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日本女装昔話【番外編・第5回】一流ホテルと契約した女装歌手 橘アンリの夢 [日本女装昔話]

一流ホテルと契約した女装歌手 橘アンリの夢 (1969年)

もうほとんどの人は忘れてしまっているでしょうが(生まれていない?)、1960年代後半という時代は、高度経済成長期の真っ只中であると同時に「性転換」ブームと呼べるような時代でした。

1965年10月に性転換手術を行った医師が優生保護法違反で摘発された「ブルーボーイ事件」がきっかけになり、その判決(有罪)が確定する1970年ころまで、マスコミはともかくやたらとこの種の情報を流しまくったからです。
 
国内では、雄琴温泉の性転換芸者よし幸、性転換ダンサー銀座ローズ、同ジュリアン・ジュリーなど、海外ネタではオーストリアの有名女子スキー選手の男性への性転換、アメリカの性転換女性作家の妊娠騒動、イギリスの性転換女性アッシュレー夫人の離婚裁判などが報じられました。

カルーセル麻紀が売り出したのも、丸山(美輪)明宏が三島由紀夫脚本の「黒蜥蜴」に女優として主演して大ヒットしたのもこの時代でした。
 
そんな時代に咲いた花のひとつが女装歌手橘アンリ(21 自称)でした。

彼女は、1969年9月に東京赤坂のホテル・ニュージャパンと「女性」歌手として出演契約を結んで話題になった人です。
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歌う橘アンリ(『週刊新潮』 1969年6月28日号)

混血女性のような顔だちきゃしゃな首、スラリとした脚、ミニドレス姿で週3回、のレストランのステージに立ち、シャンソンやカンツォーネを歌いました。

声はやはり低音、それでも外人がほんとんどの客にはOKだったようです。
 
彼女は、四国の松山で6人兄弟の末っ子に生まれ、小学校時代に両親と死別し、4人の姉に囲まれて、しゃべる言葉は女言葉、姉たちの感性を自分の感覚として成長しました。

中学2年の時、ゲイの大学生にフェラチオされて目覚め、野球の名門松山商業高校時代もオネエ言葉で通したそうです。

卒業後は上京して会計事務所に勤めましたが1年半しか続かず、四谷のゲイバー「一力茶屋」へ入店、ゲイボーイとして「女」を磨きました。

そして、芸能マネージャーの目に留まり、9カ月の歌のレッスンの後、めでたくデビューとなりました。
 
東京オリンピック(1964年)前後の赤坂は、ちょっと不良っぽい外人が多く、インターナショナルで怪しい雰囲気の街でした。

ブルーボーイ・ショーで評判になった「ゴールデン赤坂」などショーを売り物にするクラブやゲイバーも多く、そう、現在の六本木と新宿歌舞伎町を混ぜたような感じかもしれません。

アンリはそうした街に咲いた妖しい一輪の花だったのです。
 
「彼女の場合は美少年で売ってるのでしょう。わたしは外見もこの通り女だし、女として売ってるの」。
アンリは、当時売り出し中のピーターにライバル意識を燃やしていました。
しかし「歌手として一流に」という彼女の夢はかないませんでした。
ライバル視したピーター(池畑慎之介)のその後の大活躍とは比べる術もありません。
橘アンリ「甘い生活」.jpg
橘アンリ「甘い生活」(1970年)

アンリが歌った13年後、ホテル・ニュージャパンは紅蓮の炎に包まれ、死者33人の大惨事を起こします。
そのニュースをアンリはどこでどうして見ていたのでしょうか。
 
参考資料 :『週刊文春』1969年10月20日号

(初出:『ニューハーフ倶楽部』 第34号、2001年11月)

【追記】
トランスジェンダー歌手については、下記をご覧ください。
三橋順子「トランスジェンダー歌謡の歴史」
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2017-01-07
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日本女装昔話【番外編・第4回】新劇女優を目指した男性 花井優子の挑戦 [日本女装昔話]

新劇女優を目指した男性 花井優子の挑戦 (1978年)

歌舞伎に代表される日本の伝統的な演劇は、女形と深い関係があります。
しかし、そうした歌舞伎(旧劇)に対抗してヨーロッパの演劇の影響下に始まった新劇は、女優中心で(例外的な劇団を除いて)女形が舞台に起用されることは稀でした。
 
そうした性別の区分がうるさい新劇の世界で「女優」を目指した一人の男性がいました。
1978年に演劇集団「円(えん)」の研究生に採用された花井優子(25)です。
 
長男として生まれた「彼女」は、母親の化粧品を塗っては鏡の前でうっとりする子供時代を経て、中学3年の時、担任の男性教師に犯され、完全に「女」に目覚めてしまいます。

ちょうどその頃、新劇の大物女優「文学座」の杉村春子の公演「女の一生」を見て感動し、新劇女優になる夢を抱きます。
 
大学進学を機に上京、テレビで見た赤坂のゲイ・クラブ「ジョイ」のママ(マダム・ジョイ)の美しさに魅せられて、女装して19歳でゲイ・クラブでアルバイトを始め、大学は2年で中退。

このままだったら典型的なゲイボーイのコースでしたが、彼女は仕事のかたわら芝居見学を続けます。

23歳の時、日本国内で去勢手術を受け、また一歩、女に近づき、そして、25歳になったこの年、ついに念願かなって「円」の研究生に採用されたのです。
 
身長168cm、体重47kg、B84W58H85というスレンダーなボディは、外見的にはほとんど女性。しかも写真のように、ちょっとエキゾチックな美形です。
花井優子.jpg
花井優子(『週刊プレイボーイ』1978年10月10日号)

容姿だけなら十分に女優として通用しそうですが、容姿だけでは女優は務まりません。
彼女の場合、演技力もさることながら、最大の悩みは声。
メリハリの効いた舞台声を出そうとすると、男の地声が出てしまうのです。

その弱点をなんとか克服して「火の玉みたいな感じのする女を思い切り演じてみたいの」というのが、彼女の望みでした。
 
この記事から23年がたちました。
残念なことにその後の花井優子の動静について、週刊誌の類は何も伝えていません。
新劇女優として舞台に立つという彼女の夢は果たしてかなったのでしょうか。

演劇世界は厳しい世界です。
劇団の研究生になっても舞台に立ち、名の有る役につくにはまでには厳しい修行が待っています。
大成する人は、その中でもごく少数です。
多くは世間に名を知られることなく舞台から消えていくのです。

花井優子もその一人だったのでしょうか。
 
彼女の挑戦の数年後の1981年、ニューハーフをキャッチ・コピーに松原留美子が角川映画「蔵の中」の主演女優に抜擢されます。
しかし、彼女の女優生命も短いものでした。

1990年には矢木沢まりが「Mrレディ 夜明けのシンデレラ」に主演しましたが、やはり女優としては大成しませんでした。
大御所の美輪明宏やピーター(池畑慎之介)は別格として、トランスジェンダー「女優」はいないのが現状です。
そろそろ誰か出てきて欲しいと思うのですが・・・。
 
参考資料 :『週刊プレイボーイ』1978年10月10日号

(初出:『ニューハーフ倶楽部』 第33号、2001年8月)
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日本女装昔話【番外編・第3回】泡姫は男の子! 日本最初のニューハーフ・ソープ嬢 [日本女装昔話]

泡姫は男の子! 日本最初のニューハーフ・ソープ嬢 (1981年)

「ニューハーフ・ソープ嬢」と題しましたが、実はまだ「ニューハーフ」という言葉も「ソープランド」という言葉も無く、それぞれ「ゲイボーイ」「トルコ風呂」と呼ばれていた20年前のお話です。
 
当時「トルコ風呂」のメッカとして、知らない男性はいない名声?と繁栄を誇っていた滋賀県雄琴温泉に「男性トルコ嬢」が出現し、並大抵のサービスでは驚かない常連客の間で大いに話題になりました。

話題の主は、雄琴温泉「トルコ江戸城」に勤務する綾姫さん(21歳)。
雄琴温泉「トルコ江戸城」の綾姫嬢.jpg
日本初のゲイボーイ「トルコ嬢」 雄琴温泉「トルコ江戸城」の綾姫嬢
(『アサヒ芸能』1981年2月5日号)

トルコ嬢歴まだ3カ月、店の制服のチャイナドレス姿も初々しく、身長160cm、体重45kgのスレンダーな身体でありながら、B81W59H82というなかなかのプロポーション、小ぶりだがきれいにふくらんだ乳房は女性ホルモン注射の成果、表情もしぐさも語り口も見事な女ぶりなのです。
 
とは言え、彼女の戸籍は男性。
山梨県で5人兄弟の次男として生まれ、中学までは陸上部で活躍した普通の男の子、卒業後は大工を目指して技術専門学校へ進みました。
ところが、18歳の時、母親が入院していた病院で知り合った年下のゲイの高校生におフェラされたのがきっかけで心の中の「女」が目覚めてしまいます。
 
家出して京都祇園のスナックで女性に混じってホステス修行。
そこの常連客の男性に言い寄られて半ば強引に「処女」喪失。
そして、性転換手術の費用を貯める目的で雄琴の「トルコ嬢」になったという訳です。
 
当然のことながら、彼女、トルコ嬢の仕事はすべてこなします。
「ローション洗い」(ローションを全身に塗ったトルコ嬢がボディを使って洗ってくれる)の時に発揮する舌技はなかなかの評判だし、もちろん「本番」もOK(入れる場所が少し違うようですけど)。

彼女を雇った「江戸城」の鈴木社長も「ホンモノのトルコ嬢より、ずっと女らしい子」、「テクニックもどこをどう攻めれば男が気持ちよくなるか、それが経験でわかっているから、これはもうバツグン」と手放しでほめちぎってます。
 
彼女は平均一日4人のお客を取る売れっ子。
「ノンケの男が好き」、「わたしは女になっているつもりだし、女になりきりたいんだから」と言う彼女には、ノンケ男相手の「トルコ嬢」の仕事は合っていたのでしょう。
 
今から6年ほど前、写真週刊誌が岐阜の金津園「ホワイトハウス」勤務の白石敬子さん(23歳)を「ニューハーフ・ソープ嬢、第一号」と紹介しました(『FRIDAY』1995年6月30日号)。
しかし、本当の第1号は、その15年前にすでに出現していたのです。
 
現在ならニューハーフのソープ嬢と言っても驚くほどのことではないかもしれません。
しかし、20年前は違います。
衝撃的な出来事でした。
そうした意味で、綾姫さんはニューハーフの風俗業界進出のパイオニアの一人と言えるし、また彼女を雇った社長の先見の明にも敬意を表したいと思います。
 
あれから20年、綾姫さんがどこかで幸せなオバさんになっていればいいなと思います。
 
参考資料 :『アサヒ芸能』1981年2月5日号

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第32号、2001年5月)
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日本女装昔話【番外編・第2回】名門私立女子大の怪しい受験生の正体は? [日本女装昔話]

名門私立女子大の怪しい受験生の正体は?(1975年)

毎年、大学入試シーズンになると不正受験のニュースが話題になります。
不正受験には様々なテクニックがありますが、これほど大胆華麗?、ユーモラスな手口で人々の関心を集めた事件はないでしょう。
 
舞台は今から25年前、東京多磨地区にある私立の名門T女子大です。
津田塾女子大学.jpg
事件の舞台になったT女子大学

国際関係学科の試験終了後、一人の受験生が試験官に「私のお隣の人、男の人ではないでしょうか」と告げてきたのが事の発端でした。
 
なにしろ女子大です。
驚いた試験官は受験票の束から問題の受験生の写真を取り出して密告者に確認を求めました。

しかし、受験票の人物と試験を受けた人物は確かに同一人物でした。
「これが男だって?そんなバカな」「ちょっと老けてるけどね。やっぱり女性でしょう」。
入学試験委員室の教授たちは、この時点では正体を見破れなかったのです。
 
これで終わっていたら、不正受験は完全犯罪だったかもしれません。
ところが、翌日の英文学科の試験にも問題の「彼女」が現れたのです。
白いタートルネックのセーターに真っ赤なパンタロン、165cmの長身に洒落た7分丈コートをはおり、口紅も鮮やかな水商売風の濃化粧。

地味な服装の受験生の中ではひときわ人目を引く容姿です。
 
前日は見逃してしまった教授たちのマークは厳しいものがありました。
「手がごつごつしていて女性の手でない」「化粧の下に青い髭剃り跡が見える」、疑惑を裏付ける報告が次々に入試本部にもたらされます。

「間違いなく男だ。替え玉受験だ!」と断定派の老教授。
「いや、ホルモン異常の女性かもしれない。決めつけて間違ったら人権問題になる」と慎重派の若手教授。
入試本部は喧々諤々の大騒ぎになりました。

その時、ある教授が疑惑人物と同じ高校出身の受験生がいたことを思い出しました。
入試が終わった後、同級生たちに受験票の写真が提示されました。

「あなた方の同級生の〇山〇子さんですか」。
2人の同級生は激しく頭を振って「違います!」と断言しました。

これで決まりました。
教授たちは別室に待機させていた疑惑人物を問い詰めました。
観念した「彼女」は、あっさり白状しました。
「彼女」の正体は、なんと本物の〇山〇子の実の父親だったのです。
しかも50歳近い彼は娘の高校の英語教師でした。

後日、娘も父親の無謀な賭けの「共犯」であることがわかりました。
 
前代未聞の父親女装替え玉受験という悲喜劇はこうして幕を下ろしました。

世間はこの事件に驚き、笑いながらも、女装してまで娘の合格を図った悲しい父性愛にいくばくかの同情を寄せました。
 
しかし、この事件には不思議な点があります。
まず彼のあまりに見事な女装ぶり。
喉仏を隠すタートルネック、ごつごつした脚線を隠すパンタロン、娘の協力があったにしろ女装ファッションとしての要点を見事に押さえているのです。

そして女装時の堂々とした態度。
彼は受験の2日間、女子トイレを利用するなど女子大という女の園で臆する事なく行動しています。

これは熟練した女装者でも容易なことではありません。
 
こんなハイレベルな女装行為が、替え玉受験のために思いついた即席の女装者に、はたして可能でしょうか?

もしかして彼は、トップレベルのアマチュア女装者だったのでは・・・?。
真相は25年の時の流れのかなたです。
 
参考資料 :『週刊サンケイ』1975年4月17日号
      『週刊朝日』1975年4月18日号

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第31号、2001年1月)
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日本女装昔話【番外編・第1回】女装芸者「市ちゃん」 [日本女装昔話]

女装芸者「市ちゃん」 (1959年)

三河高原に抱かれた愛知県東加茂郡足助(あすけ)町。
1959年の晩秋、町外れの農家小沢家で、半年前に家出した一人息子の市左衛門(よりによって超古風な名前ですね)の帰郷祝いが開かれていました。

本人に先立ってトラック数台分の荷物、テレビ、電気洗濯機など最新式の家庭電化製品や立派な桐たんすにぎっしり詰まった豪華な女物の衣装などが運び込まれていました。
その様子を見た招待客たちは「市坊は東京のお大尽の娘を嫁にもらった」と噂し合いました。
 
宴もたけなわ、電蓄から流れる三味線の音に合わせて、一人のあでやかな芸者が現れ、扇片手に舞い始めました。
驚く人たちがよくよく見れば、当夜の主賓のはずの市坊。
「市坊が女になった!」。
衝撃はたちまち麓の町にまで広がりました。
女装芸者(鬼怒川温泉・市ちゃん) (2) - コピー.jpg
芸者時代の市ちゃん(『風俗奇譚』1962年1月号)

子供の頃から女の子とばかり遊んでいた市ちゃんは、中学卒業後は土産物店に勤めながら三味線や日本舞踊を習う女っぽい青年でした。

青年団の集団作業でも力の弱い市ちゃんは能率が上がらず「女以下じゃ」と馬鹿にされていたのです。
春のある日、山村での生活が嫌気がさした市ちゃんは、なけなしの5000円を持って村から姿を消しました。
 
数日後、お金を使い果たし東京駅の待合室で途方にくれていた市ちゃんに中年男性が声をかけました。
男は思いがけないことを言いました。「芸者に化けてみないか」。
市ちゃんの女性的傾向を見抜いていたのです(すごい慧眼!)。

着いた先は栃木県鬼怒川温泉。身なりを女姿に変えた市ちゃんは、検番(芸者の管理組合)の試験にすんなり合格し、「きぬ栄」の名でおひろめとなりました。

さすがに置屋の女将は市ちゃんが男であることを見破っていましたが、市ちゃんの女っぷりに「これは行ける」と思った女将は、市ちゃんに女になりきる秘訣を事細かに授けました。

秘密は女将と朋輩の芸者以外に漏れることはなく、若くて美人、三味線と日舞が上手なきぬ栄は、たちまち売れっ奴にのし上っていきました。
 
8月、東京の某銀行の慰安旅行で鬼怒川温泉にやって来た50がらみの部長が、きぬ栄にホレこみましだ。

週末には必ず通ってくるほどの熱の入れようで、やがてお定まりの身請け話となりました。
きぬ栄を囲った男は彼女が欲しがる家電製品や着物を次々に買い与えましたが、きぬ栄は「結婚するまでは」と決して肌を許そうとしません。

とは言え、男の執着を避けるにも限度があり、そもそも戸籍が男なのだから結婚はできません。
思い詰めたきぬ栄は、男と別れ貢がせた道具や衣装を持って故郷に帰ることを決心します。
 
こうした事情で先程の衝撃の帰郷場面となったのです。
「女になるというなら仕方がないわさ。こうなれば息子の思うように生きさせなければなあ。今はそういう世の中なんじゃで」市ちゃんの母はこう語っています。

40年前とは思えない、なんと進んだコメントでしょう。
 
当時、推定20歳の市ちゃんも今では60歳。元気で女として暮らしていることを祈りたいです。
 
参考資料 :『週刊文春』1960年5月16日号

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第30号、2000年11月)

【追記】たいへん残念なことに、「市ちゃん」は、1970年前後に自殺されたことが判明しています。
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