SSブログ

【論文】和装のモダンガールはいなかったのか? ―モダン・ファッションとしての銘仙―/ [論文・講演アーカイブ]

この論考は、2014年7月11日に京都女子大学で開催されたデザイン史学研究会第13回シンポジウ「スーツと着物―日本のモダン・ファッション再考」での研究報告「和装のモダンガールはいなかったのか?―モダン・ファッションとしての銘仙」をもとに論文化し、『デザイン史学』第14号(デザイン史学研究会、2016年7月)に日本文(123~128頁)と英文(151~158頁:Did Modern Girls wear Kimonos? -Meisen Silk as Modern Fashion-)で掲載されたものである。
IMG_2252.JPG
IMG_2253.JPGIMG_2254.JPG

なお、『デザイン史学』第14号では紙幅の関係で図5・6は割愛したが、ここでは成稿時の形に復元した。

【追記】報告レジュメはこちら(↓)。
画像がたくさん入っています。
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2015-07-12
------------------------------------------------
和装のモダンガールはいなかったのか?
    ―モダン・ファッションとしての銘仙―

三橋 順子(明治大学非常勤講師:着物文化論・性社会文化史)

1 「和装のモダンガールはいなかったのですか?」
2004年9月、東京「ウィメンズプラザ」で開催された「シンポジウム アジアのモダンガール」に出席した私は「和装のモダンガールはいなかったのですか?」と質問した。その瞬間、会場の温度が3度くらい下がったような気がした。報告者からは「いる」とも「いない」とも返答はなかった。つまり、ほとんど無視されたのである。私は、そんなにとんでもないことを言ってしまったのだろうか?

そんな質問をしたのは、1枚の写真が頭にあったからだ。それは「帝都東京」がもっとも華やいだ時代、昭和7年(1932)、老若男女、和装・洋装の人たちが行き交う東京銀座4丁目交差点を写したものだ(石川光陽1987)。とくに注目したのは、若い女性の二人連れだ(図1)。右側の洋装の女性は「モダンガール」で、左側の振袖姿の女性は「旧弊な」あるいは「伝統的な」女性なのだろうか?
図1(2).jpg
(図1)

私にはそうは思えない。仲良く語らいながら銀座を闊歩する2人は、どちらも昭和7年における近代的(モダン)な女性なのだと思う。

「モダンガール」の洋装に目を奪われがちだが、昭和戦前期(1926~1936)は大衆絹織物(銘仙・お召)の大流行期であり、大衆レベルで見て日本の和装文化の全盛期と言っていい時代だった(三橋2010、同2014)。

考現学の創始者、今和次郎の調査によれば、大正14年(1925)の銀座には、洋装の女性は1%しかいなかった。その後、徐々に増えたかもしれないが、昭和戦前期の女性ファッションは和装が圧倒的に主流である。和装の女性の内訳は、銘仙が50.5%で半数を超え、お召と合わせると先染の織物は62.8%と3分の2に近くなる(今和次郎1925)。

こうした和装の主流を占めた銘仙には、人工染料の強い鮮やかな色味を用いたものがかなりあった。図1の左側の女性の振袖は、地色を部分的に変えながら、大きな「破れ麻の葉」柄を織り出した銘仙のように思われる。現在、残っている類似の品から想像して、濃い地色はおそらく臙脂で、そこに明るい薄鼠色で「破れ麻の葉」を織り出し、薄い地色の部分はその反対の色使いではないかと思う。いずれにしても、強いコントラストの大柄で、伝統的な(明治時代以前の)着物にはあり得ない、大胆でモダンな色使いである。

現代の私たちは、昭和戦前期に対して「モノクロームの昭和」というイメージを持っている。しかし今に残る大柄で色鮮やかな多色使いの銘仙やお召からして、少なくとも、日中戦争が始まる昭和12年(1937)以前の昭和初期については、そのイメージは間違いであり、むしろ「多彩・多色の昭和」とイメージすべきだと思う。

2 「モダン着物」としての銘仙
「多彩・多色の昭和」を演出した銘仙とは、どのような織物だったのだろうか。

銘仙とは、糸の段階で染めた(先染)絹糸を経糸と緯糸の直交組織(平織)で織り上げた絹織物である。養蚕地帯(生糸産地)である北関東の風土から生まれた織物で、もともとは玉繭などから取った節糸を天然染料で染めた堅牢な自家生産品だった。江戸時代には「目千」「太織(ふとり)」などと表記されたが、明治中期になって「銘仙」の字が当てられるようになった。たとえば、「伊勢崎太織」が「伊勢崎銘仙」と改称したのは明治21年(1888)のことだった。

明治末期~大正時代前期(1910年代)に工場生産化され、人工染料で経糸に着色し、絹紡糸を緯糸に使い、力織機で織りあげる技術が完成した。

大正~昭和戦前期に銘仙が大流行するには、いくつかの要素があった。
第一は、人工(化学)染料の導入である。これによって染色効率が飛躍的に向上し、多彩で鮮やかな(強い)色味を染められるようになった。

第二は、動力織機の普及である。従来の手動織機に比べて生産効率は格段に向上し、織物は工場生産による大量生産品となり、コストが大幅に低下し大量流通が可能になった。それにより、それまで経済的に絹織物を着られなかった(木綿を着ていた)階層にも銘仙は普及していった。

第三は、新技術「解し織り(ほぐしおり)」の開発である。「解し織り」とは 経糸をざっくりと仮織りした上で型染め捺染し、織機にかけた後で仮糸を解しながら緯糸を入れて本織をしていく技法である。明治42年(1909)に、群馬県伊勢崎で開発された技術で、たちまち他の生産地(埼玉県秩父、栃木県足利など)に広まった。「解し織り」の導入によって、多彩な色柄を精密かつ効率的に織り出すことが可能になった。

第四は、華麗・斬新な色柄である。伝統的な縞銘仙、絣(かすり)銘仙に加えて「解し織り」による模様銘仙の登場により色柄がきわめて豊富になった。麻の葉、石畳、折鶴、傘などの伝統的な意匠をリニューアルしたものに加えて、アール・ヌーボー、アール・デコなどヨーロッパ美術界の先端的デザインが積極的に導入された(図2,3,4)。主要生産地だった埼玉県秩父では、上野の美術学校(現:東京芸術大学)の卒業生・学生などに基本デザインを依頼していた。そうした最新デザインを直交組織の織物で表現することが職人の腕の見せ所だった。
図2(2).jpg
(図2)アール・ヌーボー系の銘仙
巨大なチューリップ。黒の地に、白、黄、緑で花を、緑とショッキング・ピンクで葉を織り出す
図3(2).jpg
(図3)アール・デコ系の銘仙
黒、白、赤で折れ線模様を織り出す。 薄鼠色に見える部分は、白地に細い黒の格子柄。
図4(2).jpg
(図4)伝統的意匠のリニューアル
群青の地に、大きな椿の花を赤で、葉を青緑で織り出す。花や葉の縁には白を入れて雪椿であることを表現している。

第五は、流行の演出である。大正末期~昭和初期の大都市に新たな商業施設としてデパートが出現する。たとえば、東京銀座の松坂屋(1924年)、松屋(1925年)、三越(1930年)、新興の「盛り場」として台頭しつつあった新宿の三越(1929年)、伊勢丹(1933年)などである。そうしたデパートが都市大衆消費文化の目玉商品として注目したのが銘仙であり、産地と提携した展示会などを開催して「流行」を積極的に演出していった。

当時の新聞の婦人欄には、「色は濃めに 柄は横段、格子風 生地も変化ある新物 夏物の流行」(『読売新聞』1928年5月4日朝刊)とか、「この秋・流行の王座を飾るもの 銘仙オンパレード? 模様は平面から立体へ 色は渋好みになりました」(『同』1931年9月16日朝刊)のように、その年の銘仙の流行が報じられている。

第六は、都市中産階層の成長による新たな着用層の増加である。消費活動を活発化していった中産階層の女性たちにとって、銘仙は格好の消費対象だった。たとえば、昭和8年(1933)秩父産の模様銘仙は5円80銭~6円50銭だった。当時の6円は、現代の21000~24000円ほどと思われるので、都市中産階層ならシーズン1着の購入は十分に可能な値段である。

こうした銘仙の大流行を支えた諸要素は、いずれもそれまでの伝統的な着物には見られなかった特質である。銘仙は、形態的にはともかく、デザイン的には明治以前の着物とは明らかに異なる「モダン着物」(化学染料+力織機+新柄+流行演出)だった。旧癖な人たちの目からすれば、「モダン着物」である銘仙は、「最近の若い娘は・・・」と眉をひそめるという点で、洋装とそれほど異なるものではなかったと思う。

そして、生産・流通という視点で重要なことは、銘仙は、日本における最初の工業的デザインによる大量生産品であり、生産地とバイヤーの連携によって流行が演出された大量流通品であるということだ。

つまり、銘仙はプレタポルテ(既製服)的である。その点で、高価な手工業少量生産品でオートクチュール(注文服)的だった明治時代以前の友禅染などの絹の着物と異なり、むしろ現代の大衆的な洋服に近い。また当時の「モダンガール」が着ていた洋服がオートクチュール的であったことを考えれば、プレタポルテ的な銘仙は、ファッションの流れの中で、より先行的・現代的であると言える。

3 日本近代ファッション史における銘仙
昭和戦前期、洋装の「モダンガール」と同じ時代に、銘仙を着た娘たちがいた。彼女たちが着ていた銘仙は、旧来の着物とはデザイン的にも、生産・流通的にも大きく異なる「モダン着物」だった。そして、「モダンガール」よりも銘仙を着た「モダン着物娘」の方が圧倒的に多数だった。「モダン着物(銘仙)」と 「モダン着物娘」の存在を無視して日本近代ファッション史、デザイン史を語るのはまったく実態にそぐわないし、誤りである。

図5(2).jpg
(図5) 日本近代ファッション史の単線的なイメージ

従来の日本近代ファッション史は、和装から洋装へという変化を単線的に考え、その接続点に「モダンガール」を位置させることが多い。しかし、そうした単線的な図式(図5)は明らかに誤りだ。
図6(2).jpg
(図6) 日本近代ファッション史の複線的なイメージ

実際には、「モダン着物娘」と「モダンガール」は、昭和戦前期において同時併存していたのであり、この時期には和装、洋装の2つの流れが相互に影響しあっていたと、複線的にイメージすべきなのだ(図6)。

おわりに
銘仙は、日本人女性の日常衣料の洋装化の進展にともない、昭和40年(1965)頃から急速に衰退し、生産がほぼ途絶する。工場生産品だったために伝統工芸として認められることもなく、ファッション史だけでなく、着物の歴史においてさえ、長らく忘れ去られた存在だった。しかし、2000年代に入ってようやくその魅力が再認識され、コレクションの紹介や研究が進みつつある(須坂クラシック美術館1996、三橋2002、別冊太陽2004、日本きもの文化美術館2010)。2015年には東京六本木の「泉屋博古館」で大規模な展覧会が行われた(須坂クラシック美術館2015)。

今後、銘仙を日本近代ファッション史、デザイン史に正しく位置づける研究が望まれる。本稿がその端緒になれば幸いに思う。

【文献】
今和次郎1925「東京銀座街風俗記録」(『婦人公論』1925年7月号)
石川光陽1987『昭和の東京 ―あのころの街と風俗―』朝日新聞社)
須坂クラシック美術館1996『岡信孝コレクション 華やかな美―大正の着物モード―』(須坂クラシック美術館)
三橋順子2002「艶やかなる銘仙」
(『KIMONO道』2号、祥伝社。後に『KIMONO姫』2号、2003年、祥伝社、に拡大再掲)
別冊太陽2004『銘仙 ―大正・昭和のおしゃれ着―』(平凡社)
日本きもの文化美術館2010『ハイカラさんのおしゃれじょうず ―銘仙きもの 多彩な世界―』(日本きもの文化美術館)
三橋順子2010「銘仙とその時代」(『ハイカラさんのおしゃれじょうず ―銘仙きもの 多彩な世界―』日本きもの文化美術館)
三橋順子2014「『着物趣味』の成立」(『現代風俗学研究』15号 現代風俗研究会 東京の会)
須坂クラシック美術館2015『きものモダニズムー須坂クラッシック美術館 銘仙コレクションー』(須坂クラシック美術館)

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。