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2011年01月12日 石山寺縁起絵巻を読む(円融法皇の石山寺行幸) [石山寺縁起絵巻]

2011年01月12日 石山寺縁起絵巻を読む(円融法皇の石山寺行幸)

1月12日(水) 晴れ 東京 9.5度 湿度 35%(15時)

8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
朝食は、アップルパイとコーヒー。

化粧と身支度。
黒地に白で草花文?のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。
黒のカシミアのショール。

9時50分時、家を出る。
駅前のコンビニでレジュメの印刷。

午前中、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻2の第5段に入る。
円融法皇(959~991)の石山寺行幸の話。
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絵巻は、まず円融上皇の石山寺参詣を知って遣された天皇の勅使(藤原斎信)と、誦経料(布施)の布・綿が入った3つの長櫃を石山寺に運ぶ人夫の姿を描く。
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↑ そして上皇一行は、石山寺に参籠する。
画面上の御簾からわずかにのぞく香染の衣の人物が円融法皇(↓)。
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円融天皇は、永観2年(984)8月27日に、花山天皇に譲位し、翌、寛和元年(985)8月、寛朝大僧正を導師として出家した。
まだ、27歳だった。

天皇が位を離れて上皇になり、行動の制約が少なくなって、寺社参詣を名目に諸所に行幸する例は、宇多天皇などに典型的に見られるが、円融上皇もそういう方向を志向したらしい。

そうした意味では、石山寺行幸があってもおかしくはないのだが、円融上皇が石山寺に上皇したことは、なぜか同時代の史料にほとんど見えない。

僅かに藤原公任の私歌集「前大納言公任卿集」に見えるだけ。

「ゑにう院の石山におはしますに、殿上人うきはしといふところに、いきてかへるとて、

われたにも 帰る道には 物うきに いかて過ぎぬる 秋にか有らん
                          (藤原)為頼
               
たなかみや やまの紅葉は 数しあれば 秋におふとも のどけきをみよ」

では、どんな史料に見えるかというと、300年ほど後の13世紀末頃に編纂された『百錬抄』という年代記に見える。
それと、この『石山寺縁起絵巻』(巻2の成立は1324~1326年頃)。
2つしかなく、成立年代も近い(30年ほど?)。
当然、両者の継承関係が疑われる。

宇多上皇の先例を引用する際、『百錬抄』が「亭子院臨幸紀伊国之間」と記すのに対し、『縁起絵巻』は「亭子院、紀伊国に臨幸の時」と、「臨幸」という漢文脈的な表現を使っているところなどは、絵巻の詞書の作者が『百錬抄』を見ているようにも思う。

ところが、そう簡単にはいかない。
両者の記述内容にはかなり相違がある。
『百錬抄』は円融上皇の参詣を寛和2年(986)9月29日として、10月3日に帰洛の途中、近江崇福寺に寄ったことを記す。
つまり、石山寺には3泊している。
そして、記事で問題になっているのは、送物(誦経料)の勅使の先例。

それに対して『縁起絵巻』では、寛和元年(985)10月1日のこととして、1泊して翌2日に勅使があったように記している。
そして、問題にしているのは、勅使の服装(布衣でいいのかどうか?)という具合で、微妙にズレがある。

ということで、『縁起絵巻』の元が『百錬抄』であると判定するのは、ちょっとためらう。

行幸の日時については、平安時代後期の公卿、藤原為房(1049~1115年)の「為房卿記」長治元年(1104)2月15日条に
「寛和二年、円融院令籠石山給之間、以頭中将斎信卿、被奉綿布、便被修諷誦」
(寛和二年、円融院、石山に籠られたまふの間、頭中将斎信卿を以て、綿布を奉られ、便ち諷誦を修せらる。)
とあるので、『百錬抄』がいう寛和2年でよさそうだ。

そうなると、勅使を遣した天皇は、花山天皇ではなく一条天皇ということになる。

12時、終了。

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