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新宿グランドツアー【6】内藤新宿と太宗寺(1)内藤新宿の成り立ち [新宿グランドツアー]

【6】内藤新宿と太宗寺

追分に戻り、かっての内藤新宿の町並みを偲びながら、甲州街道(新宿通り)を四谷方面へ歩いて行きましょう。といっても、古い建物はほとんど残っていないのですが。

(1)内藤新宿の成り立ち
慶長6年(1601)、天下の覇者となった徳川家康は、全国支配のために江戸と各地を結ぶ5つの街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)の整備に着手します。甲州街道は、江戸(日本橋)~八王子~甲府を結び、信濃国下諏訪宿で中山道と合流する街道です。徳川氏は、甲府に拠点を置いた戦国大名武田氏の遺臣を多く抱えていましたので、甲府を重要な軍事拠点、もしものとき(江戸落城)の逃げ場所と考えていた節があります。

甲州街道には、最終的には38の宿場が置かれましたが、江戸初期においては「大木戸までは江戸の内」と言われた四谷大木戸を出ると、最初の宿場は高井戸宿(東京都杉並区)でした。また脇街道の青梅街道(成木街道)は、江戸城の白壁や町屋の土蔵の壁に塗る漆喰の原料になる奥多摩の石灰石を運び込む目的の街道で、最初の宿場は田無(東京都西東京市)でした。いずれも日本橋からの距離がかなり長く(日本橋~高井戸宿=4里=16m)、人馬の往来に不便でした。

そこで、江戸浅草阿部川町(現:元浅草4丁目)の名主喜兵衛(高松喜六)ら5人が、金5600両の献上とともに甲州街道の宿場の新設を幕府に願い出ます。なぜ、願主が地理的に無縁な浅草の人なのか不思議ですが、その請願に応えて、幕府は、元禄11年(1698)、四谷大木戸をから甲州街道と青梅街道が分岐する追分までの間の、内藤氏(信濃高遠藩3万3千石)の下屋敷に近い土地に新しい宿場を造ることを許可します。そして、その宿場は「内藤」氏の屋敷に近い「新」しい「宿」場ということで「内藤新宿」と呼ばれることになりました。喜兵衛らの願主は、新しい宿場の名主になり、宿場のさまざまな利権を手中に収め、5600両の投資はしっかり回収できたことでしょう。

ところが、それから約20年後の享保3年(1718)、内藤新宿は廃止されてしまいます。宿場の風紀の乱れが、徳川吉宗の「享保の改革」の綱紀粛正・倹約の方針と相容れなかったからです。内藤新宿がやっと復活するのは、54年後の明和9年(1772)のことでした。

宿場町は、大木戸から追分まで1.2kmほどで、四谷寄りから下・仲・上町に分かれ、江戸に近い下町(現:新宿1丁目)がいちばん賑わいました。旅籠(はたご)には「飯盛り女」と称する女性(実態は、セックスワーカー)を宿場全体で150人置くことが許可されていましたが、実際にはさらに多くの女性が働いていたようです。

内藤新宿・太宗寺2(2).jpg
↑ 切絵図に描かれた内藤新宿。
内藤新宿・太宗寺3(内藤新宿・安政年間=1850年代).jpg
↑ 安政年間(1850年代)の内藤新宿の略図。

内藤新宿・太宗寺1.jpg
↑ この絵、東京メトロ副都心線・新宿三丁目駅のガラス壁に描かれている。

もともと後発の上に、54年間もの断絶期間があり、内藤新宿は他の江戸三宿に比べて明らかに格下でした。それでも「明和の立ち返り」以後、江戸の商業経済の発展とともに、徐々に繁栄の方向に向かいます。

当時、「四谷新宿 馬糞の中で あやめ咲くとは しおらしい」という歌が流行しました。乗り継ぎ馬や荷牽き馬の糞と、菖蒲にたとえられた「飯盛女」、内藤新宿のイメージがよく伝わってきます。歌川広重の「江戸名所百景」の「内藤新宿」は、馬糞と飯盛女というイメージを、実に的確に表現しています。右の拡大図では、馬の足の向こうに飯盛女が客を呼び込んでいる様子がうかがえます。
内藤新宿・太宗寺4(江戸名所百景・内藤新宿).jpg 内藤新宿・太宗寺4(江戸名所百景・内藤新宿) (2).jpg

こうして1808年(文化5)には、旅籠屋50軒、引手茶屋80軒を数えるまでになり、江戸四宿の中でも東海道品川宿に次ぐ賑わいをみせるようになりました。

内藤新宿・太宗寺8.JPG
↑ この道が「甲州街道」であったことを思い出させる「甲州屋呉服店」

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