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【論考】1950年代東京の「連れ込み旅館」について ―「城南の箱根」ってどこ?― [論文・講演アーカイブ]

2020年4月8日(水)

この論考は、明治大学文学部の平山満紀教授が主催する「セクシュアリティ研究会」(第2回:2018年08月11日)で発表したものである。
(さらに、その原形は、2011年10月29日の井上章一先生主催の「性欲研究会」で報告)

私の「連れ込み旅館」研究のベースになる報告だが、1年半が経っても、活字にしてくれる所はなさそうなので、原稿化して、このアーカイブに載せておく。

引用される際には、著者名と、この記事のURLを注記していただきたい。

【目次】
はじめに ―思い出―
1 「連れ込み旅館」とはなにか
2 「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」を作る
3 その分布
4 分布から見えるもの ―西の「連れ込み旅館」、東の「赤線」―
5 その設備
 (1)建築様式 (2)基本設備 (3)鏡 (4)テレビ (5)暖房 (6)冷房 (7)風呂
6 その立地
 (1)森 (2)水辺・川 (3)水辺・池 (4)水辺?・水族館 (5)高台 (6)山・山荘
7 そのイメージ
 (1)温泉偽装・温泉詐称・有名温泉への仮託 (2)温泉マークの使用 (3)なぜか南国
8 「連れ込み旅館」の機能 ―むすびに代えて―
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    1950年代東京の「連れ込み旅館」について
     ―「城南の箱根」ってどこ?―
           三橋順子(性社会文化史研究者)

はじめに ―思い出―
「今日はちょっと面白いところに連れてってあげるよ」
運転席の彼が言う。

新宿で待ち合わせて、いつもはユーミン(荒井由実=松任谷由実)の「中央フリーウェイ」の歌詞そのままに、右手に競馬場(府中の東京競馬場)、左手にビール工場(サントリー 武蔵野ビール工場)を見ながら中央自動車道を飛ばし、八王子インターチェンジで降りて手ごろなラブホテルに入るのだが、今日は山手通りを南下する。五反田を通ったのはわかったが、その後、どこを走っているのかわからなくなった。

車が着いたのは大きな日本旅館風の建物の前だった。母屋に行って彼が声をかけると、凛とした感じの着物姿の老女が出てきた。「大浴場はもう沸かしてなくて、離れのお風呂だけなのですが、よろしいですか?」「ええ、けっこうです」というやり取りが聞こえる。

鍵をもらった彼について木戸をくぐる。すでに暗くなっていたが、そこが広い庭になっていることがわかった。緩い石段を上りながら、「順子は、こういう昔ながらの『連れ込み旅館』って来たことないだろう。しかも、ここは部屋が離れなんだよ」と彼が説明してくれる。

そして、することをした翌朝、身支度を整えて「離れ」から外に出て、思わず「わーっ」と声を出してしまった。思っていたよりずっと大きな庭だった。緑の木々に囲まれ、そこここに躑躅(つつじ)が植えられ赤や白の花をつけている。その間に黒っぽい岩塊があちこちに置かれている。それが溶岩であることは、地学少年だった私にはわかる。

彼は「朝、出るとき、鍵を返してね」と言って深夜に帰っていった。まあ、いつものことだ。母屋に行って「おはようございます。鍵を返しに来ました」と声をかけると、まだ9時前なのにあの老女がきちんと着物を着て出てきた。
「お支払いは済んでおります」
「あの~ぉ、ちょっとお尋ねしますが、ここはどこなんでしょうか? 最寄りの電車の駅はどちらでしょうか?」
「ここは大田区の石川町という所です。門を出て左に行ってすぐの道を下って行けば東急池上線の石川台の駅に出ます」
「あっ、なるほど、ありがとうございます」
お礼を行って出ようとしたら、
「ちょっと、お嬢さん」
と呼び止められた。
「余計なお世話かもしれませんが、あなた、こういう遊びをしているのなら、自分がどこにいるかくらい、わかっていないといけませんよ」
「まことにごもっともです」なのだが、思いがけずいきなりのお説教に、私は口ごもる。
私の戸惑いを察知したのか、老女の顔が少し和らぎ、口調がやさしくなった。
「ここ、もうずいぶん古いのですけど、あと半年ほどで閉めるんですよ」
「閉めちゃうんですか、すてきなお庭なのに」
「手入れがたいへんでね。昔はお風呂も売りものだったのですけど、ボイラーが壊れてしまって」
「残念ですね」
「あと半年の内に、機会があったら、またおいでください」
「はい」

それは1994年4月の終わり頃のことだったと思う。それから6年ほど経って、私は国会図書館の新聞閲覧室で『日本観光新聞』のマイクロフィルムを閲覧していた。
「性転換の社会史」という論文の執筆のために1950年代の「性転換」の記事を探していたのだが、たまたま紙面の下の方にある広告が目に止まった。
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「城南の箱根 思い出の緑風園 池上線石川台下車三分」
「あっ、あそこだ!」
小声だけども、思わず叫んでしまった。

そう気づくと、「緑風園」と同類の「連れ込み旅館」の広告がたくさん載っている。「これは面白い材料(資料)になる」、私は直感した。
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1963年頃の「緑風荘」。左側に主屋、中間に広い庭、右寄りに離れが点在する。
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跡地には巨大なマンション「プレステート石川台」(7階建、102戸、1996年3月)が建った。

1 「連れ込み旅館」とはなにか
「連れ込み宿(旅館)」とはなんだろう? それには「連れ込み」という言葉から考えないといけない。まず、1つ目の意味として、街娼(ストリート・ガール)およびそれに類する女性が売春行為をするために男性を誘い導いて「連れ込む」宿のこと。2つ目として、カップルの男性が性行為のために相手の女性を「連れ込む」宿のこと。前者が玄人(くろうと)の女性が男性を「連れ込む」、後者は男性が素人(しろうと)の女性を「連れ込む」意味で、歴史的には前者から後者へと意味(ニュアンス)が転換していく(井上章一『愛の空間』第4章「円宿時代」)。

「連れ込む」主体に違いはあるが、どちらにしても、性行為を前提に「連れ込む」宿である。したがって、一般の旅館のように宿泊を必ずしも前提とせず、一時的な滞在(「ご休憩」「ご休息」)のための部屋利用が想定され、料金が設定されている点に特徴がある。

歴史的に見れば、江戸時代の茶屋で休憩室の奥に布団が敷かれている「出会い茶屋」(上野池之端に多かった)、明治以降、芸者遊びの場であり、お忍びの男女の待ち合わせにも利用された「待合」と呼ばれる施設、さらに昭和戦前期(1930年代)になると「待合」よりずっと気軽に安価に(1人1円)利用できるは「円宿」(えんじゅく)が都市部に出現する。また戦後の混乱期、「パンパン」と呼ばれた街娼が多かった時代には、彼女たちが進駐軍(主に米軍)兵士を連れ込む「パンパン宿」が盛り場の周辺にたくさんあった。「連れ込み旅館」はこうした系譜に連なるもので、戦後の社会的混乱が一段落した1950年代中頃に急増する。

2 「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」を作る
さて、『日本観光新聞』の調査で「連れ込み旅館」の広告の存在に気づいた私は、その後、『内外タイムス』の調査で、さらに大量の「連れ込み宿」広告に出会うことになる。そして、本筋の調査の傍ら、「連れ込み旅館」広告が載っている頁もコピーしていった。

ちなみに『日本観光新聞』も『内外タイムス』も、政治、経済、芸能、スポーツ、そして性風俗を網羅した軟らか系の新聞で、イメージとしては現代の『夕刊フジ』や『日刊ゲンダイ』に近い。
そんな経緯で収集し始めた「連れ込み旅館」広告だが、性風俗関係の頁に広告を出していること、料金設定が「お二人様(御同伴)」で「休憩(休息)」であることの2点を条件に『内外タイムス』と『日本観光新聞』から抽出したところ、1953~57年(昭和28~32)の5年間で690点の広告が集まった。それを整理して「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」を作成した

旅館の軒数にすると385軒。場所が異なる「別館」は1軒にカウントしてある。
完璧とは言わないが、かなりの程度、網羅していると思う。これだけの材料があれば、当時の東京の「連れ込み旅館」の様相は十分にうかがえるだろう。

3 その分布
まず、「連れ込み旅館」の分布から見てみよう。

【エリア別集計】
都心エリア( 85軒)
城西エリア(125軒)
城南エリア(106軒)
城北エリア( 60軒)
城東エリア(  9軒)

【集中地域(5軒以上)】
千駄ヶ谷(39軒)
渋谷(32軒)
新宿(31軒)
池袋(21軒)
大塚(12軒)
代々木(11軒)
新橋・芝田村町(11軒)
長原・洗足池・石川台(10軒)
高田馬場(8軒)
銀座(7軒)
原宿(7軒)
五反田(7軒)
大井町(7軒)
大森・大森海岸(7軒)蒲田(7軒)
新大久保・大久保(6軒)
飯田橋・神楽坂(5軒)
浅草(5軒)
赤坂見附・山王下(5軒)

エリア別の割合は、城西エリア32%、城南エリア28%、城北エリア16%、都心エリア22
%、城東エリア2%で、東京区部の西と南、つまり(拡大)山の手地区に多く、東の下町地区は極端に少なくなっている。
城西エリア(125)では千駄ヶ谷(39)が都内最大の集中地域で、新宿(31)、代々木(11)がそれに次ぐ。代々木は新宿と千駄ヶ谷の間で両者をつなぎ、巨大な「連れ込み旅館」ベルトを形成している。
城南エリア(106)は渋谷(32)に顕著に集中し、離れて長原・洗足池・石川台(10)が次ぐ。
都心エリア(85)は新橋・芝田村町(11)が多いが、他は分散的である。後にラブホテルの集中地域になる湯島は坂上に2軒、天神下に2軒でまだ集中傾向はない。現在、東京最大のラブホテル密集地域の鶯谷は2軒だけで目立っていない
城北エリア(60)は池袋(21)とその東の大塚(12)に集まっている。大塚は「花街」(三業地)からの転身である。
ほとんど広告がない城東地区(9)は、やはり後にラブホテルが集中する錦糸町もまだ2軒だけだ。

さらに細かく、鉄道沿線別に見てみる(都心は区別)。
都心エリア(85軒)
【千代田区】(9)
神田(鍛冶町)(1)秋葉原(1)御茶ノ水(3)神田小川町(2)神田神保町(1)九段下(1)
【中央区】(15)
銀座(7)築地(1)日本橋(1)人形町・浜町(4)東京駅八重洲(2)
【港区】(25)
新橋(6)芝田村町(5)虎の門(1)神谷町(1)浜松町(1)田町(2)芝公園(1)坂見附(2)赤坂山王下(3)麻布霞町(1)麻布竜土町(1)青山一丁目(1)
【台東区】(20)
御徒町(3)上野池ノ端(3)根津八重垣町(1)上野桜木町(1)鶯谷(2)下谷坂本町二丁目(3)蔵前(1)浅草(5)浅草橋場(1)
【文京区】(8)
湯島天神下(2)湯島(2)本郷真砂町(1)小石川柳町(1)白山(本郷肴町)(1)小日向(石切橋)(1)
【新宿区】(8)
飯田橋・神楽坂(5)市ヶ谷新見附(1)牛込矢来町(1)四谷荒木町(1)

城西エリア(125軒)
【国電山手線】
高田馬場(8)新大久保・大久保(6)新宿(31)原宿(7)
【国電中央線】
千駄ヶ谷(39)東中野(1)中野(1)高円寺(1)阿佐ヶ谷(2)吉祥寺(2)
【小田急線】9
参宮橋(3)代々木八幡(1)代々木上原(1)下北沢(1)登戸(2)向ヶ丘遊園前(1)
【京王本線】
幡ヶ谷(1)明大前(2)高井戸(2)調布(1)
【京王井の頭線】
浜田山(1)

城南エリア(106軒)
【国電山手線】
渋谷(32)恵比寿(1)目黒(4)五反田(7)
【東急東横線】(16)
代官山(1)中目黒(1)都立大学(1)自由が丘(3)多摩川園(1)新丸子(4)武蔵小杉(2)元住吉(2)大倉山(2)
【東急大井町線】
二子玉川(1)二子新地(1)高津(1)
【東急目蒲線】
目黒不動前(1)鵜の木(1)
【東急池上線】
長原・洗足池・石川台(10)雪ヶ谷大塚(1)千鳥町(2)久ヶ原(1)池上(1)
【国電京浜東北線】
品川(3)大井町(7)大森(5)蒲田(7)川崎(1)鶴見(1)
【京浜急行】
大森海岸(2)

城北エリア(60軒)
【国電山手線】
目白(2)池袋(21)大塚(13)巣鴨(4)駒込(2)田端(1)日暮里(3)
【国電京浜東北線】
王子(1)東十条(1)赤羽(1)川口(1)北浦和(1)大宮(3)
【国電赤羽線】
板橋(1)
【国鉄常磐線】
三河島(1)北千住(1)
【東武東上線】
大山(1)常盤台(1)
【西武池袋線】
桜台(1)

城東エリア(9軒)
【国電総武線】
錦糸町(2)亀戸(1)平井(2)新小岩(1)小岩(1)船橋(1)
【東武鉄道】
玉ノ井(1)

鉄道沿線で見ると、都心から西に延びる幹線である中央線沿線は、御茶ノ水、飯田橋・神楽坂に始まり、最大の集中地区である千駄ヶ谷、代々木、新宿、大久保、東中野、中野、高円寺、阿佐ヶ谷とほぼ連続的に立地し、この沿線の需要が高かったことがうかがえる。
山手環状線の駅もほぼまんべんなく立地し、確認できないのは有楽町駅と大崎駅だけである(西日暮里駅はまだない)。大崎は工場地帯や電車区があり駅周辺の開発が遅れていたので仕方がないだろう。
城西、城南エリアはかなり郊外まで分布が伸びている。東急目蒲線の鵜の木、東急東横線の新丸子、武蔵小杉、東急大井町線の二子多摩川、二子新地、小田急線の登戸など、多摩川の河川交通と陸上の街道との結節点に発達した花街に立地しているのは興味深い。
また、地区別の上位が国電山手線・中央線沿線で占められている中で、唯一の私鉄である東急池上線沿線の長原・洗足池・石川台(10)が目立つ。私が泊まった石川台の「緑風園」もこの地区に含まれる。

4 分布から見えるもの ―西の「連れ込み旅館」、東の「赤線」―
1953~1957年の東京の「連れ込み旅館」の分布で、最も注目すべきは、城東エリアの極端な少なさだろう。
全体のわずか3%、区部で広告が確認できるのは、江東区2軒(錦糸町)、墨田区1軒(向島)、葛飾区1軒(新小岩)、江戸川区2軒(平井、小岩)、足立区1軒(北千住)の7軒に過ぎない。

広告が確認できないからまったく「連れ込み旅館」がなかったとは言えないが、少なくとも広告を出すほど経営意欲がある「連れ込み旅館」はきわめて少なかった。

その理由を推測すれば、単純に需要が少なかったから、と思われる。
性行為の場として、「連れ込み旅館」を考えた場合、その需要、利用形態は次のように推定される。
① 街娼(一部の芸妓や女給を含む)など「売春」を業とする女性が客の男性を「連れ込む」。
② 男性が、芸妓、女給さらには、素人など「売春」を業としない女性を口説いて「連れ込む」。
③ 住宅事情など、自宅でSexする環境に恵まれていない夫婦や恋人同士が利用する。

この内、①は、街娼からすると「連れ込み宿」の料金が高すぎ、経営者側からすると売春行為を禁止した「東京都売春取締条例」(1949年5月31日制定)の「場所提供」に違反することから、主流ではなかったと思われる。

つまり、「連れ込み宿」の需要は②③、さらに言えば②が中心だった。

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千駄ヶ谷駅ホームのアベック(『週刊東京』1956年5月12日号)
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千駄ヶ谷駅前の立て看板(『週刊東京』1956年5月12日号)
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千駄ヶ谷・羽衣苑に入る男女(『週刊サンケイ』1957年3月10日号)

梶山季之『朝は死んでいた』(1960年『週刊文春』に連載)で殺人犯に仕立てられる主人公のように、都心の会社に通うサラリーマンで、銀座、次いで新宿の盛り場で飲んで、女性(女給やBG)を口説いて、千駄ヶ谷あたりの旅館に連れ込んでSexする男たちだ。

彼らのようなサラリーマンの自宅は、都心から西の新宿や、南の渋谷から、さらに西に延びる私鉄沿線に多く、東側には少なかった。千駄ヶ谷、新宿、渋谷が「連れ込み旅館」の密集地であり、そこを起点とする私鉄沿線に連続的に分布するのは、彼らの需要があったからだ。東京の「連れ込み旅館」の分布がサラリーマンの自宅の立地と性行動のパターンと深く関係していることは間違いないと思う。

では、「連れ込み旅館」が少ない東京の東側の男たちはどうしていたのだろうか?
この時期は「赤線」があった時代だ、「赤線」とは1946年12月~1958年3月末に存在した黙認買売春地帯である。警察が地域を限って「特殊飲食店」の営業を許可し、そこで働く女給が客と自由恋愛の末に性行為をし、プレゼントとしてお金をもらうという建前を警察が黙認することで成り立っていた。

東京区部には13カ所の「赤線」が存在していたが、その分布は、「連れ込み旅館」とはまったく逆で、城西、城南エリアに少なく、城東エリアに圧倒的に多かった。

都心エリア なし
城西エリア 1カ所(新宿区:新宿二丁目) 
      74軒 従業婦477人(1952年末)
城南エリア 2カ所(品川区:北品川、大田区:武蔵新田)
      45軒 従業婦185人
城北エリア 1カ所(台東区:新吉原)※ 
      313軒 従業婦1485人
城東エリア 9カ所(墨田区:玉の井・鳩の街、江東区:洲崎・亀戸、葛飾区:新小岩・亀有・立石、江戸川区:東京パレス、足立区:千住柳町)
      710軒 従業婦2307人
(※)新吉原は行政区分は台東区なので、この報告では都心エリアに分類されるが、かつて「北里(ほくり)」と通称されたように、江戸・東京の地理感覚では城北エリアとした方が実態的だと思う。

こうした分布から、東京の東側の男たちの性行為の場は圧倒的に「赤線」で、「連れ込み旅館」の需要は少なかったと推測される。下町の伝統的な花街、たとえば深川(門前仲町)などには芸妓と客の性行為の場としての「待合」のような施設があったが、それは「連れ込み旅館」の広告には現れていない。

つまり、性行為の場として、「赤線」と「連れ込み旅館」は対置関係にあった。実際、新吉原、洲崎、玉の井、鳩の街、そして新宿二丁目など規模の大きな「赤線」の周囲には「連れ込み旅館」はほとんど立地しない。需要がないからだ。

「赤線」と「連れ込み旅館」が対置関係にあったということは、裏を返せば、両者は補完関係にあったということだ。

極言すれば、東京には「赤線」に行って女給(実態は娼婦)を買ってSexする男(商店主・職人・工員など)と、BGやクラブの女給(後のホステス)を口説いて「連れ込み旅館」に連れ込んでSexする男(会社員が中心)の2タイプがいた。前者のタイプは東京の東半分に多く、後者のタイプは西半分に多く住んでいたと思われる。

東京においては、少なくとも1950年代までは、性行為の文化が地域によってかなり異なっていたことが浮かび上がってきた。「赤線」と「連れ込み旅館」の補完関係は1958年3月の「赤線」廃止(「売春防止法」の完全施行)によって崩壊する。その後、こうした性行為の地域性がどう変化していったのか? 今後の課題としたい。

5 その設備
次に、広告にあらわれた「連れ込み旅館」の設備について見てみよう。
(1)建築様式
「数寄屋造り、離れ家式」(おほた:千駄ヶ谷)
「古代桂を偲ばせる 城北に誇る新日本風数寄屋造りの静かな旅荘」(浮月:池袋)
「全荘離家式、数寄屋造り」(三越:千駄ヶ谷) 
「全室離式 那知廊下伝」(川梅:蒲田)←「那知(智)廊下」って何?
「純洋室高級ベッド完備」「別館数寄屋造り」
(大久保ホテル:新大久保・大久保)
「歌舞伎調スタイル」(音羽:蒲田)   
「各室歌舞伎調好み」(龍美:目黒) ←「歌舞伎調」とは具体的に?
 「歌舞伎」(原宿)という旅館もある

建築様式は、圧倒的に数寄屋造り・離れ家式が好まれている。洋室主体のホテルも、数寄屋造りの別館を増築する。コンセプトは高級&和風である。
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若水(池袋:19571206)  夕月荘(大塚:19540305k)
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紅屋(池袋:19540319k) 可悦(高田馬場:19571229)

(2)基本設備
「和洋各室、離式・風呂・トイレ・電話付」(深草:千駄ヶ谷)
「トイレ 風呂 ラジオ 電話付」(夕月荘:大塚)
「新装開店 各室共外線直通電話 ラジオ設備」(成光館:飯田橋:1955年6月)
 
基本設備は、各室に風呂、トイレ、そして電話である。それにラジオが加わる。

(3)鏡
「鏡風呂」「鏡の間」(利女八:阿佐ヶ谷)
「鏡風呂(四面鏡)」(川梅:蒲田)
「鏡天上」(ほていや:高田馬場) →「天上」は「天井」の誤り
「鏡風呂・鏡部屋」(天竜:大井町)

井上章一『愛の空間』(角川選書、1999年)が、ラブホテルのインテリアの特徴としている「鏡」だが、広告にはあまり現れない。「鏡部屋」「鏡天井」「鏡風呂」が存在したのは確実だが、普及度はまだ今一つだったと思われる。
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川梅(鎌田:19530107)

(4)テレビ
「テレビ各室」(みやこホテル:参宮橋:1956年3月)
「各室テレビ・バス・トイレ・電話付」(京や:代々木:1956年12月)

テレビは、1956年3月の参宮橋「みやこホテル」の広告が最初。1956年は、まだNHK総合+民放2社の時代で、世の中は「街頭テレビ」の時代。「各室テレビ」はとても贅沢で画期的だと思う。
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みやこホテル(参宮橋:19560304)

(5)暖房
 (こたつ)
「温かなコタツを用意して」(紫雲荘:五反田:1953年9月)
「全室おこたの用意が出来ました」(夕月荘:大塚:1953年9月)

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夕月荘(大塚:19540305k)  ホテルしぐれ荘(大森・19550213) 

(スチーム暖房)
「スチーム暖房完備」(ホテル・スワニー:高田馬場:1953年3月)
「冬知らぬ スチーム暖房」(みやこホテル:参宮橋:1954年11月)
「初夏の宿 スチーム暖房」(山のホテル:渋谷:1954年12月)
「各部屋スチーム暖房」(かすみ荘:千駄ヶ谷:1955年2月)
「全館スチーム暖房 お部屋は小春の暖かさ」(白樺荘本館:千駄ヶ谷:1956年1月)
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山のホテル(渋谷:19541207)   
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みやこホテル(参宮橋:19550213)

暖房は、炬燵からスチーム暖房へという流れ。スチーム暖房の初見は1953年春で、1955~56年の冬にはかなり普及した様子がうかがえる。

(6)冷房
(扇風機)
「各室、離家式 電話、扇風機付」(御苑荘:千駄ヶ谷:1953年9月)
「各室バス付 扇風機」(山のホテル:渋谷:1954年8月)

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紅屋(池袋:19540813k) 富士見荘(新宿区役所通り:19550819k)

(クーラー)
「涼味みなぎる 完全冷房店」(富士見荘:新宿区役所通り:1955年7月)
「完全冷房」(玉荘:千駄ヶ谷:1956年7月)

冷房は、扇風機からクーラーへという流れだが、暖房に比べると転換は遅い。「冷房」の広告上の初見は、1955年夏の新宿「富士見荘」。他にも千駄ヶ谷の高級旅荘「玉荘」のみ。普及は1960年代になってからと思われる。

(7)風呂
(形状)
「岩風呂」(福住:鶯谷)(やまと:桐ケ谷)(可悦:高田馬場)(大洋:渋谷)(天竜:大井町)(高津ホテル:高津)(ホテル赤坂:赤坂)(葵:大塚)(寿美吉:大塚)(緑風園:池上石川台)(福田屋:登戸)(トキワホテル:日暮里)(みやこ:目白)
「岩戸風呂」(東洋荘:渋谷)(のぼりと館:向ケ丘遊園前)
「穴風呂」(緑風園:池上石川台)
「滝風呂」(すずきや:代々木)(大洋:渋谷)(白梅:船橋)(洗足池旅館:池上洗足)
「寝風呂」(藤よし:駒込)
「寝台風呂」(筑波旅館:恵比寿)
「舟風呂」(東洋荘:渋谷)
「水族館付き舟風呂」(黒岩荘:渋谷)
「屋形風呂」(川梅:蒲田)
「数寄屋風呂」(鶴栄:大塚)
「数寄屋造りのロマンス風呂」(城北閣:池袋)
「瓢箪風呂」(二幸:渋谷)
「扇風呂」(東芳閣:池袋)
「末広風呂」(香川:大塚)
「ダルマ風呂」(夕月荘:大塚)
「鏡風呂」(川梅:蒲田)(利女八:阿佐ヶ谷)(天竜:大井町)
「大理石風呂」(菊富士松韻亭:原宿)
「大理石のパール風呂」(藤よし:駒込)
「風趣あふれる京の竈風呂」(御苑荘:千駄ヶ谷)
「むし風呂」(ピースホテル:大塚)
「スポンジ風呂」(ほていや:高田馬場)(のぼりと館:向ケ丘遊園前)

(立地)
「露天岩風呂」(深山荘:千駄ヶ谷)
「露天大岩風呂」(照の家:池上長原)
「若返り温泉 二階風呂」(加島屋旅館:川崎)
「階上ロマンス風呂」(旭:巣鴨)
「せせらぎの音にゆあみする優雅な川辺風呂」(大都:大井町)
(香り)
「レモン風呂」(白樺荘別館:千駄ヶ谷)(湯島荘:湯島)
「香水風呂」(高田旅館:渋谷)(飛龍閣:渋谷)(蓬莱:上野桜木町)(目白山手ホテル:目白)
「香気漂う丁子風呂」(あおば荘:白山)
「松葉風呂」(松実園:千駄ヶ谷)

(添加)
「牛乳風呂」(みやこ:新宿)(小梅荘:五反田)
「薬湯」(高津ホテル:高津)
「ホルモン風呂」(しぐれ荘:大森)
「ホルモン入葉緑素風呂」(ふじた:鵜の木)
「珪藻土入りのお風呂」(いずみ:池袋)

(数)
「二十五の湯殿」→「三十の湯殿」→「三十五の湯殿」(みやこホテル:参宮橋)
「八つの御風呂」(みすず:渋谷)
「七ツのお湯が溢れている」(山王温泉ホテル:大森)

(実態不明)
「ヨーマ風呂」(川梅:蒲田)
「金魚風呂」(きりしま:代々木)
「孔雀風呂」(永好:渋谷)
「虹風呂」(はなぶさ新館:原宿)
「ローマ風呂」(東芳閣:池袋)
「豪華なフランス風呂」(鶴栄:大塚)
「情緒あふれる浅妻風呂」(音羽:蒲田)
「ロマンス風呂」(菊半旅館:渋谷神泉)(美鈴:巣鴨)(緑風園:池上石川台)

『愛の空間』が注目しているように、風呂は、旅館にとって誘客の「目玉」であり、風呂がない家庭が多い時代の利用者にとって大きな魅力だった。広告文には実に多彩な「風呂」が現れる。岩風呂、滝風呂、鏡風呂、蒸し風呂、舟風呂、寝風呂などの形状、香水風呂、丁子風呂、レモン風呂など香り付けをしたと思われるもの、牛乳風呂、ホルモン風呂、葉緑素風呂、珪藻土風呂などなにかを添加して美容効果をねらったもの、やたらと数を増やした挙句、火事を出したホテル。一方、ロマンス風呂、虹風呂、金魚風呂、孔雀風呂など実態がよくわからないものもある。

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岩風呂:やまと      滝風呂:洗足池旅館    
(桐ケ谷:19540306)  (池上洗足池:19531020) 
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滝風呂:よしみ      露天大岩風呂:照の家 
(蒲田:19540813k)   (池上長原:19540730k)
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大岩風呂:登戸館     特に特徴のないタイル風呂:桂
(向ケ丘遊園前:19570505) (大塚:19540319k)
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謎の「ヨーマ風呂」:川梅
(蒲田:19560621)

6 その立地
水辺や高台など地理的な特長、森、川、池、山などの自然のイメージを強調する広告も多い。
(1)森
「御苑の森かげに七彩の湯湧き出づる」(南風荘:千駄ヶ谷)
「鬱蒼と茂った千駄ヶ谷の森に囲まれた閑静な憩の宿」(松実苑:千駄ヶ谷)
「外苑の森に囲れた静かな皆様のお宿」(かなりや:代々木)
「緑の森 静かなお部屋」(まつかさ:千駄ヶ谷)
「目黒の森に囲まれた静かな皆様のお宿」(菊富士ホテル:目黒)
「新宿の自然境」(とみ田:新宿駅南口)

「森」は、新宿御苑や神宮外苑に隣接する千駄ヶ谷、代々木エリアの旅館に多くみられ、静寂・閑静がイメージ化される。さらに都会の俗塵を離れた自然も・・・。
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まつかさ(千駄ヶ谷:19541023k)  とみ田(新宿駅南口:19530731)

(2)水辺・川
「浜町河岸」(矢の倉ホテル:日本橋浜町)←隅田川
「江戸情緒豊かな隅田河畔で!」(龍村:浅草)←隅田川
「静かな川辺の宿」(杵屋:錦糸町)←堅川
「TOKYOのセーヌのほとり」(東京スターホテル:銀座)←築地川
「情緒豊かな神田川畔のお宿」(白:秋葉原)←神田川
「せせらぎの音にゆあみする優雅な川辺風呂」(大都:大井町)←立会川
「多摩川畔の静かな別荘」←多摩川(高津ホテル:高津)←多摩川
「多摩川の四季に眺める二子橋玉川堤」(幸林:二子新地)←多摩川
「多摩川の涼風が誘う」(新雪:登戸)←多摩川

「水辺・川」は、隅田川と多摩川が中心。神田川、築地川はともかく、堅川や立会川になると「川」の風情を感じるのは難しいのではないか。立会川の「せせらぎの音」はいかにも誇大広告。東京の川辺が「風流」なイメージを保てた最後の時代か。1960年代に高度経済成長期になると、川の汚濁と悪臭がひどくなり、川の埋め立て(築地川)や暗渠化(立会川)が進行する。
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龍村          大都            
(浅草:19570713)   (大井町:19550410)   
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新雪(登戸:19570823)

(3)水辺・池
「新宿十二社池ノ上」(浮世荘:新宿十二社)
「涼風をさそう池畔の荘」(ホテル・スワニー:高田馬場)
 ↑ どこの池? 調べたが近隣に池はない。もしかして庭の池?
「上野不忍池畔」(かりがね荘:上野)
「静かな洗足池畔」(翠明館:池上洗足池)
「思い出の洗足池 静かな池畔の宿」(やくも:池上洗足池)
「池畔の幽緑境」(洗足ふじや:池上北千束)

「水辺・池」は、洗足池(大田区)、不忍池(台東区)、十二社弁天池(新宿区、1968年埋め立て、消滅)など。高田馬場の池は不明。とくに現在は住宅地に囲まれている洗足池が郊外の行楽地として機能していたことが興味深い。
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かりがね荘(上野:19561201) やくも(池上洗足池:19521007)  
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翠明館(池上洗足池:19530204)

(4)水辺?・水族館
「自慢の新しい水族館付き(黒岩荘:渋谷)」

なぜ「水族館」が・・・、正直言ってよくわからない。

(5)高台
「新宿歌舞伎町高台」(小町園:新宿歌舞伎町)
「高台の静けさ」(東京ホテル:新宿区役所通り)
「見晴らしのよい高台」(大洋:渋谷)
「渋谷の高台」(高田旅館:渋谷)
「高台閑静 眺望渋谷随一!」(平安楼:渋谷)
「断崖上の三層楼」(三平:渋谷)
「大塚駅北口高台」「眺望絶佳」(式部荘:大塚)
「国電田端駅高台」(清風荘:田端)
「国電日暮里駅高台西口」(喜久屋:日暮里)

「高台」の立地を強調する広告も多い。特に渋谷は道玄坂や桜丘町のように坂上、高台に「連れ込み旅館」が多く立地する。また大塚・田端・日暮里は台地と低地を分ける崖線の上に立地するものが多い。いずれも、閑静さ、眺望の良さを特長にしている。高台の立地は、次の時代の「ラブホテル」の集中域、新宿歌舞伎町二丁目、渋谷円山町、湯島などに引き継がれる。
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夕月荘(大塚:19541023k)
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三平(渋谷:19571004)  式部荘(大塚:19560607)) 

(6)山・山荘
「山の中から水の音 滝の音 渓渡るせせらぎ すずしさよ」
(みやこホテル:参宮橋)
「軽井沢の元祖」「東京にある軽井沢」(旅館富士見荘:新宿区役所通り)
「静かな山荘の離れ」(ホテル ニューフジ:渋谷)
「丘の離れ、都会の山荘」(山のホテル:渋谷)
「都心の山荘」(平安楼:渋谷)
「趣味の山荘」(強羅ホテル:五反田)
「広大な芝生に立つ山荘風のホテル」(若宮荘ホテル:神楽坂)
「ロマンな憩いの山荘」(ホテル赤坂:赤坂見附)
「城南の箱根 山林峡谷 2千坪に点在する離れ家」(緑風園:池上石川台)
「東京の箱根 もずの声 ここは都のなかか 山の里」(緑風園:池上石川台)

山の手エリアには「山・山荘」のイメージを強調する広告が多い。中には軽井沢(長野県)や箱根(神奈川県)などの高級別荘・山荘とイメージを重ねているものもある。
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「東京にある軽井沢」富士見荘(新宿区役所通り:19550721)   
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山荘のイメージ「ホテル ニューフジ」(渋谷:19540508)
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山のホテル(渋谷:19550702)  緑風園(池上石川台:19570130)

7 そのイメージ
「連れ込み旅館」の広告は、集客のために様々イメージを作り出している。それは,良く言えば豊かなイメージの喚起であるが、悪く言えばイメージの捏造であり、現代の感覚(法規)からしたら、誇大広告の批判を免れない。

(1)温泉偽装・温泉詐称・有名温泉への仮託
「東京唯一の天然温泉」(山水荘:亀戸) ← 「亀戸温泉」は実在
   ↓ 以下はずべて偽装・詐称
「温泉ホテル」(ホテル自由ヶ丘:自由ヶ丘)
「山王温泉ホテル」「温泉情緒」(山王温泉ホテル:大森)
「地下温泉」(二幸:渋谷)
「渋谷にも温泉出現」(菊半旅館:渋谷神泉)
「都心の温泉郷」(あぽろ旅館:九段下)
「銀座温泉 憩いの出湯」(せきれい荘:銀座)
「不忍温泉」(かりがね荘:上野)
「鶯谷温泉」(福住・鶯谷)
「巣鴨温泉」(三晴:巣鴨)
「東郷台温泉」(はなぶさ新館:原宿)

「温泉気分」「湯湧き出ずる」などのように文章の雰囲気で温泉イメージを喚起する広告は多い。さらに「銀座温泉」「鶯谷温泉」「(上野)不忍温泉」「巣鴨温泉」「(大森)山王温泉」「(原宿)東郷台温泉」など、明らかな温泉を詐称する旅館もある。
当時の法律(1948年7月10日制定の「温泉法」)では、温泉は源泉温度25度以上で有効な成分をもつもの、とされており、東京区部にはそれに適合する温泉はなかった。ただし、城南地区(港区、大田区、品川区、世田谷区など)には「黒湯」と呼ばれる25度以下だが有効成分を含む「鉱泉」が分布する。
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山水荘        山王温泉ホテル      
(亀戸:19530204)(大森:196560222) 
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あぽろ旅館      せきれい荘     
(九段下:19541219)(銀座:19550702)
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福住
(鶯谷:19560107) 

(有名温泉地への仮託)
「都内で湯河原の気分を!」(芳川:市ヶ谷新見附)
「熱海」(熱海:池上洗足池)
「京浜の熱海」(東横ホテル:武蔵小杉)
「京浜の箱根」(菊家ホテル:武蔵小杉)
「東京の箱根」(富士屋ホテル:代々木)
「郊外の箱根」(錦:高井戸)
「城北の箱根」(荒川荘:三河島)
「城南の箱根」「東京の箱根」(緑風園:池上石川台)
「箱根気分を上原で」(鶴家:代々木上原)
「新箱根」(新箱根:板橋)←方向が違う!
「タッタ30分で箱根の気分」(いずみ荘:大宮)←方向が違う!
「強羅ホテル」(強羅ホテル:五反田)
「渋谷の衣川(鬼怒川)」(黒岩荘:渋谷)
「城北の水上」(目白文化ホテル:目白)
「九州の地 別府温泉を偲ばせる」(別府:代々木)
「東京の谷間 幽境霧島を偲ぶ閑静さ」(きりしま:代々木)

温泉偽装・詐称との関連で、「城南の箱根」「京浜の熱海」のように、箱根(神奈川県)、熱海(静岡県)、湯河原(神奈川県)、水上(群馬県)、鬼怒川(栃木県)、別府(大分県)、霧島(鹿児島県)などの有名温泉地とイメージを重ねる広告が見られる。
とくに箱根温泉は人気で、城北(三河島)、城南(石川台)などあちこちに「箱根」があった。中には板橋のように明らかに方向が違うものも。東急東横線の武蔵小杉などは「京浜の熱海」と「京浜の箱根」と「いったいどっちなんだ?」と言いたくなる。さらに、有名温泉地をそのまま旅館の名にしたものもあり、五反田には「強羅温泉」が、洗足池には「熱海」が、代々木には「別府」「きりしま」があった。

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荒川荘       緑風園       
(三河島:19541113)(池上石川台:19521007)
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東横ホテル     菊家ホテル
(武蔵小杉:19561205)(武蔵小杉:19540302)
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黒岩荘        別府     
(渋谷:19570204) (代々木:19550109)
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ホテルきりしま
(代々木:19570130)

(2)温泉マークの使用
典型的な温泉マーク
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熱海(池上洗足池:19530403k) 多ま木(新宿:19530918k)

デザイン化された温泉マーク
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大久保ホテル(新大久保・大久保:19550115)
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ホテル明光(品川:19530925k)

広告文での温泉マークの使用は、1953年が多く、1954年半ばまででほぼ納まる(例外は1955年3月の「川梅」)。1955年4月以降の使用例は見られない。当時、温泉マークの乱用が問題視されており、1954年半ば頃に、なんらかの規制(自粛)が行われた可能性が高い。

(3)なぜか南国(椰子の木、ラクダ)
なぜか、南の国のイメージを絵にしている広告が2つある。モチーフはいずれもラクダと椰子の木。
「南風荘」は、その名称からだろう。「エデン」の園は、アルメニア付近にあてるのが通説で、エジプトではないと思う。
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南風荘(千駄ヶ谷:19530731)   エデンホテル(目白:19531016k)

(4)文化人・インテリ・旧華族
「文化人好みの画廊スタイル」(強羅ホテル:五反田)
「モダンクラッシックの文化人スタイル」(ホテル山王:渋谷)
「インテリ層の憩の宿」(ホテルおしどり:大森)
「旧徳大寺公邸です」(光雲閣:代官山)

「文化人」「インテリ」を強調した広告が散見され、ターゲットにした顧客層がうかがえる。
『愛の空間』には、戦後の社会変動や財産税などで手放された「没落階級の屋敷を再利用したものが多かったらしい」と記されているが、広告から確認できるのは、渋谷区代官山の徳大寺公爵邸を転用した「光雲閣」のみ(現在も同地に「光雲閣ビル」がある)。
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強羅ホテル      ホテル山王ホテル 
(五反田:19560730)  (渋谷:19540728)
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おしどり(大森:19560607)
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光雲閣(代官山:19540428)

8 「連れ込み旅館」の機能 ―むすびに代えて―
「連れ込み旅館」は、その立地や設備からして、庶民(と言っても、貧困層ではなく中間層)にとって、日常を離れた特別な場だった。
その背景には、戦後の混乱期から抜け出し、飢える心配こそなくなったものの、狭い家に住み、ほとんどの家にテレビや冷暖房(クーラー、スチーム)はなく、多くの家に風呂や電話がない住環境がベースにある。

つまり、「連れ込み旅館」は、日常の延長上のワンランク、ツーランク上の住環境を一時であっても手に入れ、Sexを楽しむ場所だった。

ここで重要なのは、日常の延長上であることだ。「数寄屋造り」にしろ「離れ家」にしろ、「連れ込み旅館」はあくまでも和風の贅沢環境であり、豪華なベッドがあるような洋風の住環境ではなかった。おそらく、当時の日本人カップルは、まだベッドでは落ち着いてSexができなかったのではないだろうか。

「連れ込み旅館」の(1室2人)休憩400~500円、泊り800~1000円という料金は、約15倍すると現代の貨幣価値に近づく。つまり、休憩6000~7500円、泊り12000~15000円ということになり、けっして安くはない。それだけの価値があったということだ。

あるいは、箱根や熱海の温泉に2人で旅行したくても、金銭的・状況的に難しいカップルにとって、疑似的であっても「連れ込み旅館」で温泉気分を楽しみことは、十分にお金を払う価値があることだったと思う。

ところが、1960年代後半、日本社会が高度経済成長期に入り、住環境の改善が進み、また生活の洋風化が進むと、「連れ込み旅館」を支えていた背景が変化してくる。

中間層の多くの家にお風呂が備えられ、電話やテレビが設置され、裕福な家には床の間・床柱のある数寄屋造り風の和室が設けられ、そこが夫婦の寝室になる。

そうなると、和風の特別な環境(Sexの場)である「連れ込み旅館」の意味が薄らいでいく。そして、次の時代(1970年代)のカップルが求めるのは、洋風な特別な環境(Sexの場)になる。

「連れ込み旅館」から「ラブホテル」への「進化」はそうして進行していった。

【備考】
広告図版の8桁の数字は、掲載年月日を示す。
末尾にkがついているのは『日本観光新聞』、他はすべて『内外タイムス』。

【文献】
梶山季之『朝は死んでいた』(文藝春秋、1962年)←小説
佐野 洋『密会の宿』
(アサヒ芸能出版、1964年、 『講談倶楽部』連載は1962年、後に徳間文庫、1983年)←小説
保田一章『ラブホテル学入門』(晩聲社、ヤゲンブラ選書、1983年)
花田一彦『ラブホテル文化誌』(現代書館、1996年)
井上章一『愛の空間』(角川選書、1999年)
鈴木由加里『ラブホテルの力 ―現代日本のセクシュアリティ―』(廣済堂ライブラリー、2002年)
金 益見『ラブホテル進化論』(文春新書、2008年)
金 益見『性愛空間の文化史』(ミネルヴァ書房、2012年)

【追記】
2020年5月5日 「データベース」の改訂に伴い、データを修正。


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