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日本女装昔話【第30回】流転の女形 曾我廼家市蝶(その2) [日本女装昔話]

【第30回】流転の女形 曾我廼家市蝶(その2) 1940~1950年代

曾我廼家市蝶(しちょう)こと小林由利は、曾我廼家五郎劇団の女形から、中国大陸に渡り、敗戦後は上野で女装男娼として身を売るという苦難の末、1952年(昭和27)4月、文京区湯島天神「男坂」下にバー「湯島」を開店します。
 
当時の東京には、美少年のゲイボーイが接客するゲイバーは何軒かありましたが、女装の人が相手をしてくれる店は、新橋烏森神社境内にあった「やなぎ」(お島ママ)ぐらいで、まだほとんどありませんでした。

江戸時代には陰間茶屋が立ち並び、男色の地として名高かった湯島の歴史と風情を偲ぶことができるこの店は、女装者愛好の男性の人気を集めました。
 
店は、1階が3畳ほどの小さなカウンターと4畳半ほどの洋風の客席、2階に4畳半の座敷が2つ。現在の感覚では広いとは言えませんが、住宅事情の悪い当時にあってはなかなかの構えだったようです。

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「湯島」時代の曾我廼家市蝶、1952年頃。
(「流転女形系図」『人間探究』28号 1952年8月)

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湯島天神下の「湯島」の場所
(かびや・かずひこ「ゲイ・バァの生態-上野・浅草界隈-」『あまとりあ』5-8、1955年8月)
 
1950~60年代にゲイ世界に関するルポや評論を数多く執筆した、かびや・かずひこ(鹿火屋一彦)は、店主の女になりきっている様子、渋い落ち着いた趣味をほめながら「厳しいこの世の中に女(?)手一つで」「このような店をしかも一つの風格を保ちつつ営んでゆこうとする『彼女』の苦辛と焦慮」を感じています(「ゲイ・バァの生態」『あまとりあ』5-8、1955年8月)。

ところが、市蝶と「湯島」の全盛期は長くありませんでした。開店から6年たたない1957年の末頃、「湯島」は、店名の由来となった湯島の地を離れてしまいます。理由はわかりません。
 
日本最初の女装趣味サークル演劇研究会の会報『演研通信』2号(1958年2月)に出ている広告によれば、移転先は豊島区池袋2丁目。

当時の池袋駅北口は風紀・治安の良くない場末で、湯島時代のお客は離れ、市蝶も「湯島」も次第に忘れられていきます。

女装者愛好男性の第一人者と知られ、市蝶とも交友があった西塔哲(「富貴クラブ」会長)は、「好きな男には身の皮はいでも尽くすキップのよさと、アッサリした好人物なので他人に利用されることも多く」と、市蝶の性格を語っています。

零落の原因は、おそらくそんな性格にあったのでしょう(鎌田意好「異装心理と異装者列伝-女形の巻(2)-」『風俗奇譚』1965年5月号)。
 
それから10数年の月日が流れた1970年、市蝶こと小林由利の名は、まったく思いがけない形で新聞に掲載されます。

4月18日の早朝、東池袋4丁目のアパートで「男娼・由利(55)」が絞殺死体となって発見されたのでした。
遺体は布団の中で和服姿の仰向けの姿勢で、着ていた茶羽織りの襟で首を絞められていました(『毎日新聞』1970年4月18日夕刊)。
 
捜査の結果、顔見知りの35歳の鳶職の男が犯人として逮捕されました。
犯行理由は、2人で飲み歩いた後、アパートの部屋に行ったところ、金銭を要求されたので殺した、というものでした。

こうした状況から、晩年の由利が、再び女装男娼の稼業に戻ってしまったことがうかがえます。
 
女形として華やかな舞台を踏みながら、生活のために女装男娼となり、一度は店を持ち盛名を得ながら、また没落して老男娼として殺される。まさに新派悲劇を地でいくような流転の人生でした。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第53号、2006年8月)

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日本女装昔話【第29回】流転の女形 曾我廼家市蝶(その1) [日本女装昔話]

【第29回】流転の女形 曾我廼家市蝶(その1) 1940~1950年代

梅で有名な東京文京区湯島天神への参道はいくつかありますが、拝殿のすぐ脇に出る急な石段のある道を「男坂」といいます。
その上り口のあたりに、1950年代前半、「湯島」という小さなバーがありました。
 
今でこそほとんど存在を忘れられていますが、東京における女装(女形)系ゲイバーの先駆として当時の愛好家には有名な店でした。
 
その女将小林由利は、戦前、曾我廼家市蝶(しちょう)の名で新派の曾我廼家五郎劇団の女形だった人です。

この劇団は、座長の性癖を反映して、女優を一切使わない「女形天国」で、人気女形には、以前、このコーナーの第11話で紹介した曾我廼家桃蝶らがいました。
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女形時代の曾我廼家市蝶(1940年頃)
(「流転女形系図」『人間探究』28号 1952年8月)
 
市蝶は1915年(大正4)頃の生まれ、子供の時から女性的傾向を自覚して女形で生きようと思い、14歳の時に娘形としてデビュー。
曾我廼家一座には19歳の時に入ったものの、必ずしも役柄には恵まれなかったようです。
 
1937年(昭和12)日中戦争が始まると、関東軍の慰問団に入り、満州や北支(中国北部)の部隊を巡業します。
終戦も満州の奉天(現:瀋陽)で迎え、引き上げまでの約1年間、新京(現:長春)で「蝶家」というバーを営んでいました。
 
1946年10月、焼け野原の東京に帰ってきた市蝶はたちまち生活に困窮します。
大陸に行く前に拠点にしていた浅草の劇場群も丸焼けで、舞台に立ちたくても活躍の場がなかったからです。

生計の当てのない市蝶に、昔の仲間が声を掛けます。
「お化粧してね、ちょっと男の人と話をすればお金儲けができるのよ」。

紹介されて行った先は、上野の女装男娼を束ねる姐さんの家。

生きるために覚悟を決めた市蝶は、仲間に加えてもらい、47年11月、初めて上野山下(西郷さんの銅像の下あたり)に立ちます。
32歳の時でした。
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上野池の端で客を取る市蝶
(「流転女形系図」『人間探究』28号 1952年8月)
 
ちなみに、1948年(昭和23)頃の女装男娼のお値段はショートで200円。
物価変動(インフレーション)が激しい時代なので比較が難しいのですが、電車の初乗りが3円、公務員の初任給は2300円ですから、50~60倍に換算すれば、10000~12000円相当になります。
客さえコンスタントにつけば、それなりに暮らしていけたはずです。
 
こうして夕闇が濃くなる頃、山下や池の端に立って男を誘い、男娼の秘技「レンコン」(筒形にした手を後ろから股間にあてて、そこに客のペニスを誘導する詐交のテクニック)で客を満足させる女装男娼の暮らしが始まりました。

最初は戸惑ったものの、天性の美貌と長い女形生活で培った女らしさは、男娼たちの中では抜群で、女形時代の知名度もあって贔屓客もつき、次第に暮らしも楽になっていきます。
 
市蝶が4年半の男娼暮らしで稼いだ資金で「湯島」を開店したのは1952年(昭和27)4月のことでした。
(続く)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第52号、2006年4月)

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日本女装昔話【第28回】シャンソン歌手を目指した 椎名敏江 [日本女装昔話]

【第28回】シャンソン歌手を目指した 椎名敏江 1950年代

初期の「性転換女性」シリーズの4人目は、椎名敏江です。
 
椎名敏江は、男性名を古川敏郎といい、1933年(昭和8)、福島県伊達郡月舘町の商家の末っ子に生まれました。
子供の時からやや女性的な性格で、中学の男性音楽教師にキスされるという体験をしています。
ただし、初恋は同級生の女性で、身体的発育の遅さに悩んでいたものの、青年期には女性との性交渉もかなりの回数あり、本人の言によれば「男ではない、女だなどと考えたことはありません」と、性別に対する違和感は明確でなかったようです。
 
1952年(昭和27)、19歳の時、上京して銀座のキャバレーのボーイの職を得ます。
ところが、何人かの中年の立派な紳士が、女給を相手にせず、ボーイの敏郎青年ばかりを席に呼ぶようになり、「女性的すぎてボーイとして役に立たない」という理由でクビになってしまいます。

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男性時代の椎名敏江(掲載誌不明。1957~58年頃)

転機は意外な形でやってきます。
職を転々としてサンドイッチマンをしていた時、女のサンドイッチマンの注文がありました。
女性的な敏郎青年が適任と女装してみると、大好評で仕事が次々に入ります。

仕事のために伸ばした髪が長くなると男の服装が似合わなくなり、普段の服装も女装に変え、名前も「敏江」と名乗るようになりました。

「自分は男として仕事につくより、女としての方がよりたやすく生きて行かれることを発見した」と本人は語っています。

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「女給」時代(性転換手術前)の椎名敏江(『風俗科学』1955年3月号)

二度目の転機は、女装で勤めていた神田の飲み屋での裕福な商家の若旦那との出合いでした。
「結婚してくれ」と熱心に口説かれ一夜をともにして、すべてを告白します。

若旦那は悩んだ末に「敏江」を大きな病院に連れて行き、女になる手術を勧めます。
勧められるままに費用はすべて若旦那持ちで、1955年6月、22歳の時に性転換手術を受けました。

身体的にも女性になった敏江は、もともと好きだったモダンバレーのレッスンに励み、銀座のキャバレーの踊り子となります。

さらに興行師から声がかかり「男から女になったジーナ敏江」として名古屋の港座で初舞台を踏みます。
西日本各地を巡業して帰京後は、シャンソン歌手を目指し、性転換女性という物珍しさもあり、1957年10月には、浅草フランス座の舞台に立つなど、そこそこの活動をしたようです。
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ショーの控室で出番を待つ椎名敏江。エキゾチックな美貌は舞台映えがした(『増刊・実話と秘録』1958年1月号)

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シャンソン歌手ジーナ敏江の舞台(『100万人のよる』1959年1月号)

しかし、次第に忘れられて、60年代に入ると、消息はわからなくなってしまいます。
 
彼女の人生をたどると、強い性別違和感に悩んだ末に性転換を選んだというよりも、職業的な要請で女装をはじめ、若旦那との出合いをきっかけに、成り行きで性転換をしてしまったようにも思えます。

そんな彼女の後半生がどうだったのか、少し気掛かりです。
 
椎名敏江の頃を境に、ただ「性転換」したというだけでマスコミの話題になる時期は過ぎていきます。

60年代になると、以前にこのコーナーで取り上げた性転換ストリッパー吉本一二三(第7回)や銀座ローズ(第17回)のように、話題になるには「性転換」+αが必要になります。

日本の性転換の黎明期は終わり、次の時代を迎えることになったのです。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第51号、2006年1月)

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日本女装昔話【第27回】男性音楽教師から女性歌手へ 吉川香代 [日本女装昔話]

【第27回】男性音楽教師から女性歌手へ 吉川香代 1950年代

初期の「性転換女性」シリーズ、永井明子、松平多恵子に続く第3例目は、吉川香代です。
 
吉川は、男性名を弘一といい、1921年(大正10)年、名古屋市に生まれました。
小学五年生の時、一家をあげて上京し、東京の本所に転居します。
弘一少年は、音楽家を目指して国立音楽大学に入学。
ピアノ科から声楽科に移り将来を有望視される成績で卒業し、郷里に近い愛知県豊橋中学校に音楽教師として赴任しました。
 
戦争が始まり、1943年(昭和18)、招集されて陸軍衛生兵として中国戦線に出征しました。
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軍隊時代の吉川香代(『週刊東京』1956年10月27日号)

ところが、軍服を着ていてもどこか女らしいその姿。
ある将校は、裾の割れた中国服と化粧品を調達して吉川衛生兵に与えて寵愛します。
それがきっかけとなって、吉川の心の奥の女性が目を覚まし、部隊のマスコット的存在となって、終戦を迎えました。
 
1946年(昭和21)、上等兵で無事に復員、東京の深川第一中学校の音楽教師として再び教壇に立ちました。
その頃から心だけでなく、ヒップが丸みを増すなど身体の女性化が目立ちはじめ、「あの先生、女じゃないか」と生徒たちが噂をするようになります。
 
悩んだ末に医師の診断を受けると、結果は女性仮性半陰陽。
つまり、本来の性別は女性なのに性器の外観が男性的であったために出生時に男性と誤認されたのでした。
 
その診断で、吉川は女性への転性を決意し、1954年5月から55年12月までの間に、大田区の小山田外科病院で3回の手術と女性ホルモンの連続投与を受けて、女性に転換しました。

手術完了の時点で34歳。
手術代は30万円、公務員の初任給が5000円だった時代ですから、現在に換算すれば、1000万円ほどに相当する大金です。
そして、戸籍も女性に訂正し、名前も香代と改めました。
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「性転換」直後の吉川香代(『週刊東京』1956年10月27日号)

吉川は、最後の手術の直前に、教職を辞して職業歌手に転身します。
芸名を緑川雅美と名乗り、浅草の料亭「星菊水」の専属歌手として1960年頃まで舞台で活躍しました。
その後は、歌謡教室の先生に転じたようです。
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女性歌手時代の吉川香代(掲載誌不明。1957~58年頃) 

吉川の例は、典型的なインターセックスの事例で、手術も半陰陽の治療のためのものですが、報道では「“娘十八"から再スタート-女に性転換して取戻した青春-」(『週刊東京』1956年10月27日号)のように「性転換」として報じられました。
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振袖姿の吉川香代(『別冊 週刊サンケイ』1956年10月25日号)

当時は、インターセックス(半陰陽)とトランスセクシュアル(性転換症)の区別があいまいで、男性として生活していた人が女性になれば(逆も同じ)、すべて「性転換」として扱われたようです。
 
吉川香代のその後の消息はわかりません。
1960年頃の報道では結婚の噂もあったようです。
男性音楽教師 → 陸軍兵士 → 女性歌手という数奇な歩みをたどった彼女の後半生が幸せであったことを願いたいと思います。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第50号、2005年11月)

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日本女装昔話【第26回】華族の坊ちゃまの性転換 松平多恵子 [日本女装昔話]

【第26回】華族の坊ちゃまの性転換 松平多恵子 1950年代

前々回、前回と日本最初の「性転換」女性、永井明子(1951年2月造膣手術、53年9月報道)について紹介しましたが、今回はそれに続く第2例です。
 
「性転換」女性の第2例は、1954年秋に『日本観光新聞』に報道された松平任弘(女性名:多恵子 34歳)だと思われます。

松平は1922年(大正11)に東京渋谷区松濤の生まれ、旧男爵家の三男で、秩父宮勢津子妃殿下の従兄弟にあたるという名門の出身でした。

海軍中尉として中国戦線(上海)に従軍し、47年(昭和22)に帰国した後、53年秋に睾丸摘出と陰茎切除手術を受ました。
 
松平が注目されたのは、その出身が高松藩12万石のお殿様に連なるに大名華族という上流階級だったことです。

明治政府により旧公家や大名家、それに明治維新の勲功者を対象に設定された特権階級である華族の制度は、1947年の日本国憲法の実施により廃止されましたが、その余光はまだまだ根強いものがありました。
 
一方で、国家の保護を失い経済的に困窮した華族の没落もいろいろ報道されていた時代でした。
男爵家のお坊ちゃまの女性への性転換は、そうした世相を背景に、庶民にとって格好の話題になったのです。
 
松平が、手術に至った事情については、週刊誌では終戦後の混乱の中で負った戦傷で男性機能を喪失したことがきっかけとされています。
つまり「名誉の負傷」の場所が悪かったことがきっかけということです。
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30歳代の松平多恵子(『奇譚クラブ』1955年1月号)

しかし、当時、女装や転性の研究家として知られていた滋賀雄二のインタビュー記事「人工女性 松平多恵子との会見記」(『奇譚クラブ』1955年1月号)によれば、松平は睾丸肉腫の手術の際に医師に願って陰茎切除も行ったと語っていて、戦傷云々の話はまったく出てきません。

また『日本週報』1954年11月5日号の記事によれば、松平は幼少の頃から、女性的性格、女装常習の傾向があり、18歳の頃に家出、女装で女給などをしながら各地を転々とした後、高松玉枝の芸名で旅の一座の女形として活躍した過去があったそうです。

その後、親に連れ戻され、男性として大学入学、卒業と同時に海軍少尉に任官して、暗号解読を任務とする上海第二気象隊に配属されます。
部下はひそかに「お嬢さん隊長」と呼んでいたそうです。
 
そうした前歴や、戦後、日本舞踊教師・舞踊家として身を立てていた事情を考えると、「性転換」は松平の女性化願望の結果であって、戦傷云々とか睾丸肉腫とかいう話は、体面を取り繕うための理由付けだったのではないでしょうか。
 
なお、松平の「性転換」は、精巣と陰茎の除去手術のみで、インタビューの1954年末の時点では造膣手術は受けていません。

現在の基準では「性転換」とは言えませんが、「性転換」概念がまだ確立されていない1950年代では、そうした造膣未了の例や半陰陽の治療手術も「性転換」として報道していました。
 
『ヤングレディ』1965年10月31日号の記事によると、松平は、舞踊家としての活動をやめて、男性と「結婚」していました。
女としての後半生が平穏であったことを願いたいと思います。

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40歳代の松平多恵子(『ヤングレディ』1965年10月31日号)


(初出:『ニューハーフ倶楽部』第49号、2005年8月)

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日本女装昔話【第25回】戸籍の性別も「訂正」していた 永井明子 [日本女装昔話]

【第25回】戸籍の性別も「訂正」していた 永井明子 1950年代

1950年8月から51年2月にかけて男性から女性への性転換手術を受けた日本最初の性転換女性、永井明子についての2回目です。
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『日本観光新聞』(掲載年月日不明、1954年頃の撮影)
 
性に関するさまざまな事象を記録したことで知られる高橋鐡の著書『あぶ・らぶ』に「日本の女性転換第一号(N・A嬢?)」の調査記録が収録されています。

「N・A嬢」が永井明子であることは、まず間違いありません。
そこには次のような興味深い記述があります。
 
「性転換手術をうけたのを機に、次男ではなく長女として認めてほしいと家庭裁判所に願い出」、「初めてのことで家裁も大いに困惑したが、事実男性の象徴たるペニスや陰嚢が無いので結局彼の訴えどおりに長女と認定した」

つまり、永井明子は、性転換手術後に戸籍の続柄(性別)を男性から女性へ訂正したというのです。
これまで、性転換手術に伴う戸籍の性別訂正は、1980年の布川敏さん(源氏名:ボケ)の例が唯一とされてきました。
 
永井の戸籍訂正については、高橋鐡の記述しか手掛かりがなく、今まで未確認でした。
ところが、2004年春、私が文献調査中にたまたま目にした「恐ろしい人工女性現わる!-宿命の肉体“半陰陽”-」(『日本週報』1954年11月5日号)という記事中に、永井の戸籍(部分)の写真が掲載されていることに気がつきました。

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性別の訂正がされている永井明子の戸籍(『日本週報』1954年11月5日号)  

写真からは、「明」から「明子」への改名と、「参男」から「二女」への続柄(性別)の訂正がはっきり読み取れます。

これで高橋鐡が「次男から長女」としているのは「参男から二女」の誤りだったにしても、性別訂正の事実を確認することができました。

これにより、性転換手術に伴う戸籍の性別訂正事例は、少なくとも26年溯り、日本最初の性転換手術とほぼ同じ時期であることが確定的になりました。

ご存知のように、性同一性障害者の戸籍の性別の変更を一定の要件の下で認める「性同一性障害者の性別取扱い特例法」が2003年7月に成立し、2004年7月に実施され、11月までに全国で52名がこの法律の恩恵に預かって家庭裁判所で性別変更を認められたことが報道されています。
 
しかし、永井明子の戸籍訂正は「特例法」など影も形もなかった時代のことで、戸籍法113条の「戸籍の訂正」条項をそのまま適用したものと思われます。
 
つまり戸籍法の条文を適用するだけで、 50年以上前に合法的かつ完全な形での戸籍の性別訂正が可能だっのです。

となると、いろいろ制約が多いだけでなく、不平等性や人権侵害性が指摘されている「特例法」を作ることが、はたして唯一の問題解決方法だったのか、もう一度考え直すことも必要なのではないでしょうか。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第48号、2005年5月)

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日本女装昔話【第24回】日本最初の性転換女性 永井明子 [日本女装昔話]

【第24回】日本最初の性転換女性 永井明子 1950年代

「性転換」という言葉、今でこそ耳にすることは珍しくなくなりましたが、わずか50年ちょっと程前までは、まだ空想科学小説の世界の話題でした。
 
世界で最初の「性転換」手術は、1930~31年にドイツのクロイツ医師の執刀でデンマーク人画家アイナー・ヴェゲネル(女性名:リリ・エルベ)に対して行われました。
しかし、彼女が卵巣移植手術後に死亡したこともあって、この手術に関する情報は十分に伝わりませんでした。
 
「性転換」が現実の話題になったのは、1952年2月にデンマークで女性への「性転換」手術を受けた元アメリカ軍兵士ジョージ・ジョルゲンセン(女性名:クリスチーヌ)の帰国のニュースが世界を駆け巡った1952年(昭和27)末のことでした。
 
日本でも1953年初から週刊誌などで大きな話題になり、マスコミは、同様の事例が日本でもないか探し始めます。
そして、同年秋になって、ついに「日本版クリスチーヌ」が「発見」されました。
 
それは、永井明(女性名:明子)の事例です。
第一報は「男が完全な女になる」「世紀の手術に成功」という見出しで報じた『日本観光新聞』9月4日号だったようです。
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『日本観光新聞』1953年9月4日号

これは仮名報道でしたが、すぐに9月18日号で、実名・写真(セミヌード&水着)入りで大きく報じられました。
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永井明子(『日本観光新聞』19530918)2 - コピー.jpg
『日本観光新聞』1953年9月18日号

さらに、『週刊読売』10月4日号が「日本版クリスチーヌ 男から女へ キャバレーの女歌手で再出発」と題した記事を掲載しました。
  
永井明子は、1924年(大正13)東京葛飾区亀有の生まれで、職工や事務員など職を転々とした後、聖路加病院に雑役夫として勤めていた時に、男性への愛情をきっかけに転性を決意します。

そして、1950年8月から51年2月にかけて東京台東区上野の竹内外科と日本医科大学付属病院で2回に分けて精巣と陰茎の除去手術と造膣手術を受け、さらに別の病院で乳房の豊胸手術を受けました。

インターセックスではなく、完全な男性からの「性転換」で、手術完了の時点では27歳でした。
ちなみに、手術の名目は「陰茎ガン」だったそうです。
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「女らしく」花を生ける永井明子。転性3年後の写真。
(『日本週報』1954年11月5日号)

驚くべきことに、永井の手術の完了は「本家」のはずのクリスチーヌ・ジョルゲンセンよりも1年ほど早かったのです。
日本の性転換手術に関する技術は、当時、世界のトップレベルにあったことがうかがえます。
 
彼女は「性転換」女性として話題になった後、知名度を生かしてキャバレー歌手になりますが、「性転換」の話題性が薄れるとともに、マスコミから姿を消していきました。
 
その後、自称・他称含めて「性転換第一号」という報道はしばしば見られますが、いろいろな資料からして、永井明子こそが、日本における最初の性転換女性であることは、ほぼ間違い有りません。
 
もし、ご存命なら今年80歳を迎えたはず。昨今の「性転換」をめぐる状況をどう感じているか、お話をうかがいたいと思うのは私だけではないでしょう。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第47号、2005年2月)

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日本女装昔話【第23回】女装スナック『ジュネ』(その2) [日本女装昔話]

【第23回】女装スナック『ジュネ』(その2) 1978~2003年

2003年12月に閉店した新宿女装世界の老舗「ジュネ」(中村薫ママ)についての2回目です。
 
女装者と女装者好きの男性の「出会いの場」を設定するという営業スタイルとともに、「ジュネ」の繁栄をもたらしたもう一つのシステムが、女装会員制度と支度部屋でした。
 
いつの時代でも女装者にとって悩みの種は、着替えの場、化粧の場、そして女装道具を保管する場所の確保です。
 
「ジュネ」は、1985年頃に、店からほど近い新宿5丁目のマンションの一室を借り、店付属の女装支度部屋を開設しました。
会費を払った会員に支度部屋として利用させることで、女装者の悩みを解決するとともに、店に所属する女装者の確保をはかる一石二鳥のアイデアでした。
 
会員は、月会費(15000円)を払い、支度部屋を利用した日には、店に顔を出す義務をおいました、
その代わり、店での飲食代(非会員の女装者は4000円)は無料でした。
毎週1回のペースで店に通うならば、会員になった方が金銭的にも有利ということになります。
 
ただ、飲み代が無料である代わりとして、店では男性客の隣に座って話し相手になることを求められ、店が混んできてスタッフの手が足りなくなると、スタッフの仕事を補助する役割も期待されます。

とは言え、なにも仕事をしなくても、会員の女装者が安定的に店に来るだけで、女装者好きの男性客は喜ぶわけですから、店にとって会員制度のメリットは大きかったのです。
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「ジュネ」の中村薫ママ。花園五番街時代の撮影。
(提供:「ジュネ」会員、久保島静香さん)

気っ風が良く、面倒見の良い親分肌の薫ママのもとで、会員からは中山麻衣子、ニーナなど新宿女装世界を代表するすぐれた女装者が育ちました。

人望厚いママとレベルの高い女装会員、彼女たちを目当てに集まる女装者好きの男性客によって、1980年代後半から90年代前半にかけて、「ジュネ」は大いに賑わい、新宿女装世界の中核として君臨しました。
 
また、同じ頃、「ジュネ」のシステムを学んだスタッフや会員たちが、「嬢」「マナ」「アクトレス」「スワンの夢」「ミスティ」など、次々に独立出店していきます。
その範囲は、発祥の地であるゴールデン街地区だけでなく、新宿3丁目や2丁目にまで広がりました。
 
ここに女装スナックを拠点とする新宿のアマチュア女装世界が形成され、1990年代後半には、日本の女装世界の中心として盛況をみせることになります。
  
「梢」を根に「ジュネ」を太い幹とした樹は、大きく枝葉を広げたのでした。

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第46号、2004年11月)

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日本女装昔話【第22回】女装スナック『ジュネ』(その1) [日本女装昔話]

【第22回】女装スナック『ジュネ』(その1) 1978~2003年

2003年12月25日、クリスマスの夜、新宿女装世界の老舗「ジュネ」(中村薫ママ)の灯が静かに消えました。

大勢の人たちに愛された薫ママの店、女装者好きの男性客と女装客が楽しい時間を共有した空間が、時の流れの中に消えていきました。
創業以来25年と2ヵ月。数々のすぐれた女装者を送り出した名門女装スナックの終焉でした。
 
「ジュネ」の開店は、1978年(昭和53)10月5日、ピンクレディの「透明人間」が大ヒットしていた頃です。

場所は、新宿花園神社の裏手に広がる木造飲食店の密集地域、「青線」(非公認売春地域)の雰囲気をかすかに残す花園五番街のアーケードをくぐって左側の2軒目の2階でした。
ジュネ.jpg 
『花園五番街、旧「ジュネ」の前に立つ女装者(久保島静香さん)。
1994年4月30日撮影。
右上の看板に「ジュネ」の「ュ」が読める。

この場所には、プロの男娼出身の田中千賀子ママの「千花」という店があったのですが、この年の7月に千賀ママが急逝したため、その跡を受けての開店でした。

旧「ジュネ」の棚の隅に、ずいぶん長い間、千賀さんの写真が飾ってあったのは、そのためです。
 
創業時のママはアマチュア女装出身の美樹さんで、当時、会社経営者だった薫さんはオーナーでありながら、アシスタントホステスとして店に出ていたそうです。

1984年5月、美樹ママが仕事の都合で関西に帰り、薫さんがオーナーママになると、人情家で面倒見の良い薫ママの人望を慕う人たちが集まり、店はどんどん活気づいていきました。
 
「ジュネ」のシステムの特徴は、女装者好きの男性客とアマチュアの女装者が空間を共にする点にあります。
プロのニューハーフがホステスとして男性客に接するのではなく、男性と女装者が共に客として出会い、おしゃべりし、お酒を飲んで楽しむという形でした。

店が男性と女装者の「出会いの場」になるというシステムを創始したのは、「ジュネ」の隣に在った新宿女装世界の元祖「梢」(加茂梢ママ、1967年2月開店。旧名「ふき」)でした。

1982年11月頃に廃業した「梢」の顧客と経営スタイルを引き継ぎ、「出会いの場」システムを確立したのが「ジュネ」だったのです。
 
花園五番街時代の「ジュネ」は、急な階段を上ったカウンターだけの狭い店。
詰めて座っても8人くらいがやっとだったと思います。

男と「女」の人口密度が高まれば、身体接触も多くなり、自然と親しさは増します。
親しくなった同士が薫ママに「ちょっと二人で散歩してらっしゃい」と促されて、店を出て八番街の「ホテル石川」へ、そんな妖しく賑やかな店でした。(続く)

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第45号、2004年8月)

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日本女装昔話【第21回】アマチュア女装交際誌『くいーん』 [日本女装昔話]

【第21回】アマチュア女装交際誌『くいーん』1980~1990年代

2003年の年末、女装世界に衝撃が走りました。アマチュア女装交際誌『くいーん』(隔月刊 アント商事)の突然の廃刊です。
「休刊」が告示された12月発売号は142号、1980年(昭和55)6月の創刊から数えて23年6カ月目のことでした。
『くいーん』創刊号(1979年8月).jpg『くいーん』142号(最終2004年2月) (2).jpg
 
『くいーん』は、1979年8月、東京千代田区神田須田町に開店した日本初の本格的な商業女装クラブ「エリザベス会館」の広報媒体として創刊されました。

化粧やファッションなど女装に関するテクニックの紹介(ハウツー)と女装者の写真入り「求友メッセージ」(文通交際欄)の二本立てで、女装や女装者に関する情報が少なかった時代にあっては、圧倒的な影響力をもっていました。
 
キャンディ・ミルキィさんをはじめ名の有るアマチュア女装者で同誌と無縁であった人はたぶんいないでしょう。

女装者好きの男性にとっても女装者と交際するためのほとんど唯一の貴重な手づるでした。
 
また、1984(昭和59)年から誌上開催された「全日本女装写真コンテスト」は、唯一の全国規模の女装者のミスコンとして大きな支持を得て、最盛期には200人以上の参加者が集まり、毎年、熱く華麗な「女の闘い」を誌上でくりひろげました。
 
大賞受賞者には、白鳥美香さん(88年)、村田高美さん(92年、新宿歌舞伎町「たかみ」ママ)、岡野香菜さん(94年)、萩野静菜さん(99年、大阪堂山「マグネット」チーママ)など、後に『ニューハーフ倶楽部』のグラビアを飾るそうそうたる名前が、きら星のごとく並んでいます。

もう一つ触れておかなければならないことは、この雑誌が石川千佳子さん(筆名:石川みどり、梅子)という一人の女性編集者によって作り続けられたことです。

1984年に「女装マニア誌『くい~ん』編集長は22歳のピチピチギャル」として写真週刊誌に紹介されて以来20年。まさに女盛りの日々を女装雑誌にかけた感があります。
『くい~ん』編集長(『セクシーフォーカス』 1984年5月頃).jpg
1990年代初めくらいまでは、海外取材に基づく外国の女装事情の紹介や、学術的な論説など、現在から見ても水準以上の意欲的な記事が数多く掲載されました。

しかし、その後は、そうした意欲が感じられなくなり、ひたすらマンネリ化の道をたどった感があります。
 
編集長への権限の集中(「女帝」化)など批判はあったにしろ、一人の人間が20余年にわたって一つの雑誌を作り続けたことは、やはり偉業と言うしかありません。
その長年のご苦労に、心からの感謝を捧げたいと思います。
 
『くいーん』が1980~90年代のアマチュア女装者の量的拡大・質的向上に果たした功績は比類のないものがありました。

しかし、近年のEメールやインターネットの急速な普及は、同誌の柱である「文通交際欄」を完全に過去のものにしてしまいました。廃刊は、時間の問題だったのかもしれません。
 
ともかく、『くいーん』の廃刊は、私を含め同誌を故郷とする者にとって、一つの時代の終わりをしみじみと感じさせられた出来事でした。


(初出:『ニューハーフ倶楽部』第44号、2004年5月)

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