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2012年06月13日 石山寺縁起絵巻を読む(逢坂山を行く人々) [石山寺縁起絵巻]

2012年06月13日 石山寺縁起絵巻を読む(逢坂山を行く人々)

6月13日(水)  曇り 東京 21.0度  湿度59%(15時)

8時、起床。
朝食は、ソーセージパンとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
白・黒・グレーの不思議な柄のチュニック(5分袖)、裾にラインストーンが入った黒のレギンス(6分)、黒網のストッキング、黒のサンダル、黒のトートバッグ。

9時50分、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。
少し手間取り、乗るべき電車を逃す。

10時40分(10分遅刻)、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
前回に続いて巻5第1段の絵解き。

天治年間(1124~25 崇徳天皇代、鳥羽院政期)、式部少輔藤原国親(北家真夏流)の妻が石山寺に参籠して、夢中に示現した観世音菩薩から「利生宝珠」を授り、京に戻ろうと逢坂山を西に急ぐ場面。
石山5-1-10.JPG
逢坂山の「関の明神」(赤い鳥居の脚が見える)の前にさしかった国親の妻の一行。
観世音菩薩から授かった「利生宝珠」を捧げた国親の妻を先頭に2人の侍女と従者(男)が従う。
当然のことながら、一行の服装は前の場面(石山寺の門に向かう場面)と同じ。
石山5-1-11.JPG
従者の男が振り向いた視線の先には、「関に清水」(板葺の覆屋)の前で僧侶が柄杓を差し出している。
しかし、帰宅を急ぐ国親の妻は見向きもしない。
石山5-1-12.JPG
「関の清水」を北側からみると・・・(巻3の第2段)。
石山3-2-2.jpg

国親の妻の一行の後方(近江側)に見える、米を運ぶ荷駄の一行。
石山5-1-13.JPG
京に向かっている。
黒馬の口には籠状の口枷。
馬方が黒馬の背に乗せた俵から米を抜き取っている。
明かな荷抜き行為で窃盗である。
しかし、前近代においては、こうした荷抜き行為は、一定の範囲(例えば1割とか)なら低賃金の輸送業者の「余禄」として許されていた(荷抜き慣行)。
依頼主も、承知の上だったと思われる。

国親の妻の先には、京の方面から騎馬の一団がやってくる。
石山5-1-14.JPG5人が馬に乗っているが、藁製の下鞍に粗末な木鞍で、本来、乗馬用とは思えない。
あるいは、荷駄の一行が運送業務を終えた帰り道だろうか。
なにやらなごやかな雰囲気なのは仕事帰りためか。
いわゆる「馬借(ばしゃく)」と呼ばれた人々か。

先頭の男は長い棒にまとめた縄を括りつけている。
石山5-1-15.JPG
次の男は、同じ長い棒に二匹の大きな魚(鯉?)を括りつけている。
棒に刺しているという解説(小松茂美氏)もあるが、一本の棒でこの形で魚を刺すのは不可能。
またこの棒は漁具の突き棒(やす)で男は漁夫であるという説明もあるが、この程度の鋭利さでは「やす」として役に立たないので無理がある。

この長い棒は、やはり運送に関係するものではないだろうか。
荷縄と対になっていることが、その証だと思う。

なお、2番目の男が乗る馬の尻尾は一回結わえられている。
長すぎて地面を掃くからだろうか。

3番目の男は、長い棒を弓に見立てて、頭上の獲物(鳥)を狙う仕草をしている。
その様子を2番目の男が振りかえって笑っている。

4番目は少年、やはり3番目の男の仕草に釣られて上を見ている。
やはり荷縄と笠を括りつけた長い棒を持っている。
鞍の後ろに小さな俵を載せている。
石山5-1-16.JPG
5番目の少年は、一行にやや遅れ気味で、馬を走らせている。
短衣の柄は白地に飛翔する鶴を染め出し、なかなかおしゃれだ。
石山5-1-17.JPG
4・5番目の2人の少年の姿は、少年の労働参加(見習い労働)という点で興味深い。

12時10分、終了。

2012年05月09日 石山寺縁起絵巻を読む(門の下の巫女) [石山寺縁起絵巻]

2012年05月09日 石山寺縁起絵巻を読む(門の下の巫女)

5月9日(水)  曇りのち雨 東京 22.4度  湿度63%(15時)

8時、起床。
朝食は、ソーセージパンとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
紺地に紫の大きな花柄のカシュクールのチュニック、裾にラインストーンが入った黒のレギンス(6分)、黒網のストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。

9時40分、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。

10時半、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
前回に続いて巻5第1段の絵解き。

天治年間(1124~25 崇徳天皇代、鳥羽院政期)、式部少輔藤原国親(北家真夏流)の妻が石山寺に参籠して、夢中に示現した観世音菩薩から「利生宝珠」を授かった翌朝の場面。

石山寺を後にする国親の妻の一行。
石山5-1-6.JPG
観世音菩薩から授かった「利生宝珠」を捧げた国親の妻を先頭に2人の侍女と従者(男)が従う。
石山5-1-7.JPG
「利生宝珠」は大きめのリンゴくらいの大きさか。
国親の妻は、濃暗紫の掛け帯をかけた薄暗紫の袿(うちき)を紐でからげてたくし上げ、足元は白い脚絆に草履、市女笠をかぶった旅装束。
薄い黄色に赤と緑の格子柄の袿に赤い掛け帯をかけた侍女は、主人と同様に袿を紐でからげてたくし上げ、脚絆、草履、市女笠の旅装束。
しかし、赤い衣を被いでいる侍女は、緑の衣の裾をたくし上げず、左手で褄を取って歩いている。
裾の後ろ側は地面を履いている。
従者の男は三つ鱗の柄の赤褐色の衣の上下に藍色の脚絆、左に腰刀を差している。
右腰の籠状のものは魚籠(びく)か?

一行の行く手に石山寺の門。
八脚門だが、内側(境内側)の左右にも像がまつられているので、仁王門ではなく四天王門と思われる。
石山5-1-8.JPG
おや? 門の下に人がいる。
拡大してみると・・・。
石山5-1-9.JPG
市女笠を深々と被り、樺色に華麗な花模様の袿を着た女性?が門の通路に座っている。
鹿皮の敷物の上に座り、大きな鼓を膝に乗せて、右手で叩いている。
巫女だろうか?

「女性?」と書いたのは手がやけに大きいのが気になるから。
女装した男性巫人(ぢしゃ=持者)の可能性も皆無ではないので。

このような寺の門の下にいる巫女?の類例は、ほぼ同時代の『天狗草紙絵巻』(永仁4年=1296)の東寺の場面に見える。
(カラー図版が手元に無いので『日本常民生活絵引』から)
石山5-1-18.JPG
こちらは門の間口に外を向いて鼓を持った巫女?が座り、周囲に3人の男がいる。
男たちの様子は、巫女?が鼓に合わせて語る(あるいは唄う)物語を聴いているように見える。
石山5-1-19.JPG
中世社会の女性宗教者&芸能者である巫女の実態については、わからない部分が多い。
私は、そうした人たちの中に、女装の男性巫人が混じっていると推測しているので、どうしても興味を引かれてしまう。

12時、終了。

2012年04月11日 石山寺縁起絵巻を読む(観世音菩薩から利生宝珠を授かる) [石山寺縁起絵巻]

2012年04月11日 石山寺縁起絵巻を読む(観世音菩薩から利生宝珠を授かる)
4月11日(水)  曇り  東京 18.3度  湿度64%(15時)

8時20分、起床。
朝食は、ソーセージパンとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
黒地に紫・群青・水色・茶色の大小の長楕円がたくさんある変な柄のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。
黒のカシミアのショールを羽織る。

9時40分、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。

10時半、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
前回、詞書を読んだ巻5第1段の絵解き。
天治年間(1124~25 崇徳天皇代、鳥羽院政期)、式部少輔藤原国親(北家真夏流)の妻が石山寺に参籠して、夢中に示現した観世音菩薩から「利生宝珠」を授かる場面。
石山5-1-1.JPG
石山寺の観音堂。赤い格子の奥(左)が観世音菩薩が奉られている本堂。
人々が参籠している礼堂は広い板敷。
須弥壇の正面、吊り灯籠の明かりの下、浜松を描いた屏風を二方に巡らして藤原国親の妻の座としている。
侍女二人が付き添っている。
後方には、畳を置いて、老人や僧が参籠している。
石山5-1-2.JPG妻は、石山寺に参籠して七日七夜、三千三百三十三度、必死の思いで祈った末、疲労困憊して臥している。
すると、夢中に如意輪観世音菩薩が示現して、不思議な色の珠を渡される。
石山5-1-3.JPG
左手の乗せた「利生宝珠」を差し出す観世音菩薩。
菩薩の姿としては『石山寺縁起絵巻』では巻5にして初登場。
今までは、示現しても、すべて黒衣の老僧の姿だった。
石山寺の本尊は二臂の如意輪観音だが、それを示す特徴は見られない。
「利生宝珠」も詞書では不思議な色ということになっているが、普通に金色で表現されている。
石山5-1-4.JPG
女は、左手に数珠を持ち疲労で倒れ伏したまま、顔を横向きにしてうつ伏せで眠っている。
長く豊かな髪が右腕の下の敷きこまれている。
背中の濃い紫のラインは襷。
襷を掛けることは、この時代、女性が神仏の詣で祈るときの形であったらしい。
浜松の風景を描いた大和絵の見事な屏風は、寺の備品で貸し出されたものか? 
それとも参籠者が持ちこむものなのか?
石山5-1-5.JPG
格子柄の着物の侍女は、頬肘をついて、横向きで眠っている。
もう一人、若い侍女は、起きて座っているが、観音の出現には気づいていない。

観世音菩薩は、古来から女性の信仰を集めたが、とくに洛東の清水寺、近江の石山寺、そしてやや遠くなるが大和の長谷寺は、貴族の女性もしばしば参籠した。
この場面は、そうした貴族女性の観音信仰の典型的な姿を描いている。

12時、終了。


2012年03月14日 石山寺縁起絵巻を読む(観音の利生宝珠の霊験譚) [石山寺縁起絵巻]

2012年03月14日 石山寺縁起絵巻を読む(観音の利生宝珠の霊験譚)

3月14日(水)  晴れ 東京 10.4度  湿度36%(15時)

8時、起床。
朝食は、アップルデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
黒地に紫・群青・水色・茶色の大小の長楕円がたくさんある変な柄のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒の厚手のストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。
ボア襟の黒のカシミアのポンチョ。

毎年、この時期は、花粉症が出て肌が荒れるのだが、今年は不思議とほとんど症状がなく、化粧の乗りも良い。

9時45分、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。

10時半、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻4の室町時代の補作部分は飛ばして(第1段の紫式部が石山寺で『源氏物語』執筆の着想を得た場面だけは前回解説済)、巻5に入る。

巻5は、巻1、2、3と同様の鎌倉時代末期の制作と思われる。
以前は、少し時代が下る南北朝期の制作とする説もあったが、画風・書風とも巻1~3と比べて違和感はなく、同時期と考えてよい。

巻5第一段の長い詞書を読む。
天治年間(1124~25 崇徳天皇代、鳥羽院政期)に式部少輔藤原国親(北家真夏流)という文人貴族がいた。
夫婦は子もなく暮らしていたが、ついに離縁になる。

悲しんだ妻は、石山寺に参籠し七日七夜、三千三百三十三度、必死の思いで祈る。
すると、疲労困憊して臥した夢の中に如意輪観世音菩薩が示現して、不思議な色の珠を渡される。
夢から覚めてみると手の中に宝珠があった。
女は授かった宝珠を大切にして家に帰ると、すぐに夫とも復縁し、一家は富裕になり、子孫も繁栄する。

その宝珠は鳥羽上皇の手に渡り、院に「叡慮」「ことごとく成就」する聖運をもたらす。

さらに、代々低迷している藤原邦綱(北家良門流、堤中納言兼輔の末)という男の手に移って、彼を異例の大出世(正二位権大納言)に導く。

すべて石山寺の観世音菩薩の「利生宝珠」の威徳であるという。

典型的な観世音菩薩の現世利益的な霊験譚だが、元になるが説話がわからない。
これだけ露骨に霊験を賛美しているところからすると、あるいは、石山寺のオリジナルだろうか?

今日は、絵に入れなかったが、この段は石山寺縁起絵巻の中でも有数の豊富な内容を持つので、絵解きが楽しみ。

12時、終了。



2012年02月08日 石山寺縁起絵巻を読む(『源氏物語』の執筆事情) [石山寺縁起絵巻]

2012年02月08日 石山寺縁起絵巻を読む(『源氏物語』の執筆事情)

2月8日(水) 曇り  東京 9.9度 湿度 39%(15時)

8時20分、起床。
朝食は、アップルデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
黒地に白で抽象柄のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、厚手のストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。
ボア襟の黒のカシミアのポンチョを羽織る。

9時45分、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。

10時半、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻4の第1段、紫式部が石山寺で『源氏物語』執筆の着想を得た場面の絵解。
巻4はオリジナルではなく、室町時代の明応6年(1497)の補作。
石山4-1-2.JPG
↑ 石山寺観音堂の局からはるか遠く琵琶湖の湖水に映る月影を眺めて『源氏物語』の着想を得る紫式部。
石山4-1-1.JPG
↑ 絵は室町時代中期の大和絵の名手土佐光信。

巻4第1段の詞書には、「右少弁藤原為時の娘、上東門院(藤原彰子、一条天皇の中宮、藤原道長の長女)の女房であった紫式部が、大斎院選子内親王(村上天皇の皇女、一条天皇の叔母)に差し上げるために、女院から物語の創作を下命され、その成就を祈願するため石山寺に七日間参籠した。八月十五日の夜、湖水に映った月影を眺めているうちに心澄みわたり、物語の着想を得て、観音堂の内陣にあった大般若経の料紙に書き止めた」という話が載っている。

そして紫式部が参籠した場所が「源氏の間」として、式部が大般若経の料紙を借用したことの罪障懺悔のために奉納した大般若経が今(明応6年)に現存すると述べる。
さらに「紫式部・観音化身説」にまで言及する。

「源氏の間」は、現在でも石山寺の観音堂と礼堂の「合の間」の東端にあり、もっともらしく執筆中の紫式部の像が飾られている。
石山4-1-3.jpg
↑ 後ろにいるのは侍女?それとも娘(後の大弐三位)?

なので、紫式部がここ石山寺で『源氏物語』を執筆したと信じている人はけっこういる。
しかし、ここから見えるのは石山寺の寺名の起源になった珪灰石(石灰岩が高温で変成した珍しい岩石で、国の天然記念物)の露頭だけで、琵琶湖の湖面はもちろん瀬田川の流れすらまったく見えない。
石山0-2.jpg
観音堂のある面から二段上って多宝塔のある高台に出て、さらに北東に歩き、月見亭があるあたりまで行って、やっとはるかに琵琶湖の湖面を望むことができる。
4-1-5.jpg

紫式部が石山寺の観音堂に参籠し湖水を眺めて着想を得たという話は、いろいろ調べたところ『絵巻』の詞書が初見のようで、どうも石山寺関係者の創作のように思われる。
つまり、限りなく信じがたい。

ただし、前段の「大斎院選子内親王に差し上げるために、上東門院から物語の創作を下命され」という話には、先行する説話がある。

『古本説話集』(第9 伊勢大輔の歌の事)
いまは昔、紫式部、上東門院に歌読みいふ(優)のものにてさぶらふに、大斎院より春つ方、
「つれづれにさぶらふに、さりぬべき物語やさぶらふ」
とたづね申させ給ければ、御そうし(草子)どもとりいださせ給て、
「いづれをかまいらすべき」
など、えり(選り)いださせ給に、紫式部、
「みなめなれ(目馴れ)てさぶらふに、あたらしくつくりて、まいらせさせ給へかし」
と申しければ、
「さらばつくれかし」
とおほせられければ、源氏はつくりて、まいらせたりけるとぞ。

『古本説話集』の成立は平安時代の末期で、さらに大治年間(1126~31)とする説がある。
『絵巻』の詞書の前段は、この説話をもとに書かれているのは、まず間違いないだろう。

同様の説話は、藤原俊成の娘の執筆とされる『無名草子』(建久7~建仁2年=1196~1202頃の成立)にも見える。

繰り言のやうには侍れど、つきもせず、羨ましくめでたく侍るは、大斎院より上東門院(へ)、
「つれづれ慰みぬべき物語やさぶらふ」
と、尋ね参らせ給へりけるに、紫式部を召して、
「何をか参らすべき」
と仰せられければ、
「めづらしきものは何か侍るべき。新しく作りて参らせたまへかし」
と申しければ、
「作れ」
と仰せられけるを承りて、『源氏』を作りたりけるとこそ、いみじくめでたく侍れ。

大斎院選子内親王から中宮彰子へ「退屈を慰められるような物語はありませんか」と、尋ねてきたので、中宮は紫式部を召して「何を差し上げたらよいかしら」と問うた。式部は「珍しいものはございません。新しく作って差し上げなさいまし」と返事をした。そこで中宮が「ではお前が作りなさい」とおっしゃって、式部が承って『源氏物語』を作った、という話の流れは、まったく同じ。

紫式部による『源氏物語』執筆事情として、平安時代末期~鎌倉時代初期に広く流布していた話のようだ。

ところが、『無名草子』はこの話を紹介した後で、次のように言っている。

また、いまだ宮仕へもせで里に侍りける折、かかるもの(源氏物語)作り出でたりけるによりて、召し出でられて、それゆゑ紫式部といふ名はつけたり、とも申すは、いづれかまことにて侍らむ。

式部が、まだ宮仕えをする前、自分の里にいるときに『源氏物語』を執筆して、(それが評判になり、藤原道長から声がかかり、道長の娘の彰子の女房として)召し出され、そのために紫式部という名が付けられた、という話(と先の話は矛盾するじゃないですか、)どちらが本当なのかしら。

つまり、『源氏物語』執筆事情(時期)については、平安時代末期~鎌倉時代初期にすでに両説あったのだ。

『源氏物語』執筆の可能性がある時期の紫式部のライフステージを整理すると、次のようになる。

(1)藤原宣孝との結婚時代(長徳4~長保3年4月25日 998~1002年)
(2)宣孝に死別後、宮仕えまで(長保3年4月25日~寛弘2年12月29日 1002~1005年)
(3)中宮彰子付きの女房として出仕後(寛弘3年正月~5年 1006~1008年)

(1) の結婚生活の時期の執筆は執筆の動機という点でちょっとイメージしにくい。
執筆動機という点からしても「いまだ宮仕へもせで里に侍りける折」というのはおそらく(2)の時期を指しているのだろう。

(3) については、もう少し詰められる可能性がある。
『古本説話集』は『源氏物語』執筆の事情の後に、紫式部が伊勢大輔に興福寺から贈られて来た桜の取り入れ役を譲る話を載せている。
譲られた伊勢大輔は「いにしへの ならのみやこの やへさくら(八重桜) けふ(今日)ここのへ(九重=宮中)に にほひぬるかな」という名歌を詠むのだが、伊勢大輔の出仕時期から、それは寛弘4年(1007)3月のことだった。

つまり、その前に記されている大斎院からの要請は、寛弘3年(1006)の春のだった可能性が高い。

一方、執筆開始の下限は、寛弘5年(1008)11月1日の夜、左衛門督(従二位中納言)藤原公任が「このわたりに、わか紫やさぶらふ」と言いながら式部の局のあたりを徘徊していたことが『紫式部日記』に記されていて、すでに『源氏物語』(正確には「若紫」の巻の部分)が貴族社会で評判になっていたことがわかる。

また、同じ頃、中宮の御前では『源氏物語』の製本作業が行われており、式部が局に置いておいた草稿を道長が無断で持ち出すということが起こっている(『紫式部日記』)。

これらのことから、寛弘5年(1008)の秋には、現在に伝わる『源氏物語』の全部ではないにしろ、かなりの分量が執筆されていたと推測できる。

ということで、出仕後の執筆という説に立てば、『源氏物語』は寛弘3年春から5年秋(1006~1008)に書かれたことになる(注)。

しかし、それは現在の『源氏物語』のすべてではなく、その後も書き継がれていったのだろう。
また、その一部や原型になる物語は、式部が出仕する前の里居時代に書き始められていたかもしれない。

つまり、『無名草子』が語る里居時代執筆説と出仕後執筆説は、必ずしも矛盾せず、どちらも成り立つと思われる。

そんな話をする。

12時、終了。

(続く)

(注) 『源氏物語』の執筆区分については、諸説あるが私は武田宗俊『源氏物語の研究』(岩波書店、1954年)に従って次のように考えている。

(1)メイン・ストーリー(紫上系) 
(1)「桐壺」、(5)「若紫」、(7)「紅葉賀」、(8)「花宴」、(9)「葵」、(10)「賢木」、(11)「花散里」、(12)「須磨」、(13)「明石」、(14)「澪標」、(17)「絵合」、(18)「松風」、(19)「薄雲」、(20)「朝顔」、(21)「少女」、(32)「梅枝」、(33)「藤裏葉」

寛弘3~5年に紫式部が執筆。

(2)サイド・ストーリー(外伝・玉蔓系)
(2)「帚木」、(3)「空蝉」、(4)「夕顔」、(6)「末摘花」、(15)「蓬生」、(16)「関屋」、(22)「玉鬘」、(23)「初音」、(24)「胡蝶」、(25)「螢」、(26)「常夏」、(27)「篝火」、(28)「野分」、(29)「行幸」、(30)「藤袴」、(31)「真木柱」 

寛弘6年以降、紫式部が執筆?

(3)後日譚 
(34)「若菜」~(41)「雲隠」

寛弘末年~長和2年に、紫式部が執筆か?
ただし、紫式部は長和3年(1014)に亡くなったと思われるので、そんなに執筆時間はない。

(4)続編 
(42)「匂宮」、(43)「紅梅」、(44)「竹河」と「宇治十帖」

たぶん紫式部とは別人の執筆? 
娘の大弐三位執筆説が室町時代からある(一条兼良『花鳥余情』など)。
「匂宮」「紅梅」「竹河」の3巻は、本編と「宇治十帖」の繋ぎで、最終段階の執筆?

2011年12月14日 石山寺縁起絵巻を読む(菅原孝標女の石山詣) [石山寺縁起絵巻]

2011年12月14日 石山寺縁起絵巻を読む(菅原孝標女の石山詣)

12月14日(水) 朝方、雨のち曇り 東京 9.9度 湿度 55%(15時)
8時、起床。
朝食は、アプリコットデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
黒地に白で象徴柄のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。
ボア襟の黒のカシミアのポンチョを羽織る。

9時35分、家を出る。
雨は止んでいたが、寒い。
10時の東京の気温は6.5度、12時になっても7.9度。
(夕方から少し気温が上がり始め、9.9度という最高気温は夜22時代に記録)

駅前のコンビニで講義資料のコピー。

10時半、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻3の第3段、『更級日記』の作者として著名な菅原孝標の娘(寛弘5~康平2年以降 1008~1059以降)が寛徳2年(1045)11月に石山寺に参詣する場面。
ちなみに、孝標女は38歳。
最初のシーンは、初雪?の逢坂山の場面。
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やまと絵特有の柔らかな曲線で描かれる山並み、松の緑と雪の白の対比が美しい。
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孝標女が乗るのは牛車ではなく、4人の男が曳く輦車(てぐるま)。
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車の後に虫垂れ衣のついた市女笠を被り指貫袴姿の若い侍女が続く。
石山3-3-3.JPG
さらに、弓矢と長刀で武装した護衛が3人(騎馬2、徒歩1)。
男たちは、皆、蓑を着けて上に防寒している。
徒歩の護衛は藁帽子を被っている。

続いて、逢坂関の情景。
石山3-3-8.JPG
低い柵があるだけで、関守らしき男が1人。意外に簡易な施設。
近江方面から米を輸送する一行が通過する。
石山3-3-9.JPG
京の方からは狩りに出掛ける主従が通る。
奥に旅人のための井戸が見える。
石山3-3-10.JPG

逢坂関を過ぎると左手(北側に)雪をかぶった朱塗りの楼門が現れる。
石山3-3-6.JPG
中央公論社『日本の絵巻』の解説(小松茂美氏)は、朱塗りの楼門を石山寺とするが、孝標女は、娘時代(寛仁4年=1020、13歳)、父が受領(上総介)の任はてて上京する折に逢坂を通過した時、まだ未完成だった関寺がすっかり立派に出来あがっていることに感慨を覚えて歌を読むのだから、当然、描かれているのは関寺でなければならない。

そもそも、逢坂関との間には霞はなく、画面がつながっているのだから、石山寺のはずがない。
なんで、こんな当たり前のことを誤るのだろう?

2つ目のシーンは、石山寺観音堂に参籠した孝標女が見る夢の場面。
観音堂の外陣の局でまどろむ彼女の、几帳を分けて麝香の包を持った墨染の衣の手が差し出される。
石山3-3-11.JPG
内・外陣を隔てる格子の赤と、局を囲む簾の緑の対比が美しい。

ところで、麝香の包は厚さがなく、包と言うより厚紙のように見える。
麝香は、ジャコウジカの雄の腹部にある香嚢(ジャコウ腺)から得られる分泌物を乾燥した香料だが、どういう形なのだろう?
調べてみたら、乾燥したものは暗褐色の顆粒状とのことなので、薄い包でも問題はなさそう。

これで第3巻を読了。
12時、講義終了。

2011年11月09日 石山寺縁起絵巻を読む(菅原孝標女の石山詣・詞書の比較検討) [石山寺縁起絵巻]

2011年11月09日 石山寺縁起絵巻を読む(菅原孝標女の石山詣・詞書の比較検討)

11月9日(水)  曇り 東京 16.6度 湿度 42%(15時)

8時、起床。
朝食は、アップルデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
黒地に白で草花文?のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、黒のカシミアのショール。

9時45分、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。

10時半、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻3の第3段、『更級日記』の作者として著名な菅原孝標の娘(寛弘5~康平2年以降 1008~1059以降)の石山詣の場面に入る。

まず、絵巻の詞書を読む。
次いで、『更級日記』の該当箇所と比較する。

『更級日記』によれば、菅原孝標の娘は、少なくとも2回、石山寺に詣でている。
1度目は寛徳2年(1045)の冬で38歳の時。
娘時代(寛仁4年=1020、13歳)、父が受領(上総介)の任はてて上京する折に逢坂を通過した時のことを思い出す。

「關寺のいかめしう造られたるを見るにも、そのをり荒造りの御顔ばかり見られしをり思ひ出でられて、年月の過ぎにけるもいとあはれなり」

25年前に通った時にはまだ作りかけだった関寺の仏が、今は立派に完成しているのを見て、年月の経過をしみじみ感じて歌を詠む。

相坂の 關のせき風 吹く聲は むかし聞きしに かはらざりけり

そして、石山寺の観音堂に参籠し、夜中にまどろんだ時に夢を見る。

「おこなひさしてうちまどろみたる夢に、『中堂より麝香賜はりぬ。とくかしこへ告げよ』といふ人あるに、うち驚きたれば、夢なりけりと思ふに、よきことならむかしと思ひて、おこなひ明かす」

中堂から「御香」を賜ったという夢、吉夢と思い、夜明けまで参籠する。
中堂は本尊の如意輪観世音菩薩像がいる場所のことか? 絵巻の詞書は「内陣より」。

2度目は、その2年ほど後の永承2年(1047)頃の秋、40歳頃。
夜通し参籠していると、雨の音が聞こえる。
蔀戸(しとみ)を押し上げて外を見ると、雨の音と思ったのは谷川の水の音で、有明の月が谷の底まで照らしていた。

谷河の 流れは雨と きこゆれど ほかよりけなる 有明の月

『石山寺縁起絵巻』の詞書は、話の筋書きは『更科日記』と同じなので、詞書の書き手は明かに『更科日記』を読んでいる。
しかし、文章的には、そのままの文書は少なく、かなり改変している。
というか、あまり出来の良くない趣意文という感じ。

そして、なにより問題なのは、和歌の字句に異動があること。

最初の「相坂の…」は、
(更科)相坂の 關のせき風 吹く聲は むかし聞きしに かはらざりけり
(詞書)逢坂の 關の山風 吹くこゑは むかし聞きしに かはらざりけり

二つ目の「谷河の…」は、
(更科)谷河の 流れは雨と きこゆれど ほかよりけなる 有明の月
(詞書)谷河の 流れは雨と きこゆれど ほかより晴るる 有明の月

二つ目の歌は勅撰の『新拾遺和歌集』(貞治3年=1364)に入首しているが、第4句は『石山寺縁起絵巻』の詞書と同じ「ほかより晴るる」である。

つまり、「谷河の…」の歌には、「ほかより晴るる」の『石山寺縁起絵巻』(1324~1326年)と『新拾遺和歌集』(貞治3年=1364)の系統と、「ほかよりけなる」の現行本の『更科日記』の二系統があったことになる。

はたして、オリジナルはどちらだったのだろうか?
現存する『更科日記』の写本は、すべて藤原定家(1162~1241)が晩年に写した「御物本」といわれる写本の系統。
『更科日記』の歌を改変した人物がいたとすれば、それは定家の可能性が強い。

国文学の専門領域なので、これ以上は踏み込まない。

12時、講義終了。

2011年06月08日 石山寺縁起絵巻を読む(見物の人々) [石山寺縁起絵巻]

2011年06月08日 石山寺縁起絵巻を読む(見物の人々)

6月8日(水) 曇り  東京 22.7度  湿度68%(15時)

8時、起床。
朝食は、アップルデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
黒地に茶・白・薄黄色の花柄のロングチュニック(5分袖)を、黒のレギンス(3分)と合わせてミニ・ワンピース風に、黒網のストッキング、黒のサンダル、黒のトートバッグ。

9時半過ぎ、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。

10時半、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻3の第1段、正暦3年(992)2月29日の東三条院(藤原詮子、兼家の娘、道長の姉、一条天皇の母)の石山詣の場面の絵解き。

この段、13紙に及ぶ超ロング(横長)画面で、女院の行列の全容を描く。
石山3-1-4.JPG
↑ 8人もの車副を伴った女院の御車
檳榔毛(びろうげ)の屋形で、物見戸の部分が出窓になっている最高級の牛車。
後ろには雨衣を担いだ舎人が従う。

行列が通っているのは石山寺の山門に向かう瀬田川の西岸の道で、右(画面下側)に瀬田川、左手(画面上側)は山という自然が豊かな参詣路のはずなのに、画面には遠景の山も植物もまったく描かれない。

その代わり、東三条院の石山詣を見物する人々がたくさん描かれている。
今回は、脇役のはずの見物の人々に焦点を当てて分析。

まず、見物の人々を、集団ごとに分け、手前(行列の後尾)から番号をふる。
画面上側に1・2・3・5・6・8群、画面下側に4・7・9群。
石山3-1-22.JPG
↑ 第1群。いちばん多彩な人がいるグループ。
左端に杖を持ち裾短な僧衣の修行僧?、その隣は頭巾を載せているのは修験者か? 
その右の薄緑色の被衣(かつぎ)姿の人物は女性だろう。修験者の連れだろうか?
薄緑色の被衣は、修行僧と修験者の間の後方に見えている女性の衣と同じ色柄(共布)のように見える。
集団の前に出ている桜襲の袿?を細帯で縛り「藺げげ」(若い女性の履物)を履いた人物は、背後の薄墨の衣に黒い袈裟の老僧が鍾愛している女装の稚児だろう。その右にもう一人僧侶。
右端の5人は、父と息子(座っている)、母と娘2人の一家だろうか。
石山3-1-21.JPG
↑ 第2群。右側、老僧を挟んで向き合うのは童(少年)と女性?
緑の扇を口元にかざした立烏帽子姿の男性の前の二人の子供、左側(薄藍)は男の子のように思えるが、右側(濃藍)の子の性別は微妙。
中央の市女笠の女性の座り方に注目。
胡坐(あぐら)は江戸時代初期以前は女性もしばしば行っていた。
石山3-1-23.JPG
↑ 第3群。行列の近くに寄りすぎたのか、笞を振りかざす役人に追われる見物人。
坊主頭の子供が見える。
長い髪をなびかせて左手に逃げる橙色の花柄の水干姿の童(少年)。
それを追ううなじ髪の子の性別は?
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↑ 第4群。画面下側。
禿頭の老人に従う束髪の童(少年)。
その後ろの子供2人は、女院(上皇待遇)の行列を見送るにはあまりに行儀が悪いように思えるが・・・。
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↑ 第5群の右。
女性は市目笠を被っているか、着物を頭から被る被衣(かづき、かつぎ)姿。
画面中央は、父と娘?
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↑ 第5群の左。
立烏帽子姿の男性が父親で一家で見物だろうか。
ちなみに扇を顔の前にかざすのは、貴人(ここでは女院)を見る時の作法のようだ(直視しない)。
右前の娘の袿?は、第1群の女装の稚児と同じ色の桜襲。
石山3-1-27.JPG
↑ 第6群は横に長く延びる。まず右端。
何か揉め事か。
右側の束髪の男が中腰になって左手を伸ばして挑みかかる。
白衣の僧が片膝立てになり左手を腰刀にかける。
臙脂に黒の菱格子の男が両手を広げて間に入る。
何事かと駆け寄る僧侶、早くも逃げ出す子供。
女院の行列そっちのけの騒動。
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↑ 第6群の中央右。
騒ぎの方向に目を向ける一家。
従者が主人に報告している。
母親と思われる女性も市目笠を上げて注目。
この女性の座り方も胡坐。
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↑ 第6群の中央左。
このグループでは、右端の童(少年)を除いて騒動に気を取られている人はいない。
皆、女院の行列を注目している。
左端の坊主頭の男の子は上半身半裸。
扇を頭上にかざした僧に伴われた白衣の小さな男の子、将来は美しい稚児になるのかも。
右側前列の白い衣を被いでいる人物の性別は?
被衣は女性の習俗だが、太刀を帯びているので男性?
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↑ 第6群の左端。
右側前列で語り合う3人の子供は男の子か?
その内、左側の子は上半身半裸。
その左側、母親と乳母?の間に行儀よく坐っているのは女の子か?
とすると、男の子と女の子の髪型にはほとんど差はないことになり、ますます性別が判りにくくなる。
石山3-1-31.JPG
↑ 第7群。画面下側。
目の前を行き過ぎる女院の御車を合掌して見送る老尼。
しかし、その孫たちは?お行儀が良くない。
左端の子供は腹這いで頬杖。
行儀の悪い子供は第4群にも見られた。
この時代、子供は世間の礼儀の外にあったようだ。
成長の過程で礼儀を身に付け大人になっていく。
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↑ 第8群。東面する石山寺の山門の北側。
石山寺の山門の前では、橙色の華麗な袿?に「藺げげ」(若い女性の履物)を履いた女装の稚児が近づいてくる女院の御車を左手をかざして見ている。
後で長い数珠を持っているのは(顔が見えないが)、見物の場所からして石山寺に縁の深い身分のある僧侶だろう。
稚児の美麗な装いから師僧の寵愛の深さがうかがえる。
女装の稚児とその左側の男の子ちとは、それほどの年齢差はなさそうだが、ジェンダーの差は歴然としている。
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↑ 第9群。画面下側。当面する石山寺の山門の南側。
少し腰が曲がった老僧が水色の地に可憐な模様の水干姿の稚児の肩に手を置いている。
稚児はかなたを指さしながら「お師匠様、あれが女院様の御車?」とでも尋ねているのだろうか。
稚児の背に垂れた艶やかな黒髪が印象的。
長く美しい黒髪は稚児の「命」だったと思われる。
画面左端の朱色の水干の稚児は「藺げげ」(若い女性の履物)を履いている。

12時、講義終了。



2011年05月11日 石山寺縁起絵巻を読む(東三条院の石山詣) [石山寺縁起絵巻]

2011年05月11日 石山寺縁起絵巻を読む(東三条院の石山詣)

5月11日(水) 雨  東京 18.5度 湿度 83%(15時)

8時、起床。
3時間足らずの睡眠なので眠い・・・。
朝食は、アップルデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
ジラフ柄のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。

9時半過ぎ、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。
雨の日は、版下やコピーが濡れないように気を使う。

午前中、自由が丘で講義。

『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻3の第1段、正暦3年(992)2月29日の東三条院(藤原詮子、兼家の娘、道長の姉、一条天皇の母)の石山詣の場面の絵解き。
13紙に及ぶ超ロング(横長)画面で、女院の行列の全容を描く。

右手前から左奥に開いていく絵巻で長い行列を描く場合、2つのスタイルがある。
1つは、行列の末尾から描いていく方法。
手前に末尾、奥に先頭。
絵巻の読者の視点からすると、視線は行列と同じ方向に進む。
絵巻を開いていくにつれて、行列を後ろから追い抜いていくような見方になる。
そして、行列の先頭の先に目的地が描かれていれば、行列といっしょにそこに到達する感覚が味わえる。

もう1つは、行列の先頭から描いていく方法。
手前に先頭、奥に末尾。
絵巻の読者の視点からすると、視線は行列と逆方向に進む。
絵巻を開いていくにつれて、行列が眼前を行き過ぎていくような見方になる。
次は何が来るのかなという楽しみがが味わえる。

この東三条院の石山詣では前者のスタイル。
石山寺という明確な目的地があるわけで、このスタイルがふさわしい。
実際、行列の先頭は石山寺の山門に達している。
読者は東三条院のお供をして、いっしょに石山詣でをする感覚が味わえる。

後者のスタイルの例としては、『年中行事絵巻』(平安時代末期)の「賀茂祭」「祇園御霊会」「稲荷祭」などのような祭礼行列を描いたものがある。
これだと、都大路の道端にいて、目の前を賑やかな祭礼行列が通過する気分を味わえる。
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↑ 行列の末尾近くを行く立派な牛車。
乗っているのは、随行の内大臣藤原道兼(女院の弟)。
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↑ 出し衣(いだしぎぬ=牛車の下簾や御簾の下から女房装束の袖口や裳の裾などを出すこと)の華麗な女車が行く。
女院付きの上級女房たちが乗っているのだろう。
車の手前、連銭芦毛の馬に乗るのは雇従の公卿。
石山3-1-4.JPG
↑ 東三条院の乗っている牛車。
車副が8人もいる。
車は物見窓に庇屋根付きの檳榔毛車(びろうげのくるま)。
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↑ 女院の車を先導する公卿。おそらく女院の弟の藤原道長と思われる。
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↑ 行列の先頭。今まさに石山寺の山門に到着しようとしている。

ところで、巻3第1段で、特徴的なのは背景に自然描写が一切ないこと。

今、行列が通っているのは石山寺の山門に向かう瀬田川の西岸の道。
右に瀬田川、左手は山という自然が豊かな参詣路のはずなのに、まるで都大路のように画面には遠景の山も植物もまったくない。

その単調さを補っているのが、多彩な見物の人々。
来月は、そこに焦点を当ててみようと思う。

12時、終了。

2011年03月09日 石山寺縁起絵巻を読む(殺生禁断) [石山寺縁起絵巻]

2011年03月09日 石山寺縁起絵巻を読む(殺生禁断)
3月9日(水) 晴れ 東京 11.6度 湿度 30%(15時)

8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部でまとめ、シュシュを巻く。
朝食は、アップルパイとコーヒー。

化粧と身支度。
黒地に紫・群青・水色・茶色の大小の長楕円がたくさんある変な柄のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。
ボア襟の黒のカシミアのポンチョ。

10時前、家を出る。
駅前のコンビニでレジュメの印刷。

午前中、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻2の第6段「龍穴の池」の伝承(暦海和尚と龍王の話)の解説の続き。
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↑ 龍穴の池。水面に散る山桜の花が美しい。
典型的な大和絵の描法。
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↑ 山桜が咲く山路を、龍王とその眷属たちに守られて住坊に戻る暦海和尚。
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↑ 龍王の顔立ち・服装は、まったく中国風。

第6段の詞書の後半は、絵にはまったく描かれていないが、石山寺中興の祖である淳祐内供の弟子の真頼という僧の臨終の説話になっている。
そして、真頼の臨終の様子は「保胤の往生伝」に載っていることを記す。

そこで、慶滋保胤(?~1002)の『日本往生極楽記』を紹介して解説。

続いて、第7段(巻2の最後)に入る。
石山寺の寺域とその周辺における殺生禁断の様子を描く。

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↑ 寺域の周辺で鹿を射殺した武者をこらしめる僧兵。
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↑ 僧兵は、鎧兜に身を固め、弓矢に長刀という重武装。
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↑ 瀬田川に設けられた簗(やな=水流を利用して魚を捕らえる仕掛け)を破壊している。
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↑ 瀬田川で漁をしていた漁師たちを追い払う僧兵。
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↑ 網を破り、捕えた魚を川に戻し放つ。

12時、講義終了。


2011年02月09日 石山寺縁起絵巻を読む(石山寺の「龍穴」) [石山寺縁起絵巻]

2011年02月09日 石山寺縁起絵巻を読む(石山寺の「龍穴」)

2月9日(水) 夜中から早朝まで雨、曇りのち晴れ 東京 9.1度 湿度 57%(15時)

8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
朝食は、アップルデニッシュとコーヒー。

化粧と身支度。
白地に細かな豹柄のロングチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。
ボア襟の黒のカシミアのポンチョ。

9時45分時、家を出る。
ちょうど雨が上がったタイミング。
路面がしっかり濡れるほど、雨が降ったのは、ほんとうに久しぶり。

駅前のコンビニでレジュメの印刷。

午前中、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻2の第6段に入る。
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『石山寺縁起絵巻』巻2の第6段は「当寺の西北の角に当たりて、龍穴(りゅうけつ)あり。水澄み、波静かにして、誠に往昔の霊池と見えたり」と始まる。
そして、こんなファンタジックな説話を記す。

暦海という高徳の僧が、この池の畔で「孔雀経」を転読した。龍王の段になって、龍王の名を読み上げると、それに随って諸龍が池の中から現れ、歴海の側に侍った。
暦海が草庵に帰ろうとすると、龍王たちが暦海を背に負うて行き、草庵でも身近に給仕すること、まるで奴僕のようであった、と。

絵は、池の畔の丸い石に半跏した暦海が読み上げる「孔雀経」に応じて、紺碧の池の中から、青龍が出現した場面。
すでに、白龍や赤龍、さらには龍王とその眷属たちが歴海の左右に侍している。
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↑ 「孔雀経」を読む行海の側に侍る赤龍。
右側の赤い服の龍頭人身の人物?は赤龍の従者だろうか?
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↑ 池から出現する青龍。
やはり、後ろに従者と思われる龍頭人身の人物?が従う。
服の色は主人に合わせている?
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↑ 砂州状の池畔に侍す龍王たちと白龍。
立派な黒髭の束帯姿で背に龍を負っているのが、一番偉い龍王だろうか。
その左の頭上に蛇が乗っている人物?の服装は、一見、南蛮人風でかなり変わっている。

ところで、『石山寺縁起絵巻』の各段の説話は、ほとんど必ず年次か、天皇の代を明記し、ほぼ時代順に配列されている。ところが、この段だけは年次も天皇の代も記されず、説話の主人公の暦海も「上古の寺僧」とだけ表現されていて、いつの人かわからない。

暦海については、『平安時代史辞典』などで調べてみたが出ていない。
そこで、少し違う方向から考えてみた。

実は、この段の後半は、絵にはまったく描かれていないが、石山寺中興の祖である淳祐内供)の弟子の真頼という僧の臨終の説話になっている。
そして、その臨終の仕方が、「保胤の往生伝」に載っていることを記す。

「保胤の往生伝」とは、平安時代中期の文人で、浄土教の初期の信者であった慶滋保胤(?~1002)が著した『日本往生極楽記』のことだ。
実際、同書の巻20には、僧真頼の往生伝が載っている。

『日本往生極楽記』の成立は、寛和年間(985~987)であることが確実なので、真頼はそれ以前の亡くなっている人で、また淳祐(890~953)の弟子であることから、だいたい10世紀の中頃、朱雀・村上天皇代(923~967)に活躍した人と見ることができる。
下っても冷泉・円融天皇代(968~985)までだろう。

この真頼について調べていて、「石山流人師方(にんじかた)血脈」・「恵什相承胎蔵血脈」という史料に、

淳祐―真頼―雅真―暦海―修仁―増蓮―芳源―恵什

という継承が記されていることに気づいた。

ここに至ってやっと歴海が出てきた。
真頼より二代後の人ということになる。
二代といっても、血縁(親子)関係ではなく、師弟関係なので、せいぜい40年ぐらいを見ればいいだろう。
真頼を村上朝の950年代の人とすれば、歴海は990年代の人、つまり、およそ一条朝の人と推測できる。

巻2の第5段は、寛和2年(987)の円融法皇石山寺行幸で、第7段は「永延」(987年~989)の話になっている。
その間の第6段の主人公暦海が、およそ一条朝の人ということになれば、時代順の配列がそれほど乱れることはない。

まあ、落ち着くところに落ち着いた訳だが、ここまで考証するのはけっこう大変だった。

現在でも石山寺の境内の「西北の角」には、八大龍王社があり、「龍穴の池」の中央にお社がある。
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↑ 石山寺境内図。左上に赤い鳥居があるところが「八大竜王社」

龍穴とは、もともとは単に龍が出現する穴のことなのだろう。
しかし、神獣・霊獣である龍が出現するぐらいだから普通の場所ではない。

古代道教や陰陽道ではある種のエネルギーが地上に噴き出す場として神聖視された。
有名な龍穴としては、室生の龍穴(大和国宇陀郡)が広く知られていて、延喜式内社の「室生龍穴神社」があるが、近江石山にもこんな由緒ある龍穴があったのだ。

最近のパワースポットブームで、龍穴を訪れる人も増えたらしい。
前回、石山寺を訪れたときは、時間がなくてここまで行けなかった。
次回は、ぜひ訪れてみたい。

12時、講義終了。
--------------(以下の画像はネットからお借りしたものです)----------------
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http://uminoyakusoku.shiga-saku.net/e180227.html
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http://shigino2006.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_8f2c.html
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http://www.geocities.jp/noharakamemushi/Koshaji/Biwako1/Ishiyama.html

2011年01月12日 石山寺縁起絵巻を読む(円融法皇の石山寺行幸) [石山寺縁起絵巻]

2011年01月12日 石山寺縁起絵巻を読む(円融法皇の石山寺行幸)

1月12日(水) 晴れ 東京 9.5度 湿度 35%(15時)

8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
朝食は、アップルパイとコーヒー。

化粧と身支度。
黒地に白で草花文?のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。
黒のカシミアのショール。

9時50分時、家を出る。
駅前のコンビニでレジュメの印刷。

午前中、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻2の第5段に入る。
円融法皇(959~991)の石山寺行幸の話。
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絵巻は、まず円融上皇の石山寺参詣を知って遣された天皇の勅使(藤原斎信)と、誦経料(布施)の布・綿が入った3つの長櫃を石山寺に運ぶ人夫の姿を描く。
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↑ そして上皇一行は、石山寺に参籠する。
画面上の御簾からわずかにのぞく香染の衣の人物が円融法皇(↓)。
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円融天皇は、永観2年(984)8月27日に、花山天皇に譲位し、翌、寛和元年(985)8月、寛朝大僧正を導師として出家した。
まだ、27歳だった。

天皇が位を離れて上皇になり、行動の制約が少なくなって、寺社参詣を名目に諸所に行幸する例は、宇多天皇などに典型的に見られるが、円融上皇もそういう方向を志向したらしい。

そうした意味では、石山寺行幸があってもおかしくはないのだが、円融上皇が石山寺に上皇したことは、なぜか同時代の史料にほとんど見えない。

僅かに藤原公任の私歌集「前大納言公任卿集」に見えるだけ。

「ゑにう院の石山におはしますに、殿上人うきはしといふところに、いきてかへるとて、

われたにも 帰る道には 物うきに いかて過ぎぬる 秋にか有らん
                          (藤原)為頼
               
たなかみや やまの紅葉は 数しあれば 秋におふとも のどけきをみよ」

では、どんな史料に見えるかというと、300年ほど後の13世紀末頃に編纂された『百錬抄』という年代記に見える。
それと、この『石山寺縁起絵巻』(巻2の成立は1324~1326年頃)。
2つしかなく、成立年代も近い(30年ほど?)。
当然、両者の継承関係が疑われる。

宇多上皇の先例を引用する際、『百錬抄』が「亭子院臨幸紀伊国之間」と記すのに対し、『縁起絵巻』は「亭子院、紀伊国に臨幸の時」と、「臨幸」という漢文脈的な表現を使っているところなどは、絵巻の詞書の作者が『百錬抄』を見ているようにも思う。

ところが、そう簡単にはいかない。
両者の記述内容にはかなり相違がある。
『百錬抄』は円融上皇の参詣を寛和2年(986)9月29日として、10月3日に帰洛の途中、近江崇福寺に寄ったことを記す。
つまり、石山寺には3泊している。
そして、記事で問題になっているのは、送物(誦経料)の勅使の先例。

それに対して『縁起絵巻』では、寛和元年(985)10月1日のこととして、1泊して翌2日に勅使があったように記している。
そして、問題にしているのは、勅使の服装(布衣でいいのかどうか?)という具合で、微妙にズレがある。

ということで、『縁起絵巻』の元が『百錬抄』であると判定するのは、ちょっとためらう。

行幸の日時については、平安時代後期の公卿、藤原為房(1049~1115年)の「為房卿記」長治元年(1104)2月15日条に
「寛和二年、円融院令籠石山給之間、以頭中将斎信卿、被奉綿布、便被修諷誦」
(寛和二年、円融院、石山に籠られたまふの間、頭中将斎信卿を以て、綿布を奉られ、便ち諷誦を修せらる。)
とあるので、『百錬抄』がいう寛和2年でよさそうだ。

そうなると、勅使を遣した天皇は、花山天皇ではなく一条天皇ということになる。

12時、終了。

2010年11月12日 石山寺縁起絵巻を読む(特講:日本古代~中世の猫-絵巻を中心に-) [石山寺縁起絵巻]

2010年11月12日 石山寺縁起絵巻を読む(特講:日本古代~中世の猫-絵巻を中心に-)
11月12日(金)

私は、猫好きだ。
平安時代末期~鎌倉時代の絵巻の読み解きを、もう10年以上続けているが、ごく稀に出てくる猫の姿が気になっていた。
そこで、ちょっとまとめてみることにした。

日本の野生ネコは、ツシマヤマネコ(長崎県対馬)とイリオモテヤマネコ(沖縄県西表島)だけで、日本本土にはヤマネコが生息していた形跡はなく、猫はいなかった。
だから、日本の猫は、いつの時代にか、アジア大陸から人為的にもたらされたものということになる。
問題は、それがいつの時代かということ?

一般には、飛鳥時代、仏教が日本に伝来した後、お経を鼠の害から守るために猫が日本にやって来たということになっているが、これはほとんど民話的な話で、まったく証拠がない。

考古学的には、2008年に長崎県壱岐市勝本町のカラカミ遺跡から、紀元前1世紀(弥生時代中期)の猫科の動物の大腿骨など12点が出土した。
鑑定の結果、年代は約2100~2200年前(C14年代測定)、猫の年齢は1歳半~2歳、現在のイエネコの骨格と酷似していることがわかった。
これが、ほとんど唯一の例。

これが家猫だとしても、朝鮮半島などとの交易が盛んな壱岐の事例であり、本土の弥生・古墳時代の遺跡に猫の痕跡がまったくと言っていいほどないことからしても、日本全体に一般化できるか疑問に思う。

猫らしき動物が文献に登場するのは、奈良時代末期~平安時代初期に編纂された仏教説話集『日本国現報善悪霊異記』。

上巻の第30話にこんな話がある。

都がまだ藤原にあった文武天皇の慶雲2年(705)、豊前国宮子郡の少領の膳臣広国(かしわでのおみ ひろくに)という人が急死してしまい、地獄で父親に出会う。

地獄で責められている父親は、息子にこう訴える。

「飢えた私は、7月7日に大蛇の姿になって、お前の家に行き入ろうとしたら、杖で打たれて棄てられた。5月5日には赤い狗(いぬ)になって再び家に行ったが、お前は飼犬を呼び寄せて私を追い払った。それで正月1日に今度は『狸』になって家に入り、やっと供養の物をたくさん食べることができ、飢えをしのぐことができた」

広国は、この後、生き帰り、父親のために供養をするのだが、問題は話の中に出て来る「狸」。

一般的な注釈では、「狸」に「たぬき」ではなく「ねこ」と訓をつけている。

現代の感覚では、「たぬき」と「ねこ」はぜんぜん違う動物だが、たしかに、「狸」を「ねこ」と読んだらしい。

現存する日本最古の字書である『新撰字鏡』(898~901年)には次のようにある。

狸 (中略)猫也。似虎小。(中略)祢古。

やはり、「狸」は「ねこ」らしい。
家に入ってきても追い払われなかったことからも「たぬき」ではなさそうだ。

実は、「狸」という字で「ねこ」を表すのは、中国ではごく一般的な用法で、『日本霊異記』もそれに従っただけ。

ちなみに、『新撰字鏡』には「猫」の項目はない。

「猫」が最初に出てくる字書は『本草和名』(923)で、

猫 家猫。一名猫。和名祢古末。

とある。「祢古末」は「ねこま」である。

ここまでは、「狸」=「猫」=ねこ、ねこま、という図式でよさそうだ。

ところが『類聚名義抄』(1081年以降)をみると、「狸」の字に「タヌキ、タタケ、ネコマ、イタム」という訓が施されていて、「たぬき」と「ねこ」が混乱していて、そう単純にはいかないことがわかる。

さらに『伊呂波字類抄』(1180)の「猫」項目には「子コ、子コマ、家狸」とあって、中国の用法(狸=ねこ)を知らないと、まるで家タヌキ?が猫のようにも見える。

ここまでは、猫大好きの国文学者田中貴子さんの『鈴の音が聞こえる-猫の古典文学誌』(淡交社 2001年)を参考にさせていただいた。

田中さんは、「12世紀ころには『狸』は野生の猫、『猫』は家で飼われている猫、といった区別がつけられるようになった」と推測している。

ただ、そうだとすると、鎌倉時代以降、狸=野生猫の用例がほとんどないのが気になる。

では「狸」=たぬきの用例はいつから出てくるのだろう?
「ネコ=狸=タヌキ」というような混乱は生じなかったのだろうか?

という疑問は残るが、まずは『日本国現報善悪霊異記』上巻の第30話を日本最初の猫文献として良さそうだ。
ただ、なにぶん説話(しかも地獄がらみの)であって、今ひとつリアリティに乏しい。

ところで、宇多天皇(在位:887~897)の日記『寛平御記』の寛平元年(889)2月6日条には、天皇が愛猫について詳しく記した文がある。

宇多天皇が可愛がっていた猫は墨のような深黒の猫で、大宰少弐(九州を管轄する大宰府の次官)の源精(みなもとのくわし)が、唐の商船から手に入れ、光孝天皇(在位:884~887)に献上したもので、父天皇から息子の宇多天皇に譲られたもの。

宇多天皇の記述は
「其屈也、小如秬粒、其伸也、長如張弓(その屈するや小さきことキビの粒が如く、その伸ぶるや長きこと張弓の如し)」とか、
「其伏臥時、団円不見足尾、宛如堀中之玄璧、其行歩時、寂寞不聞音、恰如雲上黒龍(その伏し臥す時は、団円にして足尾を見えず、あたかも堀の中の玄璧[黒い玉]の如く、その行き歩く時は、寂寞として音聞こえず、あたかも雲上の黒龍が如し)」とか、少し大袈裟だが、猫の姿態をよく捉えている。

宇多天皇は、よほど猫好きだったように思える。
この「日記」は、日本最初の「愛猫記」として不動のポジションにある。

それに続くのが、清少納言の『枕草子』にみえる、一条天皇の愛猫「命婦の御許」。

この五位の待遇を与えられ乳母まで付けらえた高貴な猫と、「翁丸」という犬の話は高校の古文のテキストに出てきたりして有名。

ただ、宇多天皇の黒猫や、一条天皇の「命婦の御許」は、超高級猫(唐猫)であって、こういう猫が宮中で飼われていたからといって、平安京の庶民が猫を飼っていたということにはならないように思う。

ここで、やっと、文献史料から絵画史料(絵巻)に目を移すことにしよう。

日本最初の猫の絵ということになっているのは、『信貴山縁起絵巻』(1160年代)下巻に描かれたもの。

弟の命蓮(信貴山の開山)を探し歩く姉の尼公が奈良の街で道を尋ねるシーン。
糸を紡いでいる女性の背後の板の間に、紐で繋がれた動物が見える。
猫1.JPG
猫3.JPG
う~ん、なんか変・・・。
顔が妙に尖がっていて、猫に見えない。
手を前に伸ばした座り方もどこか犬っぽい。
むしろ、狸(たぬき)に似ているような気がする。
そこで、思いだされるのは、先ほど「ネコ=狸=タヌキ」という図式。

以下は、私の推測。
これが猫だとしても、絵師は実物の猫を参考にして描いてはいないように思う。
しかも、絵師の頭には「ネコ=狸=タヌキ」というような混乱があったのではないだろうか?

次に猫が描かれるのは『鳥獣人物戯画』(12世紀末~13世紀)。
猫2.jpg
戯画なので、一般的な絵巻とはちょっと性格が違うかもしれないが、甲巻に烏帽子をかぶり擬人化された猫が1場面1匹だけ出てくる。
たくさん描かれている、兎、蛙、狐、猿などに比べるといたって影が薄い。

3つ目は、『春日権現験記絵』(1309)巻6の場面。
蛇を苛めた少年が重い病にかかるシーンで、祈祷のために「老巫女」と山伏が屋敷に呼ばれているが、その脇に箱座りしている猫が真後ろから描かれている。

背中は黒っぽいが、よく見ると、側面に縞があるようで雉虎猫かもしれない。
猫4.JPG猫5.JPG
ちなみに、この場面の「老巫女」、頭頂部が完全禿げていて、私は「怪しい」と思っている。
「怪しい」とは、つまり、女装した男性の巫人「持者」ではないか?ということ。
「七十一番職人歌合絵巻」(1500年ごろ)では、「山伏」と「ぢ者」が番えられているが、その「持者」とこの「老巫女」はよく似ている。

猫に戻ろう。
4つ目が、『石山寺縁起絵巻』(1325~26)で、巻2と巻5の2か所に猫が描かれている。

巻2は、源順が石山寺参詣に向かう琵琶湖湖畔大津の浜の民家の入口に赤紐の首輪をした虎縞猫が繋がれている。
この猫、青緑の目をしていて、ちょっと怖い。
2-4-9.JPG
猫7.JPG
猫8.JPG
巻5は、富裕な受領藤原国能の館の場面の最後の部分。
裏庭の井戸端で少年が猫を抱いている。
猫の顔が真正面から描かれているのが面白い。
猫9.JPG猫10.JPG
ちなみに、『石山寺縁起絵巻』の絵師は『春日権現験記絵』を描いた高階隆兼と推測されている。

2つの絵巻に描かれた3匹の猫を見ると、高階隆兼はちゃんと実物の猫を見て描いているように思う。
あるいは、彼の家には猫が飼われていたのかもしれない。

ところで、『信貴山縁起絵巻』の猫?と『石山寺縁起絵巻』巻2の猫は紐で繋がれていた。

平安~鎌倉時代に、猫が紐で繋がれて飼われていたことは、紫式部の『源氏物語』で、柏木中将があこがれの女三宮(光源氏の正妻)の姿を垣間見るシーンからもうかがえる。

柏木に、普段は人前に出ない高貴な女人の姿を見るという、思いがけないチャンスが訪れた原因は、女三宮の飼猫が庭に飛び出そうとして紐が簾に引っかかり、簾がまくれあがってしまったため。

紐付き猫が作ったチャンスから不義密通と柏木の破滅が始まり、運命の子「薫」が生まれることになる。

どうも、全体的な印象として、猫が一般庶民の家で広く飼われるようになったのは、今まで思われている以上に遅いのではないか?という気がする。

具体的には、平安時代も後期(11世紀代)になって、やっとではないだろうか?
あるいは、平安末期(12世紀代)かもしれない。

気がするだけで、何も証拠はないのだが・・・。
「居なかった」という証拠を提示するのは、とても難しいし・・・。

ただ、猫が奈良~平安時代人にポピュラーな存在だとしたら、もっと文字なり絵なりに記されてもいいのではないだろうか?

あまりにも、猫がいた痕跡が乏しいように思う。

また、飼い方にしても、数か少なく貴重だからこそ紐で繋いだと思われる。
そこらにいくらでも猫がいる状況だったら、余程の高貴猫以外は、猫の性質からしても、自由にしていたと思う。

12世紀中頃の『石山寺縁起絵巻」で大津の民家で猫が繋がれていたということは、まだその時代には、庶民にとっては猫は貴重な存在だったと思う。

私が思うのは、少なくとも、平城京や初期の平安京の大路・小路を猫が闊歩していたという情景はなかったのではないか?ということだ。

猫好きにとっては、ちょっと寂しい気もするが・・・。

【追記】2009年、兵庫県姫路市の見野6号墳(6世紀末~7世紀初頭)から須恵器に猫と思われるの足跡がついているのが発見された。
猫足跡2.jpg
「杯身(つきみ)」と呼ばれるふた付き食器の内側に直径3cm程の爪の無い5個の肉球と掌球がくっきり付いている。
須恵器の制作工房で未乾燥の状態の器の上を猫が通過していったものと思われる。
須恵器は渡来系の技術なので、朝鮮半島から渡ってきた工人が猫を連れてきたのかもしれない。


2010年11月10日 石山寺縁起絵巻を読む(大津の浜の情景-洗濯・店・紡錘・猫-) [石山寺縁起絵巻]

2010年11月10日 石山寺縁起絵巻を読む(大津の浜の情景-洗濯・店・紡錘・猫-)
11月10日(水) 晴れ  東京 18.9度  湿度 32%(15時)

8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
朝食は、ソーセージパンとコーヒー。

化粧と身支度。
黒地に白で草花文?のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。
黒のカシミアのショール。

9時50分時、家を出る。
駅前のコンビニでレジュメの印刷。

午前中、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻2の第4段、『万葉集』の訓読事業を命じられた源順(したごう 911~985)の話。
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琵琶湖湖畔、大津の浜を行く源順の一行の背後に描かれている民家の様子を読み解く。
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↑ 畝をたてて野菜を栽培している菜園。
なかなか管理が行き届いている様子。
季節は夏~初秋、植えられているのは何?
放射状に広がった葉は、菜っ葉? それとも大根?
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↑ 自宅前の道端で洗濯する女性。
足踏み洗濯ではなく、曲げ物の桶で手洗い。
まだ洗濯板は発明されていない。
井戸端ではない。
水は、目の前の琵琶湖から汲んでいる?
裸ん坊で這い這いしている子供。
これは古代中世には一般的。
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↑ 仮設の棚に果物を並べて売っている店(たな)。
並んでいる果物、左は縞瓜?、右は梨?、奥の赤いのは葡萄?
棚の上には、草鞋(惰円と丸型の2種類)が吊り下げられている。
いかにも街道沿いの店らしい。
2-4-8 .JPG
↑ 糸(麻糸)を紡ぐ年配の女性。
紡錘車を回して糸に撚りをかける作業。
座った足もとに置かれている2つの器具(木製)の使い方がわからない(紡錘車に回転を与える道具らしい)。
糸車はまだ発明されていない。
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↑ 差し上げ窓から、往来の行列を望む父親と息子?
室内は板張りの高床。
戸口には紐で繋がれた虎縞の猫。
赤い首輪をしている。
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↑ 道端に積まれた大量の石。
平らなものが多い。
なぜここに積まれているのだろう? 
用途不明、道路などの敷石用材だろうか?
2-4-10.JPG
↑ 湖岸にもやわれた舟。
少し手を加えているが、基本構造は丸木舟。

読み解けないものが多く、勉強不足を痛感。

で、残りの時間、「日本古代・中世の猫」について話をする。
 
12時、終了。

2010年10月13日 石山寺縁起絵巻を読む(源順の説話/広幡御息所が「沓冠歌」の謎を解く話) [石山寺縁起絵巻]

2010年10月13日 石山寺縁起絵巻を読む(源順の説話/広幡御息所が「沓冠歌」の謎を解く話)

10月13日(水) 晴れ  東京 26.1度  湿度 59%(15時)

8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
朝食は、明太子フランスとコーヒー。

化粧と身支度。
ジラフ柄(焦茶)のロングチュニック(長袖)、黒のレギンス(7分)、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。

9時50分時、家を出る。
駅前のコンビニでレジュメの印刷。

午前中、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻2の第4段の読み解き。
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第4段は、広幡御息所(源計子)が村上天皇に勧めて『万葉集』の訓読事業をすることになり、それを命じられた源順(したごう 911~985)の話。

源順が訓読に悩んだ歌がなんだったのか、話には出てこないのだが、『万葉集』巻12(3142番)の「国遠直不相夢谷吾尓所見社相日左右二」という歌らしい。

この歌、訓読は「国遠み 直(ただ)には逢はず 夢にだに 我に見えこそ 逢はむ日・・・」だが、最後の「左右二」がどうしても読めない。

悩んだ順は、仏の助けを得ようと石山寺に参籠することを思い立つ。
2-4-1.JPG
↑ 琵琶湖湖畔、大津の浜を行く源順の一行

その道中(たぶん帰路)、大津の浦(琵琶湖湖畔)で、馬で米俵を運んでいる一行とすれ違う。
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↑ その時、一行のリーダーらしき翁が、馬の背の俵を左右の手で押し直しながら、「おのがどち、まてよりつけよ」(皆の者、両手で荷をおさえるんだ)と言った。

それを聞いた順は、「左右=まて」という訓を思いつくという話。
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↑ 馬による米俵の運搬の仕方がよくわかる。
見習いの馬子が、口に入れているのは、携帯食料の干し米(糒)か?

例の歌の訓読は「左右」を「まて」と訓ずると、「国遠み 直(ただ)には逢はず 夢にだに 我に見えこそ 逢はむ日までに」となって意味が通る。

ただ、この説話、今のところ、他に典拠が見出せない。

広幡御息所が『万葉集』の訓読事業を村上天皇に勧めた話は、『十訓抄』巻7にあるのをやっと見つけたのだが・・・。

続いて、日本最初の百科事典ともいうべき『倭名類聚抄』の著者であり平安時代中期を代表する文人・学者である源順の経歴を解説。

それにしても、嵯峨源氏大納言定(さだむ)の孫で、文人・歌人としての盛名の一方、73歳まで生きて従五位上能登守という順の官歴は、あまりに不遇。

よほど世渡りが下手だったのだろう。

また、村上天皇の後宮で、聡明さで知られた源計子(宇多源氏。斉世親王の三男中納言庶明の娘)の逸話も紹介。

村上天皇が後宮の女性たちに「逢坂も はては行き来の 関もゐず 訪ねて問ひこ 来きなば帰さじ」という歌を与えた時、ただ一人、それが「沓冠歌」であることを見抜き、天皇に薫物を送った女性。

「沓冠歌」というのは、「冠」=語句の頭、「沓」=語句の末尾に、意味のある文字を置いた歌。

つまり、

ふさか
てはゆきき
きもゐ   
づねてとひ
なばかへさ  

は、「あはせたきものすこし」=「合わせ薫物少し」の意味になる。

そんな話をしているうちに、肝心の絵の解説が時間切れに。 
12時、終了。


2010年09月22日 石山寺縁起絵巻を読む(「かげろう日記」の分析にフロイトはいらない) [石山寺縁起絵巻]

2010年09月22日 石山寺縁起絵巻を読む(「かげろう日記」の分析にフロイトはいらない)
9月22日(水) 晴れ  東京 32.7度 湿度 54%(15時) 

8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
朝食は、洋梨のデニッシュとコーヒー。

化粧と身支度。
濃紺の地に黄色の花柄(菊?)のチュニック(3分袖)、黒のレギンス(3分)、黒のサンダル、黒のトートバッグ。

9時50分、家を出る。
今日も暑い。
テレビでは「今日が最後の夏」と言っていたが・・・。

途中、コンビニでレジュメを印刷。

午前中、自由が丘で講義。

『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
通常、第2水曜日のこの講義だが、今日は、某大学のゲスト講義で潰れる12月分の補講。
巻2の第3段の解説。
第3段は、藤原倫寧の娘(『蜻蛉日記』の作者)の石山詣の場面。
『蜻蛉日記』の該当部分を読む。

なかなかな通ってきてくれず、しかも他の女の所に通い始めたという噂を耳にして悲嘆にくれた「蜻蛉の女」(藤原倫寧の娘=藤原道綱の母)は、半ばは気晴らし(同時に、夫への当てつけ)、半ばは仏に祈願するために石山寺に詣でる。

観音堂に参籠して2日目の明け方、疲労でまどろんだ彼女の夢に、老僧が現れ、銚子(柄のついた酒器)から、彼女の右膝に水を注いだ。
「この寺の別当とおぼしき法師、銚子に水を入れて持て来て、右のかたの膝にいかく(沃く=注ぐ)と見る」
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どういう意味がある夢なのだろう?

ところが、「古典文学集成」(新潮社 1982年)次のような注釈を付している。
「『銚子―膝―いかく』は、明らかに性的な象徴であろう」

はぁ~??
さらに
「『抑圧された願望の昇華されたもの』を読み取るには、おそらく正しい」
と続く。
なんだ、このフロイトの亜流みたいな説明は?

西欧キリスト教文化に基盤を置くフロイト(Sigmund Freud、1856~1939年)の「近代的な」夢分析が、900年前の平安時代の仏教徒の女性に心理分析に適用できるって、この注釈をした国文学者(犬養廉お茶の水女子大学教授)は本気で考えているのだろうか?

私は、彼女が京の自宅に帰って、信頼している巫女(もしくは陰陽師)を呼んで、夢解きをさせるのだと思う。
フロイトの出番じゃあないのだ。

基本的な話として、どうも西欧近代の学問には、人間の感性は古今東西同じである=西欧近代の感性が普遍で正しい、という思い込みがあるように思う。

そんなのは、傲慢な勘違いだということを示すのが、本当の学問だと思うが、なぜか日本の学者は、平然と「傲慢な勘違い」に同調してしまう。
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↑ 縁先でまどろむ侍女と警護の武士2人。

12時、終了。


2010年09月08日 石山寺縁起絵巻を読む(貴族女性・蜻蛉の女の石山詣) [石山寺縁起絵巻]

2010年09月08日 石山寺縁起絵巻を読む(貴族女性・蜻蛉の女の石山詣)
9月8日(水) 雨  東京 30.5度 湿度 91%(15時)

8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
朝食は、明太子フランスとコーヒー。

化粧と身支度。
青と白と黒の変な柄のチュニック(2分袖)、黒のレギンス(3分)、黒のサンダル、黒のトートバッグ。

10時、家を出る。
台風9号の接近の影響で、超久しぶりの雨。
調べてみたら、8月9日(24.5mm)以来、約1ヵ月ぶり。
気温はずいぶん下がったが、湿度がものすごく汗が止まらない。
(10時、26.4度、82%)

午前中、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻2の第2段の解説の後、第3段に入る。

第3段は、藤原倫寧の娘(『蜻蛉日記』の作者)の石山詣の場面。
詞書を読んだ後、『蜻蛉日記』の該当部分を読む。

この石山詣、夫(藤原兼家)がなかなかな通ってきてくれず、しかも他の女の所に通い始めたという噂を耳にして悲嘆にくれていた「蜻蛉の女」が、半ばは気晴らしに、半ばは仏に祈願するために、出掛けたもの。
夫や妹にも知らせず、ごく少ない供まわりで、しかも牛車や馬を使わず、徒歩で出掛けたあたり、かなり衝動的というか、夫への当てつけ的行動のように思う。

夜明け前(3時頃)に家を出て、おそらく二条の末で賀茂川を渡り、粟田で東山を抜け、山科に入り、逢坂山の「走井」で休憩・食事、逢坂関を通過して、打ち出浜で琵琶湖湖畔に出て、そこから舟に乗って、瀬田川に入り、疲労困憊しながらも、日暮れ前の申の終わり(17時頃)に、石山寺に着いている。

京→石山寺、所要14時間、足弱な貴族女性でも、早出をすれば、その日の内に、到着できたことがわかる。

彼女は、休憩と沐浴の後、中夜(夜半前後、22~2時)、後夜(夜半から夜明け前、2~4時)に観音堂に参籠している。
当時の参籠・祈願が深夜であることがわかる。

12時、終了。

2010年08月11日 石山寺縁起絵巻を読む(絶対に会えない人が・・・) [石山寺縁起絵巻]

2010年08月11日 石山寺縁起絵巻を読む(絶対に会えない人が・・・)
8月11日(水) 晴れのち曇り  東京 31.9度 湿度 63%(15時)

8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
朝食は、ソーセージパンとコーヒー。

化粧と身支度。
白・黒・オリーブ・紫色の直弧文のような変な柄のカシュークルのワンピース(2分袖)、黒のサンダル、黒のトートバッグ。

10時、家を出る。
腰から左脚にかけて坐骨神経痛が出ている。
駅まで歩く途中、痛くて歩行が辛くなり、路地に入って屈伸運動。
人気がないと思ったら、おばあさんにしっかり見られてしまった・・・。
少し回復して、なんとか駅までたどりつく。

午前中、自由が丘で講義。

最初に30分ほど、「延喜縫殿寮式・雑染用度」に記されている茜染について話す。
(詳細は12日に掲載)

続いて、『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。

今日は、巻2の第2段の読み解き。

比叡山(天台宗)の有名な学僧「谷の阿闍梨」皇慶(台密谷派の祖)が、石山寺普賢院(真言宗)の淳祐に教えを請いにくる話。
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↑ 質素な淳祐の住坊「普賢院」。縁先にあるのは閼伽棚。

2人の生没年を調べると、「普賢院内供」淳祐が寛平2~天暦7年(890~953)であるのに対し、「谷の阿闍梨」皇慶は貞元2~永承4年(977~1049)で、ぜんぜん時代が違う。

生存年代は完全にずれていて、2人がこの世で出会った可能性はゼロ。
絵には、2人の老僧(淳祐と皇慶)が対面している場面が描かれているのだが・・・まったくの嘘。
寺社の「縁起」には歴史事実に反するものもときどきあるが、ずいぶん無茶な話をでっち上げたものだ。
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↑ 会うはずのない二人。左が淳祐、右が皇慶。
淳祐の机の側には巻子(巻紙)が山積みになっていて、彼の勉学・著述への専念ぶりがうかがえる。

詞書では、皇慶は、淳祐に授法を断られた後、淳祐の弟子である元杲(延喜14~長徳元年 914~995)から教えを受けたことになっているが、これでもぎりぎり(元杲の没年に皇慶はまだ19歳)。

なぜこんな無理な話を絵巻の題材にしたかと言えば、台密の一派の祖になる高僧が、真言密教の教えを石山寺に請いに来た、という話を残したかったのだろう。

また、それは、比叡山(山門)、園城寺(寺門)という天台宗の二大派閥が競う近江国で、真言宗の寺院である石山寺が生き残っていくために必要なことだったのだろう。

12時、終了。


2010年07月14日 石山寺縁起絵巻を読む(神仏のお告げの方法) [石山寺縁起絵巻]

2010年07月14日 石山寺縁起絵巻を読む(神仏のお告げの方法)
7月14日(水) 曇りときどき晴れ  東京 31.3度 湿度 62%(15時)

8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
朝食は、ソーセージパンとコーヒー。

化粧と身支度。
濃紺の地に黄色の花柄(菊?)のチュニック(3分袖)、黒のレギンス(3分)、黒レースのレギンス(7分)、黒のサンダル、黒のトートバッグ。

9時40分、家を出る。
途中、コンビニで配布資料をコピー。

午前中、自由が丘で『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。

巻2の第1段の詞書の後半を読む。
普賢院内供淳祐の終末についての不思議な話、そして真言宗の小野流の正嫡としての石山寺の法脈継承を語っている。

続いて、第1段の普賢院内供淳祐(寛平2~天暦7年、890~953)の絵を読み解く。
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↑ 石山寺観音堂の内部。
外陣は板張で、そこに長畳が置かれ、人々が参籠している。
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↑ 参籠しているのは男性1人に対し、女性が4人。
特に女性の信仰を集めていたことがわかる。
端坐・合掌している若い女性もいるが、他は思い思いの姿勢で眠っている。
男性は柱を背に片膝立ての座り方で居眠り。
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↑ 格子を隔てた内陣では、熟睡している少年僧(淳祐)の手を二人の老僧が取って上下に動かす、ある種の呪法?が行われている。

この夢の中で行われた呪法?(観音のご利益)によって、愚鈍でブ男だった少年淳祐は、聡明な美男子に生まれ変わる。

どうも、神仏のお告には、2パターンがあるようだ。

(1)神仏が巫人・巫女(シャーマン)など人に憑いて、人の口を借りて意思を語るパターン(憑依タイプ)。

(2)神仏が人の夢に現れて、意思を伝えるパターン(夢告タイプ)。

(1)はシャーマニズム的で、音楽や激しい舞踊、あるいは特殊な薬物などを使って、意図的にトランス状態になることで、神仏の憑依が行われる。

(2)の場合、しっかり覚醒した状態で、神仏に祈っていてもお告げは得られない。
いく日いく晩も参籠して祈り続け、疲労の末にウトウトした状態になったときに、夢中に神仏が現れるのだろう。

それにしても、少年淳祐のように、夢の中に、神仏(の化身)が出てきて、お告だけでなく、何かするというのは、珍しい?

12時、終了。


2010年06月09日 石山寺縁起絵巻を読む(普賢院内供淳祐の話) [石山寺縁起絵巻]

2010年06月09日 石山寺縁起絵巻を読む(普賢院内供淳祐の話)

6月9日(水) 雨のち曇り  東京 22.0度 湿度 62%(15時)

8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
朝食は、明太子フランスとコーヒー。

化粧と身支度。
黒地に白と茶の花模様のワンピース(3分袖)、黒に細い白のストライプの薄手のカーディガン(長袖)、黒網のストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。

9時50分、家を出る。
小雨の予報だったのに本降りの雨。

途中、コンビニで配布資料をコピー。

午前中、自由が丘で『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。

まず、延喜17年(917)秋の宇多法皇の石山寺行幸の場面を読み解く。
これでやっと巻1を読了し、巻2に入る。

巻2の第1段は、普賢院内供淳祐の話。
まず、詞書を読み、『古事談』の関連する説話を紹介。

淳祐(寛平2~天暦7年、890~953)は、平安時代中期の真言宗の学僧。
父は右大臣菅原道真の子の淳茂。
累代の学問の家に生まれ、幼いころから書物に親しみ、般若寺の観賢に師事して出家・受戒し、その法を継いだ。
法脈的には真言宗小野流(醍醐寺)の正統にあり、醍醐寺座主への就任を要請されたが、生来病弱で、足に障害があり正規の座法をとれないことなどを理由に辞退し、石山寺普賢院に隠棲して、真言密教の研究と著述、そして弟子の育成に生涯を捧げ、石山寺の中興に大きな役割を果たした人。

『古事談』の説話は、延喜21年(921)師の観賢が醍醐天皇の勅命により高野山奥の院の弘法大師の御廟を訪れたとき、淳祐も同行した。
共に御廟内に入ったが、淳祐には弘法大師の姿が見えず、師匠に導かれてその御衣膝に触れることができた。
その際、御衣の薫が手に移り、一生消えることがなく、それにより、淳祐が書写した経典にも同様の薫りが移った。これを「薫の聖教(かおりのしょうぎょう)」という、という話。

なお、淳祐が書写・著述した典籍は、現在も石山寺に伝わり、「淳祐内供筆聖教」73巻1帖として、国宝に指定されている。

今も、馨が残っているのだろうか?

ところで、山城の醍醐寺と近江の石山寺は実は山続き。
西国観音霊場の古い巡礼道は、第11番の上醍醐寺から尾根道伝いに12番岩間山正法寺に通じていて、そこから山を降りると石山寺がある。

醍醐寺と石山寺の密接な関係は、そんな地理的な事情にもよっている。
そんな話をする。
12時、終了。

2009年11月11日 石山寺縁起絵巻を読む(近江石山寺の歴史) [石山寺縁起絵巻]

2009年11月11日 石山寺縁起絵巻を読む(近江石山寺の歴史)
11月11日(水) 雨  東京 18.8度 湿度 87%(15時)

8時、起床。
眠い・・・。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて、頭頂部で結び、シュシュを巻く。
朝食は、ソーセージパンとコーヒー。

黒・焦げ茶・鼠・紫・紅色の多色使いの変な柄のカシュークル・ワンピース(長袖)、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、ワインレッドのコート。

10時、手荷物の防水対策をして、雨の中、家を出る。
ときどき、排水溝がキャパオーバーになるくらい、かなり強い降り。
11月なのに、こんな大雨とは、どこか変だ。
後で調べたら、今日の降水量は85.0mmで、11月の東京の日降水量としては史上8位。

午前中、自由が丘で『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
絵巻の読み込みを中断して、歴史(文献)的に見た石山寺の草創と、本尊の問題について、解説する。

平安時代中期に編纂された『三宝絵詞』(源為憲著 永観2年=984成立)に、奈良時代、東大寺の盧舎那大仏に塗るための金を探して、吉野の金峰山(きんぷせん)に祈願すると、金剛蔵王(蔵王権現)が、金峰山の金は弥勒下生(出現)のためだからと断った上で、近江国志賀郡の水辺の岩に如意輪観音を祀れと教える(その通りにすると、陸奥国から金が発見された)、という話がある。

『石山寺縁起絵巻』の詞書に見える金峰山と石山寺の関係が、10世紀後半にはすでに語られていたことがわかる。

結局、石山寺とその本尊の変遷を整理すると、こんな感じになる。

【草創】
天平年間後半?、岩の上に観世音菩薩が祀られ、それを覆う形で草堂が作られる?。
本尊は、聖徳太子の持仏と伝える金銅の観音菩薩の小像(白鳳時代?)。

【本格造営】
天平宝字5~6年(761~62)、藤原仲麻呂が自分の勢力圏の近江の琵琶湖の南岸に保良宮を造り、天皇・上皇を招くにあたり、宮の南方に位置する石山に本格的な寺院を造営。
造営は、造東大寺司の管理官や工人が出張担当した国営事業。
本尊は丈六(高さ3m余)の巨大な塑像の観世音菩薩半跏像(二臂)。
体内に、それまで祀られていた金銅の観音菩薩の小像を封入。

【焼失・再建】
承暦2年(1078)の大火で、本堂が焼失し、塑像の本尊も焼損大破。
その後程なく、木彫(定朝様の寄木作)の観世音菩薩半跏像(二臂)が作られ(現在の本尊)、金銅の観音菩薩小像など4体を厨子に入れて、体内に安置。

二臂の観世音菩薩半跏像がいつから如意輪観世音菩薩と呼ばれるようになったかは、如意輪観音信仰の高まりの時期との関係で、研究者によって意見が分かれるようだ。

(続く)

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