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新宿グランドツアー【1】新宿駅東口広場 -ツアーをスタートする前にー [新宿グランドツアー]

新宿、性社会史グランドツアー

― 江戸から現代まで、ヘテロセクシュアル、ホモセクシュアル、トランスジェンダーが織りなす新宿の歴史地理―

    案内人:三橋 順子 
 
【1】新宿駅東口広場 -ツアーをスタートする前にー

(1)新宿駅の立地と歴史

グランドツアー地図(2).jpg

今日は、「江戸から現代まで、ヘテロセクシュアル、ホモセクシュアル、トランスジェンダーが織りなす新宿の歴史地理、新宿、性社会史ツアー」にご参加くださり、ありがとうございます。私が案内人の三橋順子です。よろしくお願いいたします。

皆さんが今、降りてこられた新宿駅は、明治18年(1885)、日本鉄道品川線(品川~赤羽:現在のJR山手線の原型)が開通するにともなって設置されました。明治5年(1872)に、新橋~横浜間に日本最初の鉄道が開通してから13年後のことでした。

駅の場所は、宿場町(内藤新宿)の西の外れの「追分」から、さらに西に行った所で、地籍は内藤新宿を外れて、豊多摩郡角筈(つのはず)村でした。つまり、新宿駅は、厳密には新宿ではなく「角筈の停車場」だったのです。

開業当時、駅の周辺には民家は1軒もなく、ほとんど畑地と欅(けやき)の森でした。宿場町の中心から約1kmも離れていて不便だったため、乗降客は1日に50人程度でいたって少なく、もっぱら貨物中心の駅でした。現在の新宿駅の平均乗降者数は、346万人で日本一、いや世界一です。この130年間の新宿駅の大発展が、どれだけすさまじいものであったかがわかります。

当時の新宿駅で取り扱っていた貨物は、材木、薪炭が中心で、あとは野菜や米などでした。駅の周辺には、貨車から下ろされた材木や炭を扱う問屋が何軒か立っていました。現在、東口の新宿通り沿いにビルを構える「紀伊国屋書店」も、材木商→薪炭問屋→書店という来歴をもっています。

さて、その後の新宿駅ですが、明治22年(1889)、甲武鉄道が新宿から八王子までの路線(現:JR中央線)を開通しますと、新宿駅は2線が接続する乗換駅になります。

明治36年(1903)には、東京市電の新宿駅前~月島通八丁目(後の都電11系統)と新宿駅前~岩本町(後に両国駅前まで延伸して都電12系統)の2路線が新宿駅東口に乗り入れます。さらに角筈~万世橋(後に水天宮前まで延伸して都電13系統)が加わります。

大正期になると、私鉄の新宿乗り入れが始まります。まず、大正4年(1915)に京王電気軌道(起点は八王子。現:京王電鉄)が南口の甲州街道上に、大正12年(1923)には帝国電灯西武軌道線(起点は荻窪。後の都電14系統杉並線。1963年廃止)が東口に、そして昭和2年(1927)には小田原急行鉄道(起点は小田原。現:小田急電鉄)が西口に、それぞれ新宿駅を開業します。

大正12年9月の関東大震災後、被害が大きかった都心部から武蔵野・多摩地域(郡部)へ移り住む人たちが増え、東京の市街は西へ発展していきますが、これらの私鉄路線は、そうした郊外の人たちの都心への足になり、新宿駅が東京西郊のターミナルとして発展する契機となりました。

戦後になると、まず、昭和27年(1952)に、西武鉄道新宿線が高田馬場から延伸して、歌舞伎町に西武新宿駅を設置します。西武鉄道としては、新宿駅東口に直接乗り入れたかったのでしょうが、すでに新宿駅の東側には余地がありませんでした。

昭和34年(1959)には、新宿で最初の地下鉄、営団地下鉄(現:東京メトロ)丸ノ内線が開通しました。すこし間を置いて、昭和55年(1980)に都営地下鉄新宿線(京王線と相互乗り入れ)、平成9年(1997)に都営地下鉄大江戸線と続き、そして、平成20年(2008)には東京メトロ副都心線が開通し、新宿は地下鉄網でもターミナルになります。丸ノ内線、新宿線には新宿駅と並んで新宿三丁目駅も設けられました(副都心線は新宿三丁目駅だけ)。JR新宿駅と地下鉄駅を結ぶ形で、新宿の地下道・地下街は充実していきます。

ところで、新宿の歴史地理を考えるには、留意しなければならないことが2つあります。

1つは、今まで新宿駅のことを述べてきたことと矛盾しますが、新宿の歴史地理は、新宿駅を中心の考えてはいけないということです。先ほど述べたように、新宿駅は、もともと宿場町のド外れです。本来の地理感覚は、今の地理感覚とはまったく逆で、お江戸の中心部→四谷大木戸→内藤新宿(新宿1丁目・2丁目)→新宿追分(新宿3丁目)→新宿駅(現在は新宿3丁目ですが、本来は角筈村)という感覚でした。ですから、この「新宿性社会史ツアー」も、ほんとうはJR四谷駅から歩き始めると、本来の地理感覚に近くなるのですが・・・まあ仕方ないでしょう。

2つ目の留意点は、新宿の歴史地理を考える基本線は、江戸城半蔵門と宿場町内藤新宿、さらに新宿駅を直結して、ほぼ東西に走る「新宿通り」だということです。現在、都心部と新宿とを結ぶ幹線としては、「新宿通り」の北を並走している「靖国通り」(都道302号線)がよく知られていますが、昭和8年(1933)に一部が拡幅されるまでは、細い裏道に過ぎず、内藤新宿のあたりでは「北裏通り」と呼ばれていました。全面的に拡幅されて、今のような幹線道路になったのは戦後になってからのことです。「新宿通り」は追分までは甲州街道(国道20号線)、そこから先、新宿駅前までは「青梅街道」(都道4号線)で、この道筋こそが、新宿の歴史と深く結びついているのです。

この2つの留意点を頭に置いて、さあ、出発しましょう。

(2)新宿駅の向き

今日の集合地点、今、私たちがいる「アルタ」前の広場は、「新宿駅東口広場」ということになっています。振り返って新宿駅を見ていただいて、駅の向きに注意してみてください。ちょっと変ではありませんか?

新宿駅1.jpg
↑ 現在のJR新宿駅「東口」

今、私たちが出てきたのは、線路に沿って横に長~い駅ビルの短かい方の辺、一般の建物だと間口ではなくて、妻(つま)側(箱型構造物の狭い方の側面)なのです。方角でいうと北側です。思い出していただきたいのですが、皆さん、いちばん大きな改札口(東口改札)を出た後、まっすぐ正面に進まずに左方向に行きましたね。そしてここに出てきました。つまり、今、私たちがいるのは、南北に細長い新宿駅の北東隅なのです。東口と言うよりも「東北口」と言うべき場所なのです。

新宿駅の駅舎は、開業当初は、角筈の原っぱの中にある小屋(初代駅舎)で、次いで明治38年(1905)に宿場町(内藤新宿)に比較的近い甲州街道口(現在の南口)に、左右に三角屋根があるこ洒落た駅舎ができました(二代目駅舎)。それが大正14年(1925)に東口に移され新築されます(三代目駅舎)。この駅舎は、車が青梅街道(新宿通り)に出る便を考えて北向き(北正面)に造られました。当然、車寄せも北側にありました。

昭和初期になると駅の東側の「三越」「伊勢丹」などのデパートが立地する追分や、映画館やカフェーが連なる「三越裏」界隈が賑わうようになり、大勢の人が、駅を出ると新宿通りを東へ、あるいは一度南に戻ってから武蔵野館の通りを東へ歩いていきました。しかし、今、歌舞伎町になっている地域(旧:角筈1丁目)には、戦前は東京府立第五高等女学校と大久保病院くらいしか施設はありませんでしたから、北東方面への人の流れとしては、住民、第五高女の生徒さん・教職員、大久保病院への見舞客・職員くらいで、今、見るような大勢の人の流れはありません。どうも人の流れからすると、駅があさっての方向を向いていた感じは否めません。

ちなみに、その頃の大久保方面への道筋は、あそこに見える三井住友銀行(現在、工事中)とみずほ銀行(旧・富士銀行)の間の細い路地でした。指形が彫られた石の道標があったので、「指差し横丁」と言われていました。

新宿駅2.jpg
↑ 大久保方面への旧道「指差し横丁」

ついでに、説明しておきますと、線路の向こうに「小田急デパート」が見えていますが、あそこが西口です。新宿駅に西口が設けられたのは、けっこう後で、大正12年(1923)のことです。正確に言うと、「青梅街道口新宿駅」と言って、品川方面から着た電車は、甲州街道口の新宿駅に停まった後、青梅街道口新宿駅に停まりました。関西の近鉄橿原線(奈良県)に大和八木駅と八木西口駅というのが隣り合ってありますが、あれに似ています。あっ、これ以上は鉄分が濃くなり過ぎるので止めておきましょう。

西口の商業地化が進むのは、明治31年(1898)以来、西口の土地の大部分を占めていた淀橋浄水場が昭和40年(1965年)に東村山に移転して、その濾過池の跡が再開発されて以後のことです。西口に林立する超高層ビルの最初である「京王プラザホテル」(地上47階地下3階、高さ171m)が完成したのは、昭和46年(1971年)のことでした。

(南方向に移動しながら)

さて、話を東口に戻しますが、東京オリンピックを前に、新宿駅は大改造され、昭和39年(1964)現在のステーション・ビル(マイシティ)がオープンします(4代目駅舎)。新しい駅ビルは、線路に沿って南に長く延びる東向きに建てられ、東側に玄関(車寄せ)が作られました。それまでの正面だった青梅街道(新宿通り)に向いた出口は脇出口に格下げになりました。

新宿駅3.jpg
↑ 本当は、こちら側が新宿駅の正面

はい、ここまで来ると、新宿駅ビルの長い側、間口の側が見渡せます。こちら側が現在の新宿駅の正面です。車寄せがちゃんとありますね(白い庇があるあたり)。

ところが、皮肉なことに、駅ビルが東を向いた1960年代中頃から、人の流れが東から北へと変わってきます。1950年代に生まれた歌舞伎町が新宿の中心的な盛り場に成長し、駅「東北口」からモア街(戦前の「駅前新道)、そして「コマ劇場」に突き当たるセントラルロードが人の流れの中心になっていきます。

現在の新宿駅を見ると、駅の脇(北側)に出る人の流れが圧倒的で、駅正面(東側)ははっきり言って寂れています。どうも新宿駅は人の流れを読むのが苦手のようです。その遠因を、明治の昔、この駅が人ではなく貨物中心の駅として出発したことに求めるのは、考えすぎでしょうか。


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