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新宿グランドツアー【6】内藤新宿と太宗寺(1)内藤新宿の成り立ち [新宿グランドツアー]

【6】内藤新宿と太宗寺

追分に戻り、かっての内藤新宿の町並みを偲びながら、甲州街道(新宿通り)を四谷方面へ歩いて行きましょう。といっても、古い建物はほとんど残っていないのですが。

(1)内藤新宿の成り立ち
慶長6年(1601)、天下の覇者となった徳川家康は、全国支配のために江戸と各地を結ぶ5つの街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)の整備に着手します。甲州街道は、江戸(日本橋)~八王子~甲府を結び、信濃国下諏訪宿で中山道と合流する街道です。徳川氏は、甲府に拠点を置いた戦国大名武田氏の遺臣を多く抱えていましたので、甲府を重要な軍事拠点、もしものとき(江戸落城)の逃げ場所と考えていた節があります。

甲州街道には、最終的には38の宿場が置かれましたが、江戸初期においては「大木戸までは江戸の内」と言われた四谷大木戸を出ると、最初の宿場は高井戸宿(東京都杉並区)でした。また脇街道の青梅街道(成木街道)は、江戸城の白壁や町屋の土蔵の壁に塗る漆喰の原料になる奥多摩の石灰石を運び込む目的の街道で、最初の宿場は田無(東京都西東京市)でした。いずれも日本橋からの距離がかなり長く(日本橋~高井戸宿=4里=16m)、人馬の往来に不便でした。

そこで、江戸浅草阿部川町(現:元浅草4丁目)の名主喜兵衛(高松喜六)ら5人が、金5600両の献上とともに甲州街道の宿場の新設を幕府に願い出ます。なぜ、願主が地理的に無縁な浅草の人なのか不思議ですが、その請願に応えて、幕府は、元禄11年(1698)、四谷大木戸をから甲州街道と青梅街道が分岐する追分までの間の、内藤氏(信濃高遠藩3万3千石)の下屋敷に近い土地に新しい宿場を造ることを許可します。そして、その宿場は「内藤」氏の屋敷に近い「新」しい「宿」場ということで「内藤新宿」と呼ばれることになりました。喜兵衛らの願主は、新しい宿場の名主になり、宿場のさまざまな利権を手中に収め、5600両の投資はしっかり回収できたことでしょう。

ところが、それから約20年後の享保3年(1718)、内藤新宿は廃止されてしまいます。宿場の風紀の乱れが、徳川吉宗の「享保の改革」の綱紀粛正・倹約の方針と相容れなかったからです。内藤新宿がやっと復活するのは、54年後の明和9年(1772)のことでした。

宿場町は、大木戸から追分まで1.2kmほどで、四谷寄りから下・仲・上町に分かれ、江戸に近い下町(現:新宿1丁目)がいちばん賑わいました。旅籠(はたご)には「飯盛り女」と称する女性(実態は、セックスワーカー)を宿場全体で150人置くことが許可されていましたが、実際にはさらに多くの女性が働いていたようです。

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↑ 切絵図に描かれた内藤新宿。
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↑ 安政年間(1850年代)の内藤新宿の略図。

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↑ この絵、東京メトロ副都心線・新宿三丁目駅のガラス壁に描かれている。

もともと後発の上に、54年間もの断絶期間があり、内藤新宿は他の江戸三宿に比べて明らかに格下でした。それでも「明和の立ち返り」以後、江戸の商業経済の発展とともに、徐々に繁栄の方向に向かいます。

当時、「四谷新宿 馬糞の中で あやめ咲くとは しおらしい」という歌が流行しました。乗り継ぎ馬や荷牽き馬の糞と、菖蒲にたとえられた「飯盛女」、内藤新宿のイメージがよく伝わってきます。歌川広重の「江戸名所百景」の「内藤新宿」は、馬糞と飯盛女というイメージを、実に的確に表現しています。右の拡大図では、馬の足の向こうに飯盛女が客を呼び込んでいる様子がうかがえます。
内藤新宿・太宗寺4(江戸名所百景・内藤新宿).jpg 内藤新宿・太宗寺4(江戸名所百景・内藤新宿) (2).jpg

こうして1808年(文化5)には、旅籠屋50軒、引手茶屋80軒を数えるまでになり、江戸四宿の中でも東海道品川宿に次ぐ賑わいをみせるようになりました。

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↑ この道が「甲州街道」であったことを思い出させる「甲州屋呉服店」

新宿グランドツアー【5】角筈(つのはず)-市電の停車場と老舗御三家-  [新宿グランドツアー]

【5】 角筈(つのはず)-市電の停車場と老舗御三家- 

追分から、新宿通り(青梅街道)をちょっと新宿駅方向に戻ってみましょう。先ほど、新宿駅のある場所は、実は新宿ではなく角筈ですと言いました。新宿駅だけでなく、現在、新宿三丁目になっている「紀伊国屋」も「高野」も「中村屋」も「三越」も、また東口から南口界隈の「武蔵野館」や「ムーラン・ルージュ」も、新宿ではなく角筈一丁目だったのです。

角筈という地名は、南豊島郡角筈村に由来し、そのエリアは、けっこう広く、JRの線路を挟んで新宿駅の東西に広がっていました。おおまかに言って、新宿三丁目の東半分(新宿駅東口周辺)と歌舞伎町一丁目のほとんどが角筈一丁目、新宿駅西口一帯と旧・淀橋浄水場(現:新宿新都心地区)が角筈二丁目、その南の甲州街道北側(現:西新宿三丁目)のエリアが角筈三丁目でした。

角筈一丁目とその東に接する内藤新宿上町との境界線は、とても複雑です。なにしろ道路ではなく個人の邸宅の塀が境界になっている場所もあり、ちょっと文章では説明しきれません。しかも、このラインが、大東京三十五区時代(1932~47)の四谷区と淀橋区との境界になり、現在でも、警視庁四谷警察署と新宿警察署(旧:淀橋警察署)の管轄区分や神社の氏子圏に受け継がれていて、この地域の歴史地理を複雑にしています。

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↑ 昭和10年(1935)頃の新宿。
四谷区(右寄り、旧内藤新宿町)と淀橋区(左寄り、旧角筈村)の境界線が街を縦断している。

おおまかに境界線をたどると、靖国通りの北側は、遊歩道「四季の道」がだいたい境界に沿い、新宿通りの北側では「紀伊国屋書店」の東30mほどの地点を通り、南側では「三越」の東側の道路、そしてすぐに東に曲がり、新宿通りから一本南側の路地を走り、明治通りまで行かずに南に折れて、「大塚家具」(旧:三越南館)の東を通って、甲州街道に出ます。

さて、角筈で忘れてはいけないのは、東京市電(都電)の停車場です。東京市電は、明治36年(1903)に、新宿駅前~月島通八丁目(後の都電11系統)と新宿駅前~岩本町(後に両国駅前まで延伸して都電12系統)の2路線を開設して、新宿駅前(東口)に乗り入れました。さらに角筈~万世橋(後に水天宮前まで延伸して都電13系統)が加わります。東京市電の新宿乗り入れによって、新宿は東京中心部から伸びる市電路線網の東端に位置付けられることになり、3路線が集まる角筈停車場は、都心から、そして都心への乗降客でおおいに賑わうことになりました。

角筈停車場は、昭和24年(1949)まで、新宿通りの「紀伊国屋書店」の前あたりにありました。11系統と12系統は新宿通りを東からすんなり入ってきすが、ユニークなのは13系統です。抜弁天(東大久保)から専用軌道で新田裏(現:新宿五丁目交差点)に出て、また専用軌道(現:遊歩道「四季の道」)を通って北裏通り(靖国通り)を渡り、北から新宿通りの角筈停車場に入ってきました。その靖国通りから新宿通りまで市電が通り抜けていたルートが、「紀伊国屋書店」の隣の「ビックカメラ」と「〇I〇Iヤング館」の間の路地です。

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↑ こんな狭い路地を市電が・・・と思うが、当時はもっと広かったのだろうか?

また、現在、新宿通り北側にある「三井住友銀行」、「伊勢丹」本館の西3分の1ほど、「伊勢丹メンズ館」などになっている場所には、戦災で焼失するまで、新宿通りから靖国通りに至る広大な敷地に方向転換のためのループ線を備えた東京市電の大きな車庫がありました。あんな地価の高い場所が電車のねぐらになっていたなんて、まったく隔世の感です。

東京の路面電車(市電→都電)の路線網は、高度経済成長期(1967~72年)に、わずか1路線(早稲田~三ノ輪間の荒川線)以外、すべて撤去されてしまい、私たちの記憶から消えようとしています。しかし、市電(都電)は人々の生活にもっとも密着した生活路線で、利用度は現在の地下鉄よりもずっと高かったと思います。現代の東京の交通地理を考える時、地下鉄を無視する人はいないでしょう。それと同じで、明治・大正・昭和(40年代まで)の東京の歴史地理を考える際に、市電(都電)は、忘れてはならない交通機関なのです。

角筈の老舗と言えば、「高野フルーツ」、「中村屋」、「紀伊国屋書店」を挙げるのは、どなたも異論がないところでしょう。

「高野フルーツ」の高野家は越後長岡の出身で、明治18年(1885)、高野吉太郎が、新宿駅の設置とほぼ同時に駅前に店を出しました。当時は古道具屋兼繭の仲買い業で、副業として武蔵野や多摩の柿や栗を扱っていたそうです。大正10年(1921)、駅前広場の拡張のため現在地に店を移し、大正15年(1926)にはフルーツ・パーラーも併設して、モダン東京の新興の盛り場、新宿の「顔」になっていきます。

「中村屋」の相馬家は、信州安曇野(現:長野県穂高町)の出身で、愛蔵・黒光夫妻は、はじめ本郷の東大前でパン屋をしていましたが、明治40年(1907)に新宿に移ってきました。開店当初から、パンの販売に加えて喫茶部を設けるなど、時代を先取りした経営で発展します。大正3年(1914)には、インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボース(Rash Behari Bose 、1886~1945年)を匿い、昭和2年(1927)にはボース直伝の「純インド式カリー・ライス」を売り出し、人気を博しました。

「紀伊国屋書店」の田辺家は、元は材木商で、現在地には薪炭問屋として店を構えました。奥行きのある敷地の新宿通り沿いに書店を開業したのは昭和2年(1927)のことで、2階を画廊にしたり、小学校の同級生だった舟橋聖一らと共に、同人誌『文芸都市』を出版したり、当初から単なる本屋ではなく、文化的な広がりを意識していたようです。

子供のころ、東京に出張した父がお土産に買ってきてくれる中村屋の肉まんが何よりの好物でした。東京に出てきてからは、帰省するときには高野のフルーツケーキをお土産に買っていくようになりました。歌舞伎町のお店のお手伝いホステス時代は、出勤前に時間があるときは、よく紀伊国屋で本を選んでいました。

私だけでなく、新宿で時を過ごした人で、角筈の老舗御三家にお世話にならなかった人はいないと思います。

ところで、地名としての角筈は昭和53年(1978)の町名改定で消えてしまいました。それから30数年、角筈の名を見ることはめっきり減っています。私が「角筈」という地名を知ったのは、ゴールデン街の隣(靖国通り寄り)にある東京電力の「角筈変電所」でしたが、今では、新宿区角筈特別出張所(西新宿四丁目)、新宿区立角筈図書館(同)、同角筈区民ホール(同)、同角筈公園(同)、角筈地域センター(同)などの行政関係施設の名などにかろうじて残っているにすぎません。あとは、角筈橋(西新宿二丁目にある跨道橋)、小田急バスの「角筈二丁目バス停」くらいでしょうか。

「角筈変電所」以外、残っているのは、なぜかすべて新宿駅の西側です。浅田次郎さんの小説「角筈にて」で、少しは知名度が回復したかもしれませんが、絶滅の危険にあるのは変わりないでしょう。由緒ある地名を抹殺してしまうことの文化的損失を、もう一度よく考えてみるべきだと思います。


新宿グランドツアー【4】追分 -宿場の場末の大発展- [新宿グランドツアー]

【4】 追分 -宿場の場末の大発展-

天竜寺から明治通りを少し戻り、明治通りとの交差点に出ると、右手前方にコーナーを大きく面取りしたちょっと特徴的なビルが見えます。「京王新宿追分ビル」です。

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↑ 「京王新宿駅」のホームがあった「京王新宿追分ビル」

現在、京王電鉄京王線は新宿駅の西口に入っていますが、大正4年(1915)の開業時の起点は西口ではなく、甲州街道を走って省線(現:JR山手線など)の線路を陸橋で越えて新宿追分交差点南側の路上にまで乗り入れて、新宿通りを走る東京市電と乗り換え可能でした。昭和2年(1927)に「京王新宿ビルディング」(現:京王新宿三丁目ビル)を建てて起点を移し、「京王新宿駅」を名乗りました。駅ビルには、テナントとして「武蔵屋呉服店」が入り、ターミナルデパートとなっていました。その「京王新宿駅」の3線5面のホームがあった場所に建てられているのが「京王新宿追分ビル」なのです。

では、なぜ西口に起点を移したかというと、昭和20年(1945)5月の空襲で新宿~初台間の天神橋変電所が被災し電圧が下降したため、陸橋の急勾配を電車が越えられなくなってしまい、やむなく西口に仮設駅を設けたのが、そのまま居ついてしまったというちょっと情けない事情なのです。甲州街道の陸橋をトコトコ越えていく京王電車、見てみたかったです。

さて、江戸城半蔵門を起点に西へ、四谷大木戸(現:四谷三丁目交差点付近)から内藤新宿の宿場町を抜けてきた甲州街道は、内藤家下屋敷の敷地が尽きるあたりで、右手に青梅街道を分けると、西南西に向きを変え、天龍寺の門前を抜けて次の宿場高井戸を目指しました。

街道の分岐点である追分には、早くから茶店があったと思われますが、その伝統を今に伝えているのが新宿の名物「追分だんご」です。ただし、今の「追分だんご」の店は意外に新しく昭和15年(1940年)の創業なのですが・・・。

追分は、内藤新宿の上町の外れで、いわば宿場の場末です。その場末の街が、昭和になると、単なる街道の分岐点から人が集う繁華な地へと大発展していきます。そのきっかけは、明治通り(環状5号線)の開通でした。

明治通りは、昭和4年(1929)に追分から南へ渋谷までが、同6年には追分から北へ大久保までが開通します。追分の北西角には、昭和元年(1926)から地上6階地下1階の「ほてい屋」デパートが営業していましたが、明治通りの開通以後、追分周辺には次々と大きな建物が建てられていきます。

まず、追分の少し先、新宿通りに面して「三越」デパート(昭和4年)が進出します。ほぼ同時に明治通りと甲州街道が接する場所(現:大塚家具)に新宿最初の本格的劇場である「新歌舞伎座」(昭和4年。後の新宿第一劇場)が、さらに追分の南西角に5階にダンスホールを備えたルネサンス様式の「帝都座」(昭和6年、現:丸井新宿本館)が、北東角には5階建ての食堂デパート「三福」(昭和6年、現:三和東洋ビル)が開業します。そして、昭和8年に「ほてい屋」デパートの隣に「伊勢丹」デパートが開業しました。

こうして、追分は東京西部の新興の商業拠点として、浅草や銀座と並んでモダン東京の消費活動の一翼を担い、黄金時代を迎えることになります。「伊勢丹」は、経営者の自殺などで経営が傾いた「ほてい屋」デパートを昭和10年(1935)に吸収合併し、同12年には、双方の建物を接合した巨大デパートになり、追分の盟主の地位に就きます。

この「伊勢丹」による「ほてい屋」合併については、「伊勢丹」の建設時に建物を「ほてい屋」の壁面と隙間なく建てたり、各階の高さを「ほてい屋」に合わせるなど、当初から将来の「乗っ取り」を策していた?という話がありますが、真偽のほどはわかりません。

「伊勢丹」の外観をよく観察するとおかしなところがいくつかあります。まず○に「伊」のマークの大看板が立って、いる場所です。普通なら交差点を行きかう人の目にいちばん止まる屋上のコーナー部分に立てそうなものですが、かなり新宿駅寄りに引っこんでます。つまり、そこまでが元々の伊勢丹で、そこから交差点寄りは「ほてい屋」だったのです。これでも「伊勢丹」としては精一杯、交差点寄りに○に「伊」のマークを設置したのです。

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↑ 追分交差点からみた「伊勢丹」。
塔屋と〇に「伊」のマークの位置に注目。

また外壁の1・2階部分の列柱を見ていくと、新宿通りの「ISETAN」の看板の前後で間隔が乱れ、柱の間が極端に狭くなる部分があります。そこが「継ぎ目」です。よく観察すると、水平ラインも交差点寄り(ほてい屋側)が少し高く段差があります。さらに仔細に見ると、壁面装飾が似てはいるものの微妙に違うことに気づきます。一見、ひとつの巨大デパートに見える建物が、二つの建物の接合だったという来歴が壁面に残されているのです。

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↑ 「ほていや」と「伊勢丹」の接合部分。
柱間隔が極端に狭くなり、水平にも僅かですが段差がある。

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↑ (上)「旧・ほてい屋」(下)「旧・伊勢丹」
こうして並べてみると、よく似たロータス紋だけども、細部がかなり異なることがわかる。

つい数年前まで、「伊勢丹」デパートのB1階には、フロア-の真ん中に段差があり、4段ないし5段ほどの階段になっていました。これは、2つのデパートの壁面を取り払って接合した名残りの段差なのです。地上部分の各階の段差はわずかでしたが、「ほてい屋」の地階は「伊勢丹」の地階よりかなり浅かった(天井までの高さがない)のです。残念ながら、2007年の地下売り場の大改装で段差はなくなってしまい、今はもう見られません。「伊勢丹」にしてみると、72年目にして「乗っ取り」、もとい「合併」の痕跡を消すことができたのです。

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↑ 「伊勢丹」の地階にあった段差。
館淳一「狷介老人徘徊日記・伊勢丹地下の秘密」(2003年1月撮影)より
http://tate.32ch.jp/shosai/diary/haikai/isetan.html

ところで、「追分」の名は俗称であって、行政地名ではありません。そのせいか、もうほとんど人々の意識から消えかかっています。「伊勢丹」前の「新宿追分バス停」は、いつのまにか「新宿伊勢丹前(新宿追分)」になってしまいました。あとは「追分だんご」「京王新宿追分ビル」「四谷警察署追分交番」・・・そのくらいでしょうか。交差点の名前も「新宿三丁目」になってしまい、「追分の交差点で降ろしてください」と言っても、タクシーの運転手さんにはもう通じません。「追分」だけでなく、「角筈」も「新田裏」も消えつつあります。新宿の由緒ある地名、せめて、交差点の名前には残して欲しかったです。
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新宿グランドツアー【3】天龍寺・雷電神社と旭町スラム [新宿グランドツアー]

【3】 天龍寺・雷電神社と旭町スラム

中央通りは、明治通りに突き当たってお終いなので、少し道を戻って、元の「三越南館」(現:大塚家具)の角を曲がりましょう。この場所には、昭和4年(1929)開場の「新歌舞伎座」という劇場がありました。「新宿第一劇場」「新宿松竹座」と名を変え、戦後は青年歌舞伎の本拠となり、昭和35年(1960)の閉場まで、新宿における古典劇の中心でした。

さらに右手の路地に入ります。この路地には、任侠映画専門の名画座「新宿昭和館」があり、その地下は成人映画専門の「昭和館地下劇場」でした。この「昭和館」は、昭和7年(1932)の創業という新宿では「武蔵野館」に次ぐ老舗だったのですが、2002年に閉館してしまい、現在は「K's cinema」というミニ・シアターになっています。

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↑ こういう景色も、気づくと、ずいぶん減っているような・・・。

路地を抜けると、堂々と成人映画の看板を掲げている「新宿国際劇場」の前に出ます(現在、解体中)。ここは「ムーラン・ルージュ」と「新宿座」の跡地です。そこを左折すると、新宿駅東南口の広場です。この場所は1980年代の末頃まで駅周辺の再開発から取り残され、「御大典記念碑」を囲むように闇市時代を偲ばせる安飲み屋や金券屋、さらには営業しているのか定かではないヌード劇場などが立ち並ぶ、「桜新道」と呼ばれるいかにも怪しげな一画でした。
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↑ 「御大典記念碑」と「桜新道」

内部に入らなくても、甲州街道の陸橋の上から見下ろせたので、ご存知の方もいらっしゃると思います。今では見違えるようにきれいになり、当時を知らない若者たちで賑わっています。こういう形で街の「浄化」「再開発」が進むのは、基本的には悪いことではないのでしょうが、一抹の寂しさも感じます。
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↑ 現在の「東南口」。
上の写真とほぼ同じ場所。

さて、甲州街道の陸橋を潜って、現在の新宿4丁目(旧:旭町、さらに以前は南町)に入りましょう。
ここは江戸時代には、天龍寺の門前町(寺社地)で、甲州街道とほぼ並行する玉川上水が流れる街でした。現在、甲州街道の陸橋の南側に沿うJRAの馬券売場前の道は、玉川上水に蓋をした道路で、「堀端通り」と呼ばれています。

明治通りを渡ったところに護本山天龍寺(曹洞宗)があります、その起源は、徳川家康の側室で2代将軍秀忠の生母、西郷局(於愛の方)の実家(戸塚氏)の菩提寺である遠江国西郷村(現:静岡県掛川市)の法泉寺です。家康が江戸に入府する際に、遠江国から現在の牛込納戸町・細工町付近に移され、同時に法泉寺の近くを流れていた天龍川にちなんで名を天龍寺と改めました。その後、天和3年(1683)の大火で焼失し、現在地に寺地12000坪、門前町5000坪という規模で移されました。江戸城の裏鬼門(坤=ひつじさる=南西)を守護する役割を担わされていたと言われています。

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↑ 天龍寺の山門。
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↑ 扉には徳川家の御紋(三つ葉葵)。

徳川将軍家所縁の寺の格式を感じさせる立派な山門は昭和の再建で、元は甲州街道に面し、その前には、玉川上水を渡る天竜寺橋がありました。橋の位置は、現在の甲州街道と明治通りの交差点のあたりになります。昭和の初め、明治通りが開設される際に境内の一部を削られ、山門を明治通りに面する形に建て直したものです。

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↑ 天龍寺の鐘。鋳造は多摩郡谷保村(現:国立市)の鋳物師「関孫兵衛」。

鐘楼の鐘は、明和4年(1767)に牧野備後守貞長(常陸笠間藩8万石)が奉納したもので、上野寛永寺、市ヶ谷八幡の鐘とともに「江戸三名鐘」と言われました。また天龍寺の鐘は、江戸に9カ所あった「時の鐘」のひとつで、内藤新宿に時を知らせる役目をもっていました。ただ、この地は江戸城からかなり遠いので、定時に鐘を打つと、登城する武士が遅刻しかねないので、少し(30分ほど?)早くついたそうです。そのあおりで、内藤新宿の旅籠屋で飯盛り女(実態は遊女)との夢を見ていた遊び人たちは、30分早く起こされることになり、そのため「追い出しの鐘」とも呼ばれたそうです。

ところで、天竜寺の門前町だった新宿南町は、明治20年(1887)の「宿屋営業取締規則」で木賃宿営業許可地域に指定されます。これは、東京中心部に近い所にあった「目障りな」細民街(芝新網町、上野万年町、下谷山伏町、四谷鮫ヶ橋など)を、より都市縁辺部に追い立てようとした明治政府の政策で、これがきっかけになり、南町は急速に貧民窟(スラム)化していきます。

木賃宿(きちんやど)とは、自炊、宿泊客が米などの食材を持ち込み、薪代相当の金銭(木賃)を払って料理してもらうのが原則の最下層の旅籠でしたが、明治以後は、単に安価で粗末な安宿を意味するようになります。近代化の中で東京や大阪などの大都市に流入したものの、定まった家を持てない貧困層の人々は、日々の泊り賃を払って木賃宿の狭い一室に長期滞在することになります。こうして木賃宿を核に、低賃金工場労働者、日雇い労働者・廃品回収業者(古物商・屑拾い)、遊芸人、失業者、無職困窮者(病者・身体障害者)、密淫売の街娼や女装の男娼、そして彼らの家族などが集積するという形で、スラム街が形成されていきました。

林芙美子の『新版 放浪記』(昭和21年=1946)には、大正12年(1923)頃、同棲相手に捨てられた20歳の芙美子が旭町の木賃宿に泊ったことが記されています。
「夜。新宿の旭町(あさひまち)の木賃宿へ泊った。石崖(いしがけ)の下の雪どけで、道が餡(あん)このようにこねこねしている通りの旅人宿に、一泊三十銭で私は泥のような体を横たえることが出来た。三畳の部屋に豆ランプのついた、まるで明治時代にだってありはしないような部屋の中に、明日の日の約束されていない私は、私を捨てた島の男へ、たよりにもならない長い手紙を書いてみた。」
「まるで明治時代にだってありはしないような部屋」の宿代は一泊30銭でした。当時の物価は、山手線の初乗りが5銭、ざるそばが8銭、うな重が50銭でしたから、30銭は1500円見当でしょうか。相当な安宿です。

その晩、芙美子は、「臨検」(警察による臨時の抜き打ち検査)に出会います。
「夜中になっても人が何時までもそうぞうしく出はいりをしている。『済みませんが……』そういって、ガタガタの障子をあけて、不意に銀杏返(いちょうがえ)しに結った女が、乱暴に私の薄い蒲団にもぐり込んで来た。すぐそのあとから、大きい足音がすると、帽子もかぶらない薄汚れた男が、細めに障子をあけて声をかけた。『オイ! お前、おきろ!』やがて、女が一言二言何かつぶやきながら、廊下へ出て行くと、パチンと頬を殴る音が続けざまに聞えていたが、やがてまた外は無気味な、汚水のような寞々(ばくばく)とした静かさになった。女の乱して行った部屋の空気が、仲々しずまらない。『今まで何をしていたのだ! 原籍は、どこへ行く、年は、両親は……』薄汚れた男が、また私の部屋へ這入って来て、鉛筆を嘗(な)めながら、私の枕元に立っているのだ。『お前はあの女と知合いか?』『いいえ、不意にはいって来たんですよ。』」

密淫売の取締りのため宿に立ち入ってきた刑事に危うく娼婦と間違われそうになるのですが。ようするに、そういう場所だったのです。

戦後の混乱期には、旭町を寝ぐらとする街娼たちが、新宿御苑沿いの道にズラリと立ち並んでいたそうです。高度経済成長期になっても、旭町は、山谷と並ぶ東京のドヤ街(ドヤは宿の転倒語)として知られていました。私が新宿の街を歩き始めた1990年代初め頃でも、冬の夜には労務者のオジさんがドラム缶たき火をしていたり、甲州街道のガード下にはあやしいお姐さんが立っていたり、とても「女の子」が入り込める状況ではありませんでした。

1963年の住宅地図を見ると、天竜寺の墓地の東側から南側の路地には、「小泉」「大和田支店」「第一相模屋」「第五相模屋」「大和田分店」「ま志ふく」「さがみ」「やまと」「花嶋館」「中田家」「すえひろ」など小さな旅館が軒を並べています。この内「第五相模屋」は昭和10年頃に作成された地図にも屋号が見え、木賃宿に起源を持っています。

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↑ 1963年頃の新宿4丁目(『新宿区 1963年度版』 住宅協会地図 1963年11月)。
小さな旅館(薄緑色)が集中している。

現在の新宿4丁目は、西半分が新宿駅新南口の再開発で見違えるようにきれいになって、ドヤ街だった面影はほとんどありません。しかし、東半分には、かってのドヤが姿を変えたビジネスホテルやウィークリー・マンションがいくつか残っています。先に名前を挙げた「旅館」の内、「さがみ」「中田家」「すえひろ」はなお健在です。

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↑ 右側が旧ドヤ街、左側が天龍寺の墓地、遠く代々木のドコモタワー(NTTドコモ代々木ビル)。
ちょっと、シュールな取り合わせ。

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↑ わずかに残るドヤ街の名残り「中田家」。
1階は普通の高さですが、2階に相当する部分の窓を見ると、2層になっているのがわかります。
玄関の料金表は「1泊 1800円 個室2200円」。

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↑ いかにも木賃宿っぽい名前の「相模屋」はユースホステルに。
昭和10年頃の地図には、この場所に「相模屋旅館」と記されている。

さて、天龍寺の門前から甲州街道と明治通りの交差点に出て、右手の道を新宿高校の方に進むと、すぐ右手に雷電稲荷神社の赤い鳥居が見えてきます。祭神は宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)ですが、鎮座の由緒は明らかでありません。ただ、地元には「源義家が奥州征伐にむかう途中雷雨にあい、この社殿で雨宿りをしていると、どこからか白狐が一疋あらわれてきて、義家の前まできて頭を三度下げた。するとたちまち雷鳴が止み空が晴れあがった」という話が伝わっているようです。

今ではほんの小さな社地(40坪)になってしまっていますが、江戸時代後期には、天龍寺の鎮守社として、境内で芝居興行が行われたくらいの広い社地(400坪)を持っていました。すぐ前を流れる玉川上水の土手は、春は桜、夏は蛍の名所で、雷電神社は参詣の人が絶えなかったそうです。

明治に神仏分離令以降は、新宿南町の総鎮守となりましたが、氏子圏である南町の貧民窟化によって町財政がひっ迫し、大正年間には、神社の維持管理が難しくなってしまいました。結局、10年近くのすったもんだの末、ついに昭和3年(1928)、まるで神社ごと身売りするかのように、社殿と社地の大半を売却し、花園神社に合祀されてしまいます。氏子が貧困化すると神様も没落してしまうという哀しいお話です。

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↑ 雷電稲荷神社の旧社地。
社殿は売られてしまっても、信仰は生きている。

今のお社は、その名残なのですが、昭和58年(1983)に安藤清春という方が80歳の記念に建立した立派な石の標柱が立ち、「平成二十二年初午」に寄進された赤い幟がはためき、信仰は今でも生きています。地元の人たちにとっては、今でもこここそが「雷電さま」なのでしょう。

それにしても、木賃宿地域への指定、門前町を真っ二つにする道路計画など、徳川将軍家所縁の寺に対する明治政府の意地悪が感じられるように思うのは、気のせいでしょうか。

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↑ 雷電稲荷神社の親子狐。

新宿グランドツアー【2】「三越裏」界隈 -モダン東京の新興の盛り場ー [新宿グランドツアー]

【2】 「三越裏」界隈 -モダン東京の新興の盛り場ー

現在の新宿駅には各ホームを結んでいるコンコースが3本ありますが、その真ん中の「中央通路」に直結する「中央東口改札」を出て、地上に出たところからほぼ真東に伸びる路地があります。入口に「武蔵野館」があるのが目印です。
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今でこそ人の流れから少し外れてしまっていますが、昭和戦前期、新宿の中心として栄えたのが、この路地を中軸にした「三越裏」界隈でした。「武蔵野館」(1919~)、「新宿帝国館」、「新宿劇場」、「新宿座」などの映画館や、ミュージカルやレビューを見せる「ムーラン・ルージュ」(1931~51)などの小劇場、ダンスホール、カフェなどが多くの人々を集めていました。

路地の左側に「新宿帝国館」が、右側に「武蔵野館」がありました。「武蔵野館」は、大正8年(1919)、現在の「三越」の場所に創業し、専属弁士の徳川夢声(1894~1971)が活弁を振るい、昭和3年(1928)年に現在地へ遷りました。

この路地を角筈停留所(紀伊国屋書店の前)からの道との交差点で南に折れて、2つ目の十字路の南西側に、「ムーラン・ルージュ」がありました。「ムーラン・ルージュ」は、パリ・モンマルトンの「本家」と同様に赤い風車(フランス語でムーラン・ルージュ)が目印で、左卜全(1894~1971)や益田喜頓(1909~93)が活躍していました。
「ムーラン・ルージュ」の場所は、現在の「新宿国際劇場」のあたりです。今のこの界隈には映画館街の面影はありませんが、「武蔵野館」だけはビルの中に健在です。

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↑ 現在の「武蔵野館」(黄色の看板)

また、「三越裏」には約40軒のカフェーが立ち並び、カフェー街を形成していました。「ミハト」「ツバメ」「ミカサ」「メロン」「シロクマ」・・・、こうして店名を並べてみると、現代の私たちには、むしろ古風にさえ感じさえしますが、これが当時はモダンな店名だったのです。
女給さんの数は新宿全体で2000人を数えるほどで、女給と喫茶ガールの群は新宿の名物のひとつでした。しかし、当時の文献には「銀座あたりのバー。喫茶店のヲンナの子とくらべて遥かに地味である」「流行のサンプルは銀座を歩いても新宿には決して現れない」と評されていて、ファッションセンス的には、まだまだ二流でした。でも、その分、林芙美子のように上京してきたばかりの田舎娘でも、女給になって都会生活の第一歩をスタートすることができたのです。

2「三越裏」7 織田一磨『画集新宿風景』新宿カフェー街(1930年)  (2).jpg
↑ 織田一磨『画集新宿風景』新宿カフェー街(1930年)

昭和4年(1929)のヒット曲「東京行進曲」(作詞:西條八十、作曲:中山晋平、歌:佐藤千夜子)は、1番銀座、2番丸の内、3番浅草の順で4番に新宿が歌われています。

シネマ見ましょうか お茶のみましょうか
いっそ小田急(おだきゅ)で 逃げましょうか
変る新宿 あの武蔵野の 月もデパートの 屋根に出る

かっての武蔵野がデパートを核とし、映画館と喫茶店、郊外電車に象徴される盛り場に変貌していった様子が巧みに歌われています。

その2年後の昭和6年(1931)の「東京ラプソディ」(作詞:門田ゆたか、作曲:古賀政男、歌:藤山一郎)でも、1番銀座、2番神田、3番浅草に続いて、新宿は4番で歌われています。

夜更けにひと時寄せて なまめく新宿駅の
あの娘(こ)はダンサーか ダンサーか 気にかかる あの指輪
楽し都 恋の都 夢の楽園(パラダイス)よ 花の東京

モダン東京の盛り場としては、まだ4番手、新興の、どこか性的な雰囲気が漂う二流の盛り場としての新宿の位置付けがよくわかります。

昭和20年(1945)5月25日のアメリカ軍による山の手大空襲で、新宿一帯は焼け野原になります。そして、8月15日の敗戦後、このエリアには典型的な焼け跡闇市が成立します。東口の高野や中村屋の周辺には尾津組の「竜宮マート」が、東口から南口にかけての線路際には和田組マーケットの露店が軒を連ねました。

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↑ 新宿駅東口~南口の闇市地図

闇市には、日本軍が本土決戦に備えて蓄積していた物資や、アメリカ進駐軍の物資が、なぜか(横流しされて)出回り、敗戦後の窮乏した社会の中で「お金さえあれば、なんでも手に入った」という不思議な空間が出現します。また食糧難の時代、闇市のシチュー(実は、進駐軍の残飯を煮込んだもの)が人々の空腹を満たし、エチルアルコールではなく、人体に有害なメチルアルコールが入った怪しげな密造酒を売る飲み屋が、酒好きの人たちを引きつけました。

焼け跡の露店街は、進駐軍の命令で昭和25年(1950)末までに強制的に立ち退かされ、姿を消しました。しかし、その系譜は、その後の新宿を語るに欠かせない地下水脈になっていきます。

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↑ 巨大な闇市「和田組マーケット」

夕暮れ時になると、東口から南口にかけて、闇市の周囲の街角には、戦災で保護者や生活の糧を失った女性たちが立ち始めます。そうした街娼たちも、次第に路上から屋内の「飲み屋」に拠点を移していき、旧カフェー街だった「三越裏」は、敗戦後、非合法買売春地区である「青線」化していきました。

そう言えば、このあたりには、1990年代中頃まで、怪しげなレストハウスが残っていました。あれ、なんでそんなこと知ってるんだろう・・・?

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↑ 「三越裏」界隈(今はもう「三越」はない)

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↑ こんな寂しい路地もある。

現在の「三越裏」界隈は、もう「三越」は無くなってしまいましたが、普通の飲食店街で、猥雑な感じはまったくありません。通り沿いには、ほとんど古いお店は見かけなくなりましたが、老舗の天麩羅屋「船橋屋」(明治末期の創業)と「つな八」(大正12年=1923創業)があり、漂ってくる胡麻油の香りが、お腹が空いているときにたまりません。

路地を右に折れて中央通りに出て少し行くと、明治通りに突きあたります。その直前の左手のビルには夕暮時になると、ニューハーフ・ショーハウスの看板が出ます。後でまたご案内しますが、ニューハーフ/女装系の店というのは、ゲイ系のお店と違って一カ所に集まってなく、普通の町並みの中に紛れるように、さりげなく存在しているのです。

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↑ ニューハーフ・ショーハウス「Guppy(グッピー)」の看板。

新宿グランドツアー【1】新宿駅東口広場 -ツアーをスタートする前にー [新宿グランドツアー]

新宿、性社会史グランドツアー

― 江戸から現代まで、ヘテロセクシュアル、ホモセクシュアル、トランスジェンダーが織りなす新宿の歴史地理―

    案内人:三橋 順子 
 
【1】新宿駅東口広場 -ツアーをスタートする前にー

(1)新宿駅の立地と歴史

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今日は、「江戸から現代まで、ヘテロセクシュアル、ホモセクシュアル、トランスジェンダーが織りなす新宿の歴史地理、新宿、性社会史ツアー」にご参加くださり、ありがとうございます。私が案内人の三橋順子です。よろしくお願いいたします。

皆さんが今、降りてこられた新宿駅は、明治18年(1885)、日本鉄道品川線(品川~赤羽:現在のJR山手線の原型)が開通するにともなって設置されました。明治5年(1872)に、新橋~横浜間に日本最初の鉄道が開通してから13年後のことでした。

駅の場所は、宿場町(内藤新宿)の西の外れの「追分」から、さらに西に行った所で、地籍は内藤新宿を外れて、豊多摩郡角筈(つのはず)村でした。つまり、新宿駅は、厳密には新宿ではなく「角筈の停車場」だったのです。

開業当時、駅の周辺には民家は1軒もなく、ほとんど畑地と欅(けやき)の森でした。宿場町の中心から約1kmも離れていて不便だったため、乗降客は1日に50人程度でいたって少なく、もっぱら貨物中心の駅でした。現在の新宿駅の平均乗降者数は、346万人で日本一、いや世界一です。この130年間の新宿駅の大発展が、どれだけすさまじいものであったかがわかります。

当時の新宿駅で取り扱っていた貨物は、材木、薪炭が中心で、あとは野菜や米などでした。駅の周辺には、貨車から下ろされた材木や炭を扱う問屋が何軒か立っていました。現在、東口の新宿通り沿いにビルを構える「紀伊国屋書店」も、材木商→薪炭問屋→書店という来歴をもっています。

さて、その後の新宿駅ですが、明治22年(1889)、甲武鉄道が新宿から八王子までの路線(現:JR中央線)を開通しますと、新宿駅は2線が接続する乗換駅になります。

明治36年(1903)には、東京市電の新宿駅前~月島通八丁目(後の都電11系統)と新宿駅前~岩本町(後に両国駅前まで延伸して都電12系統)の2路線が新宿駅東口に乗り入れます。さらに角筈~万世橋(後に水天宮前まで延伸して都電13系統)が加わります。

大正期になると、私鉄の新宿乗り入れが始まります。まず、大正4年(1915)に京王電気軌道(起点は八王子。現:京王電鉄)が南口の甲州街道上に、大正12年(1923)には帝国電灯西武軌道線(起点は荻窪。後の都電14系統杉並線。1963年廃止)が東口に、そして昭和2年(1927)には小田原急行鉄道(起点は小田原。現:小田急電鉄)が西口に、それぞれ新宿駅を開業します。

大正12年9月の関東大震災後、被害が大きかった都心部から武蔵野・多摩地域(郡部)へ移り住む人たちが増え、東京の市街は西へ発展していきますが、これらの私鉄路線は、そうした郊外の人たちの都心への足になり、新宿駅が東京西郊のターミナルとして発展する契機となりました。

戦後になると、まず、昭和27年(1952)に、西武鉄道新宿線が高田馬場から延伸して、歌舞伎町に西武新宿駅を設置します。西武鉄道としては、新宿駅東口に直接乗り入れたかったのでしょうが、すでに新宿駅の東側には余地がありませんでした。

昭和34年(1959)には、新宿で最初の地下鉄、営団地下鉄(現:東京メトロ)丸ノ内線が開通しました。すこし間を置いて、昭和55年(1980)に都営地下鉄新宿線(京王線と相互乗り入れ)、平成9年(1997)に都営地下鉄大江戸線と続き、そして、平成20年(2008)には東京メトロ副都心線が開通し、新宿は地下鉄網でもターミナルになります。丸ノ内線、新宿線には新宿駅と並んで新宿三丁目駅も設けられました(副都心線は新宿三丁目駅だけ)。JR新宿駅と地下鉄駅を結ぶ形で、新宿の地下道・地下街は充実していきます。

ところで、新宿の歴史地理を考えるには、留意しなければならないことが2つあります。

1つは、今まで新宿駅のことを述べてきたことと矛盾しますが、新宿の歴史地理は、新宿駅を中心の考えてはいけないということです。先ほど述べたように、新宿駅は、もともと宿場町のド外れです。本来の地理感覚は、今の地理感覚とはまったく逆で、お江戸の中心部→四谷大木戸→内藤新宿(新宿1丁目・2丁目)→新宿追分(新宿3丁目)→新宿駅(現在は新宿3丁目ですが、本来は角筈村)という感覚でした。ですから、この「新宿性社会史ツアー」も、ほんとうはJR四谷駅から歩き始めると、本来の地理感覚に近くなるのですが・・・まあ仕方ないでしょう。

2つ目の留意点は、新宿の歴史地理を考える基本線は、江戸城半蔵門と宿場町内藤新宿、さらに新宿駅を直結して、ほぼ東西に走る「新宿通り」だということです。現在、都心部と新宿とを結ぶ幹線としては、「新宿通り」の北を並走している「靖国通り」(都道302号線)がよく知られていますが、昭和8年(1933)に一部が拡幅されるまでは、細い裏道に過ぎず、内藤新宿のあたりでは「北裏通り」と呼ばれていました。全面的に拡幅されて、今のような幹線道路になったのは戦後になってからのことです。「新宿通り」は追分までは甲州街道(国道20号線)、そこから先、新宿駅前までは「青梅街道」(都道4号線)で、この道筋こそが、新宿の歴史と深く結びついているのです。

この2つの留意点を頭に置いて、さあ、出発しましょう。

(2)新宿駅の向き

今日の集合地点、今、私たちがいる「アルタ」前の広場は、「新宿駅東口広場」ということになっています。振り返って新宿駅を見ていただいて、駅の向きに注意してみてください。ちょっと変ではありませんか?

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↑ 現在のJR新宿駅「東口」

今、私たちが出てきたのは、線路に沿って横に長~い駅ビルの短かい方の辺、一般の建物だと間口ではなくて、妻(つま)側(箱型構造物の狭い方の側面)なのです。方角でいうと北側です。思い出していただきたいのですが、皆さん、いちばん大きな改札口(東口改札)を出た後、まっすぐ正面に進まずに左方向に行きましたね。そしてここに出てきました。つまり、今、私たちがいるのは、南北に細長い新宿駅の北東隅なのです。東口と言うよりも「東北口」と言うべき場所なのです。

新宿駅の駅舎は、開業当初は、角筈の原っぱの中にある小屋(初代駅舎)で、次いで明治38年(1905)に宿場町(内藤新宿)に比較的近い甲州街道口(現在の南口)に、左右に三角屋根があるこ洒落た駅舎ができました(二代目駅舎)。それが大正14年(1925)に東口に移され新築されます(三代目駅舎)。この駅舎は、車が青梅街道(新宿通り)に出る便を考えて北向き(北正面)に造られました。当然、車寄せも北側にありました。

昭和初期になると駅の東側の「三越」「伊勢丹」などのデパートが立地する追分や、映画館やカフェーが連なる「三越裏」界隈が賑わうようになり、大勢の人が、駅を出ると新宿通りを東へ、あるいは一度南に戻ってから武蔵野館の通りを東へ歩いていきました。しかし、今、歌舞伎町になっている地域(旧:角筈1丁目)には、戦前は東京府立第五高等女学校と大久保病院くらいしか施設はありませんでしたから、北東方面への人の流れとしては、住民、第五高女の生徒さん・教職員、大久保病院への見舞客・職員くらいで、今、見るような大勢の人の流れはありません。どうも人の流れからすると、駅があさっての方向を向いていた感じは否めません。

ちなみに、その頃の大久保方面への道筋は、あそこに見える三井住友銀行(現在、工事中)とみずほ銀行(旧・富士銀行)の間の細い路地でした。指形が彫られた石の道標があったので、「指差し横丁」と言われていました。

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↑ 大久保方面への旧道「指差し横丁」

ついでに、説明しておきますと、線路の向こうに「小田急デパート」が見えていますが、あそこが西口です。新宿駅に西口が設けられたのは、けっこう後で、大正12年(1923)のことです。正確に言うと、「青梅街道口新宿駅」と言って、品川方面から着た電車は、甲州街道口の新宿駅に停まった後、青梅街道口新宿駅に停まりました。関西の近鉄橿原線(奈良県)に大和八木駅と八木西口駅というのが隣り合ってありますが、あれに似ています。あっ、これ以上は鉄分が濃くなり過ぎるので止めておきましょう。

西口の商業地化が進むのは、明治31年(1898)以来、西口の土地の大部分を占めていた淀橋浄水場が昭和40年(1965年)に東村山に移転して、その濾過池の跡が再開発されて以後のことです。西口に林立する超高層ビルの最初である「京王プラザホテル」(地上47階地下3階、高さ171m)が完成したのは、昭和46年(1971年)のことでした。

(南方向に移動しながら)

さて、話を東口に戻しますが、東京オリンピックを前に、新宿駅は大改造され、昭和39年(1964)現在のステーション・ビル(マイシティ)がオープンします(4代目駅舎)。新しい駅ビルは、線路に沿って南に長く延びる東向きに建てられ、東側に玄関(車寄せ)が作られました。それまでの正面だった青梅街道(新宿通り)に向いた出口は脇出口に格下げになりました。

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↑ 本当は、こちら側が新宿駅の正面

はい、ここまで来ると、新宿駅ビルの長い側、間口の側が見渡せます。こちら側が現在の新宿駅の正面です。車寄せがちゃんとありますね(白い庇があるあたり)。

ところが、皮肉なことに、駅ビルが東を向いた1960年代中頃から、人の流れが東から北へと変わってきます。1950年代に生まれた歌舞伎町が新宿の中心的な盛り場に成長し、駅「東北口」からモア街(戦前の「駅前新道)、そして「コマ劇場」に突き当たるセントラルロードが人の流れの中心になっていきます。

現在の新宿駅を見ると、駅の脇(北側)に出る人の流れが圧倒的で、駅正面(東側)ははっきり言って寂れています。どうも新宿駅は人の流れを読むのが苦手のようです。その遠因を、明治の昔、この駅が人ではなく貨物中心の駅として出発したことに求めるのは、考えすぎでしょうか。


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