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2010年06月09日 石山寺縁起絵巻を読む(普賢院内供淳祐の話) [石山寺縁起絵巻]

2010年06月09日 石山寺縁起絵巻を読む(普賢院内供淳祐の話)

6月9日(水) 雨のち曇り  東京 22.0度 湿度 62%(15時)

8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
朝食は、明太子フランスとコーヒー。

化粧と身支度。
黒地に白と茶の花模様のワンピース(3分袖)、黒に細い白のストライプの薄手のカーディガン(長袖)、黒網のストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。

9時50分、家を出る。
小雨の予報だったのに本降りの雨。

途中、コンビニで配布資料をコピー。

午前中、自由が丘で『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。

まず、延喜17年(917)秋の宇多法皇の石山寺行幸の場面を読み解く。
これでやっと巻1を読了し、巻2に入る。

巻2の第1段は、普賢院内供淳祐の話。
まず、詞書を読み、『古事談』の関連する説話を紹介。

淳祐(寛平2~天暦7年、890~953)は、平安時代中期の真言宗の学僧。
父は右大臣菅原道真の子の淳茂。
累代の学問の家に生まれ、幼いころから書物に親しみ、般若寺の観賢に師事して出家・受戒し、その法を継いだ。
法脈的には真言宗小野流(醍醐寺)の正統にあり、醍醐寺座主への就任を要請されたが、生来病弱で、足に障害があり正規の座法をとれないことなどを理由に辞退し、石山寺普賢院に隠棲して、真言密教の研究と著述、そして弟子の育成に生涯を捧げ、石山寺の中興に大きな役割を果たした人。

『古事談』の説話は、延喜21年(921)師の観賢が醍醐天皇の勅命により高野山奥の院の弘法大師の御廟を訪れたとき、淳祐も同行した。
共に御廟内に入ったが、淳祐には弘法大師の姿が見えず、師匠に導かれてその御衣膝に触れることができた。
その際、御衣の薫が手に移り、一生消えることがなく、それにより、淳祐が書写した経典にも同様の薫りが移った。これを「薫の聖教(かおりのしょうぎょう)」という、という話。

なお、淳祐が書写・著述した典籍は、現在も石山寺に伝わり、「淳祐内供筆聖教」73巻1帖として、国宝に指定されている。

今も、馨が残っているのだろうか?

ところで、山城の醍醐寺と近江の石山寺は実は山続き。
西国観音霊場の古い巡礼道は、第11番の上醍醐寺から尾根道伝いに12番岩間山正法寺に通じていて、そこから山を降りると石山寺がある。

醍醐寺と石山寺の密接な関係は、そんな地理的な事情にもよっている。
そんな話をする。
12時、終了。

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