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新宿グランドツアー【2】「三越裏」界隈 -モダン東京の新興の盛り場ー [新宿グランドツアー]

【2】 「三越裏」界隈 -モダン東京の新興の盛り場ー

現在の新宿駅には各ホームを結んでいるコンコースが3本ありますが、その真ん中の「中央通路」に直結する「中央東口改札」を出て、地上に出たところからほぼ真東に伸びる路地があります。入口に「武蔵野館」があるのが目印です。
「三越裏」1.JPG

今でこそ人の流れから少し外れてしまっていますが、昭和戦前期、新宿の中心として栄えたのが、この路地を中軸にした「三越裏」界隈でした。「武蔵野館」(1919~)、「新宿帝国館」、「新宿劇場」、「新宿座」などの映画館や、ミュージカルやレビューを見せる「ムーラン・ルージュ」(1931~51)などの小劇場、ダンスホール、カフェなどが多くの人々を集めていました。

路地の左側に「新宿帝国館」が、右側に「武蔵野館」がありました。「武蔵野館」は、大正8年(1919)、現在の「三越」の場所に創業し、専属弁士の徳川夢声(1894~1971)が活弁を振るい、昭和3年(1928)年に現在地へ遷りました。

この路地を角筈停留所(紀伊国屋書店の前)からの道との交差点で南に折れて、2つ目の十字路の南西側に、「ムーラン・ルージュ」がありました。「ムーラン・ルージュ」は、パリ・モンマルトンの「本家」と同様に赤い風車(フランス語でムーラン・ルージュ)が目印で、左卜全(1894~1971)や益田喜頓(1909~93)が活躍していました。
「ムーラン・ルージュ」の場所は、現在の「新宿国際劇場」のあたりです。今のこの界隈には映画館街の面影はありませんが、「武蔵野館」だけはビルの中に健在です。

「三越裏」2.jpg
↑ 現在の「武蔵野館」(黄色の看板)

また、「三越裏」には約40軒のカフェーが立ち並び、カフェー街を形成していました。「ミハト」「ツバメ」「ミカサ」「メロン」「シロクマ」・・・、こうして店名を並べてみると、現代の私たちには、むしろ古風にさえ感じさえしますが、これが当時はモダンな店名だったのです。
女給さんの数は新宿全体で2000人を数えるほどで、女給と喫茶ガールの群は新宿の名物のひとつでした。しかし、当時の文献には「銀座あたりのバー。喫茶店のヲンナの子とくらべて遥かに地味である」「流行のサンプルは銀座を歩いても新宿には決して現れない」と評されていて、ファッションセンス的には、まだまだ二流でした。でも、その分、林芙美子のように上京してきたばかりの田舎娘でも、女給になって都会生活の第一歩をスタートすることができたのです。

2「三越裏」7 織田一磨『画集新宿風景』新宿カフェー街(1930年)  (2).jpg
↑ 織田一磨『画集新宿風景』新宿カフェー街(1930年)

昭和4年(1929)のヒット曲「東京行進曲」(作詞:西條八十、作曲:中山晋平、歌:佐藤千夜子)は、1番銀座、2番丸の内、3番浅草の順で4番に新宿が歌われています。

シネマ見ましょうか お茶のみましょうか
いっそ小田急(おだきゅ)で 逃げましょうか
変る新宿 あの武蔵野の 月もデパートの 屋根に出る

かっての武蔵野がデパートを核とし、映画館と喫茶店、郊外電車に象徴される盛り場に変貌していった様子が巧みに歌われています。

その2年後の昭和6年(1931)の「東京ラプソディ」(作詞:門田ゆたか、作曲:古賀政男、歌:藤山一郎)でも、1番銀座、2番神田、3番浅草に続いて、新宿は4番で歌われています。

夜更けにひと時寄せて なまめく新宿駅の
あの娘(こ)はダンサーか ダンサーか 気にかかる あの指輪
楽し都 恋の都 夢の楽園(パラダイス)よ 花の東京

モダン東京の盛り場としては、まだ4番手、新興の、どこか性的な雰囲気が漂う二流の盛り場としての新宿の位置付けがよくわかります。

昭和20年(1945)5月25日のアメリカ軍による山の手大空襲で、新宿一帯は焼け野原になります。そして、8月15日の敗戦後、このエリアには典型的な焼け跡闇市が成立します。東口の高野や中村屋の周辺には尾津組の「竜宮マート」が、東口から南口にかけての線路際には和田組マーケットの露店が軒を連ねました。

新宿東口闇市地図.jpg
↑ 新宿駅東口~南口の闇市地図

闇市には、日本軍が本土決戦に備えて蓄積していた物資や、アメリカ進駐軍の物資が、なぜか(横流しされて)出回り、敗戦後の窮乏した社会の中で「お金さえあれば、なんでも手に入った」という不思議な空間が出現します。また食糧難の時代、闇市のシチュー(実は、進駐軍の残飯を煮込んだもの)が人々の空腹を満たし、エチルアルコールではなく、人体に有害なメチルアルコールが入った怪しげな密造酒を売る飲み屋が、酒好きの人たちを引きつけました。

焼け跡の露店街は、進駐軍の命令で昭和25年(1950)末までに強制的に立ち退かされ、姿を消しました。しかし、その系譜は、その後の新宿を語るに欠かせない地下水脈になっていきます。

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↑ 巨大な闇市「和田組マーケット」

夕暮れ時になると、東口から南口にかけて、闇市の周囲の街角には、戦災で保護者や生活の糧を失った女性たちが立ち始めます。そうした街娼たちも、次第に路上から屋内の「飲み屋」に拠点を移していき、旧カフェー街だった「三越裏」は、敗戦後、非合法買売春地区である「青線」化していきました。

そう言えば、このあたりには、1990年代中頃まで、怪しげなレストハウスが残っていました。あれ、なんでそんなこと知ってるんだろう・・・?

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↑ 「三越裏」界隈(今はもう「三越」はない)

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↑ こんな寂しい路地もある。

現在の「三越裏」界隈は、もう「三越」は無くなってしまいましたが、普通の飲食店街で、猥雑な感じはまったくありません。通り沿いには、ほとんど古いお店は見かけなくなりましたが、老舗の天麩羅屋「船橋屋」(明治末期の創業)と「つな八」(大正12年=1923創業)があり、漂ってくる胡麻油の香りが、お腹が空いているときにたまりません。

路地を右に折れて中央通りに出て少し行くと、明治通りに突きあたります。その直前の左手のビルには夕暮時になると、ニューハーフ・ショーハウスの看板が出ます。後でまたご案内しますが、ニューハーフ/女装系の店というのは、ゲイ系のお店と違って一カ所に集まってなく、普通の町並みの中に紛れるように、さりげなく存在しているのです。

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↑ ニューハーフ・ショーハウス「Guppy(グッピー)」の看板。

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