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日本女装昔話【第11回】愛と芸に生きた女形 曾我廼家桃蝶 [日本女装昔話]

【第11回】愛と芸に生きた女形 曾我廼家桃蝶 1920~1970年代

白地に朝顔、桃、椿を日本画で描いた表紙、題字は「芸に生き、愛に生き」、表紙見返しは鮮やかな緋色、口絵写真には日本髪の女性の艶姿。
何も知らずに手に取ったら、女優さんの回想録と思ってしまうこの本の著者は、昭和の演劇界で一世を風靡した名女形、曾我廼家桃蝶(そがのや ももちょう)なのです。
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曾我廼家桃蝶『芸に生き、愛に生き』(六芸書房、1966年11月)のカバー

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曾我廼家桃蝶の艶姿。和装と洋装。

桃蝶は、本名を中村憬(さとる)といい、1900年(明治33)、島根県浜田市に生まれました。
10歳の時、父の仕事先の朝鮮京城(ソウル)に移住し、姉の手ほどきで初化粧・初女装を経験します。
子供時代から芝居、とりわけ女形に強い興味を抱き、役者を志望する女らしい少年でした。

18歳で単身帰国、新派役者桃木吉之助に入門して演劇界入りします(芸名:桃谷婦似男→美智夫)。
そして、入座してわずか10日後に急病の中堅女形の代役として京都座で初舞台(女学生役)を踏みます。
1924年(大正13)、著名な女形花柳章太郎の一座に加わり、以後、男性との恋愛を糧に女形としての芸を磨き、1930年(昭和5)、30歳の時、曾我廼家五郎一座に入座します。
そして、天性の美貌とあふれんばかりの色気が売りの花形女形となり、1966年(昭和41)の引退まで新派を代表する女形の一人として活躍しました。
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曾我廼家桃蝶の舞台姿

引退に当たって出版されたこの回想録は、6つの手紙と5つの手記を交互に配置する構成で、序文で、彼女は「女性を愛することの適わぬ男性」であり、男らしさが「どこにも全く無い」人間であることを「強いてかくそうととは一度もしたこと」がない、と「同性愛」と「女性的性向」を告白しています。

実際、その生い立ちや経歴を読むと、彼女の意識や言動はほとんど女性そのもので、女性として男性を愛していることがわかります。
 
帯に「男が男を恋うる異常な愛とセックスの大胆きわまる告白!」と記されているように、彼女の「性」の有り様は、当時の概念では「男性同性愛」と認識されていました。

現在なら、性自認が女性に強く傾いてることから、確実にMTFTG(男性から女性への性別越境者)の範疇に入るものでしょう。
 
今まで同性愛(もしくはトランスジェンダー)を明確に告白した自伝としては、1966年12月に出版された東郷健『隠花植物群』(宝文書房)が日本では最初とされてきました。
しかし、桃蝶の『芸に生き、愛に生き』(六芸書房)は、1966年11月の発行で、わずかですがそれを溯ることになります。

ところで、女装者愛好家として著名な鎌田意好氏(西塔哲「富貴クラブ」会長)は、曾我廼家五郎劇団と桃蝶について次のように述べています。
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この劇団(曾我廼家五郎劇団)ほど、多士済々の美しい女形をそろえたところは、他に見られないほどで、まさに、女形王国の観があった。
これは、座長の五郎が、有名なカマ掘り師だったので、地方、小劇団を問わず、奇麗な若い女形をかたっぱしから抜いて一座に加えたからで、その節、座長が吟味、毒味をすることはいうまでもない。
当然の結果として、ほとんどの女形が「カマ」であった。
 
曾我廼家五郎劇を見たことのない人でも、その道の人の間で、桃蝶の名を知らない人はないくらい有名な、女形というより女そのものであるかも知れない。新派の桃木吉之助の弟子で、前名を桃谷三千雄といい、曾我廼家五郎劇団に移り、桃蝶の芸名で舞台にたつや、たちまちその美貌とあふれるようなお色気で観客を魅了し去り、女形王国の五郎劇団でも、女形として最高の人気を占め、先輩大磯を抜いて立女形の位置を占めてしまった。
 
素顔で会った感じでは、舞台のお色気あふれるような、女装顔も想像できないような、失礼だが、平凡な容貌だが、一度化粧をすると、女形というより、女そのものとしての、息苦しいまでの女の魅力を発散する。芸者、メカケなどの役どころがいちばんピッタリするようだった。
私生活でも、男出入りの激しさもまた相当なもので、エピソードの多い人だ。
(鎌田意好氏「異装心理と異性装者列伝-女形の巻(1)-」『風俗奇譚』1965年4月号)
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桃蝶のような生まれつきの性別(男)では生きていけない人のための職業として、日本の伝統社会には、祭祀(巫人)、芸能(女形)、セックスワーク(陰間)の職業カテゴリーが用意されていました。

桃蝶の時代の演劇界は、まだ男性から女性への性別越境者がその特性と才能を生かして生きていく余地が残っていた世界だったのです。

ところが、戦後になると、男性から女性への性別越境者の居場所は、演劇界でも失われてしまいました。
 
桃蝶の引退と、衝撃的な自叙伝の刊行は、そうした風潮へのささやかな抵抗だったのかもしれません。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第34号、2001年 11月)

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