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「日本女装昔話」番外編の目次 [日本女装昔話]

「日本女装昔話」番外編
 
ここに掲載した5つの物語は、ニューハーフ系商業雑誌『ニューハーフ倶楽部』(三和出版)第30号(2000年11月)から34号(2001年11月)の「Human history」に掲載されたものです。

このコーナーは、人物や事件に焦点をあてて女装世界を語る趣旨で、同誌の創刊直後から続く名門コーナーでしたが、執筆担当の方が病気で倒れたため、その代役として私が「橘さぎり」の筆名で5回分を執筆したものです。

本来の執筆担当の方の復帰の目処がたたないため、私の連載コーナー「女装百話」(このサイトでは「日本女装昔話」)に吸収合併する形で打ち切りとなりました。

ここに「日本女装昔話」番外編として収録します。

番外編 第1回 女装芸者「市ちゃん」 1959年
 (『ニューハーフ倶楽部』第30号、2000年11月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-25
番外編 第2回 名門私立女子大の怪しい受験生の正体は? 1975年
 (『ニューハーフ倶楽部』第31号、2001年1月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-25-1
番外編 第3回 泡姫は男の子!日本最初のニューハーフ・ソープ嬢 1981年
 (『ニューハーフ倶楽部』第32号、2001年5月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-25-2
番外編 第4回 新劇女優を目指した男性 花井優子の挑戦 1978年
 (『ニューハーフ倶楽部』 第33号、2001年8月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-25-3
番外編 第5回 一流ホテルと契約した女装歌手 橘アンリの夢 1969年
 (『ニューハーフ倶楽部』 第34号、2001年11月)
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-25-4
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日本女装昔話【第34回】大阪の「男娼道場」主、上田笑子 [日本女装昔話]

【第34回】大阪の「男娼道場」主、上田笑子 1950~1970年代

前回は、女装男娼の集合写真の分析から、少なくとも大阪では、戦前(1930年代)から、女装男娼の横のつながりがあったことが推測できました。
 
実はその写真に私の興味を強く引く人物が写っていました。
1930年代(昭和5~15年)と推測した屋内での記念写真の右端の「藤井一男 笑子 二十五才」と記された人物です。

この「笑子」が戦後、1950年代から70年代にかけて、大阪釜ケ崎(山王町界隈)で「男娼道場」の主と言われた、上田笑子と同一人物ではないだろうかと気づいたからです。
 
上田笑子については、1958年(昭和33)の「大阪の美人男娼ベストテン」というルポが「この道の草分け」「蔭間茶屋"エミちゃんの家"のママ」、「彼女のシマを"おかまスクール"と呼ぶ」と紹介しています(『増刊・実話と秘録:風俗読本』1958年1月号)。
女装男娼(上田笑子).jpg
1957年、42歳のころの上田笑子。(『増刊・実話と秘録』1958年1月号)

それから12年たった1970年(昭和45)には「私の"オカマ道場"の卒業生は四千人よ-大阪・釜ケ崎、上田笑子の陽気なゲイ人生-」という記事が週刊誌に載っています(『週刊ポスト』1970年12月25日号)。

そこには、彼女が女装男娼を育成する「男娼道場」を開いて25年になること、育てた子は「もう四千人くらいになりますやろうなァ」「東京の男娼の八割方がたはウチの出やね」と語られています。

これらの記事から、上田笑子のプロフィールを整理してみましょう。
本名は上田廣造、1910年(明治43)奈良県生まれ。
13歳のとき(1923年=大正12)から男娼の仲間に入り、以後、その道一筋。1945年(昭和20)、つまり、終戦後すぐに「男娼道場」を開設し、多くの後進を育成した、ということになります。

となると、彼女は1935年(昭和10)に25歳だった計算になり、例の1930年代と推定される集合写真の「笑子 二五歳」とぴったり一致してくるのです。
もっとも、本名が、藤井一男と上田廣造でぜんぜん違うのですが、「藤井一男」が偽名の可能性もあり、写真の面差しは、どこか似たものがあるように思います。
 
さて、笑子は「東京の男娼の八割方がたはウチの出」と豪語していますが、実際にそうだったのでしょうか。
8割かどうかを確かめる術はありませんが、どうも女装男娼は、戦前、戦後を通じて、関西(大阪)が本場だったのは確かなようです。
 
戦前、東京の浅草や銀座で逮捕された女装男娼の中にも、関西からの遠征組がかなりいたこと、戦後の東京上野の女装男娼の間でも、関西系が幅をきかしていたことなど、その兆候はいくつもあります。

さらに歴史を遡れば、江戸の歌舞伎の女形、あるいは陰間茶屋の蔭子は、お酒と同じく「下り者」(京・大阪から江戸に下ってきた者)が第一とされ、東育ち(江戸・東国の生まれ)は武骨で使い物にならないとされていました。
 
昭和期の女装男娼の関西優位には、そんな伝統も反映していたのかもしれません。
ただ、関西の状況を記した資料が乏しく、実態不明な点が多いのが残念です。
男娼バー「ゆかり」.jpg
大阪釜ケ崎の女装バー「ゆかり」(1957年ころ)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第57号、2007年8月)

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日本女装昔話【第33回】女装男娼の集合写真 [日本女装昔話]

【第33回】女装男娼の集合写真 1935年

前回、ご紹介した『エロ・グロ男娼日記』に関連して、昭和戦前期の女装男娼について調べているうちに、私が所蔵している資料の中の1枚の写真が気になりはじめました。

同性愛者のグループを紹介した週刊誌の記事に掲載されている「大正時代の大阪の男娼たち」というキャプションがついた写真です。
女装男娼の集合写真1.jpg 
「日本花卉研究会-世にも不思議な社交クラブ-」(『週刊文春』1959年6月15日号)

写真には8人の着物姿の「女性」が椅子に腰掛けて並んでいます。
皆それぞれに着飾った姿、それに背景などから、スナップ写真ではなく、ちゃんとした場所で何かの会合の折りに記念撮影的に撮られたもののようです。

しかし、彼女たちが本物の女性でないのは、下部に男性名と女装名(それに年齢)が記されていることからわかります。
印刷が不鮮明なのが残念ですが、皆さん、なかなかの女っぷりで、女装レベルの高さがうかがえます。
 
なぜ、この写真が気になるかというと、理由が2つあります。
ひとつは、写真の時期の問題です。
直感的に「大正時代」よりももっと新しい昭和戦前期の写真ではないかと思ったのです。
というのは、昭和の着物文化史を勉強している私の目からすると、左端の「繁子」が着ている幾何学模様の着物(銘仙?)、左から3人目の「百合子」が着ている大柄の模様銘仙?は大正期では早すぎるのです。
この手のモダンな柄は、1930年代(昭和5~15)の流行です。
 
2つ目は、女装男娼の組織化の問題です。
『エロ・グロ男娼日記』の愛子や、昭和2~12年の東京における逮捕事例をみても、戦前期の女装男娼は単独行動で、グループ化の形跡は見られません。
東京の女装男娼が組織化されるのは戦後混乱期の上野において、というのが私の仮説です。

しかし、この写真によれば、少なくとも大阪ではすでに戦前期に、こうした会合をもつ程度には、女装男娼の横のつながりがあったことになります。
 
さらに調べている内に、もう一枚、女装男娼の集合写真らしいものを見つけました。
女装男娼の集合写真2.jpg
井上泰宏『性の誘惑と犯罪』(1951年10月 あまとりあ社)

1951年に刊行された井上泰宏『性の誘惑と犯罪』の口絵に掲載されていたものです。
キャプションには「女化男子」とあり、写っている10人が女装の男性であることがわかります。
しかし、撮影時期・場所、どういう人たちなのかは一切記されていません。
 
この写真も、着物文化史的に見てみましょう。
屋外での撮影ということもあって、10人中7人が大きなショール(肩掛け)を羽織っているのが注目されます。
この手のショールが大流行するのは、やはり1930年代なのです。
最初の写真でも、室内にもかかわらず右から4人目の「お千代」が羽織っています。

というわけで、この写真もまた1930年代のものと推定できます。
当時、アマチュアの女装者はまったく顕在化していないので、彼女たちもまたプロ、つまり女装男娼と考えて間違いないでしょう。

場所が不明なのは残念ですが、やはり集会を開く程度の横のつながりが、すでにあったことが確認できるのです。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第56号、2007年5月)

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日本女装昔話【第32回】『エロ・グロ男娼日記』の世界(その2) [日本女装昔話]

【第32回】『エロ・グロ男娼日記』の世界(その2) 1931年

前回は、昭和6年(1931)に刊行即日発禁処分になった実録(風)小説『エロ・グロ男娼日記』(流山龍之助著 三興社)の主人公、浅草の美人男娼「愛子」の生活ぶりを紹介しました。

そこで問題となるのは、愛子のような女装男娼が、昭和初期の東京にほんとうに実在したか?とういうことです。
 
そのヒントは作中にありました。
ある日、愛子は浅草公園の木馬館裏手にいた人品のいい男に誘いをかけたところ、これが象潟署の刑事で、彼女は直ちに逮捕連行されてしまいます。
そして「旦那如何です モガ姿の変態が刑事に誘ひ」という見出しで新聞に載ってしまいました。
 
この箇所を読んだ時、「あれ?どこかで見た記事だなぁ」と思いました。
早速、ファイルを調べてみると、小説刊行の3ヵ月前の『読売新聞』昭和6年2月27日号にまったく同じ見出の記事がありました。

小説の愛子逮捕の記事は、実在の女装男娼逮捕の記事を出身県と氏名を伏字にしただけでそのまま流用していたのです。
 
この時、逮捕されたのは 福島県生れの西館儀一(24歳)という女装男娼。
この人物は、富喜子と名乗って浅草を拠点に活動していたことが他の記事からわかります(『東京朝日新聞』昭和2年8月13日号)。
 
もちろん、この記事の一致から、愛子=西館儀一(富喜子)と考えるのはあまりに単純すぎます。
ただ、愛子のモデルになるよう女装男娼が、昭和初期の東京浅草に確実に存在していたことは間違いありません。

小説の中で、愛子が新聞記者のロングインタビューを受ける箇所があります。
記者は愛子から、出身、子供時代の思い出、女装男娼になった経緯、現在の日常などを詳細に聞き出しています。
 
おそらく、小説の作者(流山龍之助)も、この新聞記者のように実在の女装男娼から詳しいインタビューをとり、それをもとに小説化したのではないでしょうか。
それほどこの『エロ・グロ男娼日記』はリアリティに富んでいるのです。
 
浅草を拠点に活動していた女装男娼たちは、やがてモダン東京の新興の盛り場として賑わいはじめた銀座に進出します。

愛子も銀座に出かけて松坂屋デパートで半襟などを買った後、上客(退役陸軍大佐)をつかんでいます。
浅草から銀座へ、東京の盛り場の中心の移動とともに、女装男娼の活動地域も移動するというのはおもしろい現象です。
 
その結果として、1933~37年(昭和8~12)、銀座で逮捕された女装男娼が何度か新聞の紙面を賑わすことになりました。

その中には、1937年3月に逮捕された福島ゆみ子こと山本太四郎(24歳)のように、「どう見ても女」と新聞で絶賛?された美人男娼もいました。
女装男娼(福島ゆみ子)1.jpg
女装男娼福島ゆみ子の艶姿。
「男ナンテ甘いわ」というキャプションが実に効果的。
(『読売新聞』昭和12年3月28日号)
女装男娼(福島ゆみ子)2(2).jpg
「これが男に見えますか」という見出しの通り、大きな市松柄の振袖の着物に華やかな色柄の羽織、ショールをかけた当時の流行ファッションを見事に着こなしている。
(『東京日日新聞』1937年3月31日号)
 
困難な社会状況の中で、たとえ男娼という形であっても、「女」として生きようとした彼女たちに、どこか共感を覚えるのは私だけでしょうか。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第55号、2007年2月)


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日本女装昔話【第31回】『エロ・グロ男娼日記』の世界(その1) [日本女装昔話]

【第31回】『エロ・グロ男娼日記』の世界(その1) 1931年

国立国会図書館の特別閲覧室には、旧内務省が発禁処分にした一群の図書が収蔵されています。
その中に、流山龍之助著『エロ・グロ男娼日記』という文庫版108頁の小冊子があります。

昭和6年(1931)5月25日に、下谷区西町(現:台東区東上野1丁目)にあった三興社から刊行された翌日、「風俗」を乱すという理由で即日発禁処分を受けたいわく付きの本です。
エログロ男娼日記.jpg 
黄色と黒のモダンなデザインの表紙。
エログロ男娼日記 (2).jpg
「六年五月二十六日 禁止 別本」という処分を示すペン書きと「内務省」の丸印。

後に「削除改訂版」が出たようですが、現存する初版はおそらくこの一冊のみと思われる貴重なものです。
 
主人公は、浅草の女装男娼「愛子」(22歳)。
時代は、帝都東京がエロ・グロブームに沸き、モダン文化が花開いた昭和5年(1930)頃。
愛子の日記(手記)の形態をとった実録?小説です。
 
愛子の日常をのぞいてみましょう。
自宅は浅草の興行街(六区)の近く、朝は9~10時に起き、床を畳み、姉さんかぶりで部屋を掃除。
その後、化粧。牛乳で洗顔、コールドクリームでマッサージ、水白粉で生地を整え、パウダーで仕上げ、頬紅をたたき、口紅、眉墨を入れます。
髪は櫛目を入れ、アイロンで巻毛とウェーブを付けます。
しゃべり言葉の一人称は「あたし」「あたくし」。

銭湯は、以前は女湯を使っていましたが、男娼として界隈で有名になったので、今は男湯。
ほぼフルタイムの女装生活です。

遅い朝食を食べに食堂に入ると、男性から「よう、別嬪!」と声がかかり、馴染み客からは「お前はいつ見てもキレイだなぁ。まるで女だってそれ程なのはタントいねぇぜ」と言われるほどで、かなりの美貌。

初会の客が女性と誤認するのもしばしばで、警察に捕まった時も、刑事にも「なかなかいいスケナオ(女)ぢゃねえか」と言われ女子房に放りこまれたほど。

今風に言えば、パス度はかなりのハイレベルですね。

若い美人、しかも気立ても穏やかですから仕事はいたって順調。
会社員の若い男を誘い旅館で一戦した翌日は、朝食後にひょうたん池(浅草六区)で出会った不良中学生3人を自宅に連れ込み、まとめて面倒をみてやり、夜になって時間(ショート)の客1人、泊まり客1人で収入6円という一日。
 
電車初乗りが5銭、そばが10銭、天丼が40銭という時代ですから、6円は現在の物価に換算して15000円くらいでしょうか。
 
銀座で五十年配の立派な紳士(退役陸軍大佐)に声をかけられ、大森(現:大田区)の待合で遊んだり、ブルジュア弁護士の自家用車で、なんと京都・大阪までドライブしたり、醜男ですが誠意のある妻子持ちの請負師に妾になってくれと迫られたり、「旦那いかがです」と、うっかり私服警官に声をかけて、留置所で10日間を過ごすことになったり、なかなか波乱に富んだおもしろおかしい生活を送っています。
 
さて、女装の社会史を研究している私の関心からすると、問題は、愛子のような女装男娼が、昭和初期の東京にほんとうに実在したか?とういうことです。

その点については、また次回に。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第54号、2006年11月)

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日本女装昔話【第30回】流転の女形 曾我廼家市蝶(その2) [日本女装昔話]

【第30回】流転の女形 曾我廼家市蝶(その2) 1940~1950年代

曾我廼家市蝶(しちょう)こと小林由利は、曾我廼家五郎劇団の女形から、中国大陸に渡り、敗戦後は上野で女装男娼として身を売るという苦難の末、1952年(昭和27)4月、文京区湯島天神「男坂」下にバー「湯島」を開店します。
 
当時の東京には、美少年のゲイボーイが接客するゲイバーは何軒かありましたが、女装の人が相手をしてくれる店は、新橋烏森神社境内にあった「やなぎ」(お島ママ)ぐらいで、まだほとんどありませんでした。

江戸時代には陰間茶屋が立ち並び、男色の地として名高かった湯島の歴史と風情を偲ぶことができるこの店は、女装者愛好の男性の人気を集めました。
 
店は、1階が3畳ほどの小さなカウンターと4畳半ほどの洋風の客席、2階に4畳半の座敷が2つ。現在の感覚では広いとは言えませんが、住宅事情の悪い当時にあってはなかなかの構えだったようです。

曾我廼家市蝶2.jpg
「湯島」時代の曾我廼家市蝶、1952年頃。
(「流転女形系図」『人間探究』28号 1952年8月)

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湯島天神下の「湯島」の場所
(かびや・かずひこ「ゲイ・バァの生態-上野・浅草界隈-」『あまとりあ』5-8、1955年8月)
 
1950~60年代にゲイ世界に関するルポや評論を数多く執筆した、かびや・かずひこ(鹿火屋一彦)は、店主の女になりきっている様子、渋い落ち着いた趣味をほめながら「厳しいこの世の中に女(?)手一つで」「このような店をしかも一つの風格を保ちつつ営んでゆこうとする『彼女』の苦辛と焦慮」を感じています(「ゲイ・バァの生態」『あまとりあ』5-8、1955年8月)。

ところが、市蝶と「湯島」の全盛期は長くありませんでした。開店から6年たたない1957年の末頃、「湯島」は、店名の由来となった湯島の地を離れてしまいます。理由はわかりません。
 
日本最初の女装趣味サークル演劇研究会の会報『演研通信』2号(1958年2月)に出ている広告によれば、移転先は豊島区池袋2丁目。

当時の池袋駅北口は風紀・治安の良くない場末で、湯島時代のお客は離れ、市蝶も「湯島」も次第に忘れられていきます。

女装者愛好男性の第一人者と知られ、市蝶とも交友があった西塔哲(「富貴クラブ」会長)は、「好きな男には身の皮はいでも尽くすキップのよさと、アッサリした好人物なので他人に利用されることも多く」と、市蝶の性格を語っています。

零落の原因は、おそらくそんな性格にあったのでしょう(鎌田意好「異装心理と異装者列伝-女形の巻(2)-」『風俗奇譚』1965年5月号)。
 
それから10数年の月日が流れた1970年、市蝶こと小林由利の名は、まったく思いがけない形で新聞に掲載されます。

4月18日の早朝、東池袋4丁目のアパートで「男娼・由利(55)」が絞殺死体となって発見されたのでした。
遺体は布団の中で和服姿の仰向けの姿勢で、着ていた茶羽織りの襟で首を絞められていました(『毎日新聞』1970年4月18日夕刊)。
 
捜査の結果、顔見知りの35歳の鳶職の男が犯人として逮捕されました。
犯行理由は、2人で飲み歩いた後、アパートの部屋に行ったところ、金銭を要求されたので殺した、というものでした。

こうした状況から、晩年の由利が、再び女装男娼の稼業に戻ってしまったことがうかがえます。
 
女形として華やかな舞台を踏みながら、生活のために女装男娼となり、一度は店を持ち盛名を得ながら、また没落して老男娼として殺される。まさに新派悲劇を地でいくような流転の人生でした。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第53号、2006年8月)

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日本女装昔話【第29回】流転の女形 曾我廼家市蝶(その1) [日本女装昔話]

【第29回】流転の女形 曾我廼家市蝶(その1) 1940~1950年代

梅で有名な東京文京区湯島天神への参道はいくつかありますが、拝殿のすぐ脇に出る急な石段のある道を「男坂」といいます。
その上り口のあたりに、1950年代前半、「湯島」という小さなバーがありました。
 
今でこそほとんど存在を忘れられていますが、東京における女装(女形)系ゲイバーの先駆として当時の愛好家には有名な店でした。
 
その女将小林由利は、戦前、曾我廼家市蝶(しちょう)の名で新派の曾我廼家五郎劇団の女形だった人です。

この劇団は、座長の性癖を反映して、女優を一切使わない「女形天国」で、人気女形には、以前、このコーナーの第11話で紹介した曾我廼家桃蝶らがいました。
曾我廼家市蝶1.jpg
女形時代の曾我廼家市蝶(1940年頃)
(「流転女形系図」『人間探究』28号 1952年8月)
 
市蝶は1915年(大正4)頃の生まれ、子供の時から女性的傾向を自覚して女形で生きようと思い、14歳の時に娘形としてデビュー。
曾我廼家一座には19歳の時に入ったものの、必ずしも役柄には恵まれなかったようです。
 
1937年(昭和12)日中戦争が始まると、関東軍の慰問団に入り、満州や北支(中国北部)の部隊を巡業します。
終戦も満州の奉天(現:瀋陽)で迎え、引き上げまでの約1年間、新京(現:長春)で「蝶家」というバーを営んでいました。
 
1946年10月、焼け野原の東京に帰ってきた市蝶はたちまち生活に困窮します。
大陸に行く前に拠点にしていた浅草の劇場群も丸焼けで、舞台に立ちたくても活躍の場がなかったからです。

生計の当てのない市蝶に、昔の仲間が声を掛けます。
「お化粧してね、ちょっと男の人と話をすればお金儲けができるのよ」。

紹介されて行った先は、上野の女装男娼を束ねる姐さんの家。

生きるために覚悟を決めた市蝶は、仲間に加えてもらい、47年11月、初めて上野山下(西郷さんの銅像の下あたり)に立ちます。
32歳の時でした。
曾我廼家市蝶.JPG
上野池の端で客を取る市蝶
(「流転女形系図」『人間探究』28号 1952年8月)
 
ちなみに、1948年(昭和23)頃の女装男娼のお値段はショートで200円。
物価変動(インフレーション)が激しい時代なので比較が難しいのですが、電車の初乗りが3円、公務員の初任給は2300円ですから、50~60倍に換算すれば、10000~12000円相当になります。
客さえコンスタントにつけば、それなりに暮らしていけたはずです。
 
こうして夕闇が濃くなる頃、山下や池の端に立って男を誘い、男娼の秘技「レンコン」(筒形にした手を後ろから股間にあてて、そこに客のペニスを誘導する詐交のテクニック)で客を満足させる女装男娼の暮らしが始まりました。

最初は戸惑ったものの、天性の美貌と長い女形生活で培った女らしさは、男娼たちの中では抜群で、女形時代の知名度もあって贔屓客もつき、次第に暮らしも楽になっていきます。
 
市蝶が4年半の男娼暮らしで稼いだ資金で「湯島」を開店したのは1952年(昭和27)4月のことでした。
(続く)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第52号、2006年4月)

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日本女装昔話【第28回】シャンソン歌手を目指した 椎名敏江 [日本女装昔話]

【第28回】シャンソン歌手を目指した 椎名敏江 1950年代

初期の「性転換女性」シリーズの4人目は、椎名敏江です。
 
椎名敏江は、男性名を古川敏郎といい、1933年(昭和8)、福島県伊達郡月舘町の商家の末っ子に生まれました。
子供の時からやや女性的な性格で、中学の男性音楽教師にキスされるという体験をしています。
ただし、初恋は同級生の女性で、身体的発育の遅さに悩んでいたものの、青年期には女性との性交渉もかなりの回数あり、本人の言によれば「男ではない、女だなどと考えたことはありません」と、性別に対する違和感は明確でなかったようです。
 
1952年(昭和27)、19歳の時、上京して銀座のキャバレーのボーイの職を得ます。
ところが、何人かの中年の立派な紳士が、女給を相手にせず、ボーイの敏郎青年ばかりを席に呼ぶようになり、「女性的すぎてボーイとして役に立たない」という理由でクビになってしまいます。

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男性時代の椎名敏江(掲載誌不明。1957~58年頃)

転機は意外な形でやってきます。
職を転々としてサンドイッチマンをしていた時、女のサンドイッチマンの注文がありました。
女性的な敏郎青年が適任と女装してみると、大好評で仕事が次々に入ります。

仕事のために伸ばした髪が長くなると男の服装が似合わなくなり、普段の服装も女装に変え、名前も「敏江」と名乗るようになりました。

「自分は男として仕事につくより、女としての方がよりたやすく生きて行かれることを発見した」と本人は語っています。

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「女給」時代(性転換手術前)の椎名敏江(『風俗科学』1955年3月号)

二度目の転機は、女装で勤めていた神田の飲み屋での裕福な商家の若旦那との出合いでした。
「結婚してくれ」と熱心に口説かれ一夜をともにして、すべてを告白します。

若旦那は悩んだ末に「敏江」を大きな病院に連れて行き、女になる手術を勧めます。
勧められるままに費用はすべて若旦那持ちで、1955年6月、22歳の時に性転換手術を受けました。

身体的にも女性になった敏江は、もともと好きだったモダンバレーのレッスンに励み、銀座のキャバレーの踊り子となります。

さらに興行師から声がかかり「男から女になったジーナ敏江」として名古屋の港座で初舞台を踏みます。
西日本各地を巡業して帰京後は、シャンソン歌手を目指し、性転換女性という物珍しさもあり、1957年10月には、浅草フランス座の舞台に立つなど、そこそこの活動をしたようです。
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ショーの控室で出番を待つ椎名敏江。エキゾチックな美貌は舞台映えがした(『増刊・実話と秘録』1958年1月号)

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シャンソン歌手ジーナ敏江の舞台(『100万人のよる』1959年1月号)

しかし、次第に忘れられて、60年代に入ると、消息はわからなくなってしまいます。
 
彼女の人生をたどると、強い性別違和感に悩んだ末に性転換を選んだというよりも、職業的な要請で女装をはじめ、若旦那との出合いをきっかけに、成り行きで性転換をしてしまったようにも思えます。

そんな彼女の後半生がどうだったのか、少し気掛かりです。
 
椎名敏江の頃を境に、ただ「性転換」したというだけでマスコミの話題になる時期は過ぎていきます。

60年代になると、以前にこのコーナーで取り上げた性転換ストリッパー吉本一二三(第7回)や銀座ローズ(第17回)のように、話題になるには「性転換」+αが必要になります。

日本の性転換の黎明期は終わり、次の時代を迎えることになったのです。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第51号、2006年1月)

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日本女装昔話【第27回】男性音楽教師から女性歌手へ 吉川香代 [日本女装昔話]

【第27回】男性音楽教師から女性歌手へ 吉川香代 1950年代

初期の「性転換女性」シリーズ、永井明子、松平多恵子に続く第3例目は、吉川香代です。
 
吉川は、男性名を弘一といい、1921年(大正10)年、名古屋市に生まれました。
小学五年生の時、一家をあげて上京し、東京の本所に転居します。
弘一少年は、音楽家を目指して国立音楽大学に入学。
ピアノ科から声楽科に移り将来を有望視される成績で卒業し、郷里に近い愛知県豊橋中学校に音楽教師として赴任しました。
 
戦争が始まり、1943年(昭和18)、招集されて陸軍衛生兵として中国戦線に出征しました。
吉川香代1.jpg
軍隊時代の吉川香代(『週刊東京』1956年10月27日号)

ところが、軍服を着ていてもどこか女らしいその姿。
ある将校は、裾の割れた中国服と化粧品を調達して吉川衛生兵に与えて寵愛します。
それがきっかけとなって、吉川の心の奥の女性が目を覚まし、部隊のマスコット的存在となって、終戦を迎えました。
 
1946年(昭和21)、上等兵で無事に復員、東京の深川第一中学校の音楽教師として再び教壇に立ちました。
その頃から心だけでなく、ヒップが丸みを増すなど身体の女性化が目立ちはじめ、「あの先生、女じゃないか」と生徒たちが噂をするようになります。
 
悩んだ末に医師の診断を受けると、結果は女性仮性半陰陽。
つまり、本来の性別は女性なのに性器の外観が男性的であったために出生時に男性と誤認されたのでした。
 
その診断で、吉川は女性への転性を決意し、1954年5月から55年12月までの間に、大田区の小山田外科病院で3回の手術と女性ホルモンの連続投与を受けて、女性に転換しました。

手術完了の時点で34歳。
手術代は30万円、公務員の初任給が5000円だった時代ですから、現在に換算すれば、1000万円ほどに相当する大金です。
そして、戸籍も女性に訂正し、名前も香代と改めました。
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「性転換」直後の吉川香代(『週刊東京』1956年10月27日号)

吉川は、最後の手術の直前に、教職を辞して職業歌手に転身します。
芸名を緑川雅美と名乗り、浅草の料亭「星菊水」の専属歌手として1960年頃まで舞台で活躍しました。
その後は、歌謡教室の先生に転じたようです。
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女性歌手時代の吉川香代(掲載誌不明。1957~58年頃) 

吉川の例は、典型的なインターセックスの事例で、手術も半陰陽の治療のためのものですが、報道では「“娘十八"から再スタート-女に性転換して取戻した青春-」(『週刊東京』1956年10月27日号)のように「性転換」として報じられました。
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振袖姿の吉川香代(『別冊 週刊サンケイ』1956年10月25日号)

当時は、インターセックス(半陰陽)とトランスセクシュアル(性転換症)の区別があいまいで、男性として生活していた人が女性になれば(逆も同じ)、すべて「性転換」として扱われたようです。
 
吉川香代のその後の消息はわかりません。
1960年頃の報道では結婚の噂もあったようです。
男性音楽教師 → 陸軍兵士 → 女性歌手という数奇な歩みをたどった彼女の後半生が幸せであったことを願いたいと思います。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第50号、2005年11月)

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日本女装昔話【第26回】華族の坊ちゃまの性転換 松平多恵子 [日本女装昔話]

【第26回】華族の坊ちゃまの性転換 松平多恵子 1950年代

前々回、前回と日本最初の「性転換」女性、永井明子(1951年2月造膣手術、53年9月報道)について紹介しましたが、今回はそれに続く第2例です。
 
「性転換」女性の第2例は、1954年秋に『日本観光新聞』に報道された松平任弘(女性名:多恵子 34歳)だと思われます。

松平は1922年(大正11)に東京渋谷区松濤の生まれ、旧男爵家の三男で、秩父宮勢津子妃殿下の従兄弟にあたるという名門の出身でした。

海軍中尉として中国戦線(上海)に従軍し、47年(昭和22)に帰国した後、53年秋に睾丸摘出と陰茎切除手術を受ました。
 
松平が注目されたのは、その出身が高松藩12万石のお殿様に連なるに大名華族という上流階級だったことです。

明治政府により旧公家や大名家、それに明治維新の勲功者を対象に設定された特権階級である華族の制度は、1947年の日本国憲法の実施により廃止されましたが、その余光はまだまだ根強いものがありました。
 
一方で、国家の保護を失い経済的に困窮した華族の没落もいろいろ報道されていた時代でした。
男爵家のお坊ちゃまの女性への性転換は、そうした世相を背景に、庶民にとって格好の話題になったのです。
 
松平が、手術に至った事情については、週刊誌では終戦後の混乱の中で負った戦傷で男性機能を喪失したことがきっかけとされています。
つまり「名誉の負傷」の場所が悪かったことがきっかけということです。
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30歳代の松平多恵子(『奇譚クラブ』1955年1月号)

しかし、当時、女装や転性の研究家として知られていた滋賀雄二のインタビュー記事「人工女性 松平多恵子との会見記」(『奇譚クラブ』1955年1月号)によれば、松平は睾丸肉腫の手術の際に医師に願って陰茎切除も行ったと語っていて、戦傷云々の話はまったく出てきません。

また『日本週報』1954年11月5日号の記事によれば、松平は幼少の頃から、女性的性格、女装常習の傾向があり、18歳の頃に家出、女装で女給などをしながら各地を転々とした後、高松玉枝の芸名で旅の一座の女形として活躍した過去があったそうです。

その後、親に連れ戻され、男性として大学入学、卒業と同時に海軍少尉に任官して、暗号解読を任務とする上海第二気象隊に配属されます。
部下はひそかに「お嬢さん隊長」と呼んでいたそうです。
 
そうした前歴や、戦後、日本舞踊教師・舞踊家として身を立てていた事情を考えると、「性転換」は松平の女性化願望の結果であって、戦傷云々とか睾丸肉腫とかいう話は、体面を取り繕うための理由付けだったのではないでしょうか。
 
なお、松平の「性転換」は、精巣と陰茎の除去手術のみで、インタビューの1954年末の時点では造膣手術は受けていません。

現在の基準では「性転換」とは言えませんが、「性転換」概念がまだ確立されていない1950年代では、そうした造膣未了の例や半陰陽の治療手術も「性転換」として報道していました。
 
『ヤングレディ』1965年10月31日号の記事によると、松平は、舞踊家としての活動をやめて、男性と「結婚」していました。
女としての後半生が平穏であったことを願いたいと思います。

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40歳代の松平多恵子(『ヤングレディ』1965年10月31日号)


(初出:『ニューハーフ倶楽部』第49号、2005年8月)

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日本女装昔話【第25回】戸籍の性別も「訂正」していた 永井明子 [日本女装昔話]

【第25回】戸籍の性別も「訂正」していた 永井明子 1950年代

1950年8月から51年2月にかけて男性から女性への性転換手術を受けた日本最初の性転換女性、永井明子についての2回目です。
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『日本観光新聞』(掲載年月日不明、1954年頃の撮影)
 
性に関するさまざまな事象を記録したことで知られる高橋鐡の著書『あぶ・らぶ』に「日本の女性転換第一号(N・A嬢?)」の調査記録が収録されています。

「N・A嬢」が永井明子であることは、まず間違いありません。
そこには次のような興味深い記述があります。
 
「性転換手術をうけたのを機に、次男ではなく長女として認めてほしいと家庭裁判所に願い出」、「初めてのことで家裁も大いに困惑したが、事実男性の象徴たるペニスや陰嚢が無いので結局彼の訴えどおりに長女と認定した」

つまり、永井明子は、性転換手術後に戸籍の続柄(性別)を男性から女性へ訂正したというのです。
これまで、性転換手術に伴う戸籍の性別訂正は、1980年の布川敏さん(源氏名:ボケ)の例が唯一とされてきました。
 
永井の戸籍訂正については、高橋鐡の記述しか手掛かりがなく、今まで未確認でした。
ところが、2004年春、私が文献調査中にたまたま目にした「恐ろしい人工女性現わる!-宿命の肉体“半陰陽”-」(『日本週報』1954年11月5日号)という記事中に、永井の戸籍(部分)の写真が掲載されていることに気がつきました。

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性別の訂正がされている永井明子の戸籍(『日本週報』1954年11月5日号)  

写真からは、「明」から「明子」への改名と、「参男」から「二女」への続柄(性別)の訂正がはっきり読み取れます。

これで高橋鐡が「次男から長女」としているのは「参男から二女」の誤りだったにしても、性別訂正の事実を確認することができました。

これにより、性転換手術に伴う戸籍の性別訂正事例は、少なくとも26年溯り、日本最初の性転換手術とほぼ同じ時期であることが確定的になりました。

ご存知のように、性同一性障害者の戸籍の性別の変更を一定の要件の下で認める「性同一性障害者の性別取扱い特例法」が2003年7月に成立し、2004年7月に実施され、11月までに全国で52名がこの法律の恩恵に預かって家庭裁判所で性別変更を認められたことが報道されています。
 
しかし、永井明子の戸籍訂正は「特例法」など影も形もなかった時代のことで、戸籍法113条の「戸籍の訂正」条項をそのまま適用したものと思われます。
 
つまり戸籍法の条文を適用するだけで、 50年以上前に合法的かつ完全な形での戸籍の性別訂正が可能だっのです。

となると、いろいろ制約が多いだけでなく、不平等性や人権侵害性が指摘されている「特例法」を作ることが、はたして唯一の問題解決方法だったのか、もう一度考え直すことも必要なのではないでしょうか。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第48号、2005年5月)

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日本女装昔話【第24回】日本最初の性転換女性 永井明子 [日本女装昔話]

【第24回】日本最初の性転換女性 永井明子 1950年代

「性転換」という言葉、今でこそ耳にすることは珍しくなくなりましたが、わずか50年ちょっと程前までは、まだ空想科学小説の世界の話題でした。
 
世界で最初の「性転換」手術は、1930~31年にドイツのクロイツ医師の執刀でデンマーク人画家アイナー・ヴェゲネル(女性名:リリ・エルベ)に対して行われました。
しかし、彼女が卵巣移植手術後に死亡したこともあって、この手術に関する情報は十分に伝わりませんでした。
 
「性転換」が現実の話題になったのは、1952年2月にデンマークで女性への「性転換」手術を受けた元アメリカ軍兵士ジョージ・ジョルゲンセン(女性名:クリスチーヌ)の帰国のニュースが世界を駆け巡った1952年(昭和27)末のことでした。
 
日本でも1953年初から週刊誌などで大きな話題になり、マスコミは、同様の事例が日本でもないか探し始めます。
そして、同年秋になって、ついに「日本版クリスチーヌ」が「発見」されました。
 
それは、永井明(女性名:明子)の事例です。
第一報は「男が完全な女になる」「世紀の手術に成功」という見出しで報じた『日本観光新聞』9月4日号だったようです。
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『日本観光新聞』1953年9月4日号

これは仮名報道でしたが、すぐに9月18日号で、実名・写真(セミヌード&水着)入りで大きく報じられました。
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『日本観光新聞』1953年9月18日号

さらに、『週刊読売』10月4日号が「日本版クリスチーヌ 男から女へ キャバレーの女歌手で再出発」と題した記事を掲載しました。
  
永井明子は、1924年(大正13)東京葛飾区亀有の生まれで、職工や事務員など職を転々とした後、聖路加病院に雑役夫として勤めていた時に、男性への愛情をきっかけに転性を決意します。

そして、1950年8月から51年2月にかけて東京台東区上野の竹内外科と日本医科大学付属病院で2回に分けて精巣と陰茎の除去手術と造膣手術を受け、さらに別の病院で乳房の豊胸手術を受けました。

インターセックスではなく、完全な男性からの「性転換」で、手術完了の時点では27歳でした。
ちなみに、手術の名目は「陰茎ガン」だったそうです。
永井明子(『日本週報』1954年11月5日号).jpg
「女らしく」花を生ける永井明子。転性3年後の写真。
(『日本週報』1954年11月5日号)

驚くべきことに、永井の手術の完了は「本家」のはずのクリスチーヌ・ジョルゲンセンよりも1年ほど早かったのです。
日本の性転換手術に関する技術は、当時、世界のトップレベルにあったことがうかがえます。
 
彼女は「性転換」女性として話題になった後、知名度を生かしてキャバレー歌手になりますが、「性転換」の話題性が薄れるとともに、マスコミから姿を消していきました。
 
その後、自称・他称含めて「性転換第一号」という報道はしばしば見られますが、いろいろな資料からして、永井明子こそが、日本における最初の性転換女性であることは、ほぼ間違い有りません。
 
もし、ご存命なら今年80歳を迎えたはず。昨今の「性転換」をめぐる状況をどう感じているか、お話をうかがいたいと思うのは私だけではないでしょう。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第47号、2005年2月)

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日本女装昔話【第23回】女装スナック『ジュネ』(その2) [日本女装昔話]

【第23回】女装スナック『ジュネ』(その2) 1978~2003年

2003年12月に閉店した新宿女装世界の老舗「ジュネ」(中村薫ママ)についての2回目です。
 
女装者と女装者好きの男性の「出会いの場」を設定するという営業スタイルとともに、「ジュネ」の繁栄をもたらしたもう一つのシステムが、女装会員制度と支度部屋でした。
 
いつの時代でも女装者にとって悩みの種は、着替えの場、化粧の場、そして女装道具を保管する場所の確保です。
 
「ジュネ」は、1985年頃に、店からほど近い新宿5丁目のマンションの一室を借り、店付属の女装支度部屋を開設しました。
会費を払った会員に支度部屋として利用させることで、女装者の悩みを解決するとともに、店に所属する女装者の確保をはかる一石二鳥のアイデアでした。
 
会員は、月会費(15000円)を払い、支度部屋を利用した日には、店に顔を出す義務をおいました、
その代わり、店での飲食代(非会員の女装者は4000円)は無料でした。
毎週1回のペースで店に通うならば、会員になった方が金銭的にも有利ということになります。
 
ただ、飲み代が無料である代わりとして、店では男性客の隣に座って話し相手になることを求められ、店が混んできてスタッフの手が足りなくなると、スタッフの仕事を補助する役割も期待されます。

とは言え、なにも仕事をしなくても、会員の女装者が安定的に店に来るだけで、女装者好きの男性客は喜ぶわけですから、店にとって会員制度のメリットは大きかったのです。
「ジュネ」薫ママ.jpg
「ジュネ」の中村薫ママ。花園五番街時代の撮影。
(提供:「ジュネ」会員、久保島静香さん)

気っ風が良く、面倒見の良い親分肌の薫ママのもとで、会員からは中山麻衣子、ニーナなど新宿女装世界を代表するすぐれた女装者が育ちました。

人望厚いママとレベルの高い女装会員、彼女たちを目当てに集まる女装者好きの男性客によって、1980年代後半から90年代前半にかけて、「ジュネ」は大いに賑わい、新宿女装世界の中核として君臨しました。
 
また、同じ頃、「ジュネ」のシステムを学んだスタッフや会員たちが、「嬢」「マナ」「アクトレス」「スワンの夢」「ミスティ」など、次々に独立出店していきます。
その範囲は、発祥の地であるゴールデン街地区だけでなく、新宿3丁目や2丁目にまで広がりました。
 
ここに女装スナックを拠点とする新宿のアマチュア女装世界が形成され、1990年代後半には、日本の女装世界の中心として盛況をみせることになります。
  
「梢」を根に「ジュネ」を太い幹とした樹は、大きく枝葉を広げたのでした。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第46号、2004年11月)

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日本女装昔話【第22回】女装スナック『ジュネ』(その1) [日本女装昔話]

【第22回】女装スナック『ジュネ』(その1) 1978~2003年

2003年12月25日、クリスマスの夜、新宿女装世界の老舗「ジュネ」(中村薫ママ)の灯が静かに消えました。

大勢の人たちに愛された薫ママの店、女装者好きの男性客と女装客が楽しい時間を共有した空間が、時の流れの中に消えていきました。
創業以来25年と2ヵ月。数々のすぐれた女装者を送り出した名門女装スナックの終焉でした。
 
「ジュネ」の開店は、1978年(昭和53)10月5日、ピンクレディの「透明人間」が大ヒットしていた頃です。

場所は、新宿花園神社の裏手に広がる木造飲食店の密集地域、「青線」(非公認売春地域)の雰囲気をかすかに残す花園五番街のアーケードをくぐって左側の2軒目の2階でした。
ジュネ.jpg 
『花園五番街、旧「ジュネ」の前に立つ女装者(久保島静香さん)。
1994年4月30日撮影。
右上の看板に「ジュネ」の「ュ」が読める。

この場所には、プロの男娼出身の田中千賀子ママの「千花」という店があったのですが、この年の7月に千賀ママが急逝したため、その跡を受けての開店でした。

旧「ジュネ」の棚の隅に、ずいぶん長い間、千賀さんの写真が飾ってあったのは、そのためです。
 
創業時のママはアマチュア女装出身の美樹さんで、当時、会社経営者だった薫さんはオーナーでありながら、アシスタントホステスとして店に出ていたそうです。

1984年5月、美樹ママが仕事の都合で関西に帰り、薫さんがオーナーママになると、人情家で面倒見の良い薫ママの人望を慕う人たちが集まり、店はどんどん活気づいていきました。
 
「ジュネ」のシステムの特徴は、女装者好きの男性客とアマチュアの女装者が空間を共にする点にあります。
プロのニューハーフがホステスとして男性客に接するのではなく、男性と女装者が共に客として出会い、おしゃべりし、お酒を飲んで楽しむという形でした。

店が男性と女装者の「出会いの場」になるというシステムを創始したのは、「ジュネ」の隣に在った新宿女装世界の元祖「梢」(加茂梢ママ、1967年2月開店。旧名「ふき」)でした。

1982年11月頃に廃業した「梢」の顧客と経営スタイルを引き継ぎ、「出会いの場」システムを確立したのが「ジュネ」だったのです。
 
花園五番街時代の「ジュネ」は、急な階段を上ったカウンターだけの狭い店。
詰めて座っても8人くらいがやっとだったと思います。

男と「女」の人口密度が高まれば、身体接触も多くなり、自然と親しさは増します。
親しくなった同士が薫ママに「ちょっと二人で散歩してらっしゃい」と促されて、店を出て八番街の「ホテル石川」へ、そんな妖しく賑やかな店でした。(続く)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第45号、2004年8月)

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日本女装昔話【第21回】アマチュア女装交際誌『くいーん』 [日本女装昔話]

【第21回】アマチュア女装交際誌『くいーん』1980~1990年代

2003年の年末、女装世界に衝撃が走りました。アマチュア女装交際誌『くいーん』(隔月刊 アント商事)の突然の廃刊です。
「休刊」が告示された12月発売号は142号、1980年(昭和55)6月の創刊から数えて23年6カ月目のことでした。
『くいーん』創刊号(1979年8月).jpg『くいーん』142号(最終2004年2月) (2).jpg
 
『くいーん』は、1979年8月、東京千代田区神田須田町に開店した日本初の本格的な商業女装クラブ「エリザベス会館」の広報媒体として創刊されました。

化粧やファッションなど女装に関するテクニックの紹介(ハウツー)と女装者の写真入り「求友メッセージ」(文通交際欄)の二本立てで、女装や女装者に関する情報が少なかった時代にあっては、圧倒的な影響力をもっていました。
 
キャンディ・ミルキィさんをはじめ名の有るアマチュア女装者で同誌と無縁であった人はたぶんいないでしょう。

女装者好きの男性にとっても女装者と交際するためのほとんど唯一の貴重な手づるでした。
 
また、1984(昭和59)年から誌上開催された「全日本女装写真コンテスト」は、唯一の全国規模の女装者のミスコンとして大きな支持を得て、最盛期には200人以上の参加者が集まり、毎年、熱く華麗な「女の闘い」を誌上でくりひろげました。
 
大賞受賞者には、白鳥美香さん(88年)、村田高美さん(92年、新宿歌舞伎町「たかみ」ママ)、岡野香菜さん(94年)、萩野静菜さん(99年、大阪堂山「マグネット」チーママ)など、後に『ニューハーフ倶楽部』のグラビアを飾るそうそうたる名前が、きら星のごとく並んでいます。

もう一つ触れておかなければならないことは、この雑誌が石川千佳子さん(筆名:石川みどり、梅子)という一人の女性編集者によって作り続けられたことです。

1984年に「女装マニア誌『くい~ん』編集長は22歳のピチピチギャル」として写真週刊誌に紹介されて以来20年。まさに女盛りの日々を女装雑誌にかけた感があります。
『くい~ん』編集長(『セクシーフォーカス』 1984年5月頃).jpg
1990年代初めくらいまでは、海外取材に基づく外国の女装事情の紹介や、学術的な論説など、現在から見ても水準以上の意欲的な記事が数多く掲載されました。

しかし、その後は、そうした意欲が感じられなくなり、ひたすらマンネリ化の道をたどった感があります。
 
編集長への権限の集中(「女帝」化)など批判はあったにしろ、一人の人間が20余年にわたって一つの雑誌を作り続けたことは、やはり偉業と言うしかありません。
その長年のご苦労に、心からの感謝を捧げたいと思います。
 
『くいーん』が1980~90年代のアマチュア女装者の量的拡大・質的向上に果たした功績は比類のないものがありました。

しかし、近年のEメールやインターネットの急速な普及は、同誌の柱である「文通交際欄」を完全に過去のものにしてしまいました。廃刊は、時間の問題だったのかもしれません。
 
ともかく、『くいーん』の廃刊は、私を含め同誌を故郷とする者にとって、一つの時代の終わりをしみじみと感じさせられた出来事でした。


(初出:『ニューハーフ倶楽部』第44号、2004年5月)

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日本女装昔話【第20回】女給志望の女装者 [日本女装昔話]

【第20回】女給志望の女装者 1930年代

第18回で「荒木繁子」という明治末期~大正期の有名女装者を取り上げました。
今回は、その後日談です。
 
『読売新聞』昭和11年(1936)12月1日の紙面に「これが課長さまの長男」「彼氏の“女百態”です」という、ちょっとおどけた大見出しとともに中年女性?の写真が載っています。
荒木繁子『読売新聞』1936年12月1日号.jpg
針仕事をしている姿と三味線をひいている場面の2枚で、「二度結婚、女教員、女給の半生」という小見出しがついています。
 
「職を探してください。家政婦でもなんでもいたします」と、新場橋警察署(現在の日本橋兜町)に訴え出たこの人物、林芙美子と名乗っていますが、本名が「繁」であること、出身地や経歴からして、『読売新聞』明治44年(1911)3月4日号に「美人に化けた荒木繁夫」として掲載された人物と同一人であることは間違いありません。
 
今回の記事によると、彼女の波乱の人生は次のようなものでした。
新聞に取り上げられた後、19歳で会社員の男性と「結婚」、岐阜県で2年間、妻としての生活を送っていましたが、21歳の時、徴兵検査のため本籍地の大分県に帰郷、女装で検査を受けたもののもちろん不合格。

ところが夫の元に戻ると、そこには本物の女性が妻として納まっていて、手切れ金200円(大金!)で泣く泣く離別。
 
その後、和歌山県で株屋の男性と「再婚」。
病身(結核)の夫に5年間尽くし、その間に女髪結を始め、夫に死別した後も女弟子2人を置く女髪結業で生計を立てていました。

ところが、同業者に男であることを見破られて店をたたみ上京、カフェーの女給や旅館の女中を点々としたあげく、職に困って警察署に願い出たのです。
 
そのことが新聞で報じられると、彼女が宿泊していた旅館には、小料理屋やカフェーから引き合いが殺到し、中にはわざわざ訪ねてきた経営者もいて、首尾良くカフェーの「女給」として就職が決まりました。
 
12月4日の『読売新聞』には、「ネオンの灯影に彼氏の女給ぶり」「願ひかなった女装の男性」という見出しとともに、日本橋茅場町のカフェーで男性客にお酌をする艶姿が掲載されています。
荒木繁子『読売新聞』1936年12月4日号.jpg
ただし、初日のチップは1円80銭で「ねぇ、これではあたしやってゆけないわ。お白粉代にもならないわよ」と彼女は嘆いています。

ちなみに当時の物価は、天丼が40銭、公務員の初任給が75円ですから、現在比で約2500倍くらいでしょうか。

とすると、彼女のチップは4500円見当になります(当時の女給はチップ制で固定給はありません)。
 
ところが、就職の喜びもつかの間、警視庁からの「男の女給はまかりならん」という無粋なお達しで、実働わずか2日で彼女は失職してしまいます。

理由は「善良な風俗を害し、大衆の猟奇心をそそる」というものでした。
 
さて、この文章の最初の方で「同一人であることは間違いありません」と書きましたが、実は一つだけ問題がありました。それは年齢です。
 
彼女が最初に新聞を賑わせたのは明治44年、19歳の時でした。
それから昭和11年まで25年の歳月が流れ、彼女は44歳になっているはずです。
ところが、昭和11年の新聞記事に記された年齢は、どうしても「四四」に読めません。
 
私の手元にあるのはCD-ROMの縮刷プリントなので、わざわざ国会図書館に行ってマイクロフィルムを拡大投影して確認しました。
そこに記された年齢は「三五」。彼女、9歳もサバを読んでいたことになります。

年齢のサバ読みは女心の常ですから、とやかく言うつもりはありません(私もさんざんサバを読みましたから)。
むしろ、それで通用したのですから見事と言うべきでしょう。
 
師走の寒空に再び失業の身となった彼女のその後はわかりません。
でも、ここまで女として生きたら、もう男の生活には戻れなかったでしょう。

もし、彼女が太平洋戦争の戦火をくぐって70歳まで生きたら、昭和37年(1962)まで存命のはず。
ちょっと怪しいおばあさんになっていたかもしれません。

会って、波瀾万丈の「女」の人生のお話を聞きたかったです。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第43号、2004年2月)

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日本女装昔話【第19回】錦絵新聞に描かれた明治の女装妻 [日本女装昔話]

【第19回】錦絵新聞に描かれた明治の女装妻 1870年代

前回に引き続き明治時代のお話です。
 
新聞が現在のような活字中心の紙面になる前、明治5年(1873)から8年間くらいの短い期間ですが、錦絵新聞というものがありました。
江戸時代に発達した木版画(浮世絵)の技法を用いた絵を中心に説明文を添えた一枚刷りの紙面で、新聞というよりも瓦版の発展形のようなものでした。
 
その一つ、日本で最初の日刊新聞『東京日々新聞』(明治5年2月創刊。現在の毎日新聞の前身)の明治7年(1875)10月3日号(813号)に興味深い記事があります。
女装妻(東京日日新聞18751002) (1).jpg
 
時は江戸時代末期、12代将軍徳川家慶の治世の嘉永3年(1850)、讃岐国(香川県)東上村に住むある夫婦に男の子が生まれました。
それまで子供を授かっても無事に育てられなかった夫婦は、この子供に「お乙」という名を付け、女の子として養育しました。
男の子がなかなか育たない場合には、女の子として養育すれば無事に育つという当時の風習に従ったのでした。
 
ところが、お乙は丈夫には育ったものの、あまりにも見事に「娘」として育ってしまったのです。
衣類、髪形、化粧まで娘そのもの、縫い物など娘としての素養もしっかり身につけ、しかも、なかなかに美しい容姿。
18歳になると高松藩の武家の屋敷に女中として奉公に上がりましたが、近隣の娘たちと戯れても誰も疑わないほどで、それをいいことに奉公先の娘と姦通事件を起こしたりします。
 
お乙が21歳になったころ(時代は明治になってます)、同国三木郡保元村で塗師を稼業とする早蔵という男が、お乙を見初めてしきりに口説きます。
困ったお乙は自分は女子ではないことを告白しますが、早蔵はお乙が男であることを承知で婚礼をあげ夫婦になります。

こうして3年間、お乙の「妻」としての歳月が平穏に過ぎていきました。

明治新政府は明治4年(1871)4月に戸籍法を発布し、翌5年に全国一律の「壬申戸籍」を作成しましたが、この戸籍作成作業の際に、お乙が男性であることが露見してしまいました。

25歳になっていたお乙は、丸髷(既婚女性の髪形)に結っていた長い髪を無残に切られ、男の姿にされてしまい、早蔵との結婚も無効にされてしまいます。
女装妻(東京日日新聞18751002) (4).jpg
お乙は「娘」時代に女性と性的関係を持ったことがあるように、まったくの女性的資質ではなかったようですが、生まれてからずっと女の子として育てられ「娘」になり、女性として生きることしかできなかったのでしょう。

そこに早蔵が現れ、「妻」としての生活を選んだのだと思います。

もし、新たに戸籍が作られなかったなら、二人は子供こそ出来ないものの、穏やかな夫婦生活を送れたかもしれません。
戸籍という近代の制度が、二人の幸せに水を差したのです。
 
錦絵には、ザンギリ頭ながら女物の着物姿で針仕事をするお乙と、その傍らでくつろぐ早蔵の姿が描かれています。

この絵の通りなら、お乙の性別が露見した後も、二人は別れることなく、事実上の「夫婦」として暮らしていたのかもしれません。もし、そうならば少しは気が休まる思いがします。
 
明治時代の幕開けは、文明開花という形で、人々の生活の生活を向上させ、意識を合理化しました。

性という側面でみれば、男の身体で生まれた者は男らしく男姿で、女の身体で生まれたは女らしく女姿でということが無条件に当たり前になったのです。

近代、それは、江戸時代的なあいまいな性、中間的な性の存在を許さない時代の到来だったのです。

【参考】
こちらは男装の女性の事例。
男装の女性(大阪錦画日々新聞紙 第24号).jpg
明治8年(1875)東京芝・高輪あたりで、借金の返済が滞り、貸主から暴行を受け芝・将監橋から身投げしようとしていた人力車夫。時次郎という男を、巡査が助けたところ、甲州出身で7年間も男装で暮らしていた女性であることが判明。
(『大阪錦画日々新聞紙』第24号)

【参考文献】
高橋克彦『新聞錦絵の世界(角川書店 1992年7月)
木下直之・吉見俊哉 『ニュースの誕生-かわら版と新聞錦絵の情報世界-』
(東京大学出版会 1999年11月)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第42号、2003年11月)

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日本女装昔話【第18回】明治時代の有名女装者、荒木繁子 [日本女装昔話]

【第18回】明治時代の有名女装者、荒木繁子 1910年代

平成の世も15年ともなると、明治生まれで存命の方も稀になり、明治時代は歴史そのものになろうとしています。

今までこのコーナーでは、昭和戦後の女装者の歴史を取り上げてきましたが、今回は、90年以上前の明治時代のお話です。
 
『読売新聞』明治44年(1911)3月4日の朝刊に「美人に化けた荒木繁夫」という見出しの記事が載っています。
荒木繁子(読売新聞19110304).jpg
しかも、この記事、小さいとはいえ写真入りなのです。当時の新聞の紙面には、写真は数えるほどしかありません。
記者や読者の興味津々な様子がうかがわれます。
荒木繁子 (3).jpg
当時の女性の流行の髪形である庇の張った束髪にやや面長の美貌を思わせるのこの写真、たぶん新聞に掲載された最初の女装写真ではないでしょう。
 
話題の主、荒木繁子(本名:繁夫)は、この時、花も盛りの19歳。
彼女、実は明治末~大正期にかけて「女性的男子」の典型としてちょっとした有名人でした。

この記事以外にも、性科学者として著名な田中香涯や澤田順次郎が論文や著書で繁子について述べています。

それぞれ内容が食い違うところもありますが、合わせて彼女の行状をたどってみましょう。
 
彼女は、専売局書記を勤める父の長男として名古屋市に生まれました。
年齢から逆算すると、明治26年(1893)の生まれです。
幼時から女のまねを好み、高等小学校卒業ころには、裁縫、生け花、茶の湯、琴、三味線と当時の女性の嗜みを一通り身につけ、芝居も風呂も女性と連れ立って行く始末でした。
持て余した両親は、彼女を広島県尾道の親戚に預けます。
 
ところが、そこでも化粧三昧の日々、とうとう18歳の春、髪もハイカラに結い、女性の姿となって家出、料理店の住み込み女給になって三原、岡山、姫路と山陽道を転々とし、5カ月ばかりいた料理店では、ハイカラ芸妓として評判を取ります。

その後、神戸で印刷所の女工をしていた時、ある男性に見初められて嫁入りしましたが、すぐに離縁となり、明治44年1月、生まれ故郷の名古屋に戻ってきました。

父の縁故を頼って行けば「荒木氏には長男はいたが、長女は聞いたことがない」と不審がられ、西洋料理店に雇われたものの落ち着けず、結局、名古屋市内の仏教慈恵学校の女教師を志望します。

しかし、教員の欠員がなく、炊事その他の雑務員として雇われることになりました。
 
ところが、不審な点有があるという密告によって警察に拘引されされてしまいます。
取り調べで犯罪には無関係として放免されましたが、男性であったことが露見してしまいました。
 
校長の好意で勤めは続けることはできたものの、新聞記者や物見高い人の来訪が多く、それを避けるために上京して神田淡路町あたりに住んでいるらしいという噂を記事にしたのがこの『読売新聞』だったのです。
 
ところで、繁子は別の記者に対して次のような希望を語っています。
「私はあくまでも女として世を送りたいのでございます。また、男ということを承知して嫁にもらってくださる人があれば、末永く添い遂げますわ」
 
その言葉の通り、繁子はいろいろな波乱の末、23歳の頃、ある人の世話で蚕糸会社員と結婚し、退職して郷里に帰る夫に従い、大正7年(1918)の時点では、岐阜県某村で夫、姑、小姑に嫁として仕える日々を送っていたようです。
 
繁子は、今の時代ならば、かなり典型的なMtFの性同一性障害と診断されるでしょう。
性を越えて生きたい、男として生まれながら女として人生を送りたいと願う気持ちは、明治時代も現代も変わりはないのです。
 
【参考文献】
田中香涯「女になりすました男」(『変態性欲』6-6 1925年6月)
澤田順次郎『変態性医学講話』(通俗医書刊行会 1934年6月)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第41号、2003年8月)

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日本女装昔話【第17回】和製ブルーボーイ、銀座ローズ [日本女装昔話]

【第17回】和製ブルーボーイ、銀座ローズ 1960年代

皆さんは、銀座ローズの名前をご存知ですか?。彼女は1960年代の日本で最も有名な性転換女性でした。

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美貌とスタイルの良さがわかりる(『100万人のよる』1963年3月号 季節風書房)
 
銀座ローズこと武藤真理子は、1930年(昭和5)、北海道旭川市で寿司屋を営む武藤家の長男(本名:隆夫)として生まれました。

子供の頃から女っぽく、小学生の時にはおかっぱ髪でランドセルの上に赤いショルダーバッグを下げて通い、中学生の夏休みには女装して子役の踊り子として興行師とともに北海道中を巡業したそうです。
 
1958年(昭和33)に大阪OSミュージックで本格的な舞台デビューをして「謎の舞姫」として話題になり、60年頃に去勢手術、62年頃に大阪曾根崎の荻家整形外科病院で造膣手術を受けました。
 
その翌年の1963年の暮、フランスはパリの「カルーゼル」の性転換ダンサーたちが来日公演して大きな話題になり「ブルーボーイ・ブーム」が起こりました。

銀座ローズは「和製ブルー・ボーイ」ダンサーとしてその波に乗り、興行界を賑わせることになります。

彼女の舞台は、幼い頃から鍛えた和洋両方の踊りに加えて歌も上手、その女性的な美貌もあって人気を呼び、1965~66年頃の全盛期には一般の週刊誌などにも数多く紹介されています。
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銀座ローズのステージ (『風俗奇譚』1965年1月臨時増刊)
 
当時、「和製ブルー・ボーイ」として彼女のライバルだったのが、1964年に日劇ミュージックホールでデビューしたカルーセル麻紀でした。

とは言え、まだ性転換手術を完了していなかったカルーセルに対し銀座ローズは性転換済みで、興行実績的にも彼女に軍配が上がります。
 
舞台以外に彼女を有名にした要素が二つありました。
一つは彼女が男性と「結婚」(夫が彼女の弟として入籍)生活を営んでたことで、1961年には盛大な結婚式を上げ「妻になった男」として話題になりました。
銀座ローズ(『100万人のよる』6303)2.jpg
「妻になった男」(『100万人のよる』1963年3月号 季節風書房)

もう一つは、妹の静子との対照です。
静子は女性的な兄とはまったく逆で「荒縄のおシズ」の異名をとったほど男性的で、成人後は男装で過ごし「シー坊」と呼ばれ、兄の真理子と共に「性を取り替えた兄妹」としてマスコミに紹介されました。
 
ところで、銀座ローズのことを書こうと思いながら、なかなか書けなかったのは、彼女の生年が確定できなかったからでした。

全盛期のインタビューなどでは巧みにごまかして年齢を明らかにしていません。
彼女についての最も新しい記事である「戦後風俗史オトコとオンナの証人たち」(『FOCUS』1995年8月29日臨時増刊号)に基づけば、1936年(昭和11)旧満州の生れとなりますが、どうも話の辻褄が合わないところがありました。

今回、彼女に関する初期の記事が見つかり、1930年、北海道生まれとやっと確定できました。
年齢のサバを読むのは女心の常ですし、また営業的にもある程度は必要なこと。

私もさんざんサバ読みをしたので、人のことを非難できませんが、社会史研究者としてはとても苦労させられました。
 
彼女の生年が明らかになったことによって、その全盛期が短かったのは、年齢が理由ではなかったかという推定が浮かんできました。

大阪でのデビューが28歳、人気を得た1965年にはすでに35歳だったことになります。
ライバルのカルーセル麻紀(1942年生)とはちょうど一回り12歳の差ですから、60年代末に、銀座ローズがブルーボーイ・ダンサーのトップの座を、カルーセルに明け渡さざるを得なかったのも仕方がないことでした。
 
銀座ローズは、1967年にホストクラブ「ヘラクレス」を、88年には浅草でゲイバー「銀座ローズ」を開店し、ママとして店の経営に腕をふるう一方で、31年間連れ添った旦那さんと娘さん(養女)を育てあげました。
 
高度経済成長期の夜を妖しく彩った名花の「女の一生」は、意外に家庭的だったのかもしれません。

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銀座でショッピングする銀座ローズ (『風俗奇譚』1965年1月臨時増刊)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第40号、2003年5月)

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日本女装昔話【第16回】女装芸者の活躍(その2) [日本女装昔話]

【第16回】女装芸者の活躍(その2) 1970年代~現代

前回に引き続き、男性でありながら、女性の芸者と同じような姿で、お座敷で芸を披露し接客をする女装芸者の足跡をたどります。
 
伊東温泉の「チャコ」や雄琴温泉の「よし幸」に少し遅れて、静岡県熱海温泉に「お雪」という女装芸者がいました。
熱海温泉のお雪.jpg
熱海の「お雪」 (『女性自身』1975年10月30日号)

ゲイボーイ出身で、1969(昭和44)に熱海の芸者置屋の看板を買ったのですが、地元の幇間や芸者衆から「男が芸者になるなんて」という反対の声があがりました。

しかし、猿若流の踊りの名手である彼女の芸と熱意が実って、熱海料芸組合の承認が得られ、芸者として検番登録されることになりました。

芸者2人を抱える置屋の女将でありながら自らもお座敷に出て稼ぎ、デビィ・スカルノ夫人など芸能人、著名人の贔屓客も多かったようです。
 
このように1970年代までは日本の各地で女装芸者が活躍し、地域社会でそれなりに受け入れられ、遊興客の人気を集めていたことがわかります。
 
ところで、MtFの(男性から女性への)トランスジェンダーの基本は、女性の形態を模倣することにあります。
その模倣は外的形態(ファッション)だけではなく職業形態をも模倣します。
例えば、娼婦に対する女装男娼、ホステスに対するゲイボーイ、女性ダンサーに対する女装ダンサーという具合です。

つまり、MtFトランスジェンダーの有り様は、一種のコピー文化であるとも言えるのです。
ですから、芸者が輝いていた時代に、そのコピーとしての女装芸者が存在したのも、当然なのかもしれません。
 
私が中央大学の2000年度の講義で女装芸者についてちょっと話をしたところ、山口県の湯田温泉出身の学生が「母に聞いた話ですが、湯田にもそういう人がいたそうです」とレポートに書いてくれました。
絶対数こそ少ないものの、けっこうあちこちに女装芸者はいたのではないでしょうか。

現在、女装芸者は東京向島の「真紗緒」(芸者で検番登録)ただ一人になってしまったと思われます。
女装芸者(向島・真佐緒・『週刊大衆』870209).jpg
向島の「真紗緒」 (『週刊大衆』1987年2月9日号)

真紗緒姐さんの場合はゲイバーの経営者から芸者好きが昂じての転身でしたが、やはり幇間の強い反対があり、1987年(昭和62)に芸者として認められるまでには紆余曲折があったようです。
今ではなかなかの人気でお座敷を勤めていらっしゃいます。
女装芸者(向島・真佐緒・2001年)2.jpg
真紗緒姐さんと私。「陽気な下町のおばちゃん」という印象。
(2001年10月26日「向島踊り」で)
 
日舞と長唄をよくする真紗緒姐さんを含めて女装芸者たちの特色は、踊りにしろ唄にしろ、客を引き付けるに十分なだけの技量を持っていたということです。
伊東温泉の「チャコ」のように、それに加えて本物の女性の芸者では披露をはばかるような芸(ストリップ)を持っている例もありました。
 
女装芸者であるという話題性・希少性、はっきり言えばゲテモノ性が彼女たちの人気の起点になっていることは否定できませんが、それだけでは人気は継続できなかったでしょう。

やはり、お座敷というミニ興行的な場を支えるだけの芸能が必要だったのです。
 
女装芸者は、性別越境者の芸能・飲食接客業という伝統的な職能を示すものとして、きわめて興味深い存在です。
江戸時代の陰間の伝統を受け継いだものとも考えられますし、現代のニューハーフの有り様の原像とも評価できます。
また性別越境者と興行という視点から見てもゲイバーのショーの源流のひとつとして考えられるかもしれません。
 
明治~昭和期にどれほどの女装芸者が存在したのか、その実態を解明することは今となっては難しいのが残念です。
女装芸者について、なにかご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひご教示ください。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第39号、2003年2月)

【追記】
真紗緒姐さんは、その後、残念ながら逝去され、現在(2020年)、女装芸者は、大井海岸のまつ乃家栄太郎さん(ご本人の名乗りは「女形芸者」)ただ1人になっています。
女装芸者(大井・まつ乃家・ 栄太朗) 3.jpg

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日本女装昔話【第15回】女装芸者の活躍(その1) [日本女装昔話]

【第15回】女装芸者の活躍(その1) 1960年代

女装芸者という存在をご存じでしょうか?。
 
かって日本各地の花街には、お座敷で様々な芸を披露する幇間(たいこもち)という男性芸能者がいました。
彼らを「男芸者」と呼ぶことがありましたが、これから紹介しようとするのは、それとは異なり、男性でありながら、女性の芸者と同じような姿で、お座敷で芸を披露し接客をする人たちです。
 
芸者という身分は、戸籍上の女性でなければなれないものだったので(戦前は鑑札制、戦後は検番登録制)、女装芸者の多くは非公認の存在でした。
しかし、言わば「芸者もどき」のこの手の人たちは、数こそ少ないものの日本各地の温泉地などにいたらしいのです。

今回と次回は、今は忘れ去られつつある女装芸者の足跡をたどってみたいと思います。
 
昭和の初め頃、栃木県の塩原温泉に「おいらん清ちゃん」という有名人がいました。
腕の良い髪結い職人である清ちゃんは、戸籍上は立派な男でありながら、日常の身なりも性格も女そのもので、女装には厳しい社会環境だった時期にもかかわらず、地域の人にも「女」として受け入れられていました。

清ちゃんのことが新聞で報道されると、塩原温泉に遊ぶ客の中には「清ちゃんを呼んで」と頼む人も多くなりました。

すると清ちゃんは、濃化粧に髪を結い上げた芸者姿で座敷に上がり、三味線と踊りを披露し、チップをもらっていました。
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塩原温泉の清ちゃん(右) (『風俗奇譚』1965年8月号)

写真を見ても並の女よりはるかに美貌だったようで、その人気のほどは、昭和4年(1929)1月1日(日付に注目)の読売新聞に清ちゃんの写真入りインタビュー記事が掲載されていることからもしのばれます。
 
清ちゃんが人気になる少し前、大正14年(1925)7月29日の読売新聞は、茨城県の平磯(現:那珂湊市)の大漁節の名手、女装芸者「兼ちゃん」を紹介しています。
兼ちゃんは、大酒飲みだったようですが、喉の良さに加えての美貌、「男が大好き」という媚態で人気者でした。

戦後になると女装芸者があちこちの温泉地で活躍し始めます。
栃木県の鬼怒川温泉には、昭和34年(1959)頃、「きぬ栄」という若くて美人、踊りも三味線も巧みな売り出し中の人気芸者がいました。
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鬼怒川温泉のきぬ栄(市ちゃん) (『風俗奇譚』1967年1月臨時増刊号)

彼女が市左衛門という立派な名前をもつ男性だったことが『週刊文春』の報道を通じて明らかになったのは、身請けされた旦那に結婚を迫られ困った彼女が故郷に逃げ帰ってからのことでした。
つまり、彼女は置屋の女将の計らいで、女性の芸者として登録されていたのです。(詳しくは「日本女装昔話 番外編1 女装芸者『市ちゃん』」を参照ください)

静岡県の伊東温泉には、昭和39年(1964)頃、『アサヒ芸能』などで紹介されて有名になった女装芸者チャコがいました。
女装芸者(伊東温泉チャコ).jpg
伊東温泉のチャコ (『風俗奇譚』1964年1月臨時増刊号)

チャコは藤間流の日舞の名取で、修行を積んだ踊りの基礎を生かしたお座敷ストリップ芸が得意業。おまけに歌も歌えて、女の芸者より色っぽいということで、花代(一座敷のギャラ)が一般の芸者の数倍という高値にもかかわらず、引っ張りだこの盛況でした。
 
同じころ伊東温泉には、もう一人の女装芸者がいました。
温泉街の「リオ」というキャバレーで女装ホステスしていたサトコです。彼女も呼び出しがあると、酒席に上がり、踊りを披露していました。
伊東温泉のサト子 (『風俗奇譚』1964年1月臨時増刊号).jpg 
伊東温泉のサト子 (『風俗奇譚』1964年1月臨時増刊号)
 
やはり同じころ、滋賀県雄琴温泉に「よし幸」という女装芸者がいました。
芝居の女形の前歴を生かした踊りで売れっ子でした。
雄琴温泉のよし幸 (『アサヒ芸能』1968年3月17日号).jpg
雄琴温泉のよし幸 (『アサヒ芸能』1968年3月17日号)

しかし、彼女の名が全国に知られるようになったのは、女性への性転換手術を受けことからでした。
しかも半陰陽(インターセックス)だった彼女は、1966年5月に戸籍も男性から女性へ変更し、複数の週刊誌が「性転換芸者」として大きく取り上げました。
 
このように1960年代までは日本の各地で女装芸者が活躍し、地域社会の中でそれなりに受け入れられていたのです。

なお、本稿は、鎌田意好「異装心理と女装者列伝」(『風俗奇譚』1965年8月号)などを参照しました。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第38号、2002年 11月)

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日本女装昔話【第14回】警視総監を殴った男娼「おきよ」 [日本女装昔話]

【第14回】警視総監を殴った男娼「おきよ」1940~1970年代

「この『人形のお時』さんって、警視総監を殴った人よね」
 
ここは新宿歌舞伎町区役所通り、老舗の女装スナック『ジュネ』。
前号のこのコーナーを読んでいた静香姐さんが言いました。

「それが違うんみたいなんです。殴ったのは『おきよ』さんって人らしいです」と私。
「あら、そうなの。あたしはずっと『ときよ(時代)』って人だって聞いてたわ」
 
実は私もそう聞いてました。
どうもいつの間にか伝承と事実が食い違ってしまったようなのです。

上野の男娼世界については、この連載の第1回で取り上げましたけど、調査に不十分な点が多かったので、もう一度詳しく述べてみようと思います。
 
東京の中心部のほとんどがアメリカ軍の空襲で焼け野原となった戦後の混乱期に、東京の北の玄関上野に男娼(女装のセックスワーカー)たちが姿を現します。
 
その数は、全盛期の1947~8年(昭和22~23)には50人を越えるほどになりました。
娘風や若奥様風の身ごしらえ(当時はほとんどが和装)で、山下(西郷さんの銅像の下あたり)や池の端(不忍池の畔)に立って、道行く男を誘い、上野の山の暗がりで性的サービスを行っていました。
 
そんな上野(ノガミ)の男娼の存在を全国的に名高くしたのが、1948年(昭和23)11月22日夜に起こった「警視総監殴打事件」でした。

同夜、上野の山の「狩り込み」(街娼・男娼・浮浪児などの「保護」)を視察中の田中栄一警視総監(後に衆議院議員)に随行していた新聞カメラマンが、フラッシュを光らせて街娼たちを撮影し始め、それに怒った男娼たちがカメラマンにつかみかかり、大混乱になりました。
殴打事件はその最中に起こったのです。
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「殴打事件」を報道した新聞 (毎日新聞 1947年11月23日号)

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『毎日新聞』掲載の写真の拡大

警視総監を殴り、一躍「英雄」視されることになったのは当時32歳の「おきよ」という男娼でした。

彼女は事件の7年後にこう語っています。「なんや知らんけど大勢の男たちがやって来て、いきなりカメラマンがフラッシュを光らせた。それがアタマにきたんでいちばん偉そうなのを殴ったんよ」
(広岡敬一『戦後風俗大系 わが女神たち』2000年4月 朝日出版社)
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「鉄拳の」おきよ姐さん(1955年頃)

このように事件は偶発的なものでしたが、警察にも面子があります。
当夜、暴行と公務執行妨害で彼女を含めた5人の男娼が逮捕されますが、「警視総監を殴った男娼」として自他共に認める人物はこの「おきよ」さん以外にありません。
 
それでは、なぜ「おきよ」が「ときよ(おとき)」に誤り伝えられたのでしょうか?
「鉄拳のおきよ」として有名になった彼女は、男娼生活から足を洗い1952年(昭和27)に「おきよ」というバーを浅草と新吉原(台東区千束4丁目)の中程に開店します。

店には吉行淳之介など軟派系の文化人が出入りし、またハリウッド女優エヴァ・ガードナーが来店して、乱痴気騒ぎの末に脱いだショーツを置き忘れていったり、昭和30年代には大いに繁盛しました。
 
実は、この店の看板娘が美人男娼として有名だった「人形のお時」こと「ときよ」さんだったのです。

「人形の・・・」のいわれは、「人形のように美しい」のは確かであるにしろ、実は男娼時代「人形のようにただ立ってるだけで口をきかない」ことによるのでした。
彼女はとても人を殴れるような人柄ではなかったようです。
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「人形の」お時さん (『100万人のよる』1961年4月号 季節風書房)
 
かたや武勇伝で、こなた美貌で世に知られた二人の男娼、それが「おきよ」と「ときよ」という間違えやすい名前を持ち、しかも同じ店の姐さんと妹分の関係にあったことが、語り伝えを混乱させた原因だったのです。
男娼バー「おきよ」.jpg
「おきよ」のメンバー 。
中央が「おきよ」さん、その右「ときよ」さん
(『100万人のよる』1961年4月号 季節風書房)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第37号、2002年 8月)

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日本女装昔話【第13回】女装者愛好男性の典型 西塔哲 [日本女装昔話]

【第13回】女装者愛好男性の典型 西塔哲  1960年代

「これ、僕が撮ったんですよ」「富貴クラブ」の元男性会員・紫さんは懐かしそうに写真(第5回掲載の夢野すみれさんの写真)を指さしました。
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-4

紫さんは「富貴クラブ」創設間もない頃から約20年間在籍し、最初の数年は女装したものの、大部分は男性会員として過ごした方です。
60代半ばの現在も週末は愛人(女装者)と過ごすという氏のお話を聞きながら、私は女装世界における男性の役割を考えていました。
 
女装の世界は、もちろん女装者が主役の世界ですが、女装者だけの世界ではありません。
女装者好きの男性(非女装男性)がもう一つの柱として存在し、女装者と女装者愛好男性の二本柱で成立している世界です。

その点では、東京の「エリザベス会館」のように女装者愛好男性を完全排除してしまった女装クラブの方が特異なのです。
 
身体的性別を絶対視する考え方からは理解しにくいことなのですが、こうした女装者愛好男性の意識は、ほとんどの場合、ゲイ(男性同性愛)ではなく、ヘテロセクシュアル(異性愛)です。
彼らは「女」として女装者を愛してるのであって、男同士の愛を求めているのではないのです。
 
こうした女装者愛好男性は、外国ではトラニイ・チェイサー(Tranny-Chaser)と呼ばれています。

「トラニー」とは、トランスセクシシャル(TS)、トランスジェンダー(TG)、トランスベスタイト(TV)の省略形。
「チェイサー」とは、それを追いかける人。

つまり、直訳すれば「女装者の追っかけ」、日本の俗語で言えば「かま好き」でしょう。

しかし、彼らの実態や意識をきちんと調査・分析した研究はほとんどありません(数少ない研究レポートとして黒柳俊恭「異性装しない異性装症者-二次的異性装症者のセクシュアリティ-」『imago』1990年2月号、青土社)。

M氏が「会長さんは絶対だったからね」と畏敬の念を込めて語る「富貴クラブ」会長・西塔哲こそは、そうした女装者愛好男性の典型と言える人物でした。

明治時代の末に東京浅草に生まれた彼は、子供の頃から芝居小屋や映画館に出入りし、美しい女形に不思議な興奮と興味を感じます。

新吉原遊郭で女遊びを知ったものの、大学在学中(昭和初期)に旅芝居一座の女形「蝶之助」と交際し、女装者好きの性向に火がつきます。
 
どこどこに女装者がいるらしいと聞くと、労を厭わず捜し出し会いにいく精力振りで、官僚(逓信省)として地方に出張する機会をとらえては、塩原温泉の女装芸者「おいらん清ちゃん」や大阪の男娼らとの交際を重ねます。
責め絵師で女装者愛好者でもあった伊藤晴雨とも親しく交際したのもこの時期のようです。
 
太平洋戦戦争中はシンガポールで軍務につき、戦後の男娼全盛時代には、運輸省陸運局に勤務しながら上野・新橋・新宿などの男娼のお姐さんたちと交際を続け、当時、美人男娼として有名だった「人形のお時」とは熱海へ温泉旅行を楽しんでいます。
人形のお時姐さん2.jpg
西塔氏が交際した美人男娼「人形のお時」(『風俗奇譚』1965年7月号)

 1955年(昭和30)、滋賀雄二氏が結成した日本最初のアマチュア女装同好会「演劇研究会」に参加し、同会解散後の1959年(昭和34)にアマチュア女装の秘密結社「富貴クラブ」を結成して会長となりました。
会長と会員.jpg
「富貴クラブ」の女装会員に囲まれてご満悦の西塔氏(『風俗奇譚』1963年4月臨時増刊号)
西塔哲.jpg
お気に入りの若手美人会員(夢野すみれさん?)と。
壁面のカレンダーの曜日配列から1974年(昭和49)1~2月の撮影と推定。

その後、鎌田意好(かまだいすき)の筆名で「異装心理と異装者列伝」シリーズ(『風俗奇譚』連載)、「女装群像」シリーズ(『くいーん』連載)などの実録ものや、『香炉変』(『風俗奇譚』連載)などの女装小説を多数執筆しました。
西塔哲(鎌田意好) - コピー.jpg
晩年の西塔氏。鎌倉旅行のスナップ。最晩年まで、女装者愛好を続けた(『くいーん』29号、1985年4月)
 
1989年(平成元)頃に逝去するまで女装者愛好一筋50年、「富貴クラブ」会長として君臨すること30年。

日本のアマチュア女装文化の形成に大きな役割を果たし、女装者好きという自らの性向に忠実に生きた人生は、まさに女装者愛好男性の鏡と言えるでしょう。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第36号、2002年 5月)

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日本女装昔話【第12回】「富貴クラブ」のセクシュアリティ [日本女装昔話]

【第12回】「富貴クラブ」のセクシュアリティ 1960~1970年代

1960~70年代に盛んに活動したアマチュア女装の秘密結社「富貴クラブ」(1959~90年)については、このシリーズの第4・5回で取り上げました。
富貴クラブ(小池美喜・鴨こずゑ・石渡奈美、1967年8月以降)2.jpg
「富貴クラブ」の会員、左から小池美喜・鴨こずゑ・石渡奈美さん(1967年頃)

最近、複数の元会員の方にお話をうかがうことができ、今まで不明確だったいくつかの点が、かなり明らかになりました。
 
まず、「富貴クラブ」におけるセクシュアリティ(性愛)についてです。

同クラブのシステムを特徴づけるものに男性会員(非女装で女装者を愛好する男性)の存在があります。
彼らは女装会員が外出する時のエスコート役や恋人役として重要な役割を果たしていました。
従来「富貴クラブ」の性愛関係はこうした男性会員と女装会員の関係が中心だと思われていました。

ところが、どうもそうではないようなのです。
男性会員と女装会員の関係と同じか、それ以上の比率で女装会員同士の性愛関係が濃厚だったことがわかってきました。
  
「ここには確か三畳位の小部屋があった気がするが、布団が敷いてあったりして、気の合った者同士が、そこで互いに慰め合っていたのだと思う。或る時五、六人の会員が居る座敷で、スリップだけになった若いのが、仰向けに下半身を丸出しにし、フェラチオをされていた。屹立したのを根元を把んでルージュの唇にくわえこんで、かつらの髪を揺らし揺らし、和服の中年の会員が咽喉を鳴らしていた。他の会員の誰もが見ぬふりをしているものの、初めてこうした所を見る私は、どうしていいかわからぬうちに、若い会員の方が喘ぎ始め、うめき果てるのをくわえたままの中年は、ほとばしらせたザーメンを呑みこんでしまったようだった。ああ、これが『喰う』と云うことなのかと思いながら、私のパンティの中の勃起していたものも、気がつくと腿の方まで雫を垂らしていた」

これは今回の調査で「富貴クラブ」に関する詳細な手記を提供してくださった小池美喜さん(筆名:成子素人)の思い出です。

この時はまだウブな「処女」で傍観するしかなかった小池さんも、この後、クラブの世話役だった堀江オリエさんの仕込みで「女」にされ(アナルSexを初体験)、「これからは男が慾しくて仕様がないわよ」という予言通り、数多くの男性会員や女装会員とのセックスプレイを重ねていくことになります。

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「中野の部屋」での小宴会。中央奥の着物姿が小池さん(1970年代初頃)

小池美喜(SMF197504) 2.jpg
芸者の「出の衣装」姿の小池美喜さん(『SMファンタジア』1975年4月号)

最近、小池さんが所蔵されているプライベート・ビデオを見せていただく機会がありました。
それはすべて「会員の部屋」で撮影されたもので、妖艶な着物姿の女装会員同士の相互オナニーと相互フェラチオ、女装会員による男性会員へのフェラチオ奉仕、そして様々に体位を変えてのアナルSexなどきわめて濃厚な内容でした。
 
このように「富貴クラブ」の「会員の部屋」において、女装会員同士のセックスプレイや男性会員と女装会員とのセックスプレイが「遊び」と称されて常態的に行われていたことは間違いないようです。
 
しかし、それは、決して非難されることではなく、女装者が抱くセックス・ファンタジー(性幻想)の現実化という方向性において、とても自然なことだと思われます。

むしろそうした方向性を抑圧して、女装と性幻想を無理やり切り離そうとする考えに、どこか無理があるのではないでしょうか。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第35号、2002年 2月)

【参照】成子素人さんの手記
(解説)「もう一人の私のこと -「富貴クラブ」の女装者、小池美喜の手記-」
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2017-02-18-2

成子 素人「もう一人の私 のこと」(前編)
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2017-02-18

成子 素人「もう一人の私 のこと」(後編)
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2017-02-18-1
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日本女装昔話【第11回】愛と芸に生きた女形 曾我廼家桃蝶 [日本女装昔話]

【第11回】愛と芸に生きた女形 曾我廼家桃蝶 1920~1970年代

白地に朝顔、桃、椿を日本画で描いた表紙、題字は「芸に生き、愛に生き」、表紙見返しは鮮やかな緋色、口絵写真には日本髪の女性の艶姿。
何も知らずに手に取ったら、女優さんの回想録と思ってしまうこの本の著者は、昭和の演劇界で一世を風靡した名女形、曾我廼家桃蝶(そがのや ももちょう)なのです。
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曾我廼家桃蝶『芸に生き、愛に生き』(六芸書房、1966年11月)のカバー

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曾我廼家桃蝶の艶姿。和装と洋装。

桃蝶は、本名を中村憬(さとる)といい、1900年(明治33)、島根県浜田市に生まれました。
10歳の時、父の仕事先の朝鮮京城(ソウル)に移住し、姉の手ほどきで初化粧・初女装を経験します。
子供時代から芝居、とりわけ女形に強い興味を抱き、役者を志望する女らしい少年でした。

18歳で単身帰国、新派役者桃木吉之助に入門して演劇界入りします(芸名:桃谷婦似男→美智夫)。
そして、入座してわずか10日後に急病の中堅女形の代役として京都座で初舞台(女学生役)を踏みます。
1924年(大正13)、著名な女形花柳章太郎の一座に加わり、以後、男性との恋愛を糧に女形としての芸を磨き、1930年(昭和5)、30歳の時、曾我廼家五郎一座に入座します。
そして、天性の美貌とあふれんばかりの色気が売りの花形女形となり、1966年(昭和41)の引退まで新派を代表する女形の一人として活躍しました。
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曾我廼家桃蝶の舞台姿

引退に当たって出版されたこの回想録は、6つの手紙と5つの手記を交互に配置する構成で、序文で、彼女は「女性を愛することの適わぬ男性」であり、男らしさが「どこにも全く無い」人間であることを「強いてかくそうととは一度もしたこと」がない、と「同性愛」と「女性的性向」を告白しています。

実際、その生い立ちや経歴を読むと、彼女の意識や言動はほとんど女性そのもので、女性として男性を愛していることがわかります。
 
帯に「男が男を恋うる異常な愛とセックスの大胆きわまる告白!」と記されているように、彼女の「性」の有り様は、当時の概念では「男性同性愛」と認識されていました。

現在なら、性自認が女性に強く傾いてることから、確実にMTFTG(男性から女性への性別越境者)の範疇に入るものでしょう。
 
今まで同性愛(もしくはトランスジェンダー)を明確に告白した自伝としては、1966年12月に出版された東郷健『隠花植物群』(宝文書房)が日本では最初とされてきました。
しかし、桃蝶の『芸に生き、愛に生き』(六芸書房)は、1966年11月の発行で、わずかですがそれを溯ることになります。

ところで、女装者愛好家として著名な鎌田意好氏(西塔哲「富貴クラブ」会長)は、曾我廼家五郎劇団と桃蝶について次のように述べています。
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この劇団(曾我廼家五郎劇団)ほど、多士済々の美しい女形をそろえたところは、他に見られないほどで、まさに、女形王国の観があった。
これは、座長の五郎が、有名なカマ掘り師だったので、地方、小劇団を問わず、奇麗な若い女形をかたっぱしから抜いて一座に加えたからで、その節、座長が吟味、毒味をすることはいうまでもない。
当然の結果として、ほとんどの女形が「カマ」であった。
 
曾我廼家五郎劇を見たことのない人でも、その道の人の間で、桃蝶の名を知らない人はないくらい有名な、女形というより女そのものであるかも知れない。新派の桃木吉之助の弟子で、前名を桃谷三千雄といい、曾我廼家五郎劇団に移り、桃蝶の芸名で舞台にたつや、たちまちその美貌とあふれるようなお色気で観客を魅了し去り、女形王国の五郎劇団でも、女形として最高の人気を占め、先輩大磯を抜いて立女形の位置を占めてしまった。
 
素顔で会った感じでは、舞台のお色気あふれるような、女装顔も想像できないような、失礼だが、平凡な容貌だが、一度化粧をすると、女形というより、女そのものとしての、息苦しいまでの女の魅力を発散する。芸者、メカケなどの役どころがいちばんピッタリするようだった。
私生活でも、男出入りの激しさもまた相当なもので、エピソードの多い人だ。
(鎌田意好氏「異装心理と異性装者列伝-女形の巻(1)-」『風俗奇譚』1965年4月号)
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桃蝶のような生まれつきの性別(男)では生きていけない人のための職業として、日本の伝統社会には、祭祀(巫人)、芸能(女形)、セックスワーク(陰間)の職業カテゴリーが用意されていました。

桃蝶の時代の演劇界は、まだ男性から女性への性別越境者がその特性と才能を生かして生きていく余地が残っていた世界だったのです。

ところが、戦後になると、男性から女性への性別越境者の居場所は、演劇界でも失われてしまいました。
 
桃蝶の引退と、衝撃的な自叙伝の刊行は、そうした風潮へのささやかな抵抗だったのかもしれません。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第34号、2001年 11月)

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日本女装昔話【第10回】和装女装マゾ 中村和美の世界 [日本女装昔話]

【第10回】和装女装マゾ 中村和美の世界 1970年代

女装関係のコーナーを常設し、女装関係のルポや写真、小説をほぼ毎号掲載していた性風俗総合雑誌『風俗奇譚』が1974年(昭和49)10月に終刊となり、その後継誌『SMファンタジア』も1975年9月に廃刊になると、女装関係の記事を定期的に掲載する雑誌は姿を消してしまいます。

その時から1980年6月にアマチュア女装の専門誌『くいーん』が創刊されるまでの約5年間、情報媒体を失ったアマチュア女装世界は「冬の時代」を迎えます。

この「空白の5年間」に、当時、隆盛を誇ったSM雑誌を舞台に特異な活躍を続けた一人の女装者がいました。
その名は中村和美、もしくは鶴川仙弥です。

彼女の実質的デビューは『SMセレクト』1977年8月号掲載の「濡れ菊舞台」、座長たちによって女装マゾに仕込まれていく旅回りの女形を主人公にした女装SM小説でした。
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以後、鶴川仙弥の筆名で「濡れ菊」シリーズは3作まで書かれます。さらに1978年から80年にかけて中村和美の筆名で「絢爛たる転生」「緊縛女装に憑かれて」「倒錯への転生」「女になって出直せ」「緋の情炎」などの告白手記や体験小説を複数のSM雑誌に次々に発表します。

その表題から解るように彼女は白塗り化粧に潰し島田の髪、緋色の襦袢や腰巻をこよなく愛する女形フェチであり、その姿のまま緊縛され辱められ、男性に肛交されることを好む典型的な和装女装マゾでした。

つまり「濡れ菊」シリーズで被虐の快感に目覚めていく女形仙弥は、中村和美の分身だったのです。
 
こうした彼女の特異な作風は、作品に添えられた彼女の和装緊縛写真と相まって、一部の読者に強烈な興奮を与えました。

彼女の実質的な執筆活動は、わずか5年足らずの短期間だったにもかかわらず、それが偶然にも「空白の5年間」に当たっていたこともあって、女装世界に残した印象は鮮烈なものがありました。

それは長い伝統を持つ和装女装の世界が放った最後の光芒だったのかもしれません。

2000年の秋、私は新宿歌舞伎町の老舗女装スナック「ジュネ」で中村和美さんにお目にかかり、お話をうかがう機会がありました。

ここに掲載した写真は、その時にいただいた中村和美の妖艶な被虐美の世界を物語る未発表写真です。

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美しく装って「床入り」を待つ。

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緋色の腰巻姿での緊縛。足元には責め具の巨大な鼻の天狗の面。

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白粉を塗られた胸に朱縄がくいこむ。

女形の姿で、男性に犯されながら、ペニスをしごかれる、女装マゾにとっての最大の悦楽、一度、女にされて犯されることの快楽を徹底的に仕込まれたら、もう抜け出すのは難しい、と和美さんは言います。

和美さんは、平日の昼間はどこから見ても男性ビジネスマン、週末の夜になると女形の姿で何人もの男に犯され被虐の悦びに溺れるという二重生活を20年近く続けます。
青年時代の中村さん - コピー.jpg女にされた中村さん (2).jpg
(左)青年時代の中村さん (右)女にされた中村さん
顔の輪郭がそっくり。こんなことになるとは思ってもいなかっただろでしょう。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第33号、2001年 8月)

【参照】
中村和美さんについての詳細(ここでは掲載不能な写真多数)は、下記をご覧ください。

秘められた女装者たちの手記 昭和を生きた女装者たちの記録
「責め場の女形に憑かれて-中村和美さんからの手紙-」
http://junko0523.blog.fc2.com/blog-entry-1.html
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日本女装昔話【第9回】歌舞伎女形系の女装料亭「音羽」 [日本女装昔話]

【第9回】歌舞伎女形系の女装料亭「音羽」 1960年代

戦前や戦後のある時期まで、一般人に最も身近な女装者といえば、芝居の女形でした。
上は正統歌舞伎(旧派)から、新派の各劇団、下は旅回りの一座まで、芝居と言えば女形は付きもの。

そうした女形の艶姿に魅せられた女装願望者や女装者愛好の男性は数限りなかったことでしょう。
今の若い女装者が、浜崎あゆみのファッションをまねるのと同じように、ある時代までの女装者は、名女形(例えば六世中村歌右衛門とか)の華麗な衣装にあこがれたのでした。
 
そうした女形へのあこがれをかなえてくれたのが、1960年(昭和35)頃、東京青山の青葉町(現・渋谷区神宮前5丁目)に開店した料亭「音羽」でした。

経営者は六世尾上菊五郎の弟子だった女形の尾上朝之助。
店には本職とアルバイトを交えて、文哉ママを筆頭に20~26歳の美青年たち12~13人が在籍。
朝之助丈の指導のもと、白塗の本化粧、島田髷に本物の歌舞伎衣装を身にまとった艶やかな芸者姿で接客にあたる純和風のゲイバーでした。
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「音羽」の座敷では踊りや寸劇を披露した。これは「忠臣蔵九段目」。

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「青山 音羽」の記された暖簾をくぐる。
(いずれも、掲載誌不明 風俗文献資料館所蔵)

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文哉ママの艶姿 (『風俗奇譚』1962年8月号)
 
アルバイト女形の青年たちは、昼は会社員や学生が多かったようで、ここで和装女装の魅力を覚えて後にアマチュア女装の世界で活躍した方も何人かいました。

ご存知のとおり、江戸時代の歌舞伎の女形は、女装接客業である陰間茶屋と表裏一体の関係にありました。

舞台の役に恵まれない女形や舞台に立てない女形志望者は、陰間茶屋で生活の糧を得て、また女形好きの男性(女性)は陰間茶屋の客になることで願望を満たしたのでした。

そうした意味で、「音羽」の営業スタイルは、陰間茶屋の復活と言うべきでしょう。
 
歌舞伎女形系の店としては、他にも中村扇雀(扇千景国土交通大臣の夫君)の弟子だった中村扇駒らが役者を廃業して1974年に大阪ミナミに開店した和風ゲイバー「高島田」がありました。
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「高島田」のホステスたち。(『週刊大衆』1974年5月31日号)

しかし、女形や芸者姿にあこがれを感じる女装者や魅力を感じる男性は、年々減っていきます。

世の中の女性のファッションも1970年代になると急速に着物離れが進行します。
「音羽」も「高島田」も、こうした時代の流れの中に姿を消していきました。
 
今では相当な老舗ゲイバーの大ママクラスでなければ、芸者姿はしないでしょう。

新宿のアマチュア女装世界でも、お正月に艶やかな芸者姿を披露してくださるのは久保島静香姐さん一人だけです。寂しく思うのは私だけでしょうか。

 (初出:『ニューハーフ倶楽部』第32号、2001年 5月)

【参照】「音羽」関連
「責 め 場 の 女 形 に 憑 か れ て―中村和美さんからの手紙―」【1】「音羽」を知る
http://junko0523.blog.fc2.com/blog-entry-3.html

「責 め 場 の 女 形 に 憑 か れ て―中村和美さんからの手紙―」【2】「音羽」に通う
http://junko0523.blog.fc2.com/blog-entry-4.html

「半玉体験記-ある大先輩の思い出話・1960年代初頭の女装世界-」
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2013-02-10
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日本女装昔話【第8回】ブルーボーイの衝撃― パリ「カルーゼル」一行の来日 ― [日本女装昔話]

【第8回】ブルーボーイの衝撃―パリ「カルーゼル」一行の来日― 1960年代

1963年の末、フランス(パリ)のショー・クラブ「カルーゼル」の女装ダンサー、キャプシーヌ一行が来日して、東京のクラブ「ゴールデン赤坂」でショーを上演しました。
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1963年11月の第1回公演(『週刊現代』1963年12月12日号)

好評に気を良くした主催者は翌1964年11月には、キャプシーヌと並ぶトップスター、バンビを中心とするメンバー5人を招請して「飾り窓の貴婦人たち」と題するロング公演を行います。
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1964年11月の第2回公演のパンフレット。モデルはバンビ
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第2回公演のメンバー紹介
(山崎淳子コレクションより)
 
「ブルーボーイ」と呼ばれた彼女たちのショーは次第に話題を呼び、1965年末のソニーテールを中心とした第3回公演は週刊誌など一般メディアにも取り上げられいわゆる「ブルーボーイ・ブーム」を巻き起こします。
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1965年の第3回公演のメンバー(掲載誌不明、山崎淳子コレクションより)

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(左)ソニーテール (右)キスミ―
(いずれも掲載誌不明、山崎淳子コレクションより)

「ブルーボーイ」の来日は、第3回公演を終えて帰国する一行を乗せたイギリス海外航空(BOAC)機が、1966年3月5日、富士山麓に墜落し乗員全員が死亡するという悲劇によって幕を閉じます。

しかし、異国の空に散った彼女たちが日本の女装ビジネス世界に残した遺産はとても大きなものがありました。
 
その第一は、豪華でセクシーな衣装に彩られた見事に女性化した肉体の魅力です。彼女たちはその人工の女性美を日本の男性にたっぷりアピールしたのです。

第2回公演には、当時の日本を代表するゲイボー イである青江、ケニー、ジミーの3人がジョイント参加していますが、日本舞踊を基礎にした日本勢の舞台は、その点では敵うすべがありませんでした。

1960年代後半から70年代に活躍する銀座ローズ(武藤真理子)や、「カルーゼル」の名を間接的に受け継いだカルーセル麻紀のような女性的身体をセールスポイントにする性転換ダンサーの出現は、この「ブルーボーイ・ブーム」の延長上にあったのです。
 
第二は、訓練された踊りと歌で構成された性転換&女装ショーがショービジネスとして成立することを教えてくれたことです。

1970年代に出現する「プティ・シャトー」(西麻布)に代表されるフロアーショーを重視したゲイバーは、このブルーボーイ・ショーの影響を受けたものと考えられます。
 
1960年代後半から70年代にかけて日本の女装ビジネス世界、つまり「ゲイバー世界」では、ホモセクシュアル世界との分離、ゲイボーイの女性化、ショービジネス化の3つの流れが進行していきます。

「カルーゼル」のブルーボーイの来日は、そうした潮流の原点として、日本の女装ビジネス世界にとって幕末の「黒船来航」に匹敵する衝撃だったのです。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第31号、2001年 1月)

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日本女装昔話【第7回】最初の性転換ヌードダンサー-―吉本一二三と高橋京子 ― [日本女装昔話]

【第7回】最初の性転換ヌードダンサー-―吉本一二三と高橋京子 ― 1960年代

「踊りって言えるような代物じゃなかったけども、なにしろ性転換した人の裸なんて初めてでしょ。けっこうな大当たりだったのよ」
 
1961年に浅草ロック座で性転換女性吉本一二三と高橋京子のヌードショーを実見したある女装の先輩が、こう語ってくれました。
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『週刊特集実話NEWS』32号(1961年12月28日号、日本文華社)

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舞台姿の吉本一二三(右)と高橋京子(掲載誌不明、 山崎淳子コレクションより)

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吉本一二三のヌードショー(掲載誌不明、 山崎淳子コレクションより)

吉本一二三は、1950年代から美貌とファッションセンスの良さがウリの男娼として銀座・新橋界隈ではかなり知られた存在でした。
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男娼時代の吉本一二三(1952年頃)
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芸者姿の吉本一二三(1952年頃)
(広岡敬一『昭和色街美人帖』自由国民社 2001年6月より)

女に成り切りたいと思った彼女は、東京のある病院で3年間の歳月と90万円の費用(電車の初乗りが10円だった時代)をかけて1960年に性転換手術を完了します。
そして、妹分である女形出身の性転換女性高橋京子とともに、この年、性転換ヌードダンサーとしての初舞台を踏んだのでした。
 
日本における男性から女性への性転換は、1951年に東京の日本医科大学付属病院で手術を受けた永井明子が第1号であることはほぼ間違いありません。

1952年末に世界的な話題をさらった元アメリカ軍兵士クリスチーナ・ジョルゲンセンの性転換(1952年2月にデンマークで手術)に先立つものでした。
現在と違って当時の日本は性転換手術の先進国だったのです。

その後、松平多恵子(1953年に去勢手術)、緑川雅美(吉川香代 1954年手術。仮性半陰陽)、椎名敏江(1955年手術)などが性転換女性として週刊誌などに報道され、吉本や高橋の性転換手術はそれらに続くものでした。

この内、松平を除く3人は歌手としてステージに立ちましたが、女性に転換した裸体を観衆の目に露にすることはありませんでした。
そうした点で、吉本と高橋のヌードショーへの進出は画期的なことだったのです。
 
彼女たちの舞台は、大衆的な興味を呼んで興業的にも大成功、舞台の写真や吉本の手記が週刊誌に掲載されるなど一時はマスコミの注目を集めました。

当時、女装者愛好の男性としては第一人者だった鎌田意好(富貴クラブ会長)も、吉本について「ヌードは元これが男性だったとはとても思えない。・・・本物の女性以上かもしれない妖しい魅力があった」と語っています(『くいーん』22号)。
 
性転換ダンサーの系譜は、その後、銀座ローズ(武藤真理子 1960年手術)、ジュリアン・ジュリー(山本珠里 1968年手術)などを経て、カルーセル麻紀(1973年にモロッコで手術)へと受け継がれることになります。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第30号、2000年 11月)

【追記】吉本一二三関係の資料集成
【資料紹介①】「(話題スナップ)おとこからおんなになった性転換の妖艶ストリッパー」 
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2013-01-12
【資料紹介②】「(人物クローズアップ)舞台に賭ける性転換のストリッパー」
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2013-01-23
【資料紹介③】「性の転換をした人」
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2013-01-23-1
【資料紹介④】「男が女になったとき」
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2013-01-23-2
【資料紹介⑤】「男から女に性転換のストリッパー」
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2013-01-25
【資料紹介⑥】「男芸者ナンバー・ワンになるまで」
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2013-02-08
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日本女装昔話【第6回】女装スナック「梢」 ―新宿女装世界の原像 ― [日本女装昔話]

【第6回】女装スナック「梢」 ―新宿女装世界の原像 ― 1960~1970年代

新宿花園神社の裏手に昭和30年代の残り香をとどめるゴールデン街地区、その「花園五番街」のアーケードをくぐった左側の2軒目(手前の駐車場は著名な女装スナック『ジュネ』の旧跡)に、入口のサイドを鉄平石で化粧した建物があります。
今は無人で荒れ果てていますが、ここが新宿女装世界の原点とも言えるスナック「梢」があった場所なのです。
 
1967年(昭和42)2月、アマチュア女装秘密結社「富貴クラブ」の有力会員である加茂梢さんが新宿花園五番街にスナック「ふき」を開店しました。
これが東京における最初のアマチュア女装系の飲食店でした。
翌年2月、加茂グループは「富貴クラブ」を事実上除名され、1969年9月には店名を「梢」と改称し、独自の立場でアマチュア女装者の育成を開始します。
 
プロの女装従業員が男性客を接客するゲイバーと異なり、「梢」はアマチュア女装者が客あるいは臨時従業員(ホステス)として、女装者愛好の男性客と空間を共にするという新しい営業スタイルをとりました。

つまり、女装者と女装者愛好男性の「男女」の出会いの場としての機能をお店に持たせたのです。

「梢」の出現によって、プロの女装世界(ゲイバー)と純粋なアマチュア女装世界(富貴クラブ)の中間に女装スナックを場とする新宿のセミプロ的な女装世界の原型が形成されたのです。
 
加茂梢さんは、1923年(大正12)、静岡県浜松市に生れ、学徒出陣から復員して読売新聞社に入社して21年間在職された方です。

「富貴クラブ」の会員としてアマチュア女装から出発し、セミプロ、そしてプロの女装世界へという「華麗」な転身ぶりは、大新聞社の元社員という経歴もあって、当時のマスコミでかなり話題になりました。
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「富貴クラブ」時代の加茂梢さん(『風俗奇譚』1966年5月号)

『女性自身』『週刊ポスト』にロング・インタビューが掲載されたほか、テレビやラジオにも出演しています。
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全盛期の加茂梢さん(『女性自身』1969年9月6日号)

しかし、「梢」の創業とともに彼女の名を不朽にしたのは『風俗奇譚』1967年6月号から連載を開始した「女装交友録」でしょう。

1974年1月号まで足掛け8年80回に及ぶ長期連載となったこの随筆は、加茂梢というひとりの女装者の人生を記しただけでなく、彼女を取り巻く大勢の女装者の生態、そして新宿女装世界の揺籃期の記録として日本女装史の貴重な資料となりました。
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「梢」の前に立つ美人女装者。アシスタントの洋子さん(『風俗奇譚』1971年3月号) 
 
ところで、梢さんは1970年9月に『女装交遊録』という単行本を太陽文芸社から出版ています。
古本屋などをかなり探したのですが、まだ手に入っていません(コピーは入手できました)。
もし、お持ちの方がいらっしゃいましたら、譲っていただけたら、とってもうれしいのですが。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第29号、2000年 8月)
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日本女装昔話【第5回】女装秘密結社「富貴クラブ」(その2) [日本女装昔話]

【第5回】女装秘密結社「富貴クラブ」(その2)(1960~1970年代)

前回は1960年代から80年代に活動したアマチュア女装秘密結社「富貴クラブ」の基本姿勢と秘密管理の様子を取り上げました。今回は「富貴クラブ」の運営システムについて述べてみましょう。
 
従来の女装サークルに比べて「富貴クラブ」が大きく飛躍した点のひとつが、会員が共同で使える女装支度用の部屋「会員の部屋」を設けたことです。

1962年(昭和37)に中野区高円寺に会員有志が一室を借りたのが最初らしく、1964年春には会として新宿区柏木2丁目(現在の北新宿2丁目)に「会員の家」を開設しました。

その後、1965年夏に新宿区番衆町(現:新宿5丁目)に、1968年2月に新宿区諏訪町(現:西早稲田2丁目)に移り、1970年末頃に神宮外苑の森を見下ろせる東中野(中野区中央2丁目)の12階建てのマンションに落ち着きます。
 
この「中野の部屋」は3DK、その頃の住環境としては、かなり近代的な部屋だったようで、高層ビルを背景にベランダでポーズをとる会員の女装写真が残されています。

当時の会員は約80名、会費は月額1000円で、他に「部屋」を利用するたびに3000円を納める決まりだったそうです。

コーヒーが120円だった時代ですから決して安価ではありません。
「富貴クラブ」の会員が裕福な社会的エリート層中心だったことがうなづけます。

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中野の「会員の部屋」で

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「富貴クラブ」会員のポートレート(内野博子さん) 『風俗奇譚』1966年1月号

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「富貴クラブ」会員のポートレート(小山啓子さん) 『風俗奇譚』1966年3月号

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中野「会員の部屋」のベランダでバーベキュー・パーティ。
写っているのは、当時の「若手美人三人娘」の一人、夢野すみれさん(1973~74年頃)。

また、「部屋」には堀江オリエさんという女装のプロだった方が常駐していて、女装の指導と部屋の管理を担当してました。

単なる着替えの場に止まらず、新人女装者の育成の場という機能を持たせたところにも「富貴クラブ」の先進性がうかがえます。

こうした専任の美容指導員を置いた女装施設という発想は、1979年に開店する商業女装クラブ「エリザベス会館」のシステムの原型となり、また80年代以降の新宿の女装スナック「ジュネ」のシステムにも影響を与えたと思われます。
 
「富貴クラブ」のシステムでもうひとつ指摘しておきたいのは、男性会員の存在です。

鎌田会長がそうであったように自身は女装しない女装者愛好の男性たちで、人数的には全会員の1割程度と推測されますが、彼らは女装会員の外出時のエスコート役や恋人役として重要な役割を果たしていました。

ただ彼らと女装会員の関係の奥深い部分、つまりセクシュアルな関係については、現段階の調査では詳らかにできません。
 
このように「富貴クラブ」の実態を、残されている文献資料だけから明らかにするには限界があり、どうしても当時を知る方の口述資料が必要です。

20世紀の女装文化の歴史を正しく記録し未来に伝えるという趣旨をご理解の上で、匿名で結構ですのでインタビューに応じてくださる方がいらっしゃいましたら、ぜひ三橋までご一報ください。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第28号、2000年 5月)
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日本女装昔話【第4回】女装秘密結社「富貴クラブ」(その1) [日本女装昔話]

【第4回】女装秘密結社「富貴クラブ」(その1)(1960~1970年代)

ようやく春めいてきた3月のある日の午後、私は東京神楽坂の「風俗文献資料館」で女装関係の書棚に置かれていた2冊の分厚い未整理ファイルを調べていました。

中には1950年代初頭から70年代末頃までの女装関係の雑誌スクラップや女装写真のプリントがぎっしり詰まっていて、一見して貴重なものであることがわかります。

丁寧に見ていくと60年代から80年代にかけて活動したアマチュア女装秘密結社「富貴クラブ」の入会案内や申込書が出てきたではありませんか!。
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「富貴クラブ」の「入会申込書」(「風俗文献資料館」所蔵)
 
私は「大発見」に踊る心を抑えながら、館長の高倉一さんに「このファイルの出所について差し支えない範囲で教えていただけませんか」とお願いしました。

館長さんは「これは富貴クラブという女装の会の会長だった鎌田さんのものですよ」とおっしゃいました。
こうして秘密のベールに包まれた「富貴クラブ」の実像に迫る糸口が見つかったのです。
 
「富貴クラブ」は、戦前からの熱心な女装者愛好家である鎌田意好(西塔哲)氏が、女装グループ「演劇研究会」(1958年解散)の残党とともに1959年(昭和34)に結成したアマチュア女装の秘密結社です。

会長の独裁的権限の元で厳重な会員管理と秘密保持を行い、一般マスコミに登場することは稀だったにもかかわらず、1960年頃から80年頃までのおよそ20年間、日本のアマチュア女装世界をリードした本格的な女装クラブでした(1990年に解散)。

しかし、そのあまりの秘密性のため、「富貴クラブ」については不明な点が多く、その実態を語る資料は提携関係にあった『風俗奇譚』誌上に掲載された記事以外、ほとんど残っていない状態だったのです。
 
「富貴クラブ」の基本姿勢は発見された800字ほどの「入会案内」によく示されています。勧誘の対象は「女装者をSEX対象としたり又一時的にも女装をして女の世界で別の人間になりたい願望の人」であり、「富貴クラブはそんな願望はあるが一面良識ある社会人としてのプライドを持つ人々で構成され」ていること、「女装を職業としたり、はっきりしない素性の人は入会を断って」いること、入会希望者は、会と会員の安全のために入会申込書に規定通りの記入をしなければならないこと、などです。
 
その「入会申込書」には、氏名・生年月日・現住所・電話・勤務先(所在地・電話)・卒業(在学)校名・既婚未婚・身長体重など極めて詳細な記入事項があり、末尾に「この申込書は会長だけの秘密保管で、クラブ会員には公表しない、クラブ内では匿名のまま交際、行動できるので君の秘密は完全に保持される」という文言が付されていました。

このクラブの厳重な入会手続きと秘密管理の実際がよくうかがえます。(続く)


鎌田意好氏所蔵の女装者を描いたペン画(1968年頃)_2.jpg
鎌田意好氏所蔵の女装者を描いたペン画(1968年頃)

鎌田氏コレクションから「雲助に襲われた娘の股間に一物が!」.jpg鎌田氏コレクションから「女装者と旦那のくつろぎの一時」.jpg
鎌田氏コレクションから「女装者と旦那のくつろぎの一時」(いずれも「風俗文献資料館」所蔵)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第27号、2000年 1月)
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日本女装昔話【第3回】1960年代の女装世界を語る雑誌『風俗奇譚』 [日本女装昔話]

【第3回】1960年代の女装世界を語る雑誌『風俗奇譚』(1960~1970年代前半)

『風俗奇譚』という雑誌をご存じでしょうか?。50歳以上のオジ様の中には懐かしく思い出される方も多いと思います。

『風俗奇譚』は1960年(昭和35)1月に文献資料刊行会から創刊された性風俗雑誌です。
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『風俗奇譚』創刊号 (1960年1月号)

その内容はSMを中心に、ゲイ・レズビアン、レザー・ラバー・乗馬・腹切り・女格闘技などの各種フェティシズム、そして女装と、多種多様な性的嗜好を大集合させた感じの「総合変態雑誌」でした。
    
同種の雑誌には先発の『奇譚クラブ』がありましたが、『風奇』の大きな特色は、その資料性・文学性の高さとともに女装関係記事にかなりの比重を置いたことです。

創刊間もない1960年9月号で「女装する男たち」という特集を組んでいますし、1961年1月号からは女装者専用の交際欄「女装愛好の部屋」を設置しています。

わずか見開き1枚2頁の小コーナーでしたが、女装に関する情報を毎号必ず掲載している雑誌は他に無く、このたった2頁のために同誌を購入する女装愛好者も少なくなかったそうです。
      
1963年になると、その頃活動を活発化させていたアマチュア女装結社「富貴クラブ」との提携が成立し、同会のルートで質量ともに豊富な素材が提供されるようになり、『風奇』の女装関連記事は他誌の追従を許さない充実したものになっていきます。

華かな「富貴クラブ」のパーティのルポや女装旅行や女装ドライブの様子を記した会員の手記は、当時の一般女装者には夢のような世界だったと思います。

またグラビア頁には「富貴クラブ」会員などの女装ポートレート「女装紳士録」が掲載されるようになり、その艶姿は全国の女装者・女装者愛好男性の垂涎の的となりました。
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『風俗奇譚』1962年10月号掲載の「女装紳士録」。
モデルは当時の花形女装者小野悠子さん。
    
1967年(昭和42)6月号からは、加茂梢さんの「女装交友録」の連載が開始されます。新宿花園五番街の女装スナック「梢」のママの連載は、1974年(昭和49)1月号まで足掛け8年間80回に及ぶ長期連載となり、新宿女装世界の揺籃期の貴重な記録となりました。

1968年からは、富貴クラブ会長鎌田意好氏執筆の女装SM小説が連載されるようになり、中でも1972年連載開始の「香炉変」は傑作の評を今でも耳にします。
     
『風俗奇譚』は通巻216号に当たる1974年10月号を最後に誌名を『SMファンタジア』と改称しましたが、それもつかの間で1975年(昭和50)9月号をもって終刊を迎えます。
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『SMファンタジア』終刊号 (1975年9月号)

1960年から70年代にかけて女装文化を側面から支え記録した同誌の意義は、たいへん大きなものがあったと思います。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第26号、1999年 11月)
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日本女装昔話【第2回】最初のアマチュア女装集団 [日本女装昔話]

【第2回】最初のアマチュア女装集団「演劇研究会」(1950年代後半)

私の手元に紙も黄ばみインクも薄れた謄写版印刷の薄い冊子が9冊ほどあります。
表紙には『演劇評論』と記されています。これこそが日本最初のアマチュア女装グループ「演劇研究会」の会誌です。

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『演劇評論』23・24合併号(1957年11月発行)の表紙。謄写版印刷48ページ。
 
日本の女装は、江戸時代以来長らく演劇、とりわけ歌舞伎の女形と密接な関係にありました。
実際、戦前に思春期を送った女装の先輩たちの手記を読むと、地方芝居の女形の妖艶さに魅了された思い出とか、芝居一座に頼み込んで女形の扮装をさせてもらった話とかがよく出てきます。
 
1955年(昭和30)10月に滋賀雄二氏を中心に10数名の会員で発足した「演劇研究会」は、そうした流れを受け継いで、演劇、とりわけ女形を研究することを、女装趣味の隠蓑にしたグループでした。

その証拠に会誌『演劇評論』は、名称にふさわしい演劇関係の記事はほんの僅かで、ほとんどが女装をテーマにした創作や告白体験記で占められています。

また、研究資料の名目で会員の女装写真の頒布を行ったり、「小道具部」と称して鬘や衣装の貸し出しもしていました。
 
会誌に掲載された体験記などを読むと、ようやく戦後の混乱から抜け出したものの昭和30年代初頭というまだ閉鎖的な社会状況の中で、先輩たちが苦心を重ねて女装に取り組んでいる姿が浮かび上がってきます。

中には北野国太郎「女装ホルモン体験記」(16号)や、当時としては画期的な女装水着写真を貼り込んだ加藤美智子「女装日記抄」(23・24合併号)のような先鋭的なものもあります。
 
さて同会は、2周年を迎えた1957年秋には会員数65名に達しましたが、会費の滞納や会員間の交際問題などから活力を失い、『演劇評論』の刊行も滞り(25号まで確認)、一枚刷りの『演研通信』(6号まで確認)がそれに代わりますが、1958年(昭和33)末には解散したようです。
 
わずか3年間という短い活動期間でしたが「演劇研究会」の意義は決して小さくありません。

それは、主宰の滋賀氏が「われわれが社会人として生活している以上、女装愛好には一定の限界線がある」「割り切った心構えで女装愛好を実行し、その時間や場所の選定に細心の注意をはらわなくてはならない」(20号の巻頭文)と述べているように、「女装を生活の糧にしている女形や舞踏師匠や男娼」と明確に区別された趣味としての女装(アマチュアリズム)をはっきりと提唱した点にあります。

その基本理念と人脈は、1960~70年代に活発に活動する本格的なアマチュア女装集団「富貴クラブ」へと受け継がれていくことになるのです。

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11号以降には謄写版印刷の口絵(伊集院明山氏)が付されていた。
21号の口絵は「夏化粧」。
当時の女装の主流が和装・日本髪・和化粧(水化粧)であったことをうかがわせる。
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22・23合併号の口絵は二色刷りの「朝化粧」。
男が目を覚ます前に化粧を済ませるのは「女」のたしなみだった。
緋色の長襦袢がなまめかしい。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第25号、1999年 6月)
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日本女装昔話【第1回】上野の森の女装男娼 [日本女装昔話]

【第1回】上野の森の男娼(1940年代後半) 

「中学に入ったばかりのあたしはね、『男娼』て言葉に胸をジーンとさせたものなのよ」
  
昨年めでたく女装生活50周年を新宿ワシントンホテルで華やかに祝った「ジュネ」(新宿歌舞伎町)の久保島静香姐さんは、遠い少年の日を懐かしむように語ってくれました。
     
少年時代の静香姐さんが胸をときめかせた「男娼」とは、昭和20年代前半、アメリカ軍の空襲で焼け野原となった東京が、敗戦後の食糧難・物資不足による混乱の最中にあった頃、上野を中心に活躍した女装のセックス・ワーカーたちのことです。

戦後日本の女装史を語るにあたっては、まず彼女たちに登場してもらわなければなりません。
  
彼女たちは、夕闇が濃くなる頃、上野の西郷さんの銅像の下あたり(山下)や不忍池の畔り(池端)に立って道行く男を誘い、上野のお山の暗がりの中で(つまり露天で)、性的サービスを行ったのです。

終戦間も無い1946年(昭和21)初めからぽつぽつ姿が目立つようになり、全盛期は1947~48年(昭和22~23)で、その数は30人を数えるほどでした。
   
彼女たちの出身はさまざまで戦前から浅草辺りで薄化粧で客を引いていた「男色者」、戦災で活躍舞台を失った女装演劇者(「女形崩れ」)、軍隊生活で受け身の同性愛に目覚めた復員兵などが中核でした。

年齢は23歳から45歳で、平均は30歳(1948年の調査)、案外、年齢が高いところに彼女たちの辛苦の人生がしのばれます。

現在、わずかに残されている写真を見ると、彼女たちの多くは、当時の女性ファッションの主流だった和装が中心で、洋装の人はまだ少なかったようです。

容姿もさまざまで、女性としても美形の部類に入る人もいれば、ただ女装したオジさんに近い人もいました。
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上野の女装男娼随一の美貌を誇った「人形のお時」姐さん(上野駅で)。
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洋装の女装男娼(上野警察署で)
         
そうした彼女たちの生態をもっともよくうかがうことができるのは1949年4月に刊行された小説、角達也『男娼の森』(日比谷出版)です。
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これによると彼女たちは、自分たちを「オンナガタ」と称し、仲間を「ご連さん」と呼び、数人単位で上野駅に近い下谷万年町(現・東上野4丁目)などのアパートに住み、仕事場である上野の山では、男娼群全体を代表する「お姐さん(姐御)」に統率されていたようです。

上野を本拠地とする数多い女性の街娼(パンパン)達に比べれば、おそらく10分の1程度の小集団だったようですけども、それだけに団結は固く、また何か事が起こると、日ごろはライバル関係にある女娼であっても庇ってやるような「男気」のある「お姐さん」もいたようです。
     
1948年11月、警視総監田中栄一(後に衆議院議員)が上野の山を視察中にトラブルとなり、男娼に殴打されという事件が起こります。

以後、警察は上野の山を夜間立ち入り禁止にするなど、そのメンツにかけて風紀取締(狩込み)を強化しまた。

これによって上野の女装男娼の全盛は終わりを告げ、彼女たちは、新橋や新宿など都内各地の盛り場に新天地を求めて散って行ったでした。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第24号、1999年 3月)
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