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【書評①】谷 甲州『 エリコ 』ートランスジェンダーの視点からー [書評アーカイブ]

『SFマガジン』(早川書房)2005年2月号(586号)谷甲州特集に掲載された『 エリコ 』の作品論。
『エリコ』の 単行本は、早川書房から 1999年4月の刊行。
谷甲州『エリコ』.jpg
文庫本は、 上・下巻で 2002年1月(ハヤカワ文庫 JA 686・687)の刊行。
谷甲州『エリコ』(上).jpg谷甲州『エリコ』(下).jpg
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(谷 甲州作品論)トランスジェンダーの視点から

『エリコ』は、22世紀、美貌の性転換娼婦北沢エリコが、国家レベルの遺伝子変換プロジェクトをめぐる陰謀に巻き込まれるバイオサスペンス長編SFである。大阪、上海、東京、そして月面とめまぐるしいまでに舞台を移すエロスとバイオレンスに満ちたストーリー展開と、降りかかる危機に立ち向かうエリコの人物造形が多くの読者に支持され、1997年度「SFマガジン読者賞」、2000年度「ベストSF国内篇3位」に選ばれた。
 
しかし、『エリコ』は谷甲州ファンや関係者には、かなり意外な作品として受け止められたらしい。著者が「あとがき」で明かしているように「お前、あんな小説も書くのか」という反響がかなり多かったようだ。たしかに書店に並んでいる谷甲州作品を見ると「終わりなき索敵」「最後の戦闘航海」「覇者の戦塵 ラングーン侵攻」など軍事(ミニタリー)色が強い「男らしい」ものばかりで、娼婦、しかもよりによって男性から女性に性転換したような「女々しい」主人公とは、かなり距離がある。他の作品をほとんど読んでいない私(申し訳ありません)は、違和感なく『エリコ』に入っていけたが、固定的な読者が驚いたのも無理はないかもしれない。
 
ところで、世の中には、まったく遠いようで案外合う意外な組み合わせというものがある。アボガドと海苔&ワサビ醤油とか、女性SFファンと着物とか。武器・軍事趣味とMtFトランスジェンダー(Male to Female Transgender、 女装もしくは男から女への性転換)も実はそのひとつである。
 
私が主催していた新宿の女装者たちの親睦グループ「クラブ・フェイクレディ」のパーティでは、きれいに着飾った女装娘たちが武器や軍事ネタで盛り上がっていたし、精巧なモデルガンを持ち込んで披露しあったりもしていた。なにしろ私が「ぶとう会」と言うと「舞踏会」じゃなく「武闘会」という字を頭にうかべる「娘」たちなのだ。列車砲の研究では世界レベル(らしい)「娘」や、中華料理を食べに行くときにわざわざ人民解放軍の女性将校の軍服を着てきて、私に「ここは台湾料理屋よ!」と怒られた「娘」もいた。私が寵愛していた妹分の一人は、対ソ最前線の最強師団、北海道千歳の戦車部隊にいた「娘」で、「あのね、お姉さん、榴弾砲って、こうやってね」とかわいらしい女声でレクチャーしてくれた。
 
武器・軍事マニアは、女装の「娘」たちだけではない。女装娘が好きな男性(女装しない)にもなぜか多い。彼らや「彼女」たちは、連れ立ってお台場近辺の草深い公園でモデルガンを撃ち合い戦闘ゴッコに興じてたりする。もちろん「娘」たちは迷彩模様のミニスカート姿で。
 
知らない人には嘘のような話だろう。MtFのトランスジェンダーにとって、武器・軍事趣味は、鉄道(鉄ちゃん)、バイクと共に三大趣味なのだ。両者がなぜ組み合さるのか、その理由はわからないが、事実は事実なのである。地球を東へ東へと進むといつの間にか出発点の西側に着てしまう。「男らしさ」の方向にどんどん進むといつの間にか「女らしさ」にたどり着く、そんなことなのかもしれない。
 
だから、私には、軍事小説の書き手である谷甲州が、エリコのような性転換女性がお好みで、それを主人公にした作品を書いたとしても、けっこううなずける。

『エリコ』を読んで感心したことは、性転換女性の心理が実にリアルに描かれていることである。男性であることに耐えられないほどの不安を感じ、苦労して女の身体を手に入れたにもかかわらず、それでもなお女としての自分に自信がもてず、常に不安にさいなまれる心理である。
 
冒頭第1章の身体検査のシーンで、エリコは服を脱ぐ際に過剰にセクシーな演技する。そしてそれに反応しない男性(ごきぶり男)にいらだちと怒りを覚える。男性の欲情によってしか自分の女性性を確認できないのである。また、エリコは服の汚れや化粧の崩れに過敏なまでに神経質である。自分の女性性を、作り上げ磨き上げた女性的な容姿だけに依存しているからである。その一方で、生まれつきの女性に対しては過度に身構えたり萎縮したりしてしまう。身体的には女性になったにもかかわらず、心理的に女性への仲間入りができないのである。
 
こうした行動や心理は、女性の身体を手に入れても、なお女性としてのアイデンティティを確立できない現代の性転換女性にもしばしば見られる。以前、性同一性障害者の集会に出席した時、隣席の性転換女性が、30分に一度くらいの頻度でバッグから大きな手鏡を出して顔(化粧)をチェックしていた。そうやって自分が女であることを確認しないと不安でいられないのだろう。また、女性に転換した直後に過剰に性的なファッションをしたり、身体的にはすっかり女性になっているのに、女性の集団に融和できなかったりすることもよく観察される現象だ。
 
このように男性の欲情による女性性の証明、女性的な美しい容姿への過度の依存から脱却できず、ほんとうの意味での女性自我が確立できないと、加齢によって容姿が衰えてくる時に自我が崩壊してしまう。美貌の盛りを過ぎた30~40代のニューハーフに自殺者が目立つのはそのためなのだ。
 
エリコも彼女たちと同類であり、事件に巻き込まれなかったら同じ道筋をたどった可能性がある。エリコにとっての無条件の救い(甘えの対象)である男らしい女友達胡蝶蘭の存在もまた「依存」以外の何ものでもない。
 
しかし、 エリコは、陰謀に巻き込まれ、何度も死に向き合うような修羅場をくぐり抜けることで、精神を鍛えられ次第に変化していく。第9章でエリコが敵の男たちを返り討ちにするシーンは、エリコが本来持っていたはずの知力と勇気が、女になった身体の中に蘇る印象的な場面である。胡蝶蘭との関係も、第11章で彼女を「殺す」ことで、「依存」から脱却して真の友情へと変わっていく。また、獣姦ショーの女性芸人小青との出会いを通じて、生まれながらの女性とも交流できるようになる。

このように『エリコ』は、美貌ではあるが自立できない一人の弱々しい性転換女性が、女性としての自我を確立し、しなやかでたくましい真の美しさをもった女性に変貌していく成長物語として、読むことができるだろう。
 
最後に『エリコ』批判をひとつ。『エリコ』の22世紀日本は、合法的な性転換手術も性転換後の戸籍の変更もできない社会である。エリコがそうであるように、非合法な性の転換をとげた女性は、一般の職業に就労できず、セックスワーク(娼婦)でしか生活の糧を得ることができない。たしかにそれは、20世紀日本の姿の投影である。
 
しかし、日本でも1997年に性転換手術(実態的には、外性器を異性のそれに似せて形成する手術で、エリコのように十分な機能はもたない)が事実上合法化され、2003年7月には「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」が公布された。この法律には様々な問題点があるのだが、ともかく翌2004年7月から戸籍の性別変更が可能になった。こうした21世紀日本の現実を踏まえた時、『エリコ』作品世界は、あまりに性的マイノリティにとって暗すぎる世界である。
 
私は、「SFセミナー2001」で「SFにおけるトランスジェンダー(性別越境)」という話をさせていただいたが、その時、『エリコ』を例に、日本SFのジェンダー/セクシュアリティ設定は、必ずしも未来的ではなく現代的で、未来の「性と社会」のイメージとしては、あまりに貧しい、という批判をした。
 
その思いは、再読した今回ますます強くなった。日本SFがそうしたジェンダー/セクシュアリティに関する保守性を打ち破り、大胆な「性と社会」の未来像を提示した作品を生み出すことを期待したい。



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