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【論考】東京・千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街について ―「鳩の森騒動」と旅館街の終焉― [論文・講演アーカイブ]

2020年4月14日(火)

この論考「東京・千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街について ―「鳩の森騒動」と旅館街の終焉―」は、2012年1月22日に、井上章一先生(現:日本文化研究センター所長)主催の「性欲研究会」(京都)で報告した内容をベースにしている。

その後、いろいろな事情で放置してあったが、思い立って、その後に収集した資料も加えて、論文形式でまとめた。

とはいえ、どこも載せてくれないのは明白なので、このアーカーカイブに載せておく。

引用される際には、著者名と、この記事のURLを注記していただきたい。

【目次】
はじめに ー「連れ込み旅館」街・千駄ヶ谷ー
1 千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街についての「通説」と批判
2 「鳩の森騒動」の経緯とその影響
3 千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街の衰退時期
 (1)1枚の地図は語る
 (2)「連れ込み旅館」の個別検証
 (3)「連れ込み旅館」群の衰退・解体時期とその理由
おわりに
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    東京・千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街について
      ―「鳩の森騒動」と旅館街の終焉―
                    三橋順子

はじめに ー「連れ込み旅館」街・千駄ヶ谷ー
東京渋谷区の北部、新宿区に隣り合う千駄ヶ谷地区が、1950年代から60年代にかけて、日本最大の「連れ込み旅館」の密集地域であったことは、もうほとんどの人の記憶から失われている。

「連れ込み旅館」とは、性行為を前提に「連れ込む」宿である。「連れ込む」主体は、街娼(ストリート・ガール)およびそれに類する女性が売春行為をするために男性を誘い導いて「連れ込む」場合と、カップルの男性が性行為のために相手の女性を「連れ込む」場合とがあった。歴史的には前者から後者へと意味(ニュアンス)が転換していく(註1)。

したがって、一般の旅館のように宿泊を必ずしも前提とせず、一時的な滞在(「ご休憩」「ご休息」)のための部屋利用が想定され、料金が設定されている点に特徴がある。

「連れ込み旅館」は、戦後の社会的混乱が一段落した1950年代中頃に急増するが、その東京における中心地が千駄ヶ谷地区だった。当時の千駄ヶ谷1~5丁目および原宿3丁目、竹下町のエリア(「地番改正」が複雑だが、現在の千駄ヶ谷1~5丁目、代々木1、2丁目にほぼ相当)には、1953年の時点で、91軒の旅館があり、さらに新築中が2軒、申請中が4軒という状態だった(註2)。

筆者が当時の新聞広告から作成した「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)全385軒」にも、千駄ヶ谷地区に39軒、北隣の代々木地区に11軒、南隣の原宿7軒と合わせて57軒が確認でき(代々木・千駄ヶ谷・原宿で「代々原旅館組合」を結成していた)、渋谷地区の32軒、新宿地区の31軒を引き離し、都内最大の集中エリアだった。(註3)

  広告に見える1954~57年 東京の「連れ込み旅館」(地域別軒数)
千駄ヶ谷(39軒)        銀座(7軒)
渋谷(32軒)          原宿(7軒)
新宿(31軒)          五反田(7軒)  
池袋(21軒)          大井町(7軒)
大塚(12軒)          大森・大森海岸(7軒)
代々木(11軒)         蒲田(7軒)
新橋・芝田村町(11軒)     新大久保・大久保(6軒)
長原・洗足池・石川台(10軒)  飯田橋・神楽坂(5軒)
高田馬場(8軒)         浅草(5軒)
                赤坂見附・山王下(5軒)

千駄ヶ谷地図1(週刊サンケイ19580310) - コピー (2).jpg
「二千三百平方キロの桃源郷」(『週刊サンケイ』1957年3月10日号)
代々木~千駄ヶ谷~原宿エリアの温泉マークの数は91か所。

4.jpg
千駄ヶ谷駅ホームのアベック。背後に「松岡」「御苑荘」などの看板が見える。
(『週刊東京』1956年5月12日号「せんだがや界隈」)

5.jpg
千駄ヶ谷駅前の立て看板。「はなぶさ分館」「湯乃川」」など。
(『週刊東京』1956年5月12日号「せんだがや界隈」)

1 千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街についての「通説」と批判
千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街について、ある程度まとまった記述をしている書籍としては、保田一章『ラブホテル学入門』の「『千駄ヶ谷』凋落の事情」がほとんど唯一である(註4)。以下、その論旨を箇条書きに整理してみよう。なお( )の年月日は三橋が追記した。

【成立】
(1a)「(1950年6月)朝鮮戦争によって米兵の往来が激しくなった。当然、売春業も繁昌した」
(1b)「千駄ヶ谷に連れ込み旅館が増えはじめたのは、昭和27年(1952)ごろからだった。昭和30年代のはじめには、その数30数軒になっていた」

【隆盛】
(2a)「売防法(売春防止法)施行(1958年4月1日)にともない、元売春業の経営者たちは旅館業に衣替えした」
(2b)「千駄ヶ谷もご多分に漏れず、そうした事情で旅館が急増した」
(2c)「赤線を追われた女たちは、客を連れて千駄ヶ谷へ」

【凋落】
(3a)「それほど隆盛を誇った千駄ヶ谷も凋落の運命をたどる」
(3b)「(1958年)5月には第3回アジア大会が開催された。場所は、後の東京オリンピック開催(1964年10月)を射程に入れていたわけだから千駄ヶ谷周辺」
(3c)「このアジア大会は、日本にとっても戦後から脱却するワンステップという意味をもった」
(3d)そこで「渋谷区は渋谷経済懇談会というのを開き、千駄ヶ谷の温泉マークの自粛をうながした」
(3e)「これをきっかけに住民運動が起こった(1957年2月)。『鳩の森騒動』とも呼ばれるこの運動の結果、千駄ヶ谷は文教地区に指定され、連れ込み旅館の改造も新築もできなくなった」
(3f)「兵糧を断たれたわけで、(千駄ヶ谷の連れ込み旅館街)の自壊は時間の問題となったのだ」

【影響】
(4a)「千駄ヶ谷に代わって、昭和40年代から台頭してきた地区は、湯島、錦糸町であった」
(4b)「新宿、池袋など、都内各地に連れ込み旅館は急増していたが、千駄ヶ谷を利用していた『上客』たちの流れは湯島や錦糸町に変わっていった。特に湯島には『上客』が流れた」

保田の説は、先に述べたように千駄ヶ谷の連れ込み旅館街についてのほとんど唯一の説であり、それだけ影響力があった。現在、インターネットで流布している言説も、保田氏の説をベースにしていると思われる。中には、アジア大会を東京オリンピックに置き換えるなど、部分的な改変がなされているものがあるが(註5)、「通説」の位置を占めているといっていいだろう。

たとえば、金益見がインタビューした渋谷のラブホテル経営者は「オリンピックを境に千駄ヶ谷は文教地区に指定されて、増改築ができないということで全部潰れましたね」」と、保田説と同様の語りをしている(註6)。

しかし、保田説にはかなり問題が多い。まず成立については、千駄ヶ谷地区で最初に「連れ込み旅館」を開業したM旅館(千駄ヶ谷三丁目、特定できず)の主人が「二十一年六月」(1946年6月)と語っている。動機は明治神宮に参拝に行った夜、木陰や草むらでうごめくアベックがたくさんいるのを見て、こうした人たちに性行為の場を安く提供したい、ということだった(註2)。保田説とは時期も事情もかなり違う。

旅館の増加については、1953年の段階で千駄ヶ谷地区(旧・千駄ヶ谷1~4丁目)だけで23軒が数えられる。朝鮮戦争(1950~53)期の好景気を背景に数が増えたと思われる(註7)。この点だけは保田説は当たっている。

次に千駄ヶ谷の旅館街の隆盛を「赤線」廃止との関係で考えることもかなり疑問である。旅館街は、上記のように、「赤線」廃止のかなり以前、「赤線」が存在した時期から存在していた。両者は同時併存の関係にある(註3)。また広告から見る限り、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」の新築ラッシュは1955~56年であり、その隆盛は、あきらかに「赤線」廃止以前である。

千駄ヶ谷の旅館街の料金は、「休憩」にしても「泊り」にしてもかなり高価で、売春女性や男性客が容易に利用できる価格ではなかった。安い旅館の中には実質的な売春宿も存在したが、それは旅館街のメインではなかった(註8)。そもそも「赤線」と「連れ込み旅館」の顧客層は必ずしも重ならないと思われる(註3)。

他にも住民運動のきっかけなど事実誤認があるが、そうした細部の問題点を置いたとしても、保田説には大きな問題がある。保田説は隆盛の理由を「売春防止法」の施行とする(施行は1957年4月1日、罰則を含む完全施行は1958年4月1日)。ところが、その凋落きっかけを1958年5月のアジア大会を視野に入れた行政の「浄化」の動きや1957年2月に始まる「鳩の森騒動」とする。これでは隆盛に至る前に凋落が始まってしまうことになり、根本的な論理矛盾がある。

千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街の盛衰についての「通説」は、まったく成り立たず、全面的に見直さなければならない。

2 「鳩の森騒動」の経緯とその影響
従来、千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街が凋落するきっかけになったとされてきたのが「初の森騒動」である。「鳩の森騒動」とは、1957年(昭和32)2月に、周囲に「連れ込み旅館」が多い東京・渋谷区立鳩の森小学校のPTAが、渋谷区教育委員会や渋谷区PTA連合会と連携して「渋谷区環境対策協議会」を結成し、「教育環境浄化」を求めた住民運動である。

学校と住民が危機感をもったきっかけは、1956年度に鳩の森小学校から転出した生徒が47名と急増したことらしい。47名は全校生徒835名の5.6%に相当する。鳩の森小学校の転出生徒は1953年度32名、54年度27名、55年度25名だった。それが倍近くになったわけで、関係者の衝撃は大きかった。その理由として学校周辺の教育環境の悪化が想定された。

さらに、1956年の夏に、同校の5年生女児が連れの女に逃げられた中年男に「みだらな振る舞い」をされる事件が起こった。これに応じて、10月には、「連れ込み旅館」が多い千駄ヶ谷駅寄り(南東側)の鳩の森小学校の正門が閉鎖された。

そして、1957年2月11日、千駄ヶ谷区民講堂で集会がもたれ「渋谷区環境対策協議会」が発足する。参加者は、鳩の森小学校PTA、隣接各校のPTA、教員など300人で、「不純アベック追放」「温泉旅館しめ出し」を決議し、同校周辺を「文教地区」に指定するよう東京都に要請した。
13日には学区内の主要路に「教育環境浄化地域」と書いた横幕4枚を掲げ、21日には学区内要所に「教育環境浄化地域」と書いたポスターやビラを貼った。こうした動きを受けて、文部省、東京都、渋谷区が現地調査を行った。(註2)

その結果、3月になると、内閣が法改正に乗り出し、旅館業法が改正され、幼稚園から高校までの学校の周囲「おおむね100メートルの区域内」では「清純な施設環境が著しく害されるおそれがあると認め」られる業者の営業は許可されなくなった(旅館業法第3条3項、1957年6月15日交付)。また4月1日付けで「文教地区」の指定がなされた(註9・10)。

実際、千駄ヶ谷二丁目に「連れ込み宿を経営する目的で『たつ旅館』を新築した」経営者は、鳩森八幡幼稚園から100m以内であることを理由に東京都衛生局から営業不許可とされた(註11)。

住民運動の高まりに対して、代々木・千駄ヶ谷・原宿の「連れ込み旅館」経営者の組合「代々原旅館組合」は次のような自粛策を申し合わせた。①看板から「御同伴」「値段」「ドキツイ広告」を消す。②ネオンはなるべく赤などの派手な色は使わない。③新しい営業許可は申請しない(註2)。

このうち①②は「連れ込み旅館」であることを目立たなくする方策である。当時、「連れ込み旅館」の象徴として批判の的だった「温泉マーク」は、1947年に「代々原旅館組合」が使い始めたという(註2・12)。すでに1952年11月に厚生省が「不良温泉マーク旅館取締りにかんする全国調査」をしていて、「不良旅館」シンボルになっていた(註13)。そうした動きに応じて、同組合は1952年に「温泉マーク」の使用の自粛を始め、3年かけて(1955年頃)達成したと主張している。この点については、1954年後半頃から新聞広告から「温泉マーク」がほぼ完全に消えるので、少なくとも千駄ヶ谷地区では実効性はあったと思われる。

③が守られれば新規の開業はなくなるわけだが、既存の「連れ込み旅館」がなくなるわけではなく、「渋谷区環境対策協議会」が求める「温泉旅館しめ出し」とは大きな隔たりがある。
PTAの立ち退き要求に対して業者の代表である石田道孝代々原旅館組合会長は次のように反論している。

「現在、この土地をねらっているのは青線業者や第三国人だ。こんな連中がのりこんできたら大変だ。ここのところをPTAの人たちはよく考えてもらいたい。現に鳩の森小学校前の旅館Sには第三国人がしきりに買いに来ている」(註2)

立ち退き→転売→青線業者・「第三国人」の取得→(売春地帯化)という流れで、さらに教育環境が悪化する可能性を指摘し、自粛を徹底することで、地域住民との共存を目指す姿勢をとった。

非合法な売春業者・「第三国人」の進出については、原宿警察署の斜め向かいの「白雲荘」の実質的な経営者が「新宿西大久保で“オリンピア”という外国人相手の売春ホテルを経営し」「その後、“代々木ホテル”という売春宿を経営」していた「朝鮮人」で、地元有志も組合も「彼に営業を許可したら何をするかわからない」と「絶対反対」していること(註10)を指していると思われる。

実際、5月28日には、増改築の申請を出していた代々木駅前の「千代田旅館」の女性経営者が、アメリカ軍将校相手の秘密売春容疑で摘発されるという事件も起きている(註8)。組合会長の指摘は、単なる言い逃れではなかった。

「鳩の森騒動」は、そのスローガンに「不純アベック追放」とあることからもわかるように、性的な存在(施設・人)を子供たち(児童・生徒)から遠ざけ、目に触れないようにする、戦後、盛んになった「純潔教育」運動の一つの表れである。

それが地域運動となった点では、1950年代にいくつか起こった赤線業者の進出反対運動、たとえば、「池上特飲街事件」(大田区池上、1950年)、「王子特飲街事件」(北区王子、1952年)、「今井特飲街事件」(江戸川区今井、1954年)とも共通するものがある(註14)。

しかし、これから進出しようとする業者を阻止するのと、すでに存在する業者・施設を撤去させるのとでは、その困難度は格段に違う。

「鳩の森騒動」の結果、文教地区の指定が達成され、旅館業法の改正を促し「連れ込み旅館」の新規開業や増築を規制するという大きな成果をあげた。

とはいえ、既存の「連れ込み旅館」が立ち退かされたわけではなく、営業は続けられた。たとえば、組合長の談話に出てくる「旅館S」は、鳩の森小学校の正門のほぼ正面にある「翠山荘」のことだが、「騒動」から少なくとも12年後の1969年まで営業を続けていた(廃業は1971年頃?)。

「鳩の森騒動」は、千駄ヶ谷「連れ込み旅館街」の無制限な拡大を阻止することはできたが、その存在そのものに大きなダメージを与えるほどの効果はなかったと思われる。

千駄ヶ谷(翠山荘・19531219).jpg
「旅館翠山荘」の広告(『内外タイムス』1953年12月19日号)。
略地図で「鳩の森小学校」の道向かいであることがわかる。
広告の「新築落成」の記載を信じれば、1953年の営業開始か。

3 千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街の衰退時期
(1)1枚の地図は語る
千駄ヶ谷地図2(週刊大衆19681114) - コピー (2).jpg
この地図は、1968年11月に刊行された週刊誌に掲載された千駄ヶ谷地区の「仕掛け旅館」を示したもので、32軒ほどの旅館が記されている。記事中に取り上げられている宿は「玉荘」「鷹の羽」「あみ(本館」」「翠山荘」「御苑荘」「白樺荘」「南風荘」「みなみ」「松実園」「もみじ」「若水」などで、すべて1950年代の広告に見られる「連れ込み旅館」と一致する(註15)。

つまり、1968年秋の段階で千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街は健在だったのだ。まさに一目瞭然、1958年のアジア大会(もしくは1964年の東京オリンピック)を契機とする「浄化運動」で千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街が凋落。壊滅したという「通説」が、まったく虚妄であることを、この1枚の地図は教えてくれる。

(2)「連れ込み旅館」の個別検証 
それでは、少なくとも1968年まで健在だった千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」群は、いつ解体・消滅したのか、それが次の課題となる。

そこで、新聞広告から1957年前後に千駄ヶ谷地区に存在したと思われる「連れ込み旅館」のうち、場所が判明するもの42軒について、個別にその後の変遷を調査した。

資料としたのは1970年、1977年、1983年版の住宅地図で、住宅地図の調査から刊行までのタイムラグを考慮して、それぞれ1年前の元凶と考えた。また2012年に現地調査を行った。したがって「現状」とは2012年の状況である。そこに付した建物の竣工時期は、インターネット上の不動産情報などから抽出した。一部、住宅地図の知見と整合しない部分があるが、その理由として、建物の躯体はそのままに用途を変更した場合などが想定されるので、そのままにした。

なお、①~⑤のエリア分けは、旧・住居表示(丁目)をベースにしているが、現地の地理感覚を加えているので、必ずしも厳密なものではない。

① 旧・渋谷区千駄ヶ谷四丁目:JR線北側・新宿御苑南側
南風荘本館 1969年「あぐら荘別館」 1976年「旅荘あぐら荘」 1982年「旅荘あぐら荘」
      現状「メゾンソーラ」(マンション 1980年4月築)
南風荘別館 1969年「旅荘光荘」 1976年「旅荘光荘」 1982年 廃業(アパート)
      現状「コーポ松岡」(アパート 1979年4月築)
旅館翠山荘 1969年 営業中 1976年 廃業(マンション)
      現状「第2御苑マンション」(マンション 1972年11月築)
マンションの中庭に、旅館時代の日本庭園が残る。
旅館楓荘  1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
      現状「千駄ヶ谷シルクハイツ」(マンション 1977年11月築)
ホテル七福 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(オフィスビル?)
      現状「エルビラ」(オフィスビル? 1974年3月築)
御苑荘別館 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
      現状「第20スカイビル」(マンション 1980年2月築)
羽衣苑   1969年 営業中 1976年 廃業(岡設計)
      現状「株式会社岡設計ビル」
千駄ヶ谷(南風荘・本館・別館・19560718).jpg 千駄ヶ谷(楓荘・19540306).jpg  千駄ヶ谷(ホテル七福・19551030).jpg  
南風荘本館・別館     楓荘      ホテル七福  
(19560718)      (19540306)  (19551030) 
千駄ヶ谷(御苑荘本館・別館・19560621).jpg 千駄ヶ谷(羽衣苑・19570107).jpg
御苑荘別館       羽衣苑
(19560621)     (19570107)

千駄ヶ谷駅からガードをくぐったJR線北側・新宿御苑南側の地域。1960年代末まで名称が変わったものはあるものの、すべての旅館が営業を続けていた。1970年代に入り、「鳩の森騒動」で焦点となった鳩の森小学校正門前の「翠山荘」が廃業してマンションになり、いちばん千駄ヶ谷駅に近い「羽衣苑」が建物そのままに設計事務所に転用された。広い敷地に離れ家が点在していた「楓荘」は大規模なマンションになった。その後もマンションやオフィスビルへの転換が続き、1982年の時点で営業を続けていたのは旧・南風荘本館の系譜を引く「あぐら荘」のみとなる。この地域の特色として、比較的閑静な環境からか、マンションへの転換が比較的多い。

② 旧・千駄ヶ谷一丁目 JR中央線南側・「大通り」北側
御苑荘   1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
      現状「ニュー千駄ヶ谷マンション」(マンション 1978年4月築)
はなぶさ別館 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
      現状「佳秀ビル」(オフィスビル 1985年築)
あみ本館  1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
      現状「河合塾千駄ヶ谷オフィス」(校舎→オフィス 1986年3月築)
あみ別館  1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(シャトウ千宗・駐車場)
      現状「河合塾千駄ヶ谷オフィス2」(校舎→オフィス 1986年3月築)
松実園   1969年 営業中 1976年 廃業(マンション)
      現状「千駄ヶ谷第2スカイハイツ」(マンション 1974年6月築)
旅荘浦島  1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
      現状 駐車場
舞子ホテル 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
      現状「アポセント千駄ヶ谷」(マンション 1974年2月築)
旅館もみぢ 1969年 営業中 1976年 廃業(個人宅・斎藤)
      現状「もみじ駐車場」(紅葉不動産)
旅荘たかのは 1969年 営業中 1976年 廃業(駐車場)
      現状「インテグレーションSO」(マンション)
旅館玉荘  1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
      現状「松栄駐車場」(紅葉不動産)

千駄ヶ谷(御苑荘・19560222).jpg  千駄ヶ谷(あみ本館・別館・19560607).jpg 千駄ヶ谷(松実園・19530204).jpg       
御苑荘本館      あみ本館・別館     松実園   
(19560222)    (19560607)     (19530204)
千駄ヶ谷(浦島・19570124).jpg 千駄ヶ谷(舞子ホテル・19561023).jpg
浦島         舞子ホテル
(19570124)     (19561023)
千駄ヶ谷(もみじ・19570331).jpg  千駄ヶ谷(たかのは・19561020).jpg   
もみぢ       たかのは    
(19570331)    (19561020)  
千駄ヶ谷(玉荘・19561006).jpg
玉荘(19561006)

JR中央線南側で、千駄ヶ谷のメインストリート、通称「大通り」の北側、現在、大きなスペースを占める「国立能楽堂」(1983年8月竣工)の周辺地域。1960年代末まですべての旅館が営業を続けていた。1970年代に入ると3軒が廃業したが、まだ旅館街の形態を保っていた。1982年の時点ではさらに2軒減り往時の半分の5軒になるが、それでも他の地域に比べると格段に残存率が高い。千駄ヶ谷駅の目の前という好立地によるものだろう。

興味深いのは「あみ本館・別館」のその後で、1976年には本館のみ営業を続け、新館はビルと駐車場になっていたが、1980年代半ばに名古屋に本拠を置く大手予備校「河合塾」の東京進出にあたって、本館・新館跡地を合わせて売却した。「河合塾」の校舎(後にオフィス)が斜めに接しているにもかかわらず、つながっていない不便な形なのは、「あみ本館・新館」の土地利用をそのまま継承したからである。ちなみに、当時を知る「河合塾」関係者によると「予備校生は1年しか通わないから、そこが何であったかは気にしない」とのことだった。

「大通り」沿いの「もみぢ」は、1970年代に廃業するが、経営者のS氏は1967年当時、渋谷区議会議員だった(註15)。「連れ込み旅館」の経営者が地元有力者である一例である。「もみぢ」は2012年の現況で「もみじ駐車場」として名を残している(「玉荘」跡地の駐車場も同じ「紅葉不動産」の管理)。

③ 旧・千駄ヶ谷二丁目 鳩の森八幡周辺、同坂下
白樺荘(本館)1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
      現状「ライオンズマンション千駄ヶ谷第2」(マンション 1983年10月築)
かたばみ荘 1969年 廃業(マンション)
(東京本館)現状「コーポ青井 千駄ヶ谷」(マンション 1969年9月築)
旅荘松岡  1969年 営業中 1976年 「割烹松岡」 1982年 廃業(マンション)
      現状「外苑パークホームズ」「千駄ヶ谷ホリタン」
旅荘おほた 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
      現状「ホワイトキャッスル」(マンション 1973年7月築)
旅館きかく (北側)1969年「モテルきかく」1976年 営業中 1982年「ホテルきかく」
      現状「ホテルきかく」(休業中)
(南側)1969年「旅荘きかく」1976年 廃業(空地)
      現状「メゾンブーケ」(マンション 1974年7月築)
あみ新荘  1969年 営業中 1976年 廃業(第2シャトウ千宗)
      現状「第2シャトウ千宗」(オフィスビル 1969年1月築)
旅館いこい 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
      現状「サンビューハイツ神宮」(マンション 1981年2月築)
旅館三越  1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(オフィスビル)
      現状「五月女ビル」(オフィスビル 1977年5月築)
旅館柳水  1969年「白樺新館」 1976年「白樺新館」 1982年 廃業(駐車場)
      現状 駐車場
千駄ヶ谷(白樺荘・19521007).jpg 千駄ヶ谷(かたばみ荘・19540113).jpg 千駄ヶ谷(松岡・19560621).jpg
白樺荘(本館)    かたばみ荘    旅荘松岡   
(19521007)    (19540113)   (19560621)
千駄ヶ谷(おほ多・19560607).jpg 千駄ヶ谷(きかく=喜鶴別館・19540404).jpg 千駄ヶ谷(あみ新荘・19570428).jpg
おほ多       喜鶴(きかく)    あみ新荘 
(19560607)   (19540404)     (19570428)
千駄ヶ谷(いこい新荘・19570507).jpg 千駄ヶ谷(三越・19570130).jpg     
      いこい            三越       
      (19570507)        (19570130)   
千駄ヶ谷(柳水・19560429).jpg
柳水(19560429)
 
「大通り」を南に渡った鳩の森八幡周辺と、その坂下の地域。千駄ヶ谷駅からは少し距離があるが、入ろうか入るまいか逡巡しながら歩いているカップルにはこのくらいの距離がちょうどよい、という説もある。

1960年代末まではすべての旅館が営業を続けていた。1970年代に入ると9軒から7軒に減るが、なお旅館街の形を保っていた。しかし、その後、廃業する旅館が続出し、1982年の時点では1軒となり、旅館街としては消滅する。

千駄ヶ谷「連れ込み旅館」群の中でも有数の老舗であり規模も大きかった「白樺荘」は1980年代初頭に廃業し、広い敷地を生かした大規模マンションになった。
同様に広い敷地を有していた「旅荘松岡」は、1970年代に「割烹松岡」に転業した。

最後まで営業を続けたのは「きかく」で、千駄ヶ谷地区で最後の「連れ込み旅館」となる。2012年の段階でも休業中ながらドアに屋号を残していた。

④ 旧・千駄ヶ谷三丁目 明治通り・千駄ヶ谷ロータリー南東側
旅荘みなみ 1969年 営業中 1976年 廃業(株式会社毛利研究所)
      現状「幻冬舎本館」
旅館光雲荘 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(オフィスビル)
      現状 ビル
旅荘深草  1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
 (みぐさ)現状 東京メトロ副都心線北参道駅1番出口
旅館大野屋 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(個人宅・大野)
      現状 駐車場
旅荘千代原 1969年 営業中 1976年(空地) 1982年 廃業(ハイツ千代原)
      現状 マンション
旅館ふる里 1969年 営業中  1976年 廃業(クリニック、喫茶店)
      現状
 
千駄ヶ谷(光雲荘・19570513).jpg 千駄ヶ谷(深草・19521007).jpg 千駄ヶ谷(大野屋・19531115).jpg 千駄ヶ谷(ふる里旅館・19570112).jpg
光雲荘       深草       大野屋      ふる里旅館
(19570513)   (19521007)   (19531115)   (19570112)

千駄ヶ谷ロータリー南東側の地域。千駄ヶ谷駅からも代々木駅からもやや遠いが、明治通りには近く自動車での便は良い。新宿駅南口でタクシーに乗ったカップルは、スムースにこの地域の宿に入れる。

1960年代末までは6軒すべての旅館が営業を続けていた。1970年代に入ると半減して3軒になる。さらに1982年の時点では明治通り沿いの「深草(みぐさ)」1軒となり、旅館街としては消滅する。

この地域の特色として、もともと小規模な旅館が多かったためか、マンションよりオフィスビルへの転換が多い。「みなみ」の跡地は、現在、出版社「幻冬舎」の社屋になっている。また「深草」の跡地は、東京メトロ副都心線北参道駅(2008年6月開業)の出口になっている。

⑤ 旧・千駄ヶ谷三丁目 明治通り・千駄ヶ谷ロータリー南西側
白樺荘別館 1969年 営業中 1976年 廃業(新代々木ビル)
      現状「新代々木ビル」(オフィスビル 1974年築)
旅館湯の川 1969年 営業中 1976年 廃業(大成ビル)
      現状「ヴィールヴァリエ北参道」(マンション 2005年3月築)
旅館みその 1969年 営業中 1976年 廃業(化学工業ビル)
      現状 駐車場
南風荘別館 1969年「南風荘新館」 1976年 廃業(コーポ南)
      現状「外苑アビタシオンビル」(オフィスビル 1968年10月築)
すずきや旅館  1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 廃業(マンション)
      現状「東九パレス神宮」(マンション 1980年3月築)
せきれい荘 1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
      現状「アカデミービル」(オフィスビル 1988年1月築)
旅館まつかさ1969年 営業中 1976年 営業中 1982年 営業中
      現状「第5スカイビル」(オフィスビル 1984年3月築)
旅館深山荘 1969年 営業中 1976年 廃業(工事事務所)
      現状「深山ビル」(オフィスビル 1986年8月築)
千駄ヶ谷(白樺荘別館・19540114).jpg 千駄ヶ谷(南風荘新館・19580402).JPG 
白樺荘別館     南風荘新館
(19540114)     (19580402) 
千駄ヶ谷(すずきや・19521007).jpg    千駄ヶ谷(せきれい荘・19561205).jpg 
すずきや      せきれい荘
(19521007)     (19561205)
千駄ヶ谷(まつかさ・19570130.jpg 千駄ヶ谷(深山荘・19561023).jpg
まつかさ      深山荘
(19570130)    (19561023)

千駄ヶ谷ロータリー南西側の、明治通りとJR山手線に挟まれた地域。千駄ヶ谷駅、代々木駅、原宿駅いずれからも遠いが、やはり明治通りに近く自動車での便は良い。また明治通りには、1955年12月27日に全通した都営トロリーバス(無軌条電車)の102系統が走っていた。最寄りの停留所「千駄ヶ谷小学校前」を案内する広告もある(「深山荘」など)。

1960年代末までは8軒すべての旅館が営業を続けていたが、1970年代に入ると3分の1近くの3軒に減ってしまう。さらに1982年の時点では「せきれい荘」と「まつかさ」の2軒のみとなる。どちらも1980年代後半には廃業し、旅館街は消滅する。

この地域も、交通の便からか、マンションよりオフィスビルへの転換が多い。「深山荘」は、ビルの名称(深山ビル)に名残をとどめている。

⑥  旧・新宿区霞ヶ丘町
かすみ荘  1963年以前に区画整理で立ち退き、廃業。
      現状「明治公園」(1964年開園)の敷地の一部。
紫雲閣   1963年以前に区画整理で立ち退き、廃業。
現状「明治公園」(1964年開園)の敷地の一部。

千駄ヶ谷・信濃町(かすみ荘・19540430k).jpg
かすみ荘(19540430k)  
千駄ヶ谷・信濃町(紫雲閣・19541230).jpg
紫雲閣(19541230)

JR中央線の千駄ヶ谷駅の東南部、神宮外苑の西側の地域。千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街の東端。2軒とも、霞ヶ丘町の国立競技場(1958年3月竣工)が東京オリンピック(1964年)のメイン会場に決まったことに伴う周辺地区の区画整理(後に「明治公園」となる)で立ち退きとなり廃業したと思われる。正確な時期は不明だが、1963年以前と推定される。

東京オリンピックの開催が、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」群に直接的に影響した事例だが、東端部の2軒を廃業に追いやったにすぎなかった。

(3)「連れ込み旅館」群の衰退・解体時期とその理由 

個別調査の結果を集計すると、下記のようになる

  1957  69  76   82年
①  7   7   5   1 (あぐら荘)
②  10   10   7   5  (玉荘、浦島荘、舞子H、はなぶさ、あみ本館)
③  9   9   7   1 (Hきかく)
④  6   6   3   1 (深草)
⑤  8   8   3   2 (せきれい荘、まつかさ)
⑥  2   0   0   0
  42   40   19   10

千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街は、1960年代末までは、全盛期の1950年代後半の軒数をほぼ維持していた。先に掲げた1968年秋の地図の状況は、個別調査によっても実証された。住民運動(「鳩の森騒動」)やアジア大会・東京オリンピック開催にともなう「浄化運動」よって凋落・壊滅したという「通説」はまったく成り立たない。

ところが1970年代中ごろにはほぼ半減してしまう。そして1982年にはさらに半減してわずか10軒、全盛期の4分の1以下になる。地域的にも大きく縮小し、かろうじて旅館街の形を残すのは千駄ヶ谷駅南側の地域(③)だけになってしまう。

以上の検討から、千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街の衰退は1970年代に始まり、1980年代前半に解体、終焉を迎えたと考えられる。「通説」より、衰退で10年、解体で15年ほど遅い。

それでは、千駄ヶ谷「連れ込み旅館」群の衰退の理由はなんだったのだろうか? それは性的なものも含めた日本人の生活環境の変化だと思う。

別稿で述べたように、1950年代の「連れ込み旅館」の利用者が求めたものは、数寄屋造り・風呂付きの部屋、テレビ、冷暖房といった日常生活よりワンランク、ツーランク上の和風ベースの高級感だった。それらは、1960年代の高度経済成長期に曲がりなりにも達成され、特段の魅力を持たなくなってしまった。1970年代以降の利用者が求めるものは、大きなそして仕掛けのあるベッドが置かれた洋室、シャワーがあるスケルトンのバスタブに象徴される洋風ベースのゴージャスさだった。井上章一は「ラブホテル」という名称の出現を1973年とするが(註1)、性交渉の場は、旅館(旅荘)からホテルへと転換していった。

また、モータリゼーションの発達は、アベック(カップル)の行動様式を変えた。二人で鉄道の駅を降りて、そぞろ歩きしながら「連れ込み旅館」を探して入るというパターンから、自家用車でドライブして郊外のモーテルに入るという形に変化していった(註16)。

経営者側にしても、広い敷地に平屋の建物というのは、いかにも効率が悪い。とりわけ地価が高騰した千駄ヶ谷地区などでは、ビル化して、マンションやオフィスビル経営に転業した方がよほど儲かる時代になった。

千駄ヶ谷「連れ込み旅館」群は、そうした時代の流れについていけなくなったのだと思う。

ところで、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街の衰退が、湯島、錦糸町、あるいは新宿歌舞伎町のラブホテル街の形成につながったという俗説があるが、千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街が少なくとも1960年代末まで健在だったことが明らかになったことにより、再検討しなければならない。なぜなら、新宿歌舞伎町においては、すでに1960年代に旅館街が形成されていて、辻褄が合わないからだ。これら東京各地のラブホテル街の形成過程は、それぞれ別個に検証する必要がある。

おわりに
1990年代後半、私は新宿歌舞伎町の女装スナックのお手伝いホステスをしていた。いつもは山手線の始発電車で帰るのだが、ママがお小遣いをくれた日やとても疲れた日は、奮発して目黒の自宅までタクシーで帰ることもあった(料金は2800円くらい)。

タクシーは夜明けの明治通りを南に走る。ある朝、おしゃべり好きの白髪の運転手が、千駄ヶ谷の交差点の信号で停まった時、「お客さん、このあたりに連れ込みホテルがたくさんあったって知ってますか?」と話しかけてきた。「そうなの?」と応じると、「(新宿駅の)南口でアベックを乗せて、よくここらの旅館に運んだものですよ。(アベックのお客さんに)「どちらへ?」って聞いて「どこでもいい」と言われると、約束してある旅館に運ぶんです。そうすると(旅館から)チップもらえるんです。200円くらいですけどね。いい時代でした」。歴史研究者の癖で「それいつ頃のこと?」と問うと、「そうですね、自分が30代の頃だから25年くらい前ですかね」という返事。

この会話は、たしか1997年頃だと思う。とすると、運転手の経験談は1970年代初頃ということになる。少なくとも、東京オリンピック(1964年)の後であることは間違いない(ちなみに、タクシーの初乗り料金は1972年に170円になる。ほぼ初乗り1回分のチップがもらえたことになる)。

それから23年という長い歳月が経ち、ようやくあの運転手の思い出話を証明することができた。

【註】
(註1)井上章一『愛の空間』(角川選書、1999年)第4章「円宿時代」
(註2)「二千三百平方キロの桃源郷」(『週刊サンケイ』1957年3月10日号)
(註3)【研究報告】1950年代東京の「連れ込み旅館」について ―「城南の箱根」ってどこ?―」(第2回「セクシュアリティ研究会」、明治大学、2018年8月)。
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-08
(註4)保田一章『ラブホテル学入門』(晩聲社、ヤゲンブラ選書、1983年)63~66頁。
(註5)たとえば、「みちくさ学会」の「東京オリンピック開催を契機に消滅した性風俗(その2:千駄ヶ谷の連れ込み旅館)」(2011年2月23日、著者:風俗散歩氏=フーさん)
http://michikusa-ac.jp/archives/2618395.html
(註6)金益見『性愛空間の文化史』(ミネルヴァ書房、2012年)22頁。
(註7)金益見(註6)書23頁には『渋谷ホテル旅館組合創立五〇周年記念誌』(渋谷ホテル旅館組合、2003年)収録の「祝 千駄谷駅改築落成 駅周辺旅館案内」図が掲載されている。1956年の千駄ヶ谷駅の改築を記念したものと思われるが31軒の旅館が載っている。
(註8)「米将校相手の売春ホテル」(『内外タイムス』1957年6月18日号)
(註9)「どこへ行く“温泉マーク”」(『内外タイムス』1957年3月17日号)
(註10)「温泉マークの許可で再び騒然」(『内外タイムス』1957年4月7日号)
(註11)「連れ込み宿に不許可」(『内外タイムス』1957年9月1日号)
(註12)下川耿史『極楽商売 聞き書き戦後性相史』(筑摩書房、1998年)150~153頁によれば、温泉マークが初めて用いられたのは1948年で、大阪・難波の「大阪家族風呂」という旅館が使い始めたことがきっかけで広まったという。代々原旅館組合の主張はそれより1年早い。
(註13)鈴木由加里『ラブホテルの力 ―現代日本のセクシュアリティ―』(廣済堂ライブラリー、2002年)112~117頁。
(註14)三橋順子『新宿『性なる街の歴史地理』(朝日選書、2018年)
(註15)「全調査=東京・仕掛けホテル」(『週刊大衆』1968年11月14号)。「仕掛けホテル」とは、噴水、震動装置、ブランコなどの「仕掛け」があるホテルのようだが、用語として定着しなかった。
(註16)モーテルについては、鈴木(註13)書118~123頁。『現代用語の基礎知識(1958年版)』(自由国民社)は「モーテル」の項目で「いわば温泉マークのアメリカ版」と説明している(項目執筆担当は大宅壮一)。

【備考】
広告図版の8桁の数字は、掲載年月日を示す。
末尾にkがついているのは『日本観光新聞』、他はすべて『内外タイムス』。

【住宅地図】
「東京都全住宅案内図帳・渋谷区東部 1959」
(住宅協会。1959年)
「東京都大阪府全住宅精密図帳・渋谷区 1963年版」
(住宅協会東京支所、1962年6月)
「全国統一地形図式航空地図全住宅案内地図帳・渋谷区 1970年度版」
(公共施設地図航空株式会社、1971年1月)
「ゼンリンの住宅地図・東京都渋谷区 1983」
(日本住宅地図出版、1983年3月)
「ゼンリンの住宅地図・東京都渋谷区 1996」
(ゼンリン、1996年1月)

なお、住宅地図の調査と発行のタイムラグを考慮して、1963年版→1962年頃現況図、1970年版→1969年頃現況図などのように1年戻して表記した。

【参考文献】
梶山季之『朝は死んでいた』(文藝春秋、1962年)←小説
佐野 洋『密会の宿』
(アサヒ芸能出版、1964年、 『講談倶楽部』連載は1962年、後に徳間文庫、1983年)←小説
保田一章『ラブホテル学入門』(晩聲社、ヤゲンブラ選書、1983年)
花田一彦『ラブホテル文化誌』(現代書館、1996年)
井上章一『愛の空間』(角川選書、1999年)
鈴木由加里『ラブホテルの力 ―現代日本のセクシュアリティ―』(廣済堂ライブラリー、2002年)
金 益見『ラブホテル進化論』(文春新書、2008年)
金 益見『性愛空間の文化史』(ミネルヴァ書房、2012年)

【追記】
2020年5月5日 「データベース」の改訂に伴い、データを修正。
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