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日本女装昔話【第34回】大阪の「男娼道場」主、上田笑子 [日本女装昔話]

【第34回】大阪の「男娼道場」主、上田笑子 1950~1970年代

前回は、女装男娼の集合写真の分析から、少なくとも大阪では、戦前(1930年代)から、女装男娼の横のつながりがあったことが推測できました。
 
実はその写真に私の興味を強く引く人物が写っていました。
1930年代(昭和5~15年)と推測した屋内での記念写真の右端の「藤井一男 笑子 二十五才」と記された人物です。

この「笑子」が戦後、1950年代から70年代にかけて、大阪釜ケ崎(山王町界隈)で「男娼道場」の主と言われた、上田笑子と同一人物ではないだろうかと気づいたからです。
 
上田笑子については、1958年(昭和33)の「大阪の美人男娼ベストテン」というルポが「この道の草分け」「蔭間茶屋"エミちゃんの家"のママ」、「彼女のシマを"おかまスクール"と呼ぶ」と紹介しています(『増刊・実話と秘録:風俗読本』1958年1月号)。
女装男娼(上田笑子).jpg
1957年、42歳のころの上田笑子。(『増刊・実話と秘録』1958年1月号)

それから12年たった1970年(昭和45)には「私の"オカマ道場"の卒業生は四千人よ-大阪・釜ケ崎、上田笑子の陽気なゲイ人生-」という記事が週刊誌に載っています(『週刊ポスト』1970年12月25日号)。

そこには、彼女が女装男娼を育成する「男娼道場」を開いて25年になること、育てた子は「もう四千人くらいになりますやろうなァ」「東京の男娼の八割方がたはウチの出やね」と語られています。

これらの記事から、上田笑子のプロフィールを整理してみましょう。
本名は上田廣造、1910年(明治43)奈良県生まれ。
13歳のとき(1923年=大正12)から男娼の仲間に入り、以後、その道一筋。1945年(昭和20)、つまり、終戦後すぐに「男娼道場」を開設し、多くの後進を育成した、ということになります。

となると、彼女は1935年(昭和10)に25歳だった計算になり、例の1930年代と推定される集合写真の「笑子 二五歳」とぴったり一致してくるのです。
もっとも、本名が、藤井一男と上田廣造でぜんぜん違うのですが、「藤井一男」が偽名の可能性もあり、写真の面差しは、どこか似たものがあるように思います。
 
さて、笑子は「東京の男娼の八割方がたはウチの出」と豪語していますが、実際にそうだったのでしょうか。
8割かどうかを確かめる術はありませんが、どうも女装男娼は、戦前、戦後を通じて、関西(大阪)が本場だったのは確かなようです。
 
戦前、東京の浅草や銀座で逮捕された女装男娼の中にも、関西からの遠征組がかなりいたこと、戦後の東京上野の女装男娼の間でも、関西系が幅をきかしていたことなど、その兆候はいくつもあります。

さらに歴史を遡れば、江戸の歌舞伎の女形、あるいは陰間茶屋の蔭子は、お酒と同じく「下り者」(京・大阪から江戸に下ってきた者)が第一とされ、東育ち(江戸・東国の生まれ)は武骨で使い物にならないとされていました。
 
昭和期の女装男娼の関西優位には、そんな伝統も反映していたのかもしれません。
ただ、関西の状況を記した資料が乏しく、実態不明な点が多いのが残念です。
男娼バー「ゆかり」.jpg
大阪釜ケ崎の女装バー「ゆかり」(1957年ころ)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第57号、2007年8月)

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日本女装昔話【第33回】女装男娼の集合写真 [日本女装昔話]

【第33回】女装男娼の集合写真 1935年

前回、ご紹介した『エロ・グロ男娼日記』に関連して、昭和戦前期の女装男娼について調べているうちに、私が所蔵している資料の中の1枚の写真が気になりはじめました。

同性愛者のグループを紹介した週刊誌の記事に掲載されている「大正時代の大阪の男娼たち」というキャプションがついた写真です。
女装男娼の集合写真1.jpg 
「日本花卉研究会-世にも不思議な社交クラブ-」(『週刊文春』1959年6月15日号)

写真には8人の着物姿の「女性」が椅子に腰掛けて並んでいます。
皆それぞれに着飾った姿、それに背景などから、スナップ写真ではなく、ちゃんとした場所で何かの会合の折りに記念撮影的に撮られたもののようです。

しかし、彼女たちが本物の女性でないのは、下部に男性名と女装名(それに年齢)が記されていることからわかります。
印刷が不鮮明なのが残念ですが、皆さん、なかなかの女っぷりで、女装レベルの高さがうかがえます。
 
なぜ、この写真が気になるかというと、理由が2つあります。
ひとつは、写真の時期の問題です。
直感的に「大正時代」よりももっと新しい昭和戦前期の写真ではないかと思ったのです。
というのは、昭和の着物文化史を勉強している私の目からすると、左端の「繁子」が着ている幾何学模様の着物(銘仙?)、左から3人目の「百合子」が着ている大柄の模様銘仙?は大正期では早すぎるのです。
この手のモダンな柄は、1930年代(昭和5~15)の流行です。
 
2つ目は、女装男娼の組織化の問題です。
『エロ・グロ男娼日記』の愛子や、昭和2~12年の東京における逮捕事例をみても、戦前期の女装男娼は単独行動で、グループ化の形跡は見られません。
東京の女装男娼が組織化されるのは戦後混乱期の上野において、というのが私の仮説です。

しかし、この写真によれば、少なくとも大阪ではすでに戦前期に、こうした会合をもつ程度には、女装男娼の横のつながりがあったことになります。
 
さらに調べている内に、もう一枚、女装男娼の集合写真らしいものを見つけました。
女装男娼の集合写真2.jpg
井上泰宏『性の誘惑と犯罪』(1951年10月 あまとりあ社)

1951年に刊行された井上泰宏『性の誘惑と犯罪』の口絵に掲載されていたものです。
キャプションには「女化男子」とあり、写っている10人が女装の男性であることがわかります。
しかし、撮影時期・場所、どういう人たちなのかは一切記されていません。
 
この写真も、着物文化史的に見てみましょう。
屋外での撮影ということもあって、10人中7人が大きなショール(肩掛け)を羽織っているのが注目されます。
この手のショールが大流行するのは、やはり1930年代なのです。
最初の写真でも、室内にもかかわらず右から4人目の「お千代」が羽織っています。

というわけで、この写真もまた1930年代のものと推定できます。
当時、アマチュアの女装者はまったく顕在化していないので、彼女たちもまたプロ、つまり女装男娼と考えて間違いないでしょう。

場所が不明なのは残念ですが、やはり集会を開く程度の横のつながりが、すでにあったことが確認できるのです。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第56号、2007年5月)

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日本女装昔話【第32回】『エロ・グロ男娼日記』の世界(その2) [日本女装昔話]

【第32回】『エロ・グロ男娼日記』の世界(その2) 1931年

前回は、昭和6年(1931)に刊行即日発禁処分になった実録(風)小説『エロ・グロ男娼日記』(流山龍之助著 三興社)の主人公、浅草の美人男娼「愛子」の生活ぶりを紹介しました。

そこで問題となるのは、愛子のような女装男娼が、昭和初期の東京にほんとうに実在したか?とういうことです。
 
そのヒントは作中にありました。
ある日、愛子は浅草公園の木馬館裏手にいた人品のいい男に誘いをかけたところ、これが象潟署の刑事で、彼女は直ちに逮捕連行されてしまいます。
そして「旦那如何です モガ姿の変態が刑事に誘ひ」という見出しで新聞に載ってしまいました。
 
この箇所を読んだ時、「あれ?どこかで見た記事だなぁ」と思いました。
早速、ファイルを調べてみると、小説刊行の3ヵ月前の『読売新聞』昭和6年2月27日号にまったく同じ見出の記事がありました。

小説の愛子逮捕の記事は、実在の女装男娼逮捕の記事を出身県と氏名を伏字にしただけでそのまま流用していたのです。
 
この時、逮捕されたのは 福島県生れの西館儀一(24歳)という女装男娼。
この人物は、富喜子と名乗って浅草を拠点に活動していたことが他の記事からわかります(『東京朝日新聞』昭和2年8月13日号)。
 
もちろん、この記事の一致から、愛子=西館儀一(富喜子)と考えるのはあまりに単純すぎます。
ただ、愛子のモデルになるよう女装男娼が、昭和初期の東京浅草に確実に存在していたことは間違いありません。

小説の中で、愛子が新聞記者のロングインタビューを受ける箇所があります。
記者は愛子から、出身、子供時代の思い出、女装男娼になった経緯、現在の日常などを詳細に聞き出しています。
 
おそらく、小説の作者(流山龍之助)も、この新聞記者のように実在の女装男娼から詳しいインタビューをとり、それをもとに小説化したのではないでしょうか。
それほどこの『エロ・グロ男娼日記』はリアリティに富んでいるのです。
 
浅草を拠点に活動していた女装男娼たちは、やがてモダン東京の新興の盛り場として賑わいはじめた銀座に進出します。

愛子も銀座に出かけて松坂屋デパートで半襟などを買った後、上客(退役陸軍大佐)をつかんでいます。
浅草から銀座へ、東京の盛り場の中心の移動とともに、女装男娼の活動地域も移動するというのはおもしろい現象です。
 
その結果として、1933~37年(昭和8~12)、銀座で逮捕された女装男娼が何度か新聞の紙面を賑わすことになりました。

その中には、1937年3月に逮捕された福島ゆみ子こと山本太四郎(24歳)のように、「どう見ても女」と新聞で絶賛?された美人男娼もいました。
女装男娼(福島ゆみ子)1.jpg
女装男娼福島ゆみ子の艶姿。
「男ナンテ甘いわ」というキャプションが実に効果的。
(『読売新聞』昭和12年3月28日号)
女装男娼(福島ゆみ子)2(2).jpg
「これが男に見えますか」という見出しの通り、大きな市松柄の振袖の着物に華やかな色柄の羽織、ショールをかけた当時の流行ファッションを見事に着こなしている。
(『東京日日新聞』1937年3月31日号)
 
困難な社会状況の中で、たとえ男娼という形であっても、「女」として生きようとした彼女たちに、どこか共感を覚えるのは私だけでしょうか。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第55号、2007年2月)


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日本女装昔話【第31回】『エロ・グロ男娼日記』の世界(その1) [日本女装昔話]

【第31回】『エロ・グロ男娼日記』の世界(その1) 1931年

国立国会図書館の特別閲覧室には、旧内務省が発禁処分にした一群の図書が収蔵されています。
その中に、流山龍之助著『エロ・グロ男娼日記』という文庫版108頁の小冊子があります。

昭和6年(1931)5月25日に、下谷区西町(現:台東区東上野1丁目)にあった三興社から刊行された翌日、「風俗」を乱すという理由で即日発禁処分を受けたいわく付きの本です。
エログロ男娼日記.jpg 
黄色と黒のモダンなデザインの表紙。
エログロ男娼日記 (2).jpg
「六年五月二十六日 禁止 別本」という処分を示すペン書きと「内務省」の丸印。

後に「削除改訂版」が出たようですが、現存する初版はおそらくこの一冊のみと思われる貴重なものです。
 
主人公は、浅草の女装男娼「愛子」(22歳)。
時代は、帝都東京がエロ・グロブームに沸き、モダン文化が花開いた昭和5年(1930)頃。
愛子の日記(手記)の形態をとった実録?小説です。
 
愛子の日常をのぞいてみましょう。
自宅は浅草の興行街(六区)の近く、朝は9~10時に起き、床を畳み、姉さんかぶりで部屋を掃除。
その後、化粧。牛乳で洗顔、コールドクリームでマッサージ、水白粉で生地を整え、パウダーで仕上げ、頬紅をたたき、口紅、眉墨を入れます。
髪は櫛目を入れ、アイロンで巻毛とウェーブを付けます。
しゃべり言葉の一人称は「あたし」「あたくし」。

銭湯は、以前は女湯を使っていましたが、男娼として界隈で有名になったので、今は男湯。
ほぼフルタイムの女装生活です。

遅い朝食を食べに食堂に入ると、男性から「よう、別嬪!」と声がかかり、馴染み客からは「お前はいつ見てもキレイだなぁ。まるで女だってそれ程なのはタントいねぇぜ」と言われるほどで、かなりの美貌。

初会の客が女性と誤認するのもしばしばで、警察に捕まった時も、刑事にも「なかなかいいスケナオ(女)ぢゃねえか」と言われ女子房に放りこまれたほど。

今風に言えば、パス度はかなりのハイレベルですね。

若い美人、しかも気立ても穏やかですから仕事はいたって順調。
会社員の若い男を誘い旅館で一戦した翌日は、朝食後にひょうたん池(浅草六区)で出会った不良中学生3人を自宅に連れ込み、まとめて面倒をみてやり、夜になって時間(ショート)の客1人、泊まり客1人で収入6円という一日。
 
電車初乗りが5銭、そばが10銭、天丼が40銭という時代ですから、6円は現在の物価に換算して15000円くらいでしょうか。
 
銀座で五十年配の立派な紳士(退役陸軍大佐)に声をかけられ、大森(現:大田区)の待合で遊んだり、ブルジュア弁護士の自家用車で、なんと京都・大阪までドライブしたり、醜男ですが誠意のある妻子持ちの請負師に妾になってくれと迫られたり、「旦那いかがです」と、うっかり私服警官に声をかけて、留置所で10日間を過ごすことになったり、なかなか波乱に富んだおもしろおかしい生活を送っています。
 
さて、女装の社会史を研究している私の関心からすると、問題は、愛子のような女装男娼が、昭和初期の東京にほんとうに実在したか?とういうことです。

その点については、また次回に。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第54号、2006年11月)

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日本女装昔話【第30回】流転の女形 曾我廼家市蝶(その2) [日本女装昔話]

【第30回】流転の女形 曾我廼家市蝶(その2) 1940~1950年代

曾我廼家市蝶(しちょう)こと小林由利は、曾我廼家五郎劇団の女形から、中国大陸に渡り、敗戦後は上野で女装男娼として身を売るという苦難の末、1952年(昭和27)4月、文京区湯島天神「男坂」下にバー「湯島」を開店します。
 
当時の東京には、美少年のゲイボーイが接客するゲイバーは何軒かありましたが、女装の人が相手をしてくれる店は、新橋烏森神社境内にあった「やなぎ」(お島ママ)ぐらいで、まだほとんどありませんでした。

江戸時代には陰間茶屋が立ち並び、男色の地として名高かった湯島の歴史と風情を偲ぶことができるこの店は、女装者愛好の男性の人気を集めました。
 
店は、1階が3畳ほどの小さなカウンターと4畳半ほどの洋風の客席、2階に4畳半の座敷が2つ。現在の感覚では広いとは言えませんが、住宅事情の悪い当時にあってはなかなかの構えだったようです。

曾我廼家市蝶2.jpg
「湯島」時代の曾我廼家市蝶、1952年頃。
(「流転女形系図」『人間探究』28号 1952年8月)

女装バー「湯島」.jpg
湯島天神下の「湯島」の場所
(かびや・かずひこ「ゲイ・バァの生態-上野・浅草界隈-」『あまとりあ』5-8、1955年8月)
 
1950~60年代にゲイ世界に関するルポや評論を数多く執筆した、かびや・かずひこ(鹿火屋一彦)は、店主の女になりきっている様子、渋い落ち着いた趣味をほめながら「厳しいこの世の中に女(?)手一つで」「このような店をしかも一つの風格を保ちつつ営んでゆこうとする『彼女』の苦辛と焦慮」を感じています(「ゲイ・バァの生態」『あまとりあ』5-8、1955年8月)。

ところが、市蝶と「湯島」の全盛期は長くありませんでした。開店から6年たたない1957年の末頃、「湯島」は、店名の由来となった湯島の地を離れてしまいます。理由はわかりません。
 
日本最初の女装趣味サークル演劇研究会の会報『演研通信』2号(1958年2月)に出ている広告によれば、移転先は豊島区池袋2丁目。

当時の池袋駅北口は風紀・治安の良くない場末で、湯島時代のお客は離れ、市蝶も「湯島」も次第に忘れられていきます。

女装者愛好男性の第一人者と知られ、市蝶とも交友があった西塔哲(「富貴クラブ」会長)は、「好きな男には身の皮はいでも尽くすキップのよさと、アッサリした好人物なので他人に利用されることも多く」と、市蝶の性格を語っています。

零落の原因は、おそらくそんな性格にあったのでしょう(鎌田意好「異装心理と異装者列伝-女形の巻(2)-」『風俗奇譚』1965年5月号)。
 
それから10数年の月日が流れた1970年、市蝶こと小林由利の名は、まったく思いがけない形で新聞に掲載されます。

4月18日の早朝、東池袋4丁目のアパートで「男娼・由利(55)」が絞殺死体となって発見されたのでした。
遺体は布団の中で和服姿の仰向けの姿勢で、着ていた茶羽織りの襟で首を絞められていました(『毎日新聞』1970年4月18日夕刊)。
 
捜査の結果、顔見知りの35歳の鳶職の男が犯人として逮捕されました。
犯行理由は、2人で飲み歩いた後、アパートの部屋に行ったところ、金銭を要求されたので殺した、というものでした。

こうした状況から、晩年の由利が、再び女装男娼の稼業に戻ってしまったことがうかがえます。
 
女形として華やかな舞台を踏みながら、生活のために女装男娼となり、一度は店を持ち盛名を得ながら、また没落して老男娼として殺される。まさに新派悲劇を地でいくような流転の人生でした。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第53号、2006年8月)

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日本女装昔話【第29回】流転の女形 曾我廼家市蝶(その1) [日本女装昔話]

【第29回】流転の女形 曾我廼家市蝶(その1) 1940~1950年代

梅で有名な東京文京区湯島天神への参道はいくつかありますが、拝殿のすぐ脇に出る急な石段のある道を「男坂」といいます。
その上り口のあたりに、1950年代前半、「湯島」という小さなバーがありました。
 
今でこそほとんど存在を忘れられていますが、東京における女装(女形)系ゲイバーの先駆として当時の愛好家には有名な店でした。
 
その女将小林由利は、戦前、曾我廼家市蝶(しちょう)の名で新派の曾我廼家五郎劇団の女形だった人です。

この劇団は、座長の性癖を反映して、女優を一切使わない「女形天国」で、人気女形には、以前、このコーナーの第11話で紹介した曾我廼家桃蝶らがいました。
曾我廼家市蝶1.jpg
女形時代の曾我廼家市蝶(1940年頃)
(「流転女形系図」『人間探究』28号 1952年8月)
 
市蝶は1915年(大正4)頃の生まれ、子供の時から女性的傾向を自覚して女形で生きようと思い、14歳の時に娘形としてデビュー。
曾我廼家一座には19歳の時に入ったものの、必ずしも役柄には恵まれなかったようです。
 
1937年(昭和12)日中戦争が始まると、関東軍の慰問団に入り、満州や北支(中国北部)の部隊を巡業します。
終戦も満州の奉天(現:瀋陽)で迎え、引き上げまでの約1年間、新京(現:長春)で「蝶家」というバーを営んでいました。
 
1946年10月、焼け野原の東京に帰ってきた市蝶はたちまち生活に困窮します。
大陸に行く前に拠点にしていた浅草の劇場群も丸焼けで、舞台に立ちたくても活躍の場がなかったからです。

生計の当てのない市蝶に、昔の仲間が声を掛けます。
「お化粧してね、ちょっと男の人と話をすればお金儲けができるのよ」。

紹介されて行った先は、上野の女装男娼を束ねる姐さんの家。

生きるために覚悟を決めた市蝶は、仲間に加えてもらい、47年11月、初めて上野山下(西郷さんの銅像の下あたり)に立ちます。
32歳の時でした。
曾我廼家市蝶.JPG
上野池の端で客を取る市蝶
(「流転女形系図」『人間探究』28号 1952年8月)
 
ちなみに、1948年(昭和23)頃の女装男娼のお値段はショートで200円。
物価変動(インフレーション)が激しい時代なので比較が難しいのですが、電車の初乗りが3円、公務員の初任給は2300円ですから、50~60倍に換算すれば、10000~12000円相当になります。
客さえコンスタントにつけば、それなりに暮らしていけたはずです。
 
こうして夕闇が濃くなる頃、山下や池の端に立って男を誘い、男娼の秘技「レンコン」(筒形にした手を後ろから股間にあてて、そこに客のペニスを誘導する詐交のテクニック)で客を満足させる女装男娼の暮らしが始まりました。

最初は戸惑ったものの、天性の美貌と長い女形生活で培った女らしさは、男娼たちの中では抜群で、女形時代の知名度もあって贔屓客もつき、次第に暮らしも楽になっていきます。
 
市蝶が4年半の男娼暮らしで稼いだ資金で「湯島」を開店したのは1952年(昭和27)4月のことでした。
(続く)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第52号、2006年4月)

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日本女装昔話【第28回】シャンソン歌手を目指した 椎名敏江 [日本女装昔話]

【第28回】シャンソン歌手を目指した 椎名敏江 1950年代

初期の「性転換女性」シリーズの4人目は、椎名敏江です。
 
椎名敏江は、男性名を古川敏郎といい、1933年(昭和8)、福島県伊達郡月舘町の商家の末っ子に生まれました。
子供の時からやや女性的な性格で、中学の男性音楽教師にキスされるという体験をしています。
ただし、初恋は同級生の女性で、身体的発育の遅さに悩んでいたものの、青年期には女性との性交渉もかなりの回数あり、本人の言によれば「男ではない、女だなどと考えたことはありません」と、性別に対する違和感は明確でなかったようです。
 
1952年(昭和27)、19歳の時、上京して銀座のキャバレーのボーイの職を得ます。
ところが、何人かの中年の立派な紳士が、女給を相手にせず、ボーイの敏郎青年ばかりを席に呼ぶようになり、「女性的すぎてボーイとして役に立たない」という理由でクビになってしまいます。

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男性時代の椎名敏江(掲載誌不明。1957~58年頃)

転機は意外な形でやってきます。
職を転々としてサンドイッチマンをしていた時、女のサンドイッチマンの注文がありました。
女性的な敏郎青年が適任と女装してみると、大好評で仕事が次々に入ります。

仕事のために伸ばした髪が長くなると男の服装が似合わなくなり、普段の服装も女装に変え、名前も「敏江」と名乗るようになりました。

「自分は男として仕事につくより、女としての方がよりたやすく生きて行かれることを発見した」と本人は語っています。

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「女給」時代(性転換手術前)の椎名敏江(『風俗科学』1955年3月号)

二度目の転機は、女装で勤めていた神田の飲み屋での裕福な商家の若旦那との出合いでした。
「結婚してくれ」と熱心に口説かれ一夜をともにして、すべてを告白します。

若旦那は悩んだ末に「敏江」を大きな病院に連れて行き、女になる手術を勧めます。
勧められるままに費用はすべて若旦那持ちで、1955年6月、22歳の時に性転換手術を受けました。

身体的にも女性になった敏江は、もともと好きだったモダンバレーのレッスンに励み、銀座のキャバレーの踊り子となります。

さらに興行師から声がかかり「男から女になったジーナ敏江」として名古屋の港座で初舞台を踏みます。
西日本各地を巡業して帰京後は、シャンソン歌手を目指し、性転換女性という物珍しさもあり、1957年10月には、浅草フランス座の舞台に立つなど、そこそこの活動をしたようです。
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ショーの控室で出番を待つ椎名敏江。エキゾチックな美貌は舞台映えがした(『増刊・実話と秘録』1958年1月号)

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シャンソン歌手ジーナ敏江の舞台(『100万人のよる』1959年1月号)

しかし、次第に忘れられて、60年代に入ると、消息はわからなくなってしまいます。
 
彼女の人生をたどると、強い性別違和感に悩んだ末に性転換を選んだというよりも、職業的な要請で女装をはじめ、若旦那との出合いをきっかけに、成り行きで性転換をしてしまったようにも思えます。

そんな彼女の後半生がどうだったのか、少し気掛かりです。
 
椎名敏江の頃を境に、ただ「性転換」したというだけでマスコミの話題になる時期は過ぎていきます。

60年代になると、以前にこのコーナーで取り上げた性転換ストリッパー吉本一二三(第7回)や銀座ローズ(第17回)のように、話題になるには「性転換」+αが必要になります。

日本の性転換の黎明期は終わり、次の時代を迎えることになったのです。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第51号、2006年1月)

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日本女装昔話【第27回】男性音楽教師から女性歌手へ 吉川香代 [日本女装昔話]

【第27回】男性音楽教師から女性歌手へ 吉川香代 1950年代

初期の「性転換女性」シリーズ、永井明子、松平多恵子に続く第3例目は、吉川香代です。
 
吉川は、男性名を弘一といい、1921年(大正10)年、名古屋市に生まれました。
小学五年生の時、一家をあげて上京し、東京の本所に転居します。
弘一少年は、音楽家を目指して国立音楽大学に入学。
ピアノ科から声楽科に移り将来を有望視される成績で卒業し、郷里に近い愛知県豊橋中学校に音楽教師として赴任しました。
 
戦争が始まり、1943年(昭和18)、招集されて陸軍衛生兵として中国戦線に出征しました。
吉川香代1.jpg
軍隊時代の吉川香代(『週刊東京』1956年10月27日号)

ところが、軍服を着ていてもどこか女らしいその姿。
ある将校は、裾の割れた中国服と化粧品を調達して吉川衛生兵に与えて寵愛します。
それがきっかけとなって、吉川の心の奥の女性が目を覚まし、部隊のマスコット的存在となって、終戦を迎えました。
 
1946年(昭和21)、上等兵で無事に復員、東京の深川第一中学校の音楽教師として再び教壇に立ちました。
その頃から心だけでなく、ヒップが丸みを増すなど身体の女性化が目立ちはじめ、「あの先生、女じゃないか」と生徒たちが噂をするようになります。
 
悩んだ末に医師の診断を受けると、結果は女性仮性半陰陽。
つまり、本来の性別は女性なのに性器の外観が男性的であったために出生時に男性と誤認されたのでした。
 
その診断で、吉川は女性への転性を決意し、1954年5月から55年12月までの間に、大田区の小山田外科病院で3回の手術と女性ホルモンの連続投与を受けて、女性に転換しました。

手術完了の時点で34歳。
手術代は30万円、公務員の初任給が5000円だった時代ですから、現在に換算すれば、1000万円ほどに相当する大金です。
そして、戸籍も女性に訂正し、名前も香代と改めました。
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「性転換」直後の吉川香代(『週刊東京』1956年10月27日号)

吉川は、最後の手術の直前に、教職を辞して職業歌手に転身します。
芸名を緑川雅美と名乗り、浅草の料亭「星菊水」の専属歌手として1960年頃まで舞台で活躍しました。
その後は、歌謡教室の先生に転じたようです。
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女性歌手時代の吉川香代(掲載誌不明。1957~58年頃) 

吉川の例は、典型的なインターセックスの事例で、手術も半陰陽の治療のためのものですが、報道では「“娘十八"から再スタート-女に性転換して取戻した青春-」(『週刊東京』1956年10月27日号)のように「性転換」として報じられました。
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振袖姿の吉川香代(『別冊 週刊サンケイ』1956年10月25日号)

当時は、インターセックス(半陰陽)とトランスセクシュアル(性転換症)の区別があいまいで、男性として生活していた人が女性になれば(逆も同じ)、すべて「性転換」として扱われたようです。
 
吉川香代のその後の消息はわかりません。
1960年頃の報道では結婚の噂もあったようです。
男性音楽教師 → 陸軍兵士 → 女性歌手という数奇な歩みをたどった彼女の後半生が幸せであったことを願いたいと思います。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第50号、2005年11月)

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日本女装昔話【第26回】華族の坊ちゃまの性転換 松平多恵子 [日本女装昔話]

【第26回】華族の坊ちゃまの性転換 松平多恵子 1950年代

前々回、前回と日本最初の「性転換」女性、永井明子(1951年2月造膣手術、53年9月報道)について紹介しましたが、今回はそれに続く第2例です。
 
「性転換」女性の第2例は、1954年秋に『日本観光新聞』に報道された松平任弘(女性名:多恵子 34歳)だと思われます。

松平は1922年(大正11)に東京渋谷区松濤の生まれ、旧男爵家の三男で、秩父宮勢津子妃殿下の従兄弟にあたるという名門の出身でした。

海軍中尉として中国戦線(上海)に従軍し、47年(昭和22)に帰国した後、53年秋に睾丸摘出と陰茎切除手術を受ました。
 
松平が注目されたのは、その出身が高松藩12万石のお殿様に連なるに大名華族という上流階級だったことです。

明治政府により旧公家や大名家、それに明治維新の勲功者を対象に設定された特権階級である華族の制度は、1947年の日本国憲法の実施により廃止されましたが、その余光はまだまだ根強いものがありました。
 
一方で、国家の保護を失い経済的に困窮した華族の没落もいろいろ報道されていた時代でした。
男爵家のお坊ちゃまの女性への性転換は、そうした世相を背景に、庶民にとって格好の話題になったのです。
 
松平が、手術に至った事情については、週刊誌では終戦後の混乱の中で負った戦傷で男性機能を喪失したことがきっかけとされています。
つまり「名誉の負傷」の場所が悪かったことがきっかけということです。
松平多恵子1.jpg
30歳代の松平多恵子(『奇譚クラブ』1955年1月号)

しかし、当時、女装や転性の研究家として知られていた滋賀雄二のインタビュー記事「人工女性 松平多恵子との会見記」(『奇譚クラブ』1955年1月号)によれば、松平は睾丸肉腫の手術の際に医師に願って陰茎切除も行ったと語っていて、戦傷云々の話はまったく出てきません。

また『日本週報』1954年11月5日号の記事によれば、松平は幼少の頃から、女性的性格、女装常習の傾向があり、18歳の頃に家出、女装で女給などをしながら各地を転々とした後、高松玉枝の芸名で旅の一座の女形として活躍した過去があったそうです。

その後、親に連れ戻され、男性として大学入学、卒業と同時に海軍少尉に任官して、暗号解読を任務とする上海第二気象隊に配属されます。
部下はひそかに「お嬢さん隊長」と呼んでいたそうです。
 
そうした前歴や、戦後、日本舞踊教師・舞踊家として身を立てていた事情を考えると、「性転換」は松平の女性化願望の結果であって、戦傷云々とか睾丸肉腫とかいう話は、体面を取り繕うための理由付けだったのではないでしょうか。
 
なお、松平の「性転換」は、精巣と陰茎の除去手術のみで、インタビューの1954年末の時点では造膣手術は受けていません。

現在の基準では「性転換」とは言えませんが、「性転換」概念がまだ確立されていない1950年代では、そうした造膣未了の例や半陰陽の治療手術も「性転換」として報道していました。
 
『ヤングレディ』1965年10月31日号の記事によると、松平は、舞踊家としての活動をやめて、男性と「結婚」していました。
女としての後半生が平穏であったことを願いたいと思います。

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40歳代の松平多恵子(『ヤングレディ』1965年10月31日号)


(初出:『ニューハーフ倶楽部』第49号、2005年8月)

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日本女装昔話【第25回】戸籍の性別も「訂正」していた 永井明子 [日本女装昔話]

【第25回】戸籍の性別も「訂正」していた 永井明子 1950年代

1950年8月から51年2月にかけて男性から女性への性転換手術を受けた日本最初の性転換女性、永井明子についての2回目です。
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『日本観光新聞』(掲載年月日不明、1954年頃の撮影)
 
性に関するさまざまな事象を記録したことで知られる高橋鐡の著書『あぶ・らぶ』に「日本の女性転換第一号(N・A嬢?)」の調査記録が収録されています。

「N・A嬢」が永井明子であることは、まず間違いありません。
そこには次のような興味深い記述があります。
 
「性転換手術をうけたのを機に、次男ではなく長女として認めてほしいと家庭裁判所に願い出」、「初めてのことで家裁も大いに困惑したが、事実男性の象徴たるペニスや陰嚢が無いので結局彼の訴えどおりに長女と認定した」

つまり、永井明子は、性転換手術後に戸籍の続柄(性別)を男性から女性へ訂正したというのです。
これまで、性転換手術に伴う戸籍の性別訂正は、1980年の布川敏さん(源氏名:ボケ)の例が唯一とされてきました。
 
永井の戸籍訂正については、高橋鐡の記述しか手掛かりがなく、今まで未確認でした。
ところが、2004年春、私が文献調査中にたまたま目にした「恐ろしい人工女性現わる!-宿命の肉体“半陰陽”-」(『日本週報』1954年11月5日号)という記事中に、永井の戸籍(部分)の写真が掲載されていることに気がつきました。

永井明子2.jpg
性別の訂正がされている永井明子の戸籍(『日本週報』1954年11月5日号)  

写真からは、「明」から「明子」への改名と、「参男」から「二女」への続柄(性別)の訂正がはっきり読み取れます。

これで高橋鐡が「次男から長女」としているのは「参男から二女」の誤りだったにしても、性別訂正の事実を確認することができました。

これにより、性転換手術に伴う戸籍の性別訂正事例は、少なくとも26年溯り、日本最初の性転換手術とほぼ同じ時期であることが確定的になりました。

ご存知のように、性同一性障害者の戸籍の性別の変更を一定の要件の下で認める「性同一性障害者の性別取扱い特例法」が2003年7月に成立し、2004年7月に実施され、11月までに全国で52名がこの法律の恩恵に預かって家庭裁判所で性別変更を認められたことが報道されています。
 
しかし、永井明子の戸籍訂正は「特例法」など影も形もなかった時代のことで、戸籍法113条の「戸籍の訂正」条項をそのまま適用したものと思われます。
 
つまり戸籍法の条文を適用するだけで、 50年以上前に合法的かつ完全な形での戸籍の性別訂正が可能だっのです。

となると、いろいろ制約が多いだけでなく、不平等性や人権侵害性が指摘されている「特例法」を作ることが、はたして唯一の問題解決方法だったのか、もう一度考え直すことも必要なのではないでしょうか。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第48号、2005年5月)

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