2011年02月09日 石山寺縁起絵巻を読む(石山寺の「龍穴」) [石山寺縁起絵巻]
2011年02月09日 石山寺縁起絵巻を読む(石山寺の「龍穴」)
2月9日(水) 夜中から早朝まで雨、曇りのち晴れ 東京 9.1度 湿度 57%(15時)
8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
朝食は、アップルデニッシュとコーヒー。
化粧と身支度。
白地に細かな豹柄のロングチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。
ボア襟の黒のカシミアのポンチョ。
9時45分時、家を出る。
ちょうど雨が上がったタイミング。
路面がしっかり濡れるほど、雨が降ったのは、ほんとうに久しぶり。
駅前のコンビニでレジュメの印刷。
午前中、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻2の第6段に入る。
『石山寺縁起絵巻』巻2の第6段は「当寺の西北の角に当たりて、龍穴(りゅうけつ)あり。水澄み、波静かにして、誠に往昔の霊池と見えたり」と始まる。
そして、こんなファンタジックな説話を記す。
暦海という高徳の僧が、この池の畔で「孔雀経」を転読した。龍王の段になって、龍王の名を読み上げると、それに随って諸龍が池の中から現れ、歴海の側に侍った。
暦海が草庵に帰ろうとすると、龍王たちが暦海を背に負うて行き、草庵でも身近に給仕すること、まるで奴僕のようであった、と。
絵は、池の畔の丸い石に半跏した暦海が読み上げる「孔雀経」に応じて、紺碧の池の中から、青龍が出現した場面。
すでに、白龍や赤龍、さらには龍王とその眷属たちが歴海の左右に侍している。
↑ 「孔雀経」を読む行海の側に侍る赤龍。
右側の赤い服の龍頭人身の人物?は赤龍の従者だろうか?
↑ 池から出現する青龍。
やはり、後ろに従者と思われる龍頭人身の人物?が従う。
服の色は主人に合わせている?
↑ 砂州状の池畔に侍す龍王たちと白龍。
立派な黒髭の束帯姿で背に龍を負っているのが、一番偉い龍王だろうか。
その左の頭上に蛇が乗っている人物?の服装は、一見、南蛮人風でかなり変わっている。
ところで、『石山寺縁起絵巻』の各段の説話は、ほとんど必ず年次か、天皇の代を明記し、ほぼ時代順に配列されている。ところが、この段だけは年次も天皇の代も記されず、説話の主人公の暦海も「上古の寺僧」とだけ表現されていて、いつの人かわからない。
暦海については、『平安時代史辞典』などで調べてみたが出ていない。
そこで、少し違う方向から考えてみた。
実は、この段の後半は、絵にはまったく描かれていないが、石山寺中興の祖である淳祐内供)の弟子の真頼という僧の臨終の説話になっている。
そして、その臨終の仕方が、「保胤の往生伝」に載っていることを記す。
「保胤の往生伝」とは、平安時代中期の文人で、浄土教の初期の信者であった慶滋保胤(?~1002)が著した『日本往生極楽記』のことだ。
実際、同書の巻20には、僧真頼の往生伝が載っている。
『日本往生極楽記』の成立は、寛和年間(985~987)であることが確実なので、真頼はそれ以前の亡くなっている人で、また淳祐(890~953)の弟子であることから、だいたい10世紀の中頃、朱雀・村上天皇代(923~967)に活躍した人と見ることができる。
下っても冷泉・円融天皇代(968~985)までだろう。
この真頼について調べていて、「石山流人師方(にんじかた)血脈」・「恵什相承胎蔵血脈」という史料に、
淳祐―真頼―雅真―暦海―修仁―増蓮―芳源―恵什
という継承が記されていることに気づいた。
ここに至ってやっと歴海が出てきた。
真頼より二代後の人ということになる。
二代といっても、血縁(親子)関係ではなく、師弟関係なので、せいぜい40年ぐらいを見ればいいだろう。
真頼を村上朝の950年代の人とすれば、歴海は990年代の人、つまり、およそ一条朝の人と推測できる。
巻2の第5段は、寛和2年(987)の円融法皇石山寺行幸で、第7段は「永延」(987年~989)の話になっている。
その間の第6段の主人公暦海が、およそ一条朝の人ということになれば、時代順の配列がそれほど乱れることはない。
まあ、落ち着くところに落ち着いた訳だが、ここまで考証するのはけっこう大変だった。
現在でも石山寺の境内の「西北の角」には、八大龍王社があり、「龍穴の池」の中央にお社がある。
↑ 石山寺境内図。左上に赤い鳥居があるところが「八大竜王社」
龍穴とは、もともとは単に龍が出現する穴のことなのだろう。
しかし、神獣・霊獣である龍が出現するぐらいだから普通の場所ではない。
古代道教や陰陽道ではある種のエネルギーが地上に噴き出す場として神聖視された。
有名な龍穴としては、室生の龍穴(大和国宇陀郡)が広く知られていて、延喜式内社の「室生龍穴神社」があるが、近江石山にもこんな由緒ある龍穴があったのだ。
最近のパワースポットブームで、龍穴を訪れる人も増えたらしい。
前回、石山寺を訪れたときは、時間がなくてここまで行けなかった。
次回は、ぜひ訪れてみたい。
12時、講義終了。
--------------(以下の画像はネットからお借りしたものです)----------------
http://uminoyakusoku.shiga-saku.net/e180227.html
http://shigino2006.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_8f2c.html
http://www.geocities.jp/noharakamemushi/Koshaji/Biwako1/Ishiyama.html
2月9日(水) 夜中から早朝まで雨、曇りのち晴れ 東京 9.1度 湿度 57%(15時)
8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
朝食は、アップルデニッシュとコーヒー。
化粧と身支度。
白地に細かな豹柄のロングチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。
ボア襟の黒のカシミアのポンチョ。
9時45分時、家を出る。
ちょうど雨が上がったタイミング。
路面がしっかり濡れるほど、雨が降ったのは、ほんとうに久しぶり。
駅前のコンビニでレジュメの印刷。
午前中、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻2の第6段に入る。
『石山寺縁起絵巻』巻2の第6段は「当寺の西北の角に当たりて、龍穴(りゅうけつ)あり。水澄み、波静かにして、誠に往昔の霊池と見えたり」と始まる。
そして、こんなファンタジックな説話を記す。
暦海という高徳の僧が、この池の畔で「孔雀経」を転読した。龍王の段になって、龍王の名を読み上げると、それに随って諸龍が池の中から現れ、歴海の側に侍った。
暦海が草庵に帰ろうとすると、龍王たちが暦海を背に負うて行き、草庵でも身近に給仕すること、まるで奴僕のようであった、と。
絵は、池の畔の丸い石に半跏した暦海が読み上げる「孔雀経」に応じて、紺碧の池の中から、青龍が出現した場面。
すでに、白龍や赤龍、さらには龍王とその眷属たちが歴海の左右に侍している。
↑ 「孔雀経」を読む行海の側に侍る赤龍。
右側の赤い服の龍頭人身の人物?は赤龍の従者だろうか?
↑ 池から出現する青龍。
やはり、後ろに従者と思われる龍頭人身の人物?が従う。
服の色は主人に合わせている?
↑ 砂州状の池畔に侍す龍王たちと白龍。
立派な黒髭の束帯姿で背に龍を負っているのが、一番偉い龍王だろうか。
その左の頭上に蛇が乗っている人物?の服装は、一見、南蛮人風でかなり変わっている。
ところで、『石山寺縁起絵巻』の各段の説話は、ほとんど必ず年次か、天皇の代を明記し、ほぼ時代順に配列されている。ところが、この段だけは年次も天皇の代も記されず、説話の主人公の暦海も「上古の寺僧」とだけ表現されていて、いつの人かわからない。
暦海については、『平安時代史辞典』などで調べてみたが出ていない。
そこで、少し違う方向から考えてみた。
実は、この段の後半は、絵にはまったく描かれていないが、石山寺中興の祖である淳祐内供)の弟子の真頼という僧の臨終の説話になっている。
そして、その臨終の仕方が、「保胤の往生伝」に載っていることを記す。
「保胤の往生伝」とは、平安時代中期の文人で、浄土教の初期の信者であった慶滋保胤(?~1002)が著した『日本往生極楽記』のことだ。
実際、同書の巻20には、僧真頼の往生伝が載っている。
『日本往生極楽記』の成立は、寛和年間(985~987)であることが確実なので、真頼はそれ以前の亡くなっている人で、また淳祐(890~953)の弟子であることから、だいたい10世紀の中頃、朱雀・村上天皇代(923~967)に活躍した人と見ることができる。
下っても冷泉・円融天皇代(968~985)までだろう。
この真頼について調べていて、「石山流人師方(にんじかた)血脈」・「恵什相承胎蔵血脈」という史料に、
淳祐―真頼―雅真―暦海―修仁―増蓮―芳源―恵什
という継承が記されていることに気づいた。
ここに至ってやっと歴海が出てきた。
真頼より二代後の人ということになる。
二代といっても、血縁(親子)関係ではなく、師弟関係なので、せいぜい40年ぐらいを見ればいいだろう。
真頼を村上朝の950年代の人とすれば、歴海は990年代の人、つまり、およそ一条朝の人と推測できる。
巻2の第5段は、寛和2年(987)の円融法皇石山寺行幸で、第7段は「永延」(987年~989)の話になっている。
その間の第6段の主人公暦海が、およそ一条朝の人ということになれば、時代順の配列がそれほど乱れることはない。
まあ、落ち着くところに落ち着いた訳だが、ここまで考証するのはけっこう大変だった。
現在でも石山寺の境内の「西北の角」には、八大龍王社があり、「龍穴の池」の中央にお社がある。
↑ 石山寺境内図。左上に赤い鳥居があるところが「八大竜王社」
龍穴とは、もともとは単に龍が出現する穴のことなのだろう。
しかし、神獣・霊獣である龍が出現するぐらいだから普通の場所ではない。
古代道教や陰陽道ではある種のエネルギーが地上に噴き出す場として神聖視された。
有名な龍穴としては、室生の龍穴(大和国宇陀郡)が広く知られていて、延喜式内社の「室生龍穴神社」があるが、近江石山にもこんな由緒ある龍穴があったのだ。
最近のパワースポットブームで、龍穴を訪れる人も増えたらしい。
前回、石山寺を訪れたときは、時間がなくてここまで行けなかった。
次回は、ぜひ訪れてみたい。
12時、講義終了。
--------------(以下の画像はネットからお借りしたものです)----------------
http://uminoyakusoku.shiga-saku.net/e180227.html
http://shigino2006.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_8f2c.html
http://www.geocities.jp/noharakamemushi/Koshaji/Biwako1/Ishiyama.html
2013-02-14 12:45
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