たちにとっては、かけがえのない大切な街なのです。
2丁目の一画(15番地)、仲通りが靖国通りに出る少し手前、右手に入るL字形の小さな路地があります。この一角は旧「青線」で「墓場横丁」と呼ばれていました。1970年代移行、「Madonna」「agit」「HUG」など数軒のレズビアンバーが集まっていることから「レズビアン小路」と呼ばれるようになりました。
レズビアン(女性同性愛者)系の店の数は、新宿全体でも20軒ほどと思われ、ゲイ(男性同性愛者)系の店に比べて格段に少ないのが現状です。業界の規模はおそらくゲイ業界の20分の1程度で、女装系とほぼ同程度ではないでしょうか。
ほぼ同じ比率で存在するとされるゲイとレズビアンの間に、これほどの大きな差があるのは、社会的顕在化の違い、遊びに費やせる財力・時間・自由の違いによるのでしょう。
ところで、遊廓や「赤線」の入口には、必ず交番が設置されます。現在、御苑通りと靖国通りの交差点(新宿5丁目東交差点)にある「四谷警察署御苑大通交番」は、もともと新宿「赤線」の見張り番でした。
おもしろいのは、その交番の近くに、というか、すぐ後のビルにソープランドが入っていることです。ソープランドの営業許可地の多くは、旧「赤線」地区に由来しています(歌舞伎町は例外)。現在、新宿2丁目には「赤線」時代の建物は、まったく残っていません。交番とソープランドだけが、2丁目が「赤線」だった時代の、かすかな名残なのです。
↑ 二丁目北西端。交番(四谷警察署御苑大通交番・右下)のすぐ後ろに、ソープランドが入っているビルがある(「角海老」の広告のあるビルと、その左の「多恋人」のビル)。
すっかり「ゲイタウン」化した新宿二丁目の中で、「新宿遊廓」→「二丁目赤線」と受け継がれた数少ないヘテロセクシュアルの性風俗の場。
(1)新宿遊廓の成立と発展
明治35年(1902)頃、内藤新宿の上町(大木戸~太宗寺入口)には、甲州街道の北側に18軒、南側に9軒、計27軒の貸座敷(実態は妓楼)が軒を連ねていました。また仲町にも17軒の貸座敷があり、新宿全体では53軒を擁していました。
ところが、明治39年(1906)、内藤氏の下屋敷跡が宮内省によって「新宿御苑」として整備され、皇族をはじめとする国内の貴顕と招かれた外国の賓客の遊宴の地になると、御苑に近い街道沿いに娼家が連なっていることが、問題視されるようになります。
娼家を恥ずべきものとして、皇族や外国賓客の目から遠ざけたい政府(警視庁)は、仲町・下町の街道から北に引っ込んだ一帯にあった乳牛牧場「耕牧社」が大正2年(1913)に廃業し、その跡地が「牛屋の原」と呼ばれているのに注目しました。そして、大正7年(1918)、新宿の娼家に「牛屋の原」への集団移転を命じます(大正10年までの期限付き)。
最初は移転を渋っていた娼家も、大正9年の大火で娼家数10軒が焼けたことがきっかけとなり、ようやく動き出し、期限内の大正10年(1921)3月に集団移転が完了しました、ところが、移転直後の3月26日、追分の俵屋倉庫から出火した火事で新築したばかり娼家は全焼してしまいました。仕方なく、もう一度建て直すのですが、短期間に2度も建て直せるだけ、荒稼ぎした貯えがあったということでしょう。こうして大正11年(1922)春、59軒の新築妓楼がうち揃い、盛大なお披露目となりました。新宿遊廓の成立です。
大正12年(1923)9月1日の関東大震災で、下町の二大遊廓「新吉原」(台東区千束)、「洲崎」(江東区東陽町)や、私娼窟の「玉の井」(墨田区向島)、「亀戸」(江東区亀戸)は全焼し壊滅的な被害を受けました。大きな被害を免れた新宿遊廓は、東都の遊客を一手に集める形になり、急速に台頭していきます。
昭和4年(1929)刊行の上村行彰著『日本遊里史』の巻末付録「日本全国遊廓一覧」によると、新宿遊廓は、貸座敷56軒、娼妓570人(1軒あたり10.2人)となっています。
昭和になって中央通りや追分に新宿モダン文化が花開くと、積極的にモダン趣味を取り入れ、江戸時代以来の伝統と格式を誇る「新吉原」を凌いで、実質的にモダン東京で最も賑わう遊廓に成り上がったのです。
↑ 昭和10年(1935)頃の新宿と「新宿遊廓」の位置
新宿遊廓の所在地は、現在の町割では新宿2丁目と3丁目に股がっています。現2丁目に3分の1、現3丁目に3分の2くらいで、メインストリートの「大門通り」は現3丁目の「要通り」に相当します。
これは、昭和20年(1945)の空襲で新宿遊廓が全焼し、さらに昭和24年(1949)に遊廓地区を分断する形で「御苑通り」(新田裏の交差点の南で明治通りから分岐して新宿御苑に突き当たるグリーンベルトがある道路)が作られ、さらに昭和43年(1968)1月1日に、2丁目と3丁目の境界線が東に移動して「御苑通り」が境界になったためです。
(2)新宿2丁目「赤線」地帯
戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の方針で「娼妓取締規則」など、戦前の遊廓制度が解体され、指定された地域内に限って特殊飲食店の営業を認め、買売春を黙認する「赤線」のシステム(1946~58)が始まります。新宿では、旧新宿遊廓のエリアの内、「御苑通り」の東側が「赤線」指定地(仲通りの西側。現:新宿2丁目16・17・18番地)になります。そして、その南側などに非合法買売春地区である「青線」(12番地)が成立します。
↑ 「柳通り」南側にあった「ひとみ」(1953年)
「赤線」全盛期の昭和27年(1952)年末の統計によると、新宿の「赤線」は、業者74軒、従業婦477人(1軒あたり6.5人)で、規模(従業婦数)では、新吉原、洲崎に次ぎ都内3位でした。
↑ 通りの左側が二丁目「赤線」の中心部。
ほぼ同じ場所の現在(2015年)。
「赤線」は、昭和31年(1956)10月に成立した「売春防止法」によって、その命脈を絶たれることになりました。それでも新宿の「赤線」は、最末期の昭和32年(1957年)3月でも70軒、451人(6.4人)の規模を保ち(洲崎を抜いて2位)、最後まで旺盛な需要があったことがわかります。昭和33年(1958)3月31日、「売春防止法」が完全施行されたことで、新宿の「赤線」の灯は消えました。その最後の日の様相は、白鳥信一監督「赤線最後の日 昭和33年3月31日」(1974年、日活)に再現されています。
(3) ゲイタウンへの変貌
昭和30年代後半(1960~65)になると、「赤線」が廃止されて空洞化した2丁目に、「ぼんち」「蘭屋」などのゲイバーが進出するようになります。新宿のゲイバーは、それ以前にも、新宿駅東口「二幸」(現:アルタ)裏にあった「夜曲」(戦前?~1962)、明治通りの「大映」の裏にあった「イプセン」、区役所通りの「アドニス」などがありましたが、当然のことながら、「赤線」「青線」というヘテロセクシュアルな性愛の街である2丁目には、1軒もありませんでした。
その後も2丁目に開店するゲイバーの数は増し、昭和46年(1971)には、仲通りと花園通りの交差点の北西側の旧「赤線」地区を中心に約64軒のゲイバーが密集するようになります。さらに1980年には170軒、バブル経済全盛の1990年前後には250~300軒に達し、現在でも約200軒が営業しています。
現在の「ゲイタウン」の中枢部は、かっての「赤線」指定地域に見事なまでに重なります。こうして、ヘテロセクシュアルな遊廓→「赤線」の街だった新宿2丁目は、わずか15~20年ほどの間に、世界最大のホモセクシュアルの盛り場「(新宿)二丁目ゲイタウン」へと変貌を遂げました。
↑ ゲイ・グッズの専門店
暖かな季節の週末(金・土曜)の夜、2丁目の仲通りに足を踏み入れると、不思議な体験ができます。まず、路上に立っている男の数がやたらと多いのに気づきます。男性は、そうした男たちから発せられる、今まで感じたことのない、品定めされるような性的な視線が全身に絡みつくのを感じるでしょう。逆に、女性はどんなセクシーなファッションをしていても、あっさり無視されか、「あんた、来る場所が違うわよ」という冷たい視点がさらされます。ここでは、多くの人たちが「常識」だと思っているセクシュアリティが反転します。だからこそ一般社会ではマイノリティであるホモセクシュアルの人たちにとっては、かけがえのない大切な街なのです。
2丁目の一画(15番地)、仲通りが靖国通りに出る少し手前、右手に入るL字形の小さな路地があります。この一角は旧「青線」で「墓場横丁」と呼ばれていました。1970年代移行、「Madonna」「agit」「HUG」など数軒のレズビアンバーが集まっていることから「レズビアン小路」と呼ばれるようになりました。
レズビアン(女性同性愛者)系の店の数は、新宿全体でも20軒ほどと思われ、ゲイ(男性同性愛者)系の店に比べて格段に少ないのが現状です。業界の規模はおそらくゲイ業界の20分の1程度で、女装系とほぼ同程度ではないでしょうか。
ほぼ同じ比率で存在するとされるゲイとレズビアンの間に、これほどの大きな差があるのは、社会的顕在化の違い、遊びに費やせる財力・時間・自由の違いによるのでしょう。
ところで、遊廓や「赤線」の入口には、必ず交番が設置されます。現在、御苑通りと靖国通りの交差点(新宿5丁目東交差点)にある「四谷警察署御苑大通交番」は、もともと新宿「赤線」の見張り番でした。
おもしろいのは、その交番の近くに、というか、すぐ後のビルにソープランドが入っていることです。ソープランドの営業許可地の多くは、旧「赤線」地区に由来しています(歌舞伎町は例外)。現在、新宿2丁目には「赤線」時代の建物は、まったく残っていません。交番とソープランドだけが、2丁目が「赤線」だった時代の、かすかな名残なのです。
↑ 二丁目北西端。交番(四谷警察署御苑大通交番・右下)のすぐ後ろに、ソープランドが入っているビルがある(「角海老」の広告のあるビルと、その左の「多恋人」のビル)。
すっかり「ゲイタウン」化した新宿二丁目の中で、「新宿遊廓」→「二丁目赤線」と受け継がれた数少ないヘテロセクシュアルの性風俗の場。
新宿グランドツアー【6】内藤新宿と太宗寺(2)太宗寺 [新宿グランドツアー]
【6】内藤新宿と太宗寺
(2)太宗寺
街道から少しだけ北に入った所にある太宗寺(浄土宗)は、内藤新宿第一の寺院です。その起源は、慶長元年(1596)ごろ、太宗という来歴不明の僧侶がこの地にやってきて草庵を作り住み着いたことに始まるそうです。寛永6年(1629)、信濃高遠藩(3万3千石)5代藩主内藤正勝の葬儀がここで行われて以来、内藤氏の菩提寺になり、寛文8年(1668)には8代藩主内藤重頼が7396坪の寺地を寄進して、霞関山本覚院太宗寺という立派な寺院になりました。現在でも、墓地のいちばん奥に「内藤家墓地」があります。
太宗寺は内藤新宿の設置と発展にともない、宿場の人々や江戸の庶民の信仰も集めるようになり、多くの参詣の人々で賑わうようになりました。境内に入ると、すぐ右手に、「江戸六地蔵」の第3番とされる像高267cmの銅製「大地蔵」(正徳2年=1712)が鎮座しています。
ところで、明治の文豪夏目漱石の生母千枝は、太宗寺の真向かいにあった老舗の旅籠(実態は妓楼)「伊豆橋」の娘でした。漱石自身も、幼いころ、明治になって廃業し空家同然になったその家に留守番として住んでいた時期がありました。その頃、太宗寺の大地蔵に上って遊んだらしく、その様子が晩年の自伝的小説『道草』に描写されています。
「彼は時々表二階へ上って、細い格子の間から下を見下した。鈴を鳴らしたり、腹掛を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。路を隔てた真ん向ふには大きな唐金(からかね)の仏様があった。その仏様は胡坐をかいて蓮台の上に坐っていた。太い錫杖を担いでいた、それから頭に笠を被っていた。
健三は時々薄暗い土間へ下りて、其処(そこ)からすぐ向側の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ攀(よ)じ上った。着物の襞(ひだ)へ足を掛けたり、錫杖の柄へ捉(つか)まったりして、後から肩に手が届くか、又は笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。」
(夏目漱石『道草』38)
その左手の閻魔堂には、都内最大(高さ5.5m)の「閻魔像」(文化11年=1814)と、地獄に堕ちた人たちの着物を脱がせる「脱衣婆(だつえば)像」(明治3年=1870)が納められています。ちなみに、この「脱衣婆像」、着物を脱がせるという共通性から妓楼の商売神にされました。
閻魔堂の周囲の玉垣は、昭和8年(1933)の造営で、新宿遊廓の妓楼の名をいくつも見ることができます。戦災でほとんど何も残さず地上から消えてしまった新宿遊廓の唯一の名残です。
門を入って左手には「百度石」があり、その正面には、願いがかなうと塩を備える「塩掛け地蔵」があります。かっては、「百度石」からお堂まで、百回往復するお百度詣をする人も多かったのでしょう。いえ、「塩掛け地蔵」がいつも真新しい塩で埋もれていることを考えると、信仰は現代にも生きていると思います。
また、庫裏の前には、昭和27年(1952)に内藤家墓地が改修された際に発見された江戸時代中期の織部灯籠が置いてありますが、この灯籠の下部に刻まれているのがマリア像ではないか?という推測があり、隠れキリシタンの遺物かもしれないということで、「キリシタン灯籠」と呼ばれています。しかし、果たしてそうなのか真偽のほどは不明です。
(2)太宗寺
街道から少しだけ北に入った所にある太宗寺(浄土宗)は、内藤新宿第一の寺院です。その起源は、慶長元年(1596)ごろ、太宗という来歴不明の僧侶がこの地にやってきて草庵を作り住み着いたことに始まるそうです。寛永6年(1629)、信濃高遠藩(3万3千石)5代藩主内藤正勝の葬儀がここで行われて以来、内藤氏の菩提寺になり、寛文8年(1668)には8代藩主内藤重頼が7396坪の寺地を寄進して、霞関山本覚院太宗寺という立派な寺院になりました。現在でも、墓地のいちばん奥に「内藤家墓地」があります。
太宗寺は内藤新宿の設置と発展にともない、宿場の人々や江戸の庶民の信仰も集めるようになり、多くの参詣の人々で賑わうようになりました。境内に入ると、すぐ右手に、「江戸六地蔵」の第3番とされる像高267cmの銅製「大地蔵」(正徳2年=1712)が鎮座しています。
ところで、明治の文豪夏目漱石の生母千枝は、太宗寺の真向かいにあった老舗の旅籠(実態は妓楼)「伊豆橋」の娘でした。漱石自身も、幼いころ、明治になって廃業し空家同然になったその家に留守番として住んでいた時期がありました。その頃、太宗寺の大地蔵に上って遊んだらしく、その様子が晩年の自伝的小説『道草』に描写されています。
「彼は時々表二階へ上って、細い格子の間から下を見下した。鈴を鳴らしたり、腹掛を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。路を隔てた真ん向ふには大きな唐金(からかね)の仏様があった。その仏様は胡坐をかいて蓮台の上に坐っていた。太い錫杖を担いでいた、それから頭に笠を被っていた。
健三は時々薄暗い土間へ下りて、其処(そこ)からすぐ向側の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ攀(よ)じ上った。着物の襞(ひだ)へ足を掛けたり、錫杖の柄へ捉(つか)まったりして、後から肩に手が届くか、又は笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。」
(夏目漱石『道草』38)
その左手の閻魔堂には、都内最大(高さ5.5m)の「閻魔像」(文化11年=1814)と、地獄に堕ちた人たちの着物を脱がせる「脱衣婆(だつえば)像」(明治3年=1870)が納められています。ちなみに、この「脱衣婆像」、着物を脱がせるという共通性から妓楼の商売神にされました。
閻魔堂の周囲の玉垣は、昭和8年(1933)の造営で、新宿遊廓の妓楼の名をいくつも見ることができます。戦災でほとんど何も残さず地上から消えてしまった新宿遊廓の唯一の名残です。
門を入って左手には「百度石」があり、その正面には、願いがかなうと塩を備える「塩掛け地蔵」があります。かっては、「百度石」からお堂まで、百回往復するお百度詣をする人も多かったのでしょう。いえ、「塩掛け地蔵」がいつも真新しい塩で埋もれていることを考えると、信仰は現代にも生きていると思います。
また、庫裏の前には、昭和27年(1952)に内藤家墓地が改修された際に発見された江戸時代中期の織部灯籠が置いてありますが、この灯籠の下部に刻まれているのがマリア像ではないか?という推測があり、隠れキリシタンの遺物かもしれないということで、「キリシタン灯籠」と呼ばれています。しかし、果たしてそうなのか真偽のほどは不明です。
新宿グランドツアー【6】内藤新宿と太宗寺(1)内藤新宿の成り立ち [新宿グランドツアー]
【6】内藤新宿と太宗寺
追分に戻り、かっての内藤新宿の町並みを偲びながら、甲州街道(新宿通り)を四谷方面へ歩いて行きましょう。といっても、古い建物はほとんど残っていないのですが。
(1)内藤新宿の成り立ち
慶長6年(1601)、天下の覇者となった徳川家康は、全国支配のために江戸と各地を結ぶ5つの街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)の整備に着手します。甲州街道は、江戸(日本橋)~八王子~甲府を結び、信濃国下諏訪宿で中山道と合流する街道です。徳川氏は、甲府に拠点を置いた戦国大名武田氏の遺臣を多く抱えていましたので、甲府を重要な軍事拠点、もしものとき(江戸落城)の逃げ場所と考えていた節があります。
甲州街道には、最終的には38の宿場が置かれましたが、江戸初期においては「大木戸までは江戸の内」と言われた四谷大木戸を出ると、最初の宿場は高井戸宿(東京都杉並区)でした。また脇街道の青梅街道(成木街道)は、江戸城の白壁や町屋の土蔵の壁に塗る漆喰の原料になる奥多摩の石灰石を運び込む目的の街道で、最初の宿場は田無(東京都西東京市)でした。いずれも日本橋からの距離がかなり長く(日本橋~高井戸宿=4里=16m)、人馬の往来に不便でした。
そこで、江戸浅草阿部川町(現:元浅草4丁目)の名主喜兵衛(高松喜六)ら5人が、金5600両の献上とともに甲州街道の宿場の新設を幕府に願い出ます。なぜ、願主が地理的に無縁な浅草の人なのか不思議ですが、その請願に応えて、幕府は、元禄11年(1698)、四谷大木戸をから甲州街道と青梅街道が分岐する追分までの間の、内藤氏(信濃高遠藩3万3千石)の下屋敷に近い土地に新しい宿場を造ることを許可します。そして、その宿場は「内藤」氏の屋敷に近い「新」しい「宿」場ということで「内藤新宿」と呼ばれることになりました。喜兵衛らの願主は、新しい宿場の名主になり、宿場のさまざまな利権を手中に収め、5600両の投資はしっかり回収できたことでしょう。
ところが、それから約20年後の享保3年(1718)、内藤新宿は廃止されてしまいます。宿場の風紀の乱れが、徳川吉宗の「享保の改革」の綱紀粛正・倹約の方針と相容れなかったからです。内藤新宿がやっと復活するのは、54年後の明和9年(1772)のことでした。
宿場町は、大木戸から追分まで1.2kmほどで、四谷寄りから下・仲・上町に分かれ、江戸に近い下町(現:新宿1丁目)がいちばん賑わいました。旅籠(はたご)には「飯盛り女」と称する女性(実態は、セックスワーカー)を宿場全体で150人置くことが許可されていましたが、実際にはさらに多くの女性が働いていたようです。
↑ 切絵図に描かれた内藤新宿。
↑ 安政年間(1850年代)の内藤新宿の略図。
↑ この絵、東京メトロ副都心線・新宿三丁目駅のガラス壁に描かれている。
もともと後発の上に、54年間もの断絶期間があり、内藤新宿は他の江戸三宿に比べて明らかに格下でした。それでも「明和の立ち返り」以後、江戸の商業経済の発展とともに、徐々に繁栄の方向に向かいます。
当時、「四谷新宿 馬糞の中で あやめ咲くとは しおらしい」という歌が流行しました。乗り継ぎ馬や荷牽き馬の糞と、菖蒲にたとえられた「飯盛女」、内藤新宿のイメージがよく伝わってきます。歌川広重の「江戸名所百景」の「内藤新宿」は、馬糞と飯盛女というイメージを、実に的確に表現しています。右の拡大図では、馬の足の向こうに飯盛女が客を呼び込んでいる様子がうかがえます。
こうして1808年(文化5)には、旅籠屋50軒、引手茶屋80軒を数えるまでになり、江戸四宿の中でも東海道品川宿に次ぐ賑わいをみせるようになりました。
↑ この道が「甲州街道」であったことを思い出させる「甲州屋呉服店」
追分に戻り、かっての内藤新宿の町並みを偲びながら、甲州街道(新宿通り)を四谷方面へ歩いて行きましょう。といっても、古い建物はほとんど残っていないのですが。
(1)内藤新宿の成り立ち
慶長6年(1601)、天下の覇者となった徳川家康は、全国支配のために江戸と各地を結ぶ5つの街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)の整備に着手します。甲州街道は、江戸(日本橋)~八王子~甲府を結び、信濃国下諏訪宿で中山道と合流する街道です。徳川氏は、甲府に拠点を置いた戦国大名武田氏の遺臣を多く抱えていましたので、甲府を重要な軍事拠点、もしものとき(江戸落城)の逃げ場所と考えていた節があります。
甲州街道には、最終的には38の宿場が置かれましたが、江戸初期においては「大木戸までは江戸の内」と言われた四谷大木戸を出ると、最初の宿場は高井戸宿(東京都杉並区)でした。また脇街道の青梅街道(成木街道)は、江戸城の白壁や町屋の土蔵の壁に塗る漆喰の原料になる奥多摩の石灰石を運び込む目的の街道で、最初の宿場は田無(東京都西東京市)でした。いずれも日本橋からの距離がかなり長く(日本橋~高井戸宿=4里=16m)、人馬の往来に不便でした。
そこで、江戸浅草阿部川町(現:元浅草4丁目)の名主喜兵衛(高松喜六)ら5人が、金5600両の献上とともに甲州街道の宿場の新設を幕府に願い出ます。なぜ、願主が地理的に無縁な浅草の人なのか不思議ですが、その請願に応えて、幕府は、元禄11年(1698)、四谷大木戸をから甲州街道と青梅街道が分岐する追分までの間の、内藤氏(信濃高遠藩3万3千石)の下屋敷に近い土地に新しい宿場を造ることを許可します。そして、その宿場は「内藤」氏の屋敷に近い「新」しい「宿」場ということで「内藤新宿」と呼ばれることになりました。喜兵衛らの願主は、新しい宿場の名主になり、宿場のさまざまな利権を手中に収め、5600両の投資はしっかり回収できたことでしょう。
ところが、それから約20年後の享保3年(1718)、内藤新宿は廃止されてしまいます。宿場の風紀の乱れが、徳川吉宗の「享保の改革」の綱紀粛正・倹約の方針と相容れなかったからです。内藤新宿がやっと復活するのは、54年後の明和9年(1772)のことでした。
宿場町は、大木戸から追分まで1.2kmほどで、四谷寄りから下・仲・上町に分かれ、江戸に近い下町(現:新宿1丁目)がいちばん賑わいました。旅籠(はたご)には「飯盛り女」と称する女性(実態は、セックスワーカー)を宿場全体で150人置くことが許可されていましたが、実際にはさらに多くの女性が働いていたようです。
↑ 切絵図に描かれた内藤新宿。
↑ 安政年間(1850年代)の内藤新宿の略図。
↑ この絵、東京メトロ副都心線・新宿三丁目駅のガラス壁に描かれている。
もともと後発の上に、54年間もの断絶期間があり、内藤新宿は他の江戸三宿に比べて明らかに格下でした。それでも「明和の立ち返り」以後、江戸の商業経済の発展とともに、徐々に繁栄の方向に向かいます。
当時、「四谷新宿 馬糞の中で あやめ咲くとは しおらしい」という歌が流行しました。乗り継ぎ馬や荷牽き馬の糞と、菖蒲にたとえられた「飯盛女」、内藤新宿のイメージがよく伝わってきます。歌川広重の「江戸名所百景」の「内藤新宿」は、馬糞と飯盛女というイメージを、実に的確に表現しています。右の拡大図では、馬の足の向こうに飯盛女が客を呼び込んでいる様子がうかがえます。
こうして1808年(文化5)には、旅籠屋50軒、引手茶屋80軒を数えるまでになり、江戸四宿の中でも東海道品川宿に次ぐ賑わいをみせるようになりました。
↑ この道が「甲州街道」であったことを思い出させる「甲州屋呉服店」