2010年10月13日 石山寺縁起絵巻を読む(源順の説話/広幡御息所が「沓冠歌」の謎を解く話) [石山寺縁起絵巻]
2010年10月13日 石山寺縁起絵巻を読む(源順の説話/広幡御息所が「沓冠歌」の謎を解く話)
10月13日(水) 晴れ 東京 26.1度 湿度 59%(15時)
8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
朝食は、明太子フランスとコーヒー。
化粧と身支度。
ジラフ柄(焦茶)のロングチュニック(長袖)、黒のレギンス(7分)、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。
9時50分時、家を出る。
駅前のコンビニでレジュメの印刷。
午前中、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻2の第4段の読み解き。
第4段は、広幡御息所(源計子)が村上天皇に勧めて『万葉集』の訓読事業をすることになり、それを命じられた源順(したごう 911~985)の話。
源順が訓読に悩んだ歌がなんだったのか、話には出てこないのだが、『万葉集』巻12(3142番)の「国遠直不相夢谷吾尓所見社相日左右二」という歌らしい。
この歌、訓読は「国遠み 直(ただ)には逢はず 夢にだに 我に見えこそ 逢はむ日・・・」だが、最後の「左右二」がどうしても読めない。
悩んだ順は、仏の助けを得ようと石山寺に参籠することを思い立つ。
↑ 琵琶湖湖畔、大津の浜を行く源順の一行
その道中(たぶん帰路)、大津の浦(琵琶湖湖畔)で、馬で米俵を運んでいる一行とすれ違う。
↑ その時、一行のリーダーらしき翁が、馬の背の俵を左右の手で押し直しながら、「おのがどち、まてよりつけよ」(皆の者、両手で荷をおさえるんだ)と言った。
それを聞いた順は、「左右=まて」という訓を思いつくという話。
↑ 馬による米俵の運搬の仕方がよくわかる。
見習いの馬子が、口に入れているのは、携帯食料の干し米(糒)か?
例の歌の訓読は「左右」を「まて」と訓ずると、「国遠み 直(ただ)には逢はず 夢にだに 我に見えこそ 逢はむ日までに」となって意味が通る。
ただ、この説話、今のところ、他に典拠が見出せない。
広幡御息所が『万葉集』の訓読事業を村上天皇に勧めた話は、『十訓抄』巻7にあるのをやっと見つけたのだが・・・。
続いて、日本最初の百科事典ともいうべき『倭名類聚抄』の著者であり平安時代中期を代表する文人・学者である源順の経歴を解説。
それにしても、嵯峨源氏大納言定(さだむ)の孫で、文人・歌人としての盛名の一方、73歳まで生きて従五位上能登守という順の官歴は、あまりに不遇。
よほど世渡りが下手だったのだろう。
また、村上天皇の後宮で、聡明さで知られた源計子(宇多源氏。斉世親王の三男中納言庶明の娘)の逸話も紹介。
村上天皇が後宮の女性たちに「逢坂も はては行き来の 関もゐず 訪ねて問ひこ 来きなば帰さじ」という歌を与えた時、ただ一人、それが「沓冠歌」であることを見抜き、天皇に薫物を送った女性。
「沓冠歌」というのは、「冠」=語句の頭、「沓」=語句の末尾に、意味のある文字を置いた歌。
つまり、
あふさかも
はてはゆききの
せきもゐず
たづねてとひこ
きなばかへさじ
は、「あはせたきものすこし」=「合わせ薫物少し」の意味になる。
そんな話をしているうちに、肝心の絵の解説が時間切れに。
12時、終了。
10月13日(水) 晴れ 東京 26.1度 湿度 59%(15時)
8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
朝食は、明太子フランスとコーヒー。
化粧と身支度。
ジラフ柄(焦茶)のロングチュニック(長袖)、黒のレギンス(7分)、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。
9時50分時、家を出る。
駅前のコンビニでレジュメの印刷。
午前中、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻2の第4段の読み解き。
第4段は、広幡御息所(源計子)が村上天皇に勧めて『万葉集』の訓読事業をすることになり、それを命じられた源順(したごう 911~985)の話。
源順が訓読に悩んだ歌がなんだったのか、話には出てこないのだが、『万葉集』巻12(3142番)の「国遠直不相夢谷吾尓所見社相日左右二」という歌らしい。
この歌、訓読は「国遠み 直(ただ)には逢はず 夢にだに 我に見えこそ 逢はむ日・・・」だが、最後の「左右二」がどうしても読めない。
悩んだ順は、仏の助けを得ようと石山寺に参籠することを思い立つ。
↑ 琵琶湖湖畔、大津の浜を行く源順の一行
その道中(たぶん帰路)、大津の浦(琵琶湖湖畔)で、馬で米俵を運んでいる一行とすれ違う。
↑ その時、一行のリーダーらしき翁が、馬の背の俵を左右の手で押し直しながら、「おのがどち、まてよりつけよ」(皆の者、両手で荷をおさえるんだ)と言った。
それを聞いた順は、「左右=まて」という訓を思いつくという話。
↑ 馬による米俵の運搬の仕方がよくわかる。
見習いの馬子が、口に入れているのは、携帯食料の干し米(糒)か?
例の歌の訓読は「左右」を「まて」と訓ずると、「国遠み 直(ただ)には逢はず 夢にだに 我に見えこそ 逢はむ日までに」となって意味が通る。
ただ、この説話、今のところ、他に典拠が見出せない。
広幡御息所が『万葉集』の訓読事業を村上天皇に勧めた話は、『十訓抄』巻7にあるのをやっと見つけたのだが・・・。
続いて、日本最初の百科事典ともいうべき『倭名類聚抄』の著者であり平安時代中期を代表する文人・学者である源順の経歴を解説。
それにしても、嵯峨源氏大納言定(さだむ)の孫で、文人・歌人としての盛名の一方、73歳まで生きて従五位上能登守という順の官歴は、あまりに不遇。
よほど世渡りが下手だったのだろう。
また、村上天皇の後宮で、聡明さで知られた源計子(宇多源氏。斉世親王の三男中納言庶明の娘)の逸話も紹介。
村上天皇が後宮の女性たちに「逢坂も はては行き来の 関もゐず 訪ねて問ひこ 来きなば帰さじ」という歌を与えた時、ただ一人、それが「沓冠歌」であることを見抜き、天皇に薫物を送った女性。
「沓冠歌」というのは、「冠」=語句の頭、「沓」=語句の末尾に、意味のある文字を置いた歌。
つまり、
あふさかも
はてはゆききの
せきもゐず
たづねてとひこ
きなばかへさじ
は、「あはせたきものすこし」=「合わせ薫物少し」の意味になる。
そんな話をしているうちに、肝心の絵の解説が時間切れに。
12時、終了。
2013-02-14 00:58
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