SSブログ

2010年11月12日 石山寺縁起絵巻を読む(特講:日本古代~中世の猫-絵巻を中心に-) [石山寺縁起絵巻]

2010年11月12日 石山寺縁起絵巻を読む(特講:日本古代~中世の猫-絵巻を中心に-)
11月12日(金)

私は、猫好きだ。
平安時代末期~鎌倉時代の絵巻の読み解きを、もう10年以上続けているが、ごく稀に出てくる猫の姿が気になっていた。
そこで、ちょっとまとめてみることにした。

日本の野生ネコは、ツシマヤマネコ(長崎県対馬)とイリオモテヤマネコ(沖縄県西表島)だけで、日本本土にはヤマネコが生息していた形跡はなく、猫はいなかった。
だから、日本の猫は、いつの時代にか、アジア大陸から人為的にもたらされたものということになる。
問題は、それがいつの時代かということ?

一般には、飛鳥時代、仏教が日本に伝来した後、お経を鼠の害から守るために猫が日本にやって来たということになっているが、これはほとんど民話的な話で、まったく証拠がない。

考古学的には、2008年に長崎県壱岐市勝本町のカラカミ遺跡から、紀元前1世紀(弥生時代中期)の猫科の動物の大腿骨など12点が出土した。
鑑定の結果、年代は約2100~2200年前(C14年代測定)、猫の年齢は1歳半~2歳、現在のイエネコの骨格と酷似していることがわかった。
これが、ほとんど唯一の例。

これが家猫だとしても、朝鮮半島などとの交易が盛んな壱岐の事例であり、本土の弥生・古墳時代の遺跡に猫の痕跡がまったくと言っていいほどないことからしても、日本全体に一般化できるか疑問に思う。

猫らしき動物が文献に登場するのは、奈良時代末期~平安時代初期に編纂された仏教説話集『日本国現報善悪霊異記』。

上巻の第30話にこんな話がある。

都がまだ藤原にあった文武天皇の慶雲2年(705)、豊前国宮子郡の少領の膳臣広国(かしわでのおみ ひろくに)という人が急死してしまい、地獄で父親に出会う。

地獄で責められている父親は、息子にこう訴える。

「飢えた私は、7月7日に大蛇の姿になって、お前の家に行き入ろうとしたら、杖で打たれて棄てられた。5月5日には赤い狗(いぬ)になって再び家に行ったが、お前は飼犬を呼び寄せて私を追い払った。それで正月1日に今度は『狸』になって家に入り、やっと供養の物をたくさん食べることができ、飢えをしのぐことができた」

広国は、この後、生き帰り、父親のために供養をするのだが、問題は話の中に出て来る「狸」。

一般的な注釈では、「狸」に「たぬき」ではなく「ねこ」と訓をつけている。

現代の感覚では、「たぬき」と「ねこ」はぜんぜん違う動物だが、たしかに、「狸」を「ねこ」と読んだらしい。

現存する日本最古の字書である『新撰字鏡』(898~901年)には次のようにある。

狸 (中略)猫也。似虎小。(中略)祢古。

やはり、「狸」は「ねこ」らしい。
家に入ってきても追い払われなかったことからも「たぬき」ではなさそうだ。

実は、「狸」という字で「ねこ」を表すのは、中国ではごく一般的な用法で、『日本霊異記』もそれに従っただけ。

ちなみに、『新撰字鏡』には「猫」の項目はない。

「猫」が最初に出てくる字書は『本草和名』(923)で、

猫 家猫。一名猫。和名祢古末。

とある。「祢古末」は「ねこま」である。

ここまでは、「狸」=「猫」=ねこ、ねこま、という図式でよさそうだ。

ところが『類聚名義抄』(1081年以降)をみると、「狸」の字に「タヌキ、タタケ、ネコマ、イタム」という訓が施されていて、「たぬき」と「ねこ」が混乱していて、そう単純にはいかないことがわかる。

さらに『伊呂波字類抄』(1180)の「猫」項目には「子コ、子コマ、家狸」とあって、中国の用法(狸=ねこ)を知らないと、まるで家タヌキ?が猫のようにも見える。

ここまでは、猫大好きの国文学者田中貴子さんの『鈴の音が聞こえる-猫の古典文学誌』(淡交社 2001年)を参考にさせていただいた。

田中さんは、「12世紀ころには『狸』は野生の猫、『猫』は家で飼われている猫、といった区別がつけられるようになった」と推測している。

ただ、そうだとすると、鎌倉時代以降、狸=野生猫の用例がほとんどないのが気になる。

では「狸」=たぬきの用例はいつから出てくるのだろう?
「ネコ=狸=タヌキ」というような混乱は生じなかったのだろうか?

という疑問は残るが、まずは『日本国現報善悪霊異記』上巻の第30話を日本最初の猫文献として良さそうだ。
ただ、なにぶん説話(しかも地獄がらみの)であって、今ひとつリアリティに乏しい。

ところで、宇多天皇(在位:887~897)の日記『寛平御記』の寛平元年(889)2月6日条には、天皇が愛猫について詳しく記した文がある。

宇多天皇が可愛がっていた猫は墨のような深黒の猫で、大宰少弐(九州を管轄する大宰府の次官)の源精(みなもとのくわし)が、唐の商船から手に入れ、光孝天皇(在位:884~887)に献上したもので、父天皇から息子の宇多天皇に譲られたもの。

宇多天皇の記述は
「其屈也、小如秬粒、其伸也、長如張弓(その屈するや小さきことキビの粒が如く、その伸ぶるや長きこと張弓の如し)」とか、
「其伏臥時、団円不見足尾、宛如堀中之玄璧、其行歩時、寂寞不聞音、恰如雲上黒龍(その伏し臥す時は、団円にして足尾を見えず、あたかも堀の中の玄璧[黒い玉]の如く、その行き歩く時は、寂寞として音聞こえず、あたかも雲上の黒龍が如し)」とか、少し大袈裟だが、猫の姿態をよく捉えている。

宇多天皇は、よほど猫好きだったように思える。
この「日記」は、日本最初の「愛猫記」として不動のポジションにある。

それに続くのが、清少納言の『枕草子』にみえる、一条天皇の愛猫「命婦の御許」。

この五位の待遇を与えられ乳母まで付けらえた高貴な猫と、「翁丸」という犬の話は高校の古文のテキストに出てきたりして有名。

ただ、宇多天皇の黒猫や、一条天皇の「命婦の御許」は、超高級猫(唐猫)であって、こういう猫が宮中で飼われていたからといって、平安京の庶民が猫を飼っていたということにはならないように思う。

ここで、やっと、文献史料から絵画史料(絵巻)に目を移すことにしよう。

日本最初の猫の絵ということになっているのは、『信貴山縁起絵巻』(1160年代)下巻に描かれたもの。

弟の命蓮(信貴山の開山)を探し歩く姉の尼公が奈良の街で道を尋ねるシーン。
糸を紡いでいる女性の背後の板の間に、紐で繋がれた動物が見える。
猫1.JPG
猫3.JPG
う~ん、なんか変・・・。
顔が妙に尖がっていて、猫に見えない。
手を前に伸ばした座り方もどこか犬っぽい。
むしろ、狸(たぬき)に似ているような気がする。
そこで、思いだされるのは、先ほど「ネコ=狸=タヌキ」という図式。

以下は、私の推測。
これが猫だとしても、絵師は実物の猫を参考にして描いてはいないように思う。
しかも、絵師の頭には「ネコ=狸=タヌキ」というような混乱があったのではないだろうか?

次に猫が描かれるのは『鳥獣人物戯画』(12世紀末~13世紀)。
猫2.jpg
戯画なので、一般的な絵巻とはちょっと性格が違うかもしれないが、甲巻に烏帽子をかぶり擬人化された猫が1場面1匹だけ出てくる。
たくさん描かれている、兎、蛙、狐、猿などに比べるといたって影が薄い。

3つ目は、『春日権現験記絵』(1309)巻6の場面。
蛇を苛めた少年が重い病にかかるシーンで、祈祷のために「老巫女」と山伏が屋敷に呼ばれているが、その脇に箱座りしている猫が真後ろから描かれている。

背中は黒っぽいが、よく見ると、側面に縞があるようで雉虎猫かもしれない。
猫4.JPG猫5.JPG
ちなみに、この場面の「老巫女」、頭頂部が完全禿げていて、私は「怪しい」と思っている。
「怪しい」とは、つまり、女装した男性の巫人「持者」ではないか?ということ。
「七十一番職人歌合絵巻」(1500年ごろ)では、「山伏」と「ぢ者」が番えられているが、その「持者」とこの「老巫女」はよく似ている。

猫に戻ろう。
4つ目が、『石山寺縁起絵巻』(1325~26)で、巻2と巻5の2か所に猫が描かれている。

巻2は、源順が石山寺参詣に向かう琵琶湖湖畔大津の浜の民家の入口に赤紐の首輪をした虎縞猫が繋がれている。
この猫、青緑の目をしていて、ちょっと怖い。
2-4-9.JPG
猫7.JPG
猫8.JPG
巻5は、富裕な受領藤原国能の館の場面の最後の部分。
裏庭の井戸端で少年が猫を抱いている。
猫の顔が真正面から描かれているのが面白い。
猫9.JPG猫10.JPG
ちなみに、『石山寺縁起絵巻』の絵師は『春日権現験記絵』を描いた高階隆兼と推測されている。

2つの絵巻に描かれた3匹の猫を見ると、高階隆兼はちゃんと実物の猫を見て描いているように思う。
あるいは、彼の家には猫が飼われていたのかもしれない。

ところで、『信貴山縁起絵巻』の猫?と『石山寺縁起絵巻』巻2の猫は紐で繋がれていた。

平安~鎌倉時代に、猫が紐で繋がれて飼われていたことは、紫式部の『源氏物語』で、柏木中将があこがれの女三宮(光源氏の正妻)の姿を垣間見るシーンからもうかがえる。

柏木に、普段は人前に出ない高貴な女人の姿を見るという、思いがけないチャンスが訪れた原因は、女三宮の飼猫が庭に飛び出そうとして紐が簾に引っかかり、簾がまくれあがってしまったため。

紐付き猫が作ったチャンスから不義密通と柏木の破滅が始まり、運命の子「薫」が生まれることになる。

どうも、全体的な印象として、猫が一般庶民の家で広く飼われるようになったのは、今まで思われている以上に遅いのではないか?という気がする。

具体的には、平安時代も後期(11世紀代)になって、やっとではないだろうか?
あるいは、平安末期(12世紀代)かもしれない。

気がするだけで、何も証拠はないのだが・・・。
「居なかった」という証拠を提示するのは、とても難しいし・・・。

ただ、猫が奈良~平安時代人にポピュラーな存在だとしたら、もっと文字なり絵なりに記されてもいいのではないだろうか?

あまりにも、猫がいた痕跡が乏しいように思う。

また、飼い方にしても、数か少なく貴重だからこそ紐で繋いだと思われる。
そこらにいくらでも猫がいる状況だったら、余程の高貴猫以外は、猫の性質からしても、自由にしていたと思う。

12世紀中頃の『石山寺縁起絵巻」で大津の民家で猫が繋がれていたということは、まだその時代には、庶民にとっては猫は貴重な存在だったと思う。

私が思うのは、少なくとも、平城京や初期の平安京の大路・小路を猫が闊歩していたという情景はなかったのではないか?ということだ。

猫好きにとっては、ちょっと寂しい気もするが・・・。

【追記】2009年、兵庫県姫路市の見野6号墳(6世紀末~7世紀初頭)から須恵器に猫と思われるの足跡がついているのが発見された。
猫足跡2.jpg
「杯身(つきみ)」と呼ばれるふた付き食器の内側に直径3cm程の爪の無い5個の肉球と掌球がくっきり付いている。
須恵器の制作工房で未乾燥の状態の器の上を猫が通過していったものと思われる。
須恵器は渡来系の技術なので、朝鮮半島から渡ってきた工人が猫を連れてきたのかもしれない。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。