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2009年11月11日 石山寺縁起絵巻を読む(近江石山寺の歴史) [石山寺縁起絵巻]

2009年11月11日 石山寺縁起絵巻を読む(近江石山寺の歴史)
11月11日(水) 雨  東京 18.8度 湿度 87%(15時)

8時、起床。
眠い・・・。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて、頭頂部で結び、シュシュを巻く。
朝食は、ソーセージパンとコーヒー。

黒・焦げ茶・鼠・紫・紅色の多色使いの変な柄のカシュークル・ワンピース(長袖)、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、ワインレッドのコート。

10時、手荷物の防水対策をして、雨の中、家を出る。
ときどき、排水溝がキャパオーバーになるくらい、かなり強い降り。
11月なのに、こんな大雨とは、どこか変だ。
後で調べたら、今日の降水量は85.0mmで、11月の東京の日降水量としては史上8位。

午前中、自由が丘で『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
絵巻の読み込みを中断して、歴史(文献)的に見た石山寺の草創と、本尊の問題について、解説する。

平安時代中期に編纂された『三宝絵詞』(源為憲著 永観2年=984成立)に、奈良時代、東大寺の盧舎那大仏に塗るための金を探して、吉野の金峰山(きんぷせん)に祈願すると、金剛蔵王(蔵王権現)が、金峰山の金は弥勒下生(出現)のためだからと断った上で、近江国志賀郡の水辺の岩に如意輪観音を祀れと教える(その通りにすると、陸奥国から金が発見された)、という話がある。

『石山寺縁起絵巻』の詞書に見える金峰山と石山寺の関係が、10世紀後半にはすでに語られていたことがわかる。

結局、石山寺とその本尊の変遷を整理すると、こんな感じになる。

【草創】
天平年間後半?、岩の上に観世音菩薩が祀られ、それを覆う形で草堂が作られる?。
本尊は、聖徳太子の持仏と伝える金銅の観音菩薩の小像(白鳳時代?)。

【本格造営】
天平宝字5~6年(761~62)、藤原仲麻呂が自分の勢力圏の近江の琵琶湖の南岸に保良宮を造り、天皇・上皇を招くにあたり、宮の南方に位置する石山に本格的な寺院を造営。
造営は、造東大寺司の管理官や工人が出張担当した国営事業。
本尊は丈六(高さ3m余)の巨大な塑像の観世音菩薩半跏像(二臂)。
体内に、それまで祀られていた金銅の観音菩薩の小像を封入。

【焼失・再建】
承暦2年(1078)の大火で、本堂が焼失し、塑像の本尊も焼損大破。
その後程なく、木彫(定朝様の寄木作)の観世音菩薩半跏像(二臂)が作られ(現在の本尊)、金銅の観音菩薩小像など4体を厨子に入れて、体内に安置。

二臂の観世音菩薩半跏像がいつから如意輪観世音菩薩と呼ばれるようになったかは、如意輪観音信仰の高まりの時期との関係で、研究者によって意見が分かれるようだ。

(続く)

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