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日本女装昔話【第24回】日本最初の性転換女性 永井明子 [日本女装昔話]

【第24回】日本最初の性転換女性 永井明子 1950年代

「性転換」という言葉、今でこそ耳にすることは珍しくなくなりましたが、わずか50年ちょっと程前までは、まだ空想科学小説の世界の話題でした。
 
世界で最初の「性転換」手術は、1930~31年にドイツのクロイツ医師の執刀でデンマーク人画家アイナー・ヴェゲネル(女性名:リリ・エルベ)に対して行われました。
しかし、彼女が卵巣移植手術後に死亡したこともあって、この手術に関する情報は十分に伝わりませんでした。
 
「性転換」が現実の話題になったのは、1952年2月にデンマークで女性への「性転換」手術を受けた元アメリカ軍兵士ジョージ・ジョルゲンセン(女性名:クリスチーヌ)の帰国のニュースが世界を駆け巡った1952年(昭和27)末のことでした。
 
日本でも1953年初から週刊誌などで大きな話題になり、マスコミは、同様の事例が日本でもないか探し始めます。
そして、同年秋になって、ついに「日本版クリスチーヌ」が「発見」されました。
 
それは、永井明(女性名:明子)の事例です。
第一報は「男が完全な女になる」「世紀の手術に成功」という見出しで報じた『日本観光新聞』9月4日号だったようです。
永井明子(『日本観光新聞』19530904) - コピー.jpg
『日本観光新聞』1953年9月4日号

これは仮名報道でしたが、すぐに9月18日号で、実名・写真(セミヌード&水着)入りで大きく報じられました。
永井明子(『日本観光新聞』19530918)1 - コピー.jpg
永井明子(『日本観光新聞』19530918)2 - コピー.jpg
『日本観光新聞』1953年9月18日号

さらに、『週刊読売』10月4日号が「日本版クリスチーヌ 男から女へ キャバレーの女歌手で再出発」と題した記事を掲載しました。
  
永井明子は、1924年(大正13)東京葛飾区亀有の生まれで、職工や事務員など職を転々とした後、聖路加病院に雑役夫として勤めていた時に、男性への愛情をきっかけに転性を決意します。

そして、1950年8月から51年2月にかけて東京台東区上野の竹内外科と日本医科大学付属病院で2回に分けて精巣と陰茎の除去手術と造膣手術を受け、さらに別の病院で乳房の豊胸手術を受けました。

インターセックスではなく、完全な男性からの「性転換」で、手術完了の時点では27歳でした。
ちなみに、手術の名目は「陰茎ガン」だったそうです。
永井明子(『日本週報』1954年11月5日号).jpg
「女らしく」花を生ける永井明子。転性3年後の写真。
(『日本週報』1954年11月5日号)

驚くべきことに、永井の手術の完了は「本家」のはずのクリスチーヌ・ジョルゲンセンよりも1年ほど早かったのです。
日本の性転換手術に関する技術は、当時、世界のトップレベルにあったことがうかがえます。
 
彼女は「性転換」女性として話題になった後、知名度を生かしてキャバレー歌手になりますが、「性転換」の話題性が薄れるとともに、マスコミから姿を消していきました。
 
その後、自称・他称含めて「性転換第一号」という報道はしばしば見られますが、いろいろな資料からして、永井明子こそが、日本における最初の性転換女性であることは、ほぼ間違い有りません。
 
もし、ご存命なら今年80歳を迎えたはず。昨今の「性転換」をめぐる状況をどう感じているか、お話をうかがいたいと思うのは私だけではないでしょう。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第47号、2005年2月)

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日本女装昔話【第23回】女装スナック『ジュネ』(その2) [日本女装昔話]

【第23回】女装スナック『ジュネ』(その2) 1978~2003年

2003年12月に閉店した新宿女装世界の老舗「ジュネ」(中村薫ママ)についての2回目です。
 
女装者と女装者好きの男性の「出会いの場」を設定するという営業スタイルとともに、「ジュネ」の繁栄をもたらしたもう一つのシステムが、女装会員制度と支度部屋でした。
 
いつの時代でも女装者にとって悩みの種は、着替えの場、化粧の場、そして女装道具を保管する場所の確保です。
 
「ジュネ」は、1985年頃に、店からほど近い新宿5丁目のマンションの一室を借り、店付属の女装支度部屋を開設しました。
会費を払った会員に支度部屋として利用させることで、女装者の悩みを解決するとともに、店に所属する女装者の確保をはかる一石二鳥のアイデアでした。
 
会員は、月会費(15000円)を払い、支度部屋を利用した日には、店に顔を出す義務をおいました、
その代わり、店での飲食代(非会員の女装者は4000円)は無料でした。
毎週1回のペースで店に通うならば、会員になった方が金銭的にも有利ということになります。
 
ただ、飲み代が無料である代わりとして、店では男性客の隣に座って話し相手になることを求められ、店が混んできてスタッフの手が足りなくなると、スタッフの仕事を補助する役割も期待されます。

とは言え、なにも仕事をしなくても、会員の女装者が安定的に店に来るだけで、女装者好きの男性客は喜ぶわけですから、店にとって会員制度のメリットは大きかったのです。
「ジュネ」薫ママ.jpg
「ジュネ」の中村薫ママ。花園五番街時代の撮影。
(提供:「ジュネ」会員、久保島静香さん)

気っ風が良く、面倒見の良い親分肌の薫ママのもとで、会員からは中山麻衣子、ニーナなど新宿女装世界を代表するすぐれた女装者が育ちました。

人望厚いママとレベルの高い女装会員、彼女たちを目当てに集まる女装者好きの男性客によって、1980年代後半から90年代前半にかけて、「ジュネ」は大いに賑わい、新宿女装世界の中核として君臨しました。
 
また、同じ頃、「ジュネ」のシステムを学んだスタッフや会員たちが、「嬢」「マナ」「アクトレス」「スワンの夢」「ミスティ」など、次々に独立出店していきます。
その範囲は、発祥の地であるゴールデン街地区だけでなく、新宿3丁目や2丁目にまで広がりました。
 
ここに女装スナックを拠点とする新宿のアマチュア女装世界が形成され、1990年代後半には、日本の女装世界の中心として盛況をみせることになります。
  
「梢」を根に「ジュネ」を太い幹とした樹は、大きく枝葉を広げたのでした。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第46号、2004年11月)

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日本女装昔話【第22回】女装スナック『ジュネ』(その1) [日本女装昔話]

【第22回】女装スナック『ジュネ』(その1) 1978~2003年

2003年12月25日、クリスマスの夜、新宿女装世界の老舗「ジュネ」(中村薫ママ)の灯が静かに消えました。

大勢の人たちに愛された薫ママの店、女装者好きの男性客と女装客が楽しい時間を共有した空間が、時の流れの中に消えていきました。
創業以来25年と2ヵ月。数々のすぐれた女装者を送り出した名門女装スナックの終焉でした。
 
「ジュネ」の開店は、1978年(昭和53)10月5日、ピンクレディの「透明人間」が大ヒットしていた頃です。

場所は、新宿花園神社の裏手に広がる木造飲食店の密集地域、「青線」(非公認売春地域)の雰囲気をかすかに残す花園五番街のアーケードをくぐって左側の2軒目の2階でした。
ジュネ.jpg 
『花園五番街、旧「ジュネ」の前に立つ女装者(久保島静香さん)。
1994年4月30日撮影。
右上の看板に「ジュネ」の「ュ」が読める。

この場所には、プロの男娼出身の田中千賀子ママの「千花」という店があったのですが、この年の7月に千賀ママが急逝したため、その跡を受けての開店でした。

旧「ジュネ」の棚の隅に、ずいぶん長い間、千賀さんの写真が飾ってあったのは、そのためです。
 
創業時のママはアマチュア女装出身の美樹さんで、当時、会社経営者だった薫さんはオーナーでありながら、アシスタントホステスとして店に出ていたそうです。

1984年5月、美樹ママが仕事の都合で関西に帰り、薫さんがオーナーママになると、人情家で面倒見の良い薫ママの人望を慕う人たちが集まり、店はどんどん活気づいていきました。
 
「ジュネ」のシステムの特徴は、女装者好きの男性客とアマチュアの女装者が空間を共にする点にあります。
プロのニューハーフがホステスとして男性客に接するのではなく、男性と女装者が共に客として出会い、おしゃべりし、お酒を飲んで楽しむという形でした。

店が男性と女装者の「出会いの場」になるというシステムを創始したのは、「ジュネ」の隣に在った新宿女装世界の元祖「梢」(加茂梢ママ、1967年2月開店。旧名「ふき」)でした。

1982年11月頃に廃業した「梢」の顧客と経営スタイルを引き継ぎ、「出会いの場」システムを確立したのが「ジュネ」だったのです。
 
花園五番街時代の「ジュネ」は、急な階段を上ったカウンターだけの狭い店。
詰めて座っても8人くらいがやっとだったと思います。

男と「女」の人口密度が高まれば、身体接触も多くなり、自然と親しさは増します。
親しくなった同士が薫ママに「ちょっと二人で散歩してらっしゃい」と促されて、店を出て八番街の「ホテル石川」へ、そんな妖しく賑やかな店でした。(続く)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第45号、2004年8月)

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日本女装昔話【第21回】アマチュア女装交際誌『くいーん』 [日本女装昔話]

【第21回】アマチュア女装交際誌『くいーん』1980~1990年代

2003年の年末、女装世界に衝撃が走りました。アマチュア女装交際誌『くいーん』(隔月刊 アント商事)の突然の廃刊です。
「休刊」が告示された12月発売号は142号、1980年(昭和55)6月の創刊から数えて23年6カ月目のことでした。
『くいーん』創刊号(1979年8月).jpg『くいーん』142号(最終2004年2月) (2).jpg
 
『くいーん』は、1979年8月、東京千代田区神田須田町に開店した日本初の本格的な商業女装クラブ「エリザベス会館」の広報媒体として創刊されました。

化粧やファッションなど女装に関するテクニックの紹介(ハウツー)と女装者の写真入り「求友メッセージ」(文通交際欄)の二本立てで、女装や女装者に関する情報が少なかった時代にあっては、圧倒的な影響力をもっていました。
 
キャンディ・ミルキィさんをはじめ名の有るアマチュア女装者で同誌と無縁であった人はたぶんいないでしょう。

女装者好きの男性にとっても女装者と交際するためのほとんど唯一の貴重な手づるでした。
 
また、1984(昭和59)年から誌上開催された「全日本女装写真コンテスト」は、唯一の全国規模の女装者のミスコンとして大きな支持を得て、最盛期には200人以上の参加者が集まり、毎年、熱く華麗な「女の闘い」を誌上でくりひろげました。
 
大賞受賞者には、白鳥美香さん(88年)、村田高美さん(92年、新宿歌舞伎町「たかみ」ママ)、岡野香菜さん(94年)、萩野静菜さん(99年、大阪堂山「マグネット」チーママ)など、後に『ニューハーフ倶楽部』のグラビアを飾るそうそうたる名前が、きら星のごとく並んでいます。

もう一つ触れておかなければならないことは、この雑誌が石川千佳子さん(筆名:石川みどり、梅子)という一人の女性編集者によって作り続けられたことです。

1984年に「女装マニア誌『くい~ん』編集長は22歳のピチピチギャル」として写真週刊誌に紹介されて以来20年。まさに女盛りの日々を女装雑誌にかけた感があります。
『くい~ん』編集長(『セクシーフォーカス』 1984年5月頃).jpg
1990年代初めくらいまでは、海外取材に基づく外国の女装事情の紹介や、学術的な論説など、現在から見ても水準以上の意欲的な記事が数多く掲載されました。

しかし、その後は、そうした意欲が感じられなくなり、ひたすらマンネリ化の道をたどった感があります。
 
編集長への権限の集中(「女帝」化)など批判はあったにしろ、一人の人間が20余年にわたって一つの雑誌を作り続けたことは、やはり偉業と言うしかありません。
その長年のご苦労に、心からの感謝を捧げたいと思います。
 
『くいーん』が1980~90年代のアマチュア女装者の量的拡大・質的向上に果たした功績は比類のないものがありました。

しかし、近年のEメールやインターネットの急速な普及は、同誌の柱である「文通交際欄」を完全に過去のものにしてしまいました。廃刊は、時間の問題だったのかもしれません。
 
ともかく、『くいーん』の廃刊は、私を含め同誌を故郷とする者にとって、一つの時代の終わりをしみじみと感じさせられた出来事でした。


(初出:『ニューハーフ倶楽部』第44号、2004年5月)

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日本女装昔話【第20回】女給志望の女装者 [日本女装昔話]

【第20回】女給志望の女装者 1930年代

第18回で「荒木繁子」という明治末期~大正期の有名女装者を取り上げました。
今回は、その後日談です。
 
『読売新聞』昭和11年(1936)12月1日の紙面に「これが課長さまの長男」「彼氏の“女百態”です」という、ちょっとおどけた大見出しとともに中年女性?の写真が載っています。
荒木繁子『読売新聞』1936年12月1日号.jpg
針仕事をしている姿と三味線をひいている場面の2枚で、「二度結婚、女教員、女給の半生」という小見出しがついています。
 
「職を探してください。家政婦でもなんでもいたします」と、新場橋警察署(現在の日本橋兜町)に訴え出たこの人物、林芙美子と名乗っていますが、本名が「繁」であること、出身地や経歴からして、『読売新聞』明治44年(1911)3月4日号に「美人に化けた荒木繁夫」として掲載された人物と同一人であることは間違いありません。
 
今回の記事によると、彼女の波乱の人生は次のようなものでした。
新聞に取り上げられた後、19歳で会社員の男性と「結婚」、岐阜県で2年間、妻としての生活を送っていましたが、21歳の時、徴兵検査のため本籍地の大分県に帰郷、女装で検査を受けたもののもちろん不合格。

ところが夫の元に戻ると、そこには本物の女性が妻として納まっていて、手切れ金200円(大金!)で泣く泣く離別。
 
その後、和歌山県で株屋の男性と「再婚」。
病身(結核)の夫に5年間尽くし、その間に女髪結を始め、夫に死別した後も女弟子2人を置く女髪結業で生計を立てていました。

ところが、同業者に男であることを見破られて店をたたみ上京、カフェーの女給や旅館の女中を点々としたあげく、職に困って警察署に願い出たのです。
 
そのことが新聞で報じられると、彼女が宿泊していた旅館には、小料理屋やカフェーから引き合いが殺到し、中にはわざわざ訪ねてきた経営者もいて、首尾良くカフェーの「女給」として就職が決まりました。
 
12月4日の『読売新聞』には、「ネオンの灯影に彼氏の女給ぶり」「願ひかなった女装の男性」という見出しとともに、日本橋茅場町のカフェーで男性客にお酌をする艶姿が掲載されています。
荒木繁子『読売新聞』1936年12月4日号.jpg
ただし、初日のチップは1円80銭で「ねぇ、これではあたしやってゆけないわ。お白粉代にもならないわよ」と彼女は嘆いています。

ちなみに当時の物価は、天丼が40銭、公務員の初任給が75円ですから、現在比で約2500倍くらいでしょうか。

とすると、彼女のチップは4500円見当になります(当時の女給はチップ制で固定給はありません)。
 
ところが、就職の喜びもつかの間、警視庁からの「男の女給はまかりならん」という無粋なお達しで、実働わずか2日で彼女は失職してしまいます。

理由は「善良な風俗を害し、大衆の猟奇心をそそる」というものでした。
 
さて、この文章の最初の方で「同一人であることは間違いありません」と書きましたが、実は一つだけ問題がありました。それは年齢です。
 
彼女が最初に新聞を賑わせたのは明治44年、19歳の時でした。
それから昭和11年まで25年の歳月が流れ、彼女は44歳になっているはずです。
ところが、昭和11年の新聞記事に記された年齢は、どうしても「四四」に読めません。
 
私の手元にあるのはCD-ROMの縮刷プリントなので、わざわざ国会図書館に行ってマイクロフィルムを拡大投影して確認しました。
そこに記された年齢は「三五」。彼女、9歳もサバを読んでいたことになります。

年齢のサバ読みは女心の常ですから、とやかく言うつもりはありません(私もさんざんサバを読みましたから)。
むしろ、それで通用したのですから見事と言うべきでしょう。
 
師走の寒空に再び失業の身となった彼女のその後はわかりません。
でも、ここまで女として生きたら、もう男の生活には戻れなかったでしょう。

もし、彼女が太平洋戦争の戦火をくぐって70歳まで生きたら、昭和37年(1962)まで存命のはず。
ちょっと怪しいおばあさんになっていたかもしれません。

会って、波瀾万丈の「女」の人生のお話を聞きたかったです。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第43号、2004年2月)

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日本女装昔話【第19回】錦絵新聞に描かれた明治の女装妻 [日本女装昔話]

【第19回】錦絵新聞に描かれた明治の女装妻 1870年代

前回に引き続き明治時代のお話です。
 
新聞が現在のような活字中心の紙面になる前、明治5年(1873)から8年間くらいの短い期間ですが、錦絵新聞というものがありました。
江戸時代に発達した木版画(浮世絵)の技法を用いた絵を中心に説明文を添えた一枚刷りの紙面で、新聞というよりも瓦版の発展形のようなものでした。
 
その一つ、日本で最初の日刊新聞『東京日々新聞』(明治5年2月創刊。現在の毎日新聞の前身)の明治7年(1875)10月3日号(813号)に興味深い記事があります。
女装妻(東京日日新聞18751002) (1).jpg
 
時は江戸時代末期、12代将軍徳川家慶の治世の嘉永3年(1850)、讃岐国(香川県)東上村に住むある夫婦に男の子が生まれました。
それまで子供を授かっても無事に育てられなかった夫婦は、この子供に「お乙」という名を付け、女の子として養育しました。
男の子がなかなか育たない場合には、女の子として養育すれば無事に育つという当時の風習に従ったのでした。
 
ところが、お乙は丈夫には育ったものの、あまりにも見事に「娘」として育ってしまったのです。
衣類、髪形、化粧まで娘そのもの、縫い物など娘としての素養もしっかり身につけ、しかも、なかなかに美しい容姿。
18歳になると高松藩の武家の屋敷に女中として奉公に上がりましたが、近隣の娘たちと戯れても誰も疑わないほどで、それをいいことに奉公先の娘と姦通事件を起こしたりします。
 
お乙が21歳になったころ(時代は明治になってます)、同国三木郡保元村で塗師を稼業とする早蔵という男が、お乙を見初めてしきりに口説きます。
困ったお乙は自分は女子ではないことを告白しますが、早蔵はお乙が男であることを承知で婚礼をあげ夫婦になります。

こうして3年間、お乙の「妻」としての歳月が平穏に過ぎていきました。

明治新政府は明治4年(1871)4月に戸籍法を発布し、翌5年に全国一律の「壬申戸籍」を作成しましたが、この戸籍作成作業の際に、お乙が男性であることが露見してしまいました。

25歳になっていたお乙は、丸髷(既婚女性の髪形)に結っていた長い髪を無残に切られ、男の姿にされてしまい、早蔵との結婚も無効にされてしまいます。
女装妻(東京日日新聞18751002) (4).jpg
お乙は「娘」時代に女性と性的関係を持ったことがあるように、まったくの女性的資質ではなかったようですが、生まれてからずっと女の子として育てられ「娘」になり、女性として生きることしかできなかったのでしょう。

そこに早蔵が現れ、「妻」としての生活を選んだのだと思います。

もし、新たに戸籍が作られなかったなら、二人は子供こそ出来ないものの、穏やかな夫婦生活を送れたかもしれません。
戸籍という近代の制度が、二人の幸せに水を差したのです。
 
錦絵には、ザンギリ頭ながら女物の着物姿で針仕事をするお乙と、その傍らでくつろぐ早蔵の姿が描かれています。

この絵の通りなら、お乙の性別が露見した後も、二人は別れることなく、事実上の「夫婦」として暮らしていたのかもしれません。もし、そうならば少しは気が休まる思いがします。
 
明治時代の幕開けは、文明開花という形で、人々の生活の生活を向上させ、意識を合理化しました。

性という側面でみれば、男の身体で生まれた者は男らしく男姿で、女の身体で生まれたは女らしく女姿でということが無条件に当たり前になったのです。

近代、それは、江戸時代的なあいまいな性、中間的な性の存在を許さない時代の到来だったのです。

【参考】
こちらは男装の女性の事例。
男装の女性(大阪錦画日々新聞紙 第24号).jpg
明治8年(1875)東京芝・高輪あたりで、借金の返済が滞り、貸主から暴行を受け芝・将監橋から身投げしようとしていた人力車夫。時次郎という男を、巡査が助けたところ、甲州出身で7年間も男装で暮らしていた女性であることが判明。
(『大阪錦画日々新聞紙』第24号)

【参考文献】
高橋克彦『新聞錦絵の世界(角川書店 1992年7月)
木下直之・吉見俊哉 『ニュースの誕生-かわら版と新聞錦絵の情報世界-』
(東京大学出版会 1999年11月)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第42号、2003年11月)

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日本女装昔話【第18回】明治時代の有名女装者、荒木繁子 [日本女装昔話]

【第18回】明治時代の有名女装者、荒木繁子 1910年代

平成の世も15年ともなると、明治生まれで存命の方も稀になり、明治時代は歴史そのものになろうとしています。

今までこのコーナーでは、昭和戦後の女装者の歴史を取り上げてきましたが、今回は、90年以上前の明治時代のお話です。
 
『読売新聞』明治44年(1911)3月4日の朝刊に「美人に化けた荒木繁夫」という見出しの記事が載っています。
荒木繁子(読売新聞19110304).jpg
しかも、この記事、小さいとはいえ写真入りなのです。当時の新聞の紙面には、写真は数えるほどしかありません。
記者や読者の興味津々な様子がうかがわれます。
荒木繁子 (3).jpg
当時の女性の流行の髪形である庇の張った束髪にやや面長の美貌を思わせるのこの写真、たぶん新聞に掲載された最初の女装写真ではないでしょう。
 
話題の主、荒木繁子(本名:繁夫)は、この時、花も盛りの19歳。
彼女、実は明治末~大正期にかけて「女性的男子」の典型としてちょっとした有名人でした。

この記事以外にも、性科学者として著名な田中香涯や澤田順次郎が論文や著書で繁子について述べています。

それぞれ内容が食い違うところもありますが、合わせて彼女の行状をたどってみましょう。
 
彼女は、専売局書記を勤める父の長男として名古屋市に生まれました。
年齢から逆算すると、明治26年(1893)の生まれです。
幼時から女のまねを好み、高等小学校卒業ころには、裁縫、生け花、茶の湯、琴、三味線と当時の女性の嗜みを一通り身につけ、芝居も風呂も女性と連れ立って行く始末でした。
持て余した両親は、彼女を広島県尾道の親戚に預けます。
 
ところが、そこでも化粧三昧の日々、とうとう18歳の春、髪もハイカラに結い、女性の姿となって家出、料理店の住み込み女給になって三原、岡山、姫路と山陽道を転々とし、5カ月ばかりいた料理店では、ハイカラ芸妓として評判を取ります。

その後、神戸で印刷所の女工をしていた時、ある男性に見初められて嫁入りしましたが、すぐに離縁となり、明治44年1月、生まれ故郷の名古屋に戻ってきました。

父の縁故を頼って行けば「荒木氏には長男はいたが、長女は聞いたことがない」と不審がられ、西洋料理店に雇われたものの落ち着けず、結局、名古屋市内の仏教慈恵学校の女教師を志望します。

しかし、教員の欠員がなく、炊事その他の雑務員として雇われることになりました。
 
ところが、不審な点有があるという密告によって警察に拘引されされてしまいます。
取り調べで犯罪には無関係として放免されましたが、男性であったことが露見してしまいました。
 
校長の好意で勤めは続けることはできたものの、新聞記者や物見高い人の来訪が多く、それを避けるために上京して神田淡路町あたりに住んでいるらしいという噂を記事にしたのがこの『読売新聞』だったのです。
 
ところで、繁子は別の記者に対して次のような希望を語っています。
「私はあくまでも女として世を送りたいのでございます。また、男ということを承知して嫁にもらってくださる人があれば、末永く添い遂げますわ」
 
その言葉の通り、繁子はいろいろな波乱の末、23歳の頃、ある人の世話で蚕糸会社員と結婚し、退職して郷里に帰る夫に従い、大正7年(1918)の時点では、岐阜県某村で夫、姑、小姑に嫁として仕える日々を送っていたようです。
 
繁子は、今の時代ならば、かなり典型的なMtFの性同一性障害と診断されるでしょう。
性を越えて生きたい、男として生まれながら女として人生を送りたいと願う気持ちは、明治時代も現代も変わりはないのです。
 
【参考文献】
田中香涯「女になりすました男」(『変態性欲』6-6 1925年6月)
澤田順次郎『変態性医学講話』(通俗医書刊行会 1934年6月)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第41号、2003年8月)

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日本女装昔話【第17回】和製ブルーボーイ、銀座ローズ [日本女装昔話]

【第17回】和製ブルーボーイ、銀座ローズ 1960年代

皆さんは、銀座ローズの名前をご存知ですか?。彼女は1960年代の日本で最も有名な性転換女性でした。

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美貌とスタイルの良さがわかりる(『100万人のよる』1963年3月号 季節風書房)
 
銀座ローズこと武藤真理子は、1930年(昭和5)、北海道旭川市で寿司屋を営む武藤家の長男(本名:隆夫)として生まれました。

子供の頃から女っぽく、小学生の時にはおかっぱ髪でランドセルの上に赤いショルダーバッグを下げて通い、中学生の夏休みには女装して子役の踊り子として興行師とともに北海道中を巡業したそうです。
 
1958年(昭和33)に大阪OSミュージックで本格的な舞台デビューをして「謎の舞姫」として話題になり、60年頃に去勢手術、62年頃に大阪曾根崎の荻家整形外科病院で造膣手術を受けました。
 
その翌年の1963年の暮、フランスはパリの「カルーゼル」の性転換ダンサーたちが来日公演して大きな話題になり「ブルーボーイ・ブーム」が起こりました。

銀座ローズは「和製ブルー・ボーイ」ダンサーとしてその波に乗り、興行界を賑わせることになります。

彼女の舞台は、幼い頃から鍛えた和洋両方の踊りに加えて歌も上手、その女性的な美貌もあって人気を呼び、1965~66年頃の全盛期には一般の週刊誌などにも数多く紹介されています。
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銀座ローズのステージ (『風俗奇譚』1965年1月臨時増刊)
 
当時、「和製ブルー・ボーイ」として彼女のライバルだったのが、1964年に日劇ミュージックホールでデビューしたカルーセル麻紀でした。

とは言え、まだ性転換手術を完了していなかったカルーセルに対し銀座ローズは性転換済みで、興行実績的にも彼女に軍配が上がります。
 
舞台以外に彼女を有名にした要素が二つありました。
一つは彼女が男性と「結婚」(夫が彼女の弟として入籍)生活を営んでたことで、1961年には盛大な結婚式を上げ「妻になった男」として話題になりました。
銀座ローズ(『100万人のよる』6303)2.jpg
「妻になった男」(『100万人のよる』1963年3月号 季節風書房)

もう一つは、妹の静子との対照です。
静子は女性的な兄とはまったく逆で「荒縄のおシズ」の異名をとったほど男性的で、成人後は男装で過ごし「シー坊」と呼ばれ、兄の真理子と共に「性を取り替えた兄妹」としてマスコミに紹介されました。
 
ところで、銀座ローズのことを書こうと思いながら、なかなか書けなかったのは、彼女の生年が確定できなかったからでした。

全盛期のインタビューなどでは巧みにごまかして年齢を明らかにしていません。
彼女についての最も新しい記事である「戦後風俗史オトコとオンナの証人たち」(『FOCUS』1995年8月29日臨時増刊号)に基づけば、1936年(昭和11)旧満州の生れとなりますが、どうも話の辻褄が合わないところがありました。

今回、彼女に関する初期の記事が見つかり、1930年、北海道生まれとやっと確定できました。
年齢のサバを読むのは女心の常ですし、また営業的にもある程度は必要なこと。

私もさんざんサバ読みをしたので、人のことを非難できませんが、社会史研究者としてはとても苦労させられました。
 
彼女の生年が明らかになったことによって、その全盛期が短かったのは、年齢が理由ではなかったかという推定が浮かんできました。

大阪でのデビューが28歳、人気を得た1965年にはすでに35歳だったことになります。
ライバルのカルーセル麻紀(1942年生)とはちょうど一回り12歳の差ですから、60年代末に、銀座ローズがブルーボーイ・ダンサーのトップの座を、カルーセルに明け渡さざるを得なかったのも仕方がないことでした。
 
銀座ローズは、1967年にホストクラブ「ヘラクレス」を、88年には浅草でゲイバー「銀座ローズ」を開店し、ママとして店の経営に腕をふるう一方で、31年間連れ添った旦那さんと娘さん(養女)を育てあげました。
 
高度経済成長期の夜を妖しく彩った名花の「女の一生」は、意外に家庭的だったのかもしれません。

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銀座でショッピングする銀座ローズ (『風俗奇譚』1965年1月臨時増刊)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第40号、2003年5月)

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日本女装昔話【第16回】女装芸者の活躍(その2) [日本女装昔話]

【第16回】女装芸者の活躍(その2) 1970年代~現代

前回に引き続き、男性でありながら、女性の芸者と同じような姿で、お座敷で芸を披露し接客をする女装芸者の足跡をたどります。
 
伊東温泉の「チャコ」や雄琴温泉の「よし幸」に少し遅れて、静岡県熱海温泉に「お雪」という女装芸者がいました。
熱海温泉のお雪.jpg
熱海の「お雪」 (『女性自身』1975年10月30日号)

ゲイボーイ出身で、1969(昭和44)に熱海の芸者置屋の看板を買ったのですが、地元の幇間や芸者衆から「男が芸者になるなんて」という反対の声があがりました。

しかし、猿若流の踊りの名手である彼女の芸と熱意が実って、熱海料芸組合の承認が得られ、芸者として検番登録されることになりました。

芸者2人を抱える置屋の女将でありながら自らもお座敷に出て稼ぎ、デビィ・スカルノ夫人など芸能人、著名人の贔屓客も多かったようです。
 
このように1970年代までは日本の各地で女装芸者が活躍し、地域社会でそれなりに受け入れられ、遊興客の人気を集めていたことがわかります。
 
ところで、MtFの(男性から女性への)トランスジェンダーの基本は、女性の形態を模倣することにあります。
その模倣は外的形態(ファッション)だけではなく職業形態をも模倣します。
例えば、娼婦に対する女装男娼、ホステスに対するゲイボーイ、女性ダンサーに対する女装ダンサーという具合です。

つまり、MtFトランスジェンダーの有り様は、一種のコピー文化であるとも言えるのです。
ですから、芸者が輝いていた時代に、そのコピーとしての女装芸者が存在したのも、当然なのかもしれません。
 
私が中央大学の2000年度の講義で女装芸者についてちょっと話をしたところ、山口県の湯田温泉出身の学生が「母に聞いた話ですが、湯田にもそういう人がいたそうです」とレポートに書いてくれました。
絶対数こそ少ないものの、けっこうあちこちに女装芸者はいたのではないでしょうか。

現在、女装芸者は東京向島の「真紗緒」(芸者で検番登録)ただ一人になってしまったと思われます。
女装芸者(向島・真佐緒・『週刊大衆』870209).jpg
向島の「真紗緒」 (『週刊大衆』1987年2月9日号)

真紗緒姐さんの場合はゲイバーの経営者から芸者好きが昂じての転身でしたが、やはり幇間の強い反対があり、1987年(昭和62)に芸者として認められるまでには紆余曲折があったようです。
今ではなかなかの人気でお座敷を勤めていらっしゃいます。
女装芸者(向島・真佐緒・2001年)2.jpg
真紗緒姐さんと私。「陽気な下町のおばちゃん」という印象。
(2001年10月26日「向島踊り」で)
 
日舞と長唄をよくする真紗緒姐さんを含めて女装芸者たちの特色は、踊りにしろ唄にしろ、客を引き付けるに十分なだけの技量を持っていたということです。
伊東温泉の「チャコ」のように、それに加えて本物の女性の芸者では披露をはばかるような芸(ストリップ)を持っている例もありました。
 
女装芸者であるという話題性・希少性、はっきり言えばゲテモノ性が彼女たちの人気の起点になっていることは否定できませんが、それだけでは人気は継続できなかったでしょう。

やはり、お座敷というミニ興行的な場を支えるだけの芸能が必要だったのです。
 
女装芸者は、性別越境者の芸能・飲食接客業という伝統的な職能を示すものとして、きわめて興味深い存在です。
江戸時代の陰間の伝統を受け継いだものとも考えられますし、現代のニューハーフの有り様の原像とも評価できます。
また性別越境者と興行という視点から見てもゲイバーのショーの源流のひとつとして考えられるかもしれません。
 
明治~昭和期にどれほどの女装芸者が存在したのか、その実態を解明することは今となっては難しいのが残念です。
女装芸者について、なにかご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひご教示ください。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第39号、2003年2月)

【追記】
真紗緒姐さんは、その後、残念ながら逝去され、現在(2020年)、女装芸者は、大井海岸のまつ乃家栄太郎さん(ご本人の名乗りは「女形芸者」)ただ1人になっています。
女装芸者(大井・まつ乃家・ 栄太朗) 3.jpg

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日本女装昔話【第15回】女装芸者の活躍(その1) [日本女装昔話]

【第15回】女装芸者の活躍(その1) 1960年代

女装芸者という存在をご存じでしょうか?。
 
かって日本各地の花街には、お座敷で様々な芸を披露する幇間(たいこもち)という男性芸能者がいました。
彼らを「男芸者」と呼ぶことがありましたが、これから紹介しようとするのは、それとは異なり、男性でありながら、女性の芸者と同じような姿で、お座敷で芸を披露し接客をする人たちです。
 
芸者という身分は、戸籍上の女性でなければなれないものだったので(戦前は鑑札制、戦後は検番登録制)、女装芸者の多くは非公認の存在でした。
しかし、言わば「芸者もどき」のこの手の人たちは、数こそ少ないものの日本各地の温泉地などにいたらしいのです。

今回と次回は、今は忘れ去られつつある女装芸者の足跡をたどってみたいと思います。
 
昭和の初め頃、栃木県の塩原温泉に「おいらん清ちゃん」という有名人がいました。
腕の良い髪結い職人である清ちゃんは、戸籍上は立派な男でありながら、日常の身なりも性格も女そのもので、女装には厳しい社会環境だった時期にもかかわらず、地域の人にも「女」として受け入れられていました。

清ちゃんのことが新聞で報道されると、塩原温泉に遊ぶ客の中には「清ちゃんを呼んで」と頼む人も多くなりました。

すると清ちゃんは、濃化粧に髪を結い上げた芸者姿で座敷に上がり、三味線と踊りを披露し、チップをもらっていました。
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塩原温泉の清ちゃん(右) (『風俗奇譚』1965年8月号)

写真を見ても並の女よりはるかに美貌だったようで、その人気のほどは、昭和4年(1929)1月1日(日付に注目)の読売新聞に清ちゃんの写真入りインタビュー記事が掲載されていることからもしのばれます。
 
清ちゃんが人気になる少し前、大正14年(1925)7月29日の読売新聞は、茨城県の平磯(現:那珂湊市)の大漁節の名手、女装芸者「兼ちゃん」を紹介しています。
兼ちゃんは、大酒飲みだったようですが、喉の良さに加えての美貌、「男が大好き」という媚態で人気者でした。

戦後になると女装芸者があちこちの温泉地で活躍し始めます。
栃木県の鬼怒川温泉には、昭和34年(1959)頃、「きぬ栄」という若くて美人、踊りも三味線も巧みな売り出し中の人気芸者がいました。
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鬼怒川温泉のきぬ栄(市ちゃん) (『風俗奇譚』1967年1月臨時増刊号)

彼女が市左衛門という立派な名前をもつ男性だったことが『週刊文春』の報道を通じて明らかになったのは、身請けされた旦那に結婚を迫られ困った彼女が故郷に逃げ帰ってからのことでした。
つまり、彼女は置屋の女将の計らいで、女性の芸者として登録されていたのです。(詳しくは「日本女装昔話 番外編1 女装芸者『市ちゃん』」を参照ください)

静岡県の伊東温泉には、昭和39年(1964)頃、『アサヒ芸能』などで紹介されて有名になった女装芸者チャコがいました。
女装芸者(伊東温泉チャコ).jpg
伊東温泉のチャコ (『風俗奇譚』1964年1月臨時増刊号)

チャコは藤間流の日舞の名取で、修行を積んだ踊りの基礎を生かしたお座敷ストリップ芸が得意業。おまけに歌も歌えて、女の芸者より色っぽいということで、花代(一座敷のギャラ)が一般の芸者の数倍という高値にもかかわらず、引っ張りだこの盛況でした。
 
同じころ伊東温泉には、もう一人の女装芸者がいました。
温泉街の「リオ」というキャバレーで女装ホステスしていたサトコです。彼女も呼び出しがあると、酒席に上がり、踊りを披露していました。
伊東温泉のサト子 (『風俗奇譚』1964年1月臨時増刊号).jpg 
伊東温泉のサト子 (『風俗奇譚』1964年1月臨時増刊号)
 
やはり同じころ、滋賀県雄琴温泉に「よし幸」という女装芸者がいました。
芝居の女形の前歴を生かした踊りで売れっ子でした。
雄琴温泉のよし幸 (『アサヒ芸能』1968年3月17日号).jpg
雄琴温泉のよし幸 (『アサヒ芸能』1968年3月17日号)

しかし、彼女の名が全国に知られるようになったのは、女性への性転換手術を受けことからでした。
しかも半陰陽(インターセックス)だった彼女は、1966年5月に戸籍も男性から女性へ変更し、複数の週刊誌が「性転換芸者」として大きく取り上げました。
 
このように1960年代までは日本の各地で女装芸者が活躍し、地域社会の中でそれなりに受け入れられていたのです。

なお、本稿は、鎌田意好「異装心理と女装者列伝」(『風俗奇譚』1965年8月号)などを参照しました。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第38号、2002年 11月)

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