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日本女装昔話【第20回】女給志望の女装者 [日本女装昔話]

【第20回】女給志望の女装者 1930年代

第18回で「荒木繁子」という明治末期~大正期の有名女装者を取り上げました。
今回は、その後日談です。
 
『読売新聞』昭和11年(1936)12月1日の紙面に「これが課長さまの長男」「彼氏の“女百態”です」という、ちょっとおどけた大見出しとともに中年女性?の写真が載っています。
荒木繁子『読売新聞』1936年12月1日号.jpg
針仕事をしている姿と三味線をひいている場面の2枚で、「二度結婚、女教員、女給の半生」という小見出しがついています。
 
「職を探してください。家政婦でもなんでもいたします」と、新場橋警察署(現在の日本橋兜町)に訴え出たこの人物、林芙美子と名乗っていますが、本名が「繁」であること、出身地や経歴からして、『読売新聞』明治44年(1911)3月4日号に「美人に化けた荒木繁夫」として掲載された人物と同一人であることは間違いありません。
 
今回の記事によると、彼女の波乱の人生は次のようなものでした。
新聞に取り上げられた後、19歳で会社員の男性と「結婚」、岐阜県で2年間、妻としての生活を送っていましたが、21歳の時、徴兵検査のため本籍地の大分県に帰郷、女装で検査を受けたもののもちろん不合格。

ところが夫の元に戻ると、そこには本物の女性が妻として納まっていて、手切れ金200円(大金!)で泣く泣く離別。
 
その後、和歌山県で株屋の男性と「再婚」。
病身(結核)の夫に5年間尽くし、その間に女髪結を始め、夫に死別した後も女弟子2人を置く女髪結業で生計を立てていました。

ところが、同業者に男であることを見破られて店をたたみ上京、カフェーの女給や旅館の女中を点々としたあげく、職に困って警察署に願い出たのです。
 
そのことが新聞で報じられると、彼女が宿泊していた旅館には、小料理屋やカフェーから引き合いが殺到し、中にはわざわざ訪ねてきた経営者もいて、首尾良くカフェーの「女給」として就職が決まりました。
 
12月4日の『読売新聞』には、「ネオンの灯影に彼氏の女給ぶり」「願ひかなった女装の男性」という見出しとともに、日本橋茅場町のカフェーで男性客にお酌をする艶姿が掲載されています。
荒木繁子『読売新聞』1936年12月4日号.jpg
ただし、初日のチップは1円80銭で「ねぇ、これではあたしやってゆけないわ。お白粉代にもならないわよ」と彼女は嘆いています。

ちなみに当時の物価は、天丼が40銭、公務員の初任給が75円ですから、現在比で約2500倍くらいでしょうか。

とすると、彼女のチップは4500円見当になります(当時の女給はチップ制で固定給はありません)。
 
ところが、就職の喜びもつかの間、警視庁からの「男の女給はまかりならん」という無粋なお達しで、実働わずか2日で彼女は失職してしまいます。

理由は「善良な風俗を害し、大衆の猟奇心をそそる」というものでした。
 
さて、この文章の最初の方で「同一人であることは間違いありません」と書きましたが、実は一つだけ問題がありました。それは年齢です。
 
彼女が最初に新聞を賑わせたのは明治44年、19歳の時でした。
それから昭和11年まで25年の歳月が流れ、彼女は44歳になっているはずです。
ところが、昭和11年の新聞記事に記された年齢は、どうしても「四四」に読めません。
 
私の手元にあるのはCD-ROMの縮刷プリントなので、わざわざ国会図書館に行ってマイクロフィルムを拡大投影して確認しました。
そこに記された年齢は「三五」。彼女、9歳もサバを読んでいたことになります。

年齢のサバ読みは女心の常ですから、とやかく言うつもりはありません(私もさんざんサバを読みましたから)。
むしろ、それで通用したのですから見事と言うべきでしょう。
 
師走の寒空に再び失業の身となった彼女のその後はわかりません。
でも、ここまで女として生きたら、もう男の生活には戻れなかったでしょう。

もし、彼女が太平洋戦争の戦火をくぐって70歳まで生きたら、昭和37年(1962)まで存命のはず。
ちょっと怪しいおばあさんになっていたかもしれません。

会って、波瀾万丈の「女」の人生のお話を聞きたかったです。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第43号、2004年2月)

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日本女装昔話【第19回】錦絵新聞に描かれた明治の女装妻 [日本女装昔話]

【第19回】錦絵新聞に描かれた明治の女装妻 1870年代

前回に引き続き明治時代のお話です。
 
新聞が現在のような活字中心の紙面になる前、明治5年(1873)から8年間くらいの短い期間ですが、錦絵新聞というものがありました。
江戸時代に発達した木版画(浮世絵)の技法を用いた絵を中心に説明文を添えた一枚刷りの紙面で、新聞というよりも瓦版の発展形のようなものでした。
 
その一つ、日本で最初の日刊新聞『東京日々新聞』(明治5年2月創刊。現在の毎日新聞の前身)の明治7年(1875)10月3日号(813号)に興味深い記事があります。
女装妻(東京日日新聞18751002) (1).jpg
 
時は江戸時代末期、12代将軍徳川家慶の治世の嘉永3年(1850)、讃岐国(香川県)東上村に住むある夫婦に男の子が生まれました。
それまで子供を授かっても無事に育てられなかった夫婦は、この子供に「お乙」という名を付け、女の子として養育しました。
男の子がなかなか育たない場合には、女の子として養育すれば無事に育つという当時の風習に従ったのでした。
 
ところが、お乙は丈夫には育ったものの、あまりにも見事に「娘」として育ってしまったのです。
衣類、髪形、化粧まで娘そのもの、縫い物など娘としての素養もしっかり身につけ、しかも、なかなかに美しい容姿。
18歳になると高松藩の武家の屋敷に女中として奉公に上がりましたが、近隣の娘たちと戯れても誰も疑わないほどで、それをいいことに奉公先の娘と姦通事件を起こしたりします。
 
お乙が21歳になったころ(時代は明治になってます)、同国三木郡保元村で塗師を稼業とする早蔵という男が、お乙を見初めてしきりに口説きます。
困ったお乙は自分は女子ではないことを告白しますが、早蔵はお乙が男であることを承知で婚礼をあげ夫婦になります。

こうして3年間、お乙の「妻」としての歳月が平穏に過ぎていきました。

明治新政府は明治4年(1871)4月に戸籍法を発布し、翌5年に全国一律の「壬申戸籍」を作成しましたが、この戸籍作成作業の際に、お乙が男性であることが露見してしまいました。

25歳になっていたお乙は、丸髷(既婚女性の髪形)に結っていた長い髪を無残に切られ、男の姿にされてしまい、早蔵との結婚も無効にされてしまいます。
女装妻(東京日日新聞18751002) (4).jpg
お乙は「娘」時代に女性と性的関係を持ったことがあるように、まったくの女性的資質ではなかったようですが、生まれてからずっと女の子として育てられ「娘」になり、女性として生きることしかできなかったのでしょう。

そこに早蔵が現れ、「妻」としての生活を選んだのだと思います。

もし、新たに戸籍が作られなかったなら、二人は子供こそ出来ないものの、穏やかな夫婦生活を送れたかもしれません。
戸籍という近代の制度が、二人の幸せに水を差したのです。
 
錦絵には、ザンギリ頭ながら女物の着物姿で針仕事をするお乙と、その傍らでくつろぐ早蔵の姿が描かれています。

この絵の通りなら、お乙の性別が露見した後も、二人は別れることなく、事実上の「夫婦」として暮らしていたのかもしれません。もし、そうならば少しは気が休まる思いがします。
 
明治時代の幕開けは、文明開花という形で、人々の生活の生活を向上させ、意識を合理化しました。

性という側面でみれば、男の身体で生まれた者は男らしく男姿で、女の身体で生まれたは女らしく女姿でということが無条件に当たり前になったのです。

近代、それは、江戸時代的なあいまいな性、中間的な性の存在を許さない時代の到来だったのです。

【参考】
こちらは男装の女性の事例。
男装の女性(大阪錦画日々新聞紙 第24号).jpg
明治8年(1875)東京芝・高輪あたりで、借金の返済が滞り、貸主から暴行を受け芝・将監橋から身投げしようとしていた人力車夫。時次郎という男を、巡査が助けたところ、甲州出身で7年間も男装で暮らしていた女性であることが判明。
(『大阪錦画日々新聞紙』第24号)

【参考文献】
高橋克彦『新聞錦絵の世界(角川書店 1992年7月)
木下直之・吉見俊哉 『ニュースの誕生-かわら版と新聞錦絵の情報世界-』
(東京大学出版会 1999年11月)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第42号、2003年11月)

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日本女装昔話【第18回】明治時代の有名女装者、荒木繁子 [日本女装昔話]

【第18回】明治時代の有名女装者、荒木繁子 1910年代

平成の世も15年ともなると、明治生まれで存命の方も稀になり、明治時代は歴史そのものになろうとしています。

今までこのコーナーでは、昭和戦後の女装者の歴史を取り上げてきましたが、今回は、90年以上前の明治時代のお話です。
 
『読売新聞』明治44年(1911)3月4日の朝刊に「美人に化けた荒木繁夫」という見出しの記事が載っています。
荒木繁子(読売新聞19110304).jpg
しかも、この記事、小さいとはいえ写真入りなのです。当時の新聞の紙面には、写真は数えるほどしかありません。
記者や読者の興味津々な様子がうかがわれます。
荒木繁子 (3).jpg
当時の女性の流行の髪形である庇の張った束髪にやや面長の美貌を思わせるのこの写真、たぶん新聞に掲載された最初の女装写真ではないでしょう。
 
話題の主、荒木繁子(本名:繁夫)は、この時、花も盛りの19歳。
彼女、実は明治末~大正期にかけて「女性的男子」の典型としてちょっとした有名人でした。

この記事以外にも、性科学者として著名な田中香涯や澤田順次郎が論文や著書で繁子について述べています。

それぞれ内容が食い違うところもありますが、合わせて彼女の行状をたどってみましょう。
 
彼女は、専売局書記を勤める父の長男として名古屋市に生まれました。
年齢から逆算すると、明治26年(1893)の生まれです。
幼時から女のまねを好み、高等小学校卒業ころには、裁縫、生け花、茶の湯、琴、三味線と当時の女性の嗜みを一通り身につけ、芝居も風呂も女性と連れ立って行く始末でした。
持て余した両親は、彼女を広島県尾道の親戚に預けます。
 
ところが、そこでも化粧三昧の日々、とうとう18歳の春、髪もハイカラに結い、女性の姿となって家出、料理店の住み込み女給になって三原、岡山、姫路と山陽道を転々とし、5カ月ばかりいた料理店では、ハイカラ芸妓として評判を取ります。

その後、神戸で印刷所の女工をしていた時、ある男性に見初められて嫁入りしましたが、すぐに離縁となり、明治44年1月、生まれ故郷の名古屋に戻ってきました。

父の縁故を頼って行けば「荒木氏には長男はいたが、長女は聞いたことがない」と不審がられ、西洋料理店に雇われたものの落ち着けず、結局、名古屋市内の仏教慈恵学校の女教師を志望します。

しかし、教員の欠員がなく、炊事その他の雑務員として雇われることになりました。
 
ところが、不審な点有があるという密告によって警察に拘引されされてしまいます。
取り調べで犯罪には無関係として放免されましたが、男性であったことが露見してしまいました。
 
校長の好意で勤めは続けることはできたものの、新聞記者や物見高い人の来訪が多く、それを避けるために上京して神田淡路町あたりに住んでいるらしいという噂を記事にしたのがこの『読売新聞』だったのです。
 
ところで、繁子は別の記者に対して次のような希望を語っています。
「私はあくまでも女として世を送りたいのでございます。また、男ということを承知して嫁にもらってくださる人があれば、末永く添い遂げますわ」
 
その言葉の通り、繁子はいろいろな波乱の末、23歳の頃、ある人の世話で蚕糸会社員と結婚し、退職して郷里に帰る夫に従い、大正7年(1918)の時点では、岐阜県某村で夫、姑、小姑に嫁として仕える日々を送っていたようです。
 
繁子は、今の時代ならば、かなり典型的なMtFの性同一性障害と診断されるでしょう。
性を越えて生きたい、男として生まれながら女として人生を送りたいと願う気持ちは、明治時代も現代も変わりはないのです。
 
【参考文献】
田中香涯「女になりすました男」(『変態性欲』6-6 1925年6月)
澤田順次郎『変態性医学講話』(通俗医書刊行会 1934年6月)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第41号、2003年8月)

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日本女装昔話【第17回】和製ブルーボーイ、銀座ローズ [日本女装昔話]

【第17回】和製ブルーボーイ、銀座ローズ 1960年代

皆さんは、銀座ローズの名前をご存知ですか?。彼女は1960年代の日本で最も有名な性転換女性でした。

銀座ローズ(『100万人のよる』6303)1.jpg
美貌とスタイルの良さがわかりる(『100万人のよる』1963年3月号 季節風書房)
 
銀座ローズこと武藤真理子は、1930年(昭和5)、北海道旭川市で寿司屋を営む武藤家の長男(本名:隆夫)として生まれました。

子供の頃から女っぽく、小学生の時にはおかっぱ髪でランドセルの上に赤いショルダーバッグを下げて通い、中学生の夏休みには女装して子役の踊り子として興行師とともに北海道中を巡業したそうです。
 
1958年(昭和33)に大阪OSミュージックで本格的な舞台デビューをして「謎の舞姫」として話題になり、60年頃に去勢手術、62年頃に大阪曾根崎の荻家整形外科病院で造膣手術を受けました。
 
その翌年の1963年の暮、フランスはパリの「カルーゼル」の性転換ダンサーたちが来日公演して大きな話題になり「ブルーボーイ・ブーム」が起こりました。

銀座ローズは「和製ブルー・ボーイ」ダンサーとしてその波に乗り、興行界を賑わせることになります。

彼女の舞台は、幼い頃から鍛えた和洋両方の踊りに加えて歌も上手、その女性的な美貌もあって人気を呼び、1965~66年頃の全盛期には一般の週刊誌などにも数多く紹介されています。
銀座ローズ(『風俗奇譚』6501S)12 (2).jpg
銀座ローズのステージ (『風俗奇譚』1965年1月臨時増刊)
 
当時、「和製ブルー・ボーイ」として彼女のライバルだったのが、1964年に日劇ミュージックホールでデビューしたカルーセル麻紀でした。

とは言え、まだ性転換手術を完了していなかったカルーセルに対し銀座ローズは性転換済みで、興行実績的にも彼女に軍配が上がります。
 
舞台以外に彼女を有名にした要素が二つありました。
一つは彼女が男性と「結婚」(夫が彼女の弟として入籍)生活を営んでたことで、1961年には盛大な結婚式を上げ「妻になった男」として話題になりました。
銀座ローズ(『100万人のよる』6303)2.jpg
「妻になった男」(『100万人のよる』1963年3月号 季節風書房)

もう一つは、妹の静子との対照です。
静子は女性的な兄とはまったく逆で「荒縄のおシズ」の異名をとったほど男性的で、成人後は男装で過ごし「シー坊」と呼ばれ、兄の真理子と共に「性を取り替えた兄妹」としてマスコミに紹介されました。
 
ところで、銀座ローズのことを書こうと思いながら、なかなか書けなかったのは、彼女の生年が確定できなかったからでした。

全盛期のインタビューなどでは巧みにごまかして年齢を明らかにしていません。
彼女についての最も新しい記事である「戦後風俗史オトコとオンナの証人たち」(『FOCUS』1995年8月29日臨時増刊号)に基づけば、1936年(昭和11)旧満州の生れとなりますが、どうも話の辻褄が合わないところがありました。

今回、彼女に関する初期の記事が見つかり、1930年、北海道生まれとやっと確定できました。
年齢のサバを読むのは女心の常ですし、また営業的にもある程度は必要なこと。

私もさんざんサバ読みをしたので、人のことを非難できませんが、社会史研究者としてはとても苦労させられました。
 
彼女の生年が明らかになったことによって、その全盛期が短かったのは、年齢が理由ではなかったかという推定が浮かんできました。

大阪でのデビューが28歳、人気を得た1965年にはすでに35歳だったことになります。
ライバルのカルーセル麻紀(1942年生)とはちょうど一回り12歳の差ですから、60年代末に、銀座ローズがブルーボーイ・ダンサーのトップの座を、カルーセルに明け渡さざるを得なかったのも仕方がないことでした。
 
銀座ローズは、1967年にホストクラブ「ヘラクレス」を、88年には浅草でゲイバー「銀座ローズ」を開店し、ママとして店の経営に腕をふるう一方で、31年間連れ添った旦那さんと娘さん(養女)を育てあげました。
 
高度経済成長期の夜を妖しく彩った名花の「女の一生」は、意外に家庭的だったのかもしれません。

銀座ローズ(『風俗奇譚』6501S)6.jpg
銀座でショッピングする銀座ローズ (『風俗奇譚』1965年1月臨時増刊)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第40号、2003年5月)

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日本女装昔話【第16回】女装芸者の活躍(その2) [日本女装昔話]

【第16回】女装芸者の活躍(その2) 1970年代~現代

前回に引き続き、男性でありながら、女性の芸者と同じような姿で、お座敷で芸を披露し接客をする女装芸者の足跡をたどります。
 
伊東温泉の「チャコ」や雄琴温泉の「よし幸」に少し遅れて、静岡県熱海温泉に「お雪」という女装芸者がいました。
熱海温泉のお雪.jpg
熱海の「お雪」 (『女性自身』1975年10月30日号)

ゲイボーイ出身で、1969(昭和44)に熱海の芸者置屋の看板を買ったのですが、地元の幇間や芸者衆から「男が芸者になるなんて」という反対の声があがりました。

しかし、猿若流の踊りの名手である彼女の芸と熱意が実って、熱海料芸組合の承認が得られ、芸者として検番登録されることになりました。

芸者2人を抱える置屋の女将でありながら自らもお座敷に出て稼ぎ、デビィ・スカルノ夫人など芸能人、著名人の贔屓客も多かったようです。
 
このように1970年代までは日本の各地で女装芸者が活躍し、地域社会でそれなりに受け入れられ、遊興客の人気を集めていたことがわかります。
 
ところで、MtFの(男性から女性への)トランスジェンダーの基本は、女性の形態を模倣することにあります。
その模倣は外的形態(ファッション)だけではなく職業形態をも模倣します。
例えば、娼婦に対する女装男娼、ホステスに対するゲイボーイ、女性ダンサーに対する女装ダンサーという具合です。

つまり、MtFトランスジェンダーの有り様は、一種のコピー文化であるとも言えるのです。
ですから、芸者が輝いていた時代に、そのコピーとしての女装芸者が存在したのも、当然なのかもしれません。
 
私が中央大学の2000年度の講義で女装芸者についてちょっと話をしたところ、山口県の湯田温泉出身の学生が「母に聞いた話ですが、湯田にもそういう人がいたそうです」とレポートに書いてくれました。
絶対数こそ少ないものの、けっこうあちこちに女装芸者はいたのではないでしょうか。

現在、女装芸者は東京向島の「真紗緒」(芸者で検番登録)ただ一人になってしまったと思われます。
女装芸者(向島・真佐緒・『週刊大衆』870209).jpg
向島の「真紗緒」 (『週刊大衆』1987年2月9日号)

真紗緒姐さんの場合はゲイバーの経営者から芸者好きが昂じての転身でしたが、やはり幇間の強い反対があり、1987年(昭和62)に芸者として認められるまでには紆余曲折があったようです。
今ではなかなかの人気でお座敷を勤めていらっしゃいます。
女装芸者(向島・真佐緒・2001年)2.jpg
真紗緒姐さんと私。「陽気な下町のおばちゃん」という印象。
(2001年10月26日「向島踊り」で)
 
日舞と長唄をよくする真紗緒姐さんを含めて女装芸者たちの特色は、踊りにしろ唄にしろ、客を引き付けるに十分なだけの技量を持っていたということです。
伊東温泉の「チャコ」のように、それに加えて本物の女性の芸者では披露をはばかるような芸(ストリップ)を持っている例もありました。
 
女装芸者であるという話題性・希少性、はっきり言えばゲテモノ性が彼女たちの人気の起点になっていることは否定できませんが、それだけでは人気は継続できなかったでしょう。

やはり、お座敷というミニ興行的な場を支えるだけの芸能が必要だったのです。
 
女装芸者は、性別越境者の芸能・飲食接客業という伝統的な職能を示すものとして、きわめて興味深い存在です。
江戸時代の陰間の伝統を受け継いだものとも考えられますし、現代のニューハーフの有り様の原像とも評価できます。
また性別越境者と興行という視点から見てもゲイバーのショーの源流のひとつとして考えられるかもしれません。
 
明治~昭和期にどれほどの女装芸者が存在したのか、その実態を解明することは今となっては難しいのが残念です。
女装芸者について、なにかご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひご教示ください。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第39号、2003年2月)

【追記】
真紗緒姐さんは、その後、残念ながら逝去され、現在(2020年)、女装芸者は、大井海岸のまつ乃家栄太郎さん(ご本人の名乗りは「女形芸者」)ただ1人になっています。
女装芸者(大井・まつ乃家・ 栄太朗) 3.jpg

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日本女装昔話【第15回】女装芸者の活躍(その1) [日本女装昔話]

【第15回】女装芸者の活躍(その1) 1960年代

女装芸者という存在をご存じでしょうか?。
 
かって日本各地の花街には、お座敷で様々な芸を披露する幇間(たいこもち)という男性芸能者がいました。
彼らを「男芸者」と呼ぶことがありましたが、これから紹介しようとするのは、それとは異なり、男性でありながら、女性の芸者と同じような姿で、お座敷で芸を披露し接客をする人たちです。
 
芸者という身分は、戸籍上の女性でなければなれないものだったので(戦前は鑑札制、戦後は検番登録制)、女装芸者の多くは非公認の存在でした。
しかし、言わば「芸者もどき」のこの手の人たちは、数こそ少ないものの日本各地の温泉地などにいたらしいのです。

今回と次回は、今は忘れ去られつつある女装芸者の足跡をたどってみたいと思います。
 
昭和の初め頃、栃木県の塩原温泉に「おいらん清ちゃん」という有名人がいました。
腕の良い髪結い職人である清ちゃんは、戸籍上は立派な男でありながら、日常の身なりも性格も女そのもので、女装には厳しい社会環境だった時期にもかかわらず、地域の人にも「女」として受け入れられていました。

清ちゃんのことが新聞で報道されると、塩原温泉に遊ぶ客の中には「清ちゃんを呼んで」と頼む人も多くなりました。

すると清ちゃんは、濃化粧に髪を結い上げた芸者姿で座敷に上がり、三味線と踊りを披露し、チップをもらっていました。
女装芸者(塩原温泉・清ちゃん・1936年) 1.jpg
塩原温泉の清ちゃん(右) (『風俗奇譚』1965年8月号)

写真を見ても並の女よりはるかに美貌だったようで、その人気のほどは、昭和4年(1929)1月1日(日付に注目)の読売新聞に清ちゃんの写真入りインタビュー記事が掲載されていることからもしのばれます。
 
清ちゃんが人気になる少し前、大正14年(1925)7月29日の読売新聞は、茨城県の平磯(現:那珂湊市)の大漁節の名手、女装芸者「兼ちゃん」を紹介しています。
兼ちゃんは、大酒飲みだったようですが、喉の良さに加えての美貌、「男が大好き」という媚態で人気者でした。

戦後になると女装芸者があちこちの温泉地で活躍し始めます。
栃木県の鬼怒川温泉には、昭和34年(1959)頃、「きぬ栄」という若くて美人、踊りも三味線も巧みな売り出し中の人気芸者がいました。
女装芸者(鬼怒川温泉・市ちゃん) (2) - コピー.jpg
鬼怒川温泉のきぬ栄(市ちゃん) (『風俗奇譚』1967年1月臨時増刊号)

彼女が市左衛門という立派な名前をもつ男性だったことが『週刊文春』の報道を通じて明らかになったのは、身請けされた旦那に結婚を迫られ困った彼女が故郷に逃げ帰ってからのことでした。
つまり、彼女は置屋の女将の計らいで、女性の芸者として登録されていたのです。(詳しくは「日本女装昔話 番外編1 女装芸者『市ちゃん』」を参照ください)

静岡県の伊東温泉には、昭和39年(1964)頃、『アサヒ芸能』などで紹介されて有名になった女装芸者チャコがいました。
女装芸者(伊東温泉チャコ).jpg
伊東温泉のチャコ (『風俗奇譚』1964年1月臨時増刊号)

チャコは藤間流の日舞の名取で、修行を積んだ踊りの基礎を生かしたお座敷ストリップ芸が得意業。おまけに歌も歌えて、女の芸者より色っぽいということで、花代(一座敷のギャラ)が一般の芸者の数倍という高値にもかかわらず、引っ張りだこの盛況でした。
 
同じころ伊東温泉には、もう一人の女装芸者がいました。
温泉街の「リオ」というキャバレーで女装ホステスしていたサトコです。彼女も呼び出しがあると、酒席に上がり、踊りを披露していました。
伊東温泉のサト子 (『風俗奇譚』1964年1月臨時増刊号).jpg 
伊東温泉のサト子 (『風俗奇譚』1964年1月臨時増刊号)
 
やはり同じころ、滋賀県雄琴温泉に「よし幸」という女装芸者がいました。
芝居の女形の前歴を生かした踊りで売れっ子でした。
雄琴温泉のよし幸 (『アサヒ芸能』1968年3月17日号).jpg
雄琴温泉のよし幸 (『アサヒ芸能』1968年3月17日号)

しかし、彼女の名が全国に知られるようになったのは、女性への性転換手術を受けことからでした。
しかも半陰陽(インターセックス)だった彼女は、1966年5月に戸籍も男性から女性へ変更し、複数の週刊誌が「性転換芸者」として大きく取り上げました。
 
このように1960年代までは日本の各地で女装芸者が活躍し、地域社会の中でそれなりに受け入れられていたのです。

なお、本稿は、鎌田意好「異装心理と女装者列伝」(『風俗奇譚』1965年8月号)などを参照しました。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第38号、2002年 11月)

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日本女装昔話【第14回】警視総監を殴った男娼「おきよ」 [日本女装昔話]

【第14回】警視総監を殴った男娼「おきよ」1940~1970年代

「この『人形のお時』さんって、警視総監を殴った人よね」
 
ここは新宿歌舞伎町区役所通り、老舗の女装スナック『ジュネ』。
前号のこのコーナーを読んでいた静香姐さんが言いました。

「それが違うんみたいなんです。殴ったのは『おきよ』さんって人らしいです」と私。
「あら、そうなの。あたしはずっと『ときよ(時代)』って人だって聞いてたわ」
 
実は私もそう聞いてました。
どうもいつの間にか伝承と事実が食い違ってしまったようなのです。

上野の男娼世界については、この連載の第1回で取り上げましたけど、調査に不十分な点が多かったので、もう一度詳しく述べてみようと思います。
 
東京の中心部のほとんどがアメリカ軍の空襲で焼け野原となった戦後の混乱期に、東京の北の玄関上野に男娼(女装のセックスワーカー)たちが姿を現します。
 
その数は、全盛期の1947~8年(昭和22~23)には50人を越えるほどになりました。
娘風や若奥様風の身ごしらえ(当時はほとんどが和装)で、山下(西郷さんの銅像の下あたり)や池の端(不忍池の畔)に立って、道行く男を誘い、上野の山の暗がりで性的サービスを行っていました。
 
そんな上野(ノガミ)の男娼の存在を全国的に名高くしたのが、1948年(昭和23)11月22日夜に起こった「警視総監殴打事件」でした。

同夜、上野の山の「狩り込み」(街娼・男娼・浮浪児などの「保護」)を視察中の田中栄一警視総監(後に衆議院議員)に随行していた新聞カメラマンが、フラッシュを光らせて街娼たちを撮影し始め、それに怒った男娼たちがカメラマンにつかみかかり、大混乱になりました。
殴打事件はその最中に起こったのです。
警視総監殴打事件1.jpg
「殴打事件」を報道した新聞 (毎日新聞 1947年11月23日号)

警視総監殴打事件2.jpg
『毎日新聞』掲載の写真の拡大

警視総監を殴り、一躍「英雄」視されることになったのは当時32歳の「おきよ」という男娼でした。

彼女は事件の7年後にこう語っています。「なんや知らんけど大勢の男たちがやって来て、いきなりカメラマンがフラッシュを光らせた。それがアタマにきたんでいちばん偉そうなのを殴ったんよ」
(広岡敬一『戦後風俗大系 わが女神たち』2000年4月 朝日出版社)
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「鉄拳の」おきよ姐さん(1955年頃)

このように事件は偶発的なものでしたが、警察にも面子があります。
当夜、暴行と公務執行妨害で彼女を含めた5人の男娼が逮捕されますが、「警視総監を殴った男娼」として自他共に認める人物はこの「おきよ」さん以外にありません。
 
それでは、なぜ「おきよ」が「ときよ(おとき)」に誤り伝えられたのでしょうか?
「鉄拳のおきよ」として有名になった彼女は、男娼生活から足を洗い1952年(昭和27)に「おきよ」というバーを浅草と新吉原(台東区千束4丁目)の中程に開店します。

店には吉行淳之介など軟派系の文化人が出入りし、またハリウッド女優エヴァ・ガードナーが来店して、乱痴気騒ぎの末に脱いだショーツを置き忘れていったり、昭和30年代には大いに繁盛しました。
 
実は、この店の看板娘が美人男娼として有名だった「人形のお時」こと「ときよ」さんだったのです。

「人形の・・・」のいわれは、「人形のように美しい」のは確かであるにしろ、実は男娼時代「人形のようにただ立ってるだけで口をきかない」ことによるのでした。
彼女はとても人を殴れるような人柄ではなかったようです。
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「人形の」お時さん (『100万人のよる』1961年4月号 季節風書房)
 
かたや武勇伝で、こなた美貌で世に知られた二人の男娼、それが「おきよ」と「ときよ」という間違えやすい名前を持ち、しかも同じ店の姐さんと妹分の関係にあったことが、語り伝えを混乱させた原因だったのです。
男娼バー「おきよ」.jpg
「おきよ」のメンバー 。
中央が「おきよ」さん、その右「ときよ」さん
(『100万人のよる』1961年4月号 季節風書房)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第37号、2002年 8月)

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日本女装昔話【第13回】女装者愛好男性の典型 西塔哲 [日本女装昔話]

【第13回】女装者愛好男性の典型 西塔哲  1960年代

「これ、僕が撮ったんですよ」「富貴クラブ」の元男性会員・紫さんは懐かしそうに写真(第5回掲載の夢野すみれさんの写真)を指さしました。
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-07-24-4

紫さんは「富貴クラブ」創設間もない頃から約20年間在籍し、最初の数年は女装したものの、大部分は男性会員として過ごした方です。
60代半ばの現在も週末は愛人(女装者)と過ごすという氏のお話を聞きながら、私は女装世界における男性の役割を考えていました。
 
女装の世界は、もちろん女装者が主役の世界ですが、女装者だけの世界ではありません。
女装者好きの男性(非女装男性)がもう一つの柱として存在し、女装者と女装者愛好男性の二本柱で成立している世界です。

その点では、東京の「エリザベス会館」のように女装者愛好男性を完全排除してしまった女装クラブの方が特異なのです。
 
身体的性別を絶対視する考え方からは理解しにくいことなのですが、こうした女装者愛好男性の意識は、ほとんどの場合、ゲイ(男性同性愛)ではなく、ヘテロセクシュアル(異性愛)です。
彼らは「女」として女装者を愛してるのであって、男同士の愛を求めているのではないのです。
 
こうした女装者愛好男性は、外国ではトラニイ・チェイサー(Tranny-Chaser)と呼ばれています。

「トラニー」とは、トランスセクシシャル(TS)、トランスジェンダー(TG)、トランスベスタイト(TV)の省略形。
「チェイサー」とは、それを追いかける人。

つまり、直訳すれば「女装者の追っかけ」、日本の俗語で言えば「かま好き」でしょう。

しかし、彼らの実態や意識をきちんと調査・分析した研究はほとんどありません(数少ない研究レポートとして黒柳俊恭「異性装しない異性装症者-二次的異性装症者のセクシュアリティ-」『imago』1990年2月号、青土社)。

M氏が「会長さんは絶対だったからね」と畏敬の念を込めて語る「富貴クラブ」会長・西塔哲こそは、そうした女装者愛好男性の典型と言える人物でした。

明治時代の末に東京浅草に生まれた彼は、子供の頃から芝居小屋や映画館に出入りし、美しい女形に不思議な興奮と興味を感じます。

新吉原遊郭で女遊びを知ったものの、大学在学中(昭和初期)に旅芝居一座の女形「蝶之助」と交際し、女装者好きの性向に火がつきます。
 
どこどこに女装者がいるらしいと聞くと、労を厭わず捜し出し会いにいく精力振りで、官僚(逓信省)として地方に出張する機会をとらえては、塩原温泉の女装芸者「おいらん清ちゃん」や大阪の男娼らとの交際を重ねます。
責め絵師で女装者愛好者でもあった伊藤晴雨とも親しく交際したのもこの時期のようです。
 
太平洋戦戦争中はシンガポールで軍務につき、戦後の男娼全盛時代には、運輸省陸運局に勤務しながら上野・新橋・新宿などの男娼のお姐さんたちと交際を続け、当時、美人男娼として有名だった「人形のお時」とは熱海へ温泉旅行を楽しんでいます。
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西塔氏が交際した美人男娼「人形のお時」(『風俗奇譚』1965年7月号)

 1955年(昭和30)、滋賀雄二氏が結成した日本最初のアマチュア女装同好会「演劇研究会」に参加し、同会解散後の1959年(昭和34)にアマチュア女装の秘密結社「富貴クラブ」を結成して会長となりました。
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「富貴クラブ」の女装会員に囲まれてご満悦の西塔氏(『風俗奇譚』1963年4月臨時増刊号)
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お気に入りの若手美人会員(夢野すみれさん?)と。
壁面のカレンダーの曜日配列から1974年(昭和49)1~2月の撮影と推定。

その後、鎌田意好(かまだいすき)の筆名で「異装心理と異装者列伝」シリーズ(『風俗奇譚』連載)、「女装群像」シリーズ(『くいーん』連載)などの実録ものや、『香炉変』(『風俗奇譚』連載)などの女装小説を多数執筆しました。
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晩年の西塔氏。鎌倉旅行のスナップ。最晩年まで、女装者愛好を続けた(『くいーん』29号、1985年4月)
 
1989年(平成元)頃に逝去するまで女装者愛好一筋50年、「富貴クラブ」会長として君臨すること30年。

日本のアマチュア女装文化の形成に大きな役割を果たし、女装者好きという自らの性向に忠実に生きた人生は、まさに女装者愛好男性の鏡と言えるでしょう。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第36号、2002年 5月)

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日本女装昔話【第12回】「富貴クラブ」のセクシュアリティ [日本女装昔話]

【第12回】「富貴クラブ」のセクシュアリティ 1960~1970年代

1960~70年代に盛んに活動したアマチュア女装の秘密結社「富貴クラブ」(1959~90年)については、このシリーズの第4・5回で取り上げました。
富貴クラブ(小池美喜・鴨こずゑ・石渡奈美、1967年8月以降)2.jpg
「富貴クラブ」の会員、左から小池美喜・鴨こずゑ・石渡奈美さん(1967年頃)

最近、複数の元会員の方にお話をうかがうことができ、今まで不明確だったいくつかの点が、かなり明らかになりました。
 
まず、「富貴クラブ」におけるセクシュアリティ(性愛)についてです。

同クラブのシステムを特徴づけるものに男性会員(非女装で女装者を愛好する男性)の存在があります。
彼らは女装会員が外出する時のエスコート役や恋人役として重要な役割を果たしていました。
従来「富貴クラブ」の性愛関係はこうした男性会員と女装会員の関係が中心だと思われていました。

ところが、どうもそうではないようなのです。
男性会員と女装会員の関係と同じか、それ以上の比率で女装会員同士の性愛関係が濃厚だったことがわかってきました。
  
「ここには確か三畳位の小部屋があった気がするが、布団が敷いてあったりして、気の合った者同士が、そこで互いに慰め合っていたのだと思う。或る時五、六人の会員が居る座敷で、スリップだけになった若いのが、仰向けに下半身を丸出しにし、フェラチオをされていた。屹立したのを根元を把んでルージュの唇にくわえこんで、かつらの髪を揺らし揺らし、和服の中年の会員が咽喉を鳴らしていた。他の会員の誰もが見ぬふりをしているものの、初めてこうした所を見る私は、どうしていいかわからぬうちに、若い会員の方が喘ぎ始め、うめき果てるのをくわえたままの中年は、ほとばしらせたザーメンを呑みこんでしまったようだった。ああ、これが『喰う』と云うことなのかと思いながら、私のパンティの中の勃起していたものも、気がつくと腿の方まで雫を垂らしていた」

これは今回の調査で「富貴クラブ」に関する詳細な手記を提供してくださった小池美喜さん(筆名:成子素人)の思い出です。

この時はまだウブな「処女」で傍観するしかなかった小池さんも、この後、クラブの世話役だった堀江オリエさんの仕込みで「女」にされ(アナルSexを初体験)、「これからは男が慾しくて仕様がないわよ」という予言通り、数多くの男性会員や女装会員とのセックスプレイを重ねていくことになります。

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「中野の部屋」での小宴会。中央奥の着物姿が小池さん(1970年代初頃)

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芸者の「出の衣装」姿の小池美喜さん(『SMファンタジア』1975年4月号)

最近、小池さんが所蔵されているプライベート・ビデオを見せていただく機会がありました。
それはすべて「会員の部屋」で撮影されたもので、妖艶な着物姿の女装会員同士の相互オナニーと相互フェラチオ、女装会員による男性会員へのフェラチオ奉仕、そして様々に体位を変えてのアナルSexなどきわめて濃厚な内容でした。
 
このように「富貴クラブ」の「会員の部屋」において、女装会員同士のセックスプレイや男性会員と女装会員とのセックスプレイが「遊び」と称されて常態的に行われていたことは間違いないようです。
 
しかし、それは、決して非難されることではなく、女装者が抱くセックス・ファンタジー(性幻想)の現実化という方向性において、とても自然なことだと思われます。

むしろそうした方向性を抑圧して、女装と性幻想を無理やり切り離そうとする考えに、どこか無理があるのではないでしょうか。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第35号、2002年 2月)

【参照】成子素人さんの手記
(解説)「もう一人の私のこと -「富貴クラブ」の女装者、小池美喜の手記-」
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2017-02-18-2

成子 素人「もう一人の私 のこと」(前編)
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2017-02-18

成子 素人「もう一人の私 のこと」(後編)
https://zoku-tasogare-sei.blog.ss-blog.jp/2017-02-18-1
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日本女装昔話【第11回】愛と芸に生きた女形 曾我廼家桃蝶 [日本女装昔話]

【第11回】愛と芸に生きた女形 曾我廼家桃蝶 1920~1970年代

白地に朝顔、桃、椿を日本画で描いた表紙、題字は「芸に生き、愛に生き」、表紙見返しは鮮やかな緋色、口絵写真には日本髪の女性の艶姿。
何も知らずに手に取ったら、女優さんの回想録と思ってしまうこの本の著者は、昭和の演劇界で一世を風靡した名女形、曾我廼家桃蝶(そがのや ももちょう)なのです。
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曾我廼家桃蝶『芸に生き、愛に生き』(六芸書房、1966年11月)のカバー

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曾我廼家桃蝶の艶姿。和装と洋装。

桃蝶は、本名を中村憬(さとる)といい、1900年(明治33)、島根県浜田市に生まれました。
10歳の時、父の仕事先の朝鮮京城(ソウル)に移住し、姉の手ほどきで初化粧・初女装を経験します。
子供時代から芝居、とりわけ女形に強い興味を抱き、役者を志望する女らしい少年でした。

18歳で単身帰国、新派役者桃木吉之助に入門して演劇界入りします(芸名:桃谷婦似男→美智夫)。
そして、入座してわずか10日後に急病の中堅女形の代役として京都座で初舞台(女学生役)を踏みます。
1924年(大正13)、著名な女形花柳章太郎の一座に加わり、以後、男性との恋愛を糧に女形としての芸を磨き、1930年(昭和5)、30歳の時、曾我廼家五郎一座に入座します。
そして、天性の美貌とあふれんばかりの色気が売りの花形女形となり、1966年(昭和41)の引退まで新派を代表する女形の一人として活躍しました。
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曾我廼家桃蝶の舞台姿

引退に当たって出版されたこの回想録は、6つの手紙と5つの手記を交互に配置する構成で、序文で、彼女は「女性を愛することの適わぬ男性」であり、男らしさが「どこにも全く無い」人間であることを「強いてかくそうととは一度もしたこと」がない、と「同性愛」と「女性的性向」を告白しています。

実際、その生い立ちや経歴を読むと、彼女の意識や言動はほとんど女性そのもので、女性として男性を愛していることがわかります。
 
帯に「男が男を恋うる異常な愛とセックスの大胆きわまる告白!」と記されているように、彼女の「性」の有り様は、当時の概念では「男性同性愛」と認識されていました。

現在なら、性自認が女性に強く傾いてることから、確実にMTFTG(男性から女性への性別越境者)の範疇に入るものでしょう。
 
今まで同性愛(もしくはトランスジェンダー)を明確に告白した自伝としては、1966年12月に出版された東郷健『隠花植物群』(宝文書房)が日本では最初とされてきました。
しかし、桃蝶の『芸に生き、愛に生き』(六芸書房)は、1966年11月の発行で、わずかですがそれを溯ることになります。

ところで、女装者愛好家として著名な鎌田意好氏(西塔哲「富貴クラブ」会長)は、曾我廼家五郎劇団と桃蝶について次のように述べています。
---------------------------------------
この劇団(曾我廼家五郎劇団)ほど、多士済々の美しい女形をそろえたところは、他に見られないほどで、まさに、女形王国の観があった。
これは、座長の五郎が、有名なカマ掘り師だったので、地方、小劇団を問わず、奇麗な若い女形をかたっぱしから抜いて一座に加えたからで、その節、座長が吟味、毒味をすることはいうまでもない。
当然の結果として、ほとんどの女形が「カマ」であった。
 
曾我廼家五郎劇を見たことのない人でも、その道の人の間で、桃蝶の名を知らない人はないくらい有名な、女形というより女そのものであるかも知れない。新派の桃木吉之助の弟子で、前名を桃谷三千雄といい、曾我廼家五郎劇団に移り、桃蝶の芸名で舞台にたつや、たちまちその美貌とあふれるようなお色気で観客を魅了し去り、女形王国の五郎劇団でも、女形として最高の人気を占め、先輩大磯を抜いて立女形の位置を占めてしまった。
 
素顔で会った感じでは、舞台のお色気あふれるような、女装顔も想像できないような、失礼だが、平凡な容貌だが、一度化粧をすると、女形というより、女そのものとしての、息苦しいまでの女の魅力を発散する。芸者、メカケなどの役どころがいちばんピッタリするようだった。
私生活でも、男出入りの激しさもまた相当なもので、エピソードの多い人だ。
(鎌田意好氏「異装心理と異性装者列伝-女形の巻(1)-」『風俗奇譚』1965年4月号)
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桃蝶のような生まれつきの性別(男)では生きていけない人のための職業として、日本の伝統社会には、祭祀(巫人)、芸能(女形)、セックスワーク(陰間)の職業カテゴリーが用意されていました。

桃蝶の時代の演劇界は、まだ男性から女性への性別越境者がその特性と才能を生かして生きていく余地が残っていた世界だったのです。

ところが、戦後になると、男性から女性への性別越境者の居場所は、演劇界でも失われてしまいました。
 
桃蝶の引退と、衝撃的な自叙伝の刊行は、そうした風潮へのささやかな抵抗だったのかもしれません。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第34号、2001年 11月)

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