SSブログ

2011年11月09日 石山寺縁起絵巻を読む(菅原孝標女の石山詣・詞書の比較検討) [石山寺縁起絵巻]

2011年11月09日 石山寺縁起絵巻を読む(菅原孝標女の石山詣・詞書の比較検討)

11月9日(水)  曇り 東京 16.6度 湿度 42%(15時)

8時、起床。
朝食は、アップルデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
黒地に白で草花文?のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、黒のカシミアのショール。

9時45分、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。

10時半、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻3の第3段、『更級日記』の作者として著名な菅原孝標の娘(寛弘5~康平2年以降 1008~1059以降)の石山詣の場面に入る。

まず、絵巻の詞書を読む。
次いで、『更級日記』の該当箇所と比較する。

『更級日記』によれば、菅原孝標の娘は、少なくとも2回、石山寺に詣でている。
1度目は寛徳2年(1045)の冬で38歳の時。
娘時代(寛仁4年=1020、13歳)、父が受領(上総介)の任はてて上京する折に逢坂を通過した時のことを思い出す。

「關寺のいかめしう造られたるを見るにも、そのをり荒造りの御顔ばかり見られしをり思ひ出でられて、年月の過ぎにけるもいとあはれなり」

25年前に通った時にはまだ作りかけだった関寺の仏が、今は立派に完成しているのを見て、年月の経過をしみじみ感じて歌を詠む。

相坂の 關のせき風 吹く聲は むかし聞きしに かはらざりけり

そして、石山寺の観音堂に参籠し、夜中にまどろんだ時に夢を見る。

「おこなひさしてうちまどろみたる夢に、『中堂より麝香賜はりぬ。とくかしこへ告げよ』といふ人あるに、うち驚きたれば、夢なりけりと思ふに、よきことならむかしと思ひて、おこなひ明かす」

中堂から「御香」を賜ったという夢、吉夢と思い、夜明けまで参籠する。
中堂は本尊の如意輪観世音菩薩像がいる場所のことか? 絵巻の詞書は「内陣より」。

2度目は、その2年ほど後の永承2年(1047)頃の秋、40歳頃。
夜通し参籠していると、雨の音が聞こえる。
蔀戸(しとみ)を押し上げて外を見ると、雨の音と思ったのは谷川の水の音で、有明の月が谷の底まで照らしていた。

谷河の 流れは雨と きこゆれど ほかよりけなる 有明の月

『石山寺縁起絵巻』の詞書は、話の筋書きは『更科日記』と同じなので、詞書の書き手は明かに『更科日記』を読んでいる。
しかし、文章的には、そのままの文書は少なく、かなり改変している。
というか、あまり出来の良くない趣意文という感じ。

そして、なにより問題なのは、和歌の字句に異動があること。

最初の「相坂の…」は、
(更科)相坂の 關のせき風 吹く聲は むかし聞きしに かはらざりけり
(詞書)逢坂の 關の山風 吹くこゑは むかし聞きしに かはらざりけり

二つ目の「谷河の…」は、
(更科)谷河の 流れは雨と きこゆれど ほかよりけなる 有明の月
(詞書)谷河の 流れは雨と きこゆれど ほかより晴るる 有明の月

二つ目の歌は勅撰の『新拾遺和歌集』(貞治3年=1364)に入首しているが、第4句は『石山寺縁起絵巻』の詞書と同じ「ほかより晴るる」である。

つまり、「谷河の…」の歌には、「ほかより晴るる」の『石山寺縁起絵巻』(1324~1326年)と『新拾遺和歌集』(貞治3年=1364)の系統と、「ほかよりけなる」の現行本の『更科日記』の二系統があったことになる。

はたして、オリジナルはどちらだったのだろうか?
現存する『更科日記』の写本は、すべて藤原定家(1162~1241)が晩年に写した「御物本」といわれる写本の系統。
『更科日記』の歌を改変した人物がいたとすれば、それは定家の可能性が強い。

国文学の専門領域なので、これ以上は踏み込まない。

12時、講義終了。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。