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2005年10月07日 お茶の水女子大学の初講義 [大学講義(お茶の水女子大学)]

2005年10月07日 お茶の水女子大学の初講義

10月7日(金) 曇りのち雨

11時、起床。
朝昼ご飯は、いつもの通りトースト1枚、生ハム3枚、キュウリ&レタス。

13時、仕事場へ。
シャワーを浴びて身支度。
夕方から雨の予報なのと、思ったより蒸し暑いのとで、何を着ていくか迷う。
結城紬(袷)のつもりで用意していたが、結局、薄茶の濃淡の市松の地柄に黒で疋田を織り出した赤城紬(単)にする。
帯は銀と黒の鱗模様。
長襦袢は、ザクロ染めのクリームの半襟をつけたお七鹿ノ子(単)。
帯揚は芥子色、帯締は山吹色。

15時少し前、家を出て、東横線-地下鉄日比谷線-同丸ノ内線経由で茗荷谷駅へ。
16時前にお茶の水女子大学に着く。
校門を入ると、不審人物と見て守衛さんが寄ってきたので、「今日から非常勤講師でお世話になる三橋です」とことわって入れてもらう。
大学という場所は、基本的に開かれた場所であるべきだが、この大学は違う。
セキュリティ・チェックがとても厳しい。
その点で、私のような外来者の印象は良いとは言えないだろう。
付属の小中学校が同じ敷地内にあるので仕方がないのだが。

まず共同講義棟2号館に行って教室の下見。
それから、講師控室でレジュメの印刷。
しかし、授業があるのに事務室が16時で閉まってしまい、非常勤講師のサポートをする職員が誰もいないというのは、私立大学育ちの私にはちょっと信じられない。
16時10分、私の待機場所を引き受けてくれたジェンダー研究センターの事務室に赴く。
事務の方に挨拶。
記入が必要な書類を渡される。

ところが、辞令や出勤簿などほとんどの書類が本名になっている。
私としては、学内書類は通称名の使用をお願いしたはず。
外部(文部科学省や税務署)に出す書類は本名で仕方がないが、可能な限り通称名でという方針。
ところが、事務の方は可能な限り本名で、通称名の使用は最低限にという姿勢らしい。

これでは、どうしようもない。
そもそも、私は「女」の仕事の時に、本名の印鑑など持ち歩かない。
なぜなら必要ないからだ。
私の通称名は、税務所に「屋号・雅号」として登録してあるし、通称名で銀行の口座ももっているので、給与の支払いも含めて「三橋順子」でまったく支障をきたさないようになっている。
もちろん、税務処理も最終的には通称名(雅号)=本名で適切に行っている。
それは私が、今まで苦労して作ってきた合法的なシステムだ。

なぜ、大学事務局は本名の使用を強制するのだろうか?
プライバシー保護という観点から本名を表に出したくない、自分の性自認に則した通称を使いたいというトランスジェンダーの事情を理解しようとしないのだろうか。
「トランスジェンダー論」という講座を私に依頼してきたのはお茶の水女子大学だ。
だったら、もう少しトランスジェンダーが抱える事情に配慮してくれてもいいのではないだろうか。
あまりも杓子定規で官僚的だと思う。

書類、突き返されるのを覚悟の上で、通称名を先に書き、括弧で本名を添える。
出勤簿には「三橋」のハンコを捺す(これしかもってないから)。
給与の支払い先は「三橋順子」の口座を指定する。
もし「駄目だ」と言うのなら、給与も交通費ももらわなくてかまわない。

16時20分、私を起用してくださった竹村和子教授がご自分のゼミを抜けて、挨拶にきてくださる。
恐縮しながら、「頑張ります」とお伝えする。

16時40分過ぎ、教室(共通講義棟2号館101号室)へ。
120人くらい入る教室に半分ほどの学生さん。
数えてみると60人ほどいる。
多くても30人くらいだろうと思って、レジュメを40部しか作ってなかったので足りない。講師控室に行って30部増刷する。

実は、昨夜、教室に行ったら学生が3人しかいないという夢を見た。
朝起きて、夢を思い出して「少なかったら少ないで、仕方がないからのんびりやろう」と覚悟をしていたので、うれしい誤算。

定刻より15分ほど遅れて16時55分、「トランスジェンダー論」の講義開始。
今日はまだ後期の履修登録前ということで、「ガイダンス-トランスジェンダーとしての私-」という題で、「トランスジェンダー論」という風変わりな講座と、さらに風変わりな講師の自己紹介をするつもり。

まず、この講座が日本初の「トランスジェンダー」を看板に掲げた専論講座であること、トランスジェンダー(性別越境)という現象を分析・考察することにより、性別二元論や生物学的な性別本質論、あるいは異性愛絶対主義にとらわれない、より多元的で多様な性別認識や性愛観、さらにはジェンダーの構築性を理解することを目的とすることを話す。
そして、それによって、自らの性のあり様を見つめ直すとともに、より自由で広い視野に立って、現代社会における様々な性現象を冷静に分析できる目を養ってほしいと思うことを付け加える。

次に、授業計画について解説。
日本のトランスジェンダー・スタディーズは、まだまだ学問として未成熟で、十分な研究蓄積や理論構築が為されていないが、この講義では、トランスジェンダーとしての私の実体験や見聞を踏まえながら、また歴史的な資料分析や聞き取り調査に基づいて、トランスジェンダーと社会との関係、あるいは社会の中における性別認識の有り様を、できるだけ平易に具体的に考えていきたいこと、そして、最終的には日本におけるトランスジェンダー・スタディーズの基礎を据えるような講義にしたいと思っていることを述べる。

ちなみに授業計画は下記のとおり(予定は未定なのだが)。

10/ 7. (1) ガイダンス -トランスジェンダーとしての私-
10/14. (2) 「性」の4要素と多層構造論
10/21. (3) トランスジェンダーとは何か
10/24. (4) トランスジェンダーの「場」と職能
11/ 4. (5) トランスジェンダーの社会史(古代~近世)
11/18. (6) トランスジェンダーの社会史(近代)
11/25. (7) トランスジェンダーの現代
12/ 2. (8) 「性同一性障害」概念とその問題点
12/ 9. (9) ジェンダー・イメージの構築と転換
12/16.(10) トランスジェンダーと性別認識
1/10.(11) トランスジェンダーと性愛観
1/13.(12) 「性」の自己決定と多様性の承認
1/27.(13) 性別越境の文化と日本人
2/ 3... 予備日

続いて、私の「トランスジェンダーとしての私」と題して講師の自己紹介。
レジュメにかなり詳しい私のプロフィール(講演などの時の配布資料に付けるプロフィールに編著書や論文リストを加えたもの)を載せておいた。
しかし、それでは味気無いので、自叙伝「『女』として-順子のできるまで-」の目次を示し、時期区分をして簡単なライフヒストリー分析を加えることにした。

ちなみに目次は次の通り。

  は じ め に
1.「順子」の出現まで (1955~1985年)
2.苦悩の5年間 -自宅女装時代-(1985~1990年)
3.女装テクニックと自信の獲得 -女装クラブ時代-(1990~1994年)
4.新宿の女装世界へ -クラブ・フェイクレディ-(1994~1995年)
5.ネオンが似合う「女」 -新宿歌舞伎町の女装ホステス-(1995~2002年)
6.男たちとの夜 -セクシュアリティの開花-(1992~1997年)
7.「女」として生きる決意 -トランスジェンダーの論客として-(1995~1998年)
8.性社会史研究者への道(1999年~ )
9.身体の女性化の断念
10.女性の世界へ -着物趣味を通じて-(2000年~ )
お わ り に
  お ま け -「女」として年を取る-

【第1期】は、自分の内面の「もう一人の私(女性)」に気づきながらも、それを十分に表現できず、抑制していた時期。
つまり、性別違和感の自覚から自宅女装時代まで。
【第2期】は、自分の内面の女性を表現する方法(テクニック)を習得することに努めた時期。女装クラブ時代。
ここまで解説したところで時間切れとなる。
レジュメの追加印刷で余計な時間を使ったのが誤算。
続きは次週。

18時10分に講義を終えた後、2人ほどの学生が寄ってきて質問や感想を伝えにきてくれた。
質問は「先生のしぐさは、なぜそんなに指の先まで女らしいのですか?」
「いずれ詳しく話します」と前置きした上で、これもやはり最初はテクニカルな技術習得であること、男性が女性のしぐさを模倣する技術は江戸時代の歌舞伎の女形によってほぼ完成されていること、現在の私の場合、それがほぼ身について自然にそうなること、などを答える。

全体にまずまずの反応だったと思う。
レジュメの残部数から計算して、今日の聴講者は63人だったと思うが、はたして何人が履修登録してくれるだろうか?

私にとっては、2000年度中央大学の「現代社会研究5」で大学の教壇に立って以来、5年ぶりの大学での講義。
あの時は、当時の自分の持っていたものを全部投入するつもりで全力を尽くした。
社会的にも高い関心をもってもらえたし、一番肝心の学生の反響もよかったと思う。

正直に言えば、翌年、どこかの大学から非常勤のオファーがあるだろうと思っていた。
しかし、現実は厳しく、一つもなかった。
それまでポツポツあった大学でのゲスト講義の機会もなくなってしまった。
社会的関心や学生の評価と、大学当局の評価はまったく別だということがよくわかった。
ともかく、研究実績を積もう、地道に実力を磨こうと、4年間、研究一筋で頑張った。
だから、今年度のお茶の水女子大での講義は、私にとって「偏見」という厚い壁への再チャレンジなのだ。
ジェンダー研究所の挨拶して辞去。

やっとやっとようやく再出発がきれたといううれしさを感じながら、降り出した雨の中を、茗荷谷の駅へ。
しかし、勝手がわからない大学での初講義で、やはりかなり気疲れした。

行きと同じ経路で、19時15分、学芸大学駅に戻る。
駅前商店街の行きつけの居酒屋「一善」へ。
いつものように、常連さんたちとおしゃべりしながら、さんまのお刺し身、おでん、ごぼうのきんぴらを肴に、生ビール1杯、ウーロン茶2杯。

22時過ぎ、仕事場に帰る。
メールチェック、メールの送信、「日記」のアップなど。
明日からの北海道旅行の支度を確認してお風呂へ。

1時過ぎ、ベッドに入るがぜんぜん寝られない。
仕方なくベッドサイドにあった『サン写真新聞 戦後にっぽん』を眺めながら、眠くなるのを待つ。
なかなか眠気が訪れず5冊ほど読んでやっと眠れた。

就寝、3時間半(仕事場)。

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