日本女装昔話【第19回】錦絵新聞に描かれた明治の女装妻 [日本女装昔話]
【第19回】錦絵新聞に描かれた明治の女装妻 1870年代
前回に引き続き明治時代のお話です。
新聞が現在のような活字中心の紙面になる前、明治5年(1873)から8年間くらいの短い期間ですが、錦絵新聞というものがありました。
江戸時代に発達した木版画(浮世絵)の技法を用いた絵を中心に説明文を添えた一枚刷りの紙面で、新聞というよりも瓦版の発展形のようなものでした。
その一つ、日本で最初の日刊新聞『東京日々新聞』(明治5年2月創刊。現在の毎日新聞の前身)の明治7年(1875)10月3日号(813号)に興味深い記事があります。
時は江戸時代末期、12代将軍徳川家慶の治世の嘉永3年(1850)、讃岐国(香川県)東上村に住むある夫婦に男の子が生まれました。
それまで子供を授かっても無事に育てられなかった夫婦は、この子供に「お乙」という名を付け、女の子として養育しました。
男の子がなかなか育たない場合には、女の子として養育すれば無事に育つという当時の風習に従ったのでした。
ところが、お乙は丈夫には育ったものの、あまりにも見事に「娘」として育ってしまったのです。
衣類、髪形、化粧まで娘そのもの、縫い物など娘としての素養もしっかり身につけ、しかも、なかなかに美しい容姿。
18歳になると高松藩の武家の屋敷に女中として奉公に上がりましたが、近隣の娘たちと戯れても誰も疑わないほどで、それをいいことに奉公先の娘と姦通事件を起こしたりします。
お乙が21歳になったころ(時代は明治になってます)、同国三木郡保元村で塗師を稼業とする早蔵という男が、お乙を見初めてしきりに口説きます。
困ったお乙は自分は女子ではないことを告白しますが、早蔵はお乙が男であることを承知で婚礼をあげ夫婦になります。
こうして3年間、お乙の「妻」としての歳月が平穏に過ぎていきました。
明治新政府は明治4年(1871)4月に戸籍法を発布し、翌5年に全国一律の「壬申戸籍」を作成しましたが、この戸籍作成作業の際に、お乙が男性であることが露見してしまいました。
25歳になっていたお乙は、丸髷(既婚女性の髪形)に結っていた長い髪を無残に切られ、男の姿にされてしまい、早蔵との結婚も無効にされてしまいます。
お乙は「娘」時代に女性と性的関係を持ったことがあるように、まったくの女性的資質ではなかったようですが、生まれてからずっと女の子として育てられ「娘」になり、女性として生きることしかできなかったのでしょう。
そこに早蔵が現れ、「妻」としての生活を選んだのだと思います。
もし、新たに戸籍が作られなかったなら、二人は子供こそ出来ないものの、穏やかな夫婦生活を送れたかもしれません。
戸籍という近代の制度が、二人の幸せに水を差したのです。
錦絵には、ザンギリ頭ながら女物の着物姿で針仕事をするお乙と、その傍らでくつろぐ早蔵の姿が描かれています。
この絵の通りなら、お乙の性別が露見した後も、二人は別れることなく、事実上の「夫婦」として暮らしていたのかもしれません。もし、そうならば少しは気が休まる思いがします。
明治時代の幕開けは、文明開花という形で、人々の生活の生活を向上させ、意識を合理化しました。
性という側面でみれば、男の身体で生まれた者は男らしく男姿で、女の身体で生まれたは女らしく女姿でということが無条件に当たり前になったのです。
近代、それは、江戸時代的なあいまいな性、中間的な性の存在を許さない時代の到来だったのです。
【参考】
こちらは男装の女性の事例。
明治8年(1875)東京芝・高輪あたりで、借金の返済が滞り、貸主から暴行を受け芝・将監橋から身投げしようとしていた人力車夫。時次郎という男を、巡査が助けたところ、甲州出身で7年間も男装で暮らしていた女性であることが判明。
(『大阪錦画日々新聞紙』第24号)
【参考文献】
高橋克彦『新聞錦絵の世界(角川書店 1992年7月)
木下直之・吉見俊哉 『ニュースの誕生-かわら版と新聞錦絵の情報世界-』
(東京大学出版会 1999年11月)
(初出:『ニューハーフ倶楽部』第42号、2003年11月)
前回に引き続き明治時代のお話です。
新聞が現在のような活字中心の紙面になる前、明治5年(1873)から8年間くらいの短い期間ですが、錦絵新聞というものがありました。
江戸時代に発達した木版画(浮世絵)の技法を用いた絵を中心に説明文を添えた一枚刷りの紙面で、新聞というよりも瓦版の発展形のようなものでした。
その一つ、日本で最初の日刊新聞『東京日々新聞』(明治5年2月創刊。現在の毎日新聞の前身)の明治7年(1875)10月3日号(813号)に興味深い記事があります。
時は江戸時代末期、12代将軍徳川家慶の治世の嘉永3年(1850)、讃岐国(香川県)東上村に住むある夫婦に男の子が生まれました。
それまで子供を授かっても無事に育てられなかった夫婦は、この子供に「お乙」という名を付け、女の子として養育しました。
男の子がなかなか育たない場合には、女の子として養育すれば無事に育つという当時の風習に従ったのでした。
ところが、お乙は丈夫には育ったものの、あまりにも見事に「娘」として育ってしまったのです。
衣類、髪形、化粧まで娘そのもの、縫い物など娘としての素養もしっかり身につけ、しかも、なかなかに美しい容姿。
18歳になると高松藩の武家の屋敷に女中として奉公に上がりましたが、近隣の娘たちと戯れても誰も疑わないほどで、それをいいことに奉公先の娘と姦通事件を起こしたりします。
お乙が21歳になったころ(時代は明治になってます)、同国三木郡保元村で塗師を稼業とする早蔵という男が、お乙を見初めてしきりに口説きます。
困ったお乙は自分は女子ではないことを告白しますが、早蔵はお乙が男であることを承知で婚礼をあげ夫婦になります。
こうして3年間、お乙の「妻」としての歳月が平穏に過ぎていきました。
明治新政府は明治4年(1871)4月に戸籍法を発布し、翌5年に全国一律の「壬申戸籍」を作成しましたが、この戸籍作成作業の際に、お乙が男性であることが露見してしまいました。
25歳になっていたお乙は、丸髷(既婚女性の髪形)に結っていた長い髪を無残に切られ、男の姿にされてしまい、早蔵との結婚も無効にされてしまいます。
お乙は「娘」時代に女性と性的関係を持ったことがあるように、まったくの女性的資質ではなかったようですが、生まれてからずっと女の子として育てられ「娘」になり、女性として生きることしかできなかったのでしょう。
そこに早蔵が現れ、「妻」としての生活を選んだのだと思います。
もし、新たに戸籍が作られなかったなら、二人は子供こそ出来ないものの、穏やかな夫婦生活を送れたかもしれません。
戸籍という近代の制度が、二人の幸せに水を差したのです。
錦絵には、ザンギリ頭ながら女物の着物姿で針仕事をするお乙と、その傍らでくつろぐ早蔵の姿が描かれています。
この絵の通りなら、お乙の性別が露見した後も、二人は別れることなく、事実上の「夫婦」として暮らしていたのかもしれません。もし、そうならば少しは気が休まる思いがします。
明治時代の幕開けは、文明開花という形で、人々の生活の生活を向上させ、意識を合理化しました。
性という側面でみれば、男の身体で生まれた者は男らしく男姿で、女の身体で生まれたは女らしく女姿でということが無条件に当たり前になったのです。
近代、それは、江戸時代的なあいまいな性、中間的な性の存在を許さない時代の到来だったのです。
【参考】
こちらは男装の女性の事例。
明治8年(1875)東京芝・高輪あたりで、借金の返済が滞り、貸主から暴行を受け芝・将監橋から身投げしようとしていた人力車夫。時次郎という男を、巡査が助けたところ、甲州出身で7年間も男装で暮らしていた女性であることが判明。
(『大阪錦画日々新聞紙』第24号)
【参考文献】
高橋克彦『新聞錦絵の世界(角川書店 1992年7月)
木下直之・吉見俊哉 『ニュースの誕生-かわら版と新聞錦絵の情報世界-』
(東京大学出版会 1999年11月)
(初出:『ニューハーフ倶楽部』第42号、2003年11月)
2020-07-24 18:36
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