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新宿グランドツアー【5】角筈(つのはず)-市電の停車場と老舗御三家-  [新宿グランドツアー]

【5】 角筈(つのはず)-市電の停車場と老舗御三家- 

追分から、新宿通り(青梅街道)をちょっと新宿駅方向に戻ってみましょう。先ほど、新宿駅のある場所は、実は新宿ではなく角筈ですと言いました。新宿駅だけでなく、現在、新宿三丁目になっている「紀伊国屋」も「高野」も「中村屋」も「三越」も、また東口から南口界隈の「武蔵野館」や「ムーラン・ルージュ」も、新宿ではなく角筈一丁目だったのです。

角筈という地名は、南豊島郡角筈村に由来し、そのエリアは、けっこう広く、JRの線路を挟んで新宿駅の東西に広がっていました。おおまかに言って、新宿三丁目の東半分(新宿駅東口周辺)と歌舞伎町一丁目のほとんどが角筈一丁目、新宿駅西口一帯と旧・淀橋浄水場(現:新宿新都心地区)が角筈二丁目、その南の甲州街道北側(現:西新宿三丁目)のエリアが角筈三丁目でした。

角筈一丁目とその東に接する内藤新宿上町との境界線は、とても複雑です。なにしろ道路ではなく個人の邸宅の塀が境界になっている場所もあり、ちょっと文章では説明しきれません。しかも、このラインが、大東京三十五区時代(1932~47)の四谷区と淀橋区との境界になり、現在でも、警視庁四谷警察署と新宿警察署(旧:淀橋警察署)の管轄区分や神社の氏子圏に受け継がれていて、この地域の歴史地理を複雑にしています。

角筈2(2).jpg
↑ 昭和10年(1935)頃の新宿。
四谷区(右寄り、旧内藤新宿町)と淀橋区(左寄り、旧角筈村)の境界線が街を縦断している。

おおまかに境界線をたどると、靖国通りの北側は、遊歩道「四季の道」がだいたい境界に沿い、新宿通りの北側では「紀伊国屋書店」の東30mほどの地点を通り、南側では「三越」の東側の道路、そしてすぐに東に曲がり、新宿通りから一本南側の路地を走り、明治通りまで行かずに南に折れて、「大塚家具」(旧:三越南館)の東を通って、甲州街道に出ます。

さて、角筈で忘れてはいけないのは、東京市電(都電)の停車場です。東京市電は、明治36年(1903)に、新宿駅前~月島通八丁目(後の都電11系統)と新宿駅前~岩本町(後に両国駅前まで延伸して都電12系統)の2路線を開設して、新宿駅前(東口)に乗り入れました。さらに角筈~万世橋(後に水天宮前まで延伸して都電13系統)が加わります。東京市電の新宿乗り入れによって、新宿は東京中心部から伸びる市電路線網の東端に位置付けられることになり、3路線が集まる角筈停車場は、都心から、そして都心への乗降客でおおいに賑わうことになりました。

角筈停車場は、昭和24年(1949)まで、新宿通りの「紀伊国屋書店」の前あたりにありました。11系統と12系統は新宿通りを東からすんなり入ってきすが、ユニークなのは13系統です。抜弁天(東大久保)から専用軌道で新田裏(現:新宿五丁目交差点)に出て、また専用軌道(現:遊歩道「四季の道」)を通って北裏通り(靖国通り)を渡り、北から新宿通りの角筈停車場に入ってきました。その靖国通りから新宿通りまで市電が通り抜けていたルートが、「紀伊国屋書店」の隣の「ビックカメラ」と「〇I〇Iヤング館」の間の路地です。

角筈1.JPG
↑ こんな狭い路地を市電が・・・と思うが、当時はもっと広かったのだろうか?

また、現在、新宿通り北側にある「三井住友銀行」、「伊勢丹」本館の西3分の1ほど、「伊勢丹メンズ館」などになっている場所には、戦災で焼失するまで、新宿通りから靖国通りに至る広大な敷地に方向転換のためのループ線を備えた東京市電の大きな車庫がありました。あんな地価の高い場所が電車のねぐらになっていたなんて、まったく隔世の感です。

東京の路面電車(市電→都電)の路線網は、高度経済成長期(1967~72年)に、わずか1路線(早稲田~三ノ輪間の荒川線)以外、すべて撤去されてしまい、私たちの記憶から消えようとしています。しかし、市電(都電)は人々の生活にもっとも密着した生活路線で、利用度は現在の地下鉄よりもずっと高かったと思います。現代の東京の交通地理を考える時、地下鉄を無視する人はいないでしょう。それと同じで、明治・大正・昭和(40年代まで)の東京の歴史地理を考える際に、市電(都電)は、忘れてはならない交通機関なのです。

角筈の老舗と言えば、「高野フルーツ」、「中村屋」、「紀伊国屋書店」を挙げるのは、どなたも異論がないところでしょう。

「高野フルーツ」の高野家は越後長岡の出身で、明治18年(1885)、高野吉太郎が、新宿駅の設置とほぼ同時に駅前に店を出しました。当時は古道具屋兼繭の仲買い業で、副業として武蔵野や多摩の柿や栗を扱っていたそうです。大正10年(1921)、駅前広場の拡張のため現在地に店を移し、大正15年(1926)にはフルーツ・パーラーも併設して、モダン東京の新興の盛り場、新宿の「顔」になっていきます。

「中村屋」の相馬家は、信州安曇野(現:長野県穂高町)の出身で、愛蔵・黒光夫妻は、はじめ本郷の東大前でパン屋をしていましたが、明治40年(1907)に新宿に移ってきました。開店当初から、パンの販売に加えて喫茶部を設けるなど、時代を先取りした経営で発展します。大正3年(1914)には、インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボース(Rash Behari Bose 、1886~1945年)を匿い、昭和2年(1927)にはボース直伝の「純インド式カリー・ライス」を売り出し、人気を博しました。

「紀伊国屋書店」の田辺家は、元は材木商で、現在地には薪炭問屋として店を構えました。奥行きのある敷地の新宿通り沿いに書店を開業したのは昭和2年(1927)のことで、2階を画廊にしたり、小学校の同級生だった舟橋聖一らと共に、同人誌『文芸都市』を出版したり、当初から単なる本屋ではなく、文化的な広がりを意識していたようです。

子供のころ、東京に出張した父がお土産に買ってきてくれる中村屋の肉まんが何よりの好物でした。東京に出てきてからは、帰省するときには高野のフルーツケーキをお土産に買っていくようになりました。歌舞伎町のお店のお手伝いホステス時代は、出勤前に時間があるときは、よく紀伊国屋で本を選んでいました。

私だけでなく、新宿で時を過ごした人で、角筈の老舗御三家にお世話にならなかった人はいないと思います。

ところで、地名としての角筈は昭和53年(1978)の町名改定で消えてしまいました。それから30数年、角筈の名を見ることはめっきり減っています。私が「角筈」という地名を知ったのは、ゴールデン街の隣(靖国通り寄り)にある東京電力の「角筈変電所」でしたが、今では、新宿区角筈特別出張所(西新宿四丁目)、新宿区立角筈図書館(同)、同角筈区民ホール(同)、同角筈公園(同)、角筈地域センター(同)などの行政関係施設の名などにかろうじて残っているにすぎません。あとは、角筈橋(西新宿二丁目にある跨道橋)、小田急バスの「角筈二丁目バス停」くらいでしょうか。

「角筈変電所」以外、残っているのは、なぜかすべて新宿駅の西側です。浅田次郎さんの小説「角筈にて」で、少しは知名度が回復したかもしれませんが、絶滅の危険にあるのは変わりないでしょう。由緒ある地名を抹殺してしまうことの文化的損失を、もう一度よく考えてみるべきだと思います。


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