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日本女装昔話【第14回】警視総監を殴った男娼「おきよ」 [日本女装昔話]

【第14回】警視総監を殴った男娼「おきよ」1940~1970年代

「この『人形のお時』さんって、警視総監を殴った人よね」
 
ここは新宿歌舞伎町区役所通り、老舗の女装スナック『ジュネ』。
前号のこのコーナーを読んでいた静香姐さんが言いました。

「それが違うんみたいなんです。殴ったのは『おきよ』さんって人らしいです」と私。
「あら、そうなの。あたしはずっと『ときよ(時代)』って人だって聞いてたわ」
 
実は私もそう聞いてました。
どうもいつの間にか伝承と事実が食い違ってしまったようなのです。

上野の男娼世界については、この連載の第1回で取り上げましたけど、調査に不十分な点が多かったので、もう一度詳しく述べてみようと思います。
 
東京の中心部のほとんどがアメリカ軍の空襲で焼け野原となった戦後の混乱期に、東京の北の玄関上野に男娼(女装のセックスワーカー)たちが姿を現します。
 
その数は、全盛期の1947~8年(昭和22~23)には50人を越えるほどになりました。
娘風や若奥様風の身ごしらえ(当時はほとんどが和装)で、山下(西郷さんの銅像の下あたり)や池の端(不忍池の畔)に立って、道行く男を誘い、上野の山の暗がりで性的サービスを行っていました。
 
そんな上野(ノガミ)の男娼の存在を全国的に名高くしたのが、1948年(昭和23)11月22日夜に起こった「警視総監殴打事件」でした。

同夜、上野の山の「狩り込み」(街娼・男娼・浮浪児などの「保護」)を視察中の田中栄一警視総監(後に衆議院議員)に随行していた新聞カメラマンが、フラッシュを光らせて街娼たちを撮影し始め、それに怒った男娼たちがカメラマンにつかみかかり、大混乱になりました。
殴打事件はその最中に起こったのです。
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「殴打事件」を報道した新聞 (毎日新聞 1947年11月23日号)

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『毎日新聞』掲載の写真の拡大

警視総監を殴り、一躍「英雄」視されることになったのは当時32歳の「おきよ」という男娼でした。

彼女は事件の7年後にこう語っています。「なんや知らんけど大勢の男たちがやって来て、いきなりカメラマンがフラッシュを光らせた。それがアタマにきたんでいちばん偉そうなのを殴ったんよ」
(広岡敬一『戦後風俗大系 わが女神たち』2000年4月 朝日出版社)
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「鉄拳の」おきよ姐さん(1955年頃)

このように事件は偶発的なものでしたが、警察にも面子があります。
当夜、暴行と公務執行妨害で彼女を含めた5人の男娼が逮捕されますが、「警視総監を殴った男娼」として自他共に認める人物はこの「おきよ」さん以外にありません。
 
それでは、なぜ「おきよ」が「ときよ(おとき)」に誤り伝えられたのでしょうか?
「鉄拳のおきよ」として有名になった彼女は、男娼生活から足を洗い1952年(昭和27)に「おきよ」というバーを浅草と新吉原(台東区千束4丁目)の中程に開店します。

店には吉行淳之介など軟派系の文化人が出入りし、またハリウッド女優エヴァ・ガードナーが来店して、乱痴気騒ぎの末に脱いだショーツを置き忘れていったり、昭和30年代には大いに繁盛しました。
 
実は、この店の看板娘が美人男娼として有名だった「人形のお時」こと「ときよ」さんだったのです。

「人形の・・・」のいわれは、「人形のように美しい」のは確かであるにしろ、実は男娼時代「人形のようにただ立ってるだけで口をきかない」ことによるのでした。
彼女はとても人を殴れるような人柄ではなかったようです。
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「人形の」お時さん (『100万人のよる』1961年4月号 季節風書房)
 
かたや武勇伝で、こなた美貌で世に知られた二人の男娼、それが「おきよ」と「ときよ」という間違えやすい名前を持ち、しかも同じ店の姐さんと妹分の関係にあったことが、語り伝えを混乱させた原因だったのです。
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「おきよ」のメンバー 。
中央が「おきよ」さん、その右「ときよ」さん
(『100万人のよる』1961年4月号 季節風書房)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第37号、2002年 8月)

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日本女装昔話【第13回】女装者愛好男性の典型 西塔哲 [日本女装昔話]

【第13回】女装者愛好男性の典型 西塔哲  1960年代

「これ、僕が撮ったんですよ」「富貴クラブ」の元男性会員・紫さんは懐かしそうに写真(第5回掲載の夢野すみれさんの写真)を指さしました。
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-4

紫さんは「富貴クラブ」創設間もない頃から約20年間在籍し、最初の数年は女装したものの、大部分は男性会員として過ごした方です。
60代半ばの現在も週末は愛人(女装者)と過ごすという氏のお話を聞きながら、私は女装世界における男性の役割を考えていました。
 
女装の世界は、もちろん女装者が主役の世界ですが、女装者だけの世界ではありません。
女装者好きの男性(非女装男性)がもう一つの柱として存在し、女装者と女装者愛好男性の二本柱で成立している世界です。

その点では、東京の「エリザベス会館」のように女装者愛好男性を完全排除してしまった女装クラブの方が特異なのです。
 
身体的性別を絶対視する考え方からは理解しにくいことなのですが、こうした女装者愛好男性の意識は、ほとんどの場合、ゲイ(男性同性愛)ではなく、ヘテロセクシュアル(異性愛)です。
彼らは「女」として女装者を愛してるのであって、男同士の愛を求めているのではないのです。
 
こうした女装者愛好男性は、外国ではトラニイ・チェイサー(Tranny-Chaser)と呼ばれています。

「トラニー」とは、トランスセクシシャル(TS)、トランスジェンダー(TG)、トランスベスタイト(TV)の省略形。
「チェイサー」とは、それを追いかける人。

つまり、直訳すれば「女装者の追っかけ」、日本の俗語で言えば「かま好き」でしょう。

しかし、彼らの実態や意識をきちんと調査・分析した研究はほとんどありません(数少ない研究レポートとして黒柳俊恭「異性装しない異性装症者-二次的異性装症者のセクシュアリティ-」『imago』1990年2月号、青土社)。

M氏が「会長さんは絶対だったからね」と畏敬の念を込めて語る「富貴クラブ」会長・西塔哲こそは、そうした女装者愛好男性の典型と言える人物でした。

明治時代の末に東京浅草に生まれた彼は、子供の頃から芝居小屋や映画館に出入りし、美しい女形に不思議な興奮と興味を感じます。

新吉原遊郭で女遊びを知ったものの、大学在学中(昭和初期)に旅芝居一座の女形「蝶之助」と交際し、女装者好きの性向に火がつきます。
 
どこどこに女装者がいるらしいと聞くと、労を厭わず捜し出し会いにいく精力振りで、官僚(逓信省)として地方に出張する機会をとらえては、塩原温泉の女装芸者「おいらん清ちゃん」や大阪の男娼らとの交際を重ねます。
責め絵師で女装者愛好者でもあった伊藤晴雨とも親しく交際したのもこの時期のようです。
 
太平洋戦戦争中はシンガポールで軍務につき、戦後の男娼全盛時代には、運輸省陸運局に勤務しながら上野・新橋・新宿などの男娼のお姐さんたちと交際を続け、当時、美人男娼として有名だった「人形のお時」とは熱海へ温泉旅行を楽しんでいます。
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西塔氏が交際した美人男娼「人形のお時」(『風俗奇譚』1965年7月号)

 1955年(昭和30)、滋賀雄二氏が結成した日本最初のアマチュア女装同好会「演劇研究会」に参加し、同会解散後の1959年(昭和34)にアマチュア女装の秘密結社「富貴クラブ」を結成して会長となりました。
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「富貴クラブ」の女装会員に囲まれてご満悦の西塔氏(『風俗奇譚』1963年4月臨時増刊号)
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お気に入りの若手美人会員(夢野すみれさん?)と。
壁面のカレンダーの曜日配列から1974年(昭和49)1~2月の撮影と推定。

その後、鎌田意好(かまだいすき)の筆名で「異装心理と異装者列伝」シリーズ(『風俗奇譚』連載)、「女装群像」シリーズ(『くいーん』連載)などの実録ものや、『香炉変』(『風俗奇譚』連載)などの女装小説を多数執筆しました。
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晩年の西塔氏。鎌倉旅行のスナップ。最晩年まで、女装者愛好を続けた(『くいーん』29号、1985年4月)
 
1989年(平成元)頃に逝去するまで女装者愛好一筋50年、「富貴クラブ」会長として君臨すること30年。

日本のアマチュア女装文化の形成に大きな役割を果たし、女装者好きという自らの性向に忠実に生きた人生は、まさに女装者愛好男性の鏡と言えるでしょう。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第36号、2002年 5月)

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日本女装昔話【第12回】「富貴クラブ」のセクシュアリティ [日本女装昔話]

【第12回】「富貴クラブ」のセクシュアリティ 1960~1970年代

1960~70年代に盛んに活動したアマチュア女装の秘密結社「富貴クラブ」(1959~90年)については、このシリーズの第4・5回で取り上げました。
富貴クラブ(小池美喜・鴨こずゑ・石渡奈美、1967年8月以降)2.jpg
「富貴クラブ」の会員、左から小池美喜・鴨こずゑ・石渡奈美さん(1967年頃)

最近、複数の元会員の方にお話をうかがうことができ、今まで不明確だったいくつかの点が、かなり明らかになりました。
 
まず、「富貴クラブ」におけるセクシュアリティ(性愛)についてです。

同クラブのシステムを特徴づけるものに男性会員(非女装で女装者を愛好する男性)の存在があります。
彼らは女装会員が外出する時のエスコート役や恋人役として重要な役割を果たしていました。
従来「富貴クラブ」の性愛関係はこうした男性会員と女装会員の関係が中心だと思われていました。

ところが、どうもそうではないようなのです。
男性会員と女装会員の関係と同じか、それ以上の比率で女装会員同士の性愛関係が濃厚だったことがわかってきました。
  
「ここには確か三畳位の小部屋があった気がするが、布団が敷いてあったりして、気の合った者同士が、そこで互いに慰め合っていたのだと思う。或る時五、六人の会員が居る座敷で、スリップだけになった若いのが、仰向けに下半身を丸出しにし、フェラチオをされていた。屹立したのを根元を把んでルージュの唇にくわえこんで、かつらの髪を揺らし揺らし、和服の中年の会員が咽喉を鳴らしていた。他の会員の誰もが見ぬふりをしているものの、初めてこうした所を見る私は、どうしていいかわからぬうちに、若い会員の方が喘ぎ始め、うめき果てるのをくわえたままの中年は、ほとばしらせたザーメンを呑みこんでしまったようだった。ああ、これが『喰う』と云うことなのかと思いながら、私のパンティの中の勃起していたものも、気がつくと腿の方まで雫を垂らしていた」

これは今回の調査で「富貴クラブ」に関する詳細な手記を提供してくださった小池美喜さん(筆名:成子素人)の思い出です。

この時はまだウブな「処女」で傍観するしかなかった小池さんも、この後、クラブの世話役だった堀江オリエさんの仕込みで「女」にされ(アナルSexを初体験)、「これからは男が慾しくて仕様がないわよ」という予言通り、数多くの男性会員や女装会員とのセックスプレイを重ねていくことになります。

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「中野の部屋」での小宴会。中央奥の着物姿が小池さん(1970年代初頃)

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芸者の「出の衣装」姿の小池美喜さん(『SMファンタジア』1975年4月号)

最近、小池さんが所蔵されているプライベート・ビデオを見せていただく機会がありました。
それはすべて「会員の部屋」で撮影されたもので、妖艶な着物姿の女装会員同士の相互オナニーと相互フェラチオ、女装会員による男性会員へのフェラチオ奉仕、そして様々に体位を変えてのアナルSexなどきわめて濃厚な内容でした。
 
このように「富貴クラブ」の「会員の部屋」において、女装会員同士のセックスプレイや男性会員と女装会員とのセックスプレイが「遊び」と称されて常態的に行われていたことは間違いないようです。
 
しかし、それは、決して非難されることではなく、女装者が抱くセックス・ファンタジー(性幻想)の現実化という方向性において、とても自然なことだと思われます。

むしろそうした方向性を抑圧して、女装と性幻想を無理やり切り離そうとする考えに、どこか無理があるのではないでしょうか。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第35号、2002年 2月)

【参照】成子素人さんの手記
(解説)「もう一人の私のこと -「富貴クラブ」の女装者、小池美喜の手記-」
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2017-02-18-2

成子 素人「もう一人の私 のこと」(前編)
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2017-02-18

成子 素人「もう一人の私 のこと」(後編)
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2017-02-18-1
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日本女装昔話【第11回】愛と芸に生きた女形 曾我廼家桃蝶 [日本女装昔話]

【第11回】愛と芸に生きた女形 曾我廼家桃蝶 1920~1970年代

白地に朝顔、桃、椿を日本画で描いた表紙、題字は「芸に生き、愛に生き」、表紙見返しは鮮やかな緋色、口絵写真には日本髪の女性の艶姿。
何も知らずに手に取ったら、女優さんの回想録と思ってしまうこの本の著者は、昭和の演劇界で一世を風靡した名女形、曾我廼家桃蝶(そがのや ももちょう)なのです。
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曾我廼家桃蝶『芸に生き、愛に生き』(六芸書房、1966年11月)のカバー

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曾我廼家桃蝶の艶姿。和装と洋装。

桃蝶は、本名を中村憬(さとる)といい、1900年(明治33)、島根県浜田市に生まれました。
10歳の時、父の仕事先の朝鮮京城(ソウル)に移住し、姉の手ほどきで初化粧・初女装を経験します。
子供時代から芝居、とりわけ女形に強い興味を抱き、役者を志望する女らしい少年でした。

18歳で単身帰国、新派役者桃木吉之助に入門して演劇界入りします(芸名:桃谷婦似男→美智夫)。
そして、入座してわずか10日後に急病の中堅女形の代役として京都座で初舞台(女学生役)を踏みます。
1924年(大正13)、著名な女形花柳章太郎の一座に加わり、以後、男性との恋愛を糧に女形としての芸を磨き、1930年(昭和5)、30歳の時、曾我廼家五郎一座に入座します。
そして、天性の美貌とあふれんばかりの色気が売りの花形女形となり、1966年(昭和41)の引退まで新派を代表する女形の一人として活躍しました。
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曾我廼家桃蝶の舞台姿

引退に当たって出版されたこの回想録は、6つの手紙と5つの手記を交互に配置する構成で、序文で、彼女は「女性を愛することの適わぬ男性」であり、男らしさが「どこにも全く無い」人間であることを「強いてかくそうととは一度もしたこと」がない、と「同性愛」と「女性的性向」を告白しています。

実際、その生い立ちや経歴を読むと、彼女の意識や言動はほとんど女性そのもので、女性として男性を愛していることがわかります。
 
帯に「男が男を恋うる異常な愛とセックスの大胆きわまる告白!」と記されているように、彼女の「性」の有り様は、当時の概念では「男性同性愛」と認識されていました。

現在なら、性自認が女性に強く傾いてることから、確実にMTFTG(男性から女性への性別越境者)の範疇に入るものでしょう。
 
今まで同性愛(もしくはトランスジェンダー)を明確に告白した自伝としては、1966年12月に出版された東郷健『隠花植物群』(宝文書房)が日本では最初とされてきました。
しかし、桃蝶の『芸に生き、愛に生き』(六芸書房)は、1966年11月の発行で、わずかですがそれを溯ることになります。

ところで、女装者愛好家として著名な鎌田意好氏(西塔哲「富貴クラブ」会長)は、曾我廼家五郎劇団と桃蝶について次のように述べています。
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この劇団(曾我廼家五郎劇団)ほど、多士済々の美しい女形をそろえたところは、他に見られないほどで、まさに、女形王国の観があった。
これは、座長の五郎が、有名なカマ掘り師だったので、地方、小劇団を問わず、奇麗な若い女形をかたっぱしから抜いて一座に加えたからで、その節、座長が吟味、毒味をすることはいうまでもない。
当然の結果として、ほとんどの女形が「カマ」であった。
 
曾我廼家五郎劇を見たことのない人でも、その道の人の間で、桃蝶の名を知らない人はないくらい有名な、女形というより女そのものであるかも知れない。新派の桃木吉之助の弟子で、前名を桃谷三千雄といい、曾我廼家五郎劇団に移り、桃蝶の芸名で舞台にたつや、たちまちその美貌とあふれるようなお色気で観客を魅了し去り、女形王国の五郎劇団でも、女形として最高の人気を占め、先輩大磯を抜いて立女形の位置を占めてしまった。
 
素顔で会った感じでは、舞台のお色気あふれるような、女装顔も想像できないような、失礼だが、平凡な容貌だが、一度化粧をすると、女形というより、女そのものとしての、息苦しいまでの女の魅力を発散する。芸者、メカケなどの役どころがいちばんピッタリするようだった。
私生活でも、男出入りの激しさもまた相当なもので、エピソードの多い人だ。
(鎌田意好氏「異装心理と異性装者列伝-女形の巻(1)-」『風俗奇譚』1965年4月号)
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桃蝶のような生まれつきの性別(男)では生きていけない人のための職業として、日本の伝統社会には、祭祀(巫人)、芸能(女形)、セックスワーク(陰間)の職業カテゴリーが用意されていました。

桃蝶の時代の演劇界は、まだ男性から女性への性別越境者がその特性と才能を生かして生きていく余地が残っていた世界だったのです。

ところが、戦後になると、男性から女性への性別越境者の居場所は、演劇界でも失われてしまいました。
 
桃蝶の引退と、衝撃的な自叙伝の刊行は、そうした風潮へのささやかな抵抗だったのかもしれません。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第34号、2001年 11月)

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日本女装昔話【第10回】和装女装マゾ 中村和美の世界 [日本女装昔話]

【第10回】和装女装マゾ 中村和美の世界 1970年代

女装関係のコーナーを常設し、女装関係のルポや写真、小説をほぼ毎号掲載していた性風俗総合雑誌『風俗奇譚』が1974年(昭和49)10月に終刊となり、その後継誌『SMファンタジア』も1975年9月に廃刊になると、女装関係の記事を定期的に掲載する雑誌は姿を消してしまいます。

その時から1980年6月にアマチュア女装の専門誌『くいーん』が創刊されるまでの約5年間、情報媒体を失ったアマチュア女装世界は「冬の時代」を迎えます。

この「空白の5年間」に、当時、隆盛を誇ったSM雑誌を舞台に特異な活躍を続けた一人の女装者がいました。
その名は中村和美、もしくは鶴川仙弥です。

彼女の実質的デビューは『SMセレクト』1977年8月号掲載の「濡れ菊舞台」、座長たちによって女装マゾに仕込まれていく旅回りの女形を主人公にした女装SM小説でした。
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以後、鶴川仙弥の筆名で「濡れ菊」シリーズは3作まで書かれます。さらに1978年から80年にかけて中村和美の筆名で「絢爛たる転生」「緊縛女装に憑かれて」「倒錯への転生」「女になって出直せ」「緋の情炎」などの告白手記や体験小説を複数のSM雑誌に次々に発表します。

その表題から解るように彼女は白塗り化粧に潰し島田の髪、緋色の襦袢や腰巻をこよなく愛する女形フェチであり、その姿のまま緊縛され辱められ、男性に肛交されることを好む典型的な和装女装マゾでした。

つまり「濡れ菊」シリーズで被虐の快感に目覚めていく女形仙弥は、中村和美の分身だったのです。
 
こうした彼女の特異な作風は、作品に添えられた彼女の和装緊縛写真と相まって、一部の読者に強烈な興奮を与えました。

彼女の実質的な執筆活動は、わずか5年足らずの短期間だったにもかかわらず、それが偶然にも「空白の5年間」に当たっていたこともあって、女装世界に残した印象は鮮烈なものがありました。

それは長い伝統を持つ和装女装の世界が放った最後の光芒だったのかもしれません。

2000年の秋、私は新宿歌舞伎町の老舗女装スナック「ジュネ」で中村和美さんにお目にかかり、お話をうかがう機会がありました。

ここに掲載した写真は、その時にいただいた中村和美の妖艶な被虐美の世界を物語る未発表写真です。

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美しく装って「床入り」を待つ。

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緋色の腰巻姿での緊縛。足元には責め具の巨大な鼻の天狗の面。

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白粉を塗られた胸に朱縄がくいこむ。

女形の姿で、男性に犯されながら、ペニスをしごかれる、女装マゾにとっての最大の悦楽、一度、女にされて犯されることの快楽を徹底的に仕込まれたら、もう抜け出すのは難しい、と和美さんは言います。

和美さんは、平日の昼間はどこから見ても男性ビジネスマン、週末の夜になると女形の姿で何人もの男に犯され被虐の悦びに溺れるという二重生活を20年近く続けます。
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(左)青年時代の中村さん (右)女にされた中村さん
顔の輪郭がそっくり。こんなことになるとは思ってもいなかっただろでしょう。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第33号、2001年 8月)

【参照】
中村和美さんについての詳細(ここでは掲載不能な写真多数)は、下記をご覧ください。

秘められた女装者たちの手記 昭和を生きた女装者たちの記録
「責め場の女形に憑かれて-中村和美さんからの手紙-」
http://junko0523.blog.fc2.com/blog-entry-1.html
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日本女装昔話【第9回】歌舞伎女形系の女装料亭「音羽」 [日本女装昔話]

【第9回】歌舞伎女形系の女装料亭「音羽」 1960年代

戦前や戦後のある時期まで、一般人に最も身近な女装者といえば、芝居の女形でした。
上は正統歌舞伎(旧派)から、新派の各劇団、下は旅回りの一座まで、芝居と言えば女形は付きもの。

そうした女形の艶姿に魅せられた女装願望者や女装者愛好の男性は数限りなかったことでしょう。
今の若い女装者が、浜崎あゆみのファッションをまねるのと同じように、ある時代までの女装者は、名女形(例えば六世中村歌右衛門とか)の華麗な衣装にあこがれたのでした。
 
そうした女形へのあこがれをかなえてくれたのが、1960年(昭和35)頃、東京青山の青葉町(現・渋谷区神宮前5丁目)に開店した料亭「音羽」でした。

経営者は六世尾上菊五郎の弟子だった女形の尾上朝之助。
店には本職とアルバイトを交えて、文哉ママを筆頭に20~26歳の美青年たち12~13人が在籍。
朝之助丈の指導のもと、白塗の本化粧、島田髷に本物の歌舞伎衣装を身にまとった艶やかな芸者姿で接客にあたる純和風のゲイバーでした。
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「音羽」の座敷では踊りや寸劇を披露した。これは「忠臣蔵九段目」。

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「青山 音羽」の記された暖簾をくぐる。
(いずれも、掲載誌不明 風俗文献資料館所蔵)

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文哉ママの艶姿 (『風俗奇譚』1962年8月号)
 
アルバイト女形の青年たちは、昼は会社員や学生が多かったようで、ここで和装女装の魅力を覚えて後にアマチュア女装の世界で活躍した方も何人かいました。

ご存知のとおり、江戸時代の歌舞伎の女形は、女装接客業である陰間茶屋と表裏一体の関係にありました。

舞台の役に恵まれない女形や舞台に立てない女形志望者は、陰間茶屋で生活の糧を得て、また女形好きの男性(女性)は陰間茶屋の客になることで願望を満たしたのでした。

そうした意味で、「音羽」の営業スタイルは、陰間茶屋の復活と言うべきでしょう。
 
歌舞伎女形系の店としては、他にも中村扇雀(扇千景国土交通大臣の夫君)の弟子だった中村扇駒らが役者を廃業して1974年に大阪ミナミに開店した和風ゲイバー「高島田」がありました。
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「高島田」のホステスたち。(『週刊大衆』1974年5月31日号)

しかし、女形や芸者姿にあこがれを感じる女装者や魅力を感じる男性は、年々減っていきます。

世の中の女性のファッションも1970年代になると急速に着物離れが進行します。
「音羽」も「高島田」も、こうした時代の流れの中に姿を消していきました。
 
今では相当な老舗ゲイバーの大ママクラスでなければ、芸者姿はしないでしょう。

新宿のアマチュア女装世界でも、お正月に艶やかな芸者姿を披露してくださるのは久保島静香姐さん一人だけです。寂しく思うのは私だけでしょうか。

 (初出:『ニューハーフ倶楽部』第32号、2001年 5月)

【参照】「音羽」関連
「責 め 場 の 女 形 に 憑 か れ て―中村和美さんからの手紙―」【1】「音羽」を知る
http://junko0523.blog.fc2.com/blog-entry-3.html

「責 め 場 の 女 形 に 憑 か れ て―中村和美さんからの手紙―」【2】「音羽」に通う
http://junko0523.blog.fc2.com/blog-entry-4.html

「半玉体験記-ある大先輩の思い出話・1960年代初頭の女装世界-」
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2013-02-10
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日本女装昔話【第8回】ブルーボーイの衝撃― パリ「カルーゼル」一行の来日 ― [日本女装昔話]

【第8回】ブルーボーイの衝撃―パリ「カルーゼル」一行の来日― 1960年代

1963年の末、フランス(パリ)のショー・クラブ「カルーゼル」の女装ダンサー、キャプシーヌ一行が来日して、東京のクラブ「ゴールデン赤坂」でショーを上演しました。
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1963年11月の第1回公演(『週刊現代』1963年12月12日号)

好評に気を良くした主催者は翌1964年11月には、キャプシーヌと並ぶトップスター、バンビを中心とするメンバー5人を招請して「飾り窓の貴婦人たち」と題するロング公演を行います。
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1964年11月の第2回公演のパンフレット。モデルはバンビ
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第2回公演のメンバー紹介
(山崎淳子コレクションより)
 
「ブルーボーイ」と呼ばれた彼女たちのショーは次第に話題を呼び、1965年末のソニーテールを中心とした第3回公演は週刊誌など一般メディアにも取り上げられいわゆる「ブルーボーイ・ブーム」を巻き起こします。
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1965年の第3回公演のメンバー(掲載誌不明、山崎淳子コレクションより)

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(左)ソニーテール (右)キスミ―
(いずれも掲載誌不明、山崎淳子コレクションより)

「ブルーボーイ」の来日は、第3回公演を終えて帰国する一行を乗せたイギリス海外航空(BOAC)機が、1966年3月5日、富士山麓に墜落し乗員全員が死亡するという悲劇によって幕を閉じます。

しかし、異国の空に散った彼女たちが日本の女装ビジネス世界に残した遺産はとても大きなものがありました。
 
その第一は、豪華でセクシーな衣装に彩られた見事に女性化した肉体の魅力です。彼女たちはその人工の女性美を日本の男性にたっぷりアピールしたのです。

第2回公演には、当時の日本を代表するゲイボー イである青江、ケニー、ジミーの3人がジョイント参加していますが、日本舞踊を基礎にした日本勢の舞台は、その点では敵うすべがありませんでした。

1960年代後半から70年代に活躍する銀座ローズ(武藤真理子)や、「カルーゼル」の名を間接的に受け継いだカルーセル麻紀のような女性的身体をセールスポイントにする性転換ダンサーの出現は、この「ブルーボーイ・ブーム」の延長上にあったのです。
 
第二は、訓練された踊りと歌で構成された性転換&女装ショーがショービジネスとして成立することを教えてくれたことです。

1970年代に出現する「プティ・シャトー」(西麻布)に代表されるフロアーショーを重視したゲイバーは、このブルーボーイ・ショーの影響を受けたものと考えられます。
 
1960年代後半から70年代にかけて日本の女装ビジネス世界、つまり「ゲイバー世界」では、ホモセクシュアル世界との分離、ゲイボーイの女性化、ショービジネス化の3つの流れが進行していきます。

「カルーゼル」のブルーボーイの来日は、そうした潮流の原点として、日本の女装ビジネス世界にとって幕末の「黒船来航」に匹敵する衝撃だったのです。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第31号、2001年 1月)

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日本女装昔話【第7回】最初の性転換ヌードダンサー-―吉本一二三と高橋京子 ― [日本女装昔話]

【第7回】最初の性転換ヌードダンサー-―吉本一二三と高橋京子 ― 1960年代

「踊りって言えるような代物じゃなかったけども、なにしろ性転換した人の裸なんて初めてでしょ。けっこうな大当たりだったのよ」
 
1961年に浅草ロック座で性転換女性吉本一二三と高橋京子のヌードショーを実見したある女装の先輩が、こう語ってくれました。
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『週刊特集実話NEWS』32号(1961年12月28日号、日本文華社)

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舞台姿の吉本一二三(右)と高橋京子(掲載誌不明、 山崎淳子コレクションより)

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吉本一二三のヌードショー(掲載誌不明、 山崎淳子コレクションより)

吉本一二三は、1950年代から美貌とファッションセンスの良さがウリの男娼として銀座・新橋界隈ではかなり知られた存在でした。
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男娼時代の吉本一二三(1952年頃)
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芸者姿の吉本一二三(1952年頃)
(広岡敬一『昭和色街美人帖』自由国民社 2001年6月より)

女に成り切りたいと思った彼女は、東京のある病院で3年間の歳月と90万円の費用(電車の初乗りが10円だった時代)をかけて1960年に性転換手術を完了します。
そして、妹分である女形出身の性転換女性高橋京子とともに、この年、性転換ヌードダンサーとしての初舞台を踏んだのでした。
 
日本における男性から女性への性転換は、1951年に東京の日本医科大学付属病院で手術を受けた永井明子が第1号であることはほぼ間違いありません。

1952年末に世界的な話題をさらった元アメリカ軍兵士クリスチーナ・ジョルゲンセンの性転換(1952年2月にデンマークで手術)に先立つものでした。
現在と違って当時の日本は性転換手術の先進国だったのです。

その後、松平多恵子(1953年に去勢手術)、緑川雅美(吉川香代 1954年手術。仮性半陰陽)、椎名敏江(1955年手術)などが性転換女性として週刊誌などに報道され、吉本や高橋の性転換手術はそれらに続くものでした。

この内、松平を除く3人は歌手としてステージに立ちましたが、女性に転換した裸体を観衆の目に露にすることはありませんでした。
そうした点で、吉本と高橋のヌードショーへの進出は画期的なことだったのです。
 
彼女たちの舞台は、大衆的な興味を呼んで興業的にも大成功、舞台の写真や吉本の手記が週刊誌に掲載されるなど一時はマスコミの注目を集めました。

当時、女装者愛好の男性としては第一人者だった鎌田意好(富貴クラブ会長)も、吉本について「ヌードは元これが男性だったとはとても思えない。・・・本物の女性以上かもしれない妖しい魅力があった」と語っています(『くいーん』22号)。
 
性転換ダンサーの系譜は、その後、銀座ローズ(武藤真理子 1960年手術)、ジュリアン・ジュリー(山本珠里 1968年手術)などを経て、カルーセル麻紀(1973年にモロッコで手術)へと受け継がれることになります。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第30号、2000年 11月)

【追記】吉本一二三関係の資料集成
【資料紹介①】「(話題スナップ)おとこからおんなになった性転換の妖艶ストリッパー」 
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2013-01-12
【資料紹介②】「(人物クローズアップ)舞台に賭ける性転換のストリッパー」
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2013-01-23
【資料紹介③】「性の転換をした人」
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2013-01-23-1
【資料紹介④】「男が女になったとき」
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2013-01-23-2
【資料紹介⑤】「男から女に性転換のストリッパー」
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2013-01-25
【資料紹介⑥】「男芸者ナンバー・ワンになるまで」
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2013-02-08
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日本女装昔話【第6回】女装スナック「梢」 ―新宿女装世界の原像 ― [日本女装昔話]

【第6回】女装スナック「梢」 ―新宿女装世界の原像 ― 1960~1970年代

新宿花園神社の裏手に昭和30年代の残り香をとどめるゴールデン街地区、その「花園五番街」のアーケードをくぐった左側の2軒目(手前の駐車場は著名な女装スナック『ジュネ』の旧跡)に、入口のサイドを鉄平石で化粧した建物があります。
今は無人で荒れ果てていますが、ここが新宿女装世界の原点とも言えるスナック「梢」があった場所なのです。
 
1967年(昭和42)2月、アマチュア女装秘密結社「富貴クラブ」の有力会員である加茂梢さんが新宿花園五番街にスナック「ふき」を開店しました。
これが東京における最初のアマチュア女装系の飲食店でした。
翌年2月、加茂グループは「富貴クラブ」を事実上除名され、1969年9月には店名を「梢」と改称し、独自の立場でアマチュア女装者の育成を開始します。
 
プロの女装従業員が男性客を接客するゲイバーと異なり、「梢」はアマチュア女装者が客あるいは臨時従業員(ホステス)として、女装者愛好の男性客と空間を共にするという新しい営業スタイルをとりました。

つまり、女装者と女装者愛好男性の「男女」の出会いの場としての機能をお店に持たせたのです。

「梢」の出現によって、プロの女装世界(ゲイバー)と純粋なアマチュア女装世界(富貴クラブ)の中間に女装スナックを場とする新宿のセミプロ的な女装世界の原型が形成されたのです。
 
加茂梢さんは、1923年(大正12)、静岡県浜松市に生れ、学徒出陣から復員して読売新聞社に入社して21年間在職された方です。

「富貴クラブ」の会員としてアマチュア女装から出発し、セミプロ、そしてプロの女装世界へという「華麗」な転身ぶりは、大新聞社の元社員という経歴もあって、当時のマスコミでかなり話題になりました。
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「富貴クラブ」時代の加茂梢さん(『風俗奇譚』1966年5月号)

『女性自身』『週刊ポスト』にロング・インタビューが掲載されたほか、テレビやラジオにも出演しています。
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全盛期の加茂梢さん(『女性自身』1969年9月6日号)

しかし、「梢」の創業とともに彼女の名を不朽にしたのは『風俗奇譚』1967年6月号から連載を開始した「女装交友録」でしょう。

1974年1月号まで足掛け8年80回に及ぶ長期連載となったこの随筆は、加茂梢というひとりの女装者の人生を記しただけでなく、彼女を取り巻く大勢の女装者の生態、そして新宿女装世界の揺籃期の記録として日本女装史の貴重な資料となりました。
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「梢」の前に立つ美人女装者。アシスタントの洋子さん(『風俗奇譚』1971年3月号) 
 
ところで、梢さんは1970年9月に『女装交遊録』という単行本を太陽文芸社から出版ています。
古本屋などをかなり探したのですが、まだ手に入っていません(コピーは入手できました)。
もし、お持ちの方がいらっしゃいましたら、譲っていただけたら、とってもうれしいのですが。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第29号、2000年 8月)
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日本女装昔話【第5回】女装秘密結社「富貴クラブ」(その2) [日本女装昔話]

【第5回】女装秘密結社「富貴クラブ」(その2)(1960~1970年代)

前回は1960年代から80年代に活動したアマチュア女装秘密結社「富貴クラブ」の基本姿勢と秘密管理の様子を取り上げました。今回は「富貴クラブ」の運営システムについて述べてみましょう。
 
従来の女装サークルに比べて「富貴クラブ」が大きく飛躍した点のひとつが、会員が共同で使える女装支度用の部屋「会員の部屋」を設けたことです。

1962年(昭和37)に中野区高円寺に会員有志が一室を借りたのが最初らしく、1964年春には会として新宿区柏木2丁目(現在の北新宿2丁目)に「会員の家」を開設しました。

その後、1965年夏に新宿区番衆町(現:新宿5丁目)に、1968年2月に新宿区諏訪町(現:西早稲田2丁目)に移り、1970年末頃に神宮外苑の森を見下ろせる東中野(中野区中央2丁目)の12階建てのマンションに落ち着きます。
 
この「中野の部屋」は3DK、その頃の住環境としては、かなり近代的な部屋だったようで、高層ビルを背景にベランダでポーズをとる会員の女装写真が残されています。

当時の会員は約80名、会費は月額1000円で、他に「部屋」を利用するたびに3000円を納める決まりだったそうです。

コーヒーが120円だった時代ですから決して安価ではありません。
「富貴クラブ」の会員が裕福な社会的エリート層中心だったことがうなづけます。

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中野の「会員の部屋」で

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「富貴クラブ」会員のポートレート(内野博子さん) 『風俗奇譚』1966年1月号

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「富貴クラブ」会員のポートレート(小山啓子さん) 『風俗奇譚』1966年3月号

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中野「会員の部屋」のベランダでバーベキュー・パーティ。
写っているのは、当時の「若手美人三人娘」の一人、夢野すみれさん(1973~74年頃)。

また、「部屋」には堀江オリエさんという女装のプロだった方が常駐していて、女装の指導と部屋の管理を担当してました。

単なる着替えの場に止まらず、新人女装者の育成の場という機能を持たせたところにも「富貴クラブ」の先進性がうかがえます。

こうした専任の美容指導員を置いた女装施設という発想は、1979年に開店する商業女装クラブ「エリザベス会館」のシステムの原型となり、また80年代以降の新宿の女装スナック「ジュネ」のシステムにも影響を与えたと思われます。
 
「富貴クラブ」のシステムでもうひとつ指摘しておきたいのは、男性会員の存在です。

鎌田会長がそうであったように自身は女装しない女装者愛好の男性たちで、人数的には全会員の1割程度と推測されますが、彼らは女装会員の外出時のエスコート役や恋人役として重要な役割を果たしていました。

ただ彼らと女装会員の関係の奥深い部分、つまりセクシュアルな関係については、現段階の調査では詳らかにできません。
 
このように「富貴クラブ」の実態を、残されている文献資料だけから明らかにするには限界があり、どうしても当時を知る方の口述資料が必要です。

20世紀の女装文化の歴史を正しく記録し未来に伝えるという趣旨をご理解の上で、匿名で結構ですのでインタビューに応じてくださる方がいらっしゃいましたら、ぜひ三橋までご一報ください。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第28号、2000年 5月)
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