新宿グランドツアー【10】花園神社 -内藤新宿の総鎮守― [新宿グランドツアー]
【10】 花園神社 -内藤新宿の総鎮守―
靖国通りのビルの間に鳥居が見えます。

内藤新宿の総鎮守、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)・日本武尊(やまとたけるのみこと)・受持神(うけもちのかみ)を祀る花園神社です。現在は、明治通り側(東側)が正面になっていますが、元の社殿は南向きで、この南側からのルートが元々の参拝路なのです。南側の鳥居を潜ったところにある1対の唐獅子は、文政4年(1811)に鋳造製されたもので、なかなかの貫録です。

花園神社の由緒はとても古く、古すぎてよくわからないという感じです。少なくとも徳川家康が江戸に入府してきた天正18年(1590)にはすで存在していたようです。ただ、その時の鎮座地は、現在地より250mほど南だったようです。今の伊勢丹デパートのあたりでしょうか。元禄11年(1698)に内藤新宿が開かれると、その鎮守として祀られるようになりました。ところが、寛政年間に、その地が旗本朝倉筑後守宣正の下屋敷になり、自由に参拝できなくなったため、氏子が幕府に願い出て、尾張藩下屋敷の庭の一部だった現在地をたまわって遷座します。そこが多くの花が咲き乱れる花園だったことから「花園稲荷神社」と呼ばれるようになったと伝えられています。
神仏習合の江戸時代には、新義真言宗豊山派愛染院の別院・三光院の住職が別当を勤めたことから「三光院稲荷」とも呼ばれました。戦前のお年寄りは、花園神社を「三光院(さんこい)さん」と呼んだそうです。花園神社の現在の住所は新宿5丁目ですが、その旧町名の三光町は、これに由来します。
昭和3年(1928)、旭町(現:新宿4丁目)にあった雷電稲荷神社(雷電神社)を合祀し、その社殿も境内に移築されましたが戦災で焼失。昭和40年(1965)に、現在のコンクリート製の本殿に建て替えられ、その際に末社・大鳥神社(祭神・日本武尊)を本殿に合祀しました。そのため、現在、拝殿には「花園神社」「雷電神社」「大鳥神社」の3つの扁額が挙げられています。

ちなみに、花園神社の本来の氏子圏は、内藤新宿上町・中町・下町・北町・北裏町・番衆町・添地町で、それに雷電神社の合祀によって南町=旭町が加わりました。

↑ 現在の氏子集団。
すぐ裏手の歌舞伎町1丁目(角筈村、一部は東大久保村)や歌舞伎町2丁目(ほとんどが西大久保村)は、花園神社の氏子ではありません。ゴールデン街地区だけは旧三光町=北裏町なので氏子圏ですが。また「伊勢丹」(内藤新宿下町)は氏子ですが、「三越」、「紀伊国屋」や新宿駅(角筈村)は氏子ではありません。角筈村の総鎮守は、角筈熊野神社(現:西新宿2丁目)、東大久保村の総鎮守は西向天(にしむきてん)神社(現:新宿6丁目)、西大久保村の総鎮守は稲荷鬼王(いなりきおう)神社(現:歌舞伎町2丁目)です。
5月の花園神社の例祭、11月の酉の市の際には、境内に数多くの露店が立ち並び、今では珍しくなった見世物小屋も出て、大勢の人で賑わいます。また、宮司さんが演劇に理解があり、小劇団・前衛劇団が境内に小屋を仮設して公演を行っていることもしばしばあります。

花園神社と演劇の関係で、とりわけ著名なのは、1967年8月、唐十郎率いる「状況劇場」が境内に紅テントを建て、『腰巻お仙 -義理人情いろはにほへと篇』を上演したことでしょう。この紅テント公演は話題を呼び、後の「状況劇場」の方向性を決定づけることになります。紅テントではその後も、『アリババ』、『傀儡版壺坂霊験期』、『由比正雪-反面教師の巻』の上演を行いましたが、地元商店連合会などから「公序良俗に反する」として排斥運動が起こり、神社総代会が境内の使用禁止を通告するに至ります。「状況劇場」は1968年6月29日、「さらば花園!」と題するビラを撒き、花園神社を去っていきました。
ところで、アジール(フランス語:asile)という言葉があります。「聖域」「自由領域」「避難所」などの特殊なエリア、統治権力が及ばない治外法権が認められた場所という意味です。現代日本には、そうした場所はありませんが、大都会新宿の中にポッカリあいた空間である花園神社の境内に、そうしたアジール的なものを、私は感じます。
そういえば、その昔(1980年代以前)、ゴールデン街の店で仲良くなったカップル(男-女、もしくは、男―女装者)が、連れ込み宿の代金を惜しんで、「花園さんの境内で済ませてきた」という話を聞いたことがあります。花園さんは性のアジールでもあったのです。今は、そんなことはない、と思います・・・たぶん。

↑ 境内の威徳稲荷神社には性神信仰が残る。
靖国通りのビルの間に鳥居が見えます。
内藤新宿の総鎮守、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)・日本武尊(やまとたけるのみこと)・受持神(うけもちのかみ)を祀る花園神社です。現在は、明治通り側(東側)が正面になっていますが、元の社殿は南向きで、この南側からのルートが元々の参拝路なのです。南側の鳥居を潜ったところにある1対の唐獅子は、文政4年(1811)に鋳造製されたもので、なかなかの貫録です。
花園神社の由緒はとても古く、古すぎてよくわからないという感じです。少なくとも徳川家康が江戸に入府してきた天正18年(1590)にはすで存在していたようです。ただ、その時の鎮座地は、現在地より250mほど南だったようです。今の伊勢丹デパートのあたりでしょうか。元禄11年(1698)に内藤新宿が開かれると、その鎮守として祀られるようになりました。ところが、寛政年間に、その地が旗本朝倉筑後守宣正の下屋敷になり、自由に参拝できなくなったため、氏子が幕府に願い出て、尾張藩下屋敷の庭の一部だった現在地をたまわって遷座します。そこが多くの花が咲き乱れる花園だったことから「花園稲荷神社」と呼ばれるようになったと伝えられています。
神仏習合の江戸時代には、新義真言宗豊山派愛染院の別院・三光院の住職が別当を勤めたことから「三光院稲荷」とも呼ばれました。戦前のお年寄りは、花園神社を「三光院(さんこい)さん」と呼んだそうです。花園神社の現在の住所は新宿5丁目ですが、その旧町名の三光町は、これに由来します。
昭和3年(1928)、旭町(現:新宿4丁目)にあった雷電稲荷神社(雷電神社)を合祀し、その社殿も境内に移築されましたが戦災で焼失。昭和40年(1965)に、現在のコンクリート製の本殿に建て替えられ、その際に末社・大鳥神社(祭神・日本武尊)を本殿に合祀しました。そのため、現在、拝殿には「花園神社」「雷電神社」「大鳥神社」の3つの扁額が挙げられています。
ちなみに、花園神社の本来の氏子圏は、内藤新宿上町・中町・下町・北町・北裏町・番衆町・添地町で、それに雷電神社の合祀によって南町=旭町が加わりました。
↑ 現在の氏子集団。
すぐ裏手の歌舞伎町1丁目(角筈村、一部は東大久保村)や歌舞伎町2丁目(ほとんどが西大久保村)は、花園神社の氏子ではありません。ゴールデン街地区だけは旧三光町=北裏町なので氏子圏ですが。また「伊勢丹」(内藤新宿下町)は氏子ですが、「三越」、「紀伊国屋」や新宿駅(角筈村)は氏子ではありません。角筈村の総鎮守は、角筈熊野神社(現:西新宿2丁目)、東大久保村の総鎮守は西向天(にしむきてん)神社(現:新宿6丁目)、西大久保村の総鎮守は稲荷鬼王(いなりきおう)神社(現:歌舞伎町2丁目)です。
5月の花園神社の例祭、11月の酉の市の際には、境内に数多くの露店が立ち並び、今では珍しくなった見世物小屋も出て、大勢の人で賑わいます。また、宮司さんが演劇に理解があり、小劇団・前衛劇団が境内に小屋を仮設して公演を行っていることもしばしばあります。
花園神社と演劇の関係で、とりわけ著名なのは、1967年8月、唐十郎率いる「状況劇場」が境内に紅テントを建て、『腰巻お仙 -義理人情いろはにほへと篇』を上演したことでしょう。この紅テント公演は話題を呼び、後の「状況劇場」の方向性を決定づけることになります。紅テントではその後も、『アリババ』、『傀儡版壺坂霊験期』、『由比正雪-反面教師の巻』の上演を行いましたが、地元商店連合会などから「公序良俗に反する」として排斥運動が起こり、神社総代会が境内の使用禁止を通告するに至ります。「状況劇場」は1968年6月29日、「さらば花園!」と題するビラを撒き、花園神社を去っていきました。
ところで、アジール(フランス語:asile)という言葉があります。「聖域」「自由領域」「避難所」などの特殊なエリア、統治権力が及ばない治外法権が認められた場所という意味です。現代日本には、そうした場所はありませんが、大都会新宿の中にポッカリあいた空間である花園神社の境内に、そうしたアジール的なものを、私は感じます。
そういえば、その昔(1980年代以前)、ゴールデン街の店で仲良くなったカップル(男-女、もしくは、男―女装者)が、連れ込み宿の代金を惜しんで、「花園さんの境内で済ませてきた」という話を聞いたことがあります。花園さんは性のアジールでもあったのです。今は、そんなことはない、と思います・・・たぶん。
↑ 境内の威徳稲荷神社には性神信仰が残る。
2016-03-23 04:18
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